4年前の10年3月、拙稿にこう綴った。
〓バンクーバーを熱狂させた浅田真央とキム・ヨナの対決を観て、とりとめもない妄念が半世紀を遡った。奇想、天外より来るである。
大鵬、柏戸のふたりが揃って横綱に昇進したのは、昭和36年秋だった。電車道で一直線の寄りを身上とする柏戸。土俵を割る時も、砂被りに跳び込んでいくような豪快さであった。一方、しなやかに受け、差し身を活かして掬って寄る大鵬。有利な態勢まで辛抱し、負けない相撲を真骨頂とした。闘志を剥き出す柏戸、内に秘める大鵬。「剛」と「柔」の対照的なライバル。「柏鵬時代」が人びとを魅了した。
トリプル・アクセルに執念を燃やす真央。超難度の荒技に一途に挑んだ。なんとも剛気である。曲も軽くはない。むしろ重く、厳かだ。「神様からの贈り物」と彼女を絶賛して止まないタラソワコーチが、大舞台で打った賭でもあった。技と舞、敢えて二兎を追った。
キム・ヨナは勝ちを選んだ。しなやかに勝負した。大技を封印し、舞を未到の高みにまで仕上げた。SPの曲には心憎いまでの仕掛けが込められていた。至妙の手弱女振りであった。
柔よく剛を制した。定石通りか。しかし、真央は「悔しい」と泣きながら応じた。それは勝負師の素顔を覗かせた刹那だった。次は定石を破るにちがいない。頑張ったのだから銀でもおめでとうなどとは、彼女に対し甚だ礼を欠く言辞だ。
次はソチだ。4年に及ぶ試練の叢雲を突き抜けて、また佳人たちが氷上に舞い降りる。〓(「氷上の佳人たち」から)
早い。実に、早い。『試練の叢雲を突き抜けて』、また両雄が相見えた。ただしこの度は群雄が追い上げ、攻め込み、綯い混じった。その中で、両雄はなおも頑なにそれぞれの流儀を変えなかった。そこに、勝敗を超えた感激が奔った。
わたしたちは真央の『荒技』に、なぜ酔うのか。文芸評論家の末國善己氏が朝日新聞で達識を語っている。
◇日本人は、スポーツを武士道になぞらえるのが好きです。選手に努力と忍耐を求める。
そういうヒーロー・ヒロイン像の原型は、吉川英治の「宮本武蔵」でしょうね。不完全な人間が努力して成長していく姿が、日本人の精神性に非常に合った。
それが現実のスポーツにも投影される。佐々木小次郎のような「傲慢な天才」は嫌われてしまう。オリンピックに出るような選手はみんな天才なんでしょうが、いかに苦労したか、努力してはい上がったかという「物語」が求められます。
もうひとつ日本人が好むのは「技」です。小説からマンガ、ゲームまで、日本のエンターテインメントには「必殺技」がよく出てくる。時代小説では、中里介山「大菩薩峠」の主人公・机竜之助の「音無しの構え」に始まり、柴田錬三郎の眠狂四郎の「円月殺法」、藤沢周平の主人公もさまざまな秘剣を使う。スポーツでも、王貞治さんの「一本足打法」、野茂英雄さんの「トルネード投法」など、技の名前をつける。
日本人がオリンピック選手に求めるのは、江戸時代の規範です。江戸の武士がつねに藩を背負うように、選手は「国」を背負わされる。戦国時代のような「どんな手を使っても勝てばいい」ではなく、努力して磨いた技で勝ってほしいと願う。浅田真央さんのトリプルアクセルへの期待にも、それが表れているんじゃないですか。◇(2月19日付、抄録)
「いかに苦労したか、努力してはい上がったかという」押しつけがましい『真央の物語』は、テレビメディアによって今回も嫌というほど聞かされ見せられた。『物語』が重畳することで過剰に「『国』を背負わされる」構図は、メディアにはまるで頓着されていない。振り返れば、余計なものを背負わなかったアスリートがメダルを手にしたといえなくもない。だから、ソチは「江戸の武士」がグレードアップする画期になったと括れるかもしれない。一つの示唆がフィギュアコーチ佐藤有香女史のコメントから窺える。
〓浅田真央のトリプルアクセルジャンプについて、SPでは何かを怖がっていて制御できていなかったが、フリーでは高さと幅のバランスが良く、流れがあったという。「失うものがなくなり、『勝ちたい』から、『ベストを尽くそう』に考え方が切り替わった。自分の殻の中で抱えている重圧など、大したことではないと気づかされた。そうさせるのは、コーチや周囲の役割」〓(報道から)
浅田真央はSPでの失敗で勝敗から解き放たれた。フリーの奇蹟的成功は、メダルが視界から跡形もなく消えたことに因る。スケートを用いた勝負から、スケートそのものの勝負へと転位したからだ。奈落の慙悸と、絶頂の歓喜。たった二日で両極を演じ切ったアスリートは、彼女以外には断じていない。
再三に及ぶが、内田 樹氏の洞観を徴したい。
◇私たちが勝負事に熱中するのは、勝つためではない。「適切な負け方」「意義のある敗北」を習得するためである。
夏の甲子園高校野球には四〇〇〇校以上の高校が参加するが、勝利するのは一校だけで、残りはすべて敗者である。このイベントに何らかの教育効果があるとすれば、それは間違いなく「どうやって勝つか」を会得することではない。その教訓を生かせるのは毎年全国で一校しか存在しないからである。参加者のほとんど全員が敗者であるイベントが教育的でありうるとしたら、それは「適切に負ける」仕方を学ぶことが人間にとって死活的に重要だということを私たちが知っているからである。◇(「昭和のエートス」から、以下同様)
