Con Gas, Sin Hielo

細々と続ける最果てのブログへようこそ。

「ザホエール」

2023年04月16日 19時05分50秒 | 映画(2023)
最後くらいは、いいじゃない。


大切な人を失ったショックから過食症になってしまった男が、命が尽きる前にしたいと思ったことは何か。

健康問題等で一線から離れていたB.フレイザーが心機一転、特殊メイクを施して挑戦した難役。先日発表されたアカデミー賞で見事に主演男優賞を獲得し、感動のスピーチを披露したことは記憶に新しい。

かつてのアクション活劇の主演スターがどん底を味わってからの復活。本作の主人公であるチャーリーという男の苦悩を演じるのに適役と言えるだろう。

自力ではほとんど動けないから演技は基本的に表情と言葉と息づかい。大きな瞳にあふれる涙や、座っているだけでも苦しさが伝わってくる喘鳴。作品の設定に同性愛や非白人ががっちり組み込まれていることも後押ししてオスカー戴冠も妥当なところ。

そう、チャーリーの最愛の人は男性であった。それも、妻と8歳の娘と暮らしている中で、教え子と関係を深めてしまったというもの。

パートナーとなった男性は、実家との関係がうまくいかなくなったことなどから心身に不調をきたし死に至る。一方で元妻と娘も、離婚の原因が原因だっただけに相当傷は深く、高校生となった娘・エリーは問題な素行を繰り返すようになっていた。

チャーリーの世話をするのは知人の看護師であるリズ。その他の施しは受け付けず、誰が何と言おうと血圧が200台に上がろうと病院へ行こうとはしなかった。日に日に状況は悪化し、次の終末を超えるのも難しいかもしれないと告げられたチャーリーは、突然エリーに連絡をする。

これはチャーリーの、おそらく最期の一週間に起きたできごと。舞台は彼の部屋のみ。そこにリズ、エリー、そして不意に彼の部屋を訪れた宣教師のトーマスが出演者である。

エリーは母親曰く「邪悪」な娘であり、世の中のすべてのものが嫌いと言い張る。チャーリーに対しても自分に得になる話があるときだけ相手をする。そんなエリーにチャーリーは「君はすばらしい」とほめ続け、学校の課題を手伝い、自分の財産のすべてを譲ると言う。

トーマスはチャーリーの姿を見て、「この出会いは神の導きによるものであり、自分がチャーリーを救わなければならない」と思い込む。しかしトーマスが信仰する宗教は、チャーリーと浅からぬ縁があるものであった。

二人がチャーリーを利用しようとする一方で、リズの介護は時に厳しく時に優しく、家族のように献身的で対照的であった。その理由は話が進むうちに明らかになる。

本作の底部を貫くのは、家族と宗教という基本的な柱である。数年前のチャーリーの選択は、家族と神のいずれをも欺く行為であった。彼の現在の姿はその罰を受けたものなのかもしれない。

しかし、困ったことに彼にいちばんの安らぎを与えてくれるのはエリーでもトーマスでもなく、リズなのである。そしてチャーリーは、今そのリズにも悲しい思いをさせようとしている。

表題となっているクジラは、巨漢のチャーリーを指していることはもちろんとして、チャーリーが生業としているエッセイの書き方講座にも絡んでくる。

チャーリーが時々呼吸困難に陥ったときに自分を落ち着かせようとして言葉にするのが、小説「白鯨」に対して誰かが書いたエッセイの一節なのである。名著に批判的なそのエッセイをチャーリーは何故か気に入っているようであった。

この辺りのクジラ関連の素材と、チャーリーが人生の最後にしたかったことが繋がってくる構成は素晴らしく感動的である。劇中の宗教に対する皮肉めいたやりとりもおもしろい。

ただ、これをもってチャーリーという男の生き方や、本作の描こうとしていることを理解し共感できたとはとても思えてこない。かといってチャーリーの選択を安易に過ちだったということもできない。

