伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

奇想、天外へ!

2007年02月28日 | エッセー
 病膏肓か、習い性と成るか。はたまた、誇大妄想の癖か。またしても、奇想である。この度は天外より来たるのではなく、遙か天外へ放つのである。

 原発は「トイレなきマンション」と呼ばれる。排泄物、つまり核廃棄物の処理施設がないからだ。今は敷地内の肥溜めに貯めているようなものだ。あと数年であふれる。外に持ち出して処分せねばならない。なにやかやで厖大な費用が掛かる。3年前の経済産業省の試算によると、なんと総額19兆円。受益者負担となり、電力料金に上乗せされて消費者が払うことになる。この試算に含まれるのかどうか定かではないが、廃炉原発の始末にも巨費が掛かる。これは日本一国だけ。全世界の原発を考えると、空前の数字になる。
 糅(カ)てて加えて、核兵器だ。ウラン235にせよ、プルトニウム239にせよ、こちらは放射能の塊だ。地球上に3万発。ウルトラ・オーバーキルもいいところだ。造りも造ったりだ。廃絶が進んで、解体されると放射能物質が山を成す。こちらの処分は原発の比ではない。いくら掛かるか。おそらく試算のしようもないであろう。
 最終処分とは地中深く埋めることだ。地質を調べ、地下300mの硬い岩盤に封じ込めるのであろうが、どっこい地球には地震というものが起こる。いかな岩盤とて勝てる相手ではない。さすれば早い話、人類は放射能を枕に寝ている仕儀となる。半減期はプルトニウム239が2万4千年、ウラン235は7億年。気が遠くなる数字に、笑ってしまう。付言すると、ウラン235は自然ウランには0.7%しかない。抽出は砂金捜しを超える。自然(ジネン)に産するものでは決してない。プルトニウム239は人工物、つまりは人間がわざわざ造ったものだ。
 さて、その半減期である。レントゲン撮影に使うエックス線。これも放射線ではあるが、装置の電源を切ればばそれで終わり。しかし、原発で作られた核分裂生成物はそうはいかない。放射線を出さなくなるまで待つしか手はない。放射性元素の原子数が崩壊によって半減すれば概ね安心できる。これを半減期という。要するに無害化するまでの期間である。

 そこで、本題に入る。 ―― 核廃棄物、もしくは廃棄核兵器をロケットに詰めて、宇宙の果てに飛ばしてはどうか。できれば、ブラックホールめがけて。
 腰だめの試算をしてみる。
 スペースシャトルの製造費用は約2000億円。普通のロケットが製作に1000億円、打ち上げ費用が一回に100億円掛かる。
 ペイロード(積載量)は、スペースシャトルが約30トン。いま計画中のスペースシャトルを改良した大型物資輸送用ロケットだと、その3倍。約90トン運べる。
 日本の原発からは年間1000トンの核廃棄物が出る。リサイクルした後、最終処分、つまり埋設処理が必要な蓄積量は、平成14年時点で約3万トン。大型輸送ロケットで333回分になる。一機が3000億円と見積もると、約100兆円。GDPの5分の1、年間予算の1.3倍。アメリカの場合、原発数は日本の約2倍。従って、費用も2倍。GDPは1200兆。こちらも日本の2倍を超える。
 巨額のようだが、100年もかければ十分可能ではないか。途中には技術の進歩がある。スケールメリットも働く。代替エネルギーが開発、実用に供されると累積量は止まる。『世紀の事業』として各国共同して取り組めば、費用対効果は確実にある。
 一方、核弾頭は一個平均30キログラムとして3万発で約900トン。貨物ロケット10機分で足りる。総額3兆円、割安だ。こちらは解体せずにそのまま飛ばす ―― 。

