伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

「国産国消」?

2017年05月31日 | エッセー

 先日、堅実に成長する今注目の居酒屋チェーン『鳥貴族』を訪(オトナ)った。全品280円、かつ旨い。店員の対応もそつなく、かつ過剰ではなく実に爽やか。申し分ない。ただ一点、ユニホームの背中に染め抜かれたコピー『国産国消』が気になった。
 同社のHPにはこうある。
──この国でつくられた食材を、この国で消費する。鳥貴族では、使用する食材の国産比率を高める「国産国消」へ取り組んでいます。国産食材を使用することで、生産者を支援し、少しずつではあるものの日本の未来に貢献します。鳥貴族では、創業当初より焼き鳥の美味しさにこだわり国産鶏肉を使用してきました。それに加え、現在は他の食材についても国産比率を高めるため、適宜食材の見直しを行っています。──
 現在、国産化は98%に達しているそうだ。まことにすばらしい。「地産地消」を捩ったのであろう。趣旨はよく解る。だが「国産」を謳った時点で、すでに国内消費つまり『国消』にちがいなかろう、などと捻上戸のおじさんはツッコミを入れたくなったのだ。国の括りの中でなら、「地消」すなわち地元の「地」は大いに意味をなす。しかし自国内で産したモノを自国で喰うとは形容矛盾とはいえないまでも、トートロジーではある。「馬から落ちて落馬して」の類いだ。
 ただ、こうも考えられる。FTAの場合だ(EPAも)。FTA締結国の間でならいえなくもない。刻下、わが国とFTA・EPAを結んでいる国はシンガポール、インドネシア、インド、メキシコ、スイス、オーストラリアなど16カ国ある。FTA間であればモノの移動は自由だから、国の括りから外れてはいる。だから「国消」と言って言えなくはないが、「国」そのものがなくなったわけではない。やはりおかしい。
 ……と、ひらめいたのが前稿で触れた水野和夫氏の新刊「閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済」(集英社新書)である。氏はグローバリゼーションが地球を覆いこれ以上の拡張は望めなくなった今、トランプやイギリス・フランスなどのように国民国家をかつてのように強化しようとする動きが見えるという。しかしそれでは「歴史の危機」は乗り越えられない。氏は「開いていく帝国」ではなく、一定の範囲で「閉じてゆく帝国」にこそ歴史を拓く鍵があるとする。これは、14年5月の拙稿『我が解を得たり!』で稿者の長年の疑問が氷解したと狂喜しつつ紹介した氏のベストセラー「資本主義の終焉と歴史の危機」の続編ともいえる。「閉じてゆく帝国」の歴史的トライアルとしてEUを取り上げ、同書で「EU帝国は、アメリカとは逆に、加盟国の主権を制限しながら、経済圏を『閉じる』ことで、近代の危機に対応しようとしました。その試みは、近代の延命ではなく、ポスト近代システムの実験場という意味合いを強く感じさせるものです」と複数の「閉じてゆく帝国」を展望している。
 突飛なようだが、これは壮大なる『花見酒経済』ではないか。拙稿を引きたい。
 〈二人の男が花見客に酒を売って一儲けを企む(落語の「花見酒」)。酒樽を運ぶ途中、呑みたくなった片っぽが自分の金を相棒に払って一杯やる。貰った方もやらない口ではない。今度はその金を戻して一杯。次にまた同じように。また同じように。花見に着いた頃には二人とも酔っ払い、酒樽は空。金はお互いの懐を行きつ戻りつしただけで一銭も増えてはいない。〉(15年3月「お花見で二席」から)
 「一銭も増えてはいない」が、辛党の喜びは満喫できた。ここに経済の本質があると語るのは内田 樹氏だ。シャッター街と化す商店街を例に。
 〈相互扶助的な消費行動を人々が守れば商店街は守られる。経済というものは、本質的に「花見酒」なのである。何軒か並んで相互的な「花見酒」をしていれば、そこに「行きずりの人」が足を止める。循環が活発に行われている場所に人は惹きつけられる。だから、何よりも重要なのは、「何かが活発に循環する」という事況そのものを現出させることなのである。「循環すること」それ自体が経済活動の第一の目的である。〉(晶文社『街場の憂国論』から抄録)
 だから、EUは壮大なる『花見酒経済』であるといいたいのだ。加えて、水野氏は「加盟国の主権を制限しながら」「閉じてゆく帝国」を志向する。こうなると国を超える括りができるのだから、本当の「国産国消」となる。ひょっとしたら、鳥貴族はそのような雄図を描いているのかもしれない。鶏は飛べないが、鳥貴族の夢は遙かな先を飛んでいるようでもある。
 ユニホームのコピーは時々変わるそうだが、次回もまたおじさんがツッコミ甲斐のあるものをと期待している。 □


坑道のカナリアか?

