平和で豊かな枚方を市民みんなでつくる会共同代表 大田幸世 平和が一番 市民の広場「ひこばえ」

枚方市を住みよいまちに☆原発NO!☆福祉・介護「すずらんの集い」☆枚方市駅前再整備は凍結☆市議会を変える高松まさ子

日本原子力研究開発機構労働組合(原研労組)は、大飯3.4号機の再稼動に批判的です

2012-08-19 21:59:27 | 原発NO! 
 暑い日が続いている。反原発の市民の動きは高まり続けている。
  
 日本原子力研究開発機構労働組合(原研労組)は大飯3,4号機の再稼動に反対の声明を出している。「まじめに安全性を考えていない」と批判していろのだ。そして、東京電力福島第一原発事故を「想定外の自然災害でなく、専門家が想定しようとしなかった人災」とし、「大きなリスクを扱っているという考えが薄れてしまった」と指摘している。

「原子力ムラ」に身を置く立場からだけに影響は大きい。日本原子力発電東海第二原発の再稼働にも反対し、より厳しい災害想定基準をクリアできない原発は今後、稼働させないよう訴えている。

 組合員を対象に昨年実施したアンケート結果も、国内の原発について「数年以内になくす」と「徐々に減らし将来的になくす」を合わせた回答が50%を占めているという。「事故を受けて組合員の中に、このままでいいのかという思いがある」とのことだ。

 原発をよく知る立場にある労働組合の見解を知ることは大切なことだと思う。
 


オスプレイ県民大会が9月9日に開催されます

2012-08-16 22:05:47 | 政治 平和活動
 8月5日に予定されていたオスプレイ反対県民大会が台風のために延期されたが9月9日に開催されることになった。
 各市町村は20日をめどに「県民(うまんちゅ)100円募金活動」を始めると、県市長会長の翁長雄志那覇市長と県町村会長の城間俊安南風原町長が記者会見して発表した。
翁長市長は「41市町村がこのように一緒になって活動するのは全国でも初ではないか。多くの県民に自らのこととして参加してほしい」と呼び掛けた。全島的な動きだ

 大会に向けた取り組み状況も報告された。那覇市では、大会会場の宜野湾海浜公園に向かう市民向け大型バス15台(750人分)を準備しており、南風原町では「オスプレイ配備反対」と書いたのぼり旗や赤いリボンでアピールしている。100円募金は、オスプレイ配備反対を意思表示する草の根運動として実施され、一口100円にこだわらず何円からでも受け付け、不足している大会予算約1000万円を上回る募金総額を目指している。各市町村や市町村の大会実行委員会が主体となって公共施設に募金箱を設置する予定とか。町内イベント時に呼び掛けるほか、自治会長や区長が地域を回る地域もある。

 オスプレイ配備反対のハンガーストライキの動きもある。元小学校教諭の男性が、15日午前、キャンプ瑞慶覧の石平ゲート(北中城村)前で無期限のハンガーストライキに入った。「家族の命や生活を守りたい。どこまでできるか分からないが、オスプレイは駄目だという思いを多くの人と共有したい」と訴えている。
 また、沖縄・一坪反戦地主会関東ブロックの元代表世話人たちは猛暑の中、「ハンガーストライキ」と書かれたプラカードを掲げ、配備反対や普天間飛行場の閉鎖・返還をアピールしている。数十人の支援者も集まり、三線を演奏したり、通行する車に声を掛けたりする動きになっている。
 
 オスプレイは良く事故をおこしている。オスプレイが4月にモロッコで墜落した事故の米側の操縦士の問題との調査報告が出されたが、沖縄県の仲井真知事は米軍普天間飛行場という人口密集地帯に配備するにあたって地域住民はおそらく納得いかないし、私もすとんと胸に落ちない」と述べ、「要するに落っこちたという事実がある。操作上、運転上も事故が起こりにくいとの結論にならなければおかしい」と人為ミスを防ぐ具体策を求める姿勢を示している。

 なんとしてもオスプレイ配備は止める必要がある。

 

