原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

名画の百科事典的役割を果たす陶板美術館を行く -1-

2016年06月12日 | 旅行・グルメ
 (写真は、徳島県鳴門市に位置する陶板美術館 大塚国際美術館内で撮影したフラ・アンジェリコ作「受胎告知」の陶板複製作品。)


 私はここ数年郷里へ帰省する都度、大塚国際美術館を訪れている。
 この美術館は表題の通り「陶板美術館」であり、決して本物の美術絵画を展示している訳ではない。
 ところがこの美術館の最大の特徴とは、古代、中世、ルネサンス、バロック、近代、現代を通して物凄い数量の歴史を超越した世界中の名作陶板絵画を展示している事なのだ!
 これには恐れ入る。
 これ程大量の名作陶板(そのすべてがオリジナル作品と同じ大きさ)を制作した大塚財閥(?)の資金力の程に、地元出身の人間として改めて驚嘆するばかりである。

 ここには常に国内外からの団体旅行客をはじめ、地元の小中学生達が遠足等の目的で訪れている様子だ。
 今回の我が訪問時にも、6月初旬との観光閑散期にして団体旅行客のバスが数多く駐車場に停車いていた。


 ここで話題を変え、当エッセイ集2016.2.8バックナンバー「ローマ・ピサ・フィレンチェ列車と徒歩の旅」より、「サンマルコ美術館」及び「フラ・アンジェリコ作『受胎告知』」に関するネット情報の一部及び我が私見を紹介しよう。

 フィレンツェは15世紀のルネサンスにおいて、文化的な中心地だった。 今でも当時の名残を味わうことのできる博物館や美術館、教会などがたくさん存在しているが、「サン・マルコ美術館」もその一つだ。
 サン・マルコ美術館は元々は12世紀に建築された修道院だった。 15世紀になり、損傷が激しくなったこの修道院は、1434年に当時の法王エウゲニウス4世の配下でドミニコ会の修道院となった。 そして、この修道院はコジモ・デ・メディチの指示により、1437年から1452までの間、約15年もの年月をかけて改修工事が実施された。 1866年に修道院は廃止されたが、1869年にその一部が美術館として公開されることになった。
見どころとして挙げられるのは、フラ・アンジェリコの作品が数多く収蔵されている事だ。 フラ・アンジェリコの壁画のなかでも最高傑作とされるのが「受胎告知」。 修道院内の回廊を回った後、2階に上がる階段を上ったところに「受胎告知」は展示されている。
 次に、ウィキペディア情報より要約引用。
 フラ・アンジェリコは、15世紀初頭より活躍したフィレンツェ派を代表する大画家。 師であるゴシック絵画の大家ロレンツォ・モナコより学んだ、ゴシック的である豪華で優美な表現に加え、初期ルネサンスの三大芸術家のひとりマザッチョの作品から空間・人体の三次元的描写を学び、鮮やかな色彩による敬虔で高潔な人物描写による独自の画風を確立。
 原左都子自身もこのフラ・アンジェリコ作「受胎告知」を、日本国内の美術館にて何度か観賞した記憶がある。  当該作品が、サンマルコ美術館(当時は修道院)の壁画である事を今回初めて認識した。 これが壁に描かれた壁画だったとすれば、イタリア国外にて展示されるアンジェリコ作「受胎告知」とはすべて“複製”との事実に驚かされる。
 この場で現物(本物)を観賞出来る事が、改めて奇跡のように思えたのだ。
 上記ネット情報にも記載されている通り、サンマルコ美術館は歴史的美術作品の宝庫だった。  しかも数あるフィレンチェの美術館・博物館の中でも、サンマルコ美術館は観光客が少ないとの情報も得ていた。
 実にその通りで、午前中のフィレンチェ観光に於いて、静かにゆったりと美術品満載の元修道院にてひと時を過ごせた事に、これまたイタリア旅行の醍醐味を見た思いだ。
 (以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーより一部を引用。)


