農民救済
義務教育費の国庫負担
肥料販売の国営
農産物価格の維持
耕作権などの借地権保護
労働問題
労働組合法の制定
適正な労働争議調停機関の設置
昭和9年1月に起案された「政治的非常事変勃発に処する対策要綱」で掲げられた政策である。驚くほどの庶民目線で、かつ革新的だ。作成は政党政治の老舗である政友会でも、「貧富の差解消」を看板にする民政党でもない。なんと、陸軍統制派であった。同年10月には、「国防の本義と其強化の提唱」と題するパンフレットを60万部刊行。「陸軍パンフレット」と呼ばれ、軍部による政治関与だと物議を醸した。陸パンはこう呼び掛けた。
「戦いは創造の父,文化は母である」。国防は軍備増強のみに非ずして、「国家生成発展の基本的活力の作用である」。よって、「国民生活の安定を図るを要し、就中、勤労民の生活保障、農村漁村の疲弊の救済は最も重要な政策だ」。
国家社会主義を志向するプロパガンダだが、政党政治が掬わない勤労者や農漁民の苦況にキッチリとフォーカスしている。
統制派とは、直接行動の皇統派とは袂を分かち、政治的要望を合法的に実現しようとする陸軍の一派であった。永田鉄山から東條英機へと連なる。目的は列強と優に伍する「高度国防国家」の建設にあった。
世界恐慌の煽りを受けて農村は疲弊していた。しかも国民の約半数が農民である。25歳以上の男子に選挙権が付与されたものの、農民の窮状に政党政治の手は差し伸べられない。そこへ、「小作人の権利を保障する小作法の成立」や「農民に低利で貸し付ける金融機関を作ること」などが軍部から打ち出される。期待を集めないわけがない。底意はスルーされてしまった。
隠された狙いは何か。徴兵のためだ。旧制中・高・大生、さらに大企業、重化学工業の熟練労働者は徴集免除。残るは農村の若者たちだ。反するようだが加えて、農村が立ち枯れては食料、栄養が確保できない。手厚い保護が必須だ。そのようにして国民の歓心を買って民心の一致を図る。来たるべき戦争へ軍事ファッショをいかに構築するか。統制派の腐心はそこにあった。結句、政党にではなく政治に容喙してはならない軍部に道は明け渡されることになった。しかし望みは叶えられることはなく、破滅を迎える。
雑把にいうとそのようになる。先日、「安倍政権が官製春闘、働き方改革、女性活躍社会など盛んにウィングを左に拡げようとするのは戦前回帰(=「古いバージョン」)志向の本音隠し、もしくは迂回作戦である。・・・まめな被災地視察やいかにも独自を装った対ロ外交、いの一番のトランプ詣で。それら、殊更に“やってる感”を演出する振り付け・・・」と愚案した(日本会議 3部作 1/2)。一一(イチイチ)のリファレンスは措く。それにしても通底する“統制”色といい、一望一体アナロジーだらけではないか。
もちろん歴史は単純には繰り返さない。いつも新しい衣裳を纏い、見も知らぬ面相をして現れる。だがどうも氏素性は変わらぬらしい。それが証拠に戦は未だに熄まぬではないか。
内田 樹氏は語る。
〈 歴史にもしもはないと言う人がいますが、僕はそう思わない。「もしもあのとき、あの選択肢を採っていれば」という非現実仮定に立って「もしかすると起きたかもしれないこと」を想像するというのは、今ここにある現実の意味を理解する上で、きわめて有意義なことなんです。 〉(「日本戦後史論」から)
胸に落ちる言葉だ。
──「もしもあのとき、あの選択肢を採って」いなければ「という非現実仮定に立って「もしかすると起き」なかった「かもしれないこと」を想像するというのは、今ここにある現実の意味を理解する上で、きわめて有意義なこと──である。 □
〈 「隠された十字架」、「水底の歌」、そして「葬られた王朝」は、“梅原古代学”の三大作といえよう。
三作目の「葬られた王朝」は通説や定説さらには自説をも潔く撤回し、出雲神話はフィクションではなく、出雲王朝は実在したと論じている。文献への徹底的な検討と遺跡などへのフィールドワークによって具体的な裏付け、論証を行っている。
スサノオは朝鮮半島からの渡来人である。ヤマタノオロチとは越の国からの侵略者であり、スサノオは当地を解放して出雲王国を建てた。
オオクニヌシはさらに進めて越を支配下に置き、ヤマトにまで勢力圏を伸ばした。しかしヤマト王権に押し返され、やむなく国譲りに至る。 〉
13年5月の『メルヘン?』と題する拙稿の一部である。その「葬られた王朝」=出雲王朝が伊勢に痕跡を濃厚に留めるという。遡る出雲と新羅との深い繋がり。つまり、朝鮮半島東南部からの渡来人の来住と出雲族の形成。最先端の製鉄技術。鉄を求めての南進、東漸。伊勢神宮に隣接する「韓神山」や散在する唐神の残影……。本年8月発刊の平凡社新書「伊勢と出雲」が、唐神と鉄を軸に克明に説き明かしていく。著者は岡谷公二(オカヤコウジ)氏。フランス文学・美術研究者で跡見学園女子大学名誉教授である。和辻哲郎文化賞を受けた「南海漂蕩」をはじめ、著書多数。「伊勢と出雲」は今、新聞各紙が注目する一書だ。
「大和朝廷が勢力を確立する以前、おそらくは弥生時代に出雲族がこの地に滲透していたと思われる」との論及は梅原の「葬られた王朝」と軌を一にする。注目すべきは次の部分だ。
〈 私は、大和朝廷が日頃から出雲に対して抱いていた潜在的畏怖があると考えている。この畏怖の大方は、出雲と新羅の関係から来ていると言っていい。出雲は新羅にもっとも近い国の一つであり、たとえ支配下に置いたとしても、畏怖が消えることはなかった。新羅との関係が悪化し、百済と組んだ日本は白村江の戦いで唐=新羅の連合軍に敗れ、この畏怖はむしろ一層大きくなった。 〉(上掲書より抄録)
古代外交史、地政学的攻防の一端であろうか。14年4月「白村江、再びか?」で愚考した本邦ではじめて集団的自衛権が行使され、かつ哀れな惨敗に帰した歴史的教訓である。
興味を引かれたのは、近接する古墳と社域の位置などから神社のルーツは墓ではないかとの論攷だ。ただし、ある時期を境に神社が死穢を嫌うようになる。そこで、民俗学者・谷川健一氏の言を引いている。
「神社の中でしばしば襲われるあのどうしようもない空虚感はどこに由来するものであろうか。私の考えでは、触穢へのつよい警戒心、とくに死穢からできるだけ遠ざかろうとする清浄感が空虚感を生み出すのである。死者との連帯をもたないで宗教が成立するはずもないことは自明の理であるにもかかわらず、神社神道は死者の管理を仏教にゆだねた。その結果、死者の眠る大地との紐帯、大地を媒介にした生者と死者との連帯意識から生れてくる充実感を喪失した」(「祭場と葬所『山宮考』覚書」)
実に示唆に富む。「清浄感が空虚感を生み出す」とは民俗学者の皮膚感覚というべきか、鋭利な感性に脱帽だ。
ともあれ、伊勢と出雲という意外な2つのランドマークに秘められた古代王権の確執を描く、今年一推しの好著かもしれない。ただ刺激的なコンテンツに比して、語り口は淡々として抑制が利いている。ただし、
〈 私は、たとえ「見る影もない竹藪」の中の小さな祠であろうと、韓神山にまだ韓神が祀られているのかどうか、どうしてもこの眼で確かめたくなった。それで一昨年(引用者註・14年)の仲春の一日、伊勢へと向かった。 〉(上掲書から)
との一節に読み来たった時、にわかに昂まる感動を覚えた。当時、岡谷氏は85歳。なんという学者魂、恐るべきフットワークであることか。こういう場面もある。