いちばん先に来るのは切なさであり、せめて安らかでやさしい終末をと思わずにいられない。なんとも複雑な状況になっているのが正直なところである。

(85点)
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「ノック 終末の訪問者」

2023年04月08日 21時46分53秒 | 映画(2023)
監督は全能の神。


毎度おなじみM.ナイト・シャマラン監督。なんだかんだ言われながら、「シックスセンス」から20年以上高頻度で話題作を作り続けているのは称賛に値する。

彼の一貫したスタイルは、第一印象のインパクト勝負。奇抜な発想と刺激の強い映像で観客を惹きつけ、行けるところまで力で引っ張っていくものである。

今回は、突然現れた4人の訪問者が「家族の誰かを犠牲にしなければ世界が滅びる」と主人公たちに告げる。主人公たちがNOと返答する度に訪問者の一人が命を絶ち、同時に世界で大勢の人たちが犠牲になる災禍が発生する。

今回のインパクト映像は、主人公たちの選択によって大惨事に見舞われる世界と、自らの命を差し出す異様な訪問者たちである。

押し寄せる巨大津波、次々に墜落する航空機。あり得そうもないものを映像で見せてしまうシャマラン監督の真骨頂と言える。命を落とす残酷な瞬間は映さないところが、ぎりぎりの上品さを保っているが。

例によって、なぜこんなことが起きるのかは語られないし辻褄の合わせようがない。主人公の一人が黙示録がどうのと言っているが、とってつけたような次元の話である。

とにかく本作は、力で世界の終末を呼び寄せたということに尽きる。シャマラン監督が作る世界では彼こそが神であり、その中に住む人類に自由に裁きを下せるのである。

理不尽に思われようともそれが神の役割なのだから、まったく破綻していないし、そうした流れは予想の範囲内なので不満もない。

今回の神は時流に従い、キャスティングで公平に配慮されている点も印象的である。訪問者の4人は男女2名ずつで人種も職業もそれぞれ。襲われる主人公たちはゲイの養父2名と東洋系の養女と、少ない登場人物の中で多様性を確保。女の子が不思議な魅力を持っていて良かった。

(70点)
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「シャザム!~神々の怒り~」

2023年04月02日 10時43分06秒 | 映画(2023)
DCは単品勝負でいいのでは?


「意外とおもしろいじゃない」。本作を観てまず思ったのがこの感想である。

最近どうもアメコミヒーローものが、期待し過ぎるせいもあるかもしれないが、物足りなく感じることが多く、DCに至ってはこれまで良かった作品があったか?と思い出すのにひと苦労なくらい良いイメージがない。

だから本作も時間が合わなければスルーでもいいかなと思ったのだが、結果としては観て正解だった。かなりおもしろかった。

何故だろうと考えてみる。

前作「シャザム!」のとき中学生だった主人公のビリーたちは、高校から大学に差し掛かる年代となった。

よって今回は前作以上に青年期ならではの問題が彼らに差し迫る。それは、里子の制度の問題でいつまでも里親の扶養の下で暮らすわけにはいかないという切実な話であったり、一方では、異性のことや趣味のことなど、ヒーローごっこ以上に楽しくて興味がわくものが出てきてしまっているという話であったり。

一応6人のヒーローのリーダーという位置づけにあるビリーは、そもそも自分がヒーローの資質があるかに疑念を持っていることもあり苦悩する。そんな中で地球の(フィラデルフィアの?)危機はすぐそこにまで迫ってきていた。

私は前作の記事で「MCUでいえばスパイダーマンの立ち位置に近いかもしれない」と書いている。わが国の映画興行で、初めて明確に受け入れられたアメコミヒーロー映画は「スパイダーマン」だと思っているが、その魅力は主人公が等身大であることにある。ビリーたちが今回さらにピーターパーカーの年代に近付いて、親近感が増しているのは確かだ。

次は軽さだ。「アイアンマン」「アントマン」「ガーディアンズオブギャラクシー」といった辺りの、特に初期の作品は、主人公たちの底辺に軽妙な要素があって、そんな彼らがヒーローになって苦難を乗り越える爽快さがあった。ビリーたちも基本は明るい高校生であり、本作にも敵と対峙する場面で迂闊な失敗をして笑わせるシーンが登場する。

