Con Gas, Sin Hielo

細々と続ける最果てのブログへようこそ。

「モンスターズユニバーシティ」

2013年07月21日 17時18分07秒 | 映画(2013)
足りないところを補い合うのが真のパートナー。


今回、ピクサー作品としては随分宣伝に力を入れてるのではないか。それは昨年の「メリダとおそろしの森」が興行的に振るわなかったせいかと勘繰ってみたりする。

前作に次いで声優を務めた田中裕二らがいろいろな番組に顔を出しているし、日曜洋画劇場の枠では公開から1週遅れではあったが、「モンスターズインク」を放映した。

うちの子もそれを観て新作も観たいと言い出したので、この作戦は見事に当たったわけだ。

作戦が功を奏したのは何もうちの子だけではないようで、公開第1週のNo.1はもちろん、2週めになっても力は衰えず、なんとあのポケモンを押さえて堂々の2週連続No.1を成し遂げている。やっぱりテレビの力はまだまだ捨てたもんじゃない。

で肝心の中身の方はといえば、主役の2人の存在は確立されているから、あとは前日譚としてのストーリーと新たな周りのキャラを作り込めばいい。

出会う前のサリーとマイクはお互い光るものを備えてはいたが、その性格と自信過剰気味な素行が災いしてどん底にたたき落とされる。

目が覚めた二人は、同じく落ちこぼれだったサークルの仲間と力を合わせて、大学のエリートチームを打ち破る。しかし、その勝利の陰にもう一つの理由があって・・・。

話の流れは王道で、サリーとマイクそれぞれが自らの足らざるところを認めて力を合わせる場面は素直に感動する。

それにしても、マイクに限らずアニメーションとなったモンスターはみな結構かわいい。「~インク」を経て、笑顔を届けるようになったときには、ますますの活躍が期待できるのではないかな。

(70点)
コメント (2)
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「サイレントヒル:リベレーション」

2013年07月14日 22時52分02秒 | 映画(2013)
前作以上に何が「発覚」したのか。


前作は結構楽しめた記憶があった。振り返れば2006年7月。なんとブログを書きはじめてひと月。映画の感想としては2本めの記事だった。

あれから7年である。

それほど話題になった作品でもなかったし、続篇なのか?それとも書き直しなのか?

蓋を開けてみれば、これは完全に続篇であった。前作でサイレントヒルを抜け出した少女が成長し、止まらない悪夢と対峙するために再び彼の地を訪れるという話である。

驚くべきことは、主要な登場人物を前作と同じ俳優が演じているということ。

前作ではちょっとだけ姿を見せた三角頭も出番が増えてそうだし、これはと期待したのだが、結果としてはやや肩透かしだったかなという印象に終わった。

年月が経って3D対応にもしたというのに、前作よりもおとなしめになっているのはどうしたことだろう。

主演の女優はM.ウィリアムズのような風貌。冒頭でサイレントヒルの悪夢にうなされ、同居する男性に慰められる。・・・って、これ父娘!?

正直18歳に見えなかった。M.ウィリアムズだし。あらすじや評価に影響を及ぼすほどではなかったが。

何が消化不良かといえば、まずは残酷な描写がほとんどなかったからだろう。

本作の特徴は独特の世界観やクリーチャーたちであるから、余計なものをそぎ落としたいという意図があったのかもしれない。

でも、そのあたりは、初めて目にしたときに比べれば鮮度はどうしても落ちてしまう。

音に反応するナースたちも、「お、また出てきたよ」という受け止めにしかならない悲しさ。

そういう意味からすれば、この作り方だと対象にしているのは初めて「サイレントヒル」の世界を見る人であって、一方で話の筋書きは続篇という、極めて中途半端な立ち位置になってしまっているのだ。

派手な描写をインフレ的に増やせとは言わないが、この映画特有の恐怖感を満喫するにはもう少し工夫が必要だったのではないか。それが難しいのであれば、続篇を作る必然性はなかったのではないかと思う。

