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スニーカー履いて

‘猫’も歩けば・・・今日はどんな出会いが?

鎌倉・新緑の浄明寺辺り

2012-05-11 | 鎌倉・逗子・葉山


週末です! 晴天です! 
歩きますとも!(笑)



まずは、此処から☆

稲荷(とうか)山 浄妙寺




臨済宗のお寺で 鎌倉五山の第五位。

     創建: 1188(文治4)年
             開山: 退耕行勇(たいこうぎょうゆう)
 開基: 足利義兼
    中興開基: 足利貞氏
鎌倉五山のうち1~4位までは北条氏ゆかりのお寺ですが
、当山は足利氏のお寺。
開山当初は真言宗のお寺で「極楽寺」といいましたが、足利義兼の子 義氏のとき
改宗して臨済宗となり、その4代後の貞氏のとき「浄妙寺」と改められました。

「伝 足利貞氏の墓」

「明徳三年(1393)」の刻銘は3代将軍 義満公の頃。
ということは、のちに建立された供養墓?

足利氏の略系図
義康ー義氏ー泰氏ー頼氏(智光寺殿)ー家時(報国寺殿)ー貞氏(浄妙寺殿)ー尊氏(長寿寺殿)


境内にあるレストラン「石窯ガーデンテラス」が誘惑するけれど
きょうは寄らずに、境内横の細道を上って・・

「鎌足稲荷」
       
祭神:稲荷大神

説明板によると;
藤原鎌足は、乳児の時に 稲荷大神から授かった鎌槍をお守りにしていました。
大化改新で曽我入鹿討伐を果たして鹿島神宮に参詣した折に、「宿願を達成
したからは、授けた鎌を奉納すべし」との神告を受け、現われた白狐に導かれて
この地に埋め、お堂を建てて祀ったとか。 「鎌倉」の地名の由来とも伝わります。




山門前から右手の小路に入り、暫く歩いてR204に出る所に

足利公方邸跡」碑

(手前側が R204)

鎌倉幕府開府の頃 足利義兼がこの辺りに居館を構えたのが始まりといわれ、
尊氏が覇権を掌握し京都に遷ってからは、関東管領となった子の基氏が住み、
それ以後、代々の子孫が此処を住まいとしていたようです。

1451(享徳4)年 足利成氏が当時関東管領の上杉憲忠と争いこれを暗殺
した「享徳の乱」の後
、成氏は追われて古河(茨城)に敗走。 古河公方と
呼ばれるようになり、此処は廃墟となったことが記されています。


(続)






鎌倉・百八やぐら

2012-04-21 | 鎌倉・逗子・葉山


「やぐら」というのは、丘陵の岩を穿って造られた横穴墳墓のことで
小面積の場所に造ることが可能なところから、三方を山に囲まれて
平地の少ない鎌倉地方に特に多く見られる、とされてきました。

が、
1996(平成8)年の調査によって、房総半島にも500基以上の
やぐらが存在することが分かり、鎌倉特有のものでもなく、また
平地が少ないことが理由でもないことが証明されたようです。

「やぐら」=「矢倉」つまり、元々は武器保管の岩窟を指していた名称が
こうした墳墓にも使われるようになったのでは・・・と、ガイドさんの説明。 



百八やぐら」は、覚園寺裏山の山腹に177穴も(200~250とも)
集まっている鎌倉でも最大規模のやぐら群で、鎌倉~室町時代の
武士や僧侶の墳墓と、供養のための施設であろうといわれています。


たくさんの「やぐら」が、7階層になって広がっています。









内部には・・

仏像や


五輪塔が並んでいたり



壁面にも、さまざまな浮彫が・・

五輪塔や


仏像や



梵字も
      

このやぐら群では、鎌倉にあるほぼ全てのやぐらの形式が見られるそうです。
いにしえ人の祈りの声が聞こえてきそう・・・


今回はいつも見慣れた場所とはひと味違う、deepな鎌倉を興味深く歩きました☆




これは駅への帰り道のオマケ・・(笑)



山を下った所に、「永福寺跡



「永福寺」は、
鶴岡八幡宮・勝長寿院とともに、源頼朝が建立した3大寺院のひとつでした。
      
復元模型図 (説明パネルより)

