伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

欧米か!?

2007年09月26日 | エッセー
 アンバイ君の一抜けもフグタ君の登板も、すべては衆参の逆転国会に起因する。『ねじれ国会』はたしかにわが国では初めてだ。しかし諸外国では珍しいことではない。
 まずアメリカがそうだ。ホワイトハウスは共和党、キャピタル・ヒルは民主党が牛耳る。「分割政府」といって何度もあった。今もそうだ。両方を同一の政党が占める「統一政府」も当然あるが、繰り返しで今日まで来ている。対決しつつ、バランスを取りながらの歩みだ。
 フランスでは保革共存、すなわち「コアビタシオン」が世界の通り名になるくらい常態となっている。サルコジ大統領は野党から主要メンバーを閣僚として引き抜いたり手練を尽くす。ドイツでは大連立が普通だ。
 してみると、日本も『欧米か!』と言いたいところだ。衆院の正当性に疑義を挟む向きもあるが、人間万事塞翁が馬、奇貨可居だ。ここは腰を落ち着けて、しばらく様子を見たほうがいい。
 
 ひとつ、これだけは弁えておいたほうがいい。 ―― 議会制民主主義はいまだ発展途上にある、ということである。どの国においてもそうだ。どの時代においてもそうだ。決して完成形をわれわれは手にしている訳ではない。人類の歩みと同じく、それは常に成長過程にある。かといって、憲法改定に短絡されては困る。これは歴史認識の問題だ。スパンは世紀に及ぶ。

 ヨーロッパで議会が誕生したのは13世紀中葉、発祥はイギリスだ。国王が領主に租税をかけようとしたことに端を発する。それまでの商工業者からの献金と借入から、一気に財政の拡大を図った。それには王権が領主との契約関係にある以上、契約を変えねばならない。数多の領主と個別に交渉していたのでは埒が明かない。そこで領主の代表を集めて討議させ、認証させる。それが議会であった。
 領主側にとっても、国王の徒な立法と課税に歯止めをかけ、自らの特権、既得権益を保障させる場ともなる。両者の思惑が一致して議会が生まれた。だから生い立ちは民主主義とは無縁だ。第一、主(アルジ)にしようにも国民はまだいない。事はカネ絡みだった。利権獲得の道具、これがその出自である。だからこのDNAは正確に遺伝され、各国でしぶとく生き続けている。勿論、わが永田町でも。アンバイ内閣では5人も6人も忠実なる後継者が出てきた。
 与太を飛ばしているのではない。氏素性は容易に変わりはしないという人間のベーシックな属性について語っているのだ。天与の制度などない。制度は時代と社会の産物だ。あくまでも先立つのは人間だ。

 団塊の世代は戦後民主主義教育の洗礼を受けた。戦争をくぐり抜けやっと訪(オトナ)った真っ当な民主主義がまばゆく見える世代に、教えられた。彼らにとってそれはアプリオリに尊貴であり、動かし難い到達点であり、不磨の至宝であった。
 以下、余話として ―― 。
 わたしが高校生だった時の話だ。友達の家で彼の父親と話すうち、談たまたま政治形態に話題が及んだ。わたしが「哲人政治」を宣揚すると、父上は烈火のごとく怒り始めた。バカかと言われれば、はいそうですとは言えない。今より3倍は不正直だった。論争などという上等なものではない。単なる罵り合いに終始した。今にして振り返れば、父上にとって戦後民主主義は相対を峻拒する遥か高みの絶対の正義であったのだ。逆鱗に触れるどころか、足で踏み付けてしまったのであろう。若気の至りであった。いやはや面映ゆい。

 遥かむかしの青臭い話だが、いまだに問題意識は変わっていない。民主主義制度はまことに鈍重だ。いかにも歯痒い。時には隔靴掻痒でもある。国鉄を民営化するには「臨調」を擁した。三権を超えるものがない以上、いかな中曽根氏とて『疑似哲人』政治を援用する他なかった。郵政を民営化するには政治を『劇場化』して、小泉氏自らが『疑似哲人』を演じる他なかった。もともとこの制度では須臾の間に大きな舵は切れないからだ。野中広務氏が彼を「独裁者だ」とこき下ろしたのは、民主主義の眩さを忘れない良識の抗弁ともいえる。
 なんとも民主主義は不自由なものだ。特に代議制民主主義はそうだ。チャーチルは言った。「デモクラシーは最悪の政治形態だ。これまで試されてきたどんな政治形態よりもましだが……」と。そのご本人も、大戦の終了直前総スカンを食う。総選挙で敗れ首相の座を明け渡すことになる。戦時の宰相と平時のそれとを峻別されたのだ。だから一層この発言は重い。