2017年05月26日 | エッセー

 昨日(5/25)の報道によると、商工中金の大規模不正融資に対して金融庁など3省庁が立ち入り検査に入り、経営陣の関与を追及するという。1割強の調査でも760件、約413億円に上る。
 このニュース、初出のころは不可解だった。中小企業への融資を主務とする政府系金融機関がしでかす不正な融資がイメージできなかったからだ。民間が貸し渋る相手に融資するのは、生活保護費と同様本来的に抑制が働くと考えるからだ。でなければ、貸し方が袖の下を受け取って借り方の担保能力を過大評価し融資したか。ところが話は逆で、企業実績を実際よりも悪く見せかけていたという。あるいは、融資の必要がない健全な企業にも貸し付けていたらしい。貸し方がわざわざ借り方の担保能力を過小評価し融資していたことになる。いわば、『無理強い貸し』だ。背景には貸し付け実績の「過大なノルマが不正の要因」との指摘がある。社長などは「ノルマは(現場の)誤解」と釈明しているが、下手な言い訳だ。なにより管理能力を問われる。なんのことはない、レゾンデートルのために実績を上げようとしたのではないか。
 それにもう一つ。予算消化を優先させる「お役所体質」。年度末になると急に道路工事が増える、あれだ。いずれにしても自堕落な公金の無駄遣いに違いはない。商工中金は経産、財務、金融の3省庁が共管する。その1人、世耕経産相は「役員の減給処分で済む話ではない」と語ったそうだが、牛は牛連れではないか。
 さて翻って、民間金融機関はどうか。こちらは「銀行カードローン」が悪評を買っている。保証人は要らず、保証会社の保証が付けばすぐに審査。限度額300万、年7・6%の金利(ある大手の例)でATMから現金が引き出せる。金利も割安で、銀行だけに借り方にも安心感がある。
 曲者は保証会社だ。なんとこれが消費者金融会社なのだ。かつてのサラ金地獄を受け、06年の法改正で消費者金融は融資額が年収の3分の1以内という縛りを受けるようになった。当然、貸し出しは激減。その起死回生策が保証業務だ。保証料を銀行から貰い、返済不能になると肩代わりする。ノウハウもあるので銀行には都合がいい。中には審査も委託するところがある。銀行ローンは3分の1規制がないから、消費者金融にとっては貸出料が増える結果となる。「銀行の看板を借りてお金を貸すようなものだ」という消費者金融幹部もいるそうだ。ために、銀行と消費者金融はWin―Winの関係を築くに至っている。貸し出しによる利益の5割をカードローンで稼ぐ銀行もある。地銀でも1~3割は常態だという。
 そこで持ち上がっているのがカードローンによる多重債務、個人破産の問題だ。銀行カードローンにも消費者金融と同等の規制を求める声が上がっている。
 商工中金と銀行カードローン。原因は同根ではないか。つまり日銀によるゼロから始まってのマイナス金利政策である。銀行がカネを抱えていては損をするように追い込んで、市中にカネを放出させる。そうすれば、投資も消費も増えるにちがいないという目論見である。
 経済構造の変化への認識をまるっきり欠いた金融政策だ。案の定、効果なし。それどころか、逆効果が出始めた。商工中金は『無理強い貸し』を押っ始め、銀行はサラ金紛いのカードローンにのめり込んでいる。風が吹けば桶屋は儲かるが、桶屋が儲ければ風は吹くか──。2つの事例こそマイナス金利の愚策を象徴して余りあるのではないか。
 野口悠紀雄氏は近著で「糸は引けるが、押せない」の譬えを引いて「金融を引き締めて過熱した経済活動を抑制することはできるが、金融を緩和しても停滞した経済を活性化することはできない」と語る(講談社現代新書「日本経済入門」)。「資金需要がない経済では、貸し出しが増えることはなく、したがってマネーストックは増えないのです」とも。挙句が如上のごとき畸型のマネーストックだ。何度も触れてきたが、成熟経済でのパラダイムシフトが模索されない限り負のスパイラルは続く。
 ゼロ・マイナス金利とは「資本が自己増殖する」という資本主義の属性を失うことであり、それは「資本主義の終焉」を意味する──そう、よりドラスティックに現代を鷲掴みにするのは水野和夫氏だ。著作は何度か取り上げてきた。新刊「閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済」(集英社新書、今月刊)も納得の力作だ。グローバリゼーションを軸に、誕生800年の資本主義と同500年の国民国家の終焉を論じている。大きな絵が豊富なデータと緻密な分析で描かれている。併せて、将来の見取り図も。
 となれば、商工中金も銀行カードローンも「資本主義の終焉」を報せる坑道のカナリヤなのか。切ない抗いを無駄にしてはなるまい。 □


ここはどこ?