意外にも、この両方の要素を持ったシリーズはDCの中には思いつかない。「見た目は大人 頭脳は子供」という逆名探偵コナンの設定の独自さもさることながら、上の2つの要素を持っているからこそ個人的におもしろく感じるのだろうということを自覚した。

そこで最近のヒーロー映画が何故楽しめないのかという問題に戻ると、これはヒーローものの宿命なのかもしれない。漫画でも連載が長くなるにつれて、どんどん強い敵を出さざるを得なくなるインフレが生じるのと同様で、シリーズを続けるために話が大きくなり深刻になるとともに、親近感や軽妙さが失われていくということかと。

とするとこのシリーズも、DCの近況を見ていると次があるのか怪しいが、続けるかぎりは何らかの設定ですべてをリセットしないかぎりは同じ運命を辿るのかもしれない。

改めて書いておくが、今回は主人公たちの年代や立ち位置、ヴィランキャラクターの規模感(3人めのアンの設定も良かった)など、非常にバランスが取れていて良かったと思う。

(85点)
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「生きる LIVING」

2023年04月02日 09時35分06秒 | 映画(2023)
自分に折り合いをつける最期の時間。


毎度のことながら不勉強のため、名作と誉れ高い黒澤明監督の「生きる」は未見である。

それでも主演の志村喬が雪の中でブランコに乗っているシーンは知っている。静かなのに、静かだからこそ人の心に強く残る日本映画史上屈指の名場面と言えるだろう。

そんな名作を、日本人の血を持つノーベル賞作家であるカズオイシグロの脚本でリメイクしたのが本作である。

舞台は1950年代の英国。主人公は役場の市民課で課長を務めるウィリアムズ。

役場の仕事というのが全世界共通なのかは分からないが、常に忙しそうにしているものの、市民の陳情に対しては「所管が違う」とたらい回しにするか、「支障がないから預かっておく」と机上の資料の山に乗せるだけという日常が続く。

ある日、ウィリアムズは医者から末期がんにより余命がせいぜい半年であることを宣告される。そこで彼は気づく。自分は一体どういう人間になりたかったのか。そしてその思いは叶えられているのか。

自分らしく生きることなく死にたくはない。しかし、長年の役場仕事がしみついてしまっていて、どうすればいいのか分からない。彼は無断欠勤をし、知らない町で会った男性や市民課の若い女性職員・マーガレットと話して、残された人生でやるべきことを見つけ出す。

人は生まれたときから、死へのカウントダウンが始まっている。時間が限られていることが分かっているのにそれを大切にしないのは、カウントダウンの時計に明確な時間が示されていないからである。

四六時中死の影に怯えて暮らすわけにはいかない。ただ、年齢がかさんでくると人生のまとめ方を考えるようになるのは必然で、だからこそ最近は終活やエンディングノートなんていうものが流行るのである。

ウィリアムズが人生の最後に取り組んだ仕事は、いい話であるが理想論、絵空事に近いといった感想を持つかもしれない。ただ本作の肝はそこではない。

それが分かるのが、遺された市民課の同僚が「課長の遺志を継いでこれからは責任感を持って仕事をしよう」といった数か月後にはすっかり元のお役所に戻っている場面である。意外なことにそれは決して否定的に描かれていない。

そしてウィリアムズ自身も若い職員に遺した遺書の中で、「自分は特にえらいことをしたわけではない。ただ今後生き方で迷うようなことがあったときに、あの公園を見て思い出してほしい」と語っている。生きることについて人はどうあるべきなのかが重要であり、公園整備はたまたまあった一つの道具に過ぎないのである。

現代は1950年代以上に息苦しい世の中で、誰もが他人の目を気にして生きている。ただ、他人にとって自分は、会わなくなれば忘れられるような小さな存在である。最期に向き合うのは自分であり、いかに納得して人生を終えられるのかが重要なのだということを改めて噛みしめる。

(80点)
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