原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

ノンフィクションの限界

2008年07月19日 | その他オピニオン
 たかがブログ、されどブログ……

 この書き出しで開設した本ブログも11ヶ月目に入り、記事本数は160本を超えている。

 ブログとはこのようにネット上で公開されるHPである。すなわち“公開性”をその使命として背負っている。 我がブログもこの“公開性”を常に意識しつつ綴っている。
 
 では、ブログにおける公開性とは何であるのか。
 それは、社会性であり、公共性であると考える。 不特定多数の人々が閲覧、訪問する可能性のあるブログは、たとえその内容が個人的日記、記録であれ、ある程度の社会性、公共性を伴っているべきであると私は常々考えている。
 たまに、自分が綴りたいから綴っているだけで人が読むことは想定していない、とおっしゃるブロガーもいるようだが、そういう趣旨の純粋な日記である場合、自分のパソコンの文書作成のページにでも綴れば済みそうなものだ。が、あえてブログという形式を選択しているのは、潜在的に“公開”を意識しているものと受け取れる。その場合、やはりある程度の社会性、公共性を意識するべきかと私は考える。

 ただ、ブログは“報道”ではない。あくまでも個人的な趣味の範囲の読み物(書き物)である。“報道”と“単なる読み物”との違いは、社会性、公共性の強さ、すなわち負っている社会的責任の差にあると捉えらることができる。
 “報道”をその業務内容とし営業収益をあげているマスメディアに報道内容の誤りがあっては決して許されない。消費者に正確な情報を提供し続ける使命をマスメディアは常に担っている。

 一方、ブログはどうか?
 ブログとは一般市民が営利目的ではなく、たかだか個人の趣味で綴る単なる読み物である。(アフィリエイト目的のブログも多いが、それはブログとしては分野がまったく異質である。) 単なる読み物であれども、ブログの公開性を鑑みると個人の責任において情報の正確さに配慮がなされるべきではある。が、個人が持てる能力の範囲内での正確さの確保には限界もあれば、ブログに完全無欠の正確性を要求する読者も少数であろう。


 私のブログの趣旨は種々の社会問題に対する自己のオピニオンの公開にある。そして、公開したオピニオンに対して読者の皆さんからコメントを頂戴し、コメント欄で記事のテーマ毎に読者の方々と共に更なる議論を展開していくという形式を取らせていただいている。

 このように当ブログでは自己のオピニオンをエッセイという形で綴っている訳であるが、元を正せば、エッセイとはノンフィクション分野の読み物というのがその定義である。さらにノンフィクションとは虚構を交えずに事実のみを伝えるのが本来のあるべき姿なのだが、私のブログにおいては、あえて事実(特に人物像に関して)の一部をデフォルメして自己の主張を強調する等の操作を意識的に行なう事が間々ある。この操作は、記事のストーリー性の確保や読み物としての面白さ等、記事のバージョンアップを狙う目的で意図的に行なう場合もある。

 このような当ブログの意識的、意図的操作に関して、読者の方々よりご意見を頂戴することがしばしばある。事実を歪曲して伝えているのではないか、オピニオンが極端である、等々の…。 その場合、自己のブログの方針を説明申し上げ、ご理解を頂戴している。
 実は、この種の意見をいただく事は、当エッセイの著者である私としてはうれしい一面でもある。なぜならば、この種のご意見の根底には当ブログを単なる読み物を超えた一種“報道”的な存在として捉えて下さったり、ある意味で“普遍性”を見出して下さっているようなニュアンスが感じられるからである。(私の単なる勘違いか? そうだよね……。 失礼致しました…)

 またある時は知り合いの読者の方から、記事の中で批判の対象として登場している人物は自分ではないか、とのご質問や苦情を頂戴することもある。
 これに関しては、まったく“No.”である。当ブログの趣旨は社会問題等に関するオピニオンの公開であり、個人攻撃については一切その範疇としていないからである。オピニオンを述べるにあたり、事例として個人の話を持ち出すことはあるが、この個人とて上記の通り一部をデフォルメしている。モデルとなる人物が実際に存在する場合が多々あるのは事実だが、記事のオピニオン展開上取り扱い易いように相当アレンジさせていただいたり、その人物の一面のみをピックアップさせていただいている。
 という訳で、私のブログの場合、実在する人物の全人格的存在がオピニオンの対象となることはあり得ない。人は皆魅力的な存在であり、例えば私のブログでオピニオンの対象として登場していただいた人物が、現実生活上では実は好意を持たせていただいていたり、尊敬させていただいている人物であったりもする。

 この現実とブログ上でのミスマッチ現象は、ノンフィクションのエッセイという立場を取る場合は特に、文章表現の世界の限界とも言えるのではなかろうか。


 要するに、ブログとは“公開性”をその使命としているため、社会性や公共性をある程度意識しつつ綴るべき書き物(読み物)ではあるが、マスメディアのような“報道”とはまったく異質の存在であり、ブロガー個人の自由度がその魅力なのではないかと私は考えるのだ。
 当ブログはノンフィクション分野のエッセイであるのだが、そこには一部フィクション要素も含まれていることをお含み置き下さった上で楽しんでいただけたなら、また一味違う側面も発見していただけるのかもしれない。
  これからも   ! !   
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