原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

正しい携帯電話の持たせ方

2008年07月08日 | 教育・学校
 小中学生に携帯電話を持たせることの是非について、世間では議論が白熱している。

 基本的には各家庭の教育方針や経済力等に合わせて保護者個々が判断すればよい問題であるにもかかわらず、各界の見識者までが登場してその是非につき喧々諤々と議論がなされている。

 例えば、少し前になるが朝日新聞6月15日付朝刊では、首相補佐官の山谷えり子氏、ソフトバンク社社長室長の嶋聡氏、青少年メディア研究協会理事長の下田博次氏がそれぞれの持論を展開している。
 山谷氏は小中学生が携帯電話を持つことに関して否定的立場を貫いている。出会い系サイトを通して性犯罪に巻き込まれたり、掲示板がいじめの温床になっている点を懸念し、また、“嫌われたくない”がための強迫観念を伴った友人同士のメールのやりとりは子どもにとって残酷な事態であるとする。そして、自我が未発達の小中学生はたとえ携帯の正しい使い方を教えても、きちんとコントロールが出来ないため、携帯から解放してあげることが肝要との意見を述べている。
 ソフトバンクの嶋氏はその立場上、さすがに全面肯定派だ。子どもにとって今や「読み・書き・携帯」の時代であり、携帯には様々な機能があって教育にも使える、小学生の早い時期から持たせた方がよい、とする。携帯が子どもの発達を阻害するという裏づけはない。有害サイトの遮断は年齢や子どもの成長に応じてきめ細かく自主的に整備することにより克服可能である。消費者の要望を大切にしてよりより商品を提供したい、としている。
 下田氏は、「インターネットのジャングル」に子どもを放り出す前に、政府や携帯電話会社が手を打たなかったことにつきまず批判している。すでにケータイを自由に使う楽しさを知ってしまった子どもに、今さらそれを禁止したり規制しても反発をくらうだけである、ケータイを持たせる前に①情報の良し悪しの判断力②有害情報や誘惑への自制力③ケータイを持つことの責任能力を子どもに教えることの必要性を主張している。


 それではここで、我が家の携帯事情について述べさせていただこう。

 私自身は2年程前まで携帯は“持たない主義”だった。携帯を持つことにより“ノルマ”が増えることを嫌ったのだ。かかわる必要のない人とはかかわらずに済ませたい、私にはそういう基本的思考が根底にあるため、外出先にまで電話を持ち歩く理由が見出せなかったのである。携帯を持っていないということはこの上なく自由であり便利であった。携帯番号やメールアドレスを教えてとせがまれても、ないものはないで済ませられた。 残念ながら、2年前にフランチャイズ自営にチャレンジした時にフランチャイズ元から強制的に携帯を持たされてしまい、現在に至っている。
 こんな私であるが、子どもには早いうち(小3の3学期)から携帯は持たせた。その目的は家庭内危機管理である。すなわち、子どもの外出時の安全確認のためだ。ただし学校へは持ち込み禁止(現在通っている中学校は制限付きで持ち込み可)であるため、それ以外の外出時にしか持たせられないのであるが。
 子どもに携帯を持たせた張本人である私が携帯を使った事がないのだから、その使い方について知る由もない。子どもは最初から家庭への電話連絡のみに携帯を利用し今に至っている。中学生になってから、友達とのメール交換によるコミュニケーションを私はむしろ奨励した。ただし、特段の用件がない場合は基本的に2往復までで終了すること、先にメールをした方から切り上げることを提案した。我が子の場合、山谷氏の言う“強迫観念”とは何ら縁もなく健全なメール交換がなされているようである。
 このように、子どもに携帯を至って“正当”に使用させている保護者として困惑するのは、学校が携帯の持込を禁止、あるいは制限している点である。これでは危機管理のために持たせている携帯が本来の役割を果たせないのだ。例えば、小学校時代によくあった事例であるが、学校で急に居残りになったりする。学校からはその旨の連絡が一切来ない。携帯を持たせられたなら本人から家庭にその旨一報入れれば事が済むのに、外が真っ暗になっても帰って来ない。こちらから学校に問い合わせればよいのだが、度重なると学校からうるさい保護者だと嫌われる。子どもが無事に帰宅するまで何時間も安否を気遣い気をもまされることになる。
 