クーベルタンが語った「オリンピックは参加することに意義がある」とは、「『適切な負け方』『意義のある敗北』を習得するためである」と同意ではないか。オリンピックは高校野球とは比較を絶する規模だ。当然、入賞に限っても極小である。「参加者のほとんど全員が敗者」となるビッグ・イベントだ。ならば、なぜか。「『適切に負ける』仕方を学ぶことが人間にとって死活的に重要だ」からだ。
当たり前すぎる話だが、人生のためにスポーツはある。決して、その逆ではない。スポーツに捧げる人生とは、生き様を語るレトリックだ。医療に捧げる人生と同然だ。スポーツに人生を擬することはあっても、スポーツで人生が決まるわけではない。所詮は、高がスポーツである。つまり勝負は人生そのものにこそあって、スポーツにはない。「人間にとって死活的に重要」とは、そのことだ。
比するに、東京五輪組織委員会M会長のSPについての発言がいかに浅薄で無思慮であったことか。下衆の極みゆえに、引用はしない。愚稿なりとも汚したくはないからだ。彼女の3倍以上生き存えているくせに、「『適切に負ける』仕方を学ぶこと」がなかったにちがいない。なにせ「日本は神の国」と言って憚らない御仁だけに、「江戸」は遙かに超えて頭の中は太古にまで先祖返りしているらしい。職責の適格性を疑いたい。
透察の続きを引こう。
◇「適切な負け方」の第一は、「敗因はすべて自分自身にある」というきっぱりとした自省である。負けたのはチームメートのエラーのせいだとか監督の采配が悪かったからだとか言い逃れをする高校球児は誰からのリスペクトも得ることができないだろう。
第二は、「この敗北は多くの改善点を教えてくれた」と総括することである。負けた後に「私たちとしてはベストを尽くしたので、もうこれ以上改善努力の余地はない」と言う人間は敗北から何も学んでいないことになる。
第三は「負けたけれど、とても楽しい時間が過ごせたから」という愉快な気分で敗北を記憶することである。◇
浅田真央は如上の三要件に適った最も「適切な負け方」をしたのではないか。「きっぱりとした自省」をし、ライバルのキム・ヨナから「リスペクトも得ることが」できた。「多くの改善点」はフリーで完璧にリカバリーされ、流した泪は悔悟のそれでは毛頭なく「愉快な気分」に溢れたものだった。だからみな(たぶん)が貰い泣きした。稿者はあの場面が正視できなかった。世に、目を逸らすほどの感動はあるものだ。魂が震えると、確かにシンクロニシティが生起する。魂の籠もった振る舞いは瞬時にまっすぐに伝わる。偽物とはそこが違う。
熱狂の「柏鵬時代」がやがて畢ったように、真央とキム・ヨナの時代もソチで終焉を迎えた。女子フィギュアが新しいフェーズを迎えたとしたら嬉しくもあり、寂しくもありだ。 □
先日、久方ぶりに京都に立ち寄った。桓武天皇は遷都先を決めるに当たり、現在の東山区にある将軍塚に立って葛野(カドノ)の地を見渡したそうだ。確かにそこは一眸の適地で、いまでも有数の夜景スポットである。爾来、平安の都は1200年を経てなお生き続ける。
あらためて殷賑の街衢を眺め遙かな稜線を遠望しつつ、太古を生きた人の眼力に畏れ入った。延暦のころ、もちろんそこは茫漠たる原野であったはずだ。あるいは盆地の底に起伏する森の連なりだったかもしれない。だからそこを衢地と見抜き、都と定めた古人の鳥瞰力に脱帽せざるを得ない。
そう愚慮を巡らすうち、かつての拙稿が甦った。抄録してみる。
〓城は山城から始まり、平山城へと移り、平城に至った。
山城の場合、いつも不思議なのは、なぜあそこなんだろう、ということだ。
山城は、防御の拠点であった。武器、弾薬、糧秣、資金を集積しておき、非常の時に備えた。普段、領主は麓で起居する。屋形、館と呼ばれた。戦況を見て、籠城する。ために難攻不落、峻険な山頂や山腹が選ばれた。しかしそれとて地理的な孤立が過ぎると単なる疎開や不戦でしかなく、戦略的意味をなさない。籠城も戦略のひとつである。それを大筋にして勘案し、居が定められた。これが戦国初期までの築城である。
今では山容は変わらぬまでも、裾野に展開する街区は一変している。交通網は隔世して別物となり、地理的状況は旧態を留めない。前述の「不思議」は、ここからくるのであろうか。いや、もっと深みに不思議はあるのではないか。
たしかに航空写真でも見せられれば、そこがこの上ない適地であると判るのだが、素人目にはそうはいかない。しかし、専門家はいにしえの選択眼に驚嘆する。
一族郎党の命運が懸かった見立てである。武将の眼力には、現今の人間には見えないものが見えていたのだろう。正確な地図などない時代である。連なる山々を望み、野を見晴るかし、川の流れを織り込んで、俯瞰図が描(エガ)けたのではあるまいか。自在な鳥の目をもっていたのでなければ、合点がいかぬし辻褄が合わぬ。
山野の景観を戦略的に視る能力。戦国の武士たちのそれは、機械の助力を介さない本能に近いものであったろう。当今では不思議としか言いようのない才だ。〓(10年10月「山城の不思議」から)
俯瞰力について、脳科学者の池谷裕二(イケガヤ・ユウジ)氏が近著で興味深い知見を述べている。