 私の知る限り、このような案が提示されたことはない。問題はそこだ。この類いのプラン、誰かが着想したにちがいない。しかし、俎上に載らないのはなぜか。浮かんだ瞬間に、夢想として葬られたのだろうか。あるいは密かにどこかでプロジェクトが動いているのであろうか。いや、それはあるまい。おそらく着想した瞬間に、思考停止したのではないか。なにが阻んでいるのであろう。レギュレーションはなにか。
 以下、考えつくままに何点か挙げてみる。
① 荒唐無稽。バカバカしい。たわごと、戯(ザ)れ言。世迷い言。夢想として歯牙にもかけない?
 それに、際物として無視するも入るか。
② なんらかの倫理観が働いた?
 『宇宙的』倫理観とでもいおうか。宇宙を汚してはいけないという抑制が働いた。ただそうだとすると、なぜ地球はゴミだらけで平気なのか。養老孟司氏の言に、「部屋の掃除をしてキレイになっても、掃除機の中はゴミだらけ」というのがある。大気圏内では、所詮右のモノを左に持って行っただけではないのか。ならばと、大気圏外にぶっ放そうという発想はオカしいのか。あるいは、せめて宇宙だけはキレイにしたいとの犠牲的精神か。だが、やがて地球の引力によって墜ち、燃え尽きるとはいえ、プラネットアースの周りは宇宙ゴミでいっぱいだ。衛星の破片などが飛び回っている。
 宇宙は無限である。有限説もあるが、ウラン235の半減期7億年に光年を掛けても果てには届かぬ。遙か天外へ、銀河の先の、そのまた先へ運ぶこのプラン、「宇宙の無限性」で相殺されないものであろうか。「無限性」で相殺できないところに倫理の核心があるのだろうか。
③ 上記②と関連するが、宇宙への畏怖ゆえか?
 未知であるがゆえの畏怖。宗教的感情に近いもの。天に唾するか、神に弓射るか。
④ 将来の技術開発を待つのか?
 まさか半減期の短縮はできないだろうが、それこそ奇想天外な技術の開発に期待するため。これは世紀の単位を要する。
⑤ エイリアンの逆襲を恐れるためか?
 ひょっとして、これが現実的かもしれない。
⑥ やはり費用と技術的問題?
 でも7億年もの間、核を枕に寝続けるのか。そのうちに巨大地震でも来て地中の核物質が噴きだし、本物の『猿の惑星』にならないとも限らぬ。

 さて、いかがなものであろう。筆者としては②であることを望む。だとすれば、人間もまだ捨てたものではない。拙稿の読者諸氏の明察に期待したい。勿論、これ以外の意見も含めて。奇想にお付き合い願えるならば……。
 天外に放った奇想、ブーメランのように無知蒙昧なわが脳天に返って『来そう』だ。□

奇想! 喇叭卒

2007年02月23日 | エッセー
 明治27年、日清戦争の渦中、成歓の戦いでひとりの喇叭手が敵弾に当たり戦死した。歩兵第21連隊に所属する木口小平であった。事切れてもなお彼は口にしっかりと喇叭を押し当てていた。この壮烈なる戦死は国民の涙を誘い、感激を呼び、戦意を大いに高からしめた。さらに、当時の尋常小学校修身書にも取り上げられた。   
   キグチコヘイハ テキノ タマニ
   アタリマシタガ、 シンデモ ラッパヲ
   クチカラ ハナシマセンデシタ
 事後、軍人の鑑として讃えられ、縁(ユカリ)の地には碑が建ち、銅像が聳える。

 またしても奇想、天外より来った。かつ、遥か古(イニシエ)より。

 先日、東京板橋区のときわ台駅で人身事故があった。制止を振り切って線路内に入った女性と、助けようとした警察官が電車に撥ねられた。女性は重症を負ったものの、一命は取り留めた。警察官は6日間死線をさまよった後、死亡。なんとも割り切れない、痛ましい事故だ。首相はすぐさま弔問し、政府は故人に旭日双光章を授与すると決めた。
 弔意は表するが、やはり割り切れない。例によって、マスコミは遺された妻子を含めドラマティックに報じた。多くの国民が涙したにちがいない。しかし待てよ、なのだ。
 異論を怖れずに言うと、はたしてこれは美談なのか、ということだ。昨今の不祥事と比べれば、美談といえなくもない。だが、美談で困るのは仲間のポリスマンではないか。ましてや『警察官の鑑』にでもされた日には堪ったものではないだろう。稀有な例がスタンダードにされて軛となる。お上のよく使う手だ。ただ今回の場合、その現場代執行者が対象であるというアイロニーはあるが……。
 割り切れない霧中に、覚醒の卓見に出会った。2月19日、朝日新聞の「声」の欄トップに以下の投稿が掲載されたのだ。

 ~~「殉職の警察官 模範ではない」 
 東京都板橋区で電車の線路に入ろうとする自殺願望の女性を、最後まで助けようとした警察官が殉職された。普段から地元の人たちからも親しまれていた立派な警察官だったとのことで、痛ましい限りだ。
 だが、寄せられた追悼の言葉の中に、警察官の模範とか手本とかいうのがあって、「はてな」と思わされた。理屈を言うようだが、模範・手本とはみんながそのようであるべしということだろう。立派な人に次々に死なれては困る。死なないような方策を立てるべきではないか。
 自殺願望の人には説得に努めるべきだ。線路に入ろうとしたら、何度も強く制止すべきだ。それでもすきをついて線路内に飛び込んだら警察官はそこで立ち止まってほしいと思う。説得も制止も効かない相手には打つ手はない。それでもなお最後までつきあうのが警察官の職務で模範・手本というのでは、あまりに酷だ。
 今回殉職された警察官に心から哀悼の意を表するとともに、このような殉職が模範・手本とされないように願う。~~

