Con Gas, Sin Hielo

細々と続ける最果てのブログへようこそ。

「ビッグシック ぼくたちの大いなる目ざめ」

2018年02月25日 19時32分17秒 | 映画(2018)
壁は壊すよりも時間をかけて溶かした方が良い。


本作をひとことでまとめると、「ひとことでは言い表せないタイプの映画」ということになるだろうか。

ロマンティックコメディだったところに、難病が割って入ってきて、一方でその根底には人種や文化の壁といった社会問題が流れている。

欲張りでぜいたくなコンボなんだけど、どの要素で売り込めばいいか分からないので、邦題は「ぼくたちの大いなる目ざめ」なんて訳の分からないものになってしまった。

正解を見つけるのは難しいけれど、このひと月で「めざめ」という単語が入った作品が3本というのを見ると、少し思慮が浅いと言わざるを得ないだろう。

本作に戻って、このジャンル分けすら難しい風変わりの作品を生み出したのは、パキスタン生まれのK.ナンジアニ。自分の物語の製作総指揮に携わり主演も務めてしまった。

主人公のクメイルは家族とともに米国・シカゴへ移り住んだ。すっかり米国文化に馴染んだ彼は、コメディアンを目指して夜な夜な小さなクラブの舞台に立つ毎日を送っている。

そんなある日、彼は舞台の客として来ていたエミリーと出会う。何気ない会話から急速にひかれ合い二人は交際を始めるが、彼らの前には大きく立ちはだかる人種の壁があった。

パキスタンは人口2億を超える大国だ。隣国インドと激しく争い核兵器も保有しているイスラム教国家。世界を動かしそうなパワーワードがごろごろしているにも拘らず、我々にとってこの国の情報はあまりにも少ない。

本作を見るかぎり、米国には多くのパキスタン人が移住しているようだ。イスラムのお祈りをすっぽかすクメイルの姿には仰天したが、多くの人は移住した後も自国の様式を頑なに守って生活しているということは想像に難くない。

クメイルの舞台でのネタはもちろんパキスタンネタだ。中東、イスラムということもあり、彼の話はかなりぎりぎりの線を突くブラックジョークが中心となる。

その感性は米国で生まれ育った白人のエミリーにはフィットしたが、白人との交際なんて考えられないクメイルの家族には理解されるはずがなかった。エミリーは、自分と家族の間で煮え切らないクメイルの態度に落胆して別れを決意する。

そんな中で突然エミリーが正体不明の病気に襲われる。クメイルは、昏睡状態に陥ったエミリーを挟んで、今度はエミリーの両親(テリーとベス)と対峙することになる。

発病する前にクメイルの家族の問題を聞いていたテリーとベスの気持ちは複雑だった。しかし、不安な気持ちを少しでも和らげられればと思ったのか、二人はクメイルに対しいろいろな話をするようになる。

はじめにロマンティックコメディーと書いたが、コメディー要素としては、クメイルと双方の親とのやりとりの方が大きい。

パキスタン流を守るお堅い実親、娘が生命の危機にあるエミリーの両親に対し、クメイルは職業柄かことあるごとに場違いなジョークを繰り出す。笑えないのが明らかなシチュエーションに、観ている側は逆に思わず吹き出しそうになる。

しかし、そんなやりとりを繰り返すうちに段々と巻き込まれると言ったらいいのだろうか。テリーともベスとも雪解け以上の温かみのある関係が築かれていく。エミリーの病気がきっかけとなり、それぞれが自分の弱さや至らなさをさらけ出したことで共感と信頼が生まれたのだ。

やがて昏睡から目覚めたエミリー。ひとり信頼醸成の過程から置いてけぼりだった彼女にも再生の機会が訪れる。ラストシーンの笑顔が温かい映画に花を添える。

主人公は本人が演じているのだからこれ以上の適任はいないだろう。パキスタン人を演じる人も他にいないだろうし。エミリー役のZ.カザンも、かわいらしい中に知的さを備えた魅力的な女性を好演していた。

