伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

『真夏の狂詩曲』

2021年07月27日 | エッセー

 

 今月26日、霊長類学のオーソリティで前京大総長の山極寿一氏が朝日新聞のオピニオンに「豊かな『遊び』、スポーツの起源に帰ろう」と題して寄稿した。要点は以下の通り。

▼スポーツの起源は遊びである。ゴリラもよく遊ぶ。身体を酷使する競技となったのは19世紀以降である。
▼相手に勝つことが目標ではなく、よりいっそう信頼できる仲間となること。
▼しかし、最近のオリンピックは商業主義が目立ち、大量の札束が飛び交う国家事業になった。
▼一番の問題は、オリンピックが国の威信をめぐる戦いの場と化していることだ。
▼4年ごとに開催国を変える方式も改めたほうがいい。多大な費用がかかり、大規模な開発が行われるからである。
▼いっそのこと、オリンピックの開催を発祥の地であるギリシャに固定したらどうだろう。そうすれば聖火リレーも必要ないし、競技場も繰り返し使える。
▼開発国家の夢を追い続けるかのような開催国のたらい回しは、低成長時代にふさわしいとは思えない。
▼新型コロナを体験した私たちは、スポーツの本来の意味に戻る必要がある。スポーツを経済的な目的を持たない、人間の福祉に貢献する遊びと考えれば、新しい世界が開けると思う。(寄稿)

 「遊び」を超えたスポーツの過剰性を五輪から取り除く──開催地のギリシャ固定はこのブログで何度か主張してきた。我が意を得たり、である。聖火リレーは元々後付けの振り付けである。プロ参加もIOCの商業主義による拡大策。メダルも近代オリンピックの産物。そういった余計な装飾物をかなぐり捨てて、遊びの原点に戻ってはどうか。だから、伝統ある世界大会を持つ競技は五輪から除外する。テニスはウインブルドン、サッカーはワールドカップ、ゴルフは4大メジャー大会などだ。スケボーなどの新しいスポーツは世界的規模になってから考えればいい。五輪に便乗してアピールするのもなんだかかー、である。「よく遊ぶ」ゴリラは集団の威信を賭けて「身体を酷使」したりはしない。ヒトは遊ぶゴリラを見て笑うけれど、ゴリラは勝負するヒトを見て眉をしかめているにちがいない。
 もう一つ取り除くべき過剰性がある。「経済的な目的を持たない、人間の福祉に貢献する遊び」のはずなのに、『物語』が過剰に多くはないか。勝ちにも負けにもやたら涙のドラマが饒舌に語られる。当今のワイドショーの影響だろうが、プライベートなことまで微に入り細を穿って物語に仕立て上げられる。張本人はTVを主軸とするマスコミだ。「がんばりました。勝ちました。おめでとう!」、「がんばったけど負けました。残念、お疲れ様」でいいではないか。奇蹟を生んだ裏話は当の本人が自叙伝でも書けばそれで充分だ。赤の他人のアナウンサー如きが涙ながらに語るのはおこがましい。感動の押し売り、いや、感動の叩き売りだ。「感動をもらいました」と、馬鹿の一つ覚えのように繰り返す。小さな親切大きなお世話である。感動とはそんなに薄っぺらなものだったのか。感動はあげたりもらったりするものではない。自らの胸中に抑え難く湧き出(イズ)るものだ。母語を満足に操れないアナウンサーが粗製濫造された結果であろう。観ているものが感動すれば、そこに加えることはなにもない。世の中、そんなに感動がないのか。市井に生きる民草は毎日が本物の『ドラマ』を紡いでいる。それこそ本物の『感動』である。
 不利な海外勢を相手にメダルラッシュで湧かせて支持率回復を狙う。「あんなくだらないヤツ」のマヌーヴァに騙されるわけにはいかない。8月には感染者数は5000人規模に達するだろうと予測されている。ワクチンなんて間に合うはずがない。
 「狂気の沙汰」(内田 樹氏)が繰り広げる『真夏の狂詩曲』。浮かぶのは黒澤映画『八月の狂詩曲』のラストシーンだ。突如原爆の恐怖が蘇った老婆が「ピカが来た」と叫んで、豪雨の中を強風に向かって突き進む。息子や孫たちが追いかける。手にした傘が煽られ壊れていく。“狂”ったのはどちらか。原作は1987年芥川賞を受賞した村田喜代子作『鍋の中』だ。一夏に起こった出来事の連なりが遂に戦争の不条理を告発する。まるでラプソディーのコーダのように。
 今、東京で奏せられている『真夏の狂詩曲』。はたして政権はコロナの狂風の向こうになにを幻視したのであろうか。突き進む先にはなにが俟っているのだろうか。“狂”ったのは誰だったのだろうか。天皇は「祝して」を明確に避け、「記念」すると宣した。天皇の宣言には高々と正気が宿る。せめて『八月の狂死曲』にだけは堕することなきよう、切に祈りたい。 □