◇(右側の頭頂葉の「角回」と呼ばれる部位を刺激すると、被験者の意識は2メートルほど舞い上がり、天井付近から「ベッドに寝ている自分」が部分的に見えたという海外で行われた幽体離脱実験を紹介し・引用者註)驚かれるかもしれませんが、じつは、幽体離脱に似た現象は日常生活でもよく見られます。たとえば、有能なサッカー選手には、プレイ中に上空からフィールドが見え、有効なパスのコースが読めるという人がいます。こうした俯瞰力は、幽体離脱現象とよく似ています。
さらに言えば、客観的に自己評価し、自分の振る舞いを省みる「反省」も、他者の視点で自分を眺めることが必要です。自己を離れて眺める能力があるからこそ、私たちは社会的に成長できるわけです。
幽体離脱の脳回路は俯瞰力のために備わっているのかもしれません。主観と客観その妙なるバランスに乗って立ち、「自分とは何か」を考えるとき、頭頂葉はとりわけ味わい深い脳部位です。◇(「脳には妙なクセがある」から)
頭頂葉による俯瞰力の賦活化。『当今』でも『不思議としか言いようのない才』が顕現する。遷都と山城、それに幽体離脱が「角回」で繋がる。脳科学とは、実におもしろい。人類の発祥とともに、敵や獲物を探知し生き延びる能力として獲得されたのであろう。
さらに瞠目すべきは、池谷氏が「反省」に言及している件(クダリ)だ。俯瞰力が「他者の視点で自分を眺める」、「自己を離れて眺める能力」に連動している──。胸躍るほどにすばらしい卓見ではないか。稿者十八番の「自己を客観視する謙虚さ」にも通じようか。
唐突だが、俯瞰力の逆位相にあるのが当今よく耳にする「反知性主義」ではないか。無知では当然なく、非知性でもない。知性を攻撃的に否定するスタンスをこう呼ぶ。どこかの市長が「学者は本を読んでいるだけの、現場を知らない役立たず」と扱き下ろす。あの手合だ。
今月19日付の朝日新聞が文化欄でこれを取り上げた。
〓自分に都合のよい物語 他者に強要
「嫌中」「憎韓」「反日」――首相の靖国神社参拝や慰安婦問題をめぐり日・中・韓でナショナリスティックな感情が噴き上がる現状を、週刊現代は問題視して特集した(1月25日&2月1日合併号)。
元外務省主任分析官で作家の佐藤優氏は対談で、領土問題や歴史問題をめぐる国内政治家の近年の言動に警鐘を鳴らした。
異なる意見を持つ他者との公共的対話を軽視し、独りよがりな「決断」を重視する姿勢がそこにあると氏は見た。「反知性主義の典型です」。週刊現代の対談では、靖国や慰安婦に関する海外からの批判の深刻さを安倍政権が認識できていない、とも指摘した。
自分が理解したいように世界を理解する「反知性主義のプリズム」が働いているせいで、「不適切な発言をした」という自覚ができず、聞く側の受け止め方に問題があるとしか認識できない。そう分析する。〓(抜粋)
「異なる意見を持つ他者との公共的対話を軽視し、独りよがりな『決断』を重視する」とは、さすがに佐藤氏は慧眼の士である。「不適切な発言をしたという自覚」がなく、「聞く側の受け止め方に問題があるとしか認識できない」連中はここのところ頓に目立つ。某国首相をはじめ、某財務大臣、某放送の会長、某売れっ子小説家などなど。狷介な再帰的思考といえなくもないが、ひょっとして頭頂葉にダメージを抱えているのではないかと勘ぐりたくもなる。
括りに、内田 樹氏の洞見を徴したい。
◇「知識」についていえば、私が持論としているように、そんなものはいくらためこんでも何のたしにもならない。必要なのは「知識」ではなく「知性」である。「知性」というのは、簡単にいえば「マッピング」する能力である。「自分が何を知らないのか」を言うことができ、必要なデータとスキルが「どこにいって、どのような手順をふめば手に入るか」を知っている、というのが「知性」のはたらきである。学校というのは、本来それだけを教えるべきなのである。古いたとえを使えば、「魚を食べさせる」のではなく、「魚の釣り方を教える」場所である。◇(「『おじさん』的思考」から)
「『マッピング』する能力」とは、俯瞰力に異なるまい。高見より四方八方を見霽かす鳥の目。それこそが知性の肝である。海図なき航海に漂流は必定だ。地図なき登山に遭難は免れない。蓋し、マッピング能力とは死活に係わる。知性にとっても存否に直結する。頭頂葉角回の機能回復が俟たれる所以だ。
京都から、あらぬ方(カタ)へいざよってしまった。これぞマッピングなき迷走である。 □
後学のため、おしゃべりの『迷人』に学びましょう。
その一 早口である
聞き取りにくいなんて言われても、気にしないでください。自己主張が強く、競争心が旺盛な人は早口になるのです。孔子さんが訓(オシ)えた「九思一言」よりも、頭の中に湧いた事柄を一刻も早く相手に届けたい。その一念が優るのです。善は急げ、でしょういか。熟考よりも速攻なのでしょう。
内田 樹先生がこうおっしゃっています。
◇対中国強硬論者というのがいますけれど、彼らに共通する特徴がわかりますか。全員「早口」ということなんです。石原慎太郎なんかその典型ですけれど、込み入った話というのを生理的に受け付けられない人たちが「日本人にとってベストなオプションはこれである。中国人はこれに同意しない。だから、中国人は間違っている」という信じられないほど非論理的な推論を平然と口にする。視聴者はそれを「へえ、そうなんだ」とぼんやり聴いている。◇(「街場の中国論」から)