2017年05月20日 | エッセー

 

  さて、この写真はどこを撮ったのだろう? 
 茅葺きの家と、温泉宿のような看板が見える。ぐるりは山、鄙びた寒村のようだ。
  驚くなかれ。実は東京都内である。東京都西多摩郡檜原村(ひのはらむら)。           
 東京都唯一の郡。都内最西端に位置する西多摩郡。西を山梨、南を神奈川、北を埼玉の各県が囲む。さらにその郡内にある本州部唯一の村が檜原村である。
 小田原市とほぼ同じ面積で、昨年2月現在、人口2194人。3年前に増田寛也氏が主導した日本創成会議の予測、通称「増田リスト」によると、2040年には人口は1206人、2010年から約半減するという。となると、限界集落に至るのではないか。
 「限界」とは「過疎」の先、65歳以上が半数を超え集落の自治や冠婚葬祭の運営が困難になり、道路などの生活環境の維持もできなくなって共同体としての存続が限界を迎えるとの謂だ。
 大東京が限界可能性集落を抱える。嘘のような話だが、事実だ。だから村おこしを、などというのではない。起こしたって、所詮は弥縫策に過ぎぬ。右のものを左に置き換えるだけだ。一国規模の人口減少という構造に変わりはない。
 過疎化と高齢化が並進すると、どうなるか。代議制が機能不全に陥る。今月初めに報じられた高知県大川村を例に採る。人口約400人、65歳以上の高齢化率は43%。村議会議員の平均年齢が70歳を超え(半数の3人は75歳以上の後期高齢者)、前回の村議会議員選挙では定員6に立候補が同数で全員が無投票当選だった。今後現職の引退が予想され、過疎が亢進する中で若手にもインセンティブは働かず選挙で手を挙げる人は確実に定員を割る。かといって、隣接自治体との合併も断られている。ならば、定数を削ればどうか。現在の6人は人口の1.5%。これで民意を代表しているといえるのかと疑問が湧く(もっと値の低い自治体は数多あるが)。更に減員すれば寡頭制になってしまう。いっそ村長1人にして、すべて丸投げではどうか。それでは独裁制となり、民主制度は破綻する(その前に違法だ)。そこで村議会を廃止し、代わりに地方自治法の定めにより有権者が直接予算案などを審議する「村総会」の設置を検討し始めたという。直接民主制へのシフトだ。
 一見、もっともだといえる。だが、病院や介護施設にいる多くの高齢者(人口の1割強)はどうするのか。村内を走る路線バスは1日3往復しかない。免許を返上する人は今後増える。足は確保できるのか。その名に値する「総会」を、果たして開けるのか。民意の切り捨てはないか。いざ現場に落とすとなると、いくつもの難題が急浮上してくる。直接制も代議制も頭数という単一の尺度だけでは選択は至難だ。
 檜原村は大川村より人口規模は5倍ある。しかし、高齢化率は00年で33%。あと23年、下がることはない。人口は半分に。行政サービスは維持できるのだろうか。代議制は機能するのだろうか。他人事(ヒトゴト)ながら、不安が募る。もちろん合併という手はある。となれば、実態的には消滅だ。大学の研究機関が多摩地域の過疎化について研究を進めている。当然、檜原村も対象となっている。調査結果は絶望的とはいえないにせよ、都下唯一の村が限界集落へ向かおうとしている危機感は捨てるわけにはいくまい。
 人口減少については何度も触れてきた。一言でいうなら、それは問題ではなく回答であるということだ。急膨張した人類が直面する地球的問題群を乗り越えてどう生き延びるか。その最も直截な人類史的回答が人口減少である(国連がリードする“SDGs”=持続可能な開発目標とは次元の違う、いわば自然の調整機能)。その先駆的歴程にあるのが本邦である。したがって、人口減少『問題』とはいかに減少を食い止め増加に転じるかではない。それは問題の立て方自体が間違っている。かつて引いたが、「日本における歴史上始まって以来の総人口減少という事態は、なにか直接的な原因があってそうなったというよりは、それまでの日本人の歴史そのものが、まったく新たなフェーズに入ったと考える方が自然なことに思える」(「街場の読書論」から)との内田 樹氏の洞見こそ正鵠を射たものであろう。「新たなフェーズに入った」という認識がないから(あるいは認めたくないから、または目眩ましに)、某政府は『一億総活躍社会』などという能天気な与太を飛ばして恥じないのではないか。つまりは「ここはどこ?」か、まるっきり解っていない。
 「豊島区消滅可能性都市」説は多分に都市伝説のにおいがするが、檜原村には「増田リスト」というエビデンスがある。各種将来予測の中で人口予測は最も確実性が高い。数十年先なら、その時点での構成人口のほぼすべては今まさに現存しているからだ。変数は出生と死亡の比率だが、さほどの変動はない。
 「大東京が限界可能性集落を抱える」パラドキシカルな現実。大東京しか見ないでいると、わたしたちは今、どこにいるのか見失ってしまう。そういうコノテーションのようでもある。 □


奇想・珍説 目録(3/3)

2017年05月19日 | エッセー

 14年から16年までのリストです。切りよく全部で50本に収めるため、ギリギリ絞り込みました。オリジナルな奇想と珍説のオンパレードです。

34)小保方、ガンバレ!  14年4月
    同女史には3度エールを送っています。旧稿からカレー事件で名を馳せた三好万季女史の例も引き、芽を摘むなと訴えおもしろがり精神をと呼びかけました。
http://blog.goo.ne.jp/yaraonn/e/5dbd6cea565d096e383a933cb6cfbb68

35)白村江、再びか?  14年4月
    白村江の戦いは日本史上初の集団的自衛権の行使。粗略な戦略が招いた失敗だったと歴史を振り返りました。さらに、政府のケーススタディは集団的憑依ではないかとも。約1ヶ月半後の6月2日、本稿の一部が朝日新聞で引用されました。 

