Con Gas, Sin Hielo

細々と続ける最果てのブログへようこそ。

「LION/ライオン 25年目のただいま」

2017年04月15日 23時02分23秒 | 映画(2017)
1,600kmも回送で走る列車があるなんて。


大海を隔てて離れ離れになった母と子が25年ぶりに奇跡の再会を果たす。それが実話だと言うのだから事実は小説より奇なり、映画にはうってつけの題材である。

多くの人は主人公・サルーの波乱の人生に寄り添いクライマックスの再会の場面で涙するために来たのだろう。そしてその期待は無事叶えられたことと想像する。

しかし、個人的にはどことなく物足りなさを感じてしまった。それほど大きな感動は得られなかった。

前半はサルーの少年時代。インドの田舎町で兄とはぐれてからオーストラリアに住む夫婦に養子として迎えられるまでの過酷な道のりが描かれる。

同じ国でも言語が違う、自分の住んでいた町の名前も満足に言えない、八方ふさがりの中で綱渡りのように何とか命を繋いでいく。

子供の行方不明は社会問題である。犯罪に巻き込まれることも多いと聞く。サルーにも魔の手が迫ったが、危険を察知して間一髪で逃げ出すという場面があった。

この映画で観るかぎりサルーはとても賢く、社会性や判断力に優れていた。故に、オーストラリアに引き取られた後も理想的と言えるキャリアを歩むことができた。

対照的と言えるのがサルーの1年後に同じ夫婦の元に連れてこられたもう一人の少年・マントッシュだ。新しい環境に順応できない彼の存在は一家に常に影を落とすようになった。

世界には貧困から抜け出せずに苦しむ子供が大勢いる。少しでも力になればと願うオーストラリア人夫婦の行為は極めて尊い。それでも本作で描かれる養子たちの心の内は単純なマッチングで解消できない大きな壁を感じざるを得なかった。

サルーにとってそれは、はぐれた本当の家族への負い目となって現れた。友人の助言で、グーグルアースと自分の記憶とを結び付けて故郷の町を探そうとするがなかなかうまくいかない。順風だったはずの人生の軌道が乱れていく。

しかし、諦めという言葉が見え始めたときに突然光明が射す。すべての謎が解け、サルーは無事本当の母や妹との再会を果たした。

奇跡の再会は素晴らしいことである。ただ、映画の描写が事実に即しているのであれば、オーストラリアにもらわれたこと、グーグルアースで故郷の町を見つけたことという2つの大きなターニングポイントは偶然によるものに過ぎず、良かったという感動よりも、そこまで奇跡が重ならなければ不幸な子供の問題は解決しないのかという重い気持ちの方が勝ってしまった。

救われたのは、最後の場面で映された実際の映像や写真の記録であった。本篇とは違う心からの笑顔に見えて、映画は苦悩の部分をデフォルメしたものだったのかもしれないと感じた。

(70点)
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「ゴーストインザシェル」

2017年04月08日 22時59分00秒 | 映画(2017)
「強力わかもと」を出すまで振り切ってもよかった。


毎度のごとく元ネタを知らないので、あくまで1本のSF映画としての感想となる。

舞台は時代も場所も分からない大都会。人間は損傷した部位を義体化して生きる技術を取得していた。

本作の主人公は、義体の肉体に脳だけを移植された「少佐」と呼ばれる女性。脳は生きていると言いながらも過去の記憶はほとんどなく、役割は日々公安のために任務を遂行するだけであった。

まばゆいばかりのネオンサインがきらめく雑然とした街並みは、古くは「ブレードランナー」辺りから連なる定番だ。

近未来SFは結構好きなのだが、冷静に考えればこの景観完全無視のカオスな光景はたとえ中国が世界の盟主となったとしても実現しそうにない。そう思ってしまったせいか物語に対しては今ひとつ感情が入っていかなかった。

映画の尺に詰め込むには世界が大き過ぎたということもあるかもしれないが、話の流れに唐突感を抱くことが多かったように思う。少佐が誕生した裏にあった事件など予想を裏切る形ではっとする展開もあるのだが、心動かされるとまではならなかった。

ただ本作の肝は、この異世界の造形をどれほど楽しめるかである。

もちろんその中心にあるのはS.ヨハンソンである。今やすっかり肉体派女優(声もかなり重用されているが)であり、アクションを含め全篇が彼女のためにあると言っても過言ではなかった。

でも「肉体派」なだけに、アップになると逆に肉感が主張してきて作り物から逸脱してしまうという面も感じられた。その意味では「エクスマキナ」は良くできていたと改めて思い返す次第である。

一方で意外に良かったのがビートたけしだ。敢えて台詞をすべて日本語で通す演出も功を奏して、北野映画に出てくるヤクザの親分ばりの風格であった。

そして彼らが駆け回る世界のきらびやかさは映画館の大画面でこそ映える。ビートたけしも自分の映画が何本も作れるくらいお金をかけていると言っているとおり、イメージ映像として十分に見応えありであった。

