原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

絶対音感のなせる業

2008年07月18日 | 音楽
 一昔前に「絶対音感」なる言葉が流行した。

 この「絶対音感」の意味をご存知ない方のために以下に簡単に説明しよう。
 絶対音感とは、十二平均律を基準とする限りでの音の高さに対する“絶対”感覚のことである。ある程度、音楽を学習したり体験した者は2音間の高さの違いの大きさ(音程)に対して一定の感覚を保持することができるが、これを「音感」という。一般には「音感」とは一方の音に比べて他方の音が高いか低いかという相対的な音感のことをさす。これに対して音の高さに対する直接的な認識力を持つ場合、特に「絶対音感」と呼ぶ。一般人の間では、「絶対音感」は音の高さを言い当てる能力の意味合いでこの言葉が用いられている。
 3歳から5歳位の間に意識的に訓練をすると、この「絶対音感」をかなりの確率で身につけることができると言われている。
 (以上、ウィキペディアより引用、要約)


 さて、我が家の娘にはこの“絶対音感”がある。(あくまでも、上記で述べた一般人が言うところの“絶対音感”であるが。)
 私がそのことに気が付いたのは、娘が3歳の頃であった。食卓の上のお茶碗やお皿やコップを箸で叩きながら、「ド」だの、「ラ」だの、「ミ」だのと言って遊んでいるのだ。これは面白いぞ、と思った私は娘が見えない所でランダムにピアノの鍵盤を叩いて何の音かを言わせてみた。すべて大正解である。

 これには理由がある。やはり我が子が育った音楽環境がその背景にあろう。
 何分我が家は音楽好き一家で、私が子どもを産んだ直後から(いや、胎児の頃から)私も身内も音楽に親しんでいた。特に母親である私が歌を歌うことが大好きで、家に有線が備え付けだったこともあって、いつもそれを聴いて歌いながら子どもをあやしていた。たまには子どもと一緒にピアノやエレクトーンを遊び道具にして弾いたり、打楽器を叩いたりもした。

 子どもが2歳になった時にヤマハの「おとのゆうえんち」(2歳児向けの音楽教室)へ連れて行った。ピアノを習わせたかったのだが、ヤマハの場合ピアノレッスンは4歳からとのことで、この音楽教室へ母娘で通った。
 この教室では、通っている親子何組かで歌ったり踊ったり簡単な打楽器等を演奏したり、先生の生演奏やCDの演奏を聞いたりしながら音楽に触れながら遊ぶのであるが、これがなかなか楽しいひとときだった。(別にヤマハの回し者ではありません。) この教室の影響力も大きかったと思われる。家でもCDに合わせて親子でよく歌って踊って楽しんだものだ。
 そんなこんなで、我が子は4歳のピアノレッスンを始める前に既に“絶対音感”が身についていたようである。

 ところが、音楽に精通されている方はよくご存知であろうが、“絶対音感”があるからと言って、それがどうした!  という話の展開に必然的になってしまう…。 当然ながら、音楽でも何でもその道を極めていくためにはやはり“総合力”が要求されるという事態とまもなく直面するのである。

 結局、娘は小学校3年まででピアノを辞めることになる。音楽を聴く耳に恵まれ、加えて真面目な努力家でもあるのだが、残念ながら、どうしても指先の不器用さが災いして指がピアノを弾きこなせないのだ。たとえ趣味の範囲とは言え、あまりにも先の見通しがたたないため、こんなことにばかり労力を消費させるのも時間の無駄…、との親の私の判断でこの時点でピアノはきっぱりと断念させることにした。


 ただ、娘は中学生である現在もなお、音楽好きであることには変わりない。
 近年の楽しみは専ら母娘デュエットだ。娘に“絶対音感”があるお陰で、楽曲の聴き取り能力がやはり凄いのだ。1、2回聴かせるだけで副旋律を聴き取って歌ってくれる。
 例えば、昨年のNHK紅白歌合戦で“あみん”が「待つわ」を歌ったが、あれを一回聴いて副旋律をほぼマスターした娘は、私が何度か繰り返して主旋律を歌うとそれに合わせてハモッてくれるのだ。今や二人のデュエット持ち歌No.1である。 ベッツイ&クリスの「白い色は恋人の色」や、狩人の「あずさ2号」等々も二人の持ち歌である。今度、母娘デュエットコンサートでも開いてみたいものである??

