原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

笑われても一貫して引退宣言しないイチローを私は尊敬する

2016年06月18日 | 自己実現
 そもそも人を後ろ指さして笑う奴とは、笑われている張本人より数段馬鹿で愚かなのが世の常だ。
 

 6月15日(日本時間16日)、米大リーグ・マーリンズ・イチロー外野手(42歳)がピート・ローズ(元レッズ)の大リーグ通算最多4256安打を抜き、日米通算4257安打をマークした。
 1回の第1打席で捕安を放ち最多安打にあっさりと並ぶと、9回の第5打席では痛烈な右二塁打を放って一気に抜き去った。 
 メジャー通算安打も2979本とし、史上30人目のメジャー3000安打までは残り21本と迫っている。
 (以上、ネット情報より引用。)

 このニュースを受け後に記者会見に臨んだイチロー氏が発した言葉を要約すると、「笑われたこと 達成してきた」(朝日新聞より引用)。 (後に詳細を記す。)

 まさか、数々の歴史的大記録を42歳に至る現在まで現役選手として樹立し続けている 世紀の野球界スーパースター イチロー選手相手に、本気で後ろ指をさしてあざ笑う日本人はいないであろう事と想像する。
 この発言はあくまでもご本人の御謙遜であろうと察するが、スーパースターにしてのその低姿勢観点より自己を冷静に分析した偉業直後の発信に、感動に近い感覚を覚えた私だ。


 それでは、朝日新聞6月17日朝刊記事を参照しつつ、イチロー選手が日米通算4257安打達成後の会見にて発した“イチロー語録”を、原左都子なりにまとめて以下に紹介しよう。

 日米通算4257安打を達成した事に関しては、ここにゴールを設定したことがないので、そんなに大きな事との感覚はない。 チームメートやファンの方が祝福の反応をして下さるとすごく嬉しいのは事実で、これがないと何もない。
 ただ一方で、日米通算記録というところが難しい。 いつか、米でローズの記録を抜く選手が出て欲しいし、年間の試合数が少ない日本だけでローズの記録を抜く事を誰かにやって欲しい。おそらく一番難しい記録だと思うが。
 ヤンキーズの頃等、自分にとってはかなり難しい時期があったが、長い野球人生の中で少しは許して欲しいとも思う。 
 日米合算記録を否定する発言もあるが、自分としてはそういう発言がある方が面白い。 
 (50歳まで現役を通すのかとの記者の質問に対して)、 僕は子供の頃から人に笑われてきたことを常に達成して来ている、との自負がある。 例えば、子供の頃にも野球の練習ばかりしていて「あいつプロ野球選手にでもなるのか」といつも笑われていた。 常に笑われてきた歴史、悔しい歴史が僕の中にある。 これからもそれをクリアしていきたいとの思いはある。
 (以上、朝日新聞記事よりイチロー選手の記者会見内容の一部を引用。)


 ここで一旦、原左都子の私論に入ろう。

 日本が誇る世紀のスーパースターにして、偉業達成直後に、これ程正直に自己を語る人物が存在するであろうか?
 上記のイチロー氏による記者会見回答内容によれば、イチロー氏曰く「笑われた」時期とは、野球に没頭していた子供時代と、ヤンキーズ時代、そして今回の日米通算記録に対する米国内からの疑惑程度だろう。 ただ、それを自分自身の“痛み”と今尚胸の内に秘めているイチロー選手の心理状態こそが素晴らしのではなかろうか。 そんな(極端な表現をするなら)イチロー選手の内面に存在するコンプレックスこそが日頃より類稀な自己鍛錬を続けるイチロー氏の源のエネルギーとなり、42歳にして現役大リーグプレイヤーの立場で大記録を達成出来る根源パワーであろうと私は考察する。 


