白状すれば実は経済音痴である。本ブログで偉そうに税制がどうの、国債がどうのと言ってきたのは酢豆腐の戯れ言であった。能がないから自家製は無理だが、買い求めようにも銘店犇(ヒシ)めいて決めかねていた。だからといって、斉東野語ばかり繰り返していても詮無い。ならば、やはりどこかの豆腐屋を贔屓にするほかはあるまい。
そんな折、極上の豆腐に巡り合った。美味である。絶品である。無理にとはいわぬが、ぜひ御賞味あれ。
……と書いたのが、昨年11月「惚れてまうやろ!」であった。爾来1年余、ふたたび浜 矩子先生に教えを請う。
「新・国富論」(文春新書)である。今月発刊された。
“アベノミクス”が揚言される折も折、実にタイムリーな出版である。(◇部分は上掲書より引用、以下同様)
◇人類は、今日にいたるまでの歴史の中で、三度のグローバル化現象を体験している。第一次グローバル化の時代が、十五世紀半ばから十七世紀半ばにかけての時期だった。いわゆる「大航海時代」である。第二次グローバル化時代が、十八世紀から十九世紀に起きた「産業革命」の時代と重なる。この第二次グローバル化時代こそ、アダム・スミスが生きた時代である。そして今、我々が第三次グローバル化の時代を生きている。◇
タイトルからも判るように第二次グローバル化時代を生きた経済学の父アダム・スミスの「国富論」に範を求めつつ、第三次グローバル化時代の新しい経済学を拓こうという気宇壮大ながらも小さな一歩である。元祖「国富論」が際立って浩瀚であったのに比して、新書とはいかにも小振りだ(原書は見たことも読んだこともないが)。それに「ユーロ長屋」だの「ユニクロ栄えて国滅ぶ」「僕富論から君富論へ」といった“浜ワード”が随所で繰り出され、新書らしい噛み砕きがある。しかし決して軽くはない。なにせ浜先生だ。そんじょそこらの学者とは訳が違う。顔は怖いが(失礼)、お説はとても優しい。
まずは頂門の一針。
◇ヒト・モノ・カネが地球の歩き方の達人になればなるほど、国々の政策能力は低下する。財政政策は金欠で手詰まりになる。金融政策はカネの勝手な流出入に足を取られて効力を失う。この状態に業を煮やして、浅薄な政治家たちが中央銀行に国債を買わせたり、やたらに高いインフレ目標を達成させようと、気炎を上げる世の中になっている。これは怖い。追い詰められた国々のお門違いの逆襲がこのような形を取る時、民主主義は脅威にさらされる。◇
無能な政治家たちの次が「浅薄な政治家たち」であってはなるまい。第三次グローバル化時代の深い認識については同書に当たっていただくとして、元祖「国富論」とは前提がまるっきり違っている。今、「国々の政策能力は低下」せざるを得ない時代であること。海図のない未知の海域に先駆けて乗り入れているのが日本丸であること。その自覚だけは持ち合わせていないと、「浅薄な政治家たち」と呼ばわれてもいたしかたあるまい。
アベノミクスについて、朝日は『ザ・コラム』(12月30日付)で海外の識者二様の声を紹介していた。「いま日本が注目されている理由は、多くの先進国にとっても貴重な実験だからだという。金融危機後の経済の低迷では、日本が先輩格なのだ」と述べ、
──「我々はいまや、みなが日本人だ。違いは日本の方がより長く問題を引きずり、より多くの政府の借金があるだけ。この大胆な緩和で日本は停滞から抜け出せるのか、それとも超インフレの大惨事になるのか。私はうまくいくと思うし、そうなれば他国もコピーすればいい。だめだったら、誰もまねしない。この大実験は、非常に役に立つだろう」
「国の借金のひどさを考えると、日銀はずっと巨額の財政の穴埋めを迫られるだろう」。産業の生産性を向上させない限り、解決策はない。いずれ制御不能の円の暴落が起きる。──
との二様のコメントを引いていた。かくなる上は、ただ千慮の一得を願うばかりだ。
“ハマノミクス”に戻ろう。浜先生は、第三次グローバル化時代のイシューを42点にわたって挙げている。以下の通りだ。
◇(1)グローバル・サプライ・チェーンと古典的分業論との関係やいかに?
