2005・12・11(日)13:00 日生劇場
来年1月のために?日生劇場に行って来ました。
なんと、13年ぶりです。最後に観たのは四季の舞台『オペラ座の怪人』山口ファントム&石丸ラウル、という今や伝説のような取り合わせでした。
通いなれた?帝劇から少し離れた日生劇場。隣は東京宝塚劇場。(『ベルばら』のポスターが!フランス国旗を手にしたオスカル様に、見とれてしまいました・・・)
さて、日生劇場。『ジキル&ハイド』です。
ジキル/ハイド 鹿賀丈史
ルーシー マルシア
エマ 鈴木蘭々
アターソン 石川 禅
カルー卿 浜畑賢吉
19世紀のロンドン。医者のジキルは父のため、人類の幸せのため、「人間の善と悪を分離する薬」を研究し、上流階級の人々が集う理事会で人体実験の許可を求めるが却下され、娼館パブで出会ったルーシーの言葉から、自らが実験の対象として薬を試すことに。
その結果、別の人格のハイドが現れ、凶暴なハイドは理事会の面々に次々と襲い掛かる・・・町の人々を震えさせる連続殺人。自分でありながらハイドの凶行を抑えることができないジキル。やがて、最愛のエマとの結婚の日、ジキルはハイドとなり、破滅の時が訪れる・・・
まったくの初見で、予備知識なしで観ました。
鹿賀さん・・・独特の言い回しがちょっとな~と思ってましたが、ジキルからハイドに変わった瞬間、“やっぱり鹿賀さんしかいないわ”と、ミョウに納得。
(・・・でも、ジキル博士って何歳の設定?)
髪をバサリっと振り解いて、伏せた目を開けた瞬間から、ハイドそのものになってる。・・・怖い。本当に怖い。地鳴りのように低く重い声。睨みつける冷たい視線。獣のような息遣い・・・「俺は何度でも会いに来る」・・・言葉にできない恐怖。実を言うと殺人の場面よりもこのセリフの方が怖かったのです。舞台の上からこれほどの、恐怖を感じたのは初めてでした・・・!
マルシア・・・ルーシーは色っぽくてセクシーですごい脚線美。それなのにジキルに優しくされて、彼を想う場面は、はじめて恋をする少女のように可憐。かわいい~ファンティーヌじゃなくて、エポニーヌでもいけそう。
故に最後はあまりにも凄惨で、哀しすぎます。
蘭々・・・歳の割には“大人”を演じてましたね。エマはジキルを母のような大きな愛で包んでいる感じがしました。そのせいか、恋人同志の甘い雰囲気っていうのはラブシーンでもあまり感じられなかったです。(それとも、やっぱり、鹿賀さんに問題が?)
禅さん・・・ちょっと軽めのアターソン、苦言を呈しながらも、ジキルを心から心配する親友、銀縁めがねの優しげな微笑みにちょっとドキドキ。(おいおい)鹿賀さんが年齢的にちょっと無理でしょ~というのと反対に、禅さんあなたはいったいいくつ?と聞きたくなる若返り術・・・『レミゼ』の2000回SPのマリウスもそうだったけど、40代には見えない青年マジック!?すごいわ~
人間が誰でも持っている多面性を、大きく二分して、対照させたという点が見所であり、考えさせられる部分でした。そして常日頃、抑圧されている部分が独自に一人歩きしだしたらどうなるか。善と悪というあまりにも分かりやすい両極、自分の中にもたぶん持っている、陰の部分、それがこの舞台の上にさらけ出されていることへの怖さでもあったと思います。
もうひとつには、ルーシーの存在。
ルーシーはハイドを恐れながらも離れていかない。いえ、離れられないのです。
それは愛?確かにハイドに後ろから抱きしめられ、コートの中にすっぽりと納まるルーシーの表情は、恍惚として、すごく印象的。
でも、それは愛?
ふっと頭に浮かんだのは・・・これってDV(ドメスティック・バイオレンス)?
あまりの恐怖のためにそこから離れることができない、と聞きます。逃げ出したあとの報復を恐れて、動けなくなる・・・
ハイドの言葉が、凍りつくほど怖ろしく感じたのは私の中にある、女としての本能的なものからだと思います。
・・・舞台ってすごい・・・!!
これほどの人間の内面を演じる役者さんもすごい!