10歳の『イメージの詩』

2021年07月24日 | エッセー

「吉田拓郎さんが歌っているオリジナル版はレコーディングをした数日後に初めて聞きました。先に聞いていたら、そっちに引っ張られちゃったかもと思いました」
 これには参った。膝カックンを喰らったような、いやバックドロップで打ちのめされたような衝撃だった。
 稲垣 来泉(いながき くるみ)、なんと10歳である。小学4年のがきんちょが、こともあろうに拓郎の『イメージの詩』を熱唱している! それだけでも驚き桃の木山椒の木なのに、冒頭に引いた発表会見でのコメントで一驚、二驚、三、四が飛んで五免なさい。いえ、御免なさいだ。
 明石家さんまが企画・プロデュースし、6月に公開された劇場アニメ映画『漁港の肉子ちゃん』。その主題歌にさんまが選んだ曲が、彼が人生の教科書とリスペクトする『イメージの詩』だった。
 以下、“映画.com”を引用する。 
〈明石家さんまの企画・プロデュースで、直木賞作家・西加奈子の同名ベストセラー小説をアニメ映画化。漁港で暮らす食いしん坊で脳天気な肉子ちゃんは、情に厚くて惚れっぽく、すぐ男に騙されてしまう。しっかり者でクールな11歳の娘キクコは、そんな母のことが少し恥ずかしい。やがて母娘(ハハコ)の秘密が明らかになり、2人に最高の奇跡が訪れる。底抜けに明るくパワフルな主人公・肉子ちゃんの声を大竹しのぶが担当。木村拓哉と工藤静香の長女でモデルのCocomiがキクコ役で声優に初挑戦し、「鬼滅の刃」の花江夏樹らが共演する。「海獣の子供」が高い評価を受けた渡辺歩監督とSTUDIO4℃が手がけ、スタジオジブリ出身の小西賢一がキャラクターデザイン・総作画監督、「サヨナラまでの30分」の大島里美が脚本を担当。〉
 「食いしん坊で脳天気」、「情に厚くて惚れっぽく」、「底抜けに明るくパワフル」な母親VS.「しっかり者でクール」な娘。対極にコロナ禍を措き、さらに当今の母娘関係を下に敷くとなにやらいい按配なドラマツルギーが見えてくる。おもしろそうだ。さんまの新境地か。
 発表会見に戻ろう。
〈お母さんに「歌詞の意味を分かったうえで歌うといいよ。そうしたら、気持ちが入ってきっともっと良くなる」と言われて。歌詞の意味を自分でいろいろ考えました。歌いだしは語りかけるように歌ったほうがいいかなと思ったのでそうしました。
 ボブ・ディランみたいに“語り掛けるように”歌ってほしい」と言われました。ボブ・ディランは知らなかったんですけど、誰かに話しかけるように歌ったらいいんだなと思いました。〉
 もう、脱帽である。ついでに頭をそっくり外したい。後生畏るべし。畏るべき10歳である。拓郎も絶賛しているらしい。彼にとっては孫世代であろう。
 世代を括ることは流行歌、ポピュラーミュージックの手柄である。その当時はさほど興味もなかった曲なのに、後々同輩と「あの時代」を語る格好な書割となる。“リニューアル”した『イメージの詩』はたとえ架空にしても、「漁港」で母娘が共有した「あの時代」の後景となるに違いない。それはきっとさんまのキャラクターに似て賑やかな漁港と青い海、紺碧の空、白い曇……オーディエンスが抱くこの国の原風景にピタリと重なるだろう。 □

 

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『漁港の肉子ちゃん』主題歌「イメージの詩」MV / 稲垣来泉

劇場アニメ映画「漁港の肉子ちゃん」主題歌「イメージの詩」を歌う稲垣来泉によるミュージックビデオを公開。今作は、映画の舞台となった「漁港」での...

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ツッコミを入れたくなる折々のことば

2021年07月23日 | エッセー

●小学校の終業式で校長先生が腹話術を披露しました……マスクして
 (NHK某地方局のローカルニュース)
      ◇
 全員集合ができないので、各教室のモニターに校長先生の特技が映し出されました。「皆さん、一年間よくがんばったね」と。でも、校長室から配信するならマスクは無用では。誰も気づかなかったのでしょうか? それをNHKが流す? おいでやす小田なら、
「マスクしてなら誰だってできるやないか!! NHKは何を見とんねん!!」
と、絶叫することでしょう。

●病気と治療を抱え、体力が万全でないという苦痛の中、国民の皆様の負託に自信を持って応えられる状態でなくなった以上、総理大臣の地位にあり続けるべきではないと判断いたしました。
 (昨年8月、辞任会見にて)
      ◇
 拙稿『あんちゃん、言ってやったぜ!』(本年5月)でも触れました。辞任直前には天丼とサーロインステーキを完食なさったという証言があります。本来トップシークレットのはずなのに、わざとらしい検査のための病院への往き来。もうそこから変でしたね。今はキングメーカーよろしくご活躍とか。おいでやす小田ならずとも、
「仮病使って首相を辞めてもええんかい!!」
と、ツッコミを入れたいですね。

●私からもお詫びを申し上げたい。
 (今月14日、官邸でのぶら下がりで)
      ◇
 言うことを聞かない呑み屋には金を貸すな、という西村担当相の強権発言に当初「西村大臣はそうした発言は絶対しない」と応じていました。ところが一転、世論の反発にこう陳謝しました。「私からも」の『も』がいけませんね。リーダーなら部下の失態は自分の責任でしょ。責任逃れとはみっともなくありませんか。それとも、内閣ぐるみの実態を隠そうとしているのでしょうか。
「わたしの責任ですとなんで言われへんねや!!」
 おいでやす小田の雄叫びが聞こえてきます。

●新型コロナウイルスの感染状況が改善すれば、有観客も検討してほしい。
 (バッハIOC会長、今月14日菅首相との会談で)
      ◇
 首相側は明確な回答はしなかったらしいです。なんだか、日本の情況について一番分かっていないのはぼったくり男爵なのではないでしょうか。
「あんた、どこまで分かっとんねん!!」
 おいでやす小田なら、きっとそうツッコむでしょう。

●パラリンピックまでには、この感染状況が変わってきたら、ぜひ、有観客の中でというふうに思っています。
  (今月22日、官邸にて菅首相)
      ◇
 オリはダメだが、パラならワクチンが効いてきてOKという読みでしょうか? それを東京が感染者数1900超えのその日に言う? 専門家はパラの頃3~4000人に感染者は達するだろうと予測しています。どういう計算なんでしょうか?  
「官邸の計算機は狂っとんのかい!!!」
  と、おいでやす小田は叫声を発するでしょう。

