Con Gas, Sin Hielo

細々と続ける最果てのブログへようこそ。

「悪人」

2010年09月25日 22時35分04秒 | 映画(2010)
それは想像力の欠如。


大事な人がいない人間が多過ぎる。これは被害者の父親が言った言葉。

光代といると苦しくなると言ったのは逃亡中の祐一。

苦しいのは、自分が逮捕された後のことを想像したから。

大事な人と会えなくなる。大切な人を失う。少し立ち止まって思いを巡らせれば、相当数の悲劇が防げたであろうに。

怖いものなどないと強くなったつもりの人間がいるがそれは勘違いだ、といったようなことを言ったのも被害者の父親だった。

人でも物でも大切な何かができたときに、主体をその対象に移して考えることができた瞬間から、失うことへの恐怖が生まれる。これは当たり前のことであり、豊かな人生の証でもあるのではないだろうか。

「誰が本当の悪人なのか」とこの映画の宣伝で問いかけているが、そもそも「悪人」とは何なのかということが根底にはある。

祐一も、被害者の佳乃も、大学生の増尾も、「悪人」的な振舞いをする。でも彼らは、典型的な悪人ではない。

普通の人たちを悪人的な行動に至らしめるのは何なのか。

祐一も佳乃も祖母や両親からの愛情を一身に受けて育てられてきた。でも、彼らの心の中にその気持ちは真っ直ぐに受け継がれてはいなかった。

子の親としてこの悲劇をどう捉えればいいのか正直迷う。できるのは子供を信じることと、出会い系サイトだって構わないから自分が心から大切と思えるものを見つけられるよう祈ることくらいか。

毎度のとおり原作は読んでいない。ただ本作は原作の力がそのまま引き出されているのだろうと想像する。もちろんそれは監督や演じる役者たちの力量がきちんと発揮されて初めて成り立つものであるが。

この映画のキャストでは、外国で賞を獲得した深津絵里がどうしても大きく注目されているが、彼女を含め全ての俳優が観る側の心に深く入ってきた。

岡田将生はまたおもしろい役を選んでいる。「告白」に続いてある意味マイナスイメージの役だが、映画を中心に意欲的に活動する姿には大いに好感が持てる。

(75点)
コメント (2)
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「キャタピラー」

2010年09月20日 23時48分08秒 | 映画(2010)
平和の対義語は戦争だけではない。


今の世の中、戦争は悪いと言うことはたやすい。というよりも、むしろ悪いと思っていない人の方が珍しいくらい当たり前のことである。

右派だとかタカ派だとか言っても、国民の生活を守るために最低限の軍備は必要だといった主張が多く、戦前・戦中のような帝国主義を標榜する考えが一定勢力として国内にあるとは思えない。

その前提が正しいとすれば、そんな当たり前の話を軸に置いてもあまりおもしろくない。

そこでこの映画を観る視点を変えてみる。

主人公である妻は、当時の普通の女性だった。断言する根拠はないが、後半でラジオや新聞のいわゆる大本営発表を喜んでいるところを見るかぎり、おそらく普通の妻だったのだと思う。

そんな彼女が四肢を失った夫の帰還で初めて戦争が持つ影の部分に直面する。

食べて寝て、体を求めてくるだけの「軍神」。人々の持ち上げ方と自分が眼にしているモノのあまりの違いに彼女は思う。戦争とは何か。国とは何なのか。

夫と妻が同時に寝床の横にある勲章と新聞の切り抜きと両陛下の写真を見上げる場面がある。物言えない夫も同じように考えたかもしれない。

しかし彼には自業自得と言えるような過去があり、ついにはその過去に飲み込まれてしまう。

最後に流れる歌。元ちとせの流れるようでいて確実に力強い歌声が深く響く。

願いは子供があめをしゃぶれるような平和な世界を作ってほしいということ。

しかし実際の世界は、戦争がなくてもあめをしゃぶれない子供で溢れている。

いま生きる世界がどうなっていて、それに対して自分はどう生きるのか。

それは戦時中だけでなく、混沌とした現代にこそ通じる考えである。

妻は苦しんだ挙げ句に何かにたどり着いた。戦争が終わったと聞いたときの彼女の笑顔がそれを語っている。

(70点)
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「東京島」

2010年09月17日 00時56分05秒 | 映画(2010)
原作がおもしろいという想像がつかない。


公開前には、話の設定を聞いてちょっとおもしろそうかもと思った。

その後、評判を小耳に挟んだりしてやっぱり観なくてもいいかもと思うようになったのだが、偶然時間が空いたのでふっと映画館に入ってしまった。

結果はなんというか、とにかくおもしろくなかった。

せっかくだから、そのおもしろくなさを噛み砕いて説明したいのだが、全体が掘り下げようのない薄さだったために何も言えない。

島があって、人が流れ着いて、階層ができて、何か逆転して・・・と、ストーリーは続くのだが、物語に抑揚を持たせるためなのか唐突感が大き過ぎて全く引き込まれなかった。

象徴的だったのは、主人公・清子の3番めの夫になるユタカだか森軍司だかの転がりっぷりだ。はじめは記憶喪失で、怪しいキャラとしてもっと生かしようはあっただろうに、急に権力者になったと思ったら謎の自壊。理解不能だ。

一事が万事唐突だから、もうフィリピン人が出てきても驚かないし、珍しくエンドロール中に座席を立ったが、終わった後にひとひねりあったとしてももはや興味がなかった。

それは、たとえあのワタナベが清子の夫として登場してきたとしてもだ。

(20点)
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「ぼくのエリ 200歳の少女」

2010年09月10日 01時23分20秒 | 映画(2010)
生への執着力に吸い取られるぼく。


「200歳の少女」とはとんでもないながら頭にこびり付く副題である。

しかしいくら注意して観ても劇中でエリが200年生きているという証はついに出てこなかった。

いじめられっ子の主人公・オスカーと吸血少女のエリ。明るさとは無縁の二人を中心に冷え冷えとした緊張感の中で話は進む。

賑やかな近所の人たちまでほとんど笑顔はない。スウェーデンってこんな国なの?って妙な疑問を持つほど暗い。

暗さに包まれて、二人の境遇は過酷でつい情にほだされてしまいそうになる。エリは途中で唯一の家族である父まで失うのだから。

あれ?

ここで立ち止まる。

彼は誰なんだ?エリのために新鮮な血を集めていた彼は人間だった。

どこか引っ掛かりを覚えながら観続けた先の結末。鈍い頭はようやく物語の構図を捉えた。

オスカーがエリを携えて旅路につく。強大な力を持つエリがいれば、きっと二人でも生き延びることはできるだろう。しかしその先に待つものは・・・。

劇中エリがオスカーに宛てた手紙に書いてあった「キミのエリ」という文字。「ぼくのエリ」の「ぼく」は、エリに映った対象であって必ずしもオスカーである必要はない。

エリはオスカーにこうも言っている。他人がどうなろうと生き抜いてやると思っているところが自分と同じだと。

顔や姿が映る場面では儚げな少女であるエリだが、冒頭では父に怒声を浴びせ、道端で成人男性に食らいついている。

つまり、「ぼくのエリ」の「ぼく」はかつての父の姿であり、エリに殉じていった父はオスカーの行く末なのではないか。

少年少女のか弱いラブロマンスのテイストを醸し出しつつ、その実は幼くしてヴァンパイアとしての運命を背負った少女のしたたかな生き抜く術を描いているのだ。美しく、哀しくも怖ろしい。

賛否あるかもしれないが、そんな解釈にたどり着かせてくれたのは邦題であった。

(70点)
コメント (8)
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