 さて衆院の正当性、ひいてはフグタ新内閣の正当性の問題である。野党がさかんに言い募る切り口だ。しかしこれは敵失に乗じた手前勝手とも聞こえる。支持率如何で雲散する議論かもしれない。「直近の国政選挙の審判」というが、それを真っ正直に踏まえると、国会のたびに開会前に選挙をしなければならなくなる。駄々っ子の無い物ねだりだ。代議制民主主義は腰が重いということをよく噛みしめたほうがいい。
 繰り返そう。人間万事塞翁が馬。ここは与野党ともに日本版「コアビタシオン」の初動期と捉えて、『不自由さ』とじっくり向き合ってはいかがか。そのほうが余程お国のためだ。わが国、民主主義の進歩のためだ。戦後60年余、やっと『欧米か!?』と言えるところまできたのだから……。
 前述の「問題意識」については、稿を改めて語りたい。とりあえず、フグタ君の登場を祝って ―― 。「天の声にも変な声もたまにはあるな」などと言わないことを念じている。□


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改むるに憚ること勿れ

2007年09月21日 | エッセー
 昨日のこと、小田 実氏の遺稿(NHK出版「中流の復興」)を読んでいたら、次の部分で冷や汗が滲み出てきた。

  ~~ギリシャでは、選挙というものをほとんどしなかった。選挙は、ローマから始まります。それで、民主主義の堕落が始まるんですね。ギリシャの政治というのは、全員参加の集会、回りもち、そしてくじ引きです。最高決定権は、大衆集会にある。普通の日常の業務は、役人がいないので回りもちでやります。法廷弁論みたいなものは、くじ引きです。陪審員みたいなちゃちなものじゃなくて、三〇〇人、四〇〇人、五〇〇人と集まるんです。それで、裁判官はいないから、原告は市民です。被告も市民、裁くのも市民。そういうシステムの大規模なのは、後にも先にもこの時期だけです。~~

 当たり前だ。直接民主主義に選挙はない。中学生レベルの知識である。ところが、である。本ブログ、7月14日付「祭りだ、祭りだー!」に以下のように書いていたのが記憶の底からにわかに甦った。
  ―― 公選法は歪(イビツ)な法律である。さらにアナクロニズムでさえある。選挙運動は街頭で行うもの、これが公選法の前提である。揺るがぬ大前提である。施行以来57年間、この前提は微動だにせず保たれてきた。(中略)
 括っていえば、『1億総オタク化』しているのが現状だ。つまり、圧倒的マジョリティーは屋内にいるのだ。
 そう考えてくると、この法律がいかに時代、社会とミスマッチか。3000年も前の古代ギリシャを彷彿させる図ではないか。アゴラに集う市民に向かい、口角沫を飛ばして語りかける候補者。口コミ以外にメディアとてないポリスの時代、屋外でこそ事は進んだ。悲しいかな、日本にはアゴラに類する場所とてない。平成の御代(ミヨ)に、日本人は一国挙げてとんでもない先祖返りをしていることになる。 ――
 文中の「候補者」が、いかにもまずかった。ということは、選挙をしていたことになる。冷汗三斗である。恥ずかしいのである。穴があったら入りたいのである。お読みいただいた方に合わせる顔がないのである。もっともブログゆえに、この三白眼を晒さずに済んでいるが……。やはり、春の日に庇を下ろし、石橋は叩いて『渡らず』でいかねば、と自戒する今日この頃なのである。したがって、前記の部分は以下のように書き改めさせていただく。
   …… 3000年も前の古代ギリシャを彷彿させる図ではないか。アゴラに集う市民に向かい、口角沫を飛ばして語りかける『普通のおっさん』。 ……
 なぜ『普通のおっさん』なのか。前掲書から引用しよう。

  ~~デモスというのは、普通のおっさんです。デモクラシーとは、デモスとクラトス、民衆の力という意味です。そして、民衆の力をいかに発揮するかというと、言論によって発揮するのです。その一番の根本は、イセゴリア(註:言論の自由)。西洋人の観念のなかで一番優れているのは、それだと思うんです。それを堕落させたのはどこかというと、古代ローマです。古代ローマは代弁主義になって、それで結局、選挙をやり出し、イセゴリアは、なくなってしまいました。イセゴリアなしにやれば、選挙だけになります。だから帝政まで行くわけです。そうやって歴史的に見れば、わかって面白いのではないかと思います。現代の民主主義国で、宣戦布告する決定に市民がどれだけ参加できますか。勝手に決めているんだから、できないでしょう。宣戦布告なんてしないで、日本は日中戦争をしたり、アメリカ合州国はベトナム戦争やイラク戦争をしたりする。そういう決定に、民衆は参加していません。ところがギリシャは、成年男子が十八歳以上とか忘れたけど、その連中は全部そうやって参加していたわけです。字の読めない人たちがみんな、丘の上に上がってワーワーやった。最初、議会が始まるときに、役人はいなくて回りもちのおふれ役が、「全体のために何かいいことを言ってくれる人はいますか」というようなことを言うんです。すると、みんな手を挙げてしゃべり出す。時間制限はなかったと思います。だから、延々としゃべる。アホみたいなナンセンスを言うと、うんざりするから人は聞いていません。理にかなったことを言わないといけない。それで、理性が出て来るわけです。理性は「話す」から来たもの。「私が話す」があって、成り立つものです。ちゃんとしたことを話さなくてはならないから、理性が出て来るんです。そういうふうに教えたら、哲学もわかるでしょう。とにかく、理性があって、「話す」があって、「話す」の技術を支えているのが、言論の自由。もう一つは修辞学です。~~