 半年程前に旅したイタリアにて訪れたフィレンチェのサンマルコ美術館は、我がイタリア旅行のハイライトとして大いに印象に残っている。

 何故それ程当該美術館が印象的だったのかに関して説明しよう。
 観光国イタリアの何処の地に行っても国内外よりの観光客で溢れている中、サンマルコ美術館のみは、まるで“貸し切り”のごとく人がまばらで落ち着いて美術鑑賞が叶ったのだ。
 こんな贅沢は珍しい事だ。
 とにもかくにも本気で美術鑑賞をしたい場合、館内で人混みに苛まれると一体何を見てきたのやら訳が分からない悲惨な結果となろう。 そんな中、サンマルコ美術館は午前中早い時間帯に訪れたのが功を奏したのか、まさに“貸し切り”状態で芸術観賞出来たのは実にラッキーだった。 

 そのサンマルコ美術館の展示物の中でも、ひときわ目を引いたのが 「名画 フラ・アンジェリコ作 受胎告知」だ。 (この名作の“本物”を撮影した画像は、左欄のフォトチャンネル「イタリア旅行フィレンチェ編」にて公開しておりますのでご参照下さい。)


 さて、再び大塚国際美術館に話題を移すと、その「フラ・アンジェリコ作 受胎告知」はB2階ルネサンス展示コーナーの目立つ場所に存在した。

 いやはや、実に懐かしい思いだ。 
 この名画に、我が郷里にて再開出来た事を嬉しく感じる。
 我が記憶によれば、過去に修道院だったフィレンチェ サンマルコ美術館の壁画である原作の「受胎告知」は、その劣化を防ぐためにガラスか何かで覆われていた気がする。
 大塚美術館の「陶板複製作品 受胎告知」をよ~~く見ると、その“ガラスの覆い”までもを再現しているのが、返ってフィレンチェのサンマルコ美術館にて当該作品を見た記憶がリアルに思い起こされるようで、何だかしんみりと興味深い思いだった。


 陶板美術館報告は、次回以降まだ続きます。

忘却の彼方に遠のいていた郷里の光景 -2-

2016年06月11日 | 旅行・グルメ
 (写真は、私が高校・大学時代に国鉄汽車通学道中の乗換駅だった「佐古駅」にて撮影したもの。)


 遠い過去に我が郷里在住中、この「佐古駅」を通過(及び乗換)したのは日々のことながら、この駅に降り立ったのは、郷里を去る以前より、もしかしたら今回の旅行が初めてだったように記憶している。


 今回の旅行中、何故この「佐古駅」を利用したのかと言うと、実母の介護施設見学のために佐古駅から数分の場所にある某施設を見学に訪れた故だ。
 施設への往路は県内主要駅である徳島駅よりタクシーを利用した。
 当該施設が佐古駅から近いとのネット情報をあらかじめ得ていたため、宿泊ホテルへの帰路は是非とも佐古駅より国鉄(現在はJR四国だが)の列車を利用したいと目論んでいた。 
 当日施設を案内してくれた介護施設長氏に佐古駅への道程を伺ったところ、徒歩でまっすぐ数分歩くと駅に着くとの説明だ。

 その案内の通り、数分歩くと佐古駅に到着した。


 さて、徳島駅行きの列車は何時発だろうか? と時刻掲示板を見たところ、30分程の待ち時間を要するようだ。(参考のため、県内主要駅である徳島駅は隣駅であり列車にて3分程で辿り着く距離だ。)

 こういう場合、都会暮らしが長くその時間的感覚に慣れ切っている人間としては、必然的に30分の待ち時間が耐えられない感覚に陥る。 (これだから田舎は困るなあ…。)などと…
 そして、すぐさま私は駅舎内を出てタクシーを見つけようとしたのだが、それさえ1台とて停車していない。  介護施設にてタクシーを呼んでとっととタクシーでホテルに帰ればよかった… などとの邪念に囚われつつ、それでも私は今回の旅の目的と意味を再確認した。

 今回は、郷里に一人暮らしの実母を介護施設に入れる段取りを付けるためにこの地を訪れている。 実母が施設に入居した暁には、保証人(身元引受人)の立場で年に数回はこの郷里の地を訪れるはめとなる。 そうした場合、いつまでも都会暮らし感覚で対応してもいられない事は明白だ。 ここは、現在の郷里の実態を知るためにも、どうしても私には30分間佐古駅で列車を待つ必然性があろう、と思い直した。


