伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

ウロボロス

2013年09月28日 | エッセー

 先日のNHK「クローズアップ現代」で、ロボット兵器を取り上げていた。
 「人工の兵士」は神話に登場するので、発想自体は古くからある。人的損失を最小限に抑えるためだ。偵察、警戒、不発弾や地雷の除去以外に、近年ではよりストレートな戦闘行為での使用に衆目が寄せられている。
 アフガンやイラクで、アメリカはさまざまな無人兵器を実戦に投入している。数年前には無人攻撃機によってタリバンやアルカイダの司令官が爆殺された。しかし他の局面では誤爆や巻き添えで多くの民間人が犠牲になり、深刻な疑問が呈されている。操縦員の誤認や地上部隊の誤報が原因らしい。
 高度なAIを搭載し自律行動するものもあるが、ほとんどは遥か彼方のアメリカ本土の基地から衛星を介して操作される。番組でも映像で紹介されていたが、変わり種としてはビッグドッグと呼ばれる四足歩行ロボットが開発中だ。牛のような体躯で、不整地での物資輸送に供される。
 番組のイシューは米本土の操縦者に当てられていた。モニターを見ながらの操作である。傍目にはテレビゲームのようだ。マイカーで基地に出勤し“戦闘”を行い、任務後ハンバーガーショップに立ち寄り、子供のサッカーの試合を観戦して帰宅する。このとてつもない日常と非日常の悪しきコラボレーション。疑問を抱き、精神を病み、退役する操縦者が後を絶たない。さらに、モニターに克明に映し出される殺傷場面。意外なことに、現地の地上軍兵士よりも心的外傷後ストレス障害に陥る確率は高いという。  ※朝日
 技術的ハードルは極めて高いものの、ロボットの歩兵を開発する動きもある。「人工の兵士」だ。地上戦では歩兵が欠かせないからだ。ゆくゆくは戦闘用アンドロイドが視野に入ってくるかもしれない。
 90年代以降、急速な技術革新の中でアメリカ、欧州諸国、中国、イスラエル、シンガポールなど世界数十カ国で、『ロボット戦争』への取り組みが現に進行している。
 1対1の果たし合いから、集団的戦闘、そして総力戦へ。兵器の開発に踵を接して戦争は変化してきた。もしもロボット兵器が主流になれば、間違いなく戦争は相貌を一変する。第一、戦域は地球規模に広がる。操作が行われる米本土の基地も、敵にとっては紛れもない戦場だ。テロ攻撃があるやもしれず、敵方の無人機が飛来するかもしれない。また、勝敗はどのように判じられるのか。ロボット兵器の損害の多寡をもってするのか。“生身の”兵士は残っているのに。あるいは領土の争奪という古典的レベルに先祖返りするのであろうか。さらには気がついてみれば、技術競争に収斂してしまうのか。
 愚考を巡らすに、次のようなフェーズを進むのではなかろうか。
  ① 人と人との戦い(双方がロボットを所有しないなら。もちろん武器は使う)
  ② ロボットと人との戦い(ロボットを持てる側と、持たざる側)
  ③ ロボット同士の戦い(持たざる側がきっと持つに至る)
  ④ ロボットと人の戦い(ロボットを失った側は人的リソースを総動員する)
  ⑤ 人と人との戦い(④ でおそらくロボットは敗退するだろう)
 ⑤ フェーズは希望的観測に過ぎないとの反論もあろうが、“創造主”たる人間の力は決して侮れまい。つまりは、元に戻る。ここが、核戦争とまったく違う。核の場合、最終戦争となって二度と戦争は起こらない(起こせない)からだ。だが、じゃあ初めからやるなよという愚かさは甲乙つけがたい。これでは、ウロボロスそのものではないか。いかに巳年とはいえ、洒落にもならない。 □


言霊

2013年09月26日 | エッセー

 前回の啖呵売からのつながりであろうか、サザンの「愛の言霊」が浮かんでならぬ。

 愛の言霊 ~Spiritual Message~ (作詞・作曲:桑田佳祐)

  〽生まれく叙情詩(セリフ)とは 蒼き星の挿話
   夏の旋律(シラベ)とは 愛の言霊

   宴はヤーレンソーラン
   呑めど What Cha Cha
   閻魔堂は 闇や 宵や宵や
   新盆にゃ丸い丸い月も酔っちゃって
   由比ヶ浜 鍵屋 たまや

   童(ワ)っぱラッパ 忘れ得ぬ父よ母よ
   浮き世の侘しさよ
   童っぱラッパ 名も無い花のために
   カゴメやカゴメ 時間よ止まれ
   エンヤコーラ!!