●もう危機だ、危機だと聞き飽きたかもしれませんが……
  (今月21日、都庁にて小池都知事)
      ◇
 都内感染者1832人、水曜日では過去最多。そんな時に、寒いオヤジギャク(オバさんギャグかな)を飛ばしますか? 寅さんなら、
「たいしたもんだカエルのしょんべん、見上げたもんだ屋根屋のふんどし」
 と、啖呵売の口上を繰り出してあきれ返るでしょうね。「たいしたもんだ」は「田にしたもんだ」っていう意味です。余計なお節介ですが。

●こんな状況での五輪強行は「ほとんど狂気の沙汰」である。後世の史家は「2021年の日本人は正気を失っていた」と書くだろう。
 (内田 樹氏、今月のAERAから)
      ◇
 ……ってなわけで、シッチャカメッチャカな「狂気の沙汰」が今夜始まります。
 おいでやす小田「やっぱり、やるんかい!!」
 バイキングの小峠君「なんて日だ!」
 
●大会組織委員会の名誉最高顧問を務める安倍晋三前首相が、五輪開会式に出席しないことがわかった。東京都に緊急事態宣言が出され、開会式が無観客で行われることなどを考慮したものと見られる。
 (今日の朝日新聞から)
      ◇
 「考慮」って、何を考慮したんでしょう? 鼻を摘まれても分かりません。反省というものを置き忘れて生まれて来た人ですから、「こんなことになってしまって……」ではないでしょうね。なら、首相だけに殊勝(駄洒落、失礼)な心がけですが。それとも「開会宣言をさせてくんないなら出ない」と駄々をこねているのでしょうか。言い出しっぺが悪臭だけを残してトンズラでしょうか。それにしても、次から次へ問題続出。モグラ叩きのようですね。
 おいでやす小田「おい、逃げるんかい!!」
 小峠君はいつも通り「なんて日だ!」
 寅さん「それを言っちゃおしめーよ」
 で、これでおしめーにします。 □


哀しみの千秋楽

2021年07月22日 | エッセー

 もう大相撲を観るのは已めよう。哀しみの千秋楽……。だが、哀しみは時を措かずして烈しい憤りへと転じた。
 翌19日の朝日は次のように伝えた。
〈長くにらみ合った。ようやく迎えた立ち合い。白鵬は相手の顔の前に左手をかざし、右ひじで強烈なかちあげをかます。張り手で隙をうかがい、右四つでがっちりまわしをとって自分の形に持ち込んだ。左の上手投げはまわしが切れたが、必死に相手の右腕をかかえて「最後の力を振り絞った」。自身16度目の全勝優勝を決めた。
 周囲が期待する、力と力でぶつかる立ち合いではなかった。荒々しさが目立つ横綱に「まあ勝負に徹したということかな」と八角理事長。当の白鵬は「右ひざがもうボロボロで言うことをきかなかった」と振り返った。
 花道を引き揚げる照ノ富士の髪は乱れ、白鵬から極められた右腕を気にするしぐさも見せた。白鵬に関する質問を「自分のことで精いっぱいなので」とさえぎった照ノ富士。悔しさをかみしめるように、「ここから良くしていきたい」と、成長を誓った。〉(抄録)
 北の富士は中スポにこうコメントした。
〈実は白鵬は照ノ富士が張り返すチャンスを狙っていたようだ。やはり海千山千の歴戦の横綱である。昔はやった言葉に「ほとんど病気」というのを覚えていますわ。白鵬がまさにそれです。どんなに非難されようが、勝つだけが相撲ではないと言われ続けて久しいが、直す気は全くないだろう。若い時は、尊敬する双葉山関や大鵬関に「少しでも近づこう」「ああなりたい」と思った時もあったと思う。しかし、今はすべての記録を破る事しかない。誰の忠告も通じないだろう。〉(抄録)
 相撲界のオーソリティは。白鵬の勝利至上主義を「ほとんど病気」と一刀両断した。宜なる哉だ。
 「相撲に勝って勝負に負ける」という古諺は今や「勝負に勝って相撲に負ける」に転じたのであろうか。比するに、照ノ富士のコメントがなんと清々しく高々しいことか。
 内田 樹氏の炯眼が胸に刺さる。
〈若い人たちにとって日本の国力がこれから衰微し続けるということはもう既定路線なわけです。V字回復はない、と。だったら、沈む船の中で最後に水没するエリアに這い上がるしかない。生き残り競争で相対的に優位に立つこと以上を望まない。船をもう一度浮かび上がらせるためにはどうしたらいいのかということはもう考えていない。
 人間は自己利益を増大させることよりも、同じ集団内部で相対的優位に立つことの方を優先するという法則を受け入れなくてはならない。「利益」より「勝利」の方が大切なんです。〈内田 樹×姜尚中「新世界秩序と日本の未来」集英社新書今月刊から)
 大相撲が「沈む船」に該当するかどうかはさて措き、「最後に水没するエリアに這い上がる」は白鵬の取り口や言動に酷似する。大相撲という「船」を「もう一度浮かび上がらせる」俯瞰的視野は微塵も窺えない。あるのは飽くなき自己利益の追求のみだ。ましてや、沈没船の最後の船長となる覚悟なぞはまったく見出し得ない。加えて、白鵬の「利益」には品格は毫もカウントされていない。
 記録が前人未到であっても、果たして白鵬はスーパースターといえるのか。いうまでもないが、ノーだ。
 旧稿を引きたい。
〈内田 樹氏は国民的スターに長嶋茂雄と車寅次郎の虚実2人を挙げる。共通点は「悪く言う人がいない」こと。さらにある種の「古代性」を指摘する。長嶋は球戯という祝祭の「不世出の祭司」であったし、香具師の寅さんは日本の独自文化を担った婆娑羅の末裔であったと。〉
 大谷翔平はどうか。
〈偏屈者の稿者でも大谷を「悪く言」った記憶は一度もない。アメリカでも「オ・オ・タニさん!」から「オオタニ・ショー」(独壇場と翔平を掛けたか)に変わった。それに、二刀流はベーブ・ルースという「古代性」を体現している。〉(今月3日「ムキャンキャク」から)
 「悪く言う人がいない」とはここに一人は確実にいる。横綱の品格が絶望的に欠落していることは衆目の一致するところだ。「古代性」の致命的な欠損に当たる。
 哀しみの千秋楽。明けて3日後、照ノ富士の横綱昇進。口上はこうだった。
「不動心を心がけ、横綱の品格、力量の向上に努めます」
 「品格」の二文字がキラリと光った。これで救われた気がした。場所前には「長くはできない」との覚悟も語った。9月場所では、擬い物ではない本物の横綱が土俵に上がる。今度は国技館。今から勇姿が楽しみだ。 □