 現在、娘は自主的にエレクトーンにもはまっている。私が若い頃愛用していた超レトロなマニュアル操作のエレクトーンにヘッドフォンをつけて、夜な夜な自主トレに励んでいる。エレクトーンの場合ピアノと違い左手の伴奏と左足のベースがコード進行のため、たとえ不器用でもピアノよりもずっと弾き易いためだ。しかも、スタンダードナンバー等の聴き慣れた楽曲がすぐにマスターできるのもエレクトーンの利点である。下手なりに、それなりのいっぱしの一曲として仕上がるのがエレクトーンの特徴であるため、達成感が得られ易いのだ。(繰り返しますが、ヤマハの回し者ではありません。)
 好きこそものの上手である。娘の今後の自主的な音楽活動を静観しよう。

 とにかく、“絶対音感”も捨てたものではない。 
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先生、落ち着きましょうか。

2008年07月16日 | 教育・学校
 我が家は公立小学校の目と鼻の先に位置している。
 この地に転入して以来、我が子も3年余りの期間お世話になった小学校であるため、元保護者として滅多な発言はできない立場にはある。が、あえて言うと学校からの日々の騒音は相当のものがある。
 周辺が低層住宅地で商業施設も近隣になく都会にしては閑静な環境であるため、学校の騒音ばかりが日々際立っている。我が家の場合集合住宅の上階であることも影響し、学校からの音の伝達を遮る物が何もないことも一因であると推測できるが、学校の日課の一部始終が毎日大音量で押し寄せてくる。

 学校においては児童生徒がその主役であるため、子どもの歓声や歌、楽器の演奏等に関してはもちろん受容可能である。
 そして、児童の日課管理のためのチャイムの音や児童への諸連絡放送に関しても常識的な内容に関しては許容範囲内である。

 そんな中、鼻に付く騒音は教員の行き過ぎた指導の叫び声や、教員の呼び出し放送等である。(ピンポンピンポ~ン♪「○○先生、お電話がかかっていますので職員室までお戻り下さい。」ピンポンピンポ~ン♪等々。)これが、日々多いのだ。学校には電話が3本位しか引かれていないため放送に頼らざるを得ないのかもしれないが、騒音を発しない代替の呼び出し手段はないものなのか。

 特にこの時期、毎年プール指導が行われるのであるが、プールが我が家側の屋外にあるため、メガフォンを使用しての指導の様子の開始から終了までの一部始終が手に取るように聞こえてくる。まるで、毎日一緒にプール指導を受け(させられ)ている気分だ。
 このプール指導の様子を聞いて(聞かされて)いると、指導者の個性や指導法が様々で興味深いものがある。
 笛の合図ひとつで、整然と淡々と指導を進めているらしき指導者。この場合、聞こえてくるのは笛と水しぶきの音だけだ。
 2時間中(プール指導は通常2時間のようだが)、児童がキャーキャー喜ぶ歓声しか聞こえない授業もある。(指導ではなく水遊びをさせているのか?)
 私が一番苦手な騒音は、2時間中ヒステリックに黄色い声で児童を怒り続ける指導者だ。すべての言葉が命令的で否定的である。「早くしなさい!」「そんなんじゃダメ!」「何やってるの、違うでしょ!」等々…。これは、端で聞いていても耐えられない。 子どもへの悪影響を考えると、「先生、ちょっと落ち着きましょうか?」とプールまで教員をなだめに行きたい衝動に駆られる。
  