36)「陰性」!?  14年10月
  「陰」には否定的な語感があります。各種の検査にこの言葉を使うのはふさわしくないのではないかと問題提起しました。
http://blog.goo.ne.jp/yaraonn/e/dd9015d35e81c791d6cc1ab6ea9cd771

37)健さん 異見  14年11月
  団塊の世代にとってはヒーロー中のヒーロー。そして、最後の国民的ロールモデルとなった健さん。「不器用」とはおっしゃっても、アフター『花田秀次郎』でのメタモルは実は器用では? さらに、そのクロニクルに昭和史のシンクロニシティーを垣間見ました。
http://blog.goo.ne.jp/yaraonn/e/e59d34bbbf2e5be9623f0127a814b6d8

38)ライスカレーはいかが?  14年12月
  カレーライスか、ライスカレーか? トリビアルとはいえ、食い込んでいた積年の肩の荷をやっと降ろしました。
http://blog.goo.ne.jp/yaraonn/e/962e4961b9771600dd36d100337b1137

39)『燃えよ綱』
  朝青龍は評価しますが、白鵬にはダメ出しします。なぜか? エピゴーネンだからです。今も変わりません。近藤勇を引合いにオブジェクションを突き付けました。
http://blog.goo.ne.jp/yaraonn/e/9ec94017e17f1947feef1edf6158dba3

40)ウロボロス撃退法  15年4月
  3要件は限りなく個別的自衛権に近い。「集団的自衛権」という毒ヘビに「存立危機事態」という己の尾っぽを噛ませる奇計ではないか、そう愚考しました。
http://blog.goo.ne.jp/yaraonn/e/bf70e2f4c11d6d1e0611dc44de67d971

41)ディフェンスライン  15年4月
  今上天皇のパラオ慰霊は天皇による平和運動ではないか。だとすると、平和のディフェンスラインを天皇に託さねばならぬ国民は不甲斐ないのではないかと問いかけました。
http://blog.goo.ne.jp/yaraonn/e/9f88f5f8ab998ebb0ea181cc36ba6168

42)肥後 寸景  15年6月
  熊本地震のほぼ1年前、田原坂を訪れました。
  〽越すに越されぬ
    のは、どちらでしょうか? 薩軍か、それとも熊本城へ向かう維新政府の援軍? 

43)スポーツおバカ  16年1月
  タモリの名言を引合いに、勝利至上主義がスポーツを蝕むと警鐘を鳴らしました(犬の遠吠えですが)。技術ドーピングも浮上し、スポーツ界は難題山積です。4月にも同じサブジェクトで咆えています。
http://blog.goo.ne.jp/yaraonn/e/9bf2ba9fa676c5855b9c7dd66e97536a

44)拓郎、登場  16年2月
  テレ朝『報道ステーション』での古館伊知郎のインタビューを略筆し、コメントを添えました。ともあれ『ガンバラないけどいいでしょう』と、『僕の道』は金字塔です。年相応の秀逸な作品を書けるのは、フォーク界(J-POPともいえます)では拓郎以外誰もいません。
http://blog.goo.ne.jp/yaraonn/e/10cc96fc46b0e9e5decd4a151210b63f

45)伊勢参り  16年5月
  サミットのメンバーを伊勢神宮で得意げに出迎え、案内するアンバイ君。憲法20条に抵触しないのでしょうか? まさか江戸時代の奇習再来では。一強内閣の横暴はこの後も続きました(いや、過去形ではありません。今は更に、です)。
http://blog.goo.ne.jp/yaraonn/e/f453fd801bef77a6c152a0d3cdbb180b

46)勘違い、二つ その壱  16年7月
  次稿と併せ、自らのパースペクティブを明確にしました。その壱ではアメリカの属国としての日本のトポスを、その弐では成長から成熟へのパラダイムシフトを大言壮語しています。
http://blog.goo.ne.jp/yaraonn/e/733cb93095ce65f58006971975014f45

47)勘違い、二つ その弐  16年7月
http://blog.goo.ne.jp/yaraonn/e/ed47f2ccac710d219b4e28682f68cc09

48)70歳のラブソング  16年9月
  拓郎を密着取材した“NHK SONGS”から、ラブソングについて頭を絞りました。本ブログにある数々の拓郎もののうち、結構良い部類に入るのでは。
http://blog.goo.ne.jp/yaraonn/e/64aa026a68ac5242f8add5ff1356d0e0

49)見てきたような絵  16年10月
  北斎の『神奈川沖浪裏』は実物を見て描いたのではありませんが、ハイスピードカメラの波頭とそっくりです。天才の目には常人に見えないものが見える。そこから奇想天外──太古から生きつづける昆虫は複眼を持ち、それはサバイバルに必須だったからでは、と。
http://blog.goo.ne.jp/yaraonn/e/59e6bc02412f3a92d0c4d966a66b70ef

