伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

そうは問屋が卸すまい

2007年11月26日 | エッセー
 長い間違和感を抱いていた問題を取り上げる。山雀利根の囀りにしばしお付き合いを。
 以下、先日のニュース。
  ―― 人間の皮膚から万能細胞 京大教授ら、再生医療へ前進  
 人の皮膚細胞などに複数の遺伝子を組み込み、各種の組織のもとになる万能細胞(人工多能性幹細胞=iPS細胞)をつくることに、京都大・再生医科学研究所の山中伸弥教授らが成功した。人間の体細胞から万能細胞ができたことで、臓器や組織を補う再生医療が現実味を帯びてきた。
 代表的な万能細胞の胚(はい)性幹(ES)細胞は、生命の萌芽である受精卵を壊してつくるので批判が根強い。受精卵を壊す必要がなく、倫理問題が少ないとして注目された。
 この細胞が、神経細胞や心筋細胞、軟骨などへ分化できることも確認したという。
 山中教授は「再生医療の実現にはまだ少し時間がかかるが、ねらった細胞に効率よく分化させたり、安全性を高めたりして、臨床応用につなげたい」と話している。 ―― (07年11月20日付朝日新聞の記事から抜粋)

 これはノーベル賞級の成果かもしれない。続いて23日、朝日は社説に取り上げた。

  ―― 万能細胞―日本からの大きな一歩だ    
 筋肉でも心臓でも、からだのどんな組織や臓器にもなれるのが万能細胞だ。万能細胞を人工的につくって育てれば、病気になったり傷ついたりした組織や臓器を取り換えることができる。
 こうした再生医療と呼ばれる夢の治療に向けて、大きな一歩が記された。
 京都大学の山中伸弥教授らが、人の皮膚の細胞から万能細胞をつくることに成功したのだ。患者本人の細胞からつくれば、組織や臓器として移植するときに拒絶反応の心配もない。
 今回の成果は、移植に使えるだけではない。試験管の中で病気の細胞を育て、病気の研究や薬の開発に役立てる。そんな使い方もできそうだ。
 多くの可能性を秘めた日本生まれの画期的な業績である。大切に育てたい。
 今回も山中さんと同じ日に、米ウィスコンシン大学のチームが、山中さんとは組み合わせが違う四つの遺伝子を使って同じような成果を得た、と発表した。研究の白熱ぶりがうかがえる。
 とはいえ、実用化までに課題は多い。
 普通の細胞に遺伝子を送り込むのにウイルスを使っているため、がんを引き起こす恐れがある。安全性を確かめる必要がある。
 一方で、今回の万能細胞を使えば、卵子や精子をつくることもできる。人間を誕生させることにつながるかもしれない。こうしたことについて、なんらかのルールも必要になってくるだろう。 ―― (抜粋)