 気持ちを入れ替え、佐古駅にて列車を待つこととなる。
 その30分間こそが、我が郷里への郷愁を呼び起こしてくれた事も確かだ。

 私の場合、高校時代は冒頭写真の左側 「よしなり」 方面より徳島駅に向かって汽車に揺られつつ通学した。 
 大学進学後は、我が所属する医学部キャンパスが 「くらもと」駅に程近い場所に位置していたため、この佐古駅にて乗換をして「くらもと駅」へ通ったことが懐かしい。
 ただ、1970年代半ば当時は既にマイカーブームだった。 この私も19歳時点で運転免許証を取得して以降は、当該医学部キャンパスへ自宅からマイカー通学に切り替えたため、その後、国鉄のお世話にはなっていない。


 それにしても、この「佐古駅」の何とも小さきこと。
 こんなに小さい駅だったのかとの郷愁に暮れつつ…  
 それでも平成の時代に至って尚、この駅を利用して通学する現役高校生達に支えられ、今後も昔の国鉄の使命を果たしながら今もひそかに存続している「佐古駅」に降り立てた事実こそが、感慨無量だ…。

忘却の彼方に遠のいていた郷里の光景 -1-

2016年06月09日 | 旅行・グルメ
 (写真は、私が45年前に卒業した中学校の現在の姿。)


 5月下旬より6月初旬にかけ出かけた我が旅行の第一目的は、郷里に一人暮らす実母を介護施設に入居させる段取りを整える事だった。

 長時間の歩行が不能な母を施設見学に連れ回す事が叶わないため、とりあえず娘の私一人で出来得る限り施設を訪れる方策を立てていた。

 
 それに先立ち久々の郷里の観光も視野に入れ、単身でホテルに連泊する予定を組んでいた。
 何故ならば、せっかくの一人旅の旅程を高齢者施設巡りと実母の相手のみで済ませるのも、何だか気が滅入りそうな予感があったからだ。


 さて、航空便にて到着初日に一件の介護施設を訪れた後、ホテルにて阿波会食の夕餉を楽しんだ。(今回は、この夕餉に関しては割愛させていただく。)

 そして翌日は午前中にもう一件の介護施設見学を済ませた後、その足で路線バスに乗り、我が郷里にての生活の場として一番長かった鳴門市へと観光(及び視察?)に出かけた。


 その路線バス内で撮影したのが、冒頭の写真だ。
 基本的に学校嫌いの私だが、郷里に於ける中学時代と大学時代は主体的に充実した日々を送れた感覚がある。

 私が卒業した市立中学校は市の中央に位置し、市内一の規模と歴史を誇る学校であった。 そのため生徒数も多ければ、学業面や諸活動実績の程も県内有数の中学校だった。
 特に女子の制服は太い一本線のセーラー服が特徴的だったが、これを着ることが女子生徒の名誉であった感覚もある。


 冒頭の写真にご注目いただくと、私が12歳でこの中学校に入学した時には、写真左手側の校舎が我が1年生時の教室だった。 当時はその校舎が校内で一番新しく建設された鉄筋の建物だったと認識している。 今は既にその建物は取り崩され、現在は写真の建物に移り代わっている。

 そして我が記憶によれば、右隣の建物は昔は木造だったと振り返る。 そこには図工教室があり、特に工作が苦手な私は、石膏細工で人の頭部を作り上げる作業に難儀した思い出があるのだ。

 我が卒業後の遠い昔に既に木造校舎は取り崩され、その後鉄筋に建て替えられたのであろうが、その鉄筋校舎が今回取り崩し中だったことが興味深い。
 そりゃそうだろうなあ。 私が卒業してから既に45年程の年月が流れている。 もしかしたら左側の建物も、我が卒業後から2度建て替えられたのかもしれない。  大震災が頻発する現在、震災強度面で不適格との判断が下ったために建て替えを余儀なくされている事も考察出来よう。


 この校舎を路線バスの車窓から眺めたのは平日の昼前だったのだが、何故か生徒をはじめ人気(ひとけ)が一切無かった事が気にかかる。

 単に運動会か何かの代休だったのだろうが、もしかしたら、久々に郷里に戻った私に昔の中学校時代の郷愁を思い起こさせてくれるがために、校舎が静寂を保っていてくれていたのかもしれない気もする。

山林置き去り奇跡生還少年の生命力の強靭さに感動!