聾唖内閣

2021年07月16日 | エッセー

 

「絹ごし豆腐より軟らかい地盤に構造物を設置するようなもので、あり得ない」
 辺野古の軟弱地盤を、ある識者はこう評した。政府はそこに土砂を投入し続ける。まるでパラノイアだ。
 土砂で珊瑚を踏み潰すように進めてきた埋め立てが、いよいよ軟弱地盤に行く手を阻まれた。もっともっと土砂が要る。昨年4月、沖縄防衛局は沖縄本島南部の糸満市と八重瀬町から県内土砂調達可能量の7割に当たる約3200万立方メートルを調達する設計変更申請を県に提出した。
 これが大問題なのだ。東京ドーム26杯分の土には沖縄戦戦没者の遺骨が含まれている。76年間、埋葬を待ち続けてきた同胞たちだ。靖国神社を英霊といっておきながら、こちらは単なる人骨だとでもいうのか。かつては本土防衛の捨て石にされ、今度は米軍基地の捨て石にされる。沖縄は2度に渡って陵辱されるのか。
 沖縄の地上戦では住民を含め県民の4分の1、12万人が亡くなった。だが、未だ2800柱は未発見のままだ。当然南部地域にも眠っている。そこを大型重機が無惨にも掘り返し、大型ダンプが否応なく持ち去っていく。想像するだに悍しい。旧稿を引きたい。


 イスラエルの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリはホモ・サピエンスは認知革命のおかげで、抽象思考、目に見えないものを認知する能力を獲得したという。併せてホモ属内での分岐の中で特徴的、いな唯一の出来事が起こる。それが墓だ。墓および葬送儀礼。これがサピエンスと他のホモ属とを別った。思想家内田 樹氏はこう語る。
 〈「死んでいる人間」を「生きている」ようにありありと感じた最初の生物が人間だ、ということである。「死んだ人間」がぼんやりと現前し、その声がかすかに聞こえ、その気配が漂い、生前に使用していた衣服や道具に魂魄がとどまっていると「感じる」ことのできるものだけが「葬礼」をする。死んだ瞬間にきれいさっぱり死者の「痕跡」が生活から消えてしまうのであれば、葬儀など誰がするであろうか。人間の人類学的定義とは「死者の声が聞こえる動物」ということなのである。そして、人間性にかかわるすべてはこの本性から派生している。〉(「街場の現代思想」から縮約)※19年3月「すべては墓から始まった」から


 寄り添うと言いつつも、本土の政権には靖国の声は聞こえても沖縄の声は専一的に聞こえていない。その聾者たる理路をぜひ語っていただきたい。「死者の声が聞こえる動物」という「人間の人類学的定義」を丸ごと放擲するほどの危機に人類が直面する事況をぜひ提示願いたい。
 寄り添うと言いつつも、沖縄の声をひとつとして米国に届けようとしない本土の政権。主権国家の平等を捨ててまで唖者の如く押し黙るその属国性について腑に落ちる理路の教示をぜひ要求したい。
 この2つができない限り、本土の政権は聾唖であることを免れない。
 さらにまた先月、菅総理と丸川担当相は五輪での感染拡大を純粋に科学的見地から懸念する天皇の声(世の専門家と同等の見解)を宮内庁長官の個人的発言だと強弁した。つまり、聞く耳を持たなかった。聾者を決め込んだ。これについても、個人的発言だったとする根拠を明示願いたい。加えて、天皇の発言を憲法違反だと無視することと天皇の発言を自分宛ではないと無視することとの逕庭はいかばかりかについて詳述を求めたい。併せて、天皇の意向に唖者の如く一切応答しなかったその合理的摂理を開示願いたい。
 今月14日宮内庁は、天皇は開会宣言のみを行い皇后は不参加、その他すべての競技にも皇室は出席しないと発表した。事由はともあれ、これが天皇のアンサーであり長官の忖度ではなかったことのなによりの証左である。
 刻下、五輪を目前にして聾唖内閣は断末魔の機能不全に陥っている。これを自業自得という。もはや救い難い。 □


<承前>激辛勝者は鳥人間

2021年07月14日 | エッセー

 植物は動けない。庭の松がお隣さんの庭に越したなんていう話はない。しかし植物が海から陸(オカ)に上がって4億5千年、絶滅の危機を乗り越えて進化を続け、現在27万種が生息している(一説では250万種)。昆虫95万種に次ぎ、鳥類9千種、哺乳類6千種を大きく引き離す。身動き取れない植物はどのようにして生き残ってきたのか。これが面白い。
 コーヒー豆に含まれるカフェインには毒性がある。ごく少量の摂取であり、人間は解毒分解酵素を持っているので害はない。だが他の植物には有害となる。豆が地面に落ちて芽を吹く時、カフェインを大量に周囲に撒き散らして多種の芽生えを抑え込んでしまうのだ。熾烈な生存競争である。
 渋柿の渋みはタンニンに因る。種子が成熟するまではタンニンをため込み動物を遠ざける。完熟するとタンニンが変質し、動物が大好きな餌となる。中の種子は動物を介してあちこちに蒔かれる。
 極めつきは唐辛子だ。辛味成分はカブサイシンに因る。哺乳類はこれが大の苦手。ところが鳥は唐辛子を好む。鳥にはカブサイシンの受容体がないためだ。これも鳥を介してあちこちに種子が蒔かれる。完全なWin-Winである。モビリティとは無縁である植物の強かな生存戦略である。
 前稿でふれた『激辛チャレンジ』。ばかばかしいと侮ってはいけない。植物と鳥の共存関係を擬人化しているといえなくもないからだ。となると、ゴルゴは梟に見えてくるし、唐沢君は軍鶏に、谷原君は鶯かなんかに見えてくるから不思議だ。
 因みに、鳥が恐竜から驚異的な進化を遂げ空を飛べるようになったのが1億5千万年前。遥か想像を絶する過去だが、猛々しかった始祖鳥が今やかわいい小鳥となって唐辛子を啄んでいる。一方、汗をたらたら流しながら唐辛子満載のリゾットに食らいつく人間がいる。やっぱり人間が一番面白いか。 □