50)“I” と “You”  16年11月
  英語の一人称は“I”だけ、“You”には複数形がありません。(33)と同じく、長年の疑問に蟷螂の斧を振るいました。
http://blog.goo.ne.jp/yaraonn/e/27f292833498a4edbe38a80e63e729c6


 今にして振り返れば、斉東野語と堅白異同の揃い踏みで赤面のいったりきたりです。ですが、武者小路実篤の箴言を借りるなら
    〈この道より
    我を生かす道はなし、
    この道を行く。〉
 と、凡愚の身には開き直るよりほかはありません。「生か」せるかどうかは判りませんが、奇想と珍説を今後も続けて参ります。「ご用とお急ぎでない方」はぜひお立ち寄りくださいまし。 □


奇想・珍説 目録(2/3)

2017年05月16日 | エッセー

 当初2回のつもりでしたが、収まり切りません。前言を撤回し、3回とします。11年から13年までのリストです。

19)線香花火  11年1月
    拓郎の名曲『せんこう花火』。線香花火と海が繋がらない。吉屋信子の原詩に戻って奇想を逞しくしました。
http://blog.goo.ne.jp/yaraonn/e/c6eae1b1393315e78150f2e8b1de90f5

20)ラジオじゃダメだよ  11年5月
  コロッケと青木隆治のものまねを比較し、青木を難じコロッケこそ「芸」だと称讃しました。この後、何度もしつこく同じ自説を繰り返しています。
http://blog.goo.ne.jp/yaraonn/e/ff14e3fcec8e70d98c2a4121f52cd97b

21)新種のカニ  11年11月
    今やすっかり食品として定着したカニカマから、加賀の文化的DNAへ奇想が撥ねました。
http://blog.goo.ne.jp/yaraonn/e/68bde85e97ef39dae304a89d6dced87d

22)狩るは紅葉  11年11月
    花見といっても紅葉見とはいわず、なぜ「狩り」なのか? 華麗と野趣の組み合わせに日本語の素晴らしさを発見しました。
http://blog.goo.ne.jp/yaraonn/e/a6ba70405b91479d9e2a77acc99ef3f7

23)AKIRA  12年1月
  拓郎の『AKIRA』に昭和の原風景が浮き上がりました。あわせて、この『不思議な曲』には絶妙なテンスの妙が埋められていました。
http://blog.goo.ne.jp/yaraonn/e/2529340ef3598547cf8b43bdd49577b6

24)マツコ・デラックスの意味  12年2月
  マツコはこの上なく具象的でティピカルな『男のおばさん』の体現者だと評しています。
http://blog.goo.ne.jp/yaraonn/e/b0adc5e193cbc52d0f7a055c44866958

25)634のはなし  12年2月
  武蔵の国は律令時代、隅田川以西でした。となると、隅田川以東に建つ東京スカイツリーの“634”メートルは根拠を失います。ところが、江戸期に武蔵国に編入。辻褄があったやにみえたものの、ツリーでもって後出しが……。
http://blog.goo.ne.jp/yaraonn/e/b95526734b0a2abc216c3db1f801b35e

26)「春だったね」  12年3月
  「春よ来い」と春の歌は向かえるものがほとんどなのに、拓郎の『春だったね』はなぜか過去形。草萌ゆる春に気鬱な失恋を詠うという定石破りにインパクトがあるのではないかという浅慮です。
http://blog.goo.ne.jp/yaraonn/e/caed02d231e40555dd0b0f1601f888b7

27)私的イチロー考  12年3月
  内田 樹氏の「日本辺境論」を引きつつ、日本特有の<辺境・道・機>の3つに無縁なところにイチローのイチローたる所以があるとしました。さらに世界標準を書き足し、書き換え、新設した偉業を讃えました。
http://blog.goo.ne.jp/yaraonn/e/be21ec3f38d30629160f702ca75a76e6

28)余滴  13年5月
  金子みすゞから中原中也へ、そして高杉晋作。山口が生んだ3人の天才詩人にただならぬアナロジーを夢想しました。ダダイズムと、司馬遼太郎いうところの長州の「狂」。郢書燕説との難は覚悟の前です。
http://blog.goo.ne.jp/yaraonn/e/72f6caf5641ec996da3e09e558aaeb3f

29)なぜ笑う?  13年7月
  野村万才・萬作の狂言公演を観て、600年前のドタバタコメディーが今なお通じる不思議を考えました。天声人語と同じ字数でコンパクトに。
http://blog.goo.ne.jp/yaraonn/e/a4ceb08487229a3aef37d67aed2acf9c

30)徒花  14年8月
  花火を見上げつつ、火薬と原発の違いを妄想しました。原子力の平和利用には超えがたい宿痾があるのではと。
http://blog.goo.ne.jp/yaraonn/e/985eab0d18bc6f1e6c0ef2886a54118b

31)買って頂戴よ。どう?  13年9月
  わが家の電化製品はほとんどがジャパネットたかた。わずか数年で、ミシンも掃除機も何台も。ついつい買ってしまう秘密を「今様の啖呵売」ではないかと愚案しました。
http://blog.goo.ne.jp/yaraonn/e/2dfcc79a88ad08d61b7f09a389fc5c04