 実は私が学校嫌いであったことは本ブログのバックナンバーで既に何度か触れている。今と異なり昔は不登校、登校拒否等の言葉すらなかった時代で、子どもは嫌でも何でも学校へ“行く”という選択肢しかなかった。この私も、真面目で律儀な性格も手伝って高校卒業まではほぼ皆勤賞で学校へ通っている。(大学は自主的にサボって有意義に遊んだけどね♪)

 なぜ私が学校嫌いだったのかと言うと、その一番の理由がこの教員の“ヒステリー”のせいである。
 私は小学校6年間と中学校2年時の担任が子持ちの40、50代位の女性(というより、まさに近所の“おばさん”と言った方が相応しいのだが…)だったのだが、この合計6名の女性教員が一人として例外なくヒステリックなのだ。学校へ行くと毎日毎日、朝から下校まで命令的で否定的な言葉を私たち生徒に投げつける。私自身は真面目な生徒だったため(?)直接怒鳴られたりすることはまずないのだが、感受性が強い私は周囲の生徒が怒られるのを端で聞くのが忍びないのだ。
 こういう教員はおそらく家庭でも自分の子どもをヒステリックに叱り飛ばしているのであろう。その延長線上で学校でも教員として同様の言動を取るのであろう。あるいは、個人的な欲求不満の憂さ晴らしであるかもしれない。自分よりも弱者で抵抗しない子どもを、無意識に欲求不満のはけ口としている恐れもある。
 私自身の母はお喋りではあるが、決してヒステリックではなかった。そして私は祖母のお世話にもなっているが、その祖母も毅然とした人物であったがこれまたヒステリックではなかった。という訳で私にはヒステリーに対する免疫力がなかったのであろう。学校に行くと(特に年少の頃ほど)毎日教員のヒステリーに怯えて身構えていたような記憶がある。


 子どもの指導に“ヒステリー”は無用である。これは学校のみならず家庭においてももちろん同様だ。ヒステリックな環境で育てられた子どもは自身もヒステリックに育つものである。近頃、無意味に奇声をあげる子どもが急増しているのは、周囲の大人の責任であろう。(先天的な要因である場合もあるが。)
 自分の感情を子どもに直接的にそのまま投げつけるのではなく、少し大人になって、自分の立場を客観視して、教育とは何なのか、指導とはどうあるべきなのか、一呼吸おいて冷静に考えてから子どもに接してはいかがか。


 今日も聞こえてくる。小学校のプールから、教員のヒステリックな怒鳴り声が…
 
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お嬢様のお母様??

2008年07月14日 | その他オピニオン
 私が高齢出産で子どもを産んだことについては、当ブログでも既に何度か公開している。

 近年、少子化現象や婚姻年齢の高齢化と共に出産年齢の高齢化が急激に進み、高齢出産はさほど珍しい事でもなくなりつつある。
 ところが私が高齢出産をした頃は、まだ“マル高出産”という一種差別的用語の残影があった頃で、いい年をした女が子どもを産む事(特に初産)に関して少し肩身の狭い思いを抱かされるような社会的認識がある時代であった。

 そういった社会的背景もあったためか、私は子どもにとって年老いた母である事に関して潜在的な“後ろめたさ”を背負わされているような感覚があった。(子どもがある程度大きくなっている現在では、そういう観念はすっかり消え去っているが。)

 例えば子どもの幼稚園入園や小学校入学の時に一番気になるのが、周囲のお母様方の“若さ”であった。
 当然ながら周囲は私よりも10も(下手をすると20も)若いお母様方であるため、皆さん若くて美しくてはつらつとしていらっしゃる。この私とて、元々童顔で外見が派手好みのため実年齢より相当若く見てもらえるのだが、それでも私本人にとってはその年齢差は手に取るようにわかる。肌のきめ細かさや動作、立ち振る舞いの機敏さ等、やはり年齢とは隠しようがないものだ。
 実際問題、私の知る限りでは、今までに我が子の同級生のお母様方の中で私より年上だった方は数える程であり、その皆さんにとって子どもさんは第2子、第3子…でいらっしゃった。
 子どもが中3になっている今現在、保護者でいらっしゃる母親の皆さんを学校で垣間見ると、それなりに年齢を重ねられている様子で、皆さん私より年上かと一瞬勘違いしたりもするのだが…。(お母様方、大変失礼申し上げました。)