 一昨年には韓国で、黄教授の事件があった。世界初とされたES細胞はウソで、論文も捏造、おまけに研究費を横領、卵子の提供にも問題があった。ノーベル賞の期待は露と消え、この分野での国家戦略も潰えた。
 今回は正攻法で、しかもアメリカでも同じ研究成果が出ている。世界の期待が集まる。吉事にはちがいなかろう。だが、どうにも微かな違和感が拭えない。逆の事例を引こう。つまり凶事として糾弾を受けている問題だ。
 昨年、発覚した病気腎移植。
 万波 誠氏は宇和島徳洲会病院に勤務する泌尿器科の医師である。氏は600件に及ぶ腎臓の移植手術をしてきた。それが病んだ腎臓であったから大問題となった。「摘出して捨てられる腎臓を活用して生体、死体に次ぐ第3の移植の道を開いた」と氏は言った。「腎不全で非常に困っている人を、少しでも良くしてあげようというのが義務と思っている。透析で苦しんでいる人を、移植で元気にするという風潮をつくっていかなければならないと思う」とも語った。
 安全性への疑問、独断専行の是非、臓器売買の疑惑、移植できるものを摘出することの正当性など、世の指弾を受けた。決着は未だついていない。
 上記の数例、善と悪、凶と吉、陰と陽、相反する事例のように見える。しかしわたしはどれにも同じ違和感を覚える。その違和感とは、生命の「部品」視である。倫理性以前の生命観である。生命を部品の集合と捉える考え方だ。機械論的生命観ともいえる。パーツの集合から成る「機械」であれば、壊れたパーツは取り替えれば済む。ゲノムレベルであれば、遺伝子を組み換えれば事足りる。コンピュータ・プログラムのように……。
 しかし本当にそうだろうか。
 今年のノーベル医学生理学賞はES細胞関連に贈られた。うち一つは「遺伝子ノックアウト技術」に対してだった。ゲノムの特定の部分だけをノックアウト(消去)して、その影響を調べる技術である。インスリンの遺伝子をノックアウトするとネズミは重篤な糖尿病を発症する。この因果関係は明白だ。しかし多くの遺伝子ノックアウト実験からは、一対一の対応が立証できない例が続出している。つまり特定の遺伝子をノックアウトしても全く異常が現れないのだ。
 どういうことか。機械のメカニズムであれば、パーツひとつを取り去ればメカニズムは変調を来す。どこかに齟齬を生む。だが遺伝子ではそうはならない。機械とは別の原理が働いている。パーツの欠損をバックアップしたりバイパスする働きがあるのだ。逆もある。パーツを増やしたり交換することで全体のバランスに乱調が生ずることがある。
 余談だが、わたしの長男のこと。小学校に入ってすぐの健康診断で不整脈が発見された。再診の結果、WPW症候群の予備軍との所見であった。心臓への刺激伝導系に正規の経路以外に、ご丁寧にもバイパスがあるのだ。このバイパスが悪さをして脈が乱れる。300人に1人はいるそうだが、心電図などの採用がなければ発見し難い。発症すれば、そのバイパスを切るのだそうだ。ただ、一生発症せずに終わる人が大半だともいう。激しいスポーツ時の突然死の原因となることがある。わが倅は人後に落ちない激しいスポーツをし続けているが、今のところ生存を保っている。まことに子宝臑が細る。
 一説によれば、最重要の臓器である心臓の危機管理のため、予備伝導路として元々あったのだそうだ。それが進化の過程でなくなっていった。だから、倅は進化に乗り遅れているのか。太古の原型を頑なに護り通しているのか。ともあれ臓器レベルでもバックアップ機能がある一例である。

 デカルトの『動物機械論』を淵源として近代医学は長足の進歩を遂げる。その極みに万能細胞があるとすると、極みであるからこそ底が割れてきたともいえる。つまり四捨五入すれば、パーツの単なる集積として生命はあるのではない。生命のありようはパーツのダイナミックなネットワークとしてある。パーツの相互作用の総和としてある、といえるのではないか。遺伝子ノックアウトによる最新の知見は当初の目論みを裏切り、遺伝子の対応的因果関係にオブジェクションを突き付けた。そうは問屋が卸さなかった。謎の果てに、また新たな謎がひろがったのだ。パーツの細工はできても、生命のありようは変えることができなかったともいえる。積み木細工はできても、積み木の家では住まうわけにはいかない。火星探査機は飛ばせても、ハエ一匹造れはしないのが人知だ。宇宙と同じほど限りなく奥深いものとして、生命はある。
 開発がムダであるとはいわない。絶大な恩恵を人類にもたらすにちがいない。しかし呉牛端月といわれようと、開発の先にあるものがサイボーグであるとしたら、わたしは御免蒙りたい。尤も、「人類」となってから500万年を生き延びた生命が、そう容易(タヤス)くベールを脱ぐとは考えられぬ。もう一度言おう、そうは問屋が卸すまい。□


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千慮に一得

2007年11月20日 | エッセー
 数々の郢書燕説を繰り返してきた本ブログだが、それでも130回を超えた。とはいえ、浅慮ではあってもとても千慮には至らぬ。だが、半得ぐらいは有るやもしれぬ。いくつかの論点を振り返り、舌足らずを補いつつ三斗の冷汗(レイカン)を流してみたい。竹頭木屑の一つや二つはあるかもしれぬと願いつつ。

《大衆ということ》
■ 奇貨可居
 日本は、類い稀なる身分に隔てのない社会である。北海道を除けば単一の民族で、戦国と維新などで十全にシャッフルされている。司馬遼太郎の言を借りれば、皇室を除きみんな馬の骨である。「血筋正しき」などとは死語だ。歴史上の人物を祖とする家系などとたまに話題になるが、それは奇種ではあっても貴種ではない。西欧流の貴族階級もなければ、泥沼のようなカーストもない。
 一介の芸人が殿上人を気取っても、何の咎め立てもされない。どころか、周りがはしゃぐ。そうなのだ。『学芸会』の亜種なのだ。同級生がたまたま演じるヒーローとヒロイン。通底するのは「みんな馬の骨」だ。
 わが国の世界に冠たる無階級性を大いに喧伝することとなった今回の挙式。めでたい限りである。やはり、奇貨可居か。(07年2月21日付)