 そもそも、携帯電話の当初の基本的機能は“連絡”であったはずだ。
 携帯を子どもに持たせ、子どもに外出時の非ルーチン事態を家庭に報告させることを習慣付け、危機管理を小さい頃から子どもに教え込むことは私は有意義であると考えた上での判断である。

 携帯電話が多機能化し、確かに世間では子ども達が“インターネットジャングル”に放り出され危険な状態ではある。だが、我が家のようにそういう事態に何ら縁がない家庭もある。その差はどこにあるのだろう? 家庭での携帯電話使用環境にあるのかもしれない。

 外出すると携帯に振り回されている大人を目にしない日はない。携帯を使いこなせない私は、何が面白くて四六時中携帯とにらめっこばかりして暮らしているのだろうと不思議で仕方がないのだが、そんな風景が家庭内でも繰り広げられているのだとすると、子どもがその真似をするのも致し方ない事であろう。

 子どもに携帯を持たせることの是非を議論する前に、大人が携帯電話の使い方を再考することの方が先決問題であるかもしれない。 
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デザイナー誕生!

2008年07月05日 | 芸術
 (写真は、印刷博物館「特別展」のパンフレット)

 先だって、東京都文京区にある「印刷博物館」を訪れた。
 この博物館は大手印刷会社に併設されている博物館なのだが、コミュニケーションメディアとしての印刷の価値や可能性を紹介することを目的に、印刷の過去、現在、未来をわかりやすく伝える展示を行っている。
 「デザイナー誕生:1950年代日本のグラフィック」と題する特別展に興味を持ち先日平日昼間に一人で訪れたが、展示物の前で熱心にメモをとるデザイナーを目指していると思しき若者団体等で結構混雑していた。(写真は、特別展のパンフレット)
 この博物館は入場料が安価な割には結構楽しめる。個人的にはもう少し空いているとより理想的だが、広い空間に印刷に関するユニークな展示が工夫されていて最後まで飽きない。

 特別展「デザイナー誕生…」は期待通り楽しめた。1950年代は、戦後とグラフィックデザイン史上最も躍動的な1960年代を結ぶ、戦後デザインの礎を築いた時代であるそうだ。その当時のポスター、新聞・雑誌広告、冊子、包装紙、パッケージ、書籍、関係資料等合わせて500点が展示されていた。
 日本のグラフィックデザインが世界的に認められた60年代の土台となった50年代、国内経済の再起をかける日本にとって、日本の復興と“メイド・イン・ジャパン”のイメージ向上のためのアピールとして、グラフィックデザインは積極的に欧米の手法を取り入れながら発展していった。(「特別展」パンフレットより要約)
 ちょうどその時代にこの世に生まれた私にとっては、どの作品や資料も遠き日のノスタルジアに駆られるような懐かしい展示ばかりだった。


 唐突な記事の展開となるが、ここから話がガラリと変わる点ご了承いただきたい。
 
 私は20代後半に工業デザイナーを職業とする男性と出逢った。この男性は本ブログの恋愛・男女関係バックナンバー「偶然の再会」で既に登場している。
 実はこの彼は私の数多い波乱万丈の恋愛遍歴史上、今尚一番充実したお付き合いができた実感がある人物だ。彼は、私の長~~い独身時代に私の方から積極的に結婚を願望し“赤い糸”を意識した唯一の男性でもあった。残念ながら彼の方に結婚願望が一切なかったため結婚は断念したが、私にとってお付き合いが一番長く続いた相手でもある。