 話題をずらそう。

 世の(私に言わせてもらならば中途半端な)アスリート達とは、少し体力が衰え始めると高らかに「引退宣言」をするのが恒例となってしまっている。

 以下にそんな実態を批判した「原左都子エッセイ集」2015.8.8 バックナンバー 「フィギュアスケーターの引退宣言 必要ないと思う」 の一部を、今一度振り返らせていただこう。
 何と19歳の若さで、羽生結弦選手が「引退宣言」をしてしまった。
 これ、意地悪視点で考察すると、「僕ら(私ら)が引退する事を寂しく思うファンの皆さんにあらかじめ伝えておきたいのですが…」との、一種“特権力”を伴った潜在意識の下に執り行われる身勝手な儀式のように感じる。
 ところが、ファンではない国民にとっては所詮どうでもよい話だ。  にもかかわらず、特に五輪でメダルを取得した“一応”「大物」フィギュアスケーター氏達は、定例のようにこの儀式をやりたがる生き物、と私は理解している。
 ソチ五輪金メダリストである羽生結弦選手(20)曰く、「ソチで金メダルを取ってその次の五輪で取って終わって、そこからプロをやろうと、自分では小さい頃から決めていた」と語った。  23歳で迎える平昌五輪を集大成にすることについて、「自分がまだベストな状態の時にプロスケーターとしてありたい。 プロとしての仕事を全う出来る体力の状態でやりたいという気持ちがある」と話した。
片や浅田真央氏に話を移すと、真央氏は今後の競技活動についてソチ五輪後、「ハーフ・ハーフ」との回答をメディアを通して国民に伝えた。  その後しばらく彼女なりの休息を取った後、今春、再び国際大会に選手として出場する意思を表明した。
 これぞ、素晴らしい決断だったと私は高評価申し上げる。  女子ロシア勢の群を抜く快進撃等々の背景下に於いて、今後のフィギュアスケート競技界にて浅田真央氏が上位に君臨するには特に技術面に於いてクリアせねばならない課題が盛沢山であろう。 それでも、真央氏が自身の決断として今一度国際大会出場を狙う心情に至った事実こそを私は応援したい。
スポーツ界のみならず、一般人の世界にも様々な「引退劇場」が存在することであろう。  それを宣言した事で何らかの利益が本人にもたらされるのであろうか?? 
 私論として一番みっともなく捉えるのが、「引退します!」と高らかに掲げたはずの輩が、その世界に未練たらしくまた舞い戻って“鳴かず飛ばず”ならまだマシ、その多くは低迷状態ででうだうだ底辺を這いずずる姿である…。
 (以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーより一部を引用紹介した。)


 最後に、今一度、野球界スーパ-スター イチロー選手が 42歳に至るまで現役を続け長年に渡り達成し続けている「偉業」を褒め称えて、今回のエッセイの結論としよう。

 イチロー選手が過去に於いて「国民栄誉賞」を辞退した事実は、皆さんの記憶にもあろう。
 当時のイチロー氏による辞退理由発言とは、(僭越ながらも私が要約するに) 「まだまだ道半ば」 であったと記憶している。
 その後もイチロー選手は、当時の発言通りに世界記録を打ち立て続けている。
 こんなアスリートを、私は未だかつて見た事がない。

 どうか、イチロー選手ご自身が納得する時期に、今後政権が如何に移り行こうと国家は忘れずこの巨業を成し遂げ続けている偉大な人物こそに「国民栄誉賞」を授けて欲しいと、私は希望する。

高齢者介護施設の多様化と入居選択時の留意点

2016年06月16日 | 時事論評
 何ともセコい数々の政治資金疑惑にて都議会与野党より不信任決議案を提出され、昨日ようやっと辞職の意向を固めた舛添都知事。

 情報に寄れば、この舛添氏は約2年4か月前の都知事選立候補に際し、重点政策の一つとして高齢者介護等社会保障の充実をも掲げていたらしい。
 ところが最近の報道によれば、知事として任期期間中に、ただの一度も介護施設を訪問・視察していないと言う。


 私事に入るが、5月末~6月初旬にかけての我が郷里旅行の第一目的は、郷里に一人暮らしの実母を高齢者介護施設に入居させる段取りを整える事にあった。

 そのための事前準備より実際の郷里にての施設見学の道程に、それはそれは多大な時間を要した。
 郷里への出発前より暇を見つけてはネットや地元親戚筋より郷里の介護施設情報を収集したり、パンフレットの請求、メールや電話にての確認、そして見学の予約等々、出発前より慌ただしい日々を過ごした。
 郷里到着後は、実際に施設へ見学に出かけるのはもちろんの事、実母が住む自治体の母担当介護支援専門員氏のご意見を伺うために実家まで面談にお越しいただいたりと、在郷里中多忙な時間を費やした。

 そんな我が体験より改めて実感したのは、高齢者の介護とは、介護する側の人間こそが真に要介護高齢者の身になって行動を起こさねば事が成り立たないとの事実だ。
 机上の空論のみで「高齢者介護等社会保障を充実させる!」と高らかに公約した人物の、嘘さ加減と軽薄ぶりに今更ながら愕然とさせられる。 セコい政治資金疑惑に加え、その事実からも舛添氏は知事辞職するべきだと改めて感じている。
  