 面白いエピソードがある。

 3年ほど前の話になるが、子どもの私立中学受験のための公開模試に付き添って受験会場の某私立中学へ行った。
 保護者は控え室で待機なのだが、この時保護者控え室の入り口で担当者が一人ひとりの保護者に尋ねるのだ。
 「お嬢様のお母様でいらっしゃいますか?」
 先にこの質問の真意から説明するが、この会場は女子中高であったため女の子の保護者のみに自校のパンフレットを配布しようとして、担当者は受験者である子どもが女子が男子かを確認したかっただけの話である。すなわち、この質問は「“お嬢様”…」の方にポイントがあったのだ。
 ところが、前述の後ろめたさをトラウマとして背負っている私は、血迷って「お嬢様の“お母様”…」の方にポイントを置いて聞き取ってしまったのだ!!
 (“お婆様”に見えてしまったか…。それにしても失礼な質問をする担当者だ…、なんて応えりゃいいんだ…、私は正真正銘「母」なんだから、「はい」でいいのか…。) と、一瞬うろたえる私……
 後ろも混んでいるし、複雑な心境で「はい」と答えてパンフレットを受け取った後で、この質問の真意に気づいたという事の次第である。


 などと話を展開してくると、私が年老いた母であることに相当のコンプレックスを背負っているように感じられるかもしれないが、どうかご心配なきように。

 年齢を重ねてから子どもを産んで育てる事は、実は子育て上メリットの方が大きいように感じつつ、私は日々子育てに臨んでいる。
 高齢出産の女性達と言うのは、私も含めて皆さん子どもを産むまでに職業経験を含め社会経験を既に長年積んできているものだ。そんな社会経験に裏付けられた自分自身の人格形成がある程度出来上がった後の出産、子育てとなる。人間としての“迷い”というものがあまりなく、親としての理念に自信を持った子育てが可能なのだ。しかも、自分自身の職業経験等で自ら積み重ねてきた社会的地位や経済力と言う後押しもあり、万が一の場合も他者に依存せずに子どもを育てていけるバックグラウンドもある。
 そういった立場の母として、人間としての自信は必ず子どもに伝わる。特に子どもにとっていつも身近にいる母親が確固とした存在であることは、この上なく安心でき信頼できる対象であるように子どもに感じてもらえているのではなかろうか。
 もちろん高齢出産の場合、体力不足や見た目の若さの喪失、そして、どうしても子どもと人生を共にする期間が短いというようなデメリットもあろう。(いや、今時、年老いた親などさっさと他界した方が子孝行かもしれない。)

 何はともあれ、歳の離れた子どもとのコミュニケーションを今は楽しもう。
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ゆうべ見た夢

2008年07月12日 | 雑記
 今年一番の猛暑のため普段にも増して頭の働きが悪いこんな日には、オピニオンはお休みして、ちょっと怖い夢も含めて夢の話で軽く流すことにしよう。

 私は高齢で子どもを産んで夜中の授乳習慣を経験した頃から不眠症気味となり、夜な夜な4、5本立てで夢を見ては夜中に何度も目が覚める。
 朝起きた時点でよく憶えている夢もあれば、夜中には憶えていたのに朝には記憶がない夢もある。おそらく皆さんも同様であろう。


 強烈に記憶にあるのはもう十年程前の話であるが、枕元を“ヤモリ”がはう夢だ。あれは夢というよりも幻覚に近かったかもしれない。その形といい動き方といいあまりにもリアルなヤモリだったため、私は飛び起きて行き先を確認した。隣でまだ幼い子どもが寝ていたため、子どもに害が及んでは大変と本能的に子どもを助けようとしたのだ。しかし“ヤモリ”の逃げ足は速く、行き先はわからない。怯えつつも布団に入った。朝起きた時点ではその“ヤモリ”のことはよく憶えているのだが、現実だったのか夢だったのかの判断がつかない。不思議なのは時間の経過と共にやはり夢だったと確信できてくることだ。
 同様に幻覚に近い夢は多数ある。部屋の中を多数の蝶が飛びまわったり、蜘蛛が部屋中に巣を張り巡らしたり、シャボン玉が膨らんでは消えまた膨らんでは消えたり…。すべて、時間が経てば夢だったことは判断がついている。