 女優Fとお笑い芸人Jの婚礼について書いた。億単位の金を使い雲上人の猿真似をする。もちろんイリーガルではない。だが文化的には、無階級性を逆手に取った無道な所業である。金に飽かせた古式への冒涜であり、なりより成金趣味の極みである。大衆性の最もグロテスクな表出である。大衆を逆撫で、愚弄するものだ。
 洋服の替わりにかんさびた装束さえ着ければ、それだけで文化的練度が上がると信ずる幼稚と無知。成り上がりが無尽に金を垂れ流す傲慢と醜怪。そこには民草の中に生きる芸能者としての悲哀や矜持は微塵もない。おのれの金をどう使うかは自由だ。だからこそ、そこに価値観が顕現する。名うてであれば、衆目が注視する。奇っ怪で醜悪であれば、なお世を謀(タバカ)る。
 尤も、質(タチ)の悪いコメディーとして供されたのならば文句はないが。それこそ奇貨可居だ。

■ お客様は神様です!
  ―― 芸能者の発生した基盤は、わが国では、支配王権に征服され、妥協し、契約した異族の悲哀と、不安定な土着の遊行芸人のなかにあった。また、帰化人種の的な<芸>の奉仕者の悲哀に発していることもあった。しかし、いま、この連中には、じぶんが遊治郎にすぎぬという自覚も、あぶくのような河原乞食にすぎぬという自覚も、いつ主人から捨てられるかもしれぬという的な不安もみうけられないようにおもわれる。あるのは大衆に支持されている自己が、じつはテレビの<映像>や、舞台のうえの<虚像>の自己であるのに、<現実>の社会のなかで生活している実像の自己であると錯覚している姿だけである。 ―― (吉本 隆明「情況」河出書房)
 昭和45年のことだ。『情況』は少しも変わってはいない。(06年10月27日付)

 前項と関連する。本来、芸能者は「遊治郎」であり、「河原乞食」にすぎない。大衆の埒外にあって、大衆を寄る辺とする者たちだ。それが大衆の上に君臨しようとする倒錯。これをわたしは大衆化の極み、成れの果(ハテ)と括った。世がすべて等し並みに大衆と化し貴顕が消えた果てに立ち現れたもの、それが芸能者という似て非なる貴顕であった。
 現代は「『大衆というバケモノ』が野に放たれた醜悪な時代だ」と評する【識者】がいる。ハイカルチャーを駆逐するポピュリズムの専横を嘆く【識者】がいる。
 「大衆化」とはなにか。貴顕に属していたものが一般に供されることをいう。それは決して悪ではない。人類の進化の一頂点である。しかし文化的貴顕までも消し去ってはならない。それはやがて自死に至る道だ。モノカルチャーの愚行と恐怖は「文化大革命」で証明済みだ。
 もしもピカソやゴッホという高みを捨てて、アマチュアリズムにしか価値を置かないとしたら、それは退嬰化以外のなにものでもない。
 卑近な例を出そう。わが家の子どもたちは寿司とは回るものと刷り込まれて育った。彼らが長じて回らない寿司をもしも寿司と認めないとしたら、それは戯画である。世には大衆化できない職人の技もある。だれでも食えるものと、だれでも食えないものがある。だれでも食えるものにしか値打ちがないとしたら、世は暗黒だ。


《テレビメディアについて》
■ 白面はいけません
 タモリ、時として警句を発する。20数年前、徹夜で飲んでたといって、「笑っていいとも」に出てきた。番組が始まって、1・2年のころだ。ほとんどヘベレケ状態、呂律も回らない。案の定、抗議が殺到した。そして明くる日。開口一場、史上最高の『警句』が発せられたのだ。 
  ―― 『お前ら、白面でテレビなんか見るな!!』
 そうなのだ。たかがテレビなのだ。所詮バラエティーなのだ。大仰に目くじら立てるほうがおかしいのだ。ワイドショーなるものが最盛期を迎えようとしていたころだった。頼みもしないのに、河原乞食風情が国民の代弁者のようなツラをして得意然と講釈をたれていることに辟易していた。テレビがうとましくなりはじめていた小生にとって、それは痛快この上もない一言だった。(06年5月1日付)