 体躯や面相にふさわしく、やはり氏は巨人であった。学識の『太さ』を感じる。斧で木を裂くような凄みだ。万言を弄さずとも事の本質を一刀に捌(サバ)いてくれる。このような『太く』、かつアグレッシブな知性を持ち得たことはわれらの誇りだ。 巨星、墜つ。なんとも惜しい。

 さて、こちらの星屑である。屑ではあっても、せめて「過ちては改むるに憚ること勿れ」(論語)ではありたい。「過ちて改めざる是を過ちと謂う」(論語)であれば、これで過たずに済んだことになる。巨星の大光、その御零(コボ)れに救われた星屑であった。□


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こいつは笑える! お奨めの一書

2007年09月19日 | エッセー
 中国の戦国四君に、趙の平原君がいた。食客数千人。その中に名代の屁理屈屋、公孫竜がいた。詭弁家である。口から先に生まれたこの男、黒を白と言い包(クル)める。「白馬は馬に非ず」と言い募った。誰も太刀打ちできない。ある時、堅くて白い石は存在しないと言い出した。堅いかどうかは手で触れねば判らない。色は目で見て識別する。ゆえに堅石、白石はあっても、触覚と視覚が別物である以上、堅くて同時に白い石はない、と論を立てた。元祖こじつけ、である。「堅白同異」の来由だ。「非学者、論に負けず」の類であろう。古代ギリシャでいうところのソフィストである。
 どうも海外では法曹関係者、特に弁護士は公孫竜の一派、ソフィストの末裔と見られているらしい。半分はステータスへのやっかみもあるだろうが、半分は正体を突いている。

◇まだ柔らかいセメントに弁護士が首まで埋まってるんだけど……。
 『もっとセメントを持ってこい』
◇男がワニを連れてバーに入ってきた。
 「ここでは弁護士も飲めるのか?」男は尋ねた。
 「もちろんですとも」バーテンダーは答えた。
 「そいつはよかった! 俺にはビール、俺のワニには弁護士を1人出してくれ」

 海外のジョークである。(株)ブルース・インターアクションズ発刊「世界一くだらない法律集」から引用した。先月25日に出たばかりの本だ。イギリスでは2000年の初版、125万部を売り上げている。これは笑える。相当に笑える。お奨めだ。かつて取り上げた「世界の日本人ジョーク集」の5倍、「裁判官の爆笑お言葉集」の10倍はおもしろい。著者はデヴィッド・クロンビー、イギリスの元判事、女性である。
 乗り物などの待ち時間、新幹線の車中、トイレの中でもってこいだ。床の中ではやめたほうがいい。おかしくて目が冴えてしまう。いくつか紹介したい。サワリは止めておく。原書はこの比ではない。もっと笑える。
 
 法廷(海外の)での冗談のようなやり取り
◎被告人と
尋問:ご主人は朝起きた時、最初にあなたに何と言いましたか?
被告:「キャッシー、ここはどこだ?」って。
尋問:それであなたはなぜ逆上したのですか?
被告:私の名前はスーザンなんです。
◎証人と
尋問:あなたが立っていた場所から彼が見えましたか?
証人:頭が見えました。
尋問:その頭はどこに見えましたか?
証人:ちょうど肩の上です。

 では、本題の『くだらない法律』をいくつか ―― 。⇒ 以下には愚考を記した。というのも、本書には解説らしきものが全くない。読者に丸投げだ。悔やまれる点だが、あるいは詮索も含めて投げて寄こしたのかもしれない。

◆男性が公共の場で放尿したくなったら、自分の所有する車の後輪に向けて、右手を車についた姿勢でなら許される。<イギリス>
 ⇒ その時、左手はどうなっているのだろう。左手を車についてはいけないのか。こういう法律がいかなる文化的背景から生まれたのか。興味が尽きない。