 音の夢も多い。
 子どもがまだ赤ちゃんの頃、どうしても隣の部屋で鈴のような音がする。ちょうど、赤ちゃんのおもちゃのガラガラを振っているような音だ。私は起き上がり勇気を出して隣室を見に行った。特に変わった様子はない。気のせいかと思い部屋に戻って布団に入るとまた聞こえてくる。もう一度見に行った。やはり変わりはない。そしてまた戻って…。 あの夢の真相は未だ不明であるが、後々繰り返すということはない。

 幼い頃の記憶が夢として表出することもよくある。
 昔、お遍路さんのような格好をして深い編み笠を被った僧侶のような人がよく家の玄関先に訪れてお経を唱え、祖母が小銭を渡すと消え去っていったのを、私は祖母の後ろに隠れてよく見ていた。 幼い私にとっては編み笠で顔が見えず低い声でお経を唱えるその僧侶風の人の姿が不気味で怖く、その影像とお経の音声が今尚強烈に私の脳裏に刻まれている。 その僧侶風の人が夜中に我が家にやって来てお経を唱え小銭をせがむ夢をよく見る。そのお経の声がやたらリアルで相当恐怖の夢である。“何でこんな夜中に都会のマンションの上階まで訪ねてきてしまったのだろう、オートロックなのにどうやって入ったのだろう。早く小銭をあげないと帰ってくれない。おばあちゃんももういないし困った…、どうしよう…”と布団の中で切羽詰る夢なのである。この夢を今尚何度も見る。

 さて、怖い夢の話の後は、ゆうべ(正確には今朝方)見たちょっと滑稽な夢の話をしよう。
 登場人物は私と大学時代の友人(女性)とどなたか不明の外国人男性、その他エキストラが少数である。<この友人はこの春娘さんが東京の大学に入学したこともあって久しぶりにお会いし、たまにメールも頂いている。そのために今回の私の夢の中に登場したものと考察できる。> なぜかこの3人で旅行に行くことになるのだが、行き先が静岡県の伊東市である。<この伊東市に関しては身内の先祖の墓があり、何度か訪れている。遠方ということで墓の管理が大変なため、墓を移転しようかと今身内一族で話し合っている最中であるため夢に出てきたものと考察できる。>
 そして古い旅館に宿泊するのだが、よく訳がわからない展開の後、会計の段になって係の人が外国人男性に支払いを要求している。その男性はなぜかエジプトポンドで支払いをしようとするのだが、これが分かりにくくて2人で困っている。 <この背景について補足説明すると、私は昨夏家族でエジプト方面へ旅行したのだが、エジプトではチップ支払い等のため小額紙幣が山ほど必要である。このエジプトポンドが入手しづらく分かりにくい紙幣で難儀した経験に基づいていると考察できる。>
 夢に戻って、それを見た私が「私が支払いますがいくらですか?」と聞くと、「17,000円です。」と係が言う。「ずい分と安いわね。」と友人と驚き合った、というようなとことん“しょぼい”夢であった。 <なぜ会計が安いのかの背景について補足説明すると、8月のお盆の頃の家族旅行を現在企画中なのであるが、今回は経費節減のため近場にしようか等々、と話し合っているためである。それにしても破格の17,000円という具体的数値が夢に出てきた根拠については、自分でも分析できない。>

 こんな夢の話を書くと、基本的に“しょぼい”人間であることがバレバレだなあ…   
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忘れ去られる勇気を持とう。