 バラエティーだけではない。『白面はいけない』状況は、いまやテレビメディア全体を覆う。問題は抱えるものの、ようやっと白面に耐えられるのはNHKだけかもしれない。だからわたしは紅白何とかを決して観ないのだ。なぜあの日だけ民放に成り下がるのか、まったく思慮の外だ。

■ 今時、蓑は着ないでしょう
 この尻軽男、主婦層に中毒症状を引き起こしているらしい。どんな禁断症状が出るのか見てみたいが、一種のパラノイアか。
 テレビのウソについては何度も取り上げた。騙されてはならない。真贋を鋭く見抜かねばならない。特に、威勢のいい一刀両断には要注意だ。眉に唾すべきだ。複雑系の世の中で、簡単に割り切れるほど事は容易ではない。『ズバリ』などという言葉を冠した番組は、一利もない百害と見てほぼ間違いはない。近年この言葉を売り物にしている妖怪がいるが、こんなものは際物どころか擬い物、食わせ物、贋物だ。考えてもみるがいい。それほど世が見透かせるのなら、人は絶望で気が触れるにちがいない。チンピラばばあに来し方行く末を御託宣いただくほど人ひとりの生涯は軽くはないはずだ。こんなものに寄っかかって視聴率を稼ぐテレビ局のケツの軽さにもうんざりだ。(07年6月9日付)

 マスコミを第四の権力と呼ぶ人がいる。最右翼はテレビであろう。特筆すべきはニュース番組のショーアップである。「ニュースショー」なるものの登場である。さらにお笑い芸人の席巻である。彼らは安く使える。視聴率も稼げる。かつ何でもやる。局にとっては一石三鳥である。芸の垣根は限りなく低下し、消費期間もすこぶる短い。消耗品のごとく大量生産と大量消費が繰り返される。酷(ヒド)いのはニュースショーとお笑いの混交だ。病膏肓である。末世である。
 「庶民感覚という錦の御旗を振りかざして、お笑い芸人やタレントさんが行政や政治家をこき下ろしている」現象に異議を唱える【識者】がいる。
 「大衆は大衆であるだけで善である。官僚や大企業や金持ちはそれだけで悪である。また弱者は弱者であるだけで清く正しい。強者は強者であるだけで不正と悪いしがらみのなかにあぐらをかいている、という」ステレオタイプに警鐘を鳴らす【識者】がいる。


《寅さんとはなにか》
■ 奇想!「寅さんの声が聞こえる」
  ~~ヒンドゥー教に人生のあり方を四つのステージに分ける「四住期」という考え方があった。人間はその四つのステージを順次にたどっていってこの世を終えることができれば、それが本当の理想の人生だ、という思想である。
◇第一の住期を「学生期」といい、師について勉学に励み、禁欲の生活を送る。
◇第二の住期は「家住期」と称する。この時期は結婚し、子どもをつくり、神々を祀って家の職業に従事する。
◇第三の住期は「林住期」。これは妻子を養い、家の職業も安定した段階で、家長が一時的に家を出て、これまでやろうとして果たすことのできなかった夢を実行に移そうとする人生ステージである。
◇第四の住期、それが最後に到達すべき「遊行期」である。「遁世期」ともいう。百人に一人、千人に一人、ほんの一握りの人間だけが入っていく「住期」である。~~(山折哲雄 著 集英社新書「ブッダは、なぜ子を捨てたか」から)
 奇想、天外より来る。 ――「林住期」の現代的体現者、それが寅さんだった。(07年6月13日付)
 
 セレブリティーとは名士、名声を意味する。「金持ち」の意はない。ところが最近では、資産家の代名詞として使われる。この誤用、もしくは転位はなぜ起こるのか。価値が金銭に一元化しているからだ。
 「『売れてなんぼ』に拮抗する価値軸がない」と嘆く【識者】がいる。欧米の資本主義には宗教的倫理性が裏打ちされているが、日本には上澄みだけが持ち込まれた。行き着くところは拝金主義の横行である。
 「2007年問題」の今年、「林住期」が話題を呼んだ。高齢化社会の生き方を探ったものだ。片や、「寅さん」は1969年に始まる。ほぼ40年の時を隔てる。高度経済成長が絶頂のころだ。わたしの奇想は「『売れてなんぼ』に拮抗する価値軸」としての「寅さん」だったのかもしれない。日本の資本主義最盛期にすでにアンチテーゼが提示されていたとみれば、「寅さん」は歴史的意義を有する。