 当時私は医学関係の仕事に励んでいた時期でありお互いの職種は全く異質なのだが、物事の考え方や価値観が非常によく似ていた。彼と会うと、とにかく話がはずんだ。喫茶店や居酒屋で何時間話し合ってもいつも時間が足りない位共感し合えた相手だった。
 彼は当時、製造業大手企業に工業デザイナーとして勤務していた。すばらしい業務経歴の持ち主で、彼がデザインした製品数点がグッドデザイン賞を受賞している。そのうちの一点である目覚まし時計を当時彼がプレゼントしてくれたが、この時計は今尚現役で活躍中で毎朝私を目覚めさせてくれている。 仕事の合間に個人的にもデザインに励み、新人デザイナーの登竜門と言われる銀座Mデパートのデザインコンペにも入賞し、入賞作品展を一緒に見に行った思い出もある。
 自分の工業デザイナーとしての職業をこよなく愛する彼は、会うといつもデザイナーが経済社会で果たす役割について熱く語っていた。新製品開発をデザインによって牽引し、新しい時代の創造を率先して果たすのがデザイナーの役割だと教えてくれた。そのためには好奇心旺盛に様々な分野の事象に興味関心を持ち、情報収集し知識を得て、常に研ぎ澄まされた感性を磨く必要があるとも語り、それを実行している人だった。分野が全く違う私の話にも興味を持っていつも真剣に聞いている人だった。そんな彼の瞳はいつもキラキラと輝き、遠い未来を確かな目で見つめているように私には映った。
 一方で感性が豊かで繊細で情が深く、とても優しいハートの持ち主でもあった。
 
 そんな彼にも悩みがあった。企業という狭い枠の中でデザイナーが果たせる役割には限界があり、加えて専門性が高い割には報酬が見合わないことを嘆いていた。そして、その後彼は敢えて危険を覚悟でフリーを目指す道を歩むことになる。 私が恋愛の対象として彼とお付き合いをしたのは、彼がフリーになった直後あたりまでだ。
 その後もこの彼とは友人としてのお付き合いが続くのだが、彼はフリーとして成功し、デザイン界において輝かしい業績を残している。 彼がデザインした商品が何点もヒット商品となり市場に出回っている。
 最後に彼に会ったのは彼との出逢いから約10年後、お互いにまだ独身で私が見合い結婚をする直前頃だった。 “もし結婚することになったらお互いに知らせようね。”と約束したきり、私は結婚したことを彼には知らせられないまま現在に至っている。 

 彼は後々の私の人生にまで大きな足跡を残している。
 私が医学の道を一旦退き30歳にして新たな学問を目指したのも、彼の影響力によるところが大きい。
 それ以来、彼以上の相手にめぐり合えなかったために私は恋愛結婚は諦め、見合い結婚に至ったとも言える。
 素人の私がよく分からないなりに芸術分野を好んでいるのも、まさに彼の影響力である部分が大きい。

 彼は今、どうしているのだろう。さらにビッグになってデザイン界で今尚活躍しているのであろうか。
 
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歩く楽しさ

2008年07月03日 | 医学・医療・介護
 手前味噌な話題で恐縮ではあるが、先日我が身内が、所属する職場で社長賞を受賞し表彰された。(写真はその表彰状)
 身内は物理学の研究者なのであるが、現在民間企業の研究所に所属している。この度の受賞は「歩行アシスト」の共同研究によるもので、身内は5年程前からこの研究に携わっていたらしい。(家では仕事の話をほとんどしないため、私はこの表彰状を見るまで知らなかったのであるが…。)
 1年程前から体調を崩し自宅療養も経験し現在も通院中の身で、家庭では現在影が薄い存在の身内であるのだが、そんな余力がまだあったのか!!と私と娘は久々の快挙に驚かされた次第である。