いい歳ぶっこいたので、呂律が回らなくなったのでしょう。最近の石原さんはそんなに早口でもないですね。でも昔は捲し立ててました。「自己主張が強く、競争心が旺盛な人」の典型ですね。それに「非論理的な推論」だから、相手に論理的にトレースする暇(イトマ)を与えない。反論する隙をつくらない。そういう算段なのかもしれません。なんだか、夫婦漫才の「宮川大助・花子」の花子さんのようですね。
もう一つ。後ろめたい事情があると早口になります。理由はいま言った通りです。普段はスローペースなのに急に早口になったら、嘘をついていないか疑いましょう。ただアンバイくんなどの場合は確信犯的ですから、一概には該当しません。
その二 「……において」「……の中において」を連発する
「おいて(於て)」は、動詞「お(置)く」に接続助詞「て」が付いてできた「おきて」が変化した連語です。字引をそのまま写します。
1 場所を表す。…で。…にて。「東京に―大会を挙行する」
2 時間を表す。…のときに。「過去に―そうであったことが現在もそうとは限らない」
3 場合・事柄を表す。…に関して。…について。…にあって。「技術に―劣る」
4 (係助詞「は」を伴って)仮定条件を表す。もし…の場合には。「一方欠けん―は、いかでかその歎きなからんや」〈平家・四〉
アンバイくんの場合3 とも4 ともいえますが、どちらかというと4 のニュアンスが強そうです。いずれにしても、事を限定する物言いでしょう。「……の中において」とくれば、なおさらそうです。まあ、突っ込まれても逃げは打ちやすいですよね。
例えば昨年5月の予算委員会で、慰安婦問題についてこう述べています。
「今、事実関係【において】間違いを述べられたので、ちょうどいい機会ですから、ここではっきり述べさせていただきたいと思いますが、ブッシュ大統領との間の日米首脳会談【においては】、この問題は全く出ておりません。
ブッシュ大統領が答えられたのは、その前に私が既に述べている慰安婦についての考え方として、いわば、二十世紀【においては】戦争や、人権が著しく侵害された時代であった、そして女性の人権も侵害された、残念ながら【その中において】日本も無関係ではなかった、二十一世紀【においては】そういう時代ではない、人権がしっかりと守られていく、女性の人権も守られていく時代にしていきたいということを述べていたことについての評価として述べたわけでありまして、その事実関係が違うということだけははっきりと申し上げておきたいと思います。
そして、【その中において】、この問題というのは、いわば歴史のファクトの問題でもあります。一方、総理大臣の私の口からそのことについて議論することは、これは外交問題にもつながっていく可能性もあるわけでありますから、そこはやはり専門家に任せていくべきであろう、このように考えたわけでございます。」
該当するところを【 】で括りました。502文字の中に6ヶ所。多いかどうかは別にして、すべてが4 ですね。
「二十世紀【においては】戦争や、人権が著しく侵害された時代であった、そして女性の人権も侵害された、残念ながら【その中において】日本も無関係ではなかった」
これはどうでしょう。大阪市長さんよりも言葉は丁寧ですが、中身は同じですよね。「女性の人権」を普遍的価値として認め過去の侵害に真摯に向き合い謝罪するのではなく、みんなで赤信号を渡ったんだから自分だけ攻められるのはイヤだといわんばかりでしょう。
三十六計逃げるに如かず。面倒なことは「……の中において」措けば、実に身軽になります。
その三 「えー」と「……ですね、」で小刻みに区切る
アンバイくんのおしゃべりをお聞きになれば、これはすぐに気付きますね。実に耳障りです。プレゼンでは御法度です。クセといってしまえばそれまでですが、原因はその一に関連しているでしょう。滑舌が追いつけないので間を取っているのか、思考が追いつけないのか。どちらかなのでしょうか。
意地悪く考えれば、案外これは煙幕かもしれません。おしゃべりにある種のノイズを入れることで、相手の耳を逸らしている。聞こうとする意欲を削いでいる。言いたくないのに敢えてしゃべらなければならない場合、これは顕著です。過日ダボスで行った英語のスピーチでは「ソー」や「ウェル」が入りはしましたが、そんなに多くはなく違和感もありませんでした。もっともプロンプターで原稿を読んでいたのですし、得意の舞台ですから滑らかなのは当たり前ですが。
その四 案外巧妙なウソをしらっとつく
これが不思議です。大物たるゆえんでしょうか。または、大きくても独活の証でしょうか。事例には事欠きませんが、代表的なものを一つ。
昨年の国際オリンピック委員会総会で、こう発言しました。
「フクシマについてお案じの向きには、私から保証をいたします。状況は統御されています。東京には、いかなる悪影響にしろ、これまで及ぼしたことはなく、今後とも及ぼすことはありません」
「汚染水の影響は……完全にブロックされています」