〈 石段をのぼりはじめたのだが、その坂の急峻さ、距離の長さ、石段の荒々しさ・・・右手に張られた縄にすがらなければ、とてものぼることはできなかった。段の数は百八段どころではなく、たしかにその倍以上はあった。しかも巨岩があって、そのわずかな隙間を・・・背負っているリュックがつかえ、体を斜めにしてやっと岩の隙間を抜けると・・・ 〉(上掲書より縮約)
唐突だが、葛飾北斎の今際のひと言が浮かんだ。
「天が私にあと十年の時を、いや五年の命を与えてくれるのなら、本当の絵描きになってみせるものを」
享年90、ここまで己を相対化する執念を天才と呼ぶのではないか。岡谷氏との類似に膝を打ち、頭を垂れた。 □
つづく2作目は、
■ 「日本会議の正体」 平凡社新書、本年7月刊。
センセーションを巻き起こした「日本会議の研究」から2ヶ月後である。著者は青木 理(オサム)氏。ジャーナリスト。慶応義塾大学卒業後、共同通信社入社。社会部、外信部、ソウル特派員などを経て、フリーとなる。主な著作に『日本の公安警察』『抵抗の拠点から朝日新聞「慰安婦報道」の核心』(いずれも講談社)などがある。
ネットでは次のように紹介されている。
──安倍政権とも密接な関係をもち、憲法改正などを掲げて政治運動を展開する、日本最大の草の根右派組織「日本会議」。虚実入り混じって伝えられる、その正体とは。関係者の証言を軸に、その成り立ちと足跡、活動の現状、今後の行方を余すことなく描く。 反骨のジャーナリストがその実像を炙り出す、決定版ルポルタージュ。──
「日本会議の研究」と大半の内容は重複するが、安倍政権との関わりについてより踏み込んでいる。また神社界との関係や、宗教的バックボーンの解析、稲田朋美へのインタビューが新味である。
日本のメディアには危機感が希薄だとし、同書で「たとえば5月のG7サミットが伊勢志摩で開かれ、安倍が各国首脳を伊勢神宮へと誘ったことを批判的に捉える報道すら皆無だった。神社本庁が本宗と仰ぐ伊勢神宮にスポットライトが当てられたことは、日本会議と神社本庁にとっては悲願ともいうべき出来事であったにもかかわらず」と嘆く。まったく同感。拙稿では5月28日「伊勢参り」と題して取り上げている。
政権との関わりについて、青木氏は「共振」をキーワードにこう見立てる。
〈 日本会議が安倍政権を牛耳っているとか支配しているというよりむしろ、両者が共鳴し、共振しつつ「戦後体制の打破」という共通目標へと突き進み、結果として日本会議の存在が巨大化したように見えていると考えたほうが適切なように思える。つまり、「上から」の権力行使で「戦後体制を打破」しようと呼号する安倍政権と、「下から」の“草の根運動”で「戦後体制を打破」しようと執拗な運動を繰り広げてきた日本会議に集う人びとが、戦後初めて車の両輪として揃い、互いに作用し合いながら悲願の実現へと突き進み始めている。 〉(上掲書より)
冷静な見方であろう。ただし、戦後の民主主義を死滅に追い遣る「悪政ウィルス」だと警鐘を鳴らす。「ついには脳髄=政権までが悪性ウィルスに蝕まれてしまった」と。
安倍晋三という“旧バージョン志向”のサラブレッド、期待の星。実は、ただのノンポリが右派の筋金入りの一群に取り込まれ飼い馴らされた結果ではないかともいう。会社員時代の上司の言葉が印象的だ。「子犬が狼の子と群れているうち、ああなってしまった」と。遠謀が成ったというべきか、伝来の因果が報いたというべきか。気持ちのいい結末ではない。
3作目は、
■ 「日本会議史観の乗り越え方」 かもがわ出版、本年9月刊。
「日本会議の研究」から4ヶ月、「日本会議の正体」から2ヶ月が経っている。「乗り越え方」とは、実に手順に適う。作者は松竹伸幸氏。ジャーナリスト、編集者(かもがわ出版編集長)で、日本平和学会会員。著書に、『慰安婦問題をこれで終わらせる。』(小学館)、『歴史認識をめぐる40章──「安倍談話」の裏表』(かもがわ出版)、『憲法九条の軍事戦略』『集団的自衛権の深層』(平凡社新書)などがある。
書籍の紹介にはこうある。
──安倍首相を筆頭に多数の国会議員が属しているとされる日本会議は、第二次大戦前の日本を現代に蘇らせる…。日本会議が振りまく日本近現代史に関する歴史観を批判するとともに、歴史の光と影を統一する方法論を提示する。──
元日本共産党安保外交部長であったこともあり、「日本平和学会」ともに共産党との“共振”が指摘される。同党が日本会議にとってアンチテーゼの筆頭である以上、それは当然だろう。問題は中身だ。『憲法九条の軍事戦略』もプラグマティックで優れた論究であった。今作も冷静、深慮、かつ鋭利な解析が目立つ。
主要な考察を列挙してみる。
▽日本会議がもつ歴史観を問い糾さなければ、巨大な影響力を持ちつつある日本会議を乗り越えることはできない。
▽首相の常套句「侵略の定義は定まっていない」はウソ。国連決議により明確に定められている。
▽70年首相談話「反省とお詫び」の欺瞞。「先の大戦」では韓国併合が含まれない。
▽談話の売り「(将来世代に)謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」の狙いは、国家の責任逃れに若者を盾に使っているのではないか。
▽若者や将来世代が謝罪すべきか否か、どこの国も誰も問題にしていない。問題にされているのは自民党政権の対応、大人の言動である。
▽侵略は違法、植民地支配は合法が常識であったヨーロッパの論理。だが、近年見直され侵略が断罪されるまでに大きな前進を見せている。
▽東京裁判は確かに「勝者の裁き」ではあったが、前項のような人類史的進歩を刻む契機になったといえる。
▽諸外国に比し、「戦争」と聞いても心が躍らない日本国民の方がよほど健全ではないか。日本が戦争の過去に否定的に縛られていることは決してマイナスではない。
▽アメリカと事を構えるほどの勇気があるわけでもなく、本音を隠して対米追随するばかりの日本政府。「日本会議」史観派はこの「敗戦ストレス」を抱え続けた存在だ。
▽靖国参拝では決まって英霊への哀悼が語られる。しかし殺された側の兵士は、なぜ弔われないのか。「自分たちを殺した兵士に感謝するのか」と問われ、返す言葉はあるだろうか。
▽人びとに戦争の記憶があるうちは国家の責任が消滅することはない。私たちは「侵略した国家の一員」であるという自覚をもって死者に相対することが大事だ。
前2作が鍔迫り合いから鮮やかな面一本か抜き胴を取ったとすれば、こちらは柔道の隙を突いた返し技か寝技一本といったところか。視点と視角が大いに異なる。よって、3部作相俟って日本会議を射止める3本の矢となろう。アホノミクス3本の矢は哀しいくらいに的外れで終わりつつあるが、こちらは正鵠を射貫く。“旧バージョン”のゾンビに永田町を跋扈させてはなるまい。なによりも『転換期を生きるきみたち』のために。 □
3年前の6月、文科省が公文書での表記を「子ども」ではなく「子供」にするよう達しを出した。漢字と仮名の交ぜ書きは国語と文化の破壊に繋がるというのがその理由であった。それまでは「共」には従者の意があるとして「ども」が使われていた。なぜ交ぜ書きが国語と文化の破壊に繋がるのかまったく理解不能だが、真意は上下の関係を明確にするため「共」に拘ったからではないか。1月前にさる筋から要望書が下村博文文化相(当時)に直々提出され、それに応じたものという。素早いリアクションに驚くが、どうもさる筋とは「日本会議」周辺らしい。しかも下村氏は「日本会議国会議員懇談会」幹事長でもある。なにか出来レースの臭いがしないでもない。たかが言葉遣いのようで、真綿で締めるように、段々と外堀が埋められるように世論が誘導されていく気配がする。