きわどいネタや難病が出てくるけれど、基本的に明るくて温かい空気が流れている。タイトルの不明さに負けずに多くの人に観てもらいたい作品である。

(85点)
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「グレイテストショーマン」

2018年02月18日 16時29分49秒 | 映画(2018)
きっかけはどうあれ、居場所ができた喜びを。


「ララランド」の製作チームが・・・という宣伝をよく見かけたので、清く明るく王道を行く作品を作り上げたものと勝手に思っていた。

本作は、人とは違った外見から好奇と偏見の目に晒されてきた少数派の人たちにスポットを当てた異色の興行師の挫折と成功の物語、とでも言おうか。華やかなミュージカルの陰に、実質的な主題歌である"This is me"のメッセージを貫いた社会性の高い作品である。

決して裕福ではない仕立て屋の息子であったバーナムは、父親の商売の関係で出入りしていた家の娘であるチャリティと恋に落ち結婚する。愛に満ちた夫婦生活は幸せであったが、仕事は長続きせず、経済的に苦しい生活が続いていた。

いくつめかの仕事である新聞社を解雇されたバーナムは、一念発起して以前から憧れていたショウビズ界に足を踏み入れる。

彼が立ち上げたのは、「ユニーク」な人たちが大道芸をパフォーマンスするサーカスだった。

やたら背が高い、逆に低い、女性なのにヒゲが生えている、全身に刺青の模様がある・・・。平易な言葉にすれば放送禁止に引っ掛かりそうな「特徴のある」人たちをそこらじゅうから集めたのだ。

これには驚いた。奇抜なものに人々は関心を示すだろうという彼の発想は、単純に言い換えるとハンディキャップを持った人を見せ物にするとイコールであったからだ。ポリティカルコレクトネスが幅を利かせる現代にこんな変化球を投げることに恐れ入った。

興行はバーナムの目論見どおりに成功を収め、バーナムは豪邸を購入し、結婚に反対していた義父をはじめとした上流階級の人たちに肩を並べる存在まで上り詰める。しかし、彼を待っていたのは、新しい上流の世界と、成功を作り上げてきた土台とのあまりにも大きな落差であった。

幼いころから貧しい生活に苦しんだバーナムは、かつて自分を見下ろしていた人たちを見返したいという思いでいっぱいだった。それが無鉄砲な興行の実現につながったことは間違いなかったが、更なる高みを目指した彼は、ともに歩んできた人たちを放り出すという失敗を犯した。

バーナムは必ずしも立派な人間ではない。しかし、それが分かっても周りの人たちは、彼が持っているバイタリティ望みをかけてチームとして最大限の力を発揮する。

パフォーマーの一人であるレティが"This is me"を歌うのは、バーナムがパーティー会場に入ろうとした彼女たちをやんわりと断った直後である。

これまでであれば、「やっぱり自分たちは・・・」と落ち込んだであろうところを、サーカスを通じて自信を持った彼女らは自らの力で立ち上がる。歌詞とともに大きな力をもらう印象的な場面だ。

"Greatest"はB級的な盛りを含んだ形容詞なのだが、一方で、それぞれが誇りを持って演じられる舞台として完成したとき、それは文字通りの"Greatest"として輝きを放つのである。

H.ジャックマンZ.エフロンもミュージカルはお手の物。バーナムの人間性を考えれば、H.ジャックマンはかっこよすぎる気もしたが、まあ主役なので。

(80点)
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「羊の木」

2018年02月12日 20時35分21秒 | 映画(2018)
切羽詰まった同士の組み合わせ。


北陸のとある港町。過疎化に悩む市役所では一つの計画が秘密裏に進められていた。

それは、10年住むことを約束に身元引受人のいない受刑者を市が受け入れるというもの。過疎化対策と刑務所の費用節減という二つの果実を生む、行政として非常に効果の高い画期的なプロジェクトであった。

