先程、愛読している公式サイトの【 現代ビジネス 】を見ている中で、
『 なぜ女性好みの食は大流行してきたのか? 日本の食ブーム30年史 』、
と題された見出しを見たりした。
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の74歳の身であるが、
民間会社のある会社に35年近く勤めて、2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
この間、幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりしたが、
最後の5年半はリストラ烈風が加速され、あえなく出向となった。
そして遠い勤務地に勤め、この期間も私なりに奮闘した結果、
身も心も疲れ果てて、疲労困憊となり、 定年後はやむなく年金生活を始めたひとりである。
そして私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。
こうした中、私より少し若い団塊世代の人々に対して、知人、友人が多いので、何かと注視してきた。
私が25歳の時に、民間会社に中途入社できたのは、1970年(昭和45年)4月であり、
やがて私が職場の机で隣接したのは、大卒で入社された一年生の団塊世代が多く、
この後もお互いに業界、社内の空気を長らく共に苦楽を重ねてきた・・。
そして私の妹ふたりは、1947年(昭和22年)1月、1948年(昭和23年)10月の生まれであり、
家内は1949年(昭和24年)12月の生まれであり、兄ふたり妹ふたりの間でサンドイッチのように育成させてきたので、
何かと幼年期から今日まで、団塊世代の情況は、 理解しやすいひとりとなっている。
こうした深情を秘めている私は、今回の《・・日本の食ブーム30年史・・》の中で、
《・・なぜ女性好みの食は 大流行してきたのか? ・・》何かと好奇心ばかり強い私は、
高齢者の男性の私でも、過ぎし平成の時代の歳月を愛惜を重ねるような思いで、精読してしまった・・。
この記事は、作家で女性の生き方などをテーマに執筆されている生活史研究家の
平成の30年間、食の分野で流行したものは、本当にたくさんある。
最近だけでも、タピオカミルクティー、チョコミント、かき氷、パクチー、スパイスカレー、海南チキンライス、
高級食パン、コッペパン、フルーツサンド、熟成肉、富士宮焼きそば、ハイボールなどいくつも思い浮かぶ。
「食のブーム」とは無縁?フライパンを熱いうちに洗わないフランス人
古めのものでは、ティラミス、マカロン、カヌレ、ベルギーワッフル、もつ鍋、
ホルモン焼き、讃岐うどんなどがあり、挙げればキリがない。
目立つのは、女性が中心になっている流行だ。
なぜ、女性好みの食が流行しやすいのだろうか。
考えられる原因の一つは、食の流行化現象自体が、女性誌主導で始まったことだ。
『ファッションフード、あります。』(畑中三応子、紀伊国屋書店)によれば、
食のファッション化、つまり流行化現象が始まったのは、
1970年に『anan』が創刊されたことがきっかけだ。
加速させたのが、1988年に創刊された『Hanako』だ。
どちらも版元は、マガジンハウス。
同社が流行化を促進したと言えるのかもしれない。
しかしもちろん、マガジンハウスだけが、流行を作るわけではない。
それは二つの時代背景を掘り下げると分かる。
1970年は、外食元年と言われた年である。
この年、世界の食が集合した大阪万国博覧会が開かれ、
ファストフードやファミリーレストランのチェーン店が次々とオープンし始めた。
1970年には、ケンタッキー・フライド・チキン、すかいらーく、フォルクスが、
1971年には、マクドナルド、ロイヤルホスト、ミスタードーナツが1号店を開いている。
雑誌は、『anan』に続いて、1971年には『non・no』(集英社)が創刊されている。
両誌は、旅特集が多かったこともあり、萩・津和野、飛騨高山、金沢などの歴史ある町に、
雑誌を片手に若い女性たちが大勢訪れ、彼女たちはアンノン族と言われた。
これらの雑誌が流行らせた食べ物は、チーズケーキ、サラダ、オムレツなどだろうか。
しかし、昭和の流行は、今のように爆発的ではなかった。
若い女性たちが好きな「おしゃれ」な食べ物も、
男性やほかの年代の女性たちまで「あれ、流行ったよね」と言うほど、
広がったわけではなかったからである。
昭和の終わりに発売された『Hanako』も、
雑誌片手に町を歩く若い女性たちが、Hanako族と言われる社会現象を起こした雑誌である。
ティラミスを皮切りにいくつもの目新しいスイーツが流行した。
同誌は、くり返しアジア飯の特集を組み、