今年のNHK大河は『真田丸』。大坂夏の陣からちょうど400年に当たる去年こそ好機だったのに、なぜか『花燃ゆ』が選ばれ今年に回った。NHKが安倍政権に配慮したのではないかとの噂が流れた。首相の地元であり、維新への強い憧憬をもつ。加えて桂小五郎の勲功が主人公の夫である小田村伊之助にすり替えられたり、攘夷の砲撃相手がアメリカ船からフランス船に変わっていたりとひどい改竄があった。おまけに、「迫り来る危機に一刻も早く備えねばならない」「今わが国は、異国の脅威にさらされておるんです」「本当にこの国のことを思うもんは知っとる」などの危機意識を煽る台詞が要所で繰り返された。一昨年、次の年は安保法制が最大の政治テーマになることは明らかだった。日米という基軸、安全環境の変化を声高に唱える時の政権の主張に阿ったといわれても仕方あるまい。さらに驚くことに、小田村伊之助は「日本会議」副会長の小田村四郎の曽祖父であるという。唖然としてしまう。
いずれ取り上げねばなるまいと気懸かりではあったのだが、憲法審査会が再開したのを機にテーマに据える。「日本会議」についてだ。
問題を至極簡明に括るなら、以下のようになる。
〈 「国を愛する」ってなんだろう? 山崎雅弘(戦史・紛争史研究家)
「国」とは何か、「愛国心」とは何か、問いかけはストレートでありタイムリーである。
──戦争に負け、民主主義の価値観にぴったり合うような、新バージョンの「愛国心」を作らなくてはならないはずでした。ところが、「愛国心」という考え方を「危険物」のように扱って丸ごと捨ててしまったため、それが本来あるべき場所が長い間空白となっていました。そして、日本という国に愛着を持ちたい、という人が「愛国心」という考え方を求めた時、戦前戦中の古いバージョンの「愛国心」しか見当たらないため、多くの人々が、古いバージョンの「愛国心」を手に取ってしまう現象が起きています。──(縮約)
語り掛けは易しいが、核心的マターを突いている。旧バージョンから新バージョンへ。避けられないアポリアだ。 〉(先日の拙稿「ニューシフト・イレブンが紡ぐぼくたちへのアンソロジー」から)
「古いバージョンの『愛国心』を手に取ってしまう現象」の象徴であり、かつ主導的存在が日本会議である。
1997年設立の民間団体。会員数3万8千。全都道府県に本部があり、240強の市町村に支部をもつ。会長は政治学者で杏林大学名誉教授の田久保忠衛。副会長には、安西愛子(声楽家、元参議院議員)/田中恆清(神社本庁総長)など。顧問に、石井公一郎(ブリヂストンサイクル元会長、明成社初代社長)他。代表委員に、石原慎太郎(作家、元東京都知事、元衆議院議員)/尾辻秀久(参議院議員、元日本遺族会会長)/長谷川三千子(埼玉大学名誉教授、NHK経営委員)/村松英子(女優、詩人)等が並ぶ。海外には「ブラジル日本会議」。他に櫻井よしこ、百田尚樹も深い繋がりをもつ。
「美しい日本の再建と誇りある国づくり」を掲げる。主要な提言と活動は、
──男系による皇位の安定的継承を目的とした皇室典範改正
皇室の地方行幸啓の際の奉迎活動
憲法 地方、中央に於ける憲法シンポジウム・講演会の開催
「押し付け憲法論」に立った憲法改正要綱の作成
歴史と伝統に基づいた、新しい時代にふさわしい新憲法の制定
教育 学校教科書に於ける「自虐的」「反国家的」な記述の是正
「親学」に基づく親への再教育、いじめ撲滅等を目的に掲げる「家庭教育基本法」の制定
「特に行きすぎた権利偏重の教育」の是正
「わが国の歴史を悪しざまに断罪する自虐的な歴史教育」の是正
教育委員会制度の改革
「公共心」「愛国心」「豊かな情操」教育等を盛り込んだ「新教育基本法」の制定
「国旗国歌法」の制定
海上保安庁法等の改正
平時における自衛隊の領域警備に関する役割を定める法律の制定
自衛隊法の改正等による「有事法制」の整備
内閣総理大臣の靖国神社公式参拝実現
靖国神社に代わる無宗教の「国立追悼施設」建設反対
「選択的夫婦別姓法案」反対
「ジェンダーフリー」運動反対
日本の主権を侵害すると見做した動きへの反対運動
外国人地方参政権反対
「人権機関設置法」反対
「自治基本条例」制定反対──
である。中には実現したものもあるが、ことごとくが「古いバージョン」志向である。
関連団体に「日本会議国会議員懇談会」と「日本会議地方議員連盟」を有し、所属国会議員は15年9月時点で衆参合計281名。内、自民党が256人、約62%。民進党、日本維新の会にもいる。小池都知事も名を連ねていた。会長は平沼赳夫、副会長に安倍晋三と麻生太郎。8月の改造内閣では所属する閣僚が3人増え、75%を占める。一方、12年時点で地方議員連盟所属の県議会議員が全定員の40%を越える県議会が全国で15、3割に達したという。
隠然たる威勢というか、すでにして顕然たる権勢というべきか。単なる民間団体の域を超えている。日本の構図が今、ドラスティックに変わろうとしているのか。戦慄的でさえある。
今のところ関連本は4、5冊あるが、その内から3冊を選んで概説したい。
■ 「日本会議の研究」 扶桑社新書、本年5月刊。
このマターで嚆矢となった著作である。当然「トンデモ本だ」との相手側の攻撃を受けるが、世の関心をこれにフォーカスした功績は大きい。サイトの紹介を引用する。
──著者は菅野 完氏。著述家。主に政治分野の記事を雑誌やオンラインメディアに提供している。
「右傾化」の淵源はどこなのか? 「日本会議」とは何なのか? 市民運動が嘲笑の対象にさえなった80年代以降の日本で、めげずに、愚直に、地道に、そして極めて民主的な、市民運動の王道を歩んできた「一群の人々」がいた。彼らは地道な運動を通し、「日本会議」をフロント団体として政権に影響を与えるまでに至った。そして今、彼らの運動が結実し、日本の民主主義は殺されようとしている。安倍政権を支える「日本会議」の真の姿とは? 中核にはどのような思想があるのか? 膨大な資料と関係者への取材により明らかになる「日本の保守圧力団体」の真の姿。──
成り立ちを含め、網羅的に記述されている。この会議を識るには格好の一書だ。菅野氏はポイントを次のように列挙する。
〈 ▽安倍政権は、日本会議の影響を色濃く受けている様子がうかがえる。
▽「緊急事態条項の創設」「憲法24条を改変し家族条項を追加すること」「憲法9条2項を改廃すること」という、最近にわかに活発化した改憲議論は、その内容と優先順位ともに、日本会議周辺、とりわけ「日本政策研究センター」の年来の主張と全く同じである。
▽日本会議が展開する広範な「国民運動」の推進役を担っているのは、「日本青年協議会」である。
▽「日本青年協議会」の会長であり日本会議事務総長である椛島有三も、“安倍総理の筆頭ブレーン”と呼ばれる「日本政策研究センター」を率いる伊藤哲夫も、「生長の家学生運動」の出身である。
▽現在の「生長の家」は、過去の「愛国宗教路線」を放棄し「エコロジー左翼」のような方向転換をしており、目下、この路線変更に異を唱える人々が「生長の家原理主義」ともいうべき分派活動を行っている。
▽その中心団体には、稲田朋美や衛藤晟一などの首相周辺の政治家をはじめ、百地章、高橋史朗など「保守論壇人」「保守派言論人」が参加している。 〉(上掲書から)