 快哉、わが意を得たりである。無職、76歳の男性。世に具現の士はいるものだ。世間の風向きに右顧左眄することなく、事を見誤らない。センチメンタリズムに流されず、しっかと構えてキチンと視る。『操作』の危機はそこらじゅうにあるのだから。
 この際だ。いま急ぐべきは、次の「犠牲者」を出さないためにマニュアルを作ることだ。「説得も制止も効かない相手には打つ手はない」のだから、「最後までつきあう」義理など毛頭ない。断じてない。仄聞するところ、パトカーによる一般道での違反車追尾は時速100Km(あるいは80Kmだったか)というルールがあるそうだ。非常時での対処に、折り合いを付けるべき線引きにお墨付きを与える。その方がよほどに「仕事」もしやすくなるし、風通しもよくなる。それこそが故人に報いる道だ。なによりの供養だ。
 そうだ。 ―― 『平成の木口小平』はもういらない。□

奇貨可居

2007年02月21日 | エッセー
 たかが芸人の他愛のない戯(ザ)れ事とうっちゃっておけばいいのだが、どうにもオカしいのである。
 先日(2月17日)、お笑い芸人J君と俳優F嬢が神戸のI神社で挙式をなさったそうな。新聞は「同神社はこの日、一般客の立ち入りを禁止し、周囲を高さ約3メートルの紅白の幕で覆ったが、約300人の報道陣とファン約400人が詰めかけ、周辺が一時混雑した。」と伝える。なんと、F嬢は十二単(ジュウニヒトエ)、J君は束帯(ソクタイ)姿。テレビで拝見したところ、どこの宮家かと見紛うばかり。式後、白無垢姿で記者会見したFさんは「明るく楽しく笑いの絶えない家庭にしたい」と仰せになったとか。これもいつかどこかで聞いたお言葉だ。吹き出しそうになったのを堪(コラ)えて、飲んでいた珈琲が鼻に逆流してしまった。尾籠な話で失礼。
 お笑いと女優が妻夫(メオト)になる。最近の流行りでもあるし、同じ穴のムジナのことゆえ別にオカしくはない。オカしいのは挙措だ。静止している分には、それなりに古式ゆかしく厳かでもある。しかし動き出すと、途端にいけない。何ともてんでにぎこちない。身のこなしは誤魔化せない。テレビや映画だとカメラワークで上手く撮れるのだろうが、ニュース映像ではそうはいかない。馬子にも衣装ではなくなってしまうのだ。
 何十年と和服で暮らしてきた人、偶(タマ)に着る人。動きを見れば、素人目にだって分かる。逆も真なり。動画記録がないのが残念だが、維新後に洋装した紳士淑女の動きは相当にぎこちなかったに違いない。
 そこで、養老孟司氏の慧眼を援用したい。
  ~~文化というのは言葉、絵画、音楽、すなわち意識的表現の世界だけではありません。じつは身体の表現が半分を占めていた。日本の芸事を習われている方はよくおわかりのはずです。戦後、われわれはとくにそういった身体表現、無意識的表現を強く消してきました。しかし、普遍的な身体の表現は、完成すれば必ずどこにでも通じるはずのものなのです。二本差しでちょんまげを結って威臨丸から降りた人たちがサンフランシスコを歩いたときに、アメリカ人は誰も笑わなかったと思います。それが型です。意識的表現に比べて、こういった無意識的表現というのは、非常に身につきにくいものです。それを本来担っていくのが日常の生活です。われわれは畳の上の生活から急速に椅子とか床の洋風の生活に変化させてきました。日常の行住坐臥の所作からできあがってくるような、そういった身体表現としての文化を、もう一度つくり直さなければならない段階におそらく来ています。~~(だいわ文庫「まともバカ」から抜粋)
 勝海舟率いる遣米使節団の例は鋭い。そこには300年をかけてつくり上げた「型」があった。片や、学芸会レベルの盛装では御里が知れるというものだ。
 さらに一つ。
 芸能誌を筆頭に報道陣が300人。日曜日ということもりニュースの薄い日ではあったが、それにしてもオカしい。このような虚仮威しに、はたして報道の価値があるのだろうか。「平和ボケ」の一現象と括るのか。あるいは、ひょっとして奇貨可居(キカオクベシ)か。
 日本は、類い稀なる身分に隔てのない社会である。北海道を除けば単一の民族で、戦国と維新などで十全にシャッフルされている。司馬遼太郎の言を借りれば、皇室を除きみんな馬の骨である。「血筋正しき」などとは死語だ。歴史上の人物を祖とする家系などとたまに話題になるが、それは奇種ではあっても貴種ではない。西欧流の貴族階級もなければ、泥沼のようなカーストもない。日本人の中に肌の色による差別もない。「色黒」は色の区別ではない。「腹黒」は散見するが……。「頑黒(ガングロ)」は肌の色ではない。化身の一種だ。
 一介の芸人が殿上人を気取っても、何の咎め立てもされない。どころか、周りがはしゃぐ。そうなのだ。『学芸会』の亜種なのだ。同級生がたまたま演じるヒーローとヒロイン。通底するのは「みんな馬の骨」だ。
 社会的格差が身分の隔てとなって固定される。そんな危惧も囁かれるが、政治の舵取りで越えらぬ壁ではない。
 わが国の世界に冠たる無階級性を大いに喧伝することとなった今回の挙式。めでたい限りである。やはり、奇貨可居か。□