   生まれく叙情詩とは 蒼き星の挿話
   夏の旋律とは 愛の言霊

   縁はヤーレンソーラン
   千代に What Cha Cha
   釈迦堂も 闇や 宵や宵や
   鳶が湘南浪漫 風に舞っちゃって
   縁の先ゃ 黄泉の国や

   童っぱラッパ 戦災(イクサワザワ)う人の
   涙か蝉しぐれ
   童っぱラッパ 祭り囃子が聴こえる
   遊べよ遊べ ここに幸あれ
   エンヤコーラ!! 〽

 indonesian Rap を参照すると、遥かな星の光は人の世の愚かさを教える宇宙から届く愛の言霊だ、とでもなろうか。または悠久の宇宙の営みに目を凝らす時、争いは止み生の宴がはじまる、であろうか。ともあれ逐語的な読み取りは不能であり、不要であろう。現代版の祝詞、符呪、マントラといえなくもない。歌詞全編が立ち入りを拒みつつ、それでも霊(タマ)の如く蠢く。しかも、鮮やかに。一曲すべてが啖呵売の口上のようでもある。作者の抜きん出た力量に圧倒されるばかりだ。稿者としてはサザン名曲中の筆頭に挙げたい。
 その力量とは、言葉遣いの巧みさである。例示すると、「宴はヤーレンソーラン」とは縁語であろう。「新盆にゃ丸い丸い月も」もそれか。「童っぱラッパ」「カゴメやカゴメ」など地口も多出する。
 地口といえば、舌切り雀から「着たきり雀」、「結構毛だらけ猫灰だらけ、おけつのまわりは糞だらけ」、「当たり前田のクラッカー」などがそうである。
 かてて加えて、内田 樹氏が透察したハイブリッドな歌唱(先月の本ブログ「南の風」で紹介した)。何と歌い掛けているのか、もう完全に日本語を超えている。まさに言霊である。
 そこで、言霊だ。
 先月発刊された中公新書「『言霊とは何か』──古代日本人の信仰を読み解く」が、滅法おもしろい。著者は佐佐木 隆氏。日本語史・古代文献学を専攻する学習院大学教授である。
 同書のまとめの部分を抄録する。
◇『万葉集』の実例は神を意識して用いられたものであり、「言霊」は神のことばがもつ威力だったのではないか。つまり、「言霊」は、辞書の類で説明されているような、人間の発することばにもともとそなわる威力を意味するものではなかったと考えられる。
 ことばにはもともと霊力がやどっており、したがって人間がことばを駆使して作った和歌・祝詞・諺などにも不思議なことばの威力がそなわっているというのは、近世の国粋主義者が理念的に作り上げた思想である。だから、「言霊信仰」というのは、古代日本人がいだいていた考えではなく、国粋主義者たちのいだいていた考えである。◇
 言霊とは神威であった。人間の発語には威力はない。だから、
◇『古事記』『日本書紀』『風土記』の神話・伝説や『万葉集』の歌を見る限り、ことばの威力が発揮され、それが現実に影響を与えるのは、神がその霊力を用いる場合である。人間の発したことばが威力を発揮したと見える話では、人間の発したことばを聞き入れた神がその霊力を発揮して現実に影響を与える、というかたちになっているのが普通である。◇(◇部分は上掲書から引用、以下同様)
 と解さなくてはならない。言語史、古代文献の該博に基づいたリニアな理路である。大方は「国粋主義者たちの」作為に翻弄されていたのではないだろうか。
 してみると、宇宙から降(フ)り下(クダ)るとする“Spiritual Message”『愛の言霊』は極めてリーズナブルといえる。世の大勢に染まらず、高度な学問的知見に合致するからだ。
 さらに、「由比ヶ浜」「湘南」に注目したい。これも内田 樹氏が『国民歌謡』の条件に上げた「国土を祝福する歌謡」との適格性を満たしている。「国見」である。再び、上掲書を引く。
◇国見(クニミ)とは、おもに天皇が山や丘などの高い場所に立ち、自分が支配する国土を眺めわたしてそのすばらしさを讃め称える、という儀礼である。その国見の際に国土を讃美することを、特に「国讃め」と呼ぶことがある。国見・国讃めは、支配者の発することばの適否が問われる、きわめて重要な儀礼だった。
 天皇にとって、国見・国讃めを適切に行うことができないというのは、支配者としての資格がないということを意味する。天皇の発したことばが国讃めのそれとして適切なものであれば、神はその天皇の支配を認め、事を順調に進行させてくれる。逆に、それが不適切なものであれば、神はその天皇の支配をただちに不可能にするのである。◇
 いわゆる「ご当地ソング」は、国見・国讃めという太古よりの伝統に連なるものといえる。実におもしろい。
 おもしろついでに、上掲書からもう一つ。
 古代、「言」はもともと「事」と同じ語だったという。
◇「ことば」は、実例は少ないものの、既に『万葉集』の歌に見える古い語である。「言」に「端」がついてできた複合語であり、もともと口先だけの巧みな表現や、真実味のない一般的な表現をさす語として使われたという。◇
 事実の端くれが「ことば」だったのか。著者は、すでに原始的なアニミズムを脱していたと語る。すべてに霊力を認めそれらに支配されるとする段階を、少なくとも「ことば」は超えていたという。便利この上ないことばを獲得した人類にとっては、ことばそれ自体がアニミズムの対象となったに違いない。しかし、古代文献学の泰斗は如上の洞見を語る。だから、「言霊は神に属するものだというのが、古代日本人の考えかただったようである」と締めくくる。だとすれば、古代的リアリズムといえなくもない。
  今また、ことばが「言・端」になりつつある。「蒼き星」はエピソード(「挿話」)だけで埋まりそうだ。聴きたいのはメインテーマ(「夏の旋律」)、「愛の言霊」だ。 □


買って頂戴よ。どう?

2013年09月24日 | エッセー

 近ごろ嵌まっている番組がある。タイミングが合えば、必ず見る。いや、見入ってしまう。「ジャパネットたかた テレビショッピング」だ。
 民放のくせにCMがない。自社を紹介するCMらしきものはあるが、番組の性格上ほとんどシームレスだ。シリアスなドラマが突如一転して青空に洗濯物がはためき、新製品の洗剤が軽やかなBGMに乗って登場する。ほとんどがその類いだ。否が応でも、截然たるシームが入らざるを得ない。そこにいくと、これは実に類稀な番組といえる。
 稿者に買う気はまったくない。だから、ショッピングではない。アミュージングである。
 「みなさん!」と、決めどこで何度も呼びかける。先般は「命を守る行動を」と『特別警報』を出しても効き目がなかったと、報道は伝える。寄り添っていないからだ。難しく言えば、メタメッセージがない。“社長”の「みなさん!」は、明らかにメタメッセージである。いつも、「こんないい商品を伝えないわけにはいかない」という情熱に溢れている。
 時々滲み出る長崎訛り。これもいい。本社は長崎、オフィスは東京、配送センターは真ん中の愛知。なんとも気宇壮大、日本列島を跨ぐ布陣である。全国規模になった今は枠を広げているそうだが、はじめは長崎出身者だけを採用していたらしい。ローカリズムに涙してしまう。おそらくその文脈であろう。創業25周年と重なった3・11直後に行ったテレビショッピング。その収益と義援金5億、それに電池を1万セット被災地に贈っている。
 まず、商品をいろいろに紹介する。誉めそやす。ほかの品物と比較する場面はあっても、番組は褒め言葉に満ち満ちている。ほかの番組とは違い、ここだけは言祝ぎで満載だ。こないだは事典・辞書を180も収めた電子辞書を取り上げていた。「みなさん!」こんなにいっぱい辞書が入っているんです、と。一つの言葉を引いて、収蔵されているこの辞書ではこれだけ、別の収蔵辞書を使えばもっとたくさんの意味が表示されますとやっていた。だったら後の辞書だけで事は済むのではないか。収蔵する辞書数ではなくコンテンツの収蔵数が大事だろうと、突っ込みを入れる間もなく価格の話に移っていた。
 さて、その『御提供価格』だ。ここに醍醐味がある。なによりも、安い。加えて、年間40数億円という金利手数料の全額負担。さらに、下取りでもっと安くなる。
 ところが、これでは終わらない。付属品だ。デジカメであれば、プリンターも一緒にしましょう。「今夜、12時まで」、「期間限定」。さらにメモリを1枚、2枚と付け加えていく。色とりどりのケースもと、どんどん付加価値が上がっていく。
 もうここまでくれば、お判りいただけるだろう。バナナの叩き売りだ。見入ってしまうのは、それである。小気味がよくて、テンポがあって、おまけにドラマ性がちょいと乗っかる。今様の啖呵売だ。
 大正初期に台湾バナナが到着したのが門司港。次は神戸に持って行くのだが、悪くなったものを早く捌きたい。そこで八百屋、露天商、的屋が、独特の口上を付けて売り始めた。当初は台を叩きはしなかったらしいが、想像するに「叩く」に値切る謂があることもあって後に演出されたのではないか。拍子もとれる。ともあれ、啖呵売の典型だ。
 基本は2人1組。ひとりがアシスタントで、口上に合いの手を入れて盛り上げ役も兼ねる。「まだ高い!」とやって、「もっと負けて」と突っ込む。値が下がったり、バナナの房が足されたりして商いが進む。
 バナナが大衆化した今では、大道芸として細々と生き残っているに過ぎない。しかし、「寅さん」の功績もあって注目されたこともあった。門司港には、「バナナの叩き売り発祥の地」の碑が建つ。
 バナナではないが、寅さんの啖呵売をひとつ。
 