氏は「安倍政権の反動ぶりも、路上で巻き起こるヘイトの嵐も、『社会全体の右傾化』によってもたらされたものではなく、実は、ごくごく一握りの一部の人々が長年にわたって続けてきた『市民運動』の結実なのではないか?」と語る。これがキモだ。翻って、安倍政権が官製春闘、働き方改革、女性活躍社会など盛んにウィングを左に拡げようとするのは戦前回帰(=「古いバージョン」)志向の本音隠し、もしくは迂回作戦である。夫婦別姓のイシューを巧みに煙(ケム)に巻くのは、その明証の一つだ。ともあれ反知性主義で因業な人物にこれほど上手く一強体制を作れる能はないと疑っていた。まめな被災地視察やいかにも独自を装った対ロ外交、いの一番のトランプ詣で。それら、殊更に“やってる感”を演出する振り付け。自民党の官邸スタッフにそんな深謀遠慮はないだろうと訝っていた。だが、その秘密、影のブレーンが見えてきた。
蓋し、日本の中枢を蝕む患部を見事に剔抉した好著である。眼前の「多くの人々が、古いバージョンの『愛国心』を手に取ってしまう現象」との病識があるなら、まずはその病因を掴まねばならない。戦後70年の転換期に現れ出た妖怪を断じて見逃すわけにはいかない。 □
いい歳ぶっこいてると、やはり絵本コーナーは気が引ける。孫に買ってやるという言い訳もあるが、生憎そのようなものは持ち合わせていない。それでも、勇を鼓して踏み込んだ。
……あった。
「いのちのはな」 作: のぶみ/出版社: KADOKAWA
おとつい13日にTV番組を観て、矢も楯もたまらなくなった。以下、サイトの紹介を引用する。
〈 ドキュメンタリー番組「情熱大陸」に、絵本作家ののぶみさんが登場! 番組では、新作『いのちのはな』創作の過程に9ヶ月間密着。
「ママがおばけになっちゃった!」シリーズが累計54万部を突破、これまで執筆した絵本は170冊を超え、海外でも翻訳出版される等、国内外で高い評価を受けているのぶみさん。アニメ、シンボルマーク、キャラクタなども手がけ、幅広い分野で活躍する、今、最も注目を浴びる作家の一人です。
しかし、彼のこれまでの人生は波乱に満ちたものでした。小学校時代にはひどいいじめに遭い、二度の自殺未遂を経験。不登校になったり引きこもりになったり、高校時代には池袋連合というチーマーの総長にもなりました。その後、保育士の専門学校に入ったことがきっかけで絵本作家を目指すも、7年間も売れない時代を過ごしてきました。
NHK Eテレ「おかあさんといっしょ」で放映されたアニメーション「ぼくのともだち」でブレイク。ところが7年ほど絵本が売れない時期があり、うつ病やパニック症候群に。70冊目にあたる、息子のために描いた「しんかんくん、うちにくる」がようやくベストセラーに。代表作「ママがおばけになっちゃった!」、2015年一番売れた絵本となり、2016年には続編『さよなら、ママがおばけになっちゃった!』も刊行。「ぼく、仮面ライダーになる!」シリーズ、「うんこちゃん」シリーズなど170冊を超える絵本を執筆し、ベストセラー多数。
そののぶみさんが、初めて自身を主人公に「いのちの大切さ」をテーマに執筆した絵本が本著です。「これまでの僕の人生の闇の部分も光の部分もすべて込めました。つらいことがあっても目を背けないで立ち向かうと、『それでも生きていて良かった』と思える瞬間が必ず訪れる。読者にその幸せを届けたい。と僕の全人生を賭けて描いた、現時点での最高作品です」と語り、思いを届ける為に、制作途中に何千人にも読み聞かせを行い、修正を重ね、もがいて苦悩して創りあげました。対象年齢3歳から。
──ある日、おかあさんからチューリップの球根をもらったかんたろう。はりきってチューリップを育てようとするかんたろうですが、次の日からなんと病気になってしまいました! 水がもらえないチューリップのプーは、いったいどうなってしまうのでしょうか。
力尽きそうになったプーのことを、はげましてくれる友達もいます。逆に「あなたは、いらないはななんだから」などと、意地悪なことを言う友達もいます。プーはあきらめずに花を咲かせることはできるのでしょうか?── 〉
こわごわ、恐る恐る、1頁づつ丹念に読んでみた。最初のガイドに従って裏表紙の『それから』に至った時、なんと不覚にもこみ上げてきた。嫌んなるくらい越えてるとはいえ「対象年齢3歳から」なので、一向感涙が赦されないわけではない。だがそれにしても、恥ずかしい。番組を観て「これまでの僕の人生の闇の部分も光の部分もすべて込めました」を知っているとはいえ、いや、知っていながら、まんまと“チューリップのプー”に涙腺を擽られてしまった。判っていながら、擬人化の罠に嵌められてしまった。メタファーの呪力に搦め捕られてしまった。これはどうしたことか。
加齢によるものではないとの大前提に立つと(これは譲れない)、やはり前稿を引き摺らざるを得まい。「野生の思考」だ。
〈 理論を組み立て概念を使って考える科学的思考に対し、精緻な感性を駆使し記号(トーテムなど)を使って考える。「概念の思考」を向こうにすると「具体の思考」でもある。 〉(前稿より)
この場合、絵が記号に当たる。「いのちの大切さ」は花というこの上ない具体で語られる。球根、水、光、蟻、風、根っこ、花びら、おまけにセロテープ、すべてが具体だ。「具体の思考」だ。概念とは別ルートの思考が子どもたちを包(クル)む。読み聞かせで子どもたちが涙を流し、終わりに安心したように拍手を送るのは「野生の思考」ゆえにちがいない。
番組は、涙滂沱と流しつつ心情たっぷりに読み聞かせをするのぶみ氏の姿を伝えた。傍らの荊妻は感情移入が過ぎるとクレームをつける。絵本は感じ方は子どもに任せ、大人は淡々と読むべきだと、幼児教育の専門家として御高説をお垂れになる。そうかもしれぬが、激するほどの情熱がなければ名作は生まれまい。なにより彼は作者だ。申し上げるが、言う割にはてめーの亭主との日常会話に感情移入が過ぎるのはどういうことだろう。さらに、「わたしは『うんこちゃん』の方がお薦めだね」とも仰せになる。たしかにそちらの方が具体性は格段に増す。読んだことはないが、スカトロジーでないなら納得だ。野良が似合う荊妻は、概念思考よりやはり野生の思考に向いているらしい。
巧い、と唸ったのはセロテープが登場する場面だ。中身はいえないが、「やめてー! キレイに かれさせてー!」は幼くて大人、単純で複雑で、可笑しくて哀しくて、残酷で優しくて、何とも絶妙だ。作者の只ならぬ天稟が凝縮しているといえよう。
括りにひと言。たかが絵本と言う勿れ。優れた作品は大部の小説に勝るとも劣らぬ感動を与えてくれる。例えばこの絵本。読み聞かせる相手はいないが、わが胸中の野生の思考が存分に聴き入ってくれた。 □
凡下の思慮はまことに跡追いだ。まずはかつての拙稿を引いてみる。09年8月、「Stand By Me」から。
〈 足元から這い上がるヌッとした重い湿気。中ほどまで行けば半月のような出口が見える。そこまでは押し潰されそうな暗がりの中を、反響する自分の足音で歩みを確かめながらそぉーと進む。いまこの時に列車が来たらどうしよう。トンネルの壁にピタリと張り付けば大丈夫だろうか。急停車でもして咎められたら、事だ。不安に急(セ)かれて、ついには駆け出した。