1980年代半ばから始まっていたタイ料理やインド料理などの流行が加速した。
1990年代後半になると、カフェ特集をくり返し組み、
2000年前後に爆発するカフェブームを先導している。
☆自由な時間を持つ女性の増加
昭和の流行より、これら平成の流行を覚えている人のほうがおそらく多いが、
それは時代が新しいからだけではなく、
その流行が若い女性にとどまらない影響力を持っていたからである。
二つの時代の大きな違いは、女性のライフスタイルである。
1970年代は、女性の大学進学率が2割を超え、
青春を謳歌できる期間が長くなった結果、食の流行が生まれた。
しかし、昭和は20代のうちに結婚し、子供を産むことが当たり前とされていた時代で、
結婚すれば、大っぴらに流行を追いかけることは難しかった。
平成は、男女雇用機会均等法とその後に起こった不況を受け、働く女性が増えた時代である。
昭和にも働く女性はたくさんいたが、
平成には、結婚しても退職しない女性や、結婚しないで仕事を続ける女性の割合が増えていく。
家計の担い手である彼女たちは、自由に使えるお金を持っていたので、
自分の欲望に、より忠実になれたのである。
つまり、女性主導の流行は、自由な時間を持つ女性が増えたことで起こり、
自分の財布を持つ女性の層が厚くなったことで広がった。
1990年代には、「自分へのご褒美」という言葉も流行る。
それは仕事の疲れを、一日の終わりに好きなスイーツや酒、おいしい食事を摂ることで癒そう、
と考える女性たちの行動を表す言葉である。
☆デパ地下ブームがもたらしたもの
平成の流行は、社会現象となったものも多く、
若い女性の流行に、他の世代の女性や男性も加わることが多かった。
女性たちの流行が周囲にも広がったのは、社会の情報化が進んだためである。
1990年代には『dancyu』(プレジデント社)を筆頭とする、
グルメ情報誌やタウン情報誌が、次々と創刊された。
2000年代になるとインターネットが普及し、ブログなど個人の発信力も高まった。
2010年代になると、雑誌の求心力が低下する一方で、スマートフォンが普及し、
SNSの種類も増えて、情報交換が活発になった。
飲食店で「インスタ映え」する料理を、撮影してから食べる人がいる光景は、すっかり日常になっている。
食の流行化現象における女性パワーがよく見えるのが、デパ地下ブームだ。
2000年に渋谷の東急東横店が、地下の食品売り場をリニューアルしたことに、メディアが一斉に注目し、
流行が爆発したが、デパ地下人気自体は1990年代から始まっていた。
スイーツブームの影響で、デパ地下で売られるスイーツが人気となったほか、
ロック・フィールドが売り出した神戸コロッケ、RF1の色とりどりのサラダが1990年代に流行した。
百貨店側も、平成不況で、洋服が売れにくくなり、
食品売り場を充実させることで、客を呼び込もうとしていた。
大阪の阪神百貨店は、1990年代後半に売り場のテコ入れを図っている。
ブームが大きくなったのは、日常的にデパ地下を利用する女性が、
増えていたからではないかと考えられる。
この頃、フルタイムで働く共働き女性たちは、
仕事が終わってからでは、地元のスーパーの閉店時間に間に合わない、
とデパ地下で夕食用の食材を調達するようになっていたのである。
その人たちが、総菜を買うこともあっただろうし、ほかの食べものに注目することもあっただろう。
折よく、デパ地下には、魅力的な商品がいくつも登場していた。
「自分へのご褒美」とスイーツに手を伸ばすこともあっただろう。
自分で稼ぐ彼女たちには、少しだけ贅沢を楽しむ余裕があった。
そういう女性たちが行く下地があったからこそ、
メディアが、デパ地下ブームを報道すると、大きな流行になったのである。
☆食のファッション化、食卓の変化
平成の食トレンドで代表的なものを考えてみると、
女性主導のものは目新しく、男性主導のものはリバイバルが目立つ。
ティラミスやタピオカミルクティーは、今まで食べたことがない味、食感に特徴がある。
対して、ご当地グルメやナポリタンは、昭和の時代にも親しまれていた。
もちろん、女性の中にも昔ながらの味が好きな人もいるだろうし、
男性にも目新しい味に目がない人もいるだろう。
しかし、女性が目新しいものを好む傾向は、昭和の時代にも表れていた。
それは家庭料理の分野である。
昭和の時代、家庭の食卓には、目新しい料理がどんどんのぼるようになっていた。
ナポリタンも、ハンバーグ、オムライス、コロッケ、ギョウザ、春巻き、麻婆豆腐などの定番料理も、
昭和半ばまで、庶民の日常食ではなかった。
それらの料理が家庭で食べられるようになったのはもちろん、
食材が豊富になり、台所が近代化されたなど、環境が整備されたからだ。