谷原章介 あっぱれ!

2021年07月13日 | エッセー

 7月12日の『有吉ゼミ』超激辛チャレンジ──「超極辛! 灼熱のマグマリゾット」に挑戦者として登場。ゴルゴ松本、唐沢寿明、鈴木奈々と4人で超激辛に挑んだ。
 件の『マグマリゾット』は番組HPによると、〈米に唐辛子を10本、バングラデッシュ産の激辛チリパウダー、デスソースを入れ、白身魚のアラやトマトなどから作ったスープを加えて炊けば、芯まで辛さが浸透した『超極辛ライス』に。これをスキレットに盛り付ける。続いて、ムール貝とエビにチリパウダーや香辛料などを加えた超激辛「ケイジャンパウダー」、イタリア・カラブリア産の唐辛子をまぶしたら一晩漬けこみ辛みを中まで浸透。これを蒸し焼きにすることで辛味を一層引き立たせたトッピングに。〉という代物。およそ人間の喰(クラ)うものではない。かといってこんなものを食する動物は他に考えられない。辛みは五味に入らない痛覚だから、こんな無謀なトライアルは動物界の奇行、蛮行といえる。
 結果は鈴木がギブアップ、谷原が最初に完食しゴルゴが続きラストが唐沢だった。度肝を抜かれたのは谷原の食いっぷりだ。激辛チャレンジは一口目は平気な顔、飲み込もうとして突如絶叫し悶絶するのがお決まりのパターンだ。しかし谷原は終始表情を変えず、少し額の汗と目尻の涙を拭っただけで淡々と同じペースで食い続けた。スタート後、彼はこう言った。
「辛くない演技をします」
 なにを大層な、と鼻で嗤った自分が愚かだった。かれは『演技』をやり通したのだ。2位ゴルゴとの差は、なんと4分半。これは徒者ではない! 舌を巻いた。巻きすぎて呂律が回らなくなった。独り言(ゴ)ちたひと言がこれだ。「あっぱる!」ん、何語だ? 
 今まで人畜無害なイケ面俳優としか捉えていなかった自らを恥じ入るばかりだ。穴があったら入りたい、でもないから続ける。
 この役者魂とは何なのか。06年10月の旧稿『お客様は神様です!』を引きたい。
〈いまは亡き国民歌手・三波春夫は言った。「お客様は神様です」と。なぜかこの言葉、本人の真情を離れてギャグにされてしまった。芸能界のあざとい商売気のゆえであったろうか。
 芸は神仏への奉納がはじまり。神仏の御前(ミマエ)で歌う心境で舞台に立てば、客は神の化身となる。その時、化身から神力を得て自らを越える力が引き出される。だからお客様は神様なのだ、と。これが真意であったらしい。〉
 となると、TVカメラの向こうにいるオーディエンスは彼にとって「神様」なのだろう。目線の向きが自分にではなく観客に照準されている。これは言うほど簡単ではない。自らのポピュラリティーを一時棚に上げねばならない。たかがバラエティーで自身のキャラを賭けてまで真っ向勝負するのはかなりの覚悟を要するはずだ。そこに役者魂が鮮やかに光った。そう讃えたい。
 こないだから朝のワイドショーで小倉智昭の後継アンカーマンを務めている。小倉より色の薄い人選かと推(スイ)していたが、ところがどうして時々エッジの効いた発言をする。中々のものだ。プロデューサーの慧眼に畏れ入る。
 実はかつて一度本ブログに谷原章介が登場したことがある。15年1月 『限界集落株式会社』で、脱過疎化をテーマにしたTVドラマを紹介する中であった。あれから6年、磨きがかかった円熟の演技が観たいものだ。本物の役者が払底した感のある今、追随を許さない「辛くない演技」を引っ提げて。
 もう一つ。大リーグ ホームラン競争で大谷翔平が『絶妙な』負け方をした。あんな負け方は天才にしかできない。普通に勝ったら怨みを買う。人間離れしているが、やっぱり人間だった。それがいい。変な言い方だが、並の天才なら勝ってしまうところを競り負ける。それも巧まずしてごく自然に。
 章介は平気な顔で激辛を食い尽くし、翔平は息絶え絶えで惜敗する。どちらも、もう震えるほどのドラマツルギーだ。 □


「緊急」とはなにか?