本線ではなく支線、となり町までの約4キロを単線のレールに沿って辿る。直下を縫う道を歩き、鉄橋を怖々(コワゴワ)と渡り、途中からトンネルを潜(クグ)って近道をする。一人の時も、二三人で連れだって繰り出すこともあった。着くと、友達が待っていた。遊び終えて、同じ道程(ミチノリ)を家路につく。夕間暮れ、怖さは募る。戦慄。いまにも破裂しそうに膨らんだ風船を抱えるそれだ。蠱惑が少年の身の内の、なにかを刺激した。そして数日が過ぎ、刺激が甦って、また行った。決して列車に乗ろうとはしなかった。
忘(ボウ)じがたき少年の日の情景である。
長じて振り返れば、誰の少年時代にも作品と同じ原風景や原体験がある。原作も自身の昔日を回顧するところから始まる。
わたしも当然、あの「忘じがたき少年の日の情景」がオーバーラップした。もちろん映画のような目眩くドラマはなかった。ましてや「死体探し」の旅でもなかった。しかしわたしを見舞ったあの「戦慄」と「蠱惑」は、この作品と確かに通底している。高ぶりは同質で同根だ。使い古された言葉だが、共感である。生涯男が自身のうちに抱(イダ)き続ける「少年」が蠢くのだ。
「少年」にとって母性は終世、別ち難くあるからだ。Stand by me は母なるなにものかへの思慕だったといえば、牽強附会が過ぎるであろうか。 〉
先月人類学者で思想家の中沢新一氏の新著『ポケモンの神話学』(角川新書)を読んでいて、はたと膝を打った。蠢いていた「少年」と思慕を抱いた「母なるなにものか」に偶会したのだ。
この本、じつは12年前の『ポッケトの中の野生』(新潮文庫)に若干加筆、修正した復刻版である。読みそびれて、今になって膝を打つ。跡追いの最たるものだ。
ポケモンの爆発的人気の秘密を子どもたちに眠る野生に求める。覚醒された「野生の思考」が異界のモンスターたちを追う。いま電子ゲームに「野生の思考」が蘇った、と。「現代人の無意識と野生に迫ったゲーム批評の金字塔」とされる。
「野生の思考」とは仏人類学者レヴィ=ストロースが約半世紀前に著した作品、及び学説をいう。「未開人の思考」と「文明人の思考」とには発展の差も優劣もない。原始人類や「野蛮人の」思考ではなく、「文明人の」思考(野生に対する「栽培種化・家畜化された思考」ともいう)と比するに「野生の」思考である。理論を組み立て概念を使って考える科学的思考に対し、精緻な感性を駆使し記号(トーテムなど)を使って考える。「概念の思考」を向こうにすると「具体の思考」でもある。関心の違いがあるだけで思考の基本は同質であるとし、西欧文明優越論に痛烈な批判を加えた。
それはともあれ、中沢氏はポケモンが「現代のトーテミズム」であることを様々に論証していく。こう語る。
〈 親や社会があたえることばの体系が自分に見えなくさせてしまっている何か、ことによると、本当の「私」が隠されているかもしれない秘密の場所が、そこ(裏山にある防空壕の掘り残しの洞窟や、放置されたままの下水溝工事の跡など)にあるのかもしれない。子どもたちにとって、洞窟にもぐること、仲間といっしょに長い旅をして森の中に死体を発見すること(『ポケモン』のゲームで、主人公が旅に出ようとしている時、お母さんはテレビで『スタンド・バイ・ミー』の映画を見ている。言うまでもなく、これは死体を見る旅に出る子どもたちを描いた映画だ)、「世界のへり」に出ていこうとする欲望は強力で、しかもその欲望はまだ挫折を知らない。 〉(上掲書より縮約)
これだ。「蠢いていた『少年』」とはこれだ。ポケモン出現の遙か以前の子どもたちは簡易版の『スタンド・バイ・ミー』を演じていた。「お母さんは」の下(クダリ)は即妙な諧謔であると同時に、絶妙な例示でもある。稿者はストンと腑に落ちた。
さらに、「思慕を抱いた『母なるなにものか』」については以下の通りではないか。
〈 土や水の感触や、泥のぬめりや、草の中をはいずりまわっているときの感覚や、昆虫をおっかなびっくり手にしているときの感じや、釣り竿に魚がかかったときの手応えや、こうしたもののすべてが、子どもには母-子一体状態にあって体験されていたような、ことば以前の心身感覚につながりを持っている。ぐにゅっと蛙のからだをつかんだとき、裸足で泥の中を歩くとき、指の間からにゅるっと入り込んでくる泥の感覚が、いまだに世界との分離がおこっていない状態の記憶を無意識のうちに想起させる。 〉(同上)
だから7年前の愚稿で「牽強附会が過ぎるであろうか」と問うたものの、あながち外れてはいなかったといえる。
今はもう跡形もないが、小学6年の時各クラスでトーテムポールを作り校庭のあちこちに建てて卒業記念とした。そういうブームがあったのか、まさか野生の思考であったはずはない。ロールプレイングゲームではなく、荒削りでそのままの「現代のトーテミズム」であったことが微笑を誘うように懐かしい。 □
超速報ゆえ、電光ニュース風に。
……………………
◇Trumpゲームは Joker が切られた
◇これは現代の蒙古襲来ではないか
◇鎌倉幕府の崩壊は確実にこれを遠因とした
◇物理的打撃ではなく 対応にリソースを使い果たし国内の矛盾を表出する結果となったからだ
◇この島国は外圧によって(よってのみ?)容易に変わり得ると歴史は教える
◇その好個の例が加わるかもしれない(おそらくそうなる)
◇Joker はグローバリゼーションとエスタブリッシュメントへの文字通りの切り札として登場した
◇コマーシャリズムの申し子である Joker は新たなモンロー・ドクトリンを招来するだろう
◇円高株安はアホノミクスを一蹴するだろう
◇露骨に近視眼的な国益を振りかざすだろう
◇Joker が掛けてくる外圧は宗主国と属国という隠れた構図を白日の下に晒すにちがいない
◇狡知と深謀とそれなりの遠慮によって蓋をされてきた属国の実態を国民は識ることになる
◇TPPの先行可決によって後押しをするなどいう高慢の鼻はへし折られるだろう
◇皮肉なことに 市場の原理でしか政治を理解できない当方の宰相は Joker の写し絵か
◇二枚の Joker あちらの市場は巨大 こちらに勝ち目はない
◇情けないが 自らの手で進路を変えられないこの国にとって Joker は天佑となるだろう
…………………… 2016/11/09 16:51
急ぎのことゆえ舌足らずはご容赦を。□
荒っぽい愚考になお蛇足を加えつつ、荒唐無稽な愚案を捏ねる。
9月の拙稿「月がとっても青いなあ」で、漱石の絶妙な訳文から奇想が以下のごとく跳んだ。
<さらに無理やりな揣摩をすすめるなら、英国文化の底を垣間見ることができるのではあるまいか。
“I”は一人称。複数形では“We”であるが、これ一つ限(キ)りだ。日本語では私・俺・僕・おいら・あたい・儂・うち・手前、自分などなど、実に多い。七つの海を支配した大帝国ゆえに、国際語として枝葉をギリギリ剪って簡略化したという事情はあっただろう。しかしそれを差っ引いても、単純この上ない。かつ相手が誰であろうとこれひとつだ。日本語の一人称が、話者と相手との関係で巧みにトポスを変え多様に変化するのとは大いに異なる。なぜか。
相手はひとりしかいないからだ。
そのひとりとは神である。唯一の絶対者である神と向き合う形で全ては始まっているからだ。“God”と対するなら“I”のトポスは不変だ。いかなる高位者であろうとも“Godに向き合うI”に比するなら、神の僕(シモベ)以上の意味はもたない。常に“Godに向き合うI”からの発語なのだ。しかも日常的には“Godに向き合う”の部分が捨象され、“I”だけが残る。だから、これ一つ限りになる。
