「やんちゃ子キャンプ」で、交野市星の里キャンプ場の方に「退対」の御礼をいう子どもたち
今日は、実親と実母の墓参りをした。2歳の孫、娘、夫と97歳の義母と一緒に朝早く出発した。母親をなくして早いもので5年になる。それまでは、墓参りは、余り熱心でなかったが、母親の死で震えるほどの寂しさを感じ墓が一つの心のよりどころになる場合があることを経験した。同時に誰もが大切な存在であり、かけがいのなさを存在だと感じたのだ。
「平和がいちばん」8月号の「わわわのわ」は、戦中、戦後を生き抜いてこられた方の話・・・しなやかで したたかな 生活者 堀池清子さん・・・
堀池清子さんは、1928年(昭和3年)1月19日横浜生れの84歳で、5人兄弟の長女(弟3人 妹1人)である。横浜大空襲で家を焼かれて、京都に移り住み、現在枚方で生活を楽しまれている。私との出会いは2004年の平和無防備条例制定の運動の時で、多くの署名を集めてくださったことに驚き感激したのだった。
堀池さんの子供時代は、日本の大陸進出や第二次世界大戦の真最中である。ある時、近所のレコード会社ビクターの社屋のスピーカーから流行歌手淡谷のり子等の流行歌が流されていた。その時、校長がビクターに行き流行歌を流さないようにしたことを印象深く覚えているという。当時は軍歌と唱歌以外は、良く思われていなかった。
戦争一色で、戦地に多くの男性が派兵され、工場で仕事をする人は足らなかった。14歳の頃には麒麟麦酒で学徒動員として働いた。仕事は戦場にビールを運ぶ「上海」とかかれた空箱の移動。小学生の妹は慰問袋にアメ等を学校で詰めていた。子どもも戦争の影響を大きく受けていた。そんな時、1944年(昭和19年)2月母親、9月父親が死亡し、16歳で兄弟5人の生活になったのだ。
1945年(昭和20年)3月10日東京大空襲。そして、5月29日横浜空襲の時は麒麟麦酒の防空壕にいたが、警報が解除され外に出ると街はいたるところで燃えていた。帰ると家は消失し、家の米(配給)びつからは、焦げた音がしていた。なによりも妹がほしがっていたのでやっと手に入れた砂糖が燃えてしまったことは、大人になれば砂糖屋になろうと思ったくらい残念だった。国がしたのは罹災証明を出しただけ。避難に行くところを個人で探せということで、国鉄(現在のJR)だけがタダだった。兄弟5人は、母の実家を訪ねて京都の西陣にきた。そして、既に高齢の女性が住んでいた二間の古い家の1室を借りた。その後、女性がなくなり家主が買取りを言ってきた。いつ焼かれるか分からないが、親の貯金があったので2万5千円で買った。20歳になっていなかったと思う。
生計を立てるために働き続けた。戦前から戦後にかけて織物(ビロード)の仕事で、夜も働き1反を2日で完成させると、すぐに現金がもらえた。織物工場の親方は世話好きで技術をよく教えてくれて、職人は数人いたが、いまでも交際が続いている。戦争中は、昨日は何人死んだ、今日も何人が死んだという状況だったので、自分だけが大変と思ったことはなかった。振り返れば、常にスルーと生きてきたと気付く。
8月15日天皇の玉音放送を聞いたが、その時はなにも分からなかった。戦争はつらい。日本全体が自分の寝るところを探さなければならない状況に追い込こんだのだ。
枚方へは息子の関係で楠葉に来たことが最初で、樟葉駅前が整備された頃だった。電柱で松阪屋関係の求人広告をみた。そして、昭和56年既製服の寸法直しをする洋服リフォーム会社に入り、松阪屋や近鉄百貸店の加工室で仕事をはじめ、店長になり、70歳中頃まで嘱託として働き続けた。寸法直してお客から「ちょうどいい」といわれると本当に嬉かった。寸法直ししても客が満足せず4万円の服を買いとったこともある。ビロード作りから、布や服の関連の仕事をし、手先は非常に鍛えられている。
70歳になったのを機に枚方市の福祉センターを活用するようになった。風呂に入り、弁当持参したり売店を利用したりして楽しんでいる。堀池さんは、認知症を防ぐには楽しい思い出を思い出すことだというこだわりがある。「無我夢中に生きてきた。今が一番幸せ。振り返るといい人ばかりに出会っていた。本当にありがたい」と語り、何度も「“ひこばえ”は自分を受け入れてくれる場であり『希望』でもある。ありがたい」とおしゃっている。戦中、戦後を生き抜いてきた堀池さんのこの言葉の重みを私は強く感じている。 (取材・文 おおた幸世)