お宝 二枚

2007年02月17日 | エッセー
 かなり戦上手の皇帝であったらしい。西暦三世紀、カエサルから三百十数年も後のことだ。クラウディウス2世。五十六歳で早世したが、異民族の侵略を何度も撃退し、ローマ帝国史上にその名を残す。唯一の「殺されなかった軍人皇帝」でもある。さらに、ヴァレンタイン司教を処刑したことでも知られる。あの聖ヴァレンタインだ。西暦二百六十九年。もちろん、二月十四日のことだ。
 皇帝クラウディウス2世は軍人気質であった。というより、戦のことしか頭になかった。郷里に残した妻子に後ろ髪を引かれては士気が下がると、兵士の婚姻を禁じた。そこで登場するのがヴァレンタイン司教である。キリスト教精神に溢れるこの司教、禁を犯して密かに兵士に祝言をあげさせる。しかし事は露見し捕らえられる。
 さて、処刑の日取りである。当時のローマでは、二月十四日は家庭と結婚の女神ユノの祭日。翌15日からは豊年や安産祈願のルペルカリア祭が始まる。皇帝はルペルカリア祭の前日を選んで、司教を生贄として捧げた。伝来の神への忠誠と異教への見せしめ。巧みな演出である。この時期、ローマは内憂外患に喘(アエ)いでいた。キリスト教は内憂の最たるもの。公認される半世紀前である。
 ところが後年、教会が見事に皇帝の裏をかいた。ルペルカリア祭が聖ヴァレンタインの祭に化けたのだ。シンクレティズムである。旧習は一掃したいが、急(セ)いては反感を買う。祭の形は残しながらも、来歴を変えた。司教は殉教者となり、女神ユノは取り込まれ、女性を主役にしたカソリックの祭日となった。加えて、ルペルカリア祭の奇習が採られて、女性からの求愛が許される日とされる。古来、この祭の前日に娘たちが名札を桶にいれ、初日に若い男たちが引く。これで期間中のパートナーが決められ、ほとんどはそのまま祝言に至る。後付けの創作の臭いもするが、こうしてキリスト教の懐に飲み込まれ今に伝わる。
 「シンクレティズム」の語源はエーゲ海に浮かぶクレタ島らしい。内部抗争を繰り返してきた島民が、侵入者に対し結束して戦ったことにあるという。大義のための妥協といったところか。征服の過程で、古代ローマ人は異邦の神々は呼び名が違うだけで、同じ神だと考えた。ゼウスはユピテルにと、ギリシャの神々は名を変えてそのまま継承された。
 日本では、聖徳太子を始祖とする神仏儒の習合思想はつとに有名である。以後、日本人の宗教観をかたちづくり、外来文化の受容にも影響を与える。
 江戸時代の「寺請制度」は、キリシタン禁制の決め手として打たれたものだが、併せて仏教の中に古来の祖霊信仰を押し込んだという見方もある。本来仏教に祖先崇拝はない。「葬式仏教」化もシンクレティズムの好例である。
 世界最大のイスラム国家・インドネシアでは、イスラム伝来前のヒンドゥー文化が色濃く残されている。さらにヒンドゥーよりも以前のアニミズムの残影さえ見て取れるそうだ。
 キリスト教では、聖母マリアは土着の地母神信仰と結びついていった例が多い。メキシコでは褐色の聖母マリアとなった。世界のいたるところで、あらゆる時代に、シンクレティズムは繰り返されてきた。
 はてさて、「ヴァレンタイン デー」はさらにシンクレティズムされる。日本の某菓子会社によって、件(クダン)の名札がチョコレートに変身する。日本のコマーシャリズムは生半な宗教を凌ぐのだ。ついでに言えば、クリスマスとケーキという異次元、異界のものを『シンクレティズム』したのも日本のコマーシャリズムである。勿論、聖徳太子以来の『いいとこ取り』は日本の御家芸。かくして、この貴重で奇異なる精神遺産をDNAに持つおとうさんたちが、歳末の一日、羽目を外すこととなる。ジーザス・クライストなど『飲んだこともない』と宣(ノタマ)いながら、シャンパンのグラスをさかんにお空けになる。シャンパン。これまた縁もゆかりもない異物の混淆である。こう考えてくると、名古屋名物の『天むす』なる珍奇で美味なる食い物もシンクレティズムの亜種かもしれない。ただ、ヴァレンタイン チョコレートにせよ、クリスマス ケーキにせよ、どうして血糖値の上昇を招くものでなければならぬのか。次回の混淆作業からは、ぜひ薬品メーカーにも加わってほしいものだ。
 二度にわたってシンクレティズムされてきたヴァレンタイン デー。今年も過ぎた。ここだけの話。白状すると、会社で一枚、連れ合いから一枚。総合計二枚の大収穫であった。寅さんではないが、目方で男が売れないように、あの忌まわしき板状甘味洋菓子の枚数でオトコの真価が決められてたまるか。と嘯きつつ、加齢と枚数は反比例するという冷厳な事実にすすり泣きながら、お宝の二枚を十分な時間をかけて噛みしめた。□