市が引き受けた6人はいずれも元殺人犯。別のタイミング、それぞれのルートで町にやって来た6人は、お互いの存在に気付かないようにという配慮で異なる職種に就くことになっていた。

主人公でプロジェクトの世話役を命じられる市役所の職員・月末(つきすえ)は、6人が到着するたびに同じセリフで町の説明をする。

「いいところですよ。人もいいし、魚もうまい」

この言葉は6人のうち5人にはほとんど届かなかった。町の長所を表しているようでいながら、裏を返せば「ありふれた日本の田舎」に過ぎないことを克明に語っていたからだ。

シャッター通りの商店街。ぽつぽつと営業している店があって、まばらに人が通るけれど、賑やかと呼べるのは年に1~2度開かれる祭りのときだけ。

海があるから産業は水産業。あとは公務員と病院と、その人たちを相手に商売する飲食店くらいか。役所はその町を延命させるべくそれなりに身を粉にして働いている。

小さい町ではすぐに顔が割れる。人がいいと言っても全員じゃないから、田舎は本来よそ者には厳しい。

こともあろうに役所のアシストも相まって早々に6人が交錯する場面が訪れる。更生の前に立ちはだかる壁に対してそれぞれが選んだ道は?

本作の原作は、なんと山上たつひこいがらしみきおだというから驚きだ。

ギャグ漫画の大家が描いた物語は、田舎町の過疎化、受刑者の更生を巡る厳しい現実を示しつつも不器用な人間への愛情に満ちていた。祭りのご神体である「のろろ様」にかつてのギャグセンスの片鱗を垣間見ることができたのはご愛嬌か。

映画としては、肝である6人の配役が良かったので全体が非情に引き締まった。特筆は優香の今まで見せたことがなかったパターンの役だろう。このポジションを攻めれば引く手あまたに違いない。

それにしても市役所側から見れば、一気に6人は無茶だった。責任は避けられないだろう。まずはお試しから始めないと。

(75点)
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「RAW~少女のめざめ~」

2018年02月12日 08時13分05秒 | 映画(2018)
鉛色の空の下、鮮血への渇望。


人気のない広い平地をまっすぐに伸びる並木道。1台の車が走り抜けようとした瞬間に木陰から突然人が飛び出してくる。

事故を避けようとした車は、反対車線側の並木に衝突して大破。飛び出した人影がゆっくりと車の方へ近付いて行く。

静かではありながら、いや、静かに展開するからこそ謎が深く印象的な冒頭の場面は、何の説明もないままタイトルを経て本篇へ切り替わる。

主人公は、獣医を学ぶ大学へと進学したジュスティーヌ。両親も獣医なら、姉も1年先に同じ大学へ入学している獣医ファミリーだ。

ジュスティーヌは成績優秀で、その神童ぶりは早くから大学にも知れ渡っていたが、彼女の特異さはそれだけではなかった。

どうやら全寮制のこの大学。新入生を待っていたのは「洗礼」という名の上級生からの「いじり」。まるでひと昔前のわが国体育会系のようなノリだが、フランスでもこんなことするんだね。

獣医ならではと言おうか、ベジタリアンのジュスティーヌにうさぎの生の臓物を食べさせる悪趣味さ。ネットに投稿すればたちまち火の手が上がって、学校の責任問題に発展しかねないレベルだ。

姉のアレックスはそんな大学にすっかり馴染んでいるようで、多少エキセントリックな振る舞いもするものの、少しずつ妹を慣れさせようと世話を焼く。しかし生肉を口にしてしまったジュスティーヌに次第に異変が生じ始める。