素直に、そんなことを思った『ジキル&ハイド』・・・観てよかった、と思いました。
来年1月のために?日生劇場に行って来ました。
なんと、13年ぶりです。最後に観たのは四季の舞台『オペラ座の怪人』山口ファントム&石丸ラウル、という今や伝説のような取り合わせでした。
通いなれた?帝劇から少し離れた日生劇場。隣は東京宝塚劇場。(『ベルばら』のポスターが!フランス国旗を手にしたオスカル様に、見とれてしまいました・・・)
さて、日生劇場。『ジキル&ハイド』です。
ジキル/ハイド 鹿賀丈史
ルーシー マルシア
エマ 鈴木蘭々
アターソン 石川 禅
カルー卿 浜畑賢吉
19世紀のロンドン。医者のジキルは父のため、人類の幸せのため、「人間の善と悪を分離する薬」を研究し、上流階級の人々が集う理事会で人体実験の許可を求めるが却下され、娼館パブで出会ったルーシーの言葉から、自らが実験の対象として薬を試すことに。
その結果、別の人格のハイドが現れ、凶暴なハイドは理事会の面々に次々と襲い掛かる・・・町の人々を震えさせる連続殺人。自分でありながらハイドの凶行を抑えることができないジキル。やがて、最愛のエマとの結婚の日、ジキルはハイドとなり、破滅の時が訪れる・・・
まったくの初見で、予備知識なしで観ました。
鹿賀さん・・・独特の言い回しがちょっとな~と思ってましたが、ジキルからハイドに変わった瞬間、“やっぱり鹿賀さんしかいないわ”と、ミョウに納得。
(・・・でも、ジキル博士って何歳の設定?)
髪をバサリっと振り解いて、伏せた目を開けた瞬間から、ハイドそのものになってる。・・・怖い。本当に怖い。地鳴りのように低く重い声。睨みつける冷たい視線。獣のような息遣い・・・「俺は何度でも会いに来る」・・・言葉にできない恐怖。実を言うと殺人の場面よりもこのセリフの方が怖かったのです。舞台の上からこれほどの、恐怖を感じたのは初めてでした・・・!
マルシア・・・ルーシーは色っぽくてセクシーですごい脚線美。それなのにジキルに優しくされて、彼を想う場面は、はじめて恋をする少女のように可憐。かわいい~ファンティーヌじゃなくて、エポニーヌでもいけそう。
故に最後はあまりにも凄惨で、哀しすぎます。
蘭々・・・歳の割には“大人”を演じてましたね。エマはジキルを母のような大きな愛で包んでいる感じがしました。そのせいか、恋人同志の甘い雰囲気っていうのはラブシーンでもあまり感じられなかったです。(それとも、やっぱり、鹿賀さんに問題が?)
禅さん・・・ちょっと軽めのアターソン、苦言を呈しながらも、ジキルを心から心配する親友、銀縁めがねの優しげな微笑みにちょっとドキドキ。(おいおい)鹿賀さんが年齢的にちょっと無理でしょ~というのと反対に、禅さんあなたはいったいいくつ?と聞きたくなる若返り術・・・『レミゼ』の2000回SPのマリウスもそうだったけど、40代には見えない青年マジック!?すごいわ~
人間が誰でも持っている多面性を、大きく二分して、対照させたという点が見所であり、考えさせられる部分でした。そして常日頃、抑圧されている部分が独自に一人歩きしだしたらどうなるか。善と悪というあまりにも分かりやすい両極、自分の中にもたぶん持っている、陰の部分、それがこの舞台の上にさらけ出されていることへの怖さでもあったと思います。
もうひとつには、ルーシーの存在。
ルーシーはハイドを恐れながらも離れていかない。いえ、離れられないのです。
それは愛?確かにハイドに後ろから抱きしめられ、コートの中にすっぽりと納まるルーシーの表情は、恍惚として、すごく印象的。
でも、それは愛?
ふっと頭に浮かんだのは・・・これってDV(ドメスティック・バイオレンス)?
あまりの恐怖のためにそこから離れることができない、と聞きます。逃げ出したあとの報復を恐れて、動けなくなる・・・
ハイドの言葉が、凍りつくほど怖ろしく感じたのは私の中にある、女としての本能的なものからだと思います。
・・・舞台ってすごい・・・!!
これほどの人間の内面を演じる役者さんもすごい!
素直に、そんなことを思った『ジキル&ハイド』・・・観てよかった、と思いました。