(2)今も昔も、カネは隙あらば出しゃばるものらしい
(3)『国富論」の時代には、国家とその政策がヒト・モノ・カネを振り回した。我らのグローバル時代においては、逆にヒト・モノ・カネが国とその政策を振り回す
(4)見えざる手がもたらす合成の勝利
(5)国境無きグローバル時代は、合成の勝利が合成の誤謬へと転化する世界なのか?
(6)解体の誤謬(全体最適が全員最適を必ずしももたらさない)こそ、「新・国富論」のテーマ
(7)『国富論』の見えざる手は需要の漏れが無いことが前提
(8)国境を越えた需要の漏れで見えざる手が神通力を失えば、見える手に依存するほかは無し?
(9)『国富論』において、国民経済は自己完結体系。モノは国境を越えても富は必ず国に帰属する
(10)わが社のためはお国のため?
(11)我らのグローバル時代は全富論の世界にして国富論の世界にあらず(全体最適は全員最適と同値に非ず)
(12)交換動機に基づく分業=社会的分業。工程分業との違いに留意
(13)未開社会の効用
(14)分業は人間をゾンビにする
(15)究極の分業時代である我らの時代は究極の人間破壊時代か
(16)諸国民の富と諸国家の富はどう違う?
(17)市場の国際化をいくら積み重ねてもグローバル市場にはならない
(18)グローバル市場は国際市場と同じ原理では動かない
(19)国際市場は国際競争の世界
(20)グローバル市場はグローバル・サプライ・チェーンの市場。すなわち(国際)協調の市場。誰かがいるから、誰もがいられる
(21)グローバル・サプライ・チェーンは小さき者が大なる者を支える構図
(22)グローバル・サプライ・チェーンと国家の求心力との関係は?
(23)二国二財モデルと羊羹チャート
(24)立国主義の限界
(25)立企業・対・立国家
(26)カネの価値はキンにあらず。ため込むことには意味がない
(27)独り占めと出し惜しみの重商主義
(28)貯蓄と投資の関係
(29)「新・国富論」ならぬ新重商主義の時代?
(30)マジメ金融・カジノ金融・マトモ金融
(31)グローバル長屋の管理組合の在り方
(32)政策不能時代の政策の在り方
(33)我らかグローバル時代における労働価値説や、いかに?
(34)国民国家ベースの富の性格と要因を知り尽くしていればこそ、国境無き時代の真相がすぐわかる
(35)ヒトに優しい『国富論」
(36)スコットランド魂と「新・国富論」
(37)ミイラ捕りのミイラ化
(38)禁断の一線を越える中央銀行
(39)出来の悪い魔法使いの弟子たち
(40)止まらない恐慌
(41)金融から消えゆく信用
(42)重人主義◇
この列挙を一読すれば、奈辺に問題意識があり処方箋はいかなるものか、ほぼその輪郭は掴める。憂国ではなく、『憂市民』の士には、ぜひ御一読願いたい。本年最後の稿で推奨する好著である。
では、先生十八番の御高説を拝聴して拙文を締める。
◇心意気は何富論か。合言葉は何か。「何富論?」への答えは「君富論」である。「僕富論から君富論へ」。これはある時から繰り返し筆者が言って来たことだ。
僕富論の世界において、諸国民は「僕の富さえ増えればいい。僕の富が減らないためなら、何をしてもいい」と考える。「見えざる手」が働かない環境において、これはまずい。君の富をどう増やすか。君の富が減らないためにはどうすればいいのか。そう考えることが出来なければいけない。
やっぱり、どうしてもここに帰着する。この姿勢が共有されていないと、「見えざる手」が働かない時代を我々は生き抜くことが出来ない。改めてそう確信する。さてそこで、グローバル長屋の合言葉である。それは、「差し伸べる手」なのだと思う.「見えざる手」に代わるものは、決して国々の「見える手」ではない。諸国民がお互いに対して差し伸べる手、やさしさの手、勇気ある手、知恵ある手だ。
さらにいえば、差し伸べる手を持つ人々は、実は諸国民に止まっていてもいけないのだと思う。本当に力強い差し伸べる手を持つためには、我々は諸国民から「全市民」に脱皮しなければいけないのだと思う。本当に力強い差し伸べる手を持つためには、我々は諸国民から「全市民」に脱皮しなければいけないのではないかと思う。国境をまたぐグローバル市民の視野があればこそ、お互いに慮りの手を差し伸べ合うことが出来る。そういうことだろう。そのようなグローバル市民の活動拠点はどこにあるのか。
それは「地域」にあると思う。◇
皆さま、よいお年を。 □