しかし、それだけでなく、テレビの料理番組や主婦雑誌などから情報を得た主婦たちが、
目新しい料理を、次々と試したことが大きかった。
昭和半ばに主婦になった女性たちの大半は、
農山村から都会に出て来た人や、戦中戦後の食糧難の都会で育った人たちで、
子供の頃から洋食を食べ慣れていた人は、ほとんどいない。
主婦たちが、テレビや雑誌で紹介される目新しい料理を次々と取り入れたからこそ、
ナポリタンは、平成時代に懐かしがられる料理になったのである。
つまり、女性たちが新しさを恐れず挑戦してきた結果が、
食のファッション化であり、食卓の変化である。
もちろん、食が洋風化したことを憂える声はある。
総務省の家計調査によると、コメなど、味噌、醤油、サトイモなど和食の定番食材の消費金額は
どんどん低下している。
味噌汁を毎日食べないどころか、コメのご飯を毎日食べない人もいる。
和の食材に対する依存率が下がったのは、食が多様化した結果である。
しかしそもそも高度成長期には、不足気味だったたんぱく質や脂質を摂ることが奨励されていた。
それらの栄養源が豊富に含まれている料理は当時、洋食や中華だった。
従来の和食には、肉類があまり使われていない。
そして、油脂を使う料理も限られていた。
バランスのよい食生活をするために、食の多様化は推進されたのである。
☆流行は性別を問わない時代へ
もしかすると、女性主導の流行が多かったのは、
女性たちにとって、食を選ぶことができること自体が、新鮮だったからかもしれない。
戦前の女性は、家父長制のもとにおり、献立を決めるにも家長の顔色をうかがう傾向が強かった。
戦後になって日本国憲法のもと、夫婦は対等な人間同士になる。
主婦たちは、台所の主人として、献立を考える自由を得た。
だから経済的なゆとりができると、新しい料理を次々と食卓に載せるようになったのである。
平成に食の流行化現象が激しくなったのは、
働く女性が増えて、外食や中食を自分で選べるようになったからである。
自分にご褒美を与えることができる喜びもあったはずだ。
その分だけ、流行が大きくなったのではないか。
よく見ると、共働きが定着し、子育て期でも働く女性が増えた2000年以降の流行には、
働く女性主導とは限らないものが目立ち始めている。
讃岐うどんやスパイスカレー、パクチーやハイボールは、男女ともに好む。
もしかすると、働く女性が珍しくなくなった今、
流行は、性別に関係なくなる時代が始まりつつあるのかもしれない。・・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
記事を読み終わった後、過ぎ切った平成時代、そして私たち夫婦が結婚した昭和時代の後期に、
思いを馳せて、そうだったよねぇ・・と心の中で呟いたりした。
私たちは1976年(昭和51年)3月下旬に結婚して、
この当時の私は、音楽業界のあるレコード会社に勤め、情報畑でシステム改定をしていたので多忙期であり、
短めな新婚旅行から帰宅し、千葉県の市川市の片隅にある国府台で、
2DKの賃貸マンションで新たな人生をスタートした。
私はサラリーマンの身であったが、もとより生計の責務で孤軍奮闘し、
家内は専業主婦で、私に従順な新妻であった。
その後、子供が出来て狭い賃貸マンションの一室で這(は)うことを想像したり、
或いはいつまでも家賃を支払い続けることを配慮して、新居の件で色々と思案したりした。
やがて結果として、私の生家の近くに空き地があったので、この地に一戸建てとした。
そして家内は中学生の頃から茶事を習い、その後の私たちの新婚生活の合間でも、
先生の元に週一度通って修業していたので、私としては住宅関係で多大な借り入れ金をするので、
ついでにと若さ勢いで、母屋の部屋は一室増やして、茶室とした。
こうした結果、作庭の経費もなくなり、やむなく私の月給分ぐらいで雑木を中核とした。
しかしながら私は孤軍奮戦しても、家計は赤字が多く、私は困苦したりした。
やがて突然に、家内はデパートの和服売り場で契約社員として働き、 我が家は共稼ぎで何とか安泰し、
3年後に家内は専業主婦に復帰して、今日に至っている。
この間、私は和洋菓子は無知な方であったが、家内は女性の身であったので、
私なりに和洋菓子を給与を頂くたびに買い求めて、帰宅することが多かったりした。
そして都心に買い物に私たちが行った時、ときおりレストランなどで、
家内は知っていたおしゃれな料理を共に頂いたりしてきた。
或いは国内旅行が共通の趣味のひとつだったので、
幾たびも旅路を重ねてきたが、こうした時に旅先の食事処で、名産と称された料理を頂いたり、
ときには和菓子店で抹茶を頂きながら、その地の和菓子を賞味したりしてきた。
このようなことを少し思い重ねて、愛惜が増して、良き時代を過ごせた、と思い深めたりした。