2008年07月10日 | 人間関係
 7月6日(日)朝日新聞朝刊のコラムで「忘れ去られる恐怖」と題する朝日新聞編集委員による記事を見つけた。
 興味深いコラムであると同時に、本ブログの前回の記事「正しい携帯電話の持たせ方」の内容にも通じるエッセイであるため、前回の続編の意味合いも兼ねて今回の記事で取り上げることにする。


 それでは早速、上記コラム記事「忘れ去られる恐怖」を以下に要約してみよう。

 “死んだ女よりもっと哀れなのは忘れられた女です”こんな堀口大学訳の「月下の一群」に収められた画家マリー・ローランサンの詩「鎮静剤」の一節が頭から離れない。 あの秋葉原の悲惨な事件の容疑者が、現実にもネット上でさえも孤独であったと述べている。 近年、この“忘れ去られる恐怖”が静かに広がりつつあるように感じる。携帯電話への過剰な寄りかかり、ネット上で過熱する自己主張…。
 浅羽道明氏著「昭和三十年代主義」という本がある。昭和30年代が多くの人がノスタルジックに讃えるほど明るくて前向きでいい時代だとは思ってはいないが、なぜこの時代がブームになったのかと言うと、この時代は、不便だから仕方なく成立していた、人が誰かのために体を動かして働いていることが目に見える「協働体」のような関係の広がり、いわば、お互いの存在が“忘れられない”世界であったためという。
 便利さや豊かさとは、そんな人の働きを機械や見知らぬ人々のサービスに置き換えていくことだった。そして、働く人々は効率化のため機械の一部品のように使い捨てられていく。誰のために、何の役に立つのかわからない働き…。(自分の存在が)忘れ去られたと思い込む人々が増える世間なんて、あまりろくな物でもない。
 以上が、朝日新聞コラム記事「忘れ去られる恐怖」の要約である。

 
 本ブログの前回の記事「正しい携帯電話の持たせ方」には多くの反響コメントをいただいた。 そのコメント欄で、奇しくも上記コラムと同様の議論を読者の方々と展開させていただいている。

 昔、電話さえもなかった時代は、人と人とのかかわりのすべてが“生身”の人間同士のかかわりであった。科学技術の発展と共に文明の利器が次々と登場するにつれて、“生身”の人との間に距離感が生じてくる。今や、パソコン、携帯を経由したネット上での人とのかかわりが日常茶飯事に展開される時代と化している。この現象は人間関係の希薄化に追い討ちをかけ、希薄化を決定的なものとしている。そして、子どもまでもが人とのかかわりを携帯等を通じたネット社会に依存する時代となってしまった。

 “出会い系”というサイトが存在する。なぜネットを通さなければ人と出会えないのか、私には理解し難い世界である。普段の普通の生活の中で生身の相手に出会い、かかわれば済むはずなのに…。もちろん、ネット社会には普段出会えるはずもない遠方の相手等とも瞬時にして出会える等のメリットもあることは認める。 だがその背景には、生身の人間同士のコミュニケーションの希薄化という病理が現代社会に蔓延りつつあることは否めない。それでも人間とは本能的に自分の存在を“忘れ去られ”たくない生き物なのだ。誰でもいいから手っ取り早く出会える相手をネット上で見つけてでも、自分の存在を認めて欲しいのであろう。 
 メール交換も同様だ。大した用件もないのにむやみやたらとメールを送り、相手に強迫観念を抱かせる程の返信を要求するのも“寂しさ”のなせる業、すなわちやはり“忘れ去られ”たくない心理を物語る行為である。


 ネット上でさえも孤独であったと言う秋葉原事件の容疑者。だがそもそも、ネットというバーチャル世界で真の人間同士のコミュニケーションがとれていつまでも“忘れ去られない”関係が築けるのがどうか、それ自体が疑わしい。
 加えて、どのような人間関係であれいつかは終焉が訪れるものでもある。自分の存在を“忘れ去られ”てしまう恐怖に怯えネット社会をさまようことよりも、忘れ去られる勇気を持って現実社会で人とかかわり人の温もりを感じていたいものである。
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