うへぇー! 世の中、ゴミだらけ!!

2007年02月12日 | エッセー
  まずは以下を御一読願いたい。
  ~~《一番人気はカーター氏/歴代大統領/米紙が調査》
【ロサンゼルス4日=共同】4人の前、元米大統領のうち1番人気があるのはカーター氏で、在職中に高人気を維持し続けたレーガン前大統領は″並″に転落。米紙ロサンゼルス・タイムズが4日発表した世論調査でこんな結果が出た。/9月下旬、全米で1600人を対象に行ったこの調査では、健在の4人の前、元大統領のうちだれを支持するか、という質問に対し、35%がカーター氏、22%がレーガン氏、20%がニクソン氏、10%がフォード氏と答えた。
 この結果について「カーター氏は人道的な政策が評価できる」「レーガン氏は貧しい人のためには何もせず、多くのホームレス(浮浪者)を生む原因となった」といった回答者の見方を紹介している。(朝日新聞1991年11月6日)
 どこがおかしいか、わかりますか。  
 解答。4人の前・元大統領のうち、カーターだけが民主党で、残りの3人は共和党である、仮に大衆の4割が共和党、4割が民主党、2割が無党派(その他)であったとすると、共和党支持者の票は割れるが、民主党支持者にはカーターしか選択肢が存在しない。カーターがこの調査で1位になることは、最初から明らかだった。このように特定の選択肢が上位にくるような恣意的な質問の作り方を、専門用語で「forced choice(強制的選択)」と呼んでいる。~~
 著者は谷岡一郎氏。大阪商業大学 学長(現在、学校法人谷岡学園 理事長)。書名は ―― 「社会調査」のウソ ―― 。文春新書。初版は7年前。話題を呼んだそうだが、今にして知った。著者は社会調査方法論・ギャンブル社会学・犯罪学を専門とする学者。51歳。ブックカバーの写真で見る限り、優しい顔だ。しかし物言いは激しい。容赦はない。一篇、義憤に満ちている。
 前々稿「誰だ、それは?」で、『国民の意見』について述べた。
  ―― では、世論調査か。これこそが「国民の意見」なのか。アンケートと同じく、問いかけ次第で回答は変わる。虚構性がつきまとう。 ――
 この「虚構性」を、分かりやすく『ウソ』として捌(サバ)いた啓発の書である。
  ~~「社会調査」という名のゴミが氾濫している。そのゴミは新たなゴミを生み出し、大きなうねりとなって腐臭を発し、社会を、民衆を、惑わし続けている。社会調査を研究してきた者として言わせてもらえば、社会調査の過半数は「ゴミ」である。それらのゴミは、様々な理由から生み出される。自分の立場を補強したり弁護するため、政治的な立場を強めるため、センセーショナルな発見をしたように見せかけるため、単に何もしなかったことを隠すため、次期の研究費や予算を獲得するため等々の理由である。そして、それを無知蒙昧なマスメディアが世の中に広めてゆく。~~
 舌鋒は鋭い。次に、文字通りの『ウソ』の事例を本書から要約して引用する。
  ~~初めて大阪府知事に就任してから1年後の1996年4月、山田勇(横山ノック)知事に対する評価アンケートの結果が読売新聞に掲載された。
[質問と回答]
Q2 昨年4月の知事選挙では、だれに投票しましたか。
・横山ノック 43.1%
・平野拓也(自、進、社、さ、公推薦) 9.5%
・小林勤武(共推薦) 4.8%
(以下の結果は本ブログ筆者が略す)
 社会調査論を教える者から見ても、こんなおもしろい題材はない。早速、1期目当選時の新聞を引っぱり出してみた。ウソをついている人の割合を調べるためである。1年前の投票の結果は次のとおりである。
【知事選の確定得票(大阪府)】(1995年4月10日各紙より)
・横山ノック 無新 1.625.256