32)おつむもペラペラ  13年12月
  小学校での英語教育にオブジェクションです。思考は母語。母語がしっちゃかめっちゃかだと、オツムもペラペラに。内田 樹氏曰く「英語教育を会話のオーラル中心にするのは、あれはね、あきらかに植民地主義の陰謀です」

33)Hey Jude のナゾ  13年12月
  “Take a sad song and make it better” 落ち込んでいる時に、なんで悲しい歌を唄うんだ? 盲蛇に怖じず。稿者長年の疑問に挑戦しました。
http://blog.goo.ne.jp/yaraonn/e/2719346d68e0e412ca3fda791299ba2f

 14~16年分は次の3回目です。 □


奇想・珍説 目録(1/3)

2017年05月13日 | エッセー

 1000回を超えたあたりで取りまとめておきたかったのですが、少し延びてしまいました。本ブログで開陳してきた数々の奇天烈、珍妙な妄説のリストです。他説の紹介は省き、自説のみをリストアップしました。なにせ11年分ですので、3回に分けます。URLも貼っておきますので、「ご用とお急ぎでない方」はどうぞワープしてやってくださいまし。

 1)野球 大発見  06年3月
  野球は正味のプレー時間は約3割。残り7割は読み合いに費やすというとても珍しいスポーツ。彦摩呂風にいえば、『野球はスポーツの将棋や!』です。
http://blog.goo.ne.jp/yaraonn/e/869ed5a7e9ab43572d2b1d1181e086fa

 2)お客様は神様です!  06年10月
  何度も繰り返してきた芸人批判の走りです。今や完全に病膏肓に入る、ですが。
http://blog.goo.ne.jp/yaraonn/e/45c547adc310918c0d1a8fb194c90b07

 3)奇想、天外へ!  07年2月
  核廃棄物をロケットに詰めて宇宙の彼方へとの文字通りの奇想です。できないのは、なぜか? 宇宙規模の倫理感かと提起しました。実はかつてアメリカで俎上に乗せられたことがあったと、後日知りました。引っ込めた理由は倫理感というより、失敗のリスクでした。
http://blog.goo.ne.jp/yaraonn/e/6267aabe66779c093ae1f2381f713137

 4)人格ということ …… 投稿満一年に  07年3月
  姜 尚中氏の著作に触れながら、人格とは想像力ではないかと述べました。壁を越え、苦悩や悲しみを共有できるのは想像力だと。
http://blog.goo.ne.jp/yaraonn/e/91933eabc9f73fe4a86b8828ade9ce33

 5)人間の「い」  07年4月
  犬の遠吠えは承知の上で言葉考にはなんどもトライしてきました。そのうち、『イ抜きことば』について愚案を巡らせました。拓郎の曲「人間の『い』」を参照しつつ。
http://blog.goo.ne.jp/yaraonn/e/eb0606674855760d70608172363e6262

 6)カズかヒデか  07年5月
  三浦知良と中田英寿の2人を例に、絶頂を過ぎてのアスリートの生き様に2類型があるとの愚考です。浅田真央は一見ヒデ型にみえますが、やはりカズ型でしょう。
http://blog.goo.ne.jp/yaraonn/e/1316795ab4b3134deddb233122531446

 7)第100回記念 ―― 奇想!「寅さんの声が聞こえる」  07年6月
  第1回は寅さんがテーマでしたので、100回目も再び寅さん。ない頭をひねりました。ヒンドゥーの「四住期」のうち、寅さんは「林住期」の現代的体現者だったのではないかと。
http://blog.goo.ne.jp/yaraonn/e/4376748d7a2c75b85c6fd66db6412461

 8)長生きは『事故』か?   07年7月  
   年金問題を取り上げました。脳化社会と自然とのズレを指摘し、年金『保険』である以上長生きは事故になるという顚倒が起こると愚案を捻りました。
http://blog.goo.ne.jp/yaraonn/e/6a65130130df9d4b08bf5ae2bcf5ab8b

 9)先割れスプーンで猫飯を喰いますか?  08年7月
  言葉考の一つです。特に「みたい語」と「思う」を難ずる持説です。
http://blog.goo.ne.jp/yaraonn/e/31868f5a55aab52388b985d6a0b1e092

10)まぼろしか。  09年5月
  三木露風の『赤蜻蛉』。「まぼろしか」のフレーズに拘りました。
http://blog.goo.ne.jp/yaraonn/e/a77c7a6336cb35d4866bce50eec5c311

11)遠景の花火  09年8月  
  齢とともにだんだん後退りするように見物場所が遠ざかるという気づきを駄文にしました。徒然草と小林秀雄を入口に、遠花火を考えました。
http://blog.goo.ne.jp/yaraonn/e/b8ec393427046def44b8abcdd00723b2

12)「抱きしめたい」  09年9月  
  “I want to hold your hand.”を「抱きしめたい」としたのは誤訳に近いのではないか。ビートルズの過激性を埋め込んだのではないだろうかと愚考しました。
http://blog.goo.ne.jp/yaraonn/e/fd3f7803687a674e87567fabea12edb2