 さて、郢書燕説のいくつかを並べてみた。木屑竹頭か、愚者も千慮に一得有りだ。というのは、大いに我が意を得、かつ強くインスパイアされ、「すげー」と唸った一書に出会ったからだ。
 著者は前記の【識者】二人である。
◇波頭 亮(はとう りょう) 経営コンサルタント。1957年、愛媛県生まれ。東京大学経済学部卒業。マッキンゼー&Caを経て、経営コンサルティング会社㈱XEEDを設立。幅広い分野における戦略系コンサルティングの第一人者として活躍を続ける一方、明快で斬新なビジョンを提起するソシオエコノミストとしても注目されている。著書に『戦略策定概論』『組織設計概論」「思考・論理・分析」「新幸福論』『経済透視鏡』『プロフェッショナル原論』など。
◇茂木 健一郎 脳科学者。1962年、東京都生まれ。東京大学理学部、法学部卒業後、東京大学大学院物理学専攻博士課程修了。理学博士。理化学研究所、ケンブリッジ大学を経て、ソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー、東京工業大学大学院連携教授(脳科学、認知科学)、東京藝術大学非常勤講師(美術解剖学)。2006年1月よりNHK「プロフェッショナル仕事の流儀」のキャスターを務める。著書に「脳と仮想』(小林秀雄賞受賞)など。

 またその一書とは、二人の対談集「日本人の精神と資本主義の倫理」(幻冬舎新書 07年8月初版)である。平易に語られてはいるが、鋭い警世の書だ。カタルシスは請け合いだ。□


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そして王者は、長城を越える。

2007年11月13日 | エッセー
 第三巻は大幅に遅れたものの、第四巻は予定通りの発刊だった。これで大河とも呼ぶべき長編小説は完結する。「蒼穹の昴」に始まり、「珍妃の井戸」を挟んで「中原の虹」と、全九巻が揃った。帯のコピーを借りれば、「浅田次郎の最高傑作、堂々完結!」である。
 さすがに今回は既刊の「あらすじ」付きだ。それほどに長い。「珍妃の井戸」があらすじから抜けているのは、番外編、寄り道の扱いなのであろうか。「蒼穹の昴」ダイジェストの役割も併せもっていたので、そうかもしれない。
 大団円は、私の予想に反した。展開ではなく、時期だ。文字通り中原に虹が掛かった刹那、物語は終焉を迎える。宜なる哉。題名から考えても、そうだ。

 この長編は大清の末期を舞台にした歴史小説である。歴史を知る意味とはなにか。
 文中から引く。

  
「よいかね、潔珊。生きとし生くる者みなすべて、歴史を知らねばならぬ。なるべく正しく、なるべく深く。何となれば、いついかなる時代に生くる者も、みな歴史上の一人にちがいないからである。では、いったい何ゆえ歴史を知らねばならぬのか。おのれの歴史的な座標を常に認識する必要があるからである。おのれがいったいどのような経緯をたどって、ここにかくあるのか。父の時代、祖父の時代、父祖の時代を正確に知らねば、おのれがかくある幸福や不幸の、その原因も経緯もわからぬであろう。幸福をおのが天恵とのみ信ずるは罪である。罪にはやがて罰が下る。おのが不幸を嘆くばかりもまた罪である。さように愚かなる者は、不幸を覆すことができぬ。わかるかね、潔珊。しからば私は、この老骨に鞭ってでも、能う限りの正しい歴史を後世の学者たちに遺さねばなるまい。人々がかくある幸福に心から謝することが叶うように。人々がかくある不幸を覆し、幸福を得ることの叶うように」(「中原の虹」第四巻 九十一)


 極めて澄明な論旨だ。異論を挟む隙はない。難題は「なるべく正しく、なるべく深く。」である。第三巻で、氏はこの作品を「冒険小説」と呼んだ。「冒険」の意味をわたしは次のように考えた。
 ~~だから、ぼくは、こうかんがえたのです。チュンル(春児)が、びんぼうのどんぞこからみをおこし、かんがんとなり、しゅっせし、シータイホウ(西太后)をささえ、そして、しんおうちょうのさいごをみとる。そのじんせいそのものが、「ぼうけん」なのかな、と。でも、それも、ちょっとちがうなー。
 そんなことを、うっすらとかんがえながら、よんでいくうちに、つぎのいっせつに、めがとまったのです。