続篇が作られる可能性は低そうだが黒歴史にするまで酷くもない、その意味では全体的に突き抜けていない作品という位置付けになってしまうのだろうか。

(65点)
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「雨の日は会えない、晴れた日は君を想う」

2017年04月08日 10時07分13秒 | 映画(2017)
愛と悲しみの破壊。


意味深な邦題が付けられているが、原題は"Demolition"=「破壊」。実にシンプルだ。

妻の死をきっかけに心の迷走を始める男の物語。原因は突然の変化に対する違和感と戸惑いである。

いちばん身近な人間を失ったのに何故自分は悲しみを感じないのか。主人公のデイヴィスは違和感を覚えながらも日常へ戻るが、これまで目に留まることのなかった事柄がやけに引っ掛かるようになったことに気が付く。

「心の修理も車の修理も同じ。隅々まで点検して組み立てなおすことだ」という義父の言葉を受けて、デイヴィスは気になった身の回りの物を分解し始める。もともと手先は器用ではない彼。そこには分解された部品が並ぶだけだった。

しかし彼の行動は収まるどころかエスカレートする。どうせ元に戻らないからであろうか、丁寧な分解は叩き壊す行為へ変わり、その対象は最初の違和感の元である夫婦関係へと移っていく。

デイヴィスは優秀な人間である。そして妻への愛がないわけでもなかった。それだけにうやむやにできない自然な感情が湧いてきたのかもしれない。

一度壊れたものが完全に元の通りに戻ることはまずない。破壊の果てにデイヴィスが知る真実は重いものであった。ただそれでも彼にとって真実を知る意味は大きく、誰を恨むでもなくすべてを受け入れて前へ進もうとする最後の場面には救われる思いがした。

迷走を続けるデイヴィスに寄り添うシングルマザーのカレンとの関係も印象的だ。奇妙な違和感を正直に語るデイヴィスに親近感を抱くも彼女にはデイヴィスを手助けする余裕などまったくない。

どんな関係に発展させたいという思惑がないままに交錯し影響し合う二人。一連の心の旅が一区切りした後も二人の距離が縮まらない流れには感心した。

不器用でも真っ直ぐに生きることが人々の共感を呼ぶということであれば、つい小賢しく振る舞いがちな自分にはやや耳が痛くなる話である。

主演のJ.ギレンホールの眼力は本作でも健在。違和感について熟考する静のときも、破壊行為に邁進する動のときも、台詞なしで奥深くの心の揺れ動きが伝わってくる様子は、まさに適役であった。

(75点)
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「ムーンライト」

2017年04月01日 20時31分50秒 | 映画(2017)
抜け出せないけど、少しだけ救われる。


今年のアカデミー作品賞や助演男優賞を本作が獲得したのは、昨年の「白過ぎるアカデミー」への反動やトランプ大統領を生んだ時代へのメッセージという声がある。

確かに本作は登場人物がすべて黒人であり、黒人社会に未だはびこる問題を深くえぐる力作である。

ただそのバックにはしっかりB.ピットが製作総指揮として名を連ねている。

ハリウッドはほぼ反トランプ一色のリベラリストが多数を占めており、その偽善的行動に対して時に嫌悪感を覚えることもあるが、本作の訴えは真っ直ぐ心に響いた。やはり大事と思うことをメッセージとして世の中へ発信することは重要だ。

黒人社会の中でも底辺と言うべき地域で暮らすシャロンの過酷な運命が、少年期、青年期、成人後の3時代に分けて描かれる。

少年期のシャロンは、学校ではいじめられ、母親は薬物に溺れて子供を育てるどころではない家庭状況にあった。いじめの現場に偶然立ち会った男性・フアンは恵まれない境遇のシャロンを気にかけ、いろいろなことを教えるようになる。

この話の何が重いかと言うと、シャロンの周りはすべて黒人の単一社会であるにも拘らず、格差の底辺に独りだけ閉じ込められてなかなか抜け出せないことにある。

黒人が同じ黒人に対して酷く当たる背景には、自分たちが虐げられているという自覚がある。そして比較的裕福なフアンでさえ、薬物の売人としてシャロンの母親を含めた多くの、おそらく黒人の人生を踏み台にして生きている。

少年期パートの最後の場面でシャロンはフアンに「薬物の売人なのか?」と尋ねる。フアンは正直に応えるが、あまりの恥ずかしさに顔を上げることができない。

しかしそのシャロンも巡り巡って行き着く先は同じなのである。わが国でも貧困の固定化が問題視されるようになったが、薬物、暴力、犯罪といった事象は、どう善悪を説いたところで一定の範囲において再生産されている。

シャロンは極めて劣悪な環境で育ったが、フアンとの出会い、そして唯一心を許せる級友のケヴィンという存在があった。

この2つの関係がなかったら、シャロンの人生は底が抜けて大人になることすら叶わなかったかもしれない。愛情によりシャロンは救われて、かろうじて再生産の軌道に乗ることができたとも言える。

最後の場面は、愛があればその日暮らしではあるけど何とか生きられると安堵する一方で、どうやっても再生産を超えた世界には辿りつけない閉塞感に心が痛んだ。

(80点)
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