Con Gas, Sin Hielo

細々と続ける最果てのブログへようこそ。

「クレイジーリッチ」

2018年10月21日 22時08分23秒 | 映画(2018)
アジアと欧米のスクランブル交差点。


主要キャストすべてがアジア人の作品が北米BOX OFFICEで大ヒットを記録。そんな話題作が意外にも早く映画館にかかることとなったので、さっそく確認しに行ってみた。

冒頭は1995年のロンドン。高級ホテルのロビーに雨でずぶ濡れになった中国系と思しき家族が現れる。

明らかに分不相応な客人に対し、丁寧ではあるものの差別的に接するホテルマンたち。しかし、その中国系の家族は、ついさっきホテルを買い取った新しいオーナーさまであることが判明。

手のひらを返す従業員たちを尻目にスイートルームへ向かう家族。出だしの完璧な爽快感に本編への期待が膨らむ。

舞台は飛んで現代。ホテルの買収から20年余りが過ぎ、当時の子供たちは結婚適齢期に成長していた。跡継ぎ息子のニックは本拠地のシンガポールを離れ、ニューヨークで暮らしていた。

大金持ちは経済的に恵まれていても、何かと不自由があるらしい。誰も自分のことを知らないニューヨークで、大学で経済学を教えるレイチェルを恋人に持ち自由な生活を満喫するニック。

レイチェルとの関係を真剣に考えれば、いずれは家族に面通しをしなければならない。友人の結婚式の介添人を引き受ける機会に合わせて、ニックはレイチェルをシンガポールへ招待する。

本作の原題は「クレイジーリッチ:アジアンズ」。ただのリッチではない。スーパーリッチでもない。「クレイジー」なリッチである。

そして「アジアンズ」も単なるアジア人ではなく、様々な背景を持つアジア人というところが肝である。

旅行へ向かう前にレイチェルの母親が言う。アジアに住む中国系と米国で育った中国系は違うと。ニックの家族と会ったレイチェルは、そのことをいやというほど思い知ることになる。

クレイジーリッチな一族は、何にも増してファミリーの隆盛を第一に考える。見た目が似ていても、自由主義、個人主義の米国精神にどっぷりと漬かったレイチェルはエイリアン以外の何者でもない。

本作は、パッケージこそアジアを前面に押し出しているが、中身としては男女の恋仲に立ちはだかる家族や文化の壁という、極めてオーソドックスなテーマを扱った分かりやすい作品である。

キャラクターも分かりやすい。レイチェルは少したれ目がちで観る者を味方につけやすい顔立ち。ニックはさわやかなイケメン。厳しい表情でレイチェルを威嚇するM.ヨーに、変わり者揃いの脇役たち。

分かりやすさを派手さと明るさでコーティングして、アジア人の珍しさで話題性を加えたというところが勝因だろうか。

シンガポールが舞台というところもバランスが良い。米中関係は決して順風ではない中で、必然的に政治でも経済でもカギを握るのはこの場所である。双方の力をうまく利用してこれからも発展を続けていく。スクリーンに映る個性的な建物群や街並みを通して、あふれ出る活気を垣間見た気がした。

(80点)
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「はいからさんが通る 後編 ~花の東京大ロマン」

2018年10月21日 21時25分58秒 | 映画(2018)
そして40年越しの大団円へ。


結局1年待った。それでも、40年に比べればなんてことはない時間であり、前編の復習がなくてもすぐに物語に入っていくことができた。

記憶にあるのは、少尉とうり二つのロシア人が突然飛行船で現れたところまで。そして、このロシア人・ミハイロフ公爵がどうやら少尉本人であり、彼はシベリアの戦地で記憶喪失に陥っていたらしいということ。

その後の未見の物語も、前編までと同様にかなり端折って描かれていたのであろう。少尉の記憶が結構あっさりと戻ったのも若干肩透かしではあったが仕方ない。

後編の物語の中心は、紅緒、少尉、そして出版社編集長の青江冬星の3人による大正ラブロマンスである。時代背景こそあれ、2人の美男子から思いを寄せられる主人公という構図は少女漫画の王道と言える。

王道だからこそ結末も読めるのだが、冬星が少尉に負けないほどいい男なので、少なからず彼に肩入れする思いも湧いてきて、この話をどう決着をつけるのかとやきもきする展開となった。

特に、紅緒も少尉もお互いのことをきっぱりと諦め、紅緒と冬星の挙式が決まると、これはお決まりの「卒業」的ぶっこわしパターンではないかという不安がよぎるように。

この時点で明白なメッセージとして出ていた挙式の日:9月1日ということに気付かなかった自分。今回だけはこの鈍さに感謝したい。

恋の行方を決めるのは運命。運命によって出会い、運命によって一度は離別した二人が、再び結び付くのもまた運命。

真実の愛が恋敵を叩き落すのではなく、激動の大正時代というとてつもなく大きな存在が、クライマックスにまたしても3人の運命をいたずらに転がす。この流れには納得するしかない。

それにしても、改めて話を通して観てみると、この重要な後編をばっさりと切り捨てて打ち切ったということは、なんとも良くも悪くもおおらかな時代だったとしか言いようがない。

とにかく一にも二にも、物語すべてを通して見られたことに満足している。

(90点)
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「かごの中の瞳」

2018年10月08日 23時05分01秒 | 映画(2018)
度量がないなら諦めろ。


C.チャップリンの名作「街の灯」は、手術で目が見えるようになった女性がチャップリンに向かって「あなただったの?」と問いかけるところで終わる。どのようにもとれる優しくて残酷な名場面である。

本作の主人公であるジーナとジェームズの二人に待っているのは、その先の「残酷な」物語である。

夫婦の関係は長い間一緒にいることで、段々とそれなりの形に仕上がってくるものである。

しかし、突然パートナーの性格が変わってしまったらどうなるか。

この映画では妻であるジーナの目が見えるようになったことで、彼女の生活や考え方といったすべてに変化が生まれる。

今までは自分なしでは何もできなかったはずの妻が一人で歩き出している。自分が必要とされなくなることに焦りを抱くジェームズ。

男としての度量を見せようと、サプライズの旅行を計画したり、ジーナが希望していた引越しを決断したりするが裏目に。ついにジェームズは禁断の行動に出てしまう。

ジーナの行動にも問題はあるが、原因を辿ってみればジェームズの度量のなさに行き着く。しかし、設定は違うものの、付き合っていた異性との関係に自信が持てずに自ら破局を招いた経験を持つ身としては、彼に強い共感を抱かざるを得ない。

自分に翻ってみて、不釣り合いなほど美しい妻が外の世界へ誘われていくのをどっしり構えて見ていられるだろうか。

目が見えるジーナとの関係は、成り立つものではなかった。結論はこれに尽きる。

目が見えないジーナの世界は明らかに違う。序盤で頻繁に描かれていたぼやけた映像、不安を誘う物音。ジェームズの存在は、その恐怖を排するためには必要であった。

では、はじめから目が見えていたとしてジェームズと結婚していただろうか。ジーナはそれを確認しようと彼女なりに接触したが、結果としてジェームズは応えられなかったのだ。

目が見えないときは信頼で結ばれていた夫婦が、視界が広がるとともに疑念で相手のことが見えなくなっていく逆説的な設定が興味深いとともに恐怖を感じた。

しかし、描写を省き過ぎる場面が多く、鑑賞後にいろいろ検索して補完しないと分かりづらい点は残念であった。

特に、最後に出てきた手紙は観たときは理解できず、最後の二人の対峙がいまひとつ響いてこなかった。だから二人の決着の印象も、安直で生煮えに映った。

(75点)
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