1189(文治5)年に奥州藤原氏を攻めた頼朝は、平泉の中尊寺や毛越寺に
感銘を受け、源義経・藤原泰衡をはじめ多くの死者の霊を供養するために寺の
建立を思い立った・・とは表向きで、権勢を誇示する狙いがあったといわれます。

1191(建久2)年に着工し、翌年にはほぼ完成した壮麗な伽藍は
1405(応永12)年に焼失、室町時代に廃絶してしまいました。

近年まで長い間、オギが茂るばかりの場所でしたが、1967(昭和42)年度より
市による土地買収が進められ、史跡公園として生まれ変わろうとしています。

ウ~ン、‘猫’は前のままの方がよかったな・・・




21,804歩 





鎌倉・吉沢川を遡って

2012-04-20 | 鎌倉・逗子・葉山


今回は、独りではとても行けそうもない鎌倉の‘秘境’を歩きました。
もちろん、ガイドさんに案内していただいて・・


先ずは、神社にご挨拶してから。
今日も楽しく、無事に歩き通せますように!


十二所神社

          祭神: 天神七柱(あまつかみななはしら)
              地神五柱(くにつかみいつはしら)
創建: 1278(弘安元)年

もと「光触寺」にあった村の鎮守 熊野十二所権現社からと伝わり、
12の神々を祀るところから「十二所神社」と称します。
1838(天保9)年に現在地に移転、明王院の所管となりました。

境内には、山の神・疱瘡神・宇佐八幡・地主神のお社があります。

社殿向拝の彫刻は、「うさぎ」。
お釈迦様の使者とも化身ともいわれるそうで・・




では、これから神社の近くを流れる「吉沢川」沿いに遡って行きます。


吉沢川
鎌倉最大の川、
全長5.6kmの 「滑川(なめりがわ)」の
源流の一つといわれています。



最初は川沿いに立ち並ぶ民家の間を歩いて行きますが、ほどなく山道になり
やがて次第にけもの道のように細くなり、途中で藪こぎしたり流れを渡ったり・・

                            ロープを伝って流れに下り・・
                           ↓
      
「童心に帰るね~」と、メンバーはすっかり〇〇探検隊の気分
トレッキングシューズ履いてきて良かったね~


だんだん‘秘境’らしい雰囲気に・・


凝灰砂岩の川底を、滑るように水が流れて行きます。
「滑川」の名を実感する光景☆



鶯の歌声をBGMに、美しいモミジの若葉の下を
「寿命が延びるよね~」と口々に言い合いながら

1時間ほどの、本当に楽しい‘探検’でした


そして、「天園」に到着。
今にも泣きだしそうな空模様ですが・・・ 柔らかな木々の色☆



腹時計は、ジャスト正午  
鎌倉の最高峰、標高159mの「大平山」の上で  タイム~


午後からは、「覚園寺」の方へ下りて行きます。

(続)






鎌倉・杉本寺

2012-03-08 | 鎌倉・逗子・葉山


「田楽辻子のみち」を離れて、川沿いに金沢街道へ。



バス通りを駅へ向かう右側に、たくさんの白い幟。



石段の先の仁王門をくぐると
      


大蔵山 杉本寺

天台宗のお寺です。

   建立: 734(天平6)年
開山: 行基上人
開基: 光明皇后
    本尊: 十一面観音菩薩
鎌倉最古のお寺で、坂東三十三観音霊場第一番御札所。

薄暗い本堂の天井や柱には、千社札が無数に貼られています。 
運慶作の地蔵菩薩像などを間近で拝観。 奥まった格子戸の
向こうに、
3体の観音像。 そのうち1体は行基上人の作とか。