2016年06月07日 | 時事論評
 皆様、1週間程ご無沙汰致しました。
 本日より、エッセイ執筆を再開します。

 留守中旅先の宿泊ホテルや郷里の実家にてテレビニュースは垣間見たものの、新聞に目を通す暇もない程のハードスケジュールに苛まれた私は、帰宅後初めて表題のニュースに触れた。

 1週間程前に綴ったエッセイ 「“しつけ”と称して山林に置き去りにされた少年の無事を祈る」 内の最後に、私は次なる記述をしている。

  大和君が元気な姿で見つかる事を、心より祈っているよ。

 まさかこれが現実になるとは、記載した当時は思い及びもしなかったのが正直なところだ。 絶望感と共に私は旅に出た。 
 そして、帰宅後この我が願いが現実になった奇跡に驚くと同時に、少年の類稀な生命力に感無量の思いである。


 本日少年は退院予定と見聞しているが、少年が数日を過ごした発見場所である自衛隊演習場へ辿り着いた道程に関しては不明のままだそうだ。

 その約10キロの道程を予想して、実際に歩いたレポートがネット上に公開されていたため、その一部を以下に紹介しよう。
 約10キロの道のりは、うっそうとした草木に覆われていた。北海道鹿部町の自衛隊演習場内の施設で、6日ぶりに発見された北斗市追分4の小学2年、田野岡大和さん(7)。 置き去りにされた場所から大和さんがたどったとみられるルートを記者が日中と夕方の2回歩くと、わずか7歳の男の子の生命力に改めて驚かされた。
 男の子が置き去りにされた林の奥は薄暗い。ヒグマが出没する恐れもあり、1人だとヒヤリとするだろう。林道の幅は約3メートル。砂利道になっており、最初は電柱や看板もあるが、徐々に山深くなり、人けがなくなっていく。
 記者は日中、地図を持って歩いた。 なだらかな上り道を約1時間行っても景色は変わらない。男性2人組とすれ違った。報道関係者のようだ。この先に案内板があり、右に曲がると演習場の方向という。 
 夕暮れ迫る中、田野岡大和さんがたどった可能性のある道を歩き、自衛隊演習場の境界に…   だが、すぐに道がなくなってしまった。 おかしいと思いながらも、獣道もない完全な林の中を約15分にわたって突き進んだ。不安になって引き返したが、今度は元の道に戻れない。 山林の中で方向感覚を失ったようだ。しばらくさまよい歩いていると、ようやく林道の砂利道が見えた。
 ちょっとでも判断を間違えば、遭難しかねない。 林道に戻って先に進むと、十字路に案内板を見つけた。 右が演習場の方向だ。 一転して下り坂になった林道を歩き、ようやく演習場にたどり着いた。迷った時間(約40分)を除くと、約1時間40分。疲労に耐えかね、膝が震えている。
 自衛隊の許可を取り、林道よりも少し広い演習場敷地内の道路に入った。 夜になれば、ホテルのネオンが遠くに見える。 大和さんはこの光を頼りに歩みを進めたのだろうか。
 約40分後、廠舎(しょうしゃ)と呼ばれる簡易宿泊施設に着いた。 施設内はひんやりしている。演習場内は入り組んでおり、施設に着くには運も必要と感じる。 大和さんのたどったルートはまだはっきりとしていないが、どの道を通っても肉体的にも精神的にも強くなければ歩ききれないはずだ。 野球好きだった大和さん。その強さを実感した。
 (以上、ネット情報より一部を引用。)


 引き続きネット情報より、大和君を山林に置き去りにした保護者に対する道警や児童相談所の対応に関する情報を引用する。
 北海道七飯町の山中で行方不明になり、6日ぶりに保護された北斗市の小学2年、田野岡大和さん(7)から、道警函館中央署は6日、「しつけ」として置き去りにされた状況や、その後の足取りなどについて事情を聴いた。
 父親らは一時置き去りにしたものの、すぐに現場に戻っており、保護責任者遺棄容疑などでの刑事責任は問えないと判断した。 大和さんは7日午後、入院先の函館市立函館病院を退院する。
 同署は病院の許可を受け、6日午前11時から約1時間、病院内で話を聴いた。 精神状態を考慮し、母親と医師が同席した。 取り乱すこともなく元気な様子で答えていたという。
 5月28日夕に行方が分からなくなった前後の状況は、両親の話と一致した。 道警は、父親がすぐ現場に戻っており、長時間置き去りにしたわけではないとし、連れ去りなど第三者の関与もないと断定した。
 大和さんは保護されるまでは誰にも会わず、施設の水道で水を飲み、夜は施設内のマットレスをかぶって寒さをしのいだ。 昼は周辺を歩き、上空をヘリが飛んでいることにも気づいたが、周囲に人の気配はなく名前を呼ぶ声も聞こえなかったという。
 一方、同署から3日に通告を受けた函館児童相談所は、両親や大和さんから話を聞き、必要と判断すれば両親へ指導する。
 (以上、同じくネットより保護者への対応に対する情報を引用したもの。)