外電はこのスピーチが東京招致を決めたと褒めそやしました。呆れるばかりです。前の「いかなる悪影響……」については、説明は要りませんね。完全なウソです。後のは注意が要ります。「汚染水」がブロックされている、とは言っていません。汚染水の「影響」が「完全にブロック」されていると言ってます。「影響」という言葉、これが曲者です。巧妙でしょう。上手なウソです。汚染水がブロックできず、今の今も四苦八苦しています。悪影響があるからブロックするのです。無害ならブロックする必要など端っからありません。理屈が逆さまです。
ついでにいいますと、07年「失われた年金記録」を「最後の一人まで徹底的にチェックする」と大見得を切ったのはどこの誰だったでしょう。なんと約半分の2千万件余は解明不可能で調査縮小と、つい先月社会保障審議会はギブアップを宣言しました。「私から保証をいたします」なんて、ちゃんちゃらおかしいでしょう。でも、こういう肚の据わり方は異様でもあります。怖いですよね。
昨年『そして父になる』でカンヌ国際映画祭・審査員賞を受賞した是枝裕和監督は、「いまの自民党は保守じゃない。ナショナリスト集団です」と断じました。決して極論ではないでしょう。確かに自民党にも良識の人はたくさんいますが、芭蕉が詠んだ「唇寒し」です。ずーっと「秋の風」が吹いています。その風がどのようにして生まれてくるのか。ない頭で考えてみました。件のおしゃべり『迷人』とは、もちろん反面教師です。
結びに、次の言葉をアンバイくんや大阪市長さんにお贈りします。少し長いけど、我慢して読んでください。
◇国益とか公益とかいうことを軽々と口にできないのは、自分に反対する人、敵対する人であっても、それが同一の集団のメンバーである限り、その人たちの利益も代表しなければならない、ということが「国益」や「公益」には含まれているからです。反対者や敵対者を含めて集団を代表するということ、それが「公人」の仕事であって、反対者や敵対者を切り捨てた「自分の支持者たちだけ」を代表する人間は「公人」ではなく、どれほど規模の大きな集団を率いていても「私人」です。自分に反対する人間、自分と政治的立場が違う人間であっても、それが「同じ日本人である限り」、その人は同胞であるから、その権利を守りその人の利害を代表する、と言い切れる人間だけが日本の「国益」の代表者であるとぼくは思います。自分の政治的見解に反対する人間の利益なんか、わしは知らんと言うような狭量な人間に「国益」を語る資格はありません。オルテガ・イ・ガセーは「弱い敵とも共存できること」を「市民」の条件としていますが、これはとても大切なことばだと思います。「弱い敵」ですよ。「強い敵」とは誰だって、しかたなしに共存します。共存するしか打つ手がないんだから。でも「弱い敵」はその気になれば迫害することだって、排除することだって、絶滅させることだってできる。それをあえてしないで、共存し、その「弱い敵」の立場をも代表して、市民社会の利益について考えることのできる人間、それを「市民」と呼ぶ、とオルテガは言っているのです。これが「公」の概念ということの正しい意味だとぼくは思います。「公共の福利」とか「国益」という概念も、「人類益」というもっと大きなフレームワークから考えると所詮は「せこい」話なんです。「せこい」話なんだけれど、この程度の「せこい」利害でさえまともに代表できる人間がいない、それを代表することのほんとうの意義が分かっている人間がいない、というのが今の日本の政治の病根の深さを表していると思いますね。◇(角川文庫「疲れすぎて眠れぬ夜のために」から)
政治家の仕事はおしゃべりに尽きます。『迷人』じゃなくて、名人がほしいですよね。「弱い敵」と共存できる名人が。 □
観るたびに、『壇蜜』なる女優が醸す蠱惑について思案していた。演技だとしても、なんとも堂に入った凄味、もしくは迫真がある。語り口も中身も、そこいらの痴女とはどだいレベルがちがう。はてさて……。
と、先日朝日新聞の読書欄に寄稿が載っていた。なんと彼女は女子大を出た後、葬儀学校で学んだという(そのような学校があること自体知らなかった)。遺体の修復、保全をするエンバーミング技術を修得したのだそうだ。動機は恩師の突然の死。彼女は、「私は喪失感に囚われておりましたから『死』を身近に感じられる仕事に就き自立を」目指したと語る。このあたり、少し常人離れしていなくもない。卒業後生憎エンバーマーの求人に恵まれず、「身一つで殿方に喜んでもらうグラビアの世界へ」進んだと述懐する。なんだかますますこんがらがる。さらに、「せめて芸名だけでも仏教用語由来のものを使い、そんな自分の過去を背負っていこうと思ったのです。壇は儀式の場。蜜は甘露で、天の恵みの味わい……。居るべき場所と、そこにお供えする体さえあればやっていけるかな」と綴る。なんかすげぇー飛躍があるような、ないような。
ともあれそのような経緯で、芸能界は「殿方に」十分「喜んでもらう」逸材を獲得したわけである。恭悦至極ではあるまいか。それにしてもネーミングが凄い。神仏を祭る建物を「堂」という。「堂に入った凄味」があるのは道理だ。場所が場所だけに外連があってはならぬ。だから、「迫真」なはずだ。これで視界が晴れた。