◆自殺は死刑。(現在、この法令は廃止されている)<イギリス>
 ⇒ 極め付きだ。廃止しなくてもいいのではないか。形容矛盾など気にする必要はない。かなりの抑止力にはなるはずだ。かつ、最高に笑える。

◆スコットランド人を見かけたら、日曜日以外なら即座に弓矢で撃っても法律的に何の問題もない。<英 ヨーク市>
 ⇒ 民族攻防の中で生まれたものにちがいない。やがて歴史に埋もれ、そのまま今日に。早く廃止にしないと、犠牲者が出るやもしれぬ。ま、それはないか。「日曜日」の文言はほかにもかなりあった。「金曜日」もあった。曜日にこだわるのは、宗教的事由か。

◆フランス中のあらゆるブドウ園において、UFOを停めておいたり着陸させたりしてはいけない。<フランス>
 ⇒ かつて、なにか事件があったのだろうか。ブドウとUFO。そのつながりや、いかに。

◆なんらかの魔法、妖術、魔術を使える振りをしたり、練習したり、あるいはなんらかの超自然現象、神秘的な技術や科学に関して知識を持っている振りをした者は、その違反行為に対して1年の懲役刑に処されるとともに、行為を改めることに努める義務を負う。<アイルランド>
 ⇒ 日本でもぜひ法制化してほしい。テレビにはこれら魑魅魍魎がうごめいている。フトギなんとか、エバラ某、などなど。ヤツらは公序良俗にも反する。ただしマリックはちがう。あれは魔術という名の芸だ。

◆スノータイヤをつけた車はすべて、スノータイヤ装着時は時速160キロ以上で走行してはならない、と書かれたステッカーをダッシュボードに貼っておかなければならない。<スイス>
 ⇒ 160キロ超、できるものならやってみろ! スイスはけっこうこの手のものが多い。景色だけではなく、法律も売りになる。
 
◆酔っ払っていればカンガルーとのセックスが認められる。<オーストラリア>
 ⇒ いかに豪州といえども、まさか。ひょっとして、素面でのなににまつわる事件があったのか。それにしてもカンガルーだけに、想像を絶する飛躍である。

◆セックスが許される年齢は法的に定められていない。<日本>
 ⇒ 海外から見ると、日本のほうが異常なのだろう。諸外国では年齢の下限を決めているところが多い。さすがに、上限の規制はないが。本書で日本が取り上げられているのはこれだけだ。

◆飛行機の乗客は、飛行中に飛行機から足を踏み出してはいけない。<米 メイン州>
 ⇒ セスナであれば足を出すことぐらいはできるが、踏み出すとなると至難の業だ。パラシュートはどうなのだろう。「踏み出し」の「踏み」に抵触するか。でも最後は地面を踏むことになるのだが……。

◆雪男を殺してはならない。<カナダ ブリティシュコロンビア州>
 ⇒ 雪女はどうなのだろう。小泉八雲が泣くか。

◆隣人の口の中に放尿してはいけない。<米 イリノイ州シャンペーン市>
 ⇒ なんじゃ、それは! なにかの罰か、それとも挨拶か。はたまた、かつてそのような事件があったのだろうか。法律は最低限の道徳ともいう。これがミニマムだとすると、この市ではいたるところ人糞だらけということか。すげー。

◆冬の間、入浴は禁止。<米 インディアナ州>
◆何人も最低1年に1回は入浴しなければならない。<米 ケンタッキー州>
 ⇒ どっちの州でもいい、すぐにでも引っ越ししたい。さすがにアメリカは物分かりがいい。実に寛容、大らか、懐が深い。つまり、年に1回入ればいいんだ。もう、ユートピアではないか。

 その他、公孫竜のお株を奪うような『掘り出し物』のオンパレードである。読書の秋にお奨めの一書だ。□


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芯の強い子、元気な子

2007年09月15日 | エッセー
 本ブログをお読みいただいている方はとっくにお見通しであろうが、わたしはかなりな『ミーハー』である。
 字引によると、ミーハーとは「みいちゃんはあちゃん」の略。程度の低いものに乗りやすいこと。世の中の流行などに熱中しやすい人たち。もともとは、趣味・教養の低い人たち、また、その人たちを卑しめていった語。(三省堂「新語辞典」)とある。「みいちゃんはあちゃん」は昭和初期に流行、戦後に「ミーハー」と縮められた。当時、美代子・花子をはじめとして「み」「は」で始まる名前が主流だったためらしい。
 上等じゃーないか。結構毛だらけ、猫灰だらけ、おケツのまわりは……だらけ、である。「乗りやす」く「熱中しやすい」心根こそが社会前進の力である。市井の民が主役を張ることを民主主義という。「趣味・教養の低い 」は、詩を作るより田を作ってきたからだ。低いも高いもたれが決める。張三李四こそ一国の基(モトイ)ではないか。だからミーハーと呼ばれ、名乗ることに微塵も恥じらいはない。と、予防線を張っておいて……。