 さてそれでは、実際に私が郷里にて高齢者介護施設を見学した結果のレポートをしよう。

 私の場合、約5年程前より義母が都内の有料高齢者介護施設へ入居し、ほぼ3年半程前よりその保証人(身元引受人)を担当しているため、おそらく介護施設に関しては詳しい方ではないかと自覚していた。
 一部に関してはその通りなのだが、今回実母を入居させたい施設を見学した事により、多方面より新たな情報を得る事が叶った。

 まず、現行法上の高齢者介護施設には、要介護者の介護レベルに応じる形で多種の介護施設が存在する事を認識した。

 例えば、義母が住む「介護付き有料高齢者施設」とは、最高位(要介護5)の介護レベル者を受け入れる設備及び人材が整った施設であることが判明した。 義母の場合は要支援1段階より入居しているが、もしも要介護5にまで介護度が上がった暁にも、当該施設内ですべてを対応可能と見聞した。
 欠点としては、介護の手厚さ等の性質上、入居費用が高額とならざるを得ないことが挙げられよう。 ただこの施設に入居しておけば後に段階を経て介護レベルが上がろうが、施設を移転する必要がなく一生に渡りそこで暮らせるとの利点があろう。

 これに対し、「サービス付き高齢者向け住宅」なる介護施設がある。 ここは「住宅」の名の通り、高齢者が自力で住んで暮らす事を重点に置いた施設のようだ。
 介護度が低い場合(要支援1,2段階等)に於いては、部屋内に浴室もあれば台所設備もあり自由度が高い暮らしが保障されるであろう。
 ところが、落とし穴があると私は見抜いた。 高齢者とは、自己診断よりも傍から見た老化が上回っているものだ。
 我が実母もそれに該当するのだが、「こちらの施設が自分で好きに出来るからいい」と主張する。 「今はそうかもしれないけど、直ぐに足腰が立たなくなったらこの施設では暮らしていけないよ。 そうした場合、また更に高度な介護をしてくれる施設を見つけねばならない。 最初から生涯に渡り住める施設に入居しておいてくれた方が娘の私の手間が省けるのだけど。」

 参考のため付け加えておくと、「サービス付き高齢者向け住宅」と銘打っている施設の中には、入居者の介護レベルがたとえ「要介護5」まで上がろうが、最後の最後まで人的資源活用によりそれを支援する施設も存在する場合もある。
 今回私が郷里を訪れた際に、そんな施設を実際に見学させて頂いた。 施設長氏自らに施設内をご案内頂いたのだが、とにもかくにも現場の介護スタッフの皆様の対応が素晴らしい。 ご多忙中にもかかわらず、見学に訪れた私に、笑顔と挨拶を欠かさないのだ。  我が義母が暮らしている都内施設もその資本力故に設備が整っているのはもちろんのこと、人的対応も素晴らしいのだが、こんなド田舎(失礼!)にも、同様の施設が存在することに感銘を受けた。


 ただ、介護施設入居へ向けた一番の条件とは、やはり“入居者本人の意向”であろうと結論付ける。

 結果としては残念ながら、我が実母は地元自治体の母担当介護支援専門員氏が推奨する介護施設への入居を希望する事と相成った。
 少し気がかりなのは、その介護支援専門員氏なる人物が私よりもずっと若い世代である事だ。 いや、おそらく専門員としてのノウハウはわきまえておられる事であろう。 しかも半年に一度しか郷里の地を踏まない娘の私よりも、日頃よりずっと母との付き合いを長い期間実行して下さっている背後事実もあろうと想像する。

 そんな郷里の実母が選択した介護施設とは、地元の「サービス付き高齢者向け住宅」だ。
 その住宅内で、足腰弱って歩行力が衰えている実母がいつまでその自室のお風呂に自力で入れるのかが、正直言うと大いに気がかりだ。 更には、現在すでに夕食を宅配食に頼っている母が、いつまで本気でその住宅の台所に立ちたいと言うのだろうか…?? 
 最初から完全介護の「介護付き有料高齢者施設」へ入居して、大人しく施設の介護を享受してくれる方が、よほど遠方に住む娘にとっては子孝行なのに‥ 

 様々な懸念を抱きつつも、「今回〇子(私の事)が郷里の高齢者施設をいろいろと調べてくれ入居を進めてくれたお陰で、入居する気になった」と、母なりの御礼を言う姿を見るにつけ、やはり母の意向を尊重せんと志す私だ。