ついでに、“You”についても愚案を重ねる。いうまでもなく二人称である。こちらも“You”一つ限(キ)り。ところが一人称には複数形があるのに、なぜ二人称は単複ともに“You”なのか。これがかねてよりの疑問であった。単複兼用との説もあるが、二人称に限ってなぜそんな七面倒臭いことをするのか。鬱陶しくなってくるが、如上の愚見を踏まえると、謎は氷解する。つまり、“You”とは神だからだ。唯一の絶対者であるのだから、当然複数形はあり得ない。これがプリミティヴな成り立ちだ。複数を兼ねるのは派生の一形態だろう。>
実は「“You”一つ限り」ではなく、“Thou”があった。「あった」というのは文字通り過去形だ。聖書の初期英訳やシェイクスピア作品には頻出し、近代初期までの文学作品に隠顕され、今ごく一部の英国方言に残る。死語に近い。古語ゆえに「汝」や「そなた」と邦訳される。親しく、なれなれしく、時には無礼を含意した。ともあれ上位者から下位者に向けられる言葉だ。これには複数形“thous”、“ye”がある(あった)。複数形をもつのは、前稿の「“You”とは唯一の絶対者」との私見に立つなら納得がいく。ベクトルが逆さまだからだ。
遠近はあるものの先ず“I ⇒ God” がある(“Yahweh”や“Lord”は”God”と同じく「主(シュ)」の固有名詞)。発語の対象は神だ。なぜなら救いはそこからなされる。否、そこにしかないからだ。十戒は「わたしをおいてほかに神があってはならない」で始まる。これは神と人との関係を規定する最重要の戒めである。続く「偶像崇拝と軽信の禁止・安息日の遵守」の3戒も神との関わりを定める。残り6戒は人対人の掟だ。「不孝・殺人・姦淫・盗み・偽証・欲念」を禁ずる。これらに先んずる戒めが前半4戒、別けても第1戒である。救いの教えである以上、救いを懇請する発語の主体“I”にとっては救い主こそが向かい合う第一で唯一の二人称だ。対人は二義的、派生的関係でしかない。モーゼが神から授けられた戒律はそのように読める。つまりは、“God=You”である。“You”が原初的に単数である所以だ。
浅識非才を顧みず鳥瞰すれば、「唯一の絶対者である神と向き合う形で全ては始まっている」なら「向き合う形」が人称を規定するのは当然であろう。そういう結構にまで至らねば“I” と “You”は了見できまい。イギリスの肇国を主導したクエーカー教徒は神との直結を先鋭的に唱えるプロテスタントの一派だ。母語の形成にその宗教的情念が投影したとしても不思議ではない。
してみれば、8年前バラク・オバマの“Yes We Can.”がなぜ米国人の心をしたたかに掻き毟ったのかが見えてくる。“Yes”は聴衆にではなく、神への応答なのだ。聞こえざる神の下問に、先ずはいの一番に応じる。ただひとりの“You”に向かい、真っ直ぐに声を上げるのはただひとつの一人称複数形“We”だ。コーカソイドもニグロイドも、神の御前(ミマエ)に隔てはない。“Can”は鼓舞である前に「誓い」だ。“You” と “I”、この古層が彼(カ)の国民の心象に響かないわけはない。
今、一人称のみを言挙げする候補が急伸している。二人称は限りなく三人称化しつつある。これはこの国の古層と乖離してはいないか。深層が変化しているのか。病が亢進したのか。trumpゲームでないことは確かだ。 □
「小説の万里の長城やー!」
彦摩呂なら、きっとそう言うだろう(読んでいればだが)。
天子蒙塵 第一巻
10月26日、浅田次郎氏のライフワークが遂に第5部を迎えた。版元の講談社サイトには次のように紹介されている。
<シリーズ累計500万部超! 大ベストセラー『蒼穹の昴』(1996年)から20年。『珍妃の井戸』(1997年)、『中原の虹』(2006年)、『マンチュリアン・リポート』(2010年)に続くシリーズ最新作『天子蒙塵(テンシモウジン)』の刊行が、いよいよ10月から始まる。>
帯はこうだ。
──史上最も高貴な離婚劇。
自由をめざして女は戦い、男はさまよう。
ラストエンペラー溥儀と2人の女。
時代に呑み込まれた男女の悲劇と壮大な歴史の転換点を描く、
新たなる傑作誕生!──
──家族とは何か、自由とは何か。
清朝最後の皇帝・溥儀は、紫禁城を追われながらも、王朝再興を夢見ていた。
イギリス亡命を望む正妃と、史上初めての中華皇帝との離婚に挑んだ側妃とともに、
溥儀は日本の保護下におかれ、北京から天津へ。
そして、父・張作霖の力を継いだ張学良は失意のままヨーロッパへ。
二人の天子は塵をかぶって逃げ惑う。──
シリーズについては番度愚考を書き留めてきた。『中原の虹』を受けての拙稿の一部を引きたい。
<【 日本は中国の文化を母として育った。だからご恩返しをしなければいけない。清国が病み衰え、人々が困苦にあえいでいる今がそのときだ。けっして列強に伍して植民地主義に走ってはならない。それは子が親を打つほどの不孝であるから。 】(「中原の虹」第四巻 七十七)
同じ文意の件(クダリ)が他にもある。この豁然たる心根が氏のものであってみれば、浅田次郎という作家は徒者ではない。群集(グンジュウ)の筆に屹立する。
栄枯盛衰は世の習いである。盛者必衰は時の定めである。「滅び」にどう向き合うか。この作品は滅びゆく側が舞台である。西太后を主役に定めた意味はそこにある。
まずは、滅びの自覚なき者がいる。世の大半、大勢である。これは捨て置こう。
次には、滅びを見切る者。これも大半を占める。踵を返し、唯々として新興に乗り換える。
三番手は、滅びを知り、抗う者。所謂、守旧である。アンシャン・レジームへの固執が極まり、ついに命脈を共にする者もいる。
そして四番目に、みずから幕を引き、密やかに次代に備え、舞台を委ねる者。わが身を時代に奉じ、悪人と呼ばれ、怯懦と罵られる者。しかし、時代が一番見えているのは彼らだ。
この四通りが滅びの切所に見せる、滅びの側の態様である。作者は当然、西太后を四番目に配した。
日本でいえば、徳川慶喜か。大政奉還の報に、坂本龍馬は嗚咽する。「よくぞ、御決意なされたものよ」と。倒す者と倒される者。居所は彼岸と此岸に違(タガ)えようとも、両者はしっかりと時代を手挟(タバサ)んでいる。相見(マミ)ゆることの一度(ヒトタビ)すらなくとも、憂国の念に些かも変わりはない。龍馬の慧眼は怯懦と罵られる者の真正の勇気を粛然と見取っていたのだ。>(07年11月「そして王者は、長城を越える。」から)
「滅び」は、この作家が歴史小説を綴る常のテーマである。「蒙塵」とは王が敗走すること。長城のごとく主題は連なる。しかも二人の王、重畳でもある。
──家族とは何か、自由とは何か。──
「史上初めての中華皇帝との離婚に挑んだ側妃」。迫真の吐露に挟まれる以下のダイアログには微苦笑が漏れた。フィクサーである母親が息子のプレーボーイ振りを制しきれない。
【 「いえ、副官ですわ。作戦にはけっして口を挟みませんから。そのかわり、東北軍の少帥としてのふさわしい言動を、彼に要求いたします」
「あなたの努力は、さほど実を結んでいないように思えますけれど」
「醜聞はひとつの才能だと言った人がおりましてよ」 】
返しが考え落ちだ。石田某が浮かんで、一息抜けた。
側妃は語る。