 「歩行アシスト」とは何なのか。各種資料を参照しつつ私が理解できる範囲内で説明してみよう。

 ホンダは、高齢者の歩行機会を増加させ活動範囲の拡大を支援しようという目的で、1999年から「装着型歩行アシスト」の研究開発を進めてきた。
 この「装着型歩行アシスト」とは、脚力が低下した人の歩行をサポートするために、腰や太ももの周りに装着し、人の動きに合わせて電動モーターで歩行に必要な力を補助する装置である。二足歩行ロボット「ASIMO」の開発で培った制御技術等が活かされており、介護やリハビリ現場での実用化を目指している。
 ホンダは昨年、この「歩行アシスト」を東京ビッグサイトで開催された「国際福祉機器展2007」に参考出品したところ、ブースの片隅に展示した製品だったにもかかわらず来場者の間で大反響を呼ぶに至った。
 現在では、開発当初に比し重量が10分の1まで軽量化され、装着しても違和感がなく、長距離でも楽に歩けるようになっているとのことである。
 先日6月30日の報道によると、ホンダはこの「歩行アシスト」の効果を実際のリハビリ現場で検証する試験を埼玉県内の病院と共同で始めると発表したそうだ。同病院でリハビリに取り組む患者のうち希望者の訓練メニューにこの「歩行アシスト」を取り入れ、患者や医師等の声を聞きながらその使い勝手や治療効果等が検証されていくことになる。
 そして「歩行アシスト」はさらにブラッシュアップされ、近い将来市場に出回ることになるであろう。


 “歩く”という動作は人間にとって至って基本的な機能である。特に健康な人にとっては気軽にできる行為でもある。

 実は私の現在の一番の健康法は“歩く”ことである。2年程前に車に乗ることをやめて以来、私はどこに行くにも電車等の乗り物を利用し、そして歩いている。“歩く”という行為は何の道具も必要とせず、買い物等所用のついでにでき、また人や環境にも優しい。当ブログのバックナンバー「徒歩生活のススメ」においても既述しているが、一旦この徒歩生活に慣れると車や自転車生活がかえって不便なようにすら感じる。車線変更で神経を擦り減らすこともなく、後続車にクラクションを鳴らされてイラつくこともなく、また駐車場を探して右往左往する必要もない。
 昨日も電車にての外出時に、ちょうど運悪く人身事故による電車の運転見合わせに出くわした。日頃歩き慣れていると、そういう時に「ならば、歩いて帰ろう」という発想がすぐ出るのだ。人でごった返している駅でいつ運転再開するかもわからない電車をイライラしながら待つよりも、歩いた方が精神衛生上もいい。(距離にもよるが2、3駅なら歩こうかと思う。)

 ただし、これは健康で足腰が丈夫であってこそ実行できることである。いつ何時どのような障害に見舞われるかは、人間誰しも予想できないことである。
 そんな時に、「歩行アシスト」は力強い味方となってくれることであろう。


 我が身内がその研究開発に携わったから言う訳ではないし、時代の要請や企業のイメージアップのパフォーマンス的な意味合いもあろう。
 そのような背景の下、自動車製造を主業とする大手企業が、その技術力を活かして弱者救済の観点からこのような商品開発に着手しているその発想の転換力に、私はとりあえず拍手を贈ろうかと考えるのである。
 
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学校に電話連絡網は要らない。

2008年07月01日 | 教育・学校
 冒頭から私論の結論を述べる。
 個人情報保護に関する議論は、他人の個人情報を勝手にバラまいてその利益を享受する強者の論理を優先するのではなく、個人情報を承諾なくバラまかれて損害を被る弱者の論理で語られるべきである。
 個人情報をバラまく側の強者の立場から、安易に個人情報の“過剰反応”批判を展開するべきではない。


 本日7月1日(火)の読売新聞の個人情報保護法に関する報道を今朝インターネット上で見つけた。
 この記事は「個人情報保護法の過剰反応、自治体半数“まだある”…内閣府調査」という表題で、市民の個人情報をバラまく側の強者である公的機関側の言い分を報道したものである。
 以前より、個人情報をバラまかれる立場の弱者側の個人情報保護法への“過剰反応”に関しては、公的機関側が指摘し続けていることは私も把握している。
 公的機関がこれを語るにおいていつも引き合いに出すのが学校の「緊急電話連絡網」である。