名画の百科事典的役割を果たす陶板美術館を行く -4-

2016年06月14日 | 旅行・グルメ
 (写真は、徳島県鳴門市に位置する大塚国際美術館の B3階 「フェルメールの部屋」に展示されている 「真珠の首飾りの少女」の陶板複製作品。)


 単に原左都子の趣味の問題かもしれないが、女性のポートレートを描いた歴史的大作のうち、今や、レオナルド・ダビンチ作 「モナリザ」を超越して絵画ファンに人気なのは、冒頭に掲げた フェルメール作 「真珠の首飾りの少女」ではなかろうか??

 早速、ネットより当該作品に関する情報を引用しよう。

 フェルメール作、『真珠の耳飾りの少女』(蘭: Het meisje met de parel, 英: Girl with a Pearl Earring)は、オランダの画家 ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer)の絵画であり、彼の代表作の一つ。 『青いターバンの少女』・『ターバンを巻いた少女』とも呼ばれ、オランダのデン・ハーグのマウリッツハイス美術館が所蔵する。 口元にかすかな笑みを称えるかのようにも見えるところから「北のモナ・リザ」「オランダのモナ・リザ」とも称される。
 
 制作されたのは、1665年もしくは1666年と推定されている。 フェルメールが33歳から34歳の頃で、画家として安定した技量を発揮しつつあった時期である。 この少女のモデルをフェルメールの娘マーリアであるとして1670年代とする意見もあるが、1670年代の彼の技法はこの絵と明らかに異なっているため、可能性は低い。 ただし、本作の構図は極めて単純で、少女の上半身が描かれているだけで他に年代を推定できるような物品や背景が無く、後で述べるように少女の特徴であるターバンも全くの異国の風俗で、オランダ社会のファッションの移ろいとは無縁であるなど時代から隔絶した趣が強く、1665年又は1666年という数字もあくまで推測の域を出ない。 その後、フェルメールは1675年に43歳で破産同然で死去したので、残された作品も競売にかけられるなどして散逸した。『真珠の耳飾りの少女』も、他の絵とともに1696年に競売された目録が残っている。

 その後1881年まで所有者は転々とした。 
 1881年にハーグのオークションにてわずか2ギルダー30セント(およそ1万円)でこの絵は購入された。 当時この絵は極めて汚れており、そうした低評価もやむを得なかった。  1882年には補修が行なわれ、1960年、1994年から96年にも補修されたが、1994年から2年間の修復は入念かつ徹底的に実施され、その結果、絵はフェルメールによって描かれた当時の状況に非常に近いものとなっている。 現在取引きされるなら、その価格は100億円とも150億円とも言われる。
 描かれた少女が誰かはわからないが、これは「肖像画」ではなく、「トローニー(tronie)」という独自の様式に分類される。 モデルなしに想像で描いたものか、実際にモデルはいても、肖像画のようにその人物の地位や名声を表面に押し出す必要がない、そのため画家が自由に描く事ができるものである。
 1994年からの補修によって、少女の唇の左端(画面で見ると右端)に白のハイライトがある事、また唇の中央部にも小さな白いハイライトがあるのも明らかになった。 これらは、唇の濡れた感じを示す効果がある。 口元は少し開き加減で、鑑賞者には何かを言いたそうに見え、また微笑しているようにも感じられ、いずれも強い印象を与え、想像力を刺激される。
 『モナ・リザ』にたとえられる所以である。

 (以上、ネット情報より幾つかをまとめて要約引用したもの。)


 我が郷里の大塚国際美術館を訪れた感想でも、「モナリザ」よりも、フェルメール作 「真珠の耳飾りの少女」の方が、よほど人気が高かった印象がある。
 その我が判断基準とは、単にどちらの写真を映す観覧者が多かったのかに他ならいのだが…。 (参考のため、当該陶板美術館では写真撮影が可能です。)
 
 最後に美術素人の原左都子の感想を述べるならば、正直言ってデブったおばさんに見える「モナリザ」よりも、確かに若くて美女の「真珠の耳飾りの少女」に軍配を上げたい思いだ!