(50点)
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「ハングオーバー!!!最後の反省会」

2013年07月13日 01時40分17秒 | 映画(2013)
祭りのあとのあと。


前作までは、目覚めると何か分からないけどとんてもないことになっていたという状態から、一つはとんでもないこと自体のハチャメチャさ、もう一つはとんでもないことが何故起きたかの謎解きという、二つの要素が相乗的に機能した企画が評判を博した。

しかし同じことを3度はできない。今回は酒も飲まなければ記憶も飛ばない。登場人物が一緒であるだけで、基礎からの構成はまるで違う映画になっていた。

そういった意味では、「ハングオーバー」を期待して行った人には物足りなかったのではないだろうか。

3作全てを通してみると、本作は着地点を定めるという役割が明確になっており、「ハングオーバー」の登場人物を観に行った人は、それなりに溜飲を下げたかもしれない。

言ってみれば、楽しませてくれてありがとうという謝恩会的な印象が残る作品だった。

2作めからとんでもないキャラクターに発展した中国人マフィアのチャウが、今回も主役の勢いで暴れ回る。

メインの3人(今回も拉致されて出番が少ないダグは除く)は、これまでのシリーズ同様に窮地に立たされ動き回るが、とんでもないことがない分おとなしめで埋没気味だ。

最後の最後にようやく「ハングオーバー」的な場面があるが、これもみなさまに感謝の気持ちを表したという感じ。

新宿の映画館には、なぜか若い女性が多く連れ立って来ていて反応も上々だったが、1作めの公開当初はDVDスルー扱いだったことを考えれば、確かに感慨深く振り返る価値のあるシリーズだったことは間違いない。

(60点)
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「華麗なるギャツビー」

2013年07月04日 00時45分39秒 | 映画(2013)
孤高の愛。


原作は米国文学の名作ということだけど、当然知ってるはずもなく予備知識なしで観た。

この映画の評価として適切なのかどうか疑問はあるけれど、原作の物語への感想を含めて書いてみようと思う。

まずは題名。"The Great"を「華麗なる」と訳したのは、小さいかもしれないけど良い仕事だったと思う。

「偉大なるギャツビー」だったら、それはある意味ネタバレになってしまうところだった。

はじめのギャツビーは、あくまで夜な夜な絢爛豪華なパーティーを開く謎の大富豪であり大物には違いないが、「人間」としての評価は未知数である。

やがて少しずつギャツビーの信念がはっきりしてくるに従って、彼の大きさが見えてくる仕掛けなのである。

そして、彼の目指すものの大きさや真っ直ぐさに、周りの誰もが実は釣り合っていなかったという悲劇的な結末。これはまさに文学の王道という印象を持った。

ギャツビーの愛が大き過ぎて受け止められなかったデイジー。醒めた目で見れば、彼女の反応と選択に落ち度はないように思えるが、彼女の先に決して幸せが見えてこないところも悲劇だ。

この悲劇を今回映画化したのはB.ラーマン監督。「ムーランルージュ」の印象よろしく、映像と音楽にかなりの力を注ぎ、本作に独特の世界観を吹き込んでいる。

簡単に言えば、1920年代に現代のテイストを巻き付けている感じ。現代の名だたるブランドが20年代「風」の外見を作り上げているのだけど、それは古めかしいどころか最先端の装いになっている。

それは音楽も同じで、豪華なパーティー会場で流れるのはJay-ZであったりLana del Reyであったりする。

このぜいたくに作り上げられた感は、好況の熱に浮かれていた時代や、現実世界と一線を隔したギャツビーの野望と見事に相関している。

そして同じくらい強力だったのが配役だろう。ただのセレブではない大富豪にL.ディカプリオはそのまんまだし、ちょっとバターっぽい(?)C.マリガンも揺れ動くデイジーにハマっていた。ほかのキャストも然りである。

充実した物語に浸り、ぜいたくな映像と音楽に酔う。ひさしぶりに大河ドラマを観た、という満足感を味わうことができた。

(90点)
コメント (4)
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