本日昼過ぎに民放テレビを垣間見ると。
「問われる菅首相の“発信力”」と題して、有識者やタレント達が議論を展開する場面に出くわした。
決してこの番組を真剣に視聴しようと志していた訳では無く、たまたまチャンネルを変えたところこのテーマが取り上げられていたのだが。
街中インタビューシーンもあったが。
そのインタビューに応えた学生風の男子が、「菅首相は、自分からは何も発信できていない。 記者会見等で質問されても誰かが作成したメモ書きを棒読みするのみ。 あれでは“発信力がある”とは到底言えない。」 等々と、しっかりと厳しいご意見を発した。
この若者インタビューに関する我が感想を述べると。
(なかなか骨のある若者じゃないか! この私も普段菅氏から受ける印象は学生氏と同様だ。 菅氏とは、そもそも自身が政治家として確固とした信念を築けていない人物なのではないのか? そんな身で前安倍政権を引き継ぐ形での一時であれども、よくぞまあ首相を引き受けたものだ。)と、呆れるばかりである。😱
そうしたところ、番組に出演していた某女性タレント氏より反論が出た。 「国家首相とは、それでいいんじゃないか。 自分がしゃしゃり出るのでは無く、表舞台では発言を控えてこそ首相としての役割を果たせる。」(我が記憶が曖昧なため、正確さに欠ける点をお詫びしておくが。)
原左都子の私見だが、この発言大いなる誤りだ!!
この女性タレントは、おそらく元社長を引退し会長職に移行した等々、“お気軽立場”の人達と菅氏を重ねてしまっているのではなかろうか?
それと国家首相の立場とは全く異質なものだ。
国家首相たる者が、国民の前で発言を控えてどうする!??
確かに菅首相は既に高齢域に達しているし、普段の言動から“それで許される”と国民に思わせる雰囲気もあるのだが。 官僚が書いたメモ書きを読んでばかりでは、国家首相の役割を全く果たせていないことは歴然だ!
ここで話題を変えて。
原左都子が2007.11.19付で公開した、「組織論に於けるパワー概念」と題するエッセイを以下に引用させていただこう。
組織論に「パワー」という概念がある。 この場合の「パワー」とは、個人ないし集団が相互に行使するあらゆる種類の影響を意味する。 Max Weber は、「パワーとは行為者が社会関係の中で抵抗を排除してでも、それが依拠する基盤が何であれ、自己の意思を貫徹する立場にある可能性である。」と定義している。 Blau は、このWeber の定義を拡張して「パワーとは、定期的に与える報酬を差し止める形態をとろうと、罰の形態をとうろと、脅かすことで抵抗を排除してでも、人々あるいは集団がその意思を他者に強いる能力である。」としている。
「パワー」を一種の心理的力として、個人間の相互作用におけるその潜在性の側面を強調する立場もある。French=Raven は「パワーとは与えられたシステム内で集団ないし他人に影響を与える潜在的な能力である。」と定義する。
「パワー」の定義は多様であるがこれらの定義に一致していることは、パワー現象は二人あるいはそれ以上の人々の相互作用という複数の状況のみに生起することであり、社会的行為者間の関係においてのみ意味のある概念であるとしていることである。
上記のFrench=Raven は、潜在力としての「パワー」を“報償的パワー”、“強制的パワー”、“正当的パワー”、“同一的パワー”、“専門的パワー”の5類型に細分化した。この「パワーの5類型」は学説としては認められていないようだが、興味深い考え方であるのでここで紹介しよう。
例えば、この「パワーの5類型」を教師の生徒に対する教育指導に当てはめてみると、“報償的パワー”とは生徒に対する正の評価の付与、“強制的パワー”とは同じく負の評価、処罰の付与、“正当的パワー”とは教師の地位、権限の行使による指導、“同一的パワー”とは教師の人格による生徒との信頼関係の確立、“専門的パワー”とは生徒への学術指導等専門的情報の提供、以上のように操作化できると思われる。
これらのうち、いかなる「パワー」がいかに行使されるかは組織目標達成に決定的影響を与える。 しかしながら、最適な「パワー」の分布と行使は組織環境や組織構造の影響を受ける。 すなわち、上記の教師の例の場合、教師の行使する「パワー」は結果的に所属する学校の校風創出に影響を与えるであろうし、逆にその学校の教育理念は教師が行使するべき「パワー」を決定するであろう。
教師の資質としての理想型は、これら五つの「パワー」をバランスよく備え、条件適合的にそれらの「パワー」を行使し得ることであろう。 しかし、そのような理想型の人材は存在し得るすべはなく、ひとりひとりがいずれかの「パワー」を偏在させているのが現実であろう。そこで、組織はそれら偏った人材をバランスよく確保することにより組織全体の均衡を保ち、組織目標達成を可能とするのであろう。 学校現場における多様な人材の確保は、多様な個性をもつ生徒への対応という点でも有効である。 ただ、組織が確固たる理念や風土を既に創り上げている場合においては、組織成員個々人のもつ資質や信条との間に齟齬が生じ、両者の間にコンフリクトが発生し、組織からの逸脱を企てる成員も生じるであろう。
以上は、原左都子自身の教員経験も交えつつ、私論を展開したエッセイである。
さて、皆さんはいかなる「パワー」をお持ちでしょうか? あなたがお持ちのその「パワー」が周囲に影響を及ぼし、世界をも動かしているのかもしれませんね。
(以上、本エッセイ集2007.11バックナンバーより再掲載したもの。)
現在、このバックナンバーを自ら読み直し感じるのは。
“パワーとは与えられたシステム内で集団ないし他人に影響を与える潜在的な能力”との記述があるように。
国家との大規模組織を統率するべき立場にある人物であるならば、尚更のこと。
その能力に欠ける人材とは、そもそも組織トップに君臨し得ないのではあるまいか!??