 まず、上記の読売新聞の記事内容を以下に要約する。
 2005年の個人情報保護法の全面施行以降、必要な情報まで提供されなくなり、学校の緊急連絡網が作れないなどの事態を招いた「過剰反応」問題で、47都道府県のうち半数近くの22自治体が、まだ「過剰反応がある」と感じていることが、内閣府の調査で分かった。……過剰反応が根強く残っていることが明らかになった…。


 学校における緊急電話連絡網に関しては本ブログの昨年10月の教育・学校カテゴリーバックナンバー「個人情報保護法と学校の緊急電話連絡網」において既述している。 
 ここで再度、上記バックナンバーで主張した私論をまとめてみよう。

 現在の学校の諸制度や諸手続きにおいて保護者にとってもっとも厄介な存在なのが「緊急電話連絡網」である。
 個人情報保護法が施行されて以降は、学校もようやくその運用において細心の注意を払い始めた様子であるが、それ以前はバラまきっ放しの野放し状態で、その濫用、悪用には閉口するばかりであった。PTA役員からの濫用、保護者からのセールスや宗教団体への勧誘等の悪用、担任教員からの自分の業務上のミスのカバー目的の濫用、外部名簿会社への連絡網の高額売却(横流し)を通じての外部組織からのひっきりなしのセールス、等々…、学校の緊急電話連絡網の濫用、悪用の例を挙げればきりがない。

 私は学校における緊急電話連絡網の存在自体を全面否定している訳ではない。正しい目的でこの連絡網を通して保護者の元に緊急連絡がなされるならば、大いに活用していただきたいものである。
 ところが、どうも学校側さえもが“緊急連絡”の意味を取り違えているものと察するのだ。この緊急連絡網を通して学校から来る連絡と言えば、運動会の雨天による中止くらいである。これは緊急連絡とは言わない。単なる伝達事項である。単なる伝達事項に関しては情報伝達手段が多様化している今の時代、緊急連絡網を使用せずとて、その伝達手段はいくらでも存在するはずである。
 本来の意味での緊急連絡とは、児童生徒が在校時に、天災地変、事件事故等その名の通り“緊急”時、すなわち“児童生徒の身に危険が及んだ時”に学校の最高責任者である学校長の責任において発令されるべき性質のものであるはずだ。これが濫用、悪用ばかりされ“狼少年物語”と化し、救うべき時に子どもの生命が救えないような事態となってしまうことを私は大いに憂えるのである。

 このように、学校における緊急電話連絡網とは子どもにとっての命綱としてのみ使用されるべきである。にもかかわらず、濫用、悪用の多い実態と、本来の目的で使用されていない実態を鑑みて、私は現状のような中途半端な「緊急連絡網」ならば不要であると以前より主張しているのである。おそらく保護者の皆さん、私と同じ思いではなかろうか。 決して保護者は個人情報保護に“過剰反応”をしている訳ではないことを、学校や自治体は少しはお分かりいただけたであろうか。
 (さらに付け加えさせていただくと、生徒側の個人情報は連絡網という形で保護者の承諾の有無にかかわらず当然のことのようにバラまくのに、教員側の個人情報は一切非公開とする例も私は何度も経験している。学校側はあまりにも身勝手としか言いようがない。)

 学校や自治体側は「緊急電話連絡網」が作れないことに関して、単純に個人情報保護法の“過剰反応”として保護者のせいにして責任逃れをするのではなく、個人情報がぎっしりと詰まった「緊急連絡網」を無責任にバラまいた後の濫用、悪用の実態、それによる保護者の日常の迷惑、苦悩の程を一度調査、把握してみてはいかがか。
 安易に保護者を批判するのではなく、今後の学校における「緊急電話連絡網」のあり方を問い直し、自らの「緊急連絡網」に対する管理責任を全うし、真に児童生徒の安全を守るために機能する「緊急連絡網」を創り上げていくことが先決問題であろう。 
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