・平野拓也  無新 1.147.416 
・小林勤武  無新   570.869
(以下の結果は本ブログ筆者が略す)
 例によって何人かの大学教授たちがしたり顔で解説しているが、この二つの結果の矛盾点に言及した者は一人としていない。(本ブログ筆者の註:得票率は、横山=48%に対し平野=34%となるが、Q2では平野が9.5%と余りにも低い。得票合計=3.369.446票。)
 基本的に人間というのは、忘れ、そしてウソをつく動物であるということである。例えば選挙前に行われる調査では、毎度のように7割前後の人が「必ず投票に行く」と答えている。「なるべく行く」を含めれば9割程度が投票に行っている計算になるが、実際に投票に行った人の割合は、「必ず行く」と答えた人の割合より2割ばかり下まわっているのが実情である。人間というのは、投票に行ったか行かなかったか、誰に投票したか、といった、人に知られてもどうということのないような質問にさえ、「オレは勝ち馬に投票したんだ」とウソをつく。そうである以上、他人に知られたら本人に重大な影響を与えるような質問の場合は、「人はウソをつく」ことを前提にして調査する必要さえあるのである。~~
 さらにもう一つ、因果関係を取り違える間違い。
  ~~ダイエット食品の効用に疑問を持ったマリエ・アンゾ博士は、ランダムに選んだ男女1000人ずつ、計2000人に1日に食べるダイエット食品の回数と量を尋ねてみた。ついでに各自の肥満度も測定してみた。その結果次のことが判明した。
 ① ダイエット食品を食べる回数が多ければ多いほど、肥満度が高い。
 ② ダイエット食品を食べる量が多ければ多いほど、肥満度が高い。
 結論としてマリエ・アンゾ博士は、ダイエット食品はあまり効果がないばかりか、逆の効果が観察されると発表した。さて、この調査はどこがどうおかしいか。
 いささかトリッキーなワナが仕掛けられている例だが、答は次の通りである。「単に太りすぎの人がダイエット食品をよく食べていただけだった」このように因果関係を逆に考えてしまった例は意外に多い。
 「相関関係」ではどちらが原因で結果かは不明で、時間的にどちらが先行するかはわからない。「因果関係」においては「原因」となる変数と「結果」となる変数が明確化され、時間的にも原因が結果に先行する。二つ以上の変数間に因果関係が存在するとき、その変数間には相関関係が存在するが、逆は必ずしも真とは限らない。つまり、ここが重要なところだが、相関関係があっただけでは因果関係があるとは結論付けることができない。相関関係は、あくまでも因果関係の前提に過ぎないのである。~~
 その他、バイアスの問題、有効回答率、サイレントマジョリティー、サンプリングや、電話調査の落とし穴、誘導的手法、データ公開の課題など、『ゴミ』の分別・分析が網羅されている。内容は本書から引用すると
  ~~本書の論点は、次の五点に要約できる。
①世の中のいわゆる「社会調査」は過半数がゴミである。
②始末が悪いことに、ゴミは(引用されたり参考にされたりして)新たなゴミを生み、さらに増殖を続ける。
③ゴミが作られる理由はいろいろあり、調査のすべてのプロセスにわたる。
④ゴミを作らないための正しい方法論を学ぶ。
⑤ゴミを見分ける方法(リサーチ・リテラシー)を学ぶ。~~
 である。まさに目から鱗。ダマされたくない方はぜひお読みいただきたい。
 御多分に洩れず、私の住む町でもゴミにはうるさい。キチンと分別して、定められた日に、所定の要領で出さなければならない。かつ、世の亭主族はあの袋をいくつも抱えて運ぶありがたいお役に任ぜられている。生産ばかりでなく、廃棄にまで関わらねばならぬ重く哀しい定めを負っている。その上、まだ『ゴミ』があるとは。ああー。□