 〓 日本女子バレー24年ぶりアジア制覇! 〓
 バレーボール女子アジア選手権最終日(9月13日、タイ・ナコンラチャシマ) 日本はカザフスタンに3-1で逆転勝ちし、1次リーグから9戦全勝で、24年ぶり3度目の優勝を飾った。
 大会MVPに選ばれた高橋みゆき(28)=NEC=、ベストサーブ賞の木村沙織(21)=東レ=らの活躍で、前回大会で敗れた相手に雪辱し、実に11大会ぶりに女王に返り咲いた。江上由美、三屋裕子らを擁した83年大会以来24年ぶりにアジアの頂点に立った。
 「とてもうれしい。長い戦いだったけど、チーム一丸でうまくできた」9連戦を全勝。W杯前の最後の大会を最高の形で終え、MVPに選ばれた高橋は喜びに浸った。
 日本が優勝した過去2度とも五輪の前年だった。翌年の五輪では76年モントリオールが金、84年ロサンゼルスは銅と、どちらもメダルを獲得している。来年の北京五輪でメダルを狙う日本には最高の縁起の良さ。
 「W杯に向け自信になった。チームがまとまり、一体感が出た」と柳本晶一監督(56)。フルメンバーではなかったが、世界ランク2位の強豪・中国を破るなど今大会での収穫は多かった。次は北京切符をかけたW杯、世界相手の戦いが待っている。(以上、報道記事を抜粋)
 
 やはり、SHINである。高橋である。戦力では勿論、絵面においても欠かせない存在である。沈魚落雁とはとてもいえぬが、メダカならもぐり、雀ぐらいは飛び損ねるかもしれぬ。気が置けない顔というのがあるとすれば、それだ。時々、ケータイの待ち受け画面にご登場願ったりもする。友達は「ミーハーだな」と嗤うが、大きなお世話だ。オメーの顔なんぞ、間違っても画面に貼れるか。

■ 高橋 みゆき 女子バレーボール選手  
 78年12月25日生まれ。28歳。山形県山形市出身。小学校1年からバレーを始める。山形商業高等学校からNECレッドロケッツに入団。ウイングスパイカー。身長 170㎝ 体重 66㎏。スパイク最高到達点 295㎝。ニックネームは心技体の「心」(SHIN)。こころ靱(ツヨ)く、芯の強い人にとの本人の自戒らしい。(かつて中田久美は「あの子は見かけによらずホントに気が弱いんですよ!」と酷評したことがある)この2年間、イタリア・セリエA1で海外経験を積む。
 キャッチコピーは「世界が恐れるニッポンの元気印」。受賞は、00年 第6回Vリーグ 新人賞。02年 第8回Vリーグ 敢闘賞、ベスト6。03年 第9回Vリーグ 最高殊勲選手賞、レシーブ賞、サーブ賞、ベスト6。04年 第10回Vリーグ サーブ賞、などなど。その間、アテネオリンピック、世界選手権、ワールドカップ等の国際大会に数多く出場。特に03年のワールドカップでは123点の最多得点を記録した。大型化した女子バレーの中では小柄だが、いまや竹下 佳江とならび全日本の大黒柱である。

 団塊の世代ならだれもが熱中した『巨人の星』、『大リーグボール1号』。バッターを仰け反らせ、わざとバットに当てて凡打させる、星 飛雄馬、無敵の魔球だ。まさにあれだ。SHINお得意のブロックアウトを狙うスパイクである。ブロックの指先や前腕部に狙い当てて、コートの外に落とす。生半な練習や凡庸な能力では獲得できないスーパーテクニックである。女子バレー界の星 飛雄馬。それこそSHINその人である。今度は北京に向けて、是非『大リーグボール2号』をお願いしたい。『消える!アタックボール』うん、これはいい。回転レシーブも、クイックも、時間差も、移動攻撃も、先進技術はすべて日本で生まれた。北京での『魔球』を期待したい。
 03年、ワールドカップで日本はポーランドに勝った。悲願の勝利だった。試合後、選手が一列に並びインタビューが始まる。その時だ。フジテレビの森 昭一郎アナウンサーが大チョンボをしでかした。感動のあまり咽(ムセ)び、声が出ない。アナウンサーとして、あるまじき失態である。と、SHINが素速くマイクを取りインタビュアーに。巧みなフォローに場内は一転歓声に包まれた。機転が利くのだ。頭がいいのである。解語の花である。女の髪の毛には大象も繋がる。わたしは決して「大象」ではない。巷の『子象』だ。だから、この時を境に易易としてガチガチに『繋が』れてしまった。ああー。11月は気が揉める。