 芸術玄人(くろうと)の人達にも “うんちく” ばかり垂れていないで、本心どちらの絵画が好きかを正直に暴露して欲しいものだなあ~~。

名画の百科事典的役割を果たす陶板美術館を行く -3-

2016年06月13日 | 旅行・グルメ
 (写真は、徳島県鳴門市に位置する大塚国際美術館 B2階の外庭 モネの「大睡蓮」 にて撮影したもの。)


 前回のエッセイにて紹介した“まずかったランチ”のお口直しに、今度こそは“美しい庭園”の話題に移ろう。

 モネの「大睡蓮」と銘打つ当該美術館の外庭が、はてさて、モネの傑作を再現できているか否かはともかく、確かにこの庭は美しい。
 
 大きな楕円形の外周を「池」と見立て、実際に睡蓮を池内に生育させているようだ。 
 この時期の睡蓮とは上記写真のごとく、小さい花が咲き始める頃なのだろうか?

 それを知りたく思い、先程睡蓮に関するネット情報を検索したところ、以下の記述が見つかった。
 睡蓮は水位が安定している池などに生息し、地下茎から長い茎を伸ばし、水面に葉や花を浮かべる。 葉は円形から広楕円形で円の中心付近に葉柄が着き、その部分に深い切れ込みが入る。 葉の表面に強い撥水性はない。 多くの植物では気孔は葉の裏側にあるが、スイレンでは葉の表側に分布する。 根茎から直接伸びる花柄の先端に直径5-10cmほどの花をつける。

 なるほど。 睡蓮の花とは大きくて直径5~10㎝程度なのだ。 
 と言うことは、私が6月初旬に大塚美術館の外池にて観察した睡蓮の花も、既に立派に咲いた成花だったのかもしれない。
 睡蓮と蓮のイメージがダブる私は、この花がもっと大きく立派に育つのかと勘違いし、その時期にこの池を今一度訪れたいと志したのは誤りだったようだ。


 ここで、クロード・モネ氏が連作した「睡蓮」に関する情報の一部をウィキペディアより紹介しよう。

 「光の画家」と呼ばれたモネは、同じモチーフを異なった時間、異なった光線の下で描いた連作を数多く制作した。 もっとも作品数が多く、モネの代名詞ともなっているのが1890年代終わりから描きはじめた『睡蓮』の連作である。 『睡蓮』はジヴェルニーの自宅の庭にある睡蓮の池をモチーフに、1899年から1926年に亡くなるまでの間に全部で200点以上制作されている。
 1893年には自宅の土地を買い増して池を造り、1901年にはエプト川の水を引き込んで池を拡張した。しばしば絵のモチーフになっている日本風の橋は1895年に造ったものである。 本格的にこのテーマに取り組むのは1899年からである。 同年から翌1900年にかけて、睡蓮と日本風の橋とをテーマとした連作を手がけ、18点が制作された。 1900年頃からの晩年には他の絵はあまり描かなくなり、もっぱら『睡蓮』に傾注した。
 その後、1909年から1913年頃までは視力の悪化のため、あまり制作をしていない。 この間、1911年5月には2番目の妻アリスが病死。実子のジャンも1914年に没した。
 1914年頃から制作を再開。 縦1メートル、横2メートル、あるいはそれ以上の大キャンヴァスにもっぱら描くようになる。 視力が悪くても大画面に描き、遠くから眺めれば何とか制作できることがわかったからである。 最晩年の「日本の橋」や「バラの小道」をテーマとした作品群はほとんど抽象に近づいている。
 (以上、ウィキペディア情報より一部を引用したもの。)


 画家 クロード・モネ氏が自宅の庭に睡蓮の池を作り、亡くなるまでの30年程の期間 視力の衰えにもかかわらず「睡蓮」画制作に傾注したとのことだ。 晩年に近い頃には大キャンヴァスに睡蓮を描いたとのエピソードは驚くばかりだ。
 それ程までに、人生後半を「睡蓮」に捧げ、それを愛し続けた画家の人生は賞賛されるべきだろう。


 このモネの「大睡蓮」の外庭が美しいと判断する、もう一つの原左都子なりの評価を語ろう。

 大塚国際美術館とは、国立公園「鳴門公園」内に存在している。 そうだとすると、自ずとその鳴門公園の恩恵に与っている事も確かだ。
 まさにその通り、この「大睡蓮」の庭から瀬戸内海に位置する鳴門の海が展望出来るのだ。 両者がコラボレートした風景とは絶景に間違いなかった。