雪 三様

2007年02月07日 | エッセー
 底冷えを振り切って床に就く。目覚めると、窓の外は眩(マバユ)い銀世界に満ちていた。野山も街並みも厚化粧をしている。雪の白粉だ。少年の日、高揚感とともに雪の一日が始まる。
 戯れて新雪に身を投げる。人形(ヒトカタ)が残る。記憶をなぞりながら道を踏み分ける。この日ばかりは足形が付き纏う。行く手に白無垢の校舎が迎えてくれる。時ならぬ出で立ちだ。固く結んだ雪は合戦の銃弾。命中に彼は飛び上がり、被弾は直(ジキ)に水となって肌を刺す。雪だるまも作った。当時は炭もバケツもすぐに用意できた。もちろん、バケツはブリキで、炭は日用品だった。雪が降り積もった日、それは少年にとって格別な一日となった。
 遠景に退(シリゾ)いて、遙かな星霜が過ぎる。

 ひと夜を境に自然が身繕いを一変する。近景も遠景も輪郭だけを残しながら、等し並みの白銀に染め上げる。鮮やかなメタモルフォーゼだ。おどろきは蠱惑を誘(イザナ)い、人を酔わせる。壮大な変身の美に酔い痴れる。


 「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。」
 冒頭に触れた時、悪寒に襲われた。読み進む呼吸を整えるまでしばらく立ち竦(スク)んだ。言霊の実在を確信した刹那だった。
 自然が設(シツラ)える書割であろうか。雪でしか醸せない風味。その書割のなかで、雪を十全に含んだ芳醇な筆致が男を描き、女を演ずる。「雪国」の不朽は白栲(シロタエ)の場景とともにある。
 この書割は数々の名作を生んできた。「豊饒の海」、三島は「春の雪」から筆を染めた。浅田次郎、「鉄道員(ポッポヤ)」も然りだ。日盛りでは成し得ない劇だ。

 天は巧なる絵師のごとしか。時として見せる日常に非ざる高みの書割。作家はそれを借景し物語を紡ぐ。日常に非ざる劇は天の書割に包まれ迫真となる。

 
 それは音もなくやってくる。「白の恐怖」だ。人の営みなぞ一溜(タマ)りもない。自然も喜怒哀楽の諸相を現ずる。太刀打ちはできぬ。しなやかに応ずるほか、手はない。
 冬山の遭難は後を絶たない。八甲田山中、死の彷徨は二百人近い凍死者を出した。世界の山岳史上、最大の惨劇だった。
 極寒(ゴッカン)の死は睡魔と背中合わせだ。極度の疲労が睡魔を呼び寄せるのか。寝入ってしまえば体温は更に落ちる。踵を接して凍死が待つ。「白の恐怖」は心地よい眠りを伴って忍び寄る。白銀の真綿が一瞬にして死装束に変わる。畏怖を忘れた時、容赦ない痛撃に見舞われる。侮れば自縛は必至だ。
 自然は決して優しくはない。白銀の世界は死霊が蠢く白妙の闇でもある。

 やがて陽が差し雪消(ユキゲ)に春が迸ったら、一安心だ。

 それにしても暖冬はまことに無粋を窮める。□

誰だ、それは?

2007年02月01日 | エッセー
 言葉尻を捉えているのではない。どうも据わりがおかしいのだ。曰く、「国民の皆さん」である。今年は7月に向けてうんざりするほど聞かされる。
 この常套句、おかしくもあり意味深くもある。お使いになる方々は、おそらく何の違和感もおもちではないのだろうが……。
 分解すると、「国民」と格助詞「の」、それに「皆さん」である。この格助詞は【所有】(例「兄の家」)や【所属】(例「彼の責任」)ではあるまい。【動作の対象】(例「旅行の相談」)も【……に関する】(例「数学の本」)もちがう。【指定の陳述】(例「五十歳の男」)が妥当か。
 とすると、「国民である皆さん」となる。さらに、「皆さんの中で国民である人たち」は穿ち過ぎか。 ―― 裏返せば、「国民ではない皆さん」も存在することになる。
 事典によれば、国民とは「国籍を有し一定の権利義務を持つ者。民族・種族に対して、統一的な政治組織を共有する者の集団。国家意志の遂行に協力する者」と定義される。となると当然、「国籍を有し」ていなければ「国民ではない皆さん」になる。が、はたしてそうか。
 「国籍を有し」ないのに「一定の義務」が課され、「統一的な政治組織を共有」し、かつ「国家意志の遂行に協力」させられるのに、「一定の権利」を持たない「国民ではない皆さん」がいる。歴史の波に翻弄され、この国で生き続けねばならなかった人びとだ。「国民の皆さん」は、この「国民ではない皆さん」を常に捨象していることになる。巧んで言うか、巧まずして言うか。置き去りにしていい問題ではなかろう。このまま跛行を続けるのか、この国の『美しさ』が問われる。
 さて、その「国民」である。東大大学院教授の姜 尚中氏は「愛国の作法」(朝日新書)の中でこう述べる。