13)秋の色  09年10月  
  赤は地球で稀な色。だから、興趣を増す。人生の秋もかくありたいと殊勝な内容です。
http://blog.goo.ne.jp/yaraonn/e/008548a35307a4d3183c8667d1ae7d2e

14)絵が描ける歌  10年6月 
 童謡『故郷』から音楽は時代、国境、文明も越えるところに妙味と凄味があると綴っています。
http://blog.goo.ne.jp/yaraonn/e/40c074bd592f4338717d521e9733a64b

15)魁・EU  10年7月  
  オランダでEUに対するオブジェクションの動きがあり、国のかたちの変遷をのべて地球規模の問題群を解決するために新しいかたちを模索する人類史的挑戦だと主張しました。再びオランダで、そしてフランスでなんとか危機を脱しましたが、稿者は一貫してEU支持です。
http://blog.goo.ne.jp/yaraonn/e/10f90cbb1f123cc6ed86fbdafea9029a

16)それでも待ってる 夏休み  10年7月
 「夏休み」。代表作であり名曲ではありますが、長い間、1段目の歌詞に合点が行きませんでした。少年と夏休みに焦点を当てて、蠱惑な繋がりを無理やり考えてみました。
http://blog.goo.ne.jp/yaraonn/e/a00ee678f0765241fd96e691ed706471

17)私的演歌考  10年8月
  歌を演ずる。それが演歌ではないか。美空ひばりの天才は憑依による、と珍説を押っ広げています。
http://blog.goo.ne.jp/yaraonn/e/0a24431236f7d292723b6748f4573688

18)山城の不思議  10年10月  
 山野の景観を戦略的に視る能力、俯瞰視できる能力。今は失せたが、これが戦国の武将たちにはあったのではないか。でなければ、城の立地はできないのでは。そんな話です。このイシューはこの後、何度か触れています。
http://blog.goo.ne.jp/yaraonn/e/0ca38d305f0fa13a512ee7d37bce6a05

 11年以降は次回です。 □


首相が憲法違反!!

2017年05月07日 | エッセー

 3日、アンバイ君は日本会議が主導する「美しい日本の憲法をつくる国民の会」の集会にビデオメッセージを寄せた。
1. 施行70年を迎え、結党以来の党是である改正という歴史的使命を果たしたい。
2. 東京五輪の2020年は日本が生まれ変わる契機にすべきで、新憲法施行の年にしたい。
3. 自衛隊違憲の議論をなくすべく、9条1項、2項はそのままで自衛隊を明文追記したい。
4. 高等教育を含め無償化し、教育をすべての国民に開いたものとしたい。
 要約すると、この4点になる。
 内容以前に、これはあられもない憲法違反である。「憲法尊重擁護の義務」に反するからだ。
〈日本国憲法第九十九条
 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。〉
 真っ正直に読めば、村役場の職員から総理に至るまで公たる者は改定を提起できない(九十六条に定める国会の発議権は手続きの定めでしかない)。できるとすれば、主権者たる国民しかいない。首相の発言は越権であり、違憲である。加えて、憲法を識らない無知でもある。いや、これは自民党総裁としての私人の発言だというかもしれない。だが、一国のトップリーダーに公人も私人もないだろう。またも「妻は私人」と同じ屁理屈を捏ねるつもりであろうか。3日の憲法記念日には午前中は私邸に籠もり、午後は山梨県鳴沢村の別荘。明くる4日はゴルフ三昧。現行憲法ゆえの「国民の祝日」だけはちゃっかり「休日」にする。気に食わない憲法なら、当てつけがましく休日を返上し官邸に詰めて働いたらどうだ。
 今日のTBS『サンデーモーニング』で解説の岸井成格氏が件のメッセージについて、好条件なのになかなか進まない現状に首相を盛り立ててきた改憲勢力から突き上げがあるのではないかと語っていた。なるほど、頷ける見方だ。3.は思考停止の論理矛盾、姑息なガス抜き。以下に詳述する。4.は見え透いたアメ、憲法第二十六条で充分だ。現行下位法でどのようにでも対処できる。1. は知ったことではないし、2. は大嘘を真に受けてやって来る五輪にはいい迷惑、辱めるものだ。
 九条と自衛隊について、内田 樹氏の洞見を徴したい。
 氏は両者が矛盾していることに意味があるという。「9条どうでしょう」(筑摩書房、12年刊)で老子を引き、本来武力は穢れたものであり決して使ってはならないという「〈封印されてある〉ことのうちに〈武〉の本質は存する」と語る。つまり、「憲法九条という〈封印〉が自衛隊に〈武の正統性〉を保証している」とする。だから同書では、
 〈憲法九条と自衛隊が矛盾した存在であるのは、「矛盾していること」こそがそもそものはじめから両者に託された政治的機能だからである。憲法九条と自衛隊は相互に排除し合っているのではなく、相補的に支え合っているのである。〉
 と説く。はたと膝を打つ。頓悟とはこれだ。したがって、3. は「両者に託された政治的機能」を台無しにする愚挙の最たるものである。
 さらに目から鱗をもう一つ。哲学者・柄谷行人氏の昨年の著作「憲法の無意識」(岩波新書)がそれだ。憲法の関連書籍は数多あるが、平易でかつこれほどの衝撃力をもった言説はそうはあるまい。日本人ならば必読の書といって言い過ぎではなかろう。
 柄谷氏は、憲法九条には日本人の強い「無意識の罪悪感」が凝っているという。その罪悪感とは維新以来、Pax Tokugawana 『徳川の平和』を破ってきた道程への悔恨であるとする。戦国を抜け築き上げた徳川300年の泰平を崩壊しつづけた歴程。さらに、破局的に潰滅させた太平洋戦争。フロイトを援用しつつ、通途の論説を遙かに超える歴史的鳥瞰に基づいた「無意識の罪悪感」を克明に描いている。だから Pax Tokugawana こそが憲法九条の「先行形態」である、と。アメリカの理想を托し、押しつけられたのではない。さらに単なる戦争への反省からでもなく、九条は Pax Tokugawana を現代に引き写したものだと解明していく。印象的なのは括りの一節だ。
「問題はむしろ、護憲派のあいだに、改憲を恐れるあまり、九条の条文さえ保持できればよいと考えているふしがあることです。形の上で九条を護るだけなら、九条があっても何でもできるような体制になってしまいます。」
 「九条があっても何でもできるような体制」とは、1年後の如上のメッセージ 3.を予言するかのような考究である。符合に怖気立つ。断じて改憲勢力の術中に嵌まってはならない。続けて「最もリアリスティックなやり方は、憲法九条を掲げ、かつ、それを実行しようとすること」だとし、160年の「歴史の反復」を提示して
「たとえ策動によって日本が戦争に突入するようなことになったとしても、そのあげくに憲法九条をとりもどすことになるだけです。高い代償を支払って、ですが。」
 と嘆息を込めた捨て台詞で結ぶ。ただし今度の場合、「高い代償」は取り返しのつかない代償になる可能性が高い。
 「敗戦否認」のゾンビが姿を現したというべきか、衣の下から鎧が露わになったというべきか。首相が平気で憲法違反をしでかすようでは、この国はまことに危うい。 □