「お安く負けちゃうよ。なぜこんなにお安い品物かと言うと、本来ならばこれ輸出する品物ですよアンタ。なんで輸出が出来ないかというと、はっきり言っちゃおう! 今まで言わなかったんだ。わたくしが知っている東京は花の都、神田は六方堂という大きな本屋さんが、僅か百五十万円の税金で泣きの涙で投げ出した品物! だからこんなに安い。本来ならば文部省選定、衛生博覧会ご指定、大変な品物だ、これ。これだけ安く売っちゃおう。英語の本なんか見てごらんなさいよ。英語、ずーっと書いてある。 最もわかり易いよ、この英語見てごらん。あたしだって読める。NHKにマッカーサー、メンソレタームにDDT。こういう昔の古い英語から出てるんだから、買って頂戴よ。どう? はいっ! どうも有難うございました!」

 これほど流暢ではない。“社長”には確かに地口も、韻を踏むことも、掛詞もない。アナロジーを逐一検証しても無粋であろう。時代は違えど、要は啖呵だ。正面向かって切り込んでいく威勢のよさだ。手を替え品を替えたパフォーマンスはあり余るほどあるが、口上を表にした販売スタイルは絶えてない。“社長”は現代に失われた啖呵売を、新しい意匠で再現しているといえなくもない。それがあってか、買う気はないのに終いまで見てしまう。
 「本来ならば文部省選定、衛生博覧会ご指定、大変な品物だ」とは、たくさんの本を一まとめにしての叩き売りだ。「英語の本なんか見てごらんなさいよ。英語、ずーっと書いてある。 最もわかり易いよ、この英語見てごらん。あたしだって読める。NHKにマッカーサー、メンソレタームにDDT」とくれば、「大変な品物」がなんだか電子辞書に聞こえてくるから、不思議だ。
「あたしだって読める。AKBにマクドナルド、メンタルヘルスにTPP」
「さあ、買った!」
「買わないよ」 □


それは「義務」だろ!

2013年09月18日 | エッセー

 先日の朝日新聞で集団的自衛権について、軍事ジャーナリストの田岡俊次氏がインタビューに応えている。タイトルは、「タカ派の平和ぼけ 危険」。要旨は以下の通り。

──米国は、集団的自衛権の行使容認に熱心な安倍晋三首相を評価していると思いますか。
 「今の米国の国家目標は財政再建と輸出倍増だ。そのために、巨大市場を抱える中国を封じ込めるのではなく、抱き込もうと努力している。行使容認は中国の猜疑心を招きかねない。米国は日本の動きに冷淡な態度を示さざるを得ないだろう。」
──歴代政権は「行使できない」という立場です。
 「そう解釈してきたのは、合憲性を訴えるためだ。米国から海外派遣を迫られた時に、逃げる理屈としても都合がよかった」「集団的自衛権が認められていないから、といえば圧力をそらせる。それを信じた一部の米国人が『集団的自衛権を認めてくれ』と言い、一部の日本人がそう思いこんだ」
──首相は安全保障環境の悪化を指摘しています。
 「冷戦時代のソ連の脅威に比べればましだ。北朝鮮が核を使う確率は低い。核を持っているのは攻撃を受けないため。自分から使えば米国や韓国の反撃でつぶされるから、一応抑止はきいている」
──中国はどうですか。
 「中国が尖閣諸島の領有権を主張しながらも『棚上げでいい』と言うのは、日本の実効支配を認めるに等しい。互恵関係回復に妥当な落としどころだ。安全保障の要諦は敵を減らすことだ。敵になりそうな相手はなんとか中立にすることが大切で、あえて敵を作るのは愚の骨頂だ。タカ派の平和ぼけは本当に危ない」