本堂後ろの山には、嘗て杉本義宗(三浦大介義明の長男)が築いた
「杉本城」があり、六浦道(金沢街道)に睨みを利かしていたといいます。

境内横の石段を上っていと、それを実感できる眺望が広がっています。


あ、見つけた! 初スミレ



境内には たくさんの石塔

1137(建武4)年 後醍醐天皇の命を受けた北畠顕家による
鎌倉攻めで、戦死した者たちの供養塔だといわれます。

六地蔵と並んで祀られている石仏は
「身代わり地蔵」

杉本義宗に向け放たれた矢が当たった際に
血を流したという伝説があるお地蔵さまです。






さて、もう1箇所寄り道しながら帰るとしましょうか♪



荏柄天神


社殿前の紅白の梅が、だいぶ咲いてきました
      


参道の梅も・・ほら☆


去年の様子


19,551歩






鎌倉・田楽辻子のみち

2012-03-07 | 鎌倉・逗子・葉山


R204(金沢街道)の「大御堂橋」の信号を右へ入ると

大御堂橋



下を流れるのは「滑川(なめりがわ)」



橋を渡ったところに

文覚上人屋敷跡」碑


碑の前の道が「田楽辻子(でんがくずし)のみち」と呼ばれています。

「田楽」は平安時代に始まった民間芸能でしたが、鎌倉・室町時代に
大いに流行し、幕府の武士達も競って田楽師を抱えていたようです。
この辺りに、そうした田楽師が住んでいたことがこの名の由来とか。
「辻子」は、通り抜けできる小路のことだそうです。



川沿いに道を左へ進み、ほどなく右側の小路に入ります。
谷あいの静かな住宅地の中を100mほど行くと、左に

勝長寿院旧蹟」碑


「阿弥陀山 勝長寿院」は、鎌倉初期に源頼朝が父 義朝の菩提を
弔うために建立しました。運慶作の本尊 金色阿弥陀仏などが
並ぶ壮大・華麗な大寺は、鶴岡八幡宮・永福寺とともに鎌倉の
三大寺社とされていましたが、室町時代に廃寺となりました。


碑の傍らに、2基の五輪塔

平治の乱で敗れ東国へ逃れる途中、知多半島で謀殺された
源義朝と腹心の鎌田政清(のちに家)の供養塔といわれます。
元々あったとされる主従の墓が失われたため、昭和になって
地元の有志の方たちによって再建されたものだということです。

少し先の右手に見えるのは、寺ゆかりの石塔?
住宅の奥で、行けないので確認できませんが・・


嘗ては御堂のほか三重塔や釣り殿なども有した壮麗な大寺が
あったこの谷も、現在は山裾の住宅地に変貌しています。


「この先 行き止まり」の看板があったので引き返して・・



再び 田楽辻子のみちを進むと、途中で右折する道が
釈迦堂口」へと続いています。

何年も前に、釈迦堂切通しの岩の洞門を通ったことがあります。
その後 崩落の惧れがあり通行禁止になったと聞きましたが
今はどうなっているのでしょう? ちょっと行ってみましょうか。



こうなっていました・・ この奥ですね。 
今では通行はおろか、見ることも出来ません。
      



もう少し田楽辻子のみちを行ってみましょう。

上杉朝宗及氏憲邸跡」碑

上杉朝宗は犬懸上杉氏の2代で、足利氏満・満兼を補佐した鎌倉執事。
氏憲はその子。 この犬懸ヶ谷辺りに邸宅を構えていたようです。

碑から右折する道を上っていくと、衣張山へのハイキングコースです。

碑の向かい側に「田楽辻子のみち」の説明板


道は「宅間ヶ谷」の方へ続いていますが、今回はここまでにして
駅への帰り道に、ちょっとまた寄り道をしようかな・・




大蔵御所跡3

2012-02-04 | 鎌倉・逗子・葉山


細い路地を抜けて、やっと広い道に出てきました☆


東御門の住宅街です。
垣根をめぐらした広い敷地のお屋敷が並んでいます。

猫の子一匹歩いていませんね・・静か~!


建仁寺垣がひときわ目を引く、いかにも鎌倉といった佇まいの邸宅は、

村上邸

市の「景観重要建築物」に指定されています。
設計・施工:不詳  非公開
昭和14年以前に建てられたもののようです。

幾度か増改築されながら住み続けられてきた和風木造建築で、
主屋の一部を改造して設けられた能舞台があるそうです。
敷地内には別棟のお茶室もあるとのこと。 能や謡の会や
お茶会などといった雅な催しが行われてきたのでしょうね。