【 世の中には、過去を懐(ナツカ)しみながら今を生きる人や、未来に夢を托して今を耐える人がいますね。追憶も希望も生きる糧になります。でも、今の今だけに生きる人がいるとしたら、やはり不幸であるにちがいありません。その今が、どれほど楽しかろうと。 】
「今の今だけに生きる」ほかない不幸からいかに逃れるのか。
【 富貴は人間の幸福ではない。北京の街なかにはどこにでも石ころのように転がっているのに、皇帝と皇妃だけが持たない「自由」という宝石を、わたくしは欲したのです。 】
富貴であるがゆえに持ち得ない自由という宝石。前代未聞の試みは成るか。
インタビューに応えて作者は語る。
「まだまだ続きます、ということだけは言っておきましょう。『蒼穹の昴』以降、私もこのシリーズとともにいくらか成長しておりますので、より良いものになっていくだろう、と。」
「いくらか成長しております」とは生中な物言いではない。謙虚に裏打ちされた自恃は、読む者を引き付けて離さない強い磁場を生む。さらに、
「はっきり申し上げたいのは、『蒼穹の昴』で立ちどまってしまった読者は不幸だということです。あれは壮大な物語の玄関に過ぎないのですからね。」
と続けた。12月には第二巻が発刊予定だ。未だ長城は尽きぬ。疾走する作家に振り切られてはならない。 □
TPP絡みで失言が相次いでいる。政治家の失言といえば、古いところでは吉田茂の「バカヤロー」、池田勇人の「貧乏人は麦を食え」が有名だ。近年では柳澤伯夫の「女は産む機械」、今年では麻生太郎の「老人はいつまで生きるつもりだ」などなど、撰集が編めるほど素材には事欠かない。ただ今回は、というより近年は失言の中身が変わってきている。麻生の年寄り云々あたりまでは表現の稚拙は措くとして、感情の表出であったりそれなりの理屈はあった。小理屈、屁理屈、こじつけ、無理筋、当てつけ、ハチャメチャ、ヘイト、無茶苦茶、大間違い。あるいはまったく無意味であるにせよ、コンテンツはあった。確信犯的であるにせよ、主張はあった。しかし、福井照の
「強行採決という形で実現する」
にせよ、山本有二の
「強行採決するかどうかはこの佐藤勉さんが決める」や
「こないだ冗談を言ったら首になりそうになった」
にコンテンツはない。いかなることも主張はしていない。そうではなく、コンテンツの周辺事情を吐露している。主張の後先を口にしているだけだ。つまりは、話のツカミや受けに楽屋落ちを使っている。ここが問題だ。誉めたものではないにせよ、「女は産む機械」に主張はある。だが、「という形で」や「○○が決める」「首になりそう」は意見の表明ではない。裏話でしかない。同じ失言でも、トポスが違うのだ。
前稿で紹介したアンソロジーの中で、高橋源一郎氏がこう語っている。
<政治というものはことばでもできている。憲法もことばだし、法律もことばだ。政治家たちは、もっぱら、ことばでなにかをいおうとしている。彼らに出会うのは、彼らがしゃべっている、すなわち、ことばを発射しているところを見るときだ。選挙のときだって、それぞれ、お互いを攻撃することばを投げかけたり、自分たちはこういうことをするんだ、と主張したりしている。だから、政治というのは、相当の部分、ことばでできているといってもいいだろう。>(「表と裏と表─政治のことばについて考えてみる」から縮約)
文芸も同じく「ことばでできている」。特に話芸である落語、漫才はそうだ。江戸時代から芸界にはタブーとされてきたことがある。それは外連、下ネタ、楽屋落ちの三つである。はったり、猥談、内輪話。言葉のプロフェッショナルとして風上に置けない麁陋とされる。下の下だ。ところが昨今、お笑いにはこれが常套となっている。別けても、お笑い芸人によるTVトーク番組はほとんどがこの類いの与太話である。芸の劣化以外のなにものでもないのだが、世人は迎え入れたのか、慣らされたのか大流行(ハヤリ)だ。実は、如上の失言も同等ではないか。さすがに下ネタは聞かないものの(話のネタではなく、宮崎謙介のように実地に移す者はいるが)、外連と楽屋落ちが多用されている。政治家がお笑い芸人と同じタブーを犯している。救い難いのはここだ。芸界の影響を受けたか受けずか、政界までが世に棹さして「ことば」の扱いを劣化させている。芸人なら笑って済ませられるものの、永田町の連中ではそうはいかない。こちらには実害がある。くらしに直結するからだ。
高橋氏のタイトルを援用するならば、「表と裏」の次がまた「裏」、「表と裏と裏」に成り下がっている。表の言葉がある。もちろん裏には本音がある。しかし、表には表の言葉がある。「表と裏と表」だ。それが、裏の本音が裏として語られる。「表と裏と裏」だ。
禁忌を犯す芸のない芸人。瓜二つの政治家。芸人同様、楽屋落ちでしか話の接ぎ穂が探せない政治家。「ことばでできている」政界で、ことばが扱えない。もう失言というより、失語ではないか。単なる緊張感の欠如ではない。政治、あるいは社会マターだ。この末期的症状に語ることばを失う。失語である。 □
この一群の論客たちを何と呼べばいいだろう。ライト方向への風が強まっているからといって、「レフト」や「ニューレフト」はあるまい。第一すでに死語であるし、それでは事の本質を見誤る。帯には「既存の考え方が通用しない時代で生き延びるための知恵と技術」とある。事の本質は「転換期」だ。パラダイムシフトである。だから無理矢理な造語で、『ニューシフト』はいかがであろう。「ニュー」とは「転換期」にあるという時代認識であり、フェーズの未踏をいう。かつ左右を超えた新しい「知恵と技術」、加えて顔見せの近さか。
転換期を生きるきみたちへ 内田 樹編 晶文社
今年7月の発刊。紹介が少し遅くなったが、本年一推しの好著、否、必読の一書である。
もちろん団塊の世代は「きみたち」には入らない。今の中高生が「きみたち」だ。編者は「中高生を読者に想定して」と「まえがき」に述べている。だから差出人は名宛人である中高生の親以上の世代だ。転換期までを主導した人たちだ。別けても団塊の世代は差出人の主力である。意図したものでないにせよ、転換期を招来した責務を負う。後継の時代に丸投げしては無責任の謗りを免れまい。
<刻下のわが国の政治・経済・メディア・学術・教育……どの領域を見ても、「破綻寸前」というのがみなさんの現場の実感ではないかと思います。・・・・私たちが果たさなくてはならない最優先の仕事は「今何が起きているのか、なぜそのようなことが起きたのか、これからどう事態は推移するのか」を責任を持って語ることだと思います。>
と編者が呼びかけるように、『古い船』に乗り込む『新しい水夫』に『古い水夫』は『古い船』の欠陥を明らかに伝えねばならない。修理にまでは及ばずとも、せめて正確な引き継ぎをせねばならない。だから「必読の一書」とは、名宛人よりもむしろ差出人側にいる『古い水夫』にとっての「必読」なのだ。「今何が起きているのか」、まず病識をもつことだ。でなければ、ことは始まらない。そして病因を探る。病態を量る。それは大人の仕事だ。大人の責任だ。それゆえ、必読の一書だと大きな声で言いたい。
このアンソロジーに登場する『ニューシフト』のラインナップ、論攷の概要は以下の通り。(<>部分は上掲書からの引用)
1. 身体に訊く──言葉を伝えるとはどういうことか 内田樹(思想家)
<「わかった」というのはあまりいいことじゃないんです。人間同士では、「わかると、コミュニケーションが終わる」ということになっている。>
知性の働き方を通して、メッセージの伝え方、「学び」の本質に迫る。