 「安全保障の要諦は敵を減らすことだ。あえて敵を作るのは愚の骨頂だ」とは、本質を射貫いた箴言ではないか。
  「ハト派の平和ぼけ」は、つとに聞く。平和が続いて、軍事に無関心になることだ。その逆手をとって「タカ派の平和ぼけ」とは平和が続いて、軍事に無神経になることをいう。どちらも知的に劣化している。巧い物言いだ。
  再度になるが、内田 樹氏の透察を引きたい。
◇集団的自衛権というのは、わが国のような軍事的小国には「現実的には」認められていない権利である。行使できるのは「超大国」だけである。平たく言えば「よその喧嘩を買って出る」権利ということである。
  同盟国が第三国に武力侵略されたら、助っ人する「義務」はある。でも、助っ人にかけつける「権利」などというものは、常識的に考えてありえない。
  米ソの東西冷戦構造の中において、それぞれNATOとワルシャワ条約機構という集団的自衛のための共同防衛体制を構築した。だが、これらの地域機関が介入するためには国連憲章上は「安全保障理事会による事前の許可」が必要とされる。安保理の許可がなくても共同防衛を行う法的根拠を確保するために集団的自衛権が国連憲章に明記されることになった。要するに、超大国が自分の支配圏内で起きた紛争について武力介入する権利のことである。平たく言えば、「シマうちでの反抗的な動きを潰す」権利なのである。他国の国家主権を脅かす権利を超軍事大国にだけ賦与するという、国際法上でも、倫理的にも、きわめて問題の多い法概念だと私は理解している。
 だから、どうして、日本がこのような権利を行使すべきだと橋下徹や安倍晋三が考えるに至ったのか、私にはその理由がよく理解できない。だって、日本は例外的な軍事大国なんかじゃないからである。だいたい「シマ」がない。
  日本がアメリカに対して集団的自衛権を発動する場合は二つしか考えられない。ひとつは、アメリカの民衆が「日本のくびきからアメリカを解放せよ」と言って、「日本の傀儡政権」であるホワイトハウスにおしかけたときに、それを潰しにかかるという場合である。でも、たぶんそういうことにはならないと思う。
  もうひとつはロシアや中国や北朝鮮やイランやキューバやニカラグアがある日アメリカに武力侵攻してきて、カリフォルニアとかテキサスが占領されてしまったという場合である。この場合、日本は「権利」ではなく、日米安保条約第五条に規定された「義務」の履行として、アメリカ出兵に法的根拠が与えられるので、集団的自衛権を権原に求める必要はない。
  となると、いったい橋下代表は「どういうケース」を想定して、集団的自衛権のことを言っているのかがわからなくなる。新聞によると「自衛隊がイラクやアフガニスタンで米国と共同行動をすることがねらい」と書いてある。なるほど。それなら、わからないでもない。先行事例としては、ベトナム戦争での米国の軍事作戦へのオーストラリア、ニュージーランド、韓国の派兵がある。この戦争も「米国の傀儡政権からの支援要請に応えて、国内の反政府=反米勢力を制圧する」ためのものであった。
  だが、ご存じのとおり、ベトナム戦争にコミットしたことでアメリカは多くのものを失った。「ベトナムの泥沼に入り込むのを自制したアメリカ」は「今のアメリカ」よりも軍事的にも経済的にも倫理的にも国際社会で「圧倒的な優位性」を保っていただろうということは想像できる。その点でいうと、アメリカのベトナムでの集団的自衛権の行使については「よしたほうがいいぜ」と言ってあげるのが友邦のなすべきことだったと私は思っている。
  アメリカと心中したいというのが「集団的自衛権の行使」を言い立てている人々の抑圧された欲望であるという可能性は決して低くない。小泉純一郎はそうだった。
安倍晋三も石原慎太郎もたぶんそうだと思う。きっと橋下徹もそうなのだろう。◇(12年9月「内田 樹の研究室」から)
  3点に要約できよう。
1 〓集団的自衛権とは「シマうちでの反抗的な動きを潰す」権利である。「わが国のような軍事的小国には「現実的には」認められていない」〓
  「権利」とは軍事的超大国の口実である。ところが、本邦は軍事的大国ではない。有り体には集団的自衛「権」ではなく、「集団的自衛『義務』」である。権利と義務は表裏だ。セットである。子供でも解る。なのに権利ばかりを主張するのは、義務を忘れているのか。いや、隠された意図があるにちがいない。 
2 〓米国との共同行動がねらい。もしも「ベトナム戦の泥沼に入り込むのを自制したアメリカ」は「今のアメリカ」よりも国際社会で「圧倒的な優位性」を保っていただろう。だから、「よしたほうがいいぜ」と言ってあげるのが友邦のなすべきことだった。〓
  アフガン、イラク然りだ。今度はブッシュの尻拭いに登場したはずのオバマが、シリアでコケそうになった。救ってくれたのは、なんとロシア!  本物の友邦は意外なところにいたのだ。まことに、苦難の時こそ真の友情は光る。
  関連するが、〓(アメリカが武力侵攻された場合)日本は「権利」ではなく、安保条約第五条に規定された「義務」の履行として、アメリカ出兵に法的根拠が与えられるので、集団的自衛権を権原に求める必要はない。〓
  いま取り沙汰される集団的自衛権行使のケースは二つだ。アメリカに向かうノースコリアのミサイルを撃ち落とす場合。朝日は技術的にあり得ないとする。宜なる哉。もう一つは、自衛艦の近くにいる米艦が攻撃を受けた場合。朝日は集団的自衛権の行使を持ち出すまでもなく、個別の自衛権として対処できるとする。これも尤もだ。
 ともあれ、さまざまなケーススタディは2 に包摂される。情は人の為にならない(「為ならず」ではない)と、肝に銘ずべきである。
3 〓「アメリカと心中したいという」「抑圧された欲望」〓
  内田氏は「可能性は決して低くない」というが、これこそ肝ではないか。否応なく想起されるのは白井 聡氏の「永続敗戦論」だ。7月の拙稿『永続敗戦』をはじめ、何度か触れた。同書にこうある。
◇米国に対しては敗戦によって成立した従属構造を際限なく認めることによりそれを永続化させる一方で、その代償行為として中国をはじめとするアジアに対しては敗北の事実を絶対に認めようとしない。このような「敗北の否認」を持続させるためには、ますます米国に臣従しなければならない。隷従が否認を支え、否認が隷従の代償となる。◇
 これしかあるまい。でなければ、所与の地政学を“無神経に”ネグってまでアメリカの尖兵たろうとするはずはない。「義務」を「権利」と言い包めてまで、「米国に臣従」はしないだろう。こんな修羅闘諍の習いに身を委ねていて、果たして未来は明るいだろうか。「タカ派の平和ぼけ」に潜む「敗北の否認」という隠された意図を見逃してはならない。 □