村上邸の隣家も、広い敷地のお屋敷です。

樹木の多い敷地内には、大名庭園にでもあるような
びっくりするほど大きな石塔が建てられてあります。
今は無住でしょうか、庭や門塀が荒れているのが・・



その先の四辻に

東御門」碑

「大蔵幕府ニ四門アリ方位ヲ以テ名ツク其東ニアルモノヲ東御門ト
謂フ今転ジテ地名トナル法華堂ノ東方一帯ノ地即チ是ナリ
                   大正十五年三月建  鎌倉青年団 」

現在 この石碑が「東御門」の名残をとどめるのみで、
地名は「西御門」となっているということです。


東御門橋

この辺りを流れている小さな流れは、往時 大蔵幕府を
警護する堀であったかもしれないといわれます。


「清泉小学校」の児童が調べて書いたのでしょう。
分かりやすい手書きの案内が掲示されていて、感心しました☆



ちょっとした探検気分の、楽しい散歩でした♪

12,612歩







大蔵御所跡2

2012-02-03 | 鎌倉・逗子・葉山


人家の外れにある山に沿った細い道は
ほとんど人の気配もなく静まり返っています・・



急な物音に驚いて見上げると

リスが4・5匹電線伝いに、茂みに跳び込んでいきました。
突然の闖入者に驚いたのかな。 ゴメンね~



山裾の道の途中に、石段と石燈籠がありました。
燈籠の台座には「覚阿大江公・・」の文字。
江戸時代 長州藩によって造られたといわれます。
      


石段を上って行くと・・


広い平場があり、その奥に更に長い急な石段が2本。
鳥居のある方の石段を上ってみます。


石段はどちらから上っても同じでした(笑)
どうして2本になっているのか分かりませんが・・

石組みのやぐらが3基並んでいます。
毛利秀光・大江広元・島津忠久の墓とされています。

左側

毛利秀光
大江広元の子。のちの中国地方の大名 毛利家の祖といわれます。

中央

大江広元(1148-1225)
兵庫出身ともいわれますが、出自には諸説あり詳細は不明。
鎌倉に下り、公文所別当として幕府の政治を進めました。
出家して「覚阿」と称しました。

右側

島津忠久
源頼朝の子と称しました。島津家の祖といわれています。

古墳時代の横穴式の墓を改修したものだともいわれています。
それぞれの内部に置かれた五輪塔は、近世のものであるとも。

「 杉なくて 松ひやゝやかや 覚阿公 」  河東碧梧桐



傍らの石碑を支える亀は、こんな顔・・

ひぇ~~



石段を下り、先程の道を更に進みます。
左側の斜面の水仙の群生に埋もれるように

村田清風歌碑
      
碑の文字は、もうはっきり読めなくなっていますが・・
説明板によると;
村田清風(1783-1855)
長州藩士。藩校 明倫館に学び藩政に参画。40年にわたり
藩政改革・指導や藩士の子弟教育に功績を残し、また
国学者として、かの吉田松陰らを育てました。鎌倉へは
1823(文政6)年 大江広元の墓の整備のために訪れ、
滞在中に詠んだ歌が碑に刻まれているとのことです。

「 鎌倉の御事蹟を 探り探りて  むかしがたり きくきくむしる 尾花哉 」


この山裾の細道は どこへ続いているのでしょう?






鎌倉・大蔵御所跡

2012-02-02 | 鎌倉・逗子・葉山


「大蔵(大倉)御所」は、1180(治承4)年に鎌倉入りした
源頼朝が建造した寝殿造りの豪壮な居館で、その後
1225(嘉禄元)年に宇津宮辻子に移される迄の46年間、
源家3代の政治が行われた場所で、大蔵幕府と称しました。

今日は、その一帯を散策してみようと思います☆



「鶴岡八幡宮」の流鏑馬道を抜け、「横浜国大附属小学校」の
校門前を過ぎて、西大路の途中で右折して桜並木の道へ。

桜道

赤いポストがいい感じですね~

約300mほどの石畳の道に、桜の老木が並んでいます。
この桜道一帯は、昭和初期頃までは畑が広がっていたとか。
花の季節には、はらはらと舞う桜吹雪にいや増す古都の風情