2021年07月11日 | エッセー

 後手後手批判を意識したのであろう。スッカスカ君は4度目の発出に際しての記者会見で「先手、先手」にえらい力を入れた。
 ならば、物申そう。「緊急」とは『先手』で出すものではない。緊急とは現存する悪しき事態を指す言葉だ。すでに眼前する既存の出来事を言う。
 岩波国語辞典 第八版には、〈事が重大で、その対策などが急がれること。「事は緊急を要する」「緊急動議」〉とある。
 コトバンクにも、〈① 糸や弦などを強く張ること。また、性格、気性などがゆるみなくきびしいこと。② 事が重大で、急ぐ必要のあること。また、そのさま。〉とある。緊急発進(スクランブル)がそれだ。想定される事態を意味する言葉ではない。現存する事態を指す言葉だ。災害警報でいえば、すでに発災している最高レベル「緊急安全確保」に相当する.。
元々が「緊急」とは後出しするものなのだ。
 緊急事態宣言の根拠法は平成24年に成立した「新型インフルエンザ等対策特別措置法」である。法文の名称にも緊急の二文字はない。この法に「緊急」が初出するのは昨年3月2日の附則に於いてだった。「新型インフルエンザ等緊急事態宣言」との文言が加えられたのだ。初回の発令は昨年4月7日。つまり、泥縄だった。
 スッカスカ君は今度は早めに出すと言いたいのだろうが、『すでにもう』緊急事態に立ち至っている。しかも過去3回の緊急事態宣言が効果なく潰えた挙句の4度目なのだから、『政権敗北宣言』の方がより正確だ。
 訓詁注釈をしているのではない。根拠法自体に遡って疑義ありといっている。同時に5月の拙稿『幻想の緊急事態宣言』で「コロナ禍は実在するが、宣言は幻想」と提起した「虚構性」を繙いている。
 以下、国立感染症研究所のHPから。
〈最初の緊急事態宣言が発令された2020年4月7日の東京の新規感染者数は87人だった。あの頃、私たちは感染の恐怖におびえ、街は閑散として静まりかえり、通勤電車もガラガラだった。新型コロナウイルス感染症との戦いが1年近くになり、緊張感が薄れてはいないだろうか。2回目の緊急事態宣言前夜の2021年1月7日、東京新規感染者は2020年4月7日の31倍に当たる2447人だった。〉
 「緊張感が薄れてはいないだろうか」とは然りだが、31倍の感染拡大は宣言が孕む幻想性に来由している。さらにその幻想性を『担保』しているのが、アンバイ政権以来の政治不信だ。忖度政治とネポティズム、その独裁手法が国民に行政府への抜き難いアンチパシーを生んだ。根因はそこにある。だから、前稿で減らない人出を「あれはデモだ」と呵した。
 先日、アンバイ君は「五輪開催に反対する者は反日だ」と嘯いた。まったくどの口が言う! ならば、訊こう。天皇の感染拡大不安発言を無視したのはどこのどいつか。反日に対峙する価値観の極北にあるのは天皇ではないのか。真っ先に「重く受け止める」べきはお前であろう。無視したスッカラカンはお前の後釜ではないのか。天皇発言をネグる形で天皇を政治利用しているのはお前ではないのか。「私が国家」と公言したお前は一体何様なのだ。増上慢にも程がある。この永田町の現実こそ「緊急」である。すでに目の前にある「緊急事態」そのものだ。
<追記>
 西村のトンデモ発言に触れないわけにはいかない。何を血迷ったか、言うことを聞かない呑み屋さんに金を貸すなと銀行にプレッシャーを掛けると揚言した。やはりアンバイ君の子飼いだ。宣言の空振りに業を煮やし、独裁手法の愚挙に出た。撤回はしたが、それで済む問題ではない。衣の下から鎧が見えた。類は友を呼ぶ。スッカラカンこと「あんなくだらない奴」には「もっとくだらない奴」しか集まりはしない。 □


あれはデモだ

2021年07月08日 | エッセー

  隣国コーサラ国から王妃相応の女性を嫁がせるよう要求された釈迦国は、上から目線の要求に気分を害する。そこで低い身分の者を高位と偽って嫁がせた。ところがバレる。怒ったコーサラ国は釈迦国撲滅のため出兵。そこに釈迦国の王子釈尊が登場。進軍中に僧侶に出会ったら撤退すべしとの古諺に拠って兵を引き上げた。それでも憤怒(フンヌ)遣(ヤ)る方なく、また出兵。同じことが繰り返された。これで2度。さらに1回。これで3度。遂に4度目に至り、先非は我にありと認めた釈尊は今度は出向かず、そのまま隣国軍は侵入し釈迦国は滅んだ。──「仏の顔も三度」の来由である。留意すべきは都合出兵は4度に及んだことだ。4回目で滅んだ。

 上記は旧稿『仏の顔も4度』から再録した。緊急事態宣言はこれで4回目となる。都議選の敗北を前兆として菅政権は確実に滅ぶ。内田 樹氏が「狂気の沙汰」と断じた五輪はコロナで逝った人びとへのみすぼらしく無惨な供花(クゲ)となるだろう。
 5月の拙稿『幻想の緊急事態宣言』では、その虚構性を糾弾した。「コロナ禍は実在するが、宣言は幻想なのだ。かつ繰り返されるたびに幻想の度は深まっていく」と。
 物流の捩(モジ)りか、人をモノ扱いするようで「人流」は嫌な言葉だとかつて書いた。意味もおかしい。流れず街に屯(タムロ)するのが問題なら「人出」で充分だ。ともあれ、その人出がいっかな減らない。当たり前だろう。あれはデモだからだ。政府の、あるいは都の失策、失政に対する抗議のデモだ。デモなら問題が解決しない限り膨れるのは道理だ。極めて簡明なロジックだ。なぜ、それが解らないのだろう。反知性主義の成れの果てか。または権力亡者の失政隠しか。日本史の汚物・安倍政治の『正統な』継承であるゆえか。
 若者に政権のメッセージが届かないから人出が減らないのではない。体力に自信があるから宣言に耳を貸さないのでもない。60年安保も、70年安保も知らない彼らは新しい形の抗議デモを展開している。そうであるに違いない。党派性はないが政治性の非常に高いデモだ。しかもそうとは見えない意表を突くスタイルで街中を練り歩く。といって、個々人が勝手に歩いているに過ぎないのだが。
 ひとつ提案。飲食業を槍玉に挙げるのなら、飲食業(夜の街の接客業関係者を含め)を職域集団接種の枠組みに優先的に組み込むべきだ(一部の地域では取り組まれているらしいが)。客にばかり目を向けず、受け入れ側に目を転じよ。感染リスクは客に劣らず、いやそれ以上に店側にある。要所におけるリスクの低減は確実な感染防止策となる。ワクチンが決め手というなら、ワクチン以上に頭を回し、ワクチンを回せ。河野さん家(チ)の太郎坊ちゃんにはちと荷が重いか。
 おたおたしてると、歌舞伎町のカマさんたちが徒党を組んで街中を練り歩く旧式のデモに打って出るかも知れない。そうなると東京はもう阿鼻叫喚の巷と化す。 □