割り切れすぎて……

2013年09月16日 | エッセー

 あまりにも割り切れすぎて、なんだか割り切れない話だ。

 「日本大復活の真相」  
 三橋貴明(経済評論家)著、株式会社あさ出版、本年6月刊。

 氏は、日本をデフレのど壺に嵌めた“罪人”として9者を槍玉に挙げる。大骨だけを抜き書きしてみる。

❶ 小泉純一郎の罪
a. 構造改革という名のインフレ対策を決行した
b. デフレを加速させた張本人
c. 「アメリカ企業のための日本」のモデルケースを作った
❷ 竹中平蔵の罪
a. 「プライマリーバランスの黒字化」「自己責任論」を世に広めた             
b. 財政出動を嫌い、デフレ対策が片翼に留まり、結果的にデフレを長期化させた
──中央政府の自国通貨建て負債(国の借金)など、金額が1000兆円だろうが1京円だろうが、インフレ率さえ無視すれば、問題視するほうがおかしいのだ。そして、日本政府の負債は「100%日本円建て」だ。
 (デフレ対策の)代表的な政策を一つ上げておくと、もちろん「公共事業」である。量的緩和プラス公共事業、これがデフレ脱却の王道であり、そしてアベノミクスの要でもある。
 小泉政権は、デフレ脱却のための「解決策の一つ」である量的緩和は実施したものの、同時に公共事業は削り続けてしまった。デフレ脱却には金融政策と財政政策の両翼が必要であるにもかかわらず、片翼によるデフレ脱却を敢行した。
❸ 鳩山由紀夫の罪
a. 麻生政権の「正しいデフレ対策」を振り出しに戻した
b. 対米関係をドン底まで悪化させた
──日本は先進国のなかでも大衆の知的レベルが高いと筆者は確信しているが、それでも「経世済民」を理解するには至らず、経済を家計簿や企業経営にたとえられると、そのまま信じてしまう。
 子ども手当に高校授業料無償化、高速道路無料化、農家の戸別補償など。民主党のマニフェストに並んでいた政策は、ことごとく「雇用=所得」を創出しない政府支出だった。すなわち、バラマキ政策だ。
❹ 菅直人の罪
a.国の将来より市民活動家としての悲願を優先
b.東日本大震災後の復興を致命的に遅らせた
c.消費税増税、TPP参加の道筋を作った
──史上最低の首相(鳩山)、史上最悪の首相(菅)と続いたあの時代のことを、日本国民は決して忘れるべきではない。「政治など、誰がやっても同じだ」などと、以前の日本国民は適当なことを言っていたが、ようやく理解できただろう。「誰がやっても同じ」などと、適当な扱いをしても構わないほど、政治とは軽くはないのだ。
❺ 野田佳彦の罪
a.ISD条項など、中身も知らないままTPPを推進
b.間違った「財政悪化デフレ論」を吹聴した
c.ビジョンなき「職業政治家」
──「社会保障を安定させるため」との名目で、消費税増税をぶち上げた。デフレ期に増税したら、国民の所得が小さくなり税収も減る。税収減少とは財政の悪化であるわけだから、当たり前の話として社会保障は安定化しない。
 「国の借金が増えた」原因を公共事業に押しつけているが、国の借金すなわち政府の負債が増えたのは、税収不足を埋めるための赤字国債が発行され続けたためだ。公共事業の財源である建設国債は、05年から10年まではまったく増えてはいない。公共事業を削り続けていた以上、当然だ。
❻ 橋下徹の罪
a.国家をバラバラにする道州制を推進している
b.労働市場の自由化が「時給100円」時代を招く
c.文化、伝統を完全否定する個人主義者ぶり
──新自由主義者たちのやり口はいつも同じだ。まず弁護士や企業経営者などをテレビに頻繁に出演させ、タレント化する、彼らを人気者に育てたあとで、どこかの市長に据え、最終的に国家の権力を握らせる。たとえば、サルコジ元フランス大統領と李明博元韓国大統領である。権力を握ったあとに新自由主義的な政策を国内でバリバリ推進していく。
 日本維新の会は政府を企業と同一視するため、彼らは企業経営のために必要とされるものを、中央政府に安易な形に持ち込もうとする。「企業にとっては当たり前のことを、なぜ国はしないのだ?」などと叫びながら。
 政府が「非効率部門だ」といって無闇に社会保障を切り下げようとするのは、主権者に損をさせる政策だ、だからこそ、美辞麗句ではなく真剣に経済、社会への影響を議論し、民主主義で決着を着けなければならない。「ムダだから、削るのです。当たり前でしょう」といった態度で議論してはならないのだ。
 道州制──産業が集まり、税収もたっぷりある都市部と、人口が日本最少の鳥取県と「市場競争」を繰り広げる際のルールを同一にして、本当にフェアなのか。まるで、ストロー級ボクサーとヘビー級ボクサーが、同じリングで殴り合いをするようなものではないのか。
❼ 日本銀行の罪
a.本格的なデフレ対策に乗り出さなかった
b.「人口減少デフレ論」等を、デフレ対策失敗の言い訳にした
c.奇妙なインフレ目標を定義した
──本来、リスクをとってお金を貸すのが銀行の仕事であるわけだが、現在の日本ではこれが機能していない。銀行は、とにかく国債が大好きである。
 アベノミクスによるデフレ脱却の手法は、「政府がお金を借り、それを財政出動(公共投資など)で使います。そうすれば、日銀が発行したお金が国民の所得として行きわたるでしょう」というものである。
 量的緩和はインフレ率を上げる政策、構造改革はインフレ率を抑制する政策であり、日銀は、「われわれはアクセルを踏むから、政府はブレーキを踏んでくれ」といい続けたわけである。
 日銀が言い訳をするがごとく持ち出してきたのが、「人口減少デフレ論」である。これは、そうはお目にかかれない。不思議な話としかいいようがない。生産年齢が減ったところで、需要はそう簡単には縮小しない。それに対し、生産年齢人口減少で供給能力は確実に落ちていく。需要に対し供給能力が落ち込む以上、デフレどころか、逆にインフレになり、物価は上昇していくのではないか? さらに世界には人口が減っている国が20力国以上あるのだが、そのほとんどが日本以上に早いペースで人口が減り続けている。しかし、デフレになっているのは唯一日本だけだ。
❽ 財務省の罪
a.デフレ期にも財政均衡を譲らず、デフレを深刻化させた
b.マスコミと癒着して増税を煽る卑怯な手口を使う
c.「外需を目指せ!」の一本槍で、税収の源である内需を見ない
──財務省の教義は「財政は均衡しなければならない」というものである。公共事業も社会保障も、「税収の範囲でやりなさい」という主張を譲ろうとしない。日本の財務省がこの種の新古典派経済学の教義に染まったのは、バブル崩壊後のことである。
 財政均衡はある「前提」がないと成り立たない。その前提とは、経済がインフレ基調で成長していっていることである。
 財政黒字そのものを目標にしてしまうと、緊縮財政をするしかなくなってしまう。増税しましょう、政府の支出を削りましょう、公共事業を削りましょう、公務員を減らしましょう。デフレ期にこんなことをしたら、国民の所得であるGDP縮小で税収が減り、結局のところ黒字化の目標を達成できなくなってしまう。
 なぜ、財務省は財政を悪化させる緊縮財政を強行するのか? 1つの仮説としては、財政悪化が増税を実施する理由作りになるからだ。
 トヨタがアメリカでモノを生産し、莫大な利益を上げたとしても、財務省は税金を1円もとることはできない。当たり前だが、アメリカ政府がトヨタの現地法人から税金をとる。日本国の税金は、日本国内の所得からしか徴収できない。
❾ マスコミの罪
a.悪辣な反自民、反安倍、反麻生キャンペーンを打った
b.「報道しない自由」を悪用した
c.TPPを農業の関税に矮小化した 