ポストの角を左折し「清泉小学校」に沿って行くと、山を背負って


1199(正治元)年 頼朝が53歳で没すると、自身の持仏堂で
あった法華堂に葬られました。 堂はのちに廃絶しましたが
この丘の上一帯が、その跡であるといわれています。


まず、石段を数段上った左側に

白旗神社

祭神:源頼朝公

ここは もと御所の北隅で公の没後は持仏を祀り
将軍や武家が参詣、仏事を執り行ってきましたが
明治維新に際し、「白旗神社」に改められました。
現社殿は、1970(昭和45)年造営されたものとか。


右側の立派な石碑

2000(平成12)年 「頼朝会」により建立されたそうです。

説明板によると;
歌は、中世史研究の権威で頼朝研究の第一人者だ
った
大森 金五郎氏(1867-1937 )によるものとあります。
「君出でて 民もしづまり 九重の 塵もをさまる 世とはなりにけり」
                         

正面の長い石段を上った所に、五層の石塔。

源頼朝公墓所

石塔は、島津藩主 島津重豪(しげひで)が
のちに整備したものとされています。



さて、‘猫’の前に参拝を済ませた4人連れの中年男性が
石段を下ると、石碑脇の細道に入って行くのが見えたので
少し距離を置いて‘猫’もその道へ行ってみることにしました。

何があるのかな? ちょっとドキドキ~♪





逗子・東郷橋

2012-01-29 | 鎌倉・逗子・葉山


JR「逗子」駅から海へ向かって行く途中、
コンクリート造りの小さな橋を渡ります。

「東郷橋」

小さいけれど、どことなく風格が感じられる立派な橋です。
傍らに、「かながわの橋100選」に挙げられていることを示すプレート。


日露大海戦での勝利を祝って名づけられたとか。
この付近に東郷平八郎氏の邸宅があったそうです。

現在の橋は、1927(昭和2)年に架けられたもので長さ10.6m。
橋名が右書きですね☆

下を流れるのは「川間川」





付近の小路を入って行くと、垣根に囲われた大きなお屋敷が
並んでいたりして、‘垣根フェチ’の‘猫’を喜ばせます☆












14,839歩 



雪ノ下道

2012-01-26 | 鎌倉・逗子・葉山


八幡宮を後に、バス道路を巨福呂坂切通しに向かって
上って行くと、右手の駐車場を過ぎた所に

鶴岡文庫




鶴岡八幡宮が所蔵する古文書をはじめ
神道に関する資料や
鎌倉の歴史・文化に関する資料をパソコンで閲覧できるほか
ここで教養講座なども開催されているようです。




右手の坂を上ると、左の人家の間を
山に向かって小路が続いています。


鎌倉時代 源頼朝が、夏に備え雪を氷室に蓄えさせたという
「雪室」が置かれていたのは、この谷辺りだったのでしょうか。
「雪ノ下」というゆかしい地名が残っています。


小路を進んで行くと、突き当たりに

今宮(新宮)」

鶴岡八幡宮の境外社。



祭神: 土御門院・後鳥羽院・順徳院
1221(承久3)年 鎌倉幕府倒幕を謀って敗れ、流罪となって
怨念のうちに崩御された後鳥羽上皇らが祀られています。

境内は樹木やシダが生い茂るばかりで、人けもありません。
バス道へ戻る足も、我知らず急ぎ足に・・



バス道路の反対側に、立派な石碑が建てられてあります。

道元禅師顕彰碑

2002(平成14)年 曹洞宗 道元禅師の750回大遠忌に建立。
「只管打坐(しかんたざ)」は、永平寺第78世 宮崎奕保師の揮毫。

1247(寛治元)年 禅師48歳の時、永平寺大檀那 波多野義重氏の
懇請を容れて鎌倉に下向。半年間滞在し、執権 北條時頼の
求めで説法・授戒を行いましたが、時の権力と繋がるを嫌い
その後は生涯、永平寺から出ることはなかったといいます。

石段の段ごとに「十重禁戒」が刻まれてあります。





バス道路を更に行くと、また右に分かれている道があります。
その道を入り、少し先の右側にフェンスで囲われた広い一画に
石碑1基と説明板がありました。

二十五坊跡


説明板によると;
八幡宮の別当寺があった所で「御谷(おやつ)」とも呼ばれています。
建久年間(1190年代) 頼朝は供僧二十五口の制を定め、
八幡宮寺に仕えた25人の僧侶にそれぞれ住房を設置しました。
僧の多くは、壇ノ浦で滅んだ平家の遺児だったといいます。