戦争が終わり67年が経ちました・・・・負けたのです

2012-08-15 17:20:14 | 政治 平和活動
 私は戦後生まれ。直接戦争は知らない。しかし、戦争を経験した両親に育てられた世代であり、戦後の社会の流れと共に育ってきた70年安保世代、団塊の世代である。母は、8月15日生まれであり生前は「誕生日が話題になると、多くの人が終戦記念日ですねと言うが、終戦記念日より誕生日は先だった」と語っていたのを思いだす。

 第2次世界大戦で海外で240万人が戦死したといわれている。戻っていない遺骨は113万人という。高齢になられた家族、親族、友人の気持ちを考えるたびに、庶民の生活を潰し命を奪った戦争の残酷さに心が痛む。多く方が殺し殺されることが日常だった戦場を思い「二度と戦争は、起こさせてはいけない。戦争に協力してはいけない」そんな思いが沸き起こる。

 原発事故を経験して以降、国策として原発を推進してきたにもかかわらず、政府、東電の誰もが責任を取らない。福島の事故以降、ふるさとを奪われたり、子どもの健康のために家族が分かれて生活せざるを得ない状況に追い込まれた多くの方々まがいる。放射能に汚染されながら復旧工事をする多くの労働者がいる。このような現状の中でもこの1年5か月、誰が責任を取ったのだろうか?
 
 国民全員を巻き込んだ戦争。国策で進めてきた原発。その結果に対し、誰も責任を取らなくて良いこの国家体制に大きな疑問と怒りがわいてくる。今、反原発のおおきなうねりが続いている。少しでも、このような体制を変える1人になりたいと思う。

「おかしいことはおかしい」と発言し続ける市民・労働者でありたい・・

2012-08-14 21:34:26 | 月刊『平和がいちばん』
 昨夜の大雨と雷は非常に怖かった。浸水された方は大変だと思う。川が多く、高低差がある枚方。雨水処理は完全なのだろうかと不安がよぎった。
 
「平和がいちばん」8月号の1面は、市民である私達、労働者である私達への語りかけだと考えている・・・「おかしいことはおかしい」と発言し続ける市民・労働者でありたい・

 毎週金曜日、首相官邸前や関西電力本社前での脱原発を求める人々のうねりはますます大きくなっています。市民一人ひとりが「命を守れ」「子どもを守れ」とストレートに意思表明し行動しています。

 一人ひとりの考えと良心に従った行動を制限しようとするのが大阪市で制定された「職員政治活動規制条例」です。市職員・教職員の政治活動を勤務時間外もふくめて禁止し、違反すれば懲戒免職にするという内容です。公務員も労働者で、その前に人間ですから憲法に明記された基本的人権は当然保障されるべきです。公務員は首長の「下僕」ではないし、市民に命令する立場でもありません。橋下市長が職員の活動を制限したいのは、職員と市民との間に垣根をつくり、橋下「改革」に職員からも市民からも一切異議申し立てを認めないためです。自治体や教育現場で働くみなさんは、仕事を通じて直面する「おかしいこと」にはストレートに「おかしい」と声を上げ続けていただきたい。市民運動は支援します。

 電力会社の労働組合が管内の議員に「原発反対では応援できない」と圧力をかけているそうです。それでいいのでしょうか。労働運動は労働者の権利-自分たちの生命と生活を守ることが一番の役割です。しかし“己さえ良ければいい”というのでは労働組合ではありません。自分の生活が良くなるためには周りの人々もみんな良くなることが必要というのが労働者の感性です。地域に生きる人々が、日本に住むみんなが、地球上の全てのものが生存できる環境を守り育てるのが労働者の願いです。企業の方針に労働者・労働組合の抵抗が弱く、社会的責任を果たせなかった結末が今回の原発事故ではないでしょうか。どの企業で働いていようが、どのような職種であろうが、「命を守れ」「子どもを守れ」は労働者、労働運動の合言葉であるはずです。

平和がいちばん 8月号

2012-08-13 20:59:12 | 月刊『平和がいちばん』
 
 「やんちゃ子キャンプ」で、交野市星の里キャンプ場の方に「退対」の御礼をいう子どもたち

今日は、実親と実母の墓参りをした。2歳の孫、娘、夫と97歳の義母と一緒に朝早く出発した。母親をなくして早いもので5年になる。それまでは、墓参りは、余り熱心でなかったが、母親の死で震えるほどの寂しさを感じ墓が一つの心のよりどころになる場合があることを経験した。同時に誰もが大切な存在であり、かけがいのなさを存在だと感じたのだ。
 「平和がいちばん」8月号の「わわわのわ」は、戦中、戦後を生き抜いてこられた方の話・・・しなやかで したたかな 生活者  堀池清子さん・・・