ところが、視界が塞がってしまったのが東京都知事選だ。一つはNHK経営委員の作家・百田尚樹氏が田母神候補の応援演説に立ち、──米軍による東京大空襲や原爆投下を「悲惨な大虐殺」と話し、東京裁判について「これをごまかすための裁判だった」と自身の歴史観を披露。「1938年に蒋介石が日本が南京大虐殺をしたとやたら宣伝したが、世界の国は無視した。なぜか。そんなことはなかったからです」「極東軍事裁判で亡霊のごとく南京大虐殺が出て来たのはアメリカ軍が自分たちの罪を相殺するため」と持論を展開した。また、第2次世界大戦での日本の真珠湾攻撃に触れ、「宣戦布告なしに戦争したと日本は責められますが、20世紀においての戦争で、宣戦布告があってなされた戦争はほとんどない」と話し、「(米軍の)ベトナム戦争の時も湾岸戦争の時もイラク戦争もそうです。一つも宣戦布告なしに戦争が行われた」「第2次世界大戦でイギリス軍とフランス軍がドイツに宣戦布告しましたが、形だけのもんで宣戦布告しながら半年間まったく戦争しなかった」と主張した。(2月4日付け朝日新聞から)──というから仰天だ。「他の候補たちを『人間のくず』と繰り返しおとしめた」とも報じられた。これらの政治的言動には経営委員として疑問の声が上がっている。少なくとも資質と選任に問題と禍根を残した。本ブログで何度か触れてきたが、正体見たり、である。
さて、その田母神候補だ。60万余を獲った。当初予想の2倍である。朝日新聞社の出口調査によると、田母神氏は20代と30代の若年層に浸透。別けても20代の得票は24%に上り、舛添氏の36%に次いで2位。30代でも17%で、細川護熙氏の15%を上回った。背景には、『ネトウヨ』と呼ばれる保守・愛国的なネットユーザー、「ネット右翼」の存在があったらしい。
朝日の報道によると、──支持者らは沸き立ち、陣営幹部は「負けた気がしない。戦後日本の欺瞞、偽善にうんざりしている人たちがこれだけいる。新しい政治勢力の誕生だ」と興奮を隠さなかった。──という。「うんざり」が面舵に短絡した悲劇は、もううんざりのはずだが。
視界良好にもかかわらず、見えなかったものがあった。ソチ・オリンピック開会式での「五つの輪」、その右上の一つが開かなかった。雪の結晶が徐々に開いて大輪に変化する仕掛けだったが、不発に終わった。演出の担当者は「技術的なミス。この小さな一事を持って、式典全体の素晴らしさが語られないのは残念だ」と話したそうだ。まったくもってその通り。いな、補足すると、地球村のビッグイベントに参加しなかった欧米トップたちへの面当てだったとすれば大いに合点がいく。反LGBTへの抗議らしいが、少々大人げない。人類永劫の存続を願う観点から捉えれば、LGBTはアポリアだ。
せめてこの半月、あっちだ、こっちだ、ソっチだなぞと争わず、地球村の大運動会を存分に楽しみたいものだ。 □
「それでも地球は回っている」は科学の独立宣言、もしくは下克上の雄叫びだったといえる。そもそも科学は神の僕(シモベ)としてその御力を証するために生まれたからだ。爾来、軛を放たれた科学は長足の進歩を遂げる。しかしニュートンが語ったように真理は大海のごとくであり、科学は波打ち際の貝殻を拾ったに過ぎない。と、ざっくり括ればそうなる。別けてもミステリアスでエキサイティングな分野が脳科学であろう。近年、特にそうだ。そこで、気鋭の脳科学者で平易な解説で定評のある池谷裕二氏(東京大学准教授)の近著から話柄を採ってみる。
◇一般に、自分の「行動」と「感情」が一致しないとき、この矛盾を無意識のうちに解決しようとするようです。つまり、行動か感情のどちらかを変更するわけです。この二つでは、どちらが変えやすいでしょうか。言うまでもありません。「感情」のほうです。「行動」は既成事実として厳として存在しています、事実は変えようがありません。そこで脳は感情を変えるわけです。
(気に入った洋服がAとB、二つあるが一つ分しか金がない。苦渋の決断で一つを選んだ。・引用者註)自分はAを選んで、Bを排除してしまった。理由はなんであれ、その行為自体は事実であって否定できません。そこで「BもAと同程度に好きだった」という先の感情を変更するのです。「本当を言えばBはそれほどよいとは感じていなかったのだ」と。
入会儀式の実験データについても同じように説明できます。儀礼はそもそも面倒で不快なものです。できれば儀礼は受けたくはありません。厳しい儀礼となればなおのこと。しかし、自分は厳しい儀礼を受けてまでも入団した。これは事実である。この事実は変えられない。だからこそ「それほどまでに私はこの団体が好きだったのだ」となります。
このように心の不協和を無意識のうちに解決しようとする圧力は、大人だけでなく、子供にも観察されます。次は4歳児に対して行われた実験です。
「そのオモチャで遊んでは絶対にダメ」とお母さんに厳しく禁止されたときと、「遊ばないでね」と優しく言われて、遊ぶのを止めたとき、子供たちのオモチャに対する好感度を比べます。すると、同じオモチャであっても、優しく諌められた方が、好きな度合が減っていることがわかります。