土砂災害

2021年07月06日 | エッセー

 今年5月20日から警戒レベルが変更になった。これがどうもいけない。役所言葉の多用で生活実感にフィットしない。
  1. 早期注意情報
  2. 注意報
  3. 高齢者等避難
  4. 避難指示
  5. 緊急安全確保
 「警戒レベル4までに必ず避難を レベル5では手遅れ」と呼びかけているが、なんとも言葉が固い。そこで、一計を案じた。こう言い換えてはどうだろう? 
  1. 早期注意情報 → 『気をつけて!』 
  2. 注意報 → 『こりゃヤバいぞ!』
  3. 高齢者等避難 → 『年寄逃がせ!』 
  4. 避難指示 → 『みんな逃げろ!』 
  5. 緊急安全確保 → 『命を守れ!』 
 熱海の土石災害は奇しくも昨年同日の熊本豪雨から丸1年目であった。静岡県は土石流の崩落は宅地造成の排土、盛土が滑り落ちた可能性が高いと発表。4日、川勝平太静岡県知事は全国知事会の緊急広域災害対策本部会議後の記者会見で「防災の専門家の意見も聞き、知事会として森林の乱開発にかかわる対応の強化が必要」とし、「土石流と開発の因果関係は明確でないが、今後、検証したい。」と意見を述べた。
 至極真っ当な反応である。推するに、川勝知事は返す刀をリニア トンネル工事推進派とJR東海に向けて振り下ろそうとしているのではないか。
 昨年8月16日配信のYahoo!ニュースを引く。
〈トンネル工事で南アルプスの地下水が漏れ、県中西部を流れる大井川の水量が減少するという「水問題」が表向きの理由だ。だが、問題の根源をたどると、JR東海の度重なる“静岡飛ばし”に対する地元の根深い怨念が見えてくる。〉
 もちろん熱海と直結する問題ではない。しかし「開発と災害」に次数を上げれば、事は静岡に限らない。自然と人工、天然と人為の拮抗。もっといえば、SDGsという世界的イシューにも通じてくる。川勝知事の一徹にエールを送りたい。
 早い話が、熱海の土石流は人災である。14年広島で起こった「8.20広島市豪雨土砂災害」もそうだ。本来は住めないところ、住んではいけないところに居住地を造成したことに根因がある。国交省によると大規模盛土造成地は全国に約5万箇所あるという。今年3月、同省は盛土造成地の安全対策を加速すると発表した。その矢先であった。一層の強化に期待したい。
 繰り返すと、人災であるならばパラダイムシフトが必須だ。今年1月、拙稿『犯人はどっちだ』で触れた斎藤幸平氏の「人新世の『資本論』」に帰着する。「人新世」とはコンクリートが地層として残る時代区分をいう。億年単位である。『猿の惑星』ではないが、かつて巨大火山があったと覚しき付近にやたら長いトンネルが剥き出しになってはいないか。現代人に関係ないと打っ遣ってはなるまい。サピエンスとは知恵である。知恵の中核は想像力だ。ホモ・サピエンスが自らサピエンスであることを放棄するわけにはいかないだろう。 □