 堀池清子さんは、1928年(昭和3年)1月19日横浜生れの84歳で、5人兄弟の長女(弟3人 妹1人)である。横浜大空襲で家を焼かれて、京都に移り住み、現在枚方で生活を楽しまれている。私との出会いは2004年の平和無防備条例制定の運動の時で、多くの署名を集めてくださったことに驚き感激したのだった。

 堀池さんの子供時代は、日本の大陸進出や第二次世界大戦の真最中である。ある時、近所のレコード会社ビクターの社屋のスピーカーから流行歌手淡谷のり子等の流行歌が流されていた。その時、校長がビクターに行き流行歌を流さないようにしたことを印象深く覚えているという。当時は軍歌と唱歌以外は、良く思われていなかった。
戦争一色で、戦地に多くの男性が派兵され、工場で仕事をする人は足らなかった。14歳の頃には麒麟麦酒で学徒動員として働いた。仕事は戦場にビールを運ぶ「上海」とかかれた空箱の移動。小学生の妹は慰問袋にアメ等を学校で詰めていた。子どもも戦争の影響を大きく受けていた。そんな時、1944年(昭和19年)2月母親、9月父親が死亡し、16歳で兄弟5人の生活になったのだ。

1945年(昭和20年)3月10日東京大空襲。そして、5月29日横浜空襲の時は麒麟麦酒の防空壕にいたが、警報が解除され外に出ると街はいたるところで燃えていた。帰ると家は消失し、家の米(配給)びつからは、焦げた音がしていた。なによりも妹がほしがっていたのでやっと手に入れた砂糖が燃えてしまったことは、大人になれば砂糖屋になろうと思ったくらい残念だった。国がしたのは罹災証明を出しただけ。避難に行くところを個人で探せということで、国鉄(現在のJR)だけがタダだった。兄弟5人は、母の実家を訪ねて京都の西陣にきた。そして、既に高齢の女性が住んでいた二間の古い家の1室を借りた。その後、女性がなくなり家主が買取りを言ってきた。いつ焼かれるか分からないが、親の貯金があったので2万5千円で買った。20歳になっていなかったと思う。

生計を立てるために働き続けた。戦前から戦後にかけて織物(ビロード)の仕事で、夜も働き1反を2日で完成させると、すぐに現金がもらえた。織物工場の親方は世話好きで技術をよく教えてくれて、職人は数人いたが、いまでも交際が続いている。戦争中は、昨日は何人死んだ、今日も何人が死んだという状況だったので、自分だけが大変と思ったことはなかった。振り返れば、常にスルーと生きてきたと気付く。

8月15日天皇の玉音放送を聞いたが、その時はなにも分からなかった。戦争はつらい。日本全体が自分の寝るところを探さなければならない状況に追い込こんだのだ。
枚方へは息子の関係で楠葉に来たことが最初で、樟葉駅前が整備された頃だった。電柱で松阪屋関係の求人広告をみた。そして、昭和56年既製服の寸法直しをする洋服リフォーム会社に入り、松阪屋や近鉄百貸店の加工室で仕事をはじめ、店長になり、70歳中頃まで嘱託として働き続けた。寸法直してお客から「ちょうどいい」といわれると本当に嬉かった。寸法直ししても客が満足せず4万円の服を買いとったこともある。ビロード作りから、布や服の関連の仕事をし、手先は非常に鍛えられている。

 70歳になったのを機に枚方市の福祉センターを活用するようになった。風呂に入り、弁当持参したり売店を利用したりして楽しんでいる。堀池さんは、認知症を防ぐには楽しい思い出を思い出すことだというこだわりがある。「無我夢中に生きてきた。今が一番幸せ。振り返るといい人ばかりに出会っていた。本当にありがたい」と語り、何度も「“ひこばえ”は自分を受け入れてくれる場であり『希望』でもある。ありがたい」とおしゃっている。戦中、戦後を生き抜いてきた堀池さんのこの言葉の重みを私は強く感じている。        (取材・文 おおた幸世)