優しく言われた場合は、他人から指示されたとはいえ、自分の意志で遊ぶのを止めたという自由な要素が残ります。つまり、「私が遊ぶのを止めたのだから、そのオモチャは大して面白くなかったのだ」という結論になるのです。一方、強く禁止された場合は、遊ぶのを止めた理由が明確です。楽しかったけど、止めざるを得なかった。自分の取った行動にあいまいな点はありません。
「自己矛盾は不快だから解消したい」という心理は、私たちの精神に深く根ざした作用です。◇(扶桑社新書「脳には妙なクセがある」から抄録、以下同様)
「『行動』と『感情』が一致しないとき」、どうするか。「事実は変えようがありません。そこで脳は感情を変える」とは、実に示唆に富む。この「認知的な不協和を回避する」という理論は、50年以上も前にアメリカの心理学者が提唱しているらしい。自己矛盾を回避する心理はサルにもあるそうで、高等哺乳類に普遍的な原理かもしれないと氏はいう。だから、「心の不協和を無意識のうちに解決しようとする圧力」は4歳児にも観察されるわけだ。
「厳しく禁止されたとき」は好感度が下がらない。「優しく諌められ」ると好感度は下がる。一見反対のようだが、これが“科学”的知見だ。厳しい禁止と行動の停止には、行動と感情の間に理屈が通る。矛盾がない。だって止めなければ不利益(恐怖も)を被るからだ。ところが、優しい制止と行動の停止は矛盾する。さしたる不利益(恐怖も)もないのに、なぜ止めたのか。行動と感情の辻褄が合わない。矛盾する。そこで端っから動機は弱かったことにして、辻褄を合わせる。洋服の例も同様である。だからおいたは優しく叱るに限るともなるのだが、稿者にはなにやら別のシチュエーションが見えてくる。
H市長さんの振る舞いだ。願望の頓挫を「厳しく禁止されたとき」と措定すると、好感度(あるいは、執着度)は下がらない。いや、下げてはならない。むしろ、上がるように振る舞わねばならない。つまりあの駄々っ子振りは極めて“科学”的な反応であり、至極人間的なリアクションなのである。ただし、4歳児程度ではあるが……。
次は、「トロリージレンマ」についてだ。サンデル教授の「白熱教室」でおなじみの『暴走する路面電車』である(本ブログでは10年に取り上げた)。
◇アメリカの倫理哲学者トムソンが1985年に提唱した「トロリージレンマ」というテストがあります。こんな質問です。「故障した電卓が暴走している。線路の先にはこれに気付かない人が5人いる。このままでは全員事故死してしまう。あなたの目の前には線路を切り替えるレバーがある。切り替えれば5人は助かるだろう。しかし、切り替えた先には別の1人がいる。さて、あなたはレバーを引くか」
電車を放置すれば5人が見殺しとなります。レバーを引けば5人を救うことができますが、自分の意志によって1人を殺してしまう。そんな切迫した状況に接すると、苦慮した上でレバーを引く選択をする人が多いようです。5人が死んでしまう方が人道的に「悪」であるという判断がなされるわけです。
トロリージレンマの決断をしているヒトの脳の活動を、プリンストン大学のグリーン博士らが報告しています。想像されるように情動に深く関与する脳部位が活性化していました。とりわけ顕著な活動を示したのは「前頭葉」でした。
では、前頭葉がうまく機能しないと、私たちの判断力はどう変化するでしょうか? アイオワ大学病院のアドルフズ博士らは、前頭葉の一部である「腹内側前頭前野」に損傷のある患者6人にトロリージレンマ試験を行った結果を報告しています。
腹内側前頭前野が障害されると、羞恥、同情、罪悪といった社会的モラルを作る基本的な感覚が欠如してしまいます。しかし、知性や論理性はまったく健常ですから、テストでは健常人と同じように、1人を犠牲にして5人を救うという決断をします。
ところが、わずかに質問の状況が異なると、予想外の反応を示すことがわかりました。5人を助けるためにレバーを引くのではなく、積極的に別の犠牲者を作って救助することの是非について訊ねるのです。たとえば「あなたの隣に立っている見知らぬ人をホームから突き落とせば、電車が止まるので5人を助けることができる」という状況が考えられます。
数学的には、1人の犠牲者で済むという点で、レバー引きの状況と同じです。しかし、普通の人ならば、突き落としてまでして5人を救うことはしないでしょう。ところが、腹内側前頭前野に損傷のある患者では、躊躇なく突き落とすのです。
彼らは極端な功利主義です。たしかに人数だけから判断すれば、突き落とす方がよいのですが、健常人は新たな犠牲を出すことに対して強い躊躇と罪悪感を覚えます。もちろん自分自身がホームに飛び込んで電車を止めることもしないでしょう。冷静に考えれば私たちの道徳観は理不尽で非論理的なものですが、そんな無根拠で歪んだ直感が、いわゆる「人間らしさ」を生みだし、その結果として、自己犠牲の精神と併せて、心地よい社会に貢献していることは確かです。◇
「理性と心情という二律背反の葛藤のはざまで、思い切った決断を迫られる。そんな時、脳はどのように意思決定をしているのでしょうか」との問いかけに対する論究である。サンデル教授の哲学的論攷とは次元が違う。ましてや13年3月の拙稿「やっと掻けた!」で触れた内田 樹氏の合気道的オブジェクションとも異なる。まさしく“科学”による解析である。