全篇を通して画面を覆う空気がとにかく陰鬱である。空模様がどんよりしている以上に、退廃した学生寮生活が輪をかけて気分を重くさせる。音楽も致命的に重い。

ジュスティーヌの変貌、冒頭の謎めいた場面を要所に取り入れる演出など、巧いなと思わせるところは多い。

しかし、謎が解けたときに抱いたのは、救いのない不道徳への不快感だった。「あなたたち、こうなること予想してたんじゃない」と。

もちろん世の中はきれいごとばかりになってはいけないから、この手の作品があることはむしろとても意義がある。と思うが、積極的に評価はしない。できない。

登場人物の誰もが荒んでいて感情を重ねることができないのも、もやもや感が抜けない原因だと思う。アレックスともルームメイトのアドリアンとも接近と対立を目まぐるしく繰り返すので、どれが本当なのかを見失いついていくことができない。

アレックスといえば、あの場面で失神してしまうのは後から思い返すと少し不自然な感じがしてしまったし、そうした細かい点が気になってしまうということは、やっぱり作品の質というより感性が合わなかったということなのだろう。

(65点)
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「スリービルボード」

2018年02月04日 19時32分38秒 | 映画(2018)
愛と憎しみのつばぜり合い。


舞台はミズーリ州の小さな田舎町。地元の人間しか使わないような道路の脇に立つ朽ち果てた広告看板に、ある日突然真っ赤に染められた意見広告が姿を現す。

広告の依頼主は、かつて娘をレイプ殺人で失ったミルドレッド。

「事件から時間が経っているのに警察は何故何もしないのか?」という挑発的なメッセージは、警察のみならず地元の住民の間に混乱をもたらすこととなる。

最近の言葉で言えば炎上商法。自分の力ではどうにもならないことに対して、倫理的にすれすれの荒っぽいやり方で物事を動かそうという手法は、当然のように賛否両論であり、自らが無傷でいることはできない。

特にこの町の警察署長ウィロビーは人格者で地元の信頼も厚く、事件に同情はしてもこのやり方にはまったく賛同できないというのが住民の総意であった。

更に、ミルドレッド自身がまったく立派な人物ではなく、むしろ娘を失った事件のきっかけを作ってしまったのも彼女であったことが明らかになる。

孤立無援で闘い続ける彼女の行き着く先は憎しみの連鎖しかないのか。

全体として殺伐としたやりとりが幅を利かせるが、話が進むうちに、重い雰囲気の中に時折さわやかな微風が吹き込んできていることに気が付く。

第一は、ミルドレッドが名前を挙げて標的にしたウィロビー署長が彼女の心情を理解し誠実に向き合ってくれたことである。

警察はただ怠慢して事件を解決できていないわけではない。しかし、家族を失った側からすれば結果が伴わない以上そのように思ってしまっても仕方がない。

ウィロビーは頭ごなしにミルドレッドに敵対心を示すことはせず、丁寧に説明することで事態を打開しようとする。ただそれだけで変わるほどミルドレッドの闇は浅くない。

そして、その時はやってくる。

事件と直接関係がないとはいえ、下手すれば町すべてを絶望へ叩き落としかねない事態を、ウィロビーはきめ細やかな配慮で取り繕おうとする。

いくら閉塞感に包まれていても、未来がまったく見えなかったとしても、思いやりのひとことが想像をはるかに上回る力を発揮する。

粗暴で人種差別の思想を持つ部下に対しても、決して悪い人間ではなく、良いところを磨けば立派な警官になれると説く。

もちろん一朝一夕にすべてがうまくいくようになることはない。それでも、ほんの少しの気付きが生まれることでひとすじの光が見えてくることも確かなのである。

最後の場面で、登場人物の中で最も荒波にもまれて苦しんだ二人が横に並んで交わす会話が印象深い。

「本当に復讐したいと思っているか?」「まあまあ」「行く途中で決めればいい」

振り返ってみると、とても温かい作品であることに驚く。とりわけ不寛容がはびこり不穏な現代社会にとっては、ひょっとしたらおとぎ話なのかもしれないと思うほどである。

巧みな脚本、共感を生む人物設定、そしてF.マクドーマンドW.ハレルソンS.ロックウェルという優れた俳優陣が見事に融合した文句のない傑作だ。

(95点)
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