 いかがであろう。冒頭の「割り切れすぎて、割り切れない」に納得いただけたであろうか。三橋氏は、他の著作で次のようにも述べている。
〓日本の場合、日本銀行は日本政府の子会社である(日銀の株式の55%を日本政府が保有している)。日本銀行が日本国債を買い取ると、日本政府は「子会社の日銀からお金を借りた」形になる。親会社と子会社間のお金の貸し借りや利払いは、連結決算時に相殺されてしまう。いわば「同一人物の右手が左手にお金を貸した」のと同じ扱いになり、実質的な返済負担や利払い負担は発生しないのだ。「政府ばかり、ずるい!」と思われた方がいるかもしれない。国家の仕組みとはそもそもそういうものなのだ)無論、中央銀行が政府発行の国債を大量に買い取ると、マネタリーベース(日銀が供給する通貨)、マネーストック(金融機関から経済全体に供給されている通貨の総量)が拡大し、デフレギャップが埋まることでインフレ(物価の継続的上昇)率が上昇を始める。上記の「政府の資金調達方法」は、現在の日本がデフレに苦しめられているからこそ可能なのだ。「どんな国でも、いつでも」可能という話ではない。〓
 「TPP亡国論」が話題を呼んだ中野剛志氏がメンターと仰ぐ人物である。袈裟懸けのような凄味を覚えるのは確かだ。
 ❷ のa. は、“ブレイン”の功罪について認識を新たにさせられる。
  ❸ ❹、特に❹は、稿者と大いに共鳴する。「皆の衆も悪い」。c.は忘れられがちだが、まるで現政権の露払いである。野党が与党になって、野党(=次の与党)のためにお膳立てをする。なんと、バカな! 疫病・貧乏・死、3点セットの厄神にちがいない。
 ❻ は、快哉を叫びたい。考えてみれば、サルコジの浪花版だ。「政府を企業と同一視」は、鋭い。ここからボタンの掛け違いは始まる。
 唐突だが、「3世紀の危機」を迎えたローマ帝国はどうしたか。属州の拡大が行き詰まり、拡大再生産体制が維持できなくなって経済成長が止まった。当然、社会不安が増す。そこに登場したディオクレティアヌス帝は「ドミナートゥス」、つまり専制君主制を敷いた。ここにローマ帝国伝統の「共和制」が終焉を余儀なくされ、最大の美質であり禁忌であったシステムが破綻した。ナチスも然り。太古より、経済危機は経済以上に国そのものを危機に落とす。『強がり』が強かった例しはないのだ。
 ❼ のb.は、藻谷浩介氏の「デフレの正体」とはどうなのだろう? 悩ましいところだ。
 ❽ のトヨタの件(クダリ)は、内田 樹氏の「壊れゆく日本という国」と通底する(本年5月、本ブログ「国民国家の解体」で紹介した)。

 全体の肝は次だ。
〓「経世済民」の意味は、民を救うために世を統べるということだ。平たくいえば、国民が豊かになる政策、国民の所得を増やすための政策を打つことが経済の目的なのである。
 デフレ期の政府は、借金を増やすことが「経世済民」という目的を達成するうえで正しい選択なのである。デフレ期にはおおいに借金し、国民の所得を増やすために使うことが、政府の役割なのである。
 現在の日本に必要なのは、プライマリーバランスの黒字化などではない。政府の負債と投資(公共投資)の拡大だ。企業がお金を使わない以上、政府が使うしかない。「そんなことをしたらインフレになる!」と反駁する人が少なくないが、今はデフレ対策の話をしているのだ。〓
 「企業がお金を使わない以上、政府が使うしかない」。これが氏の論攷の要だ。政府は営利団体(=企業)ではない。「経世済民」のために存在する。だから、次のような大胆不敵な理路に至る。
〓財政赤字や財政黒字というのは、単年度のフローの話、つまりは所得の話だ。それに対し、国債残高800兆円は、負債の残高であるわけだから、ストックの話になる。「赤字」という言葉が持つおどろおどろしい印象を利用し、ストックとフローを混同するという印象操作をやっていたのである。さらに、「国の借金」というフレーズ。国債とは、政府が国内の金融機関などから借りたお金だ。当たり前の話として、「国の借金」ではなく「政府の負債」というべきなのだ。ところが、財務省はいまだに「国の借金」と呼んでいる。さらに、「国の借金」を人口で割り、「国民1人あたり800万円の借金」などとアピールしてくる。これまた統計的に間違ったフレーズだ。何しろ、国民は国にお金を貸しているほうなのである。〓
 それにつけても拙稿が引っ掛かる。本年2月の『アベノミクス考』である。稿者一人が悩んでも、九牛の一毛どころか億牛の一毛である。だがタックスペイヤーのはしくれであるし、国債の“貸し方”の一人でもある。じっくり悩んで損はなかろう。 □


戯歌

2013年09月14日 | エッセー

 

  〽何気なく観たコマーシャルで
   ビッグさんが“Hey Jude”を歌ってた
    御本人は悦に入ってるのに
   正直ちっとも上手くない 

   発音がネイティヴじゃない
   まるで英語をカタカナで
   唄ってるようにしか聞こえない
   何でそうなっちゃうの? 

