原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

入院中 医療従事者の関心が集中した我が頭の“古傷”

2022年11月17日 | 自己実現
 本エッセイ集バックナンバーにて幾度か話題に取り上げている通り、我が頭には27年前の手術跡がある。

 当時、頭部皮膚癌に罹患しその摘出・自身の足からの植皮手術を受けた跡だ。
 この手術跡は一生消え去ることはなく、我が頭に永遠にその歴史を刻み続ける運命にある。
 普段はウィッグ利用によりそれをカバーし続けてきているが。 
 自宅にいる時などは、その傷跡にガーゼを貼ってカバーしたりもしている。


 さて今回の“左膝がしら複雑骨折の手術”に関しては、この頭部の“古傷”は何らのかかわりもないのだが。
 これをどうカバーしようか、あるいはカバーせずして過ごそうか、私は病院内で多いに迷った。
 手術前とは言えども、病室内外で頭にウィッグを被っている患者はどう見ても何処にもいない。 これはガーゼでカバーするべきか? と判断した私は、手術前まではそうして過ごしてきた。
 
 問題は手術後だ。
 既に手術にて披露困憊している私自身に、それをカバーする心身的余裕がまったく失われた。
 運悪く手術後しばらくは“車椅子生活”となり、それを押して下さる看護師氏達の関心が我が頭部の傷跡に向く。
 皆さん異口同音に、「その頭の傷、どうされましたか?」の質問攻めだ。
 それに応えて、「これは27 年前の頭部皮膚癌の摘出跡です。」この繰り返しである。
 まさか、それ以上追及してくる非常識者もいないのだが、(やっぱり目立たつんだなあ…)との当たり前の感想を抱かされたものだった…

 その後 多少余裕ができて以降は、ガーゼで手術跡をカバーすることを忘れなかった。



 だいぶ前の朝日新聞読者からの投稿ページに、女子中学生よりの「髪の寄付で気づいた『偏見』」と題する投稿があった。
 以下に要約引用させていただこう。

 小学4年と6年の2回、ヘアドネーションをした。病気の治療などで髪に悩みを持つ子どもたちに髪を寄付し、医療用ウィッグとして役立ててもらう活動だ。
 周りからえらいとほめられ、私も良いことをしていると感じていたが、あるとき思った。「髪がないことに偏見があるから、寄付がよいことになるのかな、と。
 決してヘアドネは悪いことではない。ウィッグをつけて楽しい生活を送る人もいると思う。
 正直なところ、私は周りの多くの人と違う見かけだったり、発言をしたるする人と距離を取ってしまうときがある。 でも髪はあってもなくても、それは一つの個性だと思えるような心を持ちたい。 
 様々な差別や偏見は思ったより身近にあるようだ。 少しづつでもなくなっていけば、と思う。

 (以上、朝日新聞「声」欄より一部を引用したもの。)


 この女子中学生の投稿に対し、本日の朝日新聞「声」欄にて癌治療により髪を失った読者の方より、さらなる意見が寄せられたようだ。
 その投稿内容の一部を、以下に紹介しよう。

 私には癌治療の影響で脱毛があり、髪型や髪色による自己表現を失ってしまったと感じる。 自分の意思と関係なく髪を失たことで、個性を大事にしたいとの思いからウィッグを使っている。
 ただ、見た目に対し「偏見」があり、そのため髪を失った当事者か周囲の人かにかかわらず、髪が無いことに嫌悪感を感じたり、隠すべきことと捉えたりする場合もあるだろう。 しかし、人との違いは個性の表れだ。 ウィッグは髪が無いことを隠すためではなく、それぞれが自分らしく生きるための一つの表現方法と私は考える。

 (以上、本日の朝日新聞「声」欄記事より引用したもの。)



 最後に、原左都子の私見でまとめよう。

 私とウィッグとの付き合いは、既述の通り既に27年の年月に及ぶ。

 そんな私にとっては“ウィッグの在り方”どうのこうのよりも、既に私の身体の一部の位置付けにあると言えよう。

 その割にはこのウィッグ、物凄く値が張る代物😱 である事実に関しても本エッセイ集バックナンバーにて暴露している。 特に外見にこだわりがあった現役時代にはそれでもやむを得ず、ずっと大手メーカーのウィッグに依存して、何百万円もの出費をして何十本ものオーダーウィッグを作成してきたものだ。 


 そんな私だが、今となっては“既製品”のウィッグに鞍替えしている。
 “既製品”とは言えども今の時代ウィッグが流行していることもあり、十分に満足できる商品が手元に届けられるのだ。

 まさに私にとってはウィッグとは、入院手術でもしない限り何らの不都合もなく我が身の一部としての役割を果たしてくれている有難き存在だ。

 まあ、入院中の頭部の醜態披露など所詮一時の恥であり、今後も私はこのウィッグの恩恵を有難く受けつつ世を渡っていくことであろう。