 その風景を展望出来る事自体が、名画を超えた真の芸術であろうと評価する。

 徳島県鳴門市出身の(郷里嫌いの天邪鬼)原左都子としても、そんな風景に私なりに納得出来た事が、今回の旅の醍醐味でもあった事実を一応認めておこう。

名画の百科事典的役割を果たす陶板美術館を行く -2-

2016年06月13日 | 旅行・グルメ
 (写真は、徳島県鳴門市に位置する大塚国際美術館のガーデンレストランにて食した 「モネのランチ」のメインディッシュを撮影したもの。)


 大塚美術館公式サイトがネット上にて公開している、当該「モネのランチ」に関して引用しよう。
 
 4月~9月まで
 モネのランチ (ガーデンランチ) 1,000円

 柔らか玉ねぎのスイレン仕立て
 チキンパテと甘いブラウンソース
 小さなタルトのキッシュを添えて 

 モネが描いた睡蓮をお皿の上で表現しました。
 国内産の鶏ミンチを使ったパテと玉ねぎを使った甘いデミグラスソースの相性は抜群!
 きれいに花咲く玉ねぎの睡蓮がかわいい一皿です。
 絵画の鑑賞とともにお楽しみください。

 (以上、ネット情報より引用。)


 さて、大塚美術館を訪れた私だが、郷里出身者として何度も当美術館を訪れている立場で正直に言うなら、美術館周辺には歩いて行ける近場に何らのレストラン等食事処がない。
 しかも当該美術館が大規模であるが故に観賞所用時間が長時間となり、ほとんどの観光客は必然的に館内にてランチをとる運命となろう。

 今回私も美術館入館後早い時間帯にランチを食すために館内ガーデンレストランへと足を運んだのだが、既に長蛇の列だ。
 この長蛇の列のレストラン側の顧客のさばき方が、実に手際が悪い。
 都内レストランのごとくきちんと顧客を列に並ばせればよいのに、その対応がまったく出来ていない。  厳しい視線でこの待ち時間を過ごしていると、やはり観光客らしき人物が、「あの人が先に来ていた、どうのこうの…」と店員氏に指摘している。

 都会暮らしが長い我が目にも、何故巨大美術館のランチレストランにてこれ程の失態を繰り広げているのかとやきもきしつつ、様子を観察した。 
 まさに顧客を待たせる事に関して、大塚美術館レストランは今後に至る大きな課題を抱えていると言えるであろう。 是非共、顧客案内に関してスマートな対応が可能となるべく進化することを期待したいものだ。

 
 しかもしかも、どうしたんだ???。 この「モネランチ」のまずさ加減は!?!

 アイデア発想は認めるものの、これ程の低レベルランチを食するのは滅多に経験が出来ない程に、私の舌にはとんでもなくまずい!!!
 要するにパテとして固めたような冷凍品を皿に並べて用意しておき、レンジでチンして顧客に提供しているのであろう。 しかも混雑状況下において十分な時間が取れず、冷凍チンの時間すら短かったものとも推測するが、何とも中途半端に生温かく気持ち悪い。
 仕方なくご飯に塩をかけ、カボチャスープと思しきもの(これも決して美味でなく、おそらく冷凍ものであろう)を食したものの、モネランチメインディッシュは最大限頑張っても我が舌と体が半分程しか受け付けず、残す始末だ。
 言葉通りの“後味の悪さ”を引きずりつつ、このレストランを後にした。 

 私が過去に当該美術館へ訪れた時に食した「うどんと天ぷらセット」の方が、安価にしてよほど美味しかった記憶がある。
 もしも大塚美術館へ訪れる機会があれば、ランチの選択には要注意! とアドバイスしておこう。


 地元の高齢御婦人団体が、この美術館の当該レストランにて会食中の風景を見かけた。
 何でも、その主催者が医者の奥方であるようだ。 (徳島はとにかく医者が数多い医者大国だからねえ。諸産業が発展せずそれしか主要な地位がなかった時代に、私も地元の医学部にて教育を受けているのだが…。)
 で、どうしたんだ?? そのおばさん連中のうるささは!  自分は医者の奥方だから偉いんだと??  たとえ過疎地とてそんな事を大きな声で吹聴して威張っていられるのは、貴方程の年代が最後じゃないのかなあ??
 こんなまずいランチを食しつつ自分の優位性を誇っている場合ではない程に、世の中は移り変わっているよ。 痴話はもう少し小さい声でしようよ。 せっかくの美術空間が台無しにされそうだよ。

 いやはや、過疎地(の特に年寄り連中)とはとんでもなく偏った意識を今尚引きずっているものだ…
 なるマイナス感覚に苛まれ呆れ果てつつ、我が陶板美術館報告は次回へと続きます。