 「芯の強い子、元気な子」これがいそうで、なかなかいない。ついこないだも永田町の『お坊ちゃま』が一抜けしちまった。非難囂々、数多ある中で次の仙石 由人民主党衆院議員のひと言はキツかった。曰く、「子どもなんかに総理大臣をやらせるからだ!」頂門の一針どころか、『十針』ぐらいの舌鋒だった。
 ともかくも、SHIN。やっぱりSHINだ。困った時の神(SHIN)頼み。女子アスリートにこのような逸材を持ち得たことはまさに奇貨可居ではないか。呉下安蒙の永田町の諸君、「芯の強い子、元気な子」の爪の垢でも煎じて飲みたまえ。薬効は覿面だ。□


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どんだけー?!

2007年09月11日 | エッセー
 『欠片的』流行語大賞、昨年は「おまえの話はつまらん」を一推しした。いまのところ、今年は「どんだけー?!」が一頭地を抜く。少々気忙しい話だが、年内のことゆえ鬼は笑うまい。

 IKKOが使い始めた。異説はあるが、詮索は無要だ。造語でもないし、フツーの言葉である。この場合、IKKOに意味がある。
 IKKOは『組合員』である(本年7月19日付本ブログ「いまどき『ことば』考」で取り上げた)。かつ組合員の例に漏れず、一芸の達人である。美容師を経て15年前に独立。モデルやタレントのヘアメイクを請け負う。「一髪 二化粧 三衣装」である。いわば彼女たちの急所を押さえた形だ。決して卵に目鼻ではない。どころか、『男勝り』の体躯を衒うことなく、堂々と『組合道』を征く。
 似た言い方を考えてみる。「なんぼのもんだよ」、あるいは「何様だよ」、または「よく言うよ」、さらに「お高くとまってる」などか。鹿を指して馬となす連中への揶揄であり反撃であろう。
 これが『組合員』から射掛けられたところが実に妙味ではないか。老舗の労働組合は衰退の一途だが、こちらの『組合』は日の出の勢いだ。かつての日陰者の「陰」なぞ、いまや微塵もない。陰を払拭した組合員の逆襲、などといえば言い過ぎか、的外れか。日の目を見た彼らの、いや、彼女らの誇りかな自尊が背景にないだろうか。埒外の色物と見る世間の方こそ、よほどに皿に桃を盛ったように観える。とでも言いたげな……。

 流行り言葉には、それぞれに似合いの時代情況がある。今年は「末は博士か大臣か」がすっかり値崩れした。博士は措いとくとして、「どんだけー」の大臣が続出した。痛む上に塩を塗るアンバイの悪い内閣は、この立身と出世の最終メルクマールを無慚に吹き飛ばした。ある意味の頂点が消えてフラットになると、価値観が揺らぐ。冬編み笠に夏頭巾でも可笑しくなくなる。だから、「どんだけー?!」なのだ。聞けば聞き腹、天下の年金だって揺らいだ。雪折れしない大木は望まぬものの、せめて柳に雪折れなしであってほしい。怨嗟が巷に満ち、お上への不審が募る。だから、「どんだけー?!」なのだ。
 諄(クド)いようだが、妙味は世の権威、傲慢への逆襲が世間の場末もしかして外側から、始まったことにある。口にも腹にも剣(ケン)ありの『組合員』にしてよく成せる業か。

 以下、余談ながら。
 先日、日テレ十八番の「24時間テレビ」が放送された。御仕着せの『感動供給』番組である(情報提供でも教養提供でもない)。テレビにわざわざ『作って』もらわなければならないほど、この国には感動はないのだろうか。ともあれ、『感動』のメインは『マラソン』である。ことしは欣ちゃん。70キロを『歩き』通した。走ってはいない。のっけから歩いた。なのに、だれも「歩いた」とは言わない。一部週刊誌は書いていたが、テレビメディアではだれも言わない。奇っ怪である。はなっから『70キロ・ウォーキング』と銘打てば済むものを、なぜだろう。引っ込みのつかない当人とできないと言う専門家、ごり押しの局が「歩き」で折り合いをつけたにちがいない。羊頭狗肉は「大将」の権威で封印できると……。(尤も、歩いてもマラソンでは失格とはならない)
 最近齢と共にめっぽう涙腺の緩くなったT氏なぞは滂沱の涙。66歳とはいえ、たんびに休み、たんびにトレーナーに介抱されながら70キロ歩いたのが、それほど感動的な快挙であろうか。往年の欣ちゃんファンとしては、むしろ哀しくなってきた。感動の切り売り、安売りをする番組の人身御供ではないか。足を引きずりながらなぜかテレビ局に向かう。なんのために。テレビ局から縁(エニシ)ある場所へ向かうのなら、まだ分かる。大衆歓呼の絵面(エズラ)がほしい局の意のままに、彼は歩いた。紅白の向こうを張って、視聴率を度外視した番組をぶつけた欣ちゃんの、かつての向う意気は欠片もない。ドラマではない、生な初老のコメディアンを老いの木登りさながらに衆目に晒して、何の意味があるのか。大病を患った二郎さんが、何キロあるか知らないが皇居の御堀端でも一周すれば、それは間違いなく感動だが……。
 特に芸人が権威化すると鼻持ちならない。本人にその気はなくとも、周りが担ぐ場合もある。用心するに如(シ)くはない。「大将」を慮(オモンポカ)っているようで、その実寄ってたかって「裸の王様」にしているのではないか。走ることと歩くことの原理的違いを諌言する取り巻きは残念ながらひとりもいなかったようだ。
 わたしは叫んだ。「どんだけー?!」