   「最高!」なんて決めてるけど
    それって古臭くはないか
   ビッグだと自分で宣う人は…自己陶酔(narcist)
   陽鳥ビールかな? 東雲ビールかな? 
   やっぱり自分で飲んで決めよう 


   国民歌謡の条件を
    思想家の先生が語ってた
    先ずは全方位的であること
   異文化とのハイブリッド

   国土を祝福する歌
   これが一番大切だと
   でもビッグさんは皆当たらない…残念(too bad )
   来日に合わせて一稼ぎですか? 
   フリークが付いていくだけ〽 

 

※参照先……8月8日付本ブログ「南の風」 
  お粗末。 □


甘い茄子

2013年09月11日 | エッセー

 その娘(コ)は、嫌いな人でも食べられる甘い茄子をつくりたいといった。
 ビルの屋上が菜園になっている。異様な景観である。そこで栽培がはじまった。専門家に手ほどきを受け、慣れない手つきで鍬を振るう。でき上がった苗床に、魚粉を混ぜた土を加える。甘くするためだ。そして特選の苗を植える。強風によって苗が枯れたこともあったが、生き残った苗をビニールで覆い挑戦を続けた。
 五か月を迎えるころ、茄子は稔った。
 いよいよ、茄子嫌いと対決。高名な男優だ。天麩羅を、しぶしぶ口に入れる。咀嚼している。そして、判定。……彼は食べられると応じた。スタジオに歓声が上がり、番組はきれいなエンディングを迎えた。

 捻くれ者のぼくは、ふと考える。
 茄子嫌いでも食べられる甘い茄子とは、一体何だろう。それは茄子ではないのではないか。甘い山葵が山葵ではないように。
 世のすべての茄子が如上の品種になるなら別だが、彼(カ)の茄子嫌いはまた元の木阿弥になるにちがいない。子供が一番嫌いな野菜は茄子だそうだ。きっと彼も子供の域を脱していないのだろう。
 嫌いな者は置いてきぼりにしておけばいい。嫁に食わせないついでに、彼らにも食わせないだけのことだ。秋鯖と同様、天下の美味を生涯知らないで可哀想だけれど。

 美味いと感じるのは、たいがい甘い。甘(うま)い、とも書く。「熟む」が形容詞化したともいう。人類は誕生より甘味と疎遠だったからかもしれない。確かに秋茄子はアミノ酸や糖質が増える。しかしそればかりではあるまい。
 旬、ではないか。
 食べごろ、出盛りを、こういう。季節に裏打ちされた食材の絶頂期である。
 平安期、臣下から政務の奏上を受けた天皇が開いた宴を「旬」といった。四月に扇、十月には鮎の稚魚が下賜された。そこから転じた。季節に加え、権威が裏打ちされたといえなくもない。だから、否も応もなく美味なのである。権威といって得心がいかねば、集団的味覚幻想とでもいおうか。
 あるいは調理の助けを借りずとも、時機を得て至極凡庸な食材が俄に上質の味覚へ変貌する。その刹那のメタモルフォーゼに、人は酔うのかもしれない。
 今、野菜からは季節が失せた。魚介の大半はまだサンクチュアリにいるが、これとて当てにはならない。権威は、愚にも付かぬグルメ・レポーターが僭称している。旬の類稀は削がれ、辛うじて甘味のみが残ったのか。甘い茄子に至る道理であろうか。

 振り返ると、人にも旬がある。時機と巡り合い、数多の喝采があり、数段の高みへするすると駆け上がる。そこで、何を紡ぐか。どう華を開くか。畢生の見せ場だ。茄子づくりに挑んだあの娘(コ)も、今が旬であろう。
 単純な事実だが、人の旬は幾度もない。 □


エピゴーネンのつぶやき

2013年09月05日 | エッセー

  〽何気なく観たニュースで
   お隣の人が怒ってた
    今までどんなに対話(はな)しても
   それぞれの主張は変わらない〽 (桑田佳祐作詞「ピースとハイライト」)

 ではなく、

  〽何気なく観たニュースで
   筑波大の先生が怒ってた
    今までどんなに対話(はな)しても
   それぞれの主張は変わらない〽
 
 である。
 4日の朝日新聞に「カタカナ語の増殖」と題するオピニオンが載った。その中に「『言語法』で日本語を守れ」と、勇ましい「主張」をぶっ放す御仁がいた。「日本語防衛論」を掲げる津田幸男筑波大教授である。
 先生は「何気なく観たニュースで」(多分)、全柔連の新会長が「ガバナンス」と発言したことにえらく「怒ってた」。「日本のよき伝統を守るはずの、柔道界の最高責任者なら、日本語に言い換えるべきです」と。
 先生によれば『氾濫』の元凶は、一に商品名や宣伝に多用する企業。二に全国に撒き散らす官公庁。三は翻訳、言い換えをすべきなのに怠慢な知識人や学者。四には垂れ流すマスコミ(おっと失礼。先生は「報道機関」と仰っている)だそうだ。なんとも凄まじい。
 ついには「外来生物法」で外来種をディフェンスしているように、『日本語保護法』をつくってカタカナ語の「野放し」に対処せよ、と呼ばわっていらっしゃる。これには、参った。すげぇー先生だ。『言語“攘夷”論』とでもいうべきか。水戸学の泰斗、藤田東湖の現代版であろうか。
 さて、稿者もその「野放し」の片割れだ。理由は簡単、ディレッタントゆえのペダンティズムである。衒ってなければ化けの皮が剥がれるからだ。カミングアウトすれば、そういうことだ。
 ところで、先月の本ブログ「漢字に乗って」を参照したい。引用した今野真二氏著「漢字からみた日本語の歴史」で、著者の慧眼が見抜いた二つの特性。
 「漢字だけで書いてみたかった」心性と、「漢字をある程度使って日本語を書いた方がフォーマルに感じる」公性。
 これらは「辺境国家」ゆえではないか、と稿者は述べた。漢字を使うことに『かっこよさ』を感じる心性と、「フォーマルに感じる」公性。古(イニシエ)より底流する漢字を使うことへのモチベーションは、『中華』へのアプローチを抜きにしては考えられない。そう述べた。さらに今はグローバリゼーションで、中華が欧米にシフトしているのではないかとも愚考を記した。
 「漢字の向こうに中国語がみえる」の伝でいけば、「カタカナの向こうに英語がみえる」といえる。当今、カタカナ語を使うことに『かっこよさ』を感じる心性と、「フォーマルに感じる」公性が生まれているのだ。特に稿者のごときエピゴーネンはそうだ。芝居だって、大向こうで訳の解らない手合いが騒がねば盛り上がりはしない。津田先生には悪いが、日本が辺境であり続ける限りこの構造は揺るがない。

 カタカナ語の是非について、紙面にはほかにお二人。さても「それぞれの主張は変わらない」。万が一の話だが、件(クダン)の『保護法』が日の目を見たらどうしよう。真っ先にこのブログを畳んでどこかへとんずらせねばならぬ(でなければ、お縄だ)。かといって、行く当てはない。なにせカタカナ語が通じる国は、またも津田先生には悪いが、世界広しといえども本邦一つ限(キ)りだ。 □