2. 僕の夢──中高生のための「戦後入門」 加藤典洋(文芸評論家)
憲法九条を軸に「徹底従米路線」と「自主改憲路線」の矛盾に斬り込む。「本当の独立国」をめざして、持論の「九条改定案」と「核国際管理案」を展開。代表作『敗戦後論』の中高生版ともいえる。
3. 表と裏と表──政治のことばについて考えてみる 高橋源一郎(作家)
さすがは源ちゃん。オバマの広島スピーチを俎上に上げ、違和感の正体を突き止める。政治のことばが帯びる魔性とは何か。小説家の鋭い感性が光る。
4. 人口減少社会について根源的に考えてみる 平川克美(文筆家)
<今の日本において、考えるべきは「経済成長戦略」ではありません。「経済成長しなくともやっていける戦略」こそが、今考えなくてはならないことだ。>
成長鈍化の原因を少子高齢化に求める俗論を斬り、出生率低下のシンプルな理由を明かす。さらに少子化、人口減少は「日本社会の進歩の帰結」であるとし、「文明移行期的混乱」であると説く。
5. 13歳のハードワーク 小田嶋隆(コラムニスト)
タイトルはあのベストセラー、村上龍の『13歳のハローワーク』の捩りだ。つまりは指弾である。一読、稿者は長年村上に抱いていた胸の痞えが下りた。
<21世紀にはいって十数年が経過した現在、「夢」は、子供たちが「将来就きたい職業」そのものを意味する極めて卑近な用語に着地している。なんという、夢のない話であることだろうか。>
『13歳のハローワーク』には重大な欠陥がある。それは作者の自尊に裏打ちされた思想が導出したものだ。容赦のない指弾に、襟を正す。
6. 空気ではなく言葉を読み、書き残すことについて 岡田憲治(大学教授)
「空気」とは山本七兵が明かしたあの空気だ。KYの“K”だ。さらに戦争の時もフクシマも憲法の解釈変更も、「そう決めた」理由が言葉で記録されていない。これは日本の宿痾だ。
<絶対に失ってはいけないものがある。
言葉だ。空気じゃない。
それは巨大なるバカを繰り返さないための唯一の道具だ。>
「巨大なるバカ」はこりごりだ。「唯一の道具」を手放すわけにはいかない。
7. 科学者の考え方──生命科学からの私見 仲野徹(大学院教授)
<天動説を信じていたなんて、昔の人は頭が悪かったんだなあと思うかもしれませんが、それは違います。その時代の最高に知性的な人だって天動説を信じていたのです。パラダイムというのは、それほど強力に時代を覆い尽くしているものなのです。>
だからこそ、パラダイムシフトへの「科学者の考え方」を平明に教示する。パラダイムシフトへのメタ思考ともいえる。
8. 消費社会とは何か──「お買い物」の論理を超えて 白井聡(政治学者)
本稿ではよく「コマーシャリズム」という。「消費社会」とはズバリそれだ。「あらゆる生活領域に『お買い物』の論理が」浸潤した、と日本の抱える問題の根源を抉る。実に鋭く、かつ深い。中高生向きか、「『お買い物』の論理」とは絶妙なネーミングだ。内田 樹氏の『下流志向』と軌を一にする論旨である。消費社会の病態を解明し、そして資本主義を超えるパラダイムシフトを呼びかけ、こう結ぶ。
<最後に、この本は、中高生の読者を想定しています。中年以上の日本人(もちろん例外もあります)には、未来への展望を実現できる能力どころか、意欲もなく、その必要性を唱える主張に対して「愚論である」と決めつける傾向さえあることを、私はよく知っています。私は、今現在の社会の主役である彼らには、何の期待もしていません。彼らは、消費社会の不幸な家畜として生き、死んでいくでしょう。これから主役となる世代こそが、文明の仕組みの再構築というこの困難な仕事に立ち向かう運命にあるのです。そんな巡り合わせになっている諸君は不運だろうか。決してそんなことはありません。本物のやりがいは、困難な仕事にのみ存在するのです。>(縮約)
「消費社会の不幸な家畜として生き、死んでいく」憂き目には会いたくない。「中年以上の」「例外」でありたい。キツい一撃だ。
9. 「国を愛する」ってなんだろう? 山崎雅弘(戦史・紛争史研究家)
「国」とは何か、「愛国心」とは何か、問いかけはストレートでありタイムリーである。
<戦争に負け、民主主義の価値観にぴったり合うような、新バージョンの「愛国心」を作らなくてはならないはずでした。ところが、「愛国心」という考え方を「危険物」のように扱って丸ごと捨ててしまったため、それが本来あるべき場所が長い間空白となっていました。そして、日本という国に愛着を持ちたい、という人が「愛国心」という考え方を求めた時、戦前戦中の古いバージョンの「愛国心」しか見当たらないため、多くの人々が、古いバージョンの「愛国心」を手に取ってしまう現象が起きています。>(縮約)
語り掛けは易しいが、核心的マターを突いている。旧バージョンから新バージョンへ。避けられないアポリアだ。
10. 「中年の危機」にある国で生き延びるために 想田和弘(映画作家)
日本は「ミッドライフ・クライシス(中年の危機)」にあるという。戦後日本の歩みを青年期から中年期、さらに老年期に準える。実に明解だ。なのに、
<多くの日本人は、相変わらず「青年期の日本」に戻る夢を捨て切れていません。だから簡単に騙されてしまうのです、詐欺師のような人に。「成長期をもう一度!」「あなたもこれで若返ります!」などという安易なキャッチコピーに。>
と安倍政権の愚策を容赦なく糾弾する。このあたり、浜 矩子先生と相通ずる。さらに「ミッドライフ・クライシス」が嵩じてデモクラシーが破壊されつつあると警鐘を鳴らし、迎えるべき時代のパラダイムを掲げる。俯瞰的で骨太で、強い説得力をもつ高論である。
11. 社会に力がついたと言えるとき 鷲田清一(大学学長)
3.11を手がかりに「安楽」を問い直す。公共的システムにぶら下がることは「じつはわたしたち自身の能力喪失と裏腹」ではなかったのかと、社会のありようにドラスティックな疑問を投げかける。深い論究は弱者への共感ではなく、弱者への感謝に至る。障害を持つ人たちのまっすぐな生き方に、その感受性に。
<人を欺こうが、人を蹴落とそうが、人を言葉で傷つけようが病気にならない、そのことの異様さに気づかせてくれる人。その人たちに感謝できるようになってはじめて、わたしたちの社会はすこしばかり力がついたと言えるのでしょう。>(縮約)
病気になって当たり前なのに何の痛痒も感じない。病識がないどころか、至って平気でいられる。それは病の進行を自覚できないほどに病態が末期的である証左だ。「病気にならない」ことが病気なのだ。「人を欺」き、「人を蹴落と」し、「人を言葉で傷つけ」る。果ては平然とナチスのT4紛いの凶行に及ぶ。それに恥じらいもなく共感する政治家。これらが死病でなくして何だろう。断末魔は指呼の間だ。哲学者らしい重厚な思索である。
ニューシフト・イレブンは差出人である。『古い水夫』であり、大人の代表だ。名宛人は中高生、『新しい水夫』だ。乗り出す海は『新しい海』だ。しかし、船は『古い船』である。新船ではない。ここを勘違いしてはならぬ。その認識が甘いと、国家的ドーピングに誑かされる。それがこのアンソロジーを貫く通奏低音だ。「きみたち」が愛おしいなら、せめて過たずバトンを渡したい。『古い船』の古傷を隠さず伝えたい。それが大人の責任だ。だから名宛人は大人でもある。今こそニューシフト・イレブンという大人を真っ当に代言する揺るぎなき知性の声に耳を傾けるべきではないか。必読の所以だ。 □