原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

自分の死後の価値を他者に勝手に値踏みされたくない!

2023年03月06日 | 時事論評
 冒頭から、2023.03.05付朝日新聞「天声人語」より一部を要約引用しよう。


 障害って何だろう。 そんな疑問を思い出したのは井出安優香さん(当時11歳)をめぐる損害賠償訴訟の判決を読んだからだ。 生まれつき難聴で手話も使っていた。 5年前、重機にはねられて亡くなった。 裁判では少女が将来得たはずの収入が争点となった。 
 ご両親は健常者と同じ額を求めたが、大阪地裁は労働者平均の85%とみなした。 我が子の命を数字に置き換えねばならない悲しさ、安く算定される悔しさ。 ご両親の涙は二つの思いゆえだろう。
 判決は、少女に障害があったことを働きにくさの理由とした。 でも、働きにくいのは社会にこそ原因がある。 障害者が生きづらいのは、世の中が多数派に合わせてつくられているからだ。 環境やルールが変われば、「障害」という概念はぐるりと変わる。 (途中大幅略)
 「聴覚障害が労働能力を制限しうる事実であること自体は否定できない」。
判決の一節が色あせる未来へ。 手掛かりは見えている。

 (以上、朝日新聞「天声人語」より一部を引用したもの。)



 私め原左都子が当該ニュース報道を見聞したのは、数日前の事だった。

 その時に一番気になったのは、当該11歳の少女が5年前に重機にはねられて亡くなった当時の“死亡原因”だった。
 私が見聞したニュース報道に於いては、それに関する反復等々は一切無く、ただただ、「裁判では少女が将来得たはずの収入」が争点として取り上げられていた事実だ。
 私としては、少女の「死因」を第一義として知りたく思った。
 もしもその「死因」が少女の難聴によるものだったとしたら、社会はその事実こそを真っ先に改善するべきだ! 
 その報道が無く、あくまでも「少女が将来得たはずの収入」ばかりが争点となっていた報道姿勢に首を傾げたものだ。

 少女が「難聴」を抱えていたことは事実であり、もしもそれが故に命を落としたとすると、これはまさに社会に大きな責任があろう。
 社会体制の整備により障害者が安全に生きていける環境整備をすることこそが、「福祉」の存在意義であるはずだ。

 損害賠償訴訟判決ももちろん重要だが、それに先立って、障害者が生きやすい社会環境づくりを施すことに関しても、ニュースは合わせて報道するべきだった。



 話題を、11歳の難聴を抱える少女の命が労働者平均の85%に抑えられた判決に戻そう。

 これ、何が辛いって、遺族にとってはまさに“娘の命を(安易に)数値で値踏み”された事実ではなかろうか??

 もしもこれが、我が娘に対してだったとして。
 到底許し難き仕打ちだ。
 この私がその親だったならば、「そんなカネ一銭も要らないから、判決は無かったものにしてくれ!!」との捨て台詞を残して訴訟現場を去ったことだろう。

 それ程までに、人の命を金銭評価する事実とは「人権侵害」であると感じる。

 特に今回の難聴少女判決の場合、“労働者平均の85%” なる超細かい具体的数値が示されている。
 裁判における中心的判事は未だ若そうな女性だったようだが。 まあもちろんのこと、過去の判例等々を参考にして算出したデータなのだろうが。
  これ、実際残された遺族にとっては、札束で顔を叩かれたがごとくの「人権侵害」感があったのではなかろうか?!?


 まさに、11歳で命を失わざるを得なかった難聴少女のご遺族の“無念さ”の程が我が身に染みた、損害賠償訴訟判決のニュース報道だった。