ひとりビートルズ

2013年09月04日 | エッセー

 この見出しはいい。

   圧巻「ひとりビートルズ」

 ポール・マッカートニーのワールドツアー「アウト・ゼアー」(米インディアナポリス)をレポートする朝日新聞の記事だ(今月3日付)。

〓トレードマークのバイオリンベースを抱えて現れたポールは、1曲目に「エイト・デイズ・ア・ウィーク」をぶつけた。いきなり、初期ビートルズのロックンロールナンバー。・・・
 今回のツアーでは驚くほど多くのビートルズ曲を演奏する。「オール・マイ・ラビング」など初期のロックンロールから、後期の「ヘイ・ジュード」「レット・イット・ビー」まで。出し惜しみすることなく、ファンの気持ちをはずさない。・・・
 もしも再結成があったのなら、ジョン・レノンが歌っていたであろう曲。ジョージ・ハリソンに捧げて「サムシング」も歌った。〓(抄録)

 こんなことを伝えられた日には、11月の来日公演が気が気ではなくなる。とりわけ以下のくだり、記者自身の滾りにこちらも気が立ってしまう。

〓すぐれた音楽は、人の記憶と結びつく。記憶を強化し、浄化し、救済する。ビートルズが史上最高のロックバンドだという意味は、そうした曲を、だれよりも多く残したから。・・・(解散の後・引用者註)二度と再び相まみえることのなかった途方もないバンド。今、ポールが、一人決然と、再現しようとしてくれている。〓

 「ひとりビートルズ」とは、「一人決然と、再現しよう」との意志を表したものだ。だから、巧い。
 「すぐれた音楽は、人の記憶と結びつく。記憶を強化し、浄化し、救済する」とは卓見ではなかろうか。団塊の世代にとっては、好悪に限らず「記憶と結びつく」音楽だ。最も多感な時期の始終に、偶会と永訣を二つながら体験した。世代的僥倖というほかない。
 記憶を「浄化」するとは、何だろう。三木 清がいう「すべて過ぎ去ったものは感傷的に美しい」(人生論ノート)からなのであろうか。そうではあるまい。浄化とは醇化の謂ではなかろうか。
 一世風靡などという底の浅いものではなく、奇しくもオノ・ヨーコが言った「社会現象」を起こし時代を創った音楽は歴史のメルクマールであり座標軸でもある。だから「人の記憶」は定位され、残余は取り払われて、いつでも蘇る。「あの時、流れていた曲」ではなく、「あの曲を聴いたのは、あの時」である。
 さらに穿てば、「すぐれた音楽」はコメモレーションを生む。「偽造された共同的記憶」だ。内田 樹氏が世代論の有効性として認めた点である(12年6月本ブログ『世代幻想論』で触れた)。氏は「人間というのは、とても複雑で精妙で、主に幻想を主食とする生き物だ」(「ためらいの倫理学」から)と語る。同じ幻想を喰らう世代がアイデンティティをもたぬはずはなかろう。
 ただしビートルズに限り、優に数世代を跨ぐ。数世代は歴史の名に中(アタ)ろう。それにしても、なおポールは「アウト・ゼアー(OUT THERE)」と投げかける。古希を越えさらに向こうを見据えている、と捉えたい。

 稿者が使う机の抽斗、その奥の奥に、いま、ヤフオクドームのチケットが眠る。11年振り4度目の来日ライブ、初日だ。“Out There”ともいえるし、“Here,There and Everywhere”ともいえる。 □


最初で最後

2013年09月03日 | エッセー

 先日、四十年近く勤めた会社に退職願いを出した。定年までには少し間があるが、自分なりの極極卑小な『ヒデ型』を選択したつもりだ(07年5月、本ブログ「カズかヒデか」で述べた)。何にしても、このような申し出はこれが最初で、最後だ。
 養老孟司氏は語る。
◇働かないのは「自分に合った仕事を探しているから」という理由を挙げる人が一番多いという。これがおかしい。二十歳やそこらで自分なんかわかるはずがありません。中身は、空っぽなのです。仕事というのは、社会に空いた穴です。道に穴が空いていた。そのまま放っておくとみんなが転んで困るから、そこを埋めてみる。ともかく目の前の穴を埋める。それが仕事というものであって、自分に合った穴が空いているはずだなんてふざけたことを考えるんじゃない、と言いたくなります。最近は、穴を埋めるのではなく、地面の上に余計な山を作ることが仕事だと思っている人が多い。◇(新潮新書「超バカの壁」より)
 ちょいの間「目の前の穴を埋める」つもりが、ついつい穴から抜けそびれた。もとより「地面の上に余計な山を作る」などという起業マインドも才覚もなく、気がついたら事ここに至っていた次第である。
 意外なことに、アメリカには定年制がない。四十歳以上での年齢を理由にした解雇は連邦法で禁じられている。資本主義のメッカであっても、労働者に手厚いといえる。例外は軍人と警察官などの政府関係のみだ。だから、本人の依願や能力的理由による馘首以外は、生涯働きつづけることが可能だ。なにせ履歴書に年齢や生年月日を記入する欄はなく、尋ねることも御法度である。まことにリベラルといわざるをえない。
 しかしそのアメリカも建国以前には、植民地経営は多くの年季者が担った。イギリス本国などの貧困層や元受刑者が大量に送り込まれた。彼らは渡航費すらなく、それも引き換えに契約させられた。年季奉公は、住み込みで食料や日用品は支給されるものの給与はない。年季が明けるまでは軛を掛けられる。だから英語表記“indentured servitude”は「年季奴隷制」の謂になる。かつてはほとんどの国で合法化されていたが、今や先進国では絶えてない。本邦では花魁の例外を除くと、古来徒弟制度としてあったためスレイブとは意味合いが大いに異なる。
 定年と年季明けはちがう。大いに違う。本邦ではリーガル、イリーガルの異なりがある。もちろん給与の有る無しは天地を隔つ。だがそれにしても、一脈通ずるものがあるのではないか。
 そうだ! 解放感だ。後に寂寞のしじまは寄せるであろうが、きっとそれだ。軛が外れるのだ。だからといって野山を奔放に駆け回るほどの余力はあるまいが、気持ちなりとも満喫したい。アメリカン・スタイルではこうはいくまい。いわばみんなが『カズ型』を強いられる。むしろ、截然たる閾が外在するほうが自他ともの新陳代謝に資する。稿者の場合、『ヒデ型』との合わせ技に近いともいえる。などと手前勝手で小利口な理屈をつけて、最初で最後の御願いを書いた。
 
 その申し出を差し出す時、四十に近い星霜のあわいに起こった事どもが、封筒の中で微かに蠢いた。 □