 序(ツイ)でにもう一つ。うだるような夏に、視聴率の荒稼ぎ、有り体に言えばCM料の荒稼ぎを狙うこの番組がなぜチャリティーを売り物にするのか。これはもう免罪符、目眩まし以外のなにものでもなかろう。でないなら、24時間CM抜きで放送したまえ。少なくとも出演者・スタッフはノーギャラではどうか。なにより、ゴールを指呼の間にして24時間目に中継カットとはなんとしたことか。陰にいて枝を折る蛮行ではないか。身内の出演者に対するチャリティーが、先ずないではないか。飢えては食を選ばずとのテレビメディアの本性丸出しではないか。こちらも羊頭狗肉を「募金」の権威で封印しようとするのか。
 だから、「どんだけー?!」なのだ。と、犬の遠吠えを繰り返したところで、IKKOに埒は明かぬが。□


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2007年8月の出来事から

2007年09月04日 | エッセー
■ 朝青龍に2場所出場停止  
腰のけがなどで巡業に休業届を提出しながらモンゴルでサッカーをしていたことから日本相撲協会が決定(1日)。本人は治療のためモンゴルへ帰国(29日)。
  ―― 朝青龍潰すにゃ白鵬は要らぬ、サッカーボールがあればいい。本当にそんな雲行きだ。
 まず、処分の問題。明らかに重すぎる。武蔵丸が去って3年半余、一人横綱として大相撲を支えてきたのは誰あろう、朝青龍ではないか。功績と不祥事を差し引き勘定してみれば、答えはおのずと解る。相撲協会は裁判所ではない。いな、裁判所でもこんな厳しい判決は出さない。だがマスコミでは、処分が相当を欠くとの声を聞かない。いつものように、寄ってたかって袋だたきだ。仮病説もある。ならばお前が横綱になってみろと言いたいのだが、なる気もなく体格も貧相であるに違いない。
 次に、過剰な倫理感を大相撲に持ち込まないことだ。異論もあるだろうが、昨年7月21日付本ブログ「露鵬 乱心」に論を任せ、ご一読を願う。
 3点目に、彼はジャパニーズ・ドリームの体現者であることだ。世界第2位の経済大国に渡り、まさに裸一貫、夢を掴んだ。ただアメリカン・ドリームとは違う。大相撲は大リーグとは異なる。野球はグローバル・スタンダードだが、大相撲はジャパニーズ・スタンダードなのだ。国のかたちが違う。第一、引退したのち部屋を開いて相撲界に残るには日本国籍が必要となる。今のところ、親方では元高見山・現東関親方しかいないのではないか。ジャパンでのドリームは手にしても、ジャパニーズになる覚悟はあるのか。それを迫るのが角界である。この辺りの構造性に切り込まなければ、木を見て森を見ざるだ。今回の騒動はジャパニーズ・ドリームの偏頗をも突き付けている。現役は外国人で補いが付いても、後々の角界は立ち行くのか。はなはだ心もとない。

■ 中華航空が那覇空港で炎上
台北から到着後。乗員・乗客165人は無事。(20日)
  ―― 生々しい映像を観て、「緊急地震速報」を連想した。たかだか数秒、長くて20秒ぐらい前。それで何ができる、と眉に唾していたからだ。
 爆発は最後に乗務員が脱出して12秒後だった。待てよ、地震速報もいいかもしれない、生死を別けるに十秒は決して短くはない、と考え直した。 
 ただ、課題もある。慌てて急ブレーキを踏む車があると余計な事故を呼ぶ。地下街などでパニックが起こり、出入り口に殺到するとどうなるか。さまざまあるが、なにせ世界初だ。記録に残る大地震のうち2割は日本で起こっている。ならば、日本が先鞭をつける値打ちと資格は充分にある。実施は10月。5月時点で、3分の1しか周知されていない。啓蒙と訓練が急がれる。
 あらゆる交通機関の中で飛行機の事故率は際だって低い。ただし事故の生存率は限りなくゼロに近い。もしもの時、『千の風』に「乗る」ことも「なる」ことも叶わぬ。ただ一点付け加えると、事故を起こしがちな会社は確かにある。人にもそれはいえるし、国にもある。インドネシアの飛行機はEUには出入り禁止だ。安全が文化として根付くには長年月の辛労が必要となる。  