チャンバラ映画

2017年05月02日 | エッセー

 『無限の住人』、封切りを観た。時代劇はかなり久しぶりだった。“今の”時代劇はどんなふうになっているのか、そこが識りたかった。
 人気時代コミックを主演・木村拓哉、監督・三池崇史で実写映画化した作品だ。永遠の命を与えられた人斬りが剣客集団に両親を殺された少女の用心棒となって壮絶な仇討ちを繰り広げる。キャストも豪華だが、それ以上に殺陣がリアルなのか荒唐無稽なのか異常に豪勢だ。屍累々、文字通りの百人斬り。これでもか、これでもかと斬り合いが続く。音といい、色といい、カメラワークといい、食傷するほどに畳み掛けてくる。過ぎたるは及ばざるがごとし。漫画の実写版というが、これではまるで漫画だ。漫画だからこそなし得ることに不用意に踏み込んだのか。逆転のトリックに嵌まっている。さらに筋書きが浮世離れしている分哲学的脚色をしたのか、主人公が不必要に多弁だ。とっくにその年頃を過ぎているのに、キムタクのちょい悪感を乗せた台詞回しも気に障る。
 “用心棒”といえば、はるか56年前昭和36年の黒澤映画『用心棒』が想起される。主演は三船敏郎。モノクロながら迫真の殺陣は未だに脳裏から離れない。当時異色の時代劇だった。というか、東映を軸とするチャンバラ時代劇を一刀両断したエポックメーキングな作品であった(『七人の侍』を含め)。台詞も当時としては随分現代風だった。
 世界のクロサワと比較するのは可哀相だが、今風が極まると先祖返りしてしまうのかと苦笑してしまった。なんのことはない、チャンバラ映画だ。意匠は今風でも、まことにえげつないチャンチャンバラバラだ。斬り落とされた手首はモノクロだけに『用心棒』の方がむしろリアルだ(三船は目を背けたそうだ)。なにより役者の腰が低い。謙虚のそれではなく、フィジカルに低い。半世紀を経て体格に違いが出たのか。走る姿なぞは地に足が付いていない。剣術でも剣道でもなく、まさにチャンバラだ。チャンバラ映画への先祖返りである。
「テレビ出身の人の歩幅はどうしても狭くなるんですが、映画の人の歩幅は大きいんです。」
 今年1月に亡くなった松方弘樹の言葉である。昨日、朝日の連載コラム「折々のことば」で哲学者の鷲田清一氏が紹介していた。氏は、役者として大成するには等身大ではなく自らを超えるスケールの芝居への挑戦を、との教訓と捉えている。だがそのものズバリ歩幅としても、大いに合点が行く。立ち回りが騒々しいだけで、どだい迫真に欠けるのだ。
 当時、三船は41歳。木村は当年44歳。育ってきた畑が違うとはいえ、その存在感は悲しいくらい違う。『大芝居』への挑戦ではあろうが、木村が活きる芝居はもっと別のところではないか。
 ともあれ、黒澤映画という時代劇の『無限の住人』はまだまだ死なせてはもらえない。 □