興味を引くのは、『突き落とし』オプションだ。「腹内側前頭前野に損傷のある患者では、躊躇なく突き落とす」とは、怖気立つ試験結果ではないか。これもまた別のシチュエーションが見えてくる。
A首相の何とか神社への参拝である。あれは『突き落とし』オプションではないか。「積極的に別の犠牲者を作って救助する」に該当しないだろうか。腹内側前頭前野に損傷があると、「心情」が後退し「理性」だけが剥き出しになる。「極端な功利主義」が生まれる。自らの心情に頑迷に固執するのは、形を変えた「極端な功利主義」とはいえまいか。「羞恥、同情、罪悪といった社会的モラルを作る基本的な感覚」つまりは広角な感性を失い、私利的で狭隘な短絡的利得を狙う。「健常人は新たな犠牲を出すことに対して強い躊躇と罪悪感を覚えます」とは、大きな懸隔がある。Aさんの腹内側前頭前野に損傷があるといっているわけではない。脳科学を視座に状況を遡及すると、新たに見えてくるものがあると例示している。記憶に新しい前代未聞の政権投げ出しは心身を襲った重篤なトラブルによるものであった。はたして今度の参拝に、身を捩る“ジレンマ”があったとは寡聞にして知らない。 □
正確を期すため、新聞記事をそのまま引用する。
〓あまりに簡単で、あまりに常識破りな「STAP(スタップ)細胞」の作り方は、理研の小保方晴子ユニットリーダー(30)が糸口をつかんだ。2008年、早稲田大大学院から米ハーバード大に留学した直後。再生医療につながる幹細胞の研究をしていた時だった。
いろいろな組織になれる幹細胞は、ふつうの細胞よりサイズが小さいという特徴がある。マウスの体から取ってきた細胞の中から小さい細胞だけをより分ければ、幹細胞を集められるのではないか。指導教授のアイデアに従い、細いガラス管に通して小さい細胞を選別する実験をしていた。
内径0・03~0・05ミリのガラス管を通すと、確かに幹細胞のような細胞が出てきた。ところが、ガラス管を通す前の細胞の中には、幹細胞はまったく見つからなかった。
ふつうなら、あるはずなのに見つけられないだけ、と考える。だが、小保方さんは違った。幹細胞が「より分けられている」のではなく、細いガラス管の中に押し込められるという刺激によって、幹細胞のような細胞が「作られている」のではないか――。現象をありのままに解釈した。
毒を与えたり、熱したり、飢餓状態にしたり。様々な刺激を細胞に与えてみた。その中で最も効率よく作れたのが、弱酸性の液体に浸す方法。浸す時間は25分。細胞が死に瀕(ひん)すると変身するのでは、と考えた。〓(1月30日付け朝日新聞から)
肝は、──<以前には・引用者註>見つからなかった<ものが出てきた・引用者註>。ふつうなら、あるはずなのに見つけられないだけ、と考える。だが、小保方さんは違った。「作られている」のではないか──のところだ。飛切りの才媛は発想も飛切りだ。
陽水おじさんなぞは、
〽探しものは何ですか
見つけにくいものですか〽
なんて、訊きながら、
〽カバンの中もつくえの中も
探したけれど見つからないのに
まだまだ探す気ですか
それより僕と踊りませんか〽 (「夢の中へ」から)
なんて、すぐ色気を出した。「だが、小保方さんは違った」。『探したけれど見つからない』理由を、『まだまだ探す気』だった。そしてふいに飛切りの大ジャンプ、遂に『探しもの』をゲットした。
才媛に喝采。可愛いから、もう一つやんやの大喝采。
で、心霊写真だったらどうだろう。「見つからなかった」(たいがい、撮影者は見ていない)ものが出てきたら……。言い方を変えよう。「探しもの」でないのが突如出てきたら、どうだろう。はたして「見つけられないだけ」なのか、はたまた「作られている」のか。んー、ミステリーだ。
そんな展開で始まるのが、宮部 みゆき著
小暮写眞館
である。2010年、『講談社創業100周年記念書き下ろし100冊 企画』として発表された。昨秋文庫本になったので、読んだ(リタイア組は文庫にかぎるのです!)。同作品群に、浅田次郎氏の『マンチュリアン・リポート』がある。『蒼穹の昴』シリーズの続編として書かれた作品で、一頭地を出(イダ)す。
宮部作品は本ブログで11年6月に「理由」を、12年1月に「名もなき毒」を取り上げた。周知の通り、女史は日本推理作家協会と日本SF作家クラブに所属するミステリー作家である。かつ、時代小説も数多く手掛ける。
先入主とは怖いものだ。てっきり心霊写真を廻るミステリーだと早とちりしてしまった。確かに謎解きはすすむのだが、主題はそこにはない。むしろエビデンスの希薄なまま探究は中途半端に終わる。結局、なんだったのか。その煙(ケム)に巻く感が心地よい。実は『探しもの』は心霊の謎ではなく、人間の謎だった。だから、ミステリーを突き抜けた好著に仕上がっている。
あるいは、ジョブナイルに擬した青春ラプソディーともいえよう。文は人なり。さらに、顔なりである。女史の面相にも似て愛くるしいフレーズが頻出する。はじめ違和感、そのうち慣れっこ。最後に病み付きだ。
読み終えて、井上おじさんではないが『それより僕と踊りませんか』と誘ってみたくなるような甘くて爽やかな香りに包まれた。 □