■ 佐賀北が初優勝
全国高校野球選手権決勝で逆転満塁本塁打。広陵(広島)を5―4で下した。(22日)
  ―― 胸のすく勝利だった。前日から支(ツカ)えていたものが雲散霧消した。癪は準決勝、試合前の広陵高校監督のコメント。曰く、4点が勝敗ライン、3点までは取られても構わない。ウチが4点目を取れば勝てる。この『確信』は選手にしかと打ち込まれていたのだろう。試合後の選手のコメントはおうむ返しであった。試合の展開は以下の通り。
  広   陵  110 100 010
  常葉菊川 000 000 012
 4―3 まさに想定通りの勝ちであった。わたしは密かに念じた。「こんなチームが優勝してはいけない……」
 迎えた決勝戦。8回表までのスコアである。
  広 陵 020 000 20
  佐賀北 000 000 0
 観客のだれもが広陵の圧倒的な勝利を信じた。「なんだよー、これで決まりか。おもしろくもない」独り言(ゴ)ちて、わたしはラジオのスイッチを切った。だから、8回裏のドラマを聴き逃した。口惜しい限りだが、願いは叶った。8回裏からは2イニング、こうなった。
  広 陵   0
  佐賀北 5 ×
 人生をスポーツに擬して教訓を酌み取るとすれば、儘ならぬという訓(オシエ)こそ一等ではないか。高校野球が計算尽で勝てるなら、来年からは止めにしたほうがいい。そんなものはなんの役にも立たない。儘ならぬからこそ値打ちがあるのだ。一寸先は闇であり、曙光でもある。だから油断は禁物、だから諦めてはならない。スイッチを切った短慮には冷汗三斗だが、佐賀北のフツーの生徒たちに満腔の祝意を送りたい。
 もう一つ。いつものことながら、気になる言葉遣い。高校野球の監督がよく選手を「子どもたち」と言う。これはおかしい。高校野球の監督と、高校生の選手は親子ではないはずだ。ましてや監督の専有物でもない。相手は義務教育を終えた高校生だ。昨年来の高校野球を取り巻く問題の根には、監督の了簡違いがあるに相違ない。傀儡のごとくに差配する傲慢が監督にある限り、問題は断ち切れまい。
 ところで、佐賀北の百崎 敏克監督。野球部員のことを常に「生徒」と呼ぶそうだ。

■ 安倍改造内閣が発足  
経済成長路線に批判的だった与謝野薫・元政調会長を官房長官、増田寛也・前岩手県知事を総務相に起用。首相に批判的な舛添要一・参院政審会長も厚労相に任命した。(27日)
  ―― 前項ではないが、スコアボードを追いかけるように目まぐるしく様子が変わる。政務官を含め発足わずか5日にして、10人からカネの不正と手落ちが発覚した。
 ついに昨日(9月3日)は遠藤農水相が辞任。在任8日間だった。安倍内閣で5人目の大臣辞任である。前代未聞か。与謝野官房長官が語った。「森羅万象が判るわけではない」ごもっともだ。蓋し、名言である。「身体検査」の不徹底で片付けられるほど事態は軽くない。以前にも指摘したが、真因は将たる者の薄運、これに尽きる。わたしはむしろ同情すら禁じ得ない。
 序盤の敵失に民主党は色めき立つが、彼らとて偉そうなことはいえない。この4年間、同党の刑事事件逮捕者は20人を超える。衆院議員2人、地方議員10人、秘書12人。容疑は給与のピンはね、学歴詐称、買収、覚醒剤所持、痴漢、強姦、傷害など、およそ天下の公党とは言い難い。組関係でもここまではいかない。
 それはさておき、農水は鬼門だ。鬼は「補助金」をめぐる構造に潜む。農水に限ったことではない。建設も福祉も、さまざまな分野を補助金の網が覆う。右肩上がりの時代から引きずる負の遺産だ。今にして、「改革」を主導した『ライオンヘアー』が懐かしい。
 多難な船出。ガタのきた船体に虫食いの帆。はたして風は吹くか。

(朝日新聞に掲載される「(先)月の出来事」のうち、いくつかを取り上げた。見出しとまとめはそのまま引用した。 ―― 以下は欠片)□


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