  ~~ 美しい風土、美しい言語、美しい文化の共同体が、そのまま国民になるわけではありません。そのためには、一定の政治的意志をもって国家を形成し、その憲法体制を通じて国民の共通の課題や利益(公共の福祉)の達成を図ろうとする国民に「なる」必要があるのです。それは、社会契約論にみられるように、一定の作為(フィクション)による政治的空間の形成を不可欠としています。 ~~
 
 「皆さん」が「そのまま国民になるわけでは」ない。「一定の作為による政治的空間」の中で、まさに「なる」のだ。この辺りの事情は歴史に学ぶに如(シ)くはない。
 幕末、ひとり勝海舟のみが「国民国家」を構想した。それなくして列強の進攻を食い止める術はない、との危機意識からだ。国家の統一と国民の創出。勝の畢生の事業となった。
 司馬遼太郎は言う。

  ~~ 国民国家というのは、国民一人ひとりが国家を代表していることを言います。家にいても外国に行っていても、自分が国家を代表していると思い込んでいる人々で構成されている国家を言うのです。(朝日文庫「司馬遼太郎 全講演」より) ~~

 学者の語り口と作家のそれとはかくも違うものか。口ぶりはちがっても言わんとするところは同じだ。「国民」は人為である、ということだ。明治維新の直前、イタリアが統一された時、政治家マッシモ・ダゼリオは奇しくも言った。「イタリアはできた。今度はイタリア人をつくらなければならない」。そして民族主義運動に火が付く。フランスは革命の後、傭兵制に代えて「国民軍」をつくることで国民国家への道を開いた。日本は維新後、徴兵制を敷き西南の役で官軍にこれを当てる。皆兵制が「国民」を産むことになる。事情は同じだ。よくも悪くも、人為の極みに「国民」は誕生した。次のフェーズにいけるのかどうか。EUは世紀のトライアルだ。
 話柄を転じよう。「国民の意見」についてである。赤絨毯の館では慣用句だ。「国民」は先述した。この格助詞は【所有】であろう。問題は「意見」である。
 ひとつは、選挙だ。「国民の意見」はそこに集約される。しかし、投票率の難関がある。棄権はどう捉えるのか。積極的棄権は一つの意見表明ではないのか。ノイジー・マイノリティー がサイレント・マジョリティを駆逐する場合もある。「郵政選挙」のようにバイアスのかかった仕掛けもある。まず、ここは欠陥を抱えたシステムであると押さえておきたい。「民衆は選挙の間だけは主人だが、あとは奴隷である」とのルソーの嘆きは今も重い。
 では、世論調査か。どう検証するのかは判然としないが、最近はその精度が格段に上がっているという。そのためか、各メディアとも大同小異の結果が出る。では、これこそが「国民の意見」なのか。アンケートと同じく、問いかけ次第で回答は変わる。虚構性がつきまとう。代議制との関わりはどう捉えるのか。易きに流れるのは世の習いだ。当然、ポピュリズムの陥穽もある。ともすれば、世論と正論はアンビヴァレンツになりがちだ。世論に阿(オモネ)れば無責任の誹りが待つ。正論への固執は足元を崩す。拮抗する壁に事は膠着する。かつての「臨調」はその壁を破ろうとしたものだ。前政権からの「経済財政諮問会議」もその亜種だ。さらには遥か、「哲人政治」を志向する識者もいる。タウンミーティングのヤラセも、タウンミーティングそのものの虚構性がまずあることを忘れてはならない。
 三番目には、代議制だ。議員そのものが「国民の意見」であるとのスタンスだ。「選良」を前提とするにしても、最大のアポリアはその選び方である。試行と錯誤は果てしなく繰り返されるにちがいない。
 あるいは、議員にとって支持者こそが「国民の意見」か。ひょっとすれば、これこそが有り体かもしれない。となると、国政は「後援会」に限りなく矮小化されていくのか。これでは、話は振り出しに戻ることになる。
 民主主義とその制度。一皮めくれば穴だらけなのだ。最善でも、最高でもない。ならば、どうする。ほどほどのところで折り合いをつけるしかないではないか。うまくいっても次善でしかないと、肚を括るほかない。とりあえずのよし、で進むしかない。幻想は捨てるべきだ。民主と衆愚は背中合わせだ。ソクラテスを死に追いやったのはアテナイの陶片政治だった。自由は放埒に流れ、平等は悪平等に、人権は独善に堕しやすい。
 「自由と同じように民主主義も、不断の民主化によって辛うじて民主主義でありうるような、そうした性格を本質的にもっています」政治学者・丸山眞男の言葉だ。西洋には「結局、国民はそのレベルに合った政治しか持てない」という格言がある。ならば、件(クダン)の方々が「国民」と仰せになった時、「誰だ、それは?」と問い返そうではないか。□