当時は、この宮寺の別当が東大寺や東寺などの別当を兼ねるなど
仏教界の中心の1つとなっていましたが、幕府滅亡後は興亡を経て
明治初年に 神仏分離の影響を受け、廃絶しました。


その後 宅地開発の危機がありましたが、市民の活動もあって
開発は中止され、現在は国史跡として保存されているそうです。



ここにもいつの日にか、僧房が復元されるでしょうか?
永福寺跡のススキ原のように・・



初詣??

2012-01-25 | 鎌倉・逗子・葉山


初詣や七福神めぐりなどでごった返していた鶴岡八幡宮も
どうやら落ち着いて、いつもの人出に戻ったようです。


今日もウィークデーとて、そこそこの賑わい。

‘猫’は今日が今年初めて・・・一応「初詣」だな(笑)
今年も、よろしくお願いいたします!


      

石段の途中から見下ろすと、がんばってるね 大イチョウ!

左が残った株、右は移植された幹。前は両方とも、わさわさと
‘ひこばえ’が出ていたけれど、今はスッキリしています。



参拝を済ませて・・
境内の手水舎の横を入ると、石の鳥居の先に

「祖霊社」

八幡宮の氏子の霊を祀るお社のようです。
観光客も殆どいないので、いつもひっそり静かな場所。


周囲は樹木が茂る林で、中に入ることは出来ませんが
いつも「いいなぁ☆」と、立ち止まって眺めています。



祖霊社の横の道も、なかなかいいでしょう?


‘猫’の好きな道のひとつです☆






鎌倉・小町大路

2011-12-25 | 鎌倉・逗子・葉山


鶴岡八幡宮に向かって真直ぐ伸びる「若宮大路」に
ほぼ並行する「小町大路」を歩いています。


車の往来の激しい道の右側に、

日蓮上人辻説法跡」

往時 この辺りは武士の屋敷と商家が混在し、人の往来が
盛んでした。鎌倉に入り松葉ヶ谷に庵を結んだ日蓮上人が
日毎 路傍に立って説法を行った場所といわれています。



ほどなく、今度は左手奥にお寺の山門



叡昌山 妙隆寺

日蓮宗のお寺

   創建:1385(至徳2)
開山: 日英上人
開基: 千葉胤貞

 この辺りには、鎌倉幕府御家人 千葉氏の屋敷があったようです。
当寺第2代 日親上人は、宗祖日蓮に倣い『立正治国論』を献じて
室町幕府第6代将軍 足利義教の政道を諌めたことで弾圧され、
灼熱の焼け鍋を被せられましたが自説を曲げなかったとか。

「鍋かむり日親」と呼ばれる上人が、寒中 百日水行を
行ったとされる「血の池」が、本堂前にあります。



境内のお堂には、「鎌倉江ノ島七福神」の
寿老人像(欅一木造り)が祀られています。





道々 民家の美しい竹垣が散歩の目を楽しませてくれます




路地を入った所にも






「祇園山ハイキングコース」への上り口に、 1924(大正13)
建造の鉄筋コンクリート製のアーチ橋が架かっています。
「かまくら景観100選」に選定されています。

東勝寺橋



小町大路に戻って、左手の碑は

青砥藤綱邸跡

東勝寺橋の下を流れる「滑(なめり)川」に落とした十文銭を
探すための松明を五十文払って買い集め
たという、歌舞伎で
お馴染みのエピソードが残る青砥藤綱は、北条時頼の家臣。



さらにその先、左側の碑は

土佐坊昌俊邸跡

昌俊はもと奈良・興福寺金剛堂の堂衆で、のちに源頼朝に臣従。
頼朝が京の義経を誅殺せんと御家人から人を募り、名乗り出る
者がなかったとき、進んでその任を引き受けて京・堀河館の
義経に夜襲をかけましたが、逆に捕らえられて殺されたとか。