 原左都子の私論に入ろう。

 まず、大和君の山林置き去られ後の行動に関して考察しよう。

 それ以前の課題だが、大和君が持って生まれている“特質性”に関して記載した情報がネット上にも散乱している模様だが、実は私もこの“特質性”に関して自分なりの憶測がある。
 (不正確な情報を発信するのは控えるべきと心得つつも)、大和君はもしかして「発達障害児」ではないか? とのネット上の書き込みに同意する私だ。 
 何故それを疑うのかに関しては、ご両親がドライブ旅行中に大和君が他人や車に石を投げる行為をした事に手を焼いたとの報道がある故だ。 注意を繰り返してもこれを止めない大和君に困り果てたご両親が、大和君をドライブ道中2度も置き去りにしたとの報道内容である。
 
 我が家に話を移せば、若干の不具合を抱えて産まれて来た娘の幼少時から7歳くらいまで「発達障害児研究所」にて支援・指導のお世話になっている身だ。
 その時に、大和君に似た暴力的多動性行動を取る男児(少数ながら女子も存在したが)を複数観察して来ている。 (参考のため、我が娘はまったく逆の寡黙症状を呈していたため当該研究所にて支援いただいたのだが。)
 まさに大和君のご両親の困惑の程が、この当時接した男児達が取った行動と重なるのだ。

 さてそうだとして大和君本人には何らの責任もないどころか、その特質を大事に育成したいとすら私は結論付ける。 
 注目するべきは、今回大和君が山林に置き去りにされた後に取った行動と彼の心理状態だ。 (海外メディアも、今回の大和君の生存快挙を取り上げている様子だが。)
 私が推測するに、大和君とは生まれ持って“怖れを知らない”子なのではないかとの思いがある。 もしこれが通常児であれば、置き去りにされた時点で“寂しい”“辛い”“怖い”なる感情が一番に湧き出た事であろう。 そしてこれらの感情こそが、自分の幼き命を縮める一番の要因となったであろうと想像する。
 ところが、大和君はそうではなかった。 おそらくその種のマイナス感情よりも、もしかしたら「冒険に出よう!」なる類稀な感情が先行したのではなかろうか?  このプラス感情こそが、大和君の6日間の生命を救ったと私は結論付けるのだが。
 
 そんな素晴らしい大和君の持って生まれた類稀な内的感情を、ご両親や教育機関が潰すことなく今後も大事にしながら育成して欲しいものだ。
 話が飛躍するが、かのアインシュタイン氏も7歳程の頃には家族や周囲から「変質者」と結論付けられていた事実に鑑みて、どうか、大和君の持つ生存力なる特異性をプラスの方向に育成して欲しいと私は願う。

 ここで我が娘に話を移すと、大和君程の力強さはないものの、寡黙過ぎる娘なりの(私にはない)絶対的な強さ(悪く言うと“鈍さ”)があり、それに気付き尊重しつつ育てて今に至っている。


 そして最後に、刑事責任の立件は免れたものの、児童相談所より指導対象となっている大和君の御両親にも、原左都子より一言応援のメッセージを贈りたい。

 もしも大和君を発達障害児と仮定した場合、7歳に至るまでの家庭内での指導教育はさぞや厳しく辛いものだったと想像する。
 今回の事件に関しても多方面よりバッシングを受け、御両親及び家族の皆さんが心身共に疲れ果てている事実を察して余りある。
 
 どうか今後は自治体児童相談所等の支援を受けつつ、大和君の特質・個性を潰すことなく尊重しながら、ご家族の皆さんが徐々に普通の日常を取り戻される事をお祈り申し上げます。

 (参考だが、両親が大和君を山林に置き去りにした事実を、原左都子としては“虐待”と結論付けている事には変わりはない。 今回の場合は大和君が奇跡的に生還したからこそ、両親は刑事責任を問われなかったのであろう。)