アン ミカの意味

2021年07月05日 | エッセー

 テレビでの第一印象が悪かった。聞けばモデルだという。そのくせ、一端の口を利く。芸名なのかアン ミカとはへんてこりんな名前だ。聞くところによれば、韓国済州島からの移住者で極貧から身を起こし今や大層なセレブらしい。
 大阪府立高校を卒業しフランスへ移住。パリコレデビューの後、韓国延世大学に留学。さらに韓国名誉広報大使となり、アメリカ人の実業家と結婚。モデルの他にタレント、ジュエリー・ファッションデザイナー、化粧品プロデュース、エッセイ執筆や講演、シンガーとマルチな活躍と、おまけに資格が21。その才媛ぶりには舌を巻く。
 興味深いのがボンビーガール時代のエピソードの数々。いくつかまとめてみる。
  4畳一間のアパートで7人暮らし。トイレと風呂は共同で、家主が留守の間に急いで済ませていた。
 夜中3時にリュックを背負って手にビニール袋。子どもたちだけで3駅分を歩いて、市場へ。売れ残りを恵んでもらった。
 その時のスイカの味が忘れられず「スイカが食べたい」というと、母親が取っておいたスイカのタネを出してくれ、ずっとしゃぶっていた。スイカの皮は身体を洗うのに使った。
 鼻を骨折した時は夜中病院に行き、入り口前にドクターを呼んでただで処置を聞き、割り箸を副え木にして自力で治した。
 もちろんテレビなし。家は2度全焼の憂き目に。中学生の時、母親をガンで亡くしさまざまなバイトで家族を支えた。
 友人とお好み焼き屋に行った際には金がないため、ひとり醤油を焼いた。「(焼いた)醤油ってペリペリペリってやるとすごいおいしい」と美味そうに食べた。おまけに、興味を示した友だちのお好み焼きとトレードした。
 などなどだ。壮絶というか、驚嘆し、呆気にとられる。多少盛ってはあるだろうが、貧すれば鈍するどころか貧にして楽しむである。レジリエンス、ここに極まれりだ。
 揣摩するに、彼女は事の半分を語っていない。差別だ。彼女だけが例外的に差別を受けなかったはずはない。漫画家のヤマザキマリ氏と脳科学者 中野信子氏との対談でこんなやり取りがあった。
〈ヤマザキ 人はやはり不条理をどれだけ感じてきたかで、その成熟度が変わってくると思うんです。寧を許されない環境に生まれれば、子どもは無知を極めていくか、成熟するかどちらかしかないんじゃないかと。
中野 養子に出された子のほうが知能が高いというリサーチがあります。
ヤマザキ たとえば、とっさに思いつく例で言うと、スティーブ・ジョブズとレオナルド・ダ・ヴィンチは、ふたりとも私生児でした。ジョブズは養子として育てられ、レオナルドは養子ではないですが直接的な母の愛情は受けず、自分たちが一般的ではない、理不尽な環境に生まれた、ということを子どものころから容赦なく自覚させられてきたわけです。〉(「「生け贄探し──暴走する脳」」から抄録)
 アン ミカの驚異的なレジリエンスには不条理とそれへの応戦という力学が働いたのではないか。語らない半分にはそれが潜んでいると見ていい。
 彼女に限らない。同じ半島の出身者は理不尽な差別を受けてきたし、今もって受け続けている。彼らは異境でどう生き抜いたか。思想家 内田 樹氏は今年初めの講演会でこう語った。
〈ユダヤ人は(アメリカの既存社会にとっての)ニューカマーとして排斥されたが、既存の産業ではない金融とジャーナリズム、ショービジネスを作り出し自立していった。
 彼らは黒人に同情しない。ユダヤ人のように人種差別を乗り越えて成功すればいい、そう主張する。だから、未だにブラックライブズマター止まり、つまり入口止まりなのだ。〉
 同じ被差別者であっても「ユダヤ人は黒人に同情しない」。黒人奴隷は15世紀大航海時代以来だが、ユダヤ人が祖地を追われたのは2千年前に遡る。迫害への応戦は中世では金融だった。シェイクスピアは『ヴェニスの商人』にそれを描いた。近代アメリカではそれにジャーナリズムとショービジネスが加わった。アン ミカの同族はジャーナリズムは措くとして、金融とショービジネスはそのまま符合する。アン ミカの極貧カムアウトにはユダヤ人に通底する民族的誇りがあると見ていい。稿者が第一印象で捕らえたある種の高高しさはそれではなかったか。彼女は配偶者に日本人を選ばなかった。縁は異なものとしても、視線はこの小さな国を遥かに飛び越えていた。そう見ていい。
 元気のない日本人をインスパイア。アン ミカの意味はそれだ。 □


ムキャンキャク

2021年07月03日 | エッセー

 こういう時は記者全員がズッコケるくらいのリアクションはとってもいい。
 7月2日午後 官邸でのぶら下がり取材──
「オリンピックの観客について、緊急事態宣言の時はどうするかという質問だったと思います。
 そうした時にムキャンキャクもあり得るということを私から明言しています」──
 この大事な局面で「無観客」がちゃんと発語できない。一軍の将が敵陣を前にしていよいよ突撃開始。「よし。トチュゲキ開始!」などと宣(ノタモ)うたなら途端に戦意喪失するは必定だ。
 言葉尻を捕まえて揶揄しようというのではない。言葉には真情が乗り移るから聞き置くわけにはいかないのだ。後手後手批判が身に染みて、逃げ道の先手を打ったか、あらかじめのエクスキューズを用意したか。やはりスッカスカ君だ、慌ててカンでしまったようだ。
 AERA7月5日号に内田 樹氏が稿を寄せた。拾い読みしてみる。
〈東京五輪有観客開催に向けて、政府と組織委の暴走が止まらない。パンデミックが終息にほど遠い状態で、大量の人口移動と接触機会の増大を伴う五輪開催は理性的に考えてあり得ない選択である。
 こんな状況での五輪強行は「ほとんど狂気の沙汰」である。後世の史家は「2021年の日本人は正気を失っていた」と書くだろう。
 五輪を開催しないと、どこかの国が軍事侵攻するとか、国土の一部を割譲しなければならないとか、国が傾くほどの賠償金を科せられるというのなら、わかる。それならたとえ感染爆発で百人・千人単位の死者が出ても、国としての算盤勘定は合うだろう。
 単純化すれば、問題は「五輪を開催することによって救われる命」と「それによって失われる命」とどちらが多いかということに尽くされる。これついて政府も組織委もたしかな見通しを持っているなら話はわかる。ならば、その科学的データをいますぐここに出して欲しい。〉
 狂気の沙汰」、「軍事侵攻」、「算盤勘定」、内田節の炸裂である。言い得て妙、我が意を得たり、痛くなるほど膝を叩いた。
 ついでに『正気の沙汰』を。
 今日の日刊スポーツにアメリカでのツイッターが載っていた。
〈ジャレド・ティムズ(投球インストラクター
「この世には人間がいて、そしてショウヘイ・オオタニがいる。信じられない」
 巧い! 実に巧い! 『世には人間とオオタニがいる』ってわけだ。
 も一つ、内田氏は国民的スターに長嶋茂雄と車寅次郎の虚実2人を挙げる。共通点は「悪く言う人がいない」こと。さらにある種の「古代性」を指摘する。長嶋は球戯という祝祭の「不世出の祭司」であったし、香具師の寅さんは日本の独自文化を担った婆娑羅の末裔であったと。(「態度が悪くてすみません」を参照した)
 偏屈者の稿者でも大谷を「悪く言」った記憶は一度もない。アメリカでも「オ・オ・タニさん!」から「オオタニ・ショー」(独壇場と翔平を掛けたか)に変わった。それに、二刀流はベーブ・ルースという「古代性」を体現している。
 この際だ、大谷のメジャー行きに否定的だった往年の名選手で解説者のH本氏には自らにダメ出しをしてほしい。
「カジュ!!」いや、「喝!」 □