やがて、右側に

北条執権邸跡

嘗て この辺りに北条氏の屋敷があったとされます。

新田義貞の鎌倉攻めにより滅亡した北条高時をはじめと
する北条一族の霊を弔うため、後醍醐天皇の命によって
足利尊氏が建立したお寺があります。

金龍山 円頓 宝戒寺




天台宗のお寺

  創建: 1335(建武2)
     開山:五代国師(円観慧鎮)
開基: 後醍醐天皇
    本尊: 木造地蔵菩薩像
                   (国指定重要文化財)

「鎌倉江ノ島七福神」の毘沙門天が祀られています。
秋の白萩が美しく、「萩の寺」としても有名ですね。

境内には、聖徳太子を祀る「太子堂」や「得宗権現社」など
      


今日の小町大路歩きは、このお寺をゴールとしましょう~

17,487






名残の紅葉

2011-12-23 | 鎌倉・逗子・葉山


陽射しのない寒い1日になりました。

白いものが今にも落ちてきそうな雲行きですが・・贅沢は言えません。
寸暇を惜しんで(笑) 出かけま~す


紅葉の最盛期はそろそろ終わりに近くなりましたが、
鎌倉なら、まだ名残の紅葉が見られるかも!
 
で、
比企ヶ谷の妙本寺さんに行ってみました。















大イチョウもまだ、黄葉が残っていました
      


鐘楼






まだ十分楽しめました☆ よかった~





神武寺の秘仏

2011-12-13 | 鎌倉・逗子・葉山


医王山 来迎院 神武寺」は、緑豊かな山稜に位置し
寺域の自然林は特にシダ植物の宝庫で、さながら
深山に分け入る気分にさせてくれる天台宗の古刹です。

縁起によれば;
724(神亀元)年 聖武天皇の勅願により行基の創建と伝わります。
平安時代には文徳天皇の勅願所となり、857(天安元)年には
延暦寺座主円仁(慈覚大師)により法相宗から天台宗に改宗。
鎌倉時代には、源頼朝・実朝ほか武士階級の帰依を受けました。
江戸時代に入っても幕府の寄進を受け、寺勢を保持し続けました。

山岳信仰の寺院として、長い間女人禁制でした。




切通しの先に、客殿と庫裏があります。




客殿には、鎌倉後期作の「阿弥陀三尊像」が祀られています。
(思いがけなく、撮影の許可が頂けたので・・)




切通し横の石段を上ると、
「三浦半島八景※」の「神武寺の晩鐘」で知られる「鐘楼」。
      
1859(安政6)年築  梵鐘は1950(昭和25)年鋳造

※三浦半島八景
神奈川県が半島地区の4市1町と協議のうえ選定委員会を
設置し、2001(平成13)年に次のように選定されたそうです。
・大塔(鎌倉宮)の夜雨     ・神武寺の晩鐘  
・燈台(燈明堂)の帰帆  ・猿島の晴嵐  ・大仏の秋月  
・城ヶ島の落雁  ・長者ヶ崎の夕照  ・建長寺の暮雪 


六地蔵の先の、朱塗りの「楼門」は
1761(宝暦11)年建立と伝わります。



「薬師堂」
行基が建立したといわれるお堂は火災で焼失、現在のお堂は
1594(文禄3)年に徳川家康が復興したものだということです。

いつもは大変静かなお堂が、今日こんなに賑わっているのは
毎年この日(12月13日)
午前中に「お煤祓法会」が行われるから。
祀られている本尊の薬師三尊像は、33年に1度ご開帳の秘仏ですが
お煤祓法会のこのときだけは、拝観をすることができます。
もちろん撮影はできませんが、間近に拝観できる貴重な機会です☆


先ほどの客殿にあったご本尊の複製画像を、代わりにご紹介しましょう。
柔和なお顔立ちの優しい仏さまでしたよ。 市指定重要文化財




境内の一隅にある「みろくやぐら」は、鶴岡八幡宮雅楽所の首長だった
中原光氏(みつうじ)の墳墓窟で、正応3(1290)年銘の弥勒菩薩坐像が
祀られています。 その周囲には、卵塔がずら~り。



このように埋葬者が明らかな「やぐら」は珍しいそうです。



裏参道に続いている「総門」をくぐると

1733(享保18)年築



また 山道を登って行きます。



(続)