 春児はあわてて表情を繕った。できることならすべての人に、真実を打ちあけたい。太后が悪女でもなく、鬼女でもなく、みずから進んで人柱となったことを。だが太后との約束を果たしおえたあとでなければ、けっして口外してはならなかった。それはおそらく何十年もののち、遥かな未来にちがいないが。(「中原の虹」第三巻 第六章 七十)

 ひょっとしたら、「ぼうけん」って、このことかもしれない。そう、ひらめいたのです。もちろん、ぼくのかってなかんじかただし、ぼくりゅうのこじつけだし、「どくだんとへんけん」ってやつですが……。
 つまり、シータイホウは、くにをかたむけた「あくじょ」であるといわれてきた「ていせつ」へのちょうせんです。れきしのほんには、シータイホウは「ちゅうごくの3だいあくじょ」のひとりだとかいてありました。けんりょくにしがみついて、たみくさをぎせいにし、せんそうにまけて、ずるずるとがいこくのいいのままになった。だから、しんちょうをほろぼしてしまった、と。
 それを、ひっくりかえして、ちゅうか、おくまんのたみのため、れきしのぜんしんにそぐわなくなったおうちょうのまくをひく ―― だいあくにんを、とびきりのいじんにする。これは、ものすげーぼうけんですよね。~~ (本年5月23日付け本ブログ「「ちゅうげんのにじ」だい3かんをよんで」)
 通途の歴史解釈、歴史的常識に大きなアンチテーゼを投げかけること。それを「冒険」と捉えた。そのためには、小説という器は最適だ。氏はこう語る。


 学者は真実を追究しなければならない。しかし小説家は嘘をつくことが仕事である。つまりあらぬ推理をこうして文字にするのは小説家の特権で、しみじみまじめに勉強してこなくてよかった、と思う。 (小学館「つばさよ つばさ」から)


 もちろん、「不勉強」は韜晦である。「嘘」は、さらに極上の韜晦である。嘘つきが自ら名乗る筈はない。虚構という擦り切れた言葉を避けて、ひと括りに解りやすく表現すれば、「嘘」となる。浅田ワールドの呼吸のひとつだ。歴史を「正しく、深く」知るために、氏は嘘をついた。未踏の地への「冒険」を挑んだ。全九巻は、その冒険譚である。
 冒険心の源泉はなにか …… 。釘付けになった一節がある。


 日本は中国の文化を母として育った。だからご恩返しをしなければいけない。清国が病み衰え、人々が困苦にあえいでいる今がそのときだ。けっして列強に伍して植民地主義に走ってはならない。それは子が親を打つほどの不孝であるから。(「中原の虹」第四巻 七十七)


 同じ文意の件(クダリ)が他にもある。この豁然たる心根が氏のものであってみれば、浅田次郎という作家は徒者ではない。群集(グンジュウ)の筆に屹立する。
 栄枯盛衰は世の習いである。盛者必衰は時の定めである。「滅び」にどう向き合うか。この作品は滅びゆく側が舞台である。西太后を主役に定めた意味はそこにある。
 まずは、滅びの自覚なき者がいる。世の大半、大勢である。これは捨て置こう。
 次には、滅びを見切る者。これも大半を占める。踵を返し、唯々として新興に乗り換える。
 または、滅びを知り、抗う者。所謂、守旧である。アンシャン・レジームへの固執が極まり、ついに命脈を共にする者もいる。
 そして、みずから幕を引き、密やかに次代に備え、舞台を委ねる者。わが身を時代に奉じ、悪人と呼ばれ、怯懦と罵られる者。しかし、時代が一番見えているのは彼らだ。
 この四通りが滅びの切所に見せる、滅びの側の態様である。作者は当然、西太后を四番目に配した。
 日本でいえば、徳川慶喜か。大政奉還の報に、坂本龍馬は嗚咽する。「よくぞ、御決意なされたものよ」と。倒す者と倒される者。居所は彼岸と此岸に違(タガ)えようとも、両者はしっかりと時代を手挟(タバサ)んでいる。相見(マミ)ゆることの一度(ヒトタビ)すらなくとも、憂国の念に些かも変わりはない。龍馬の慧眼は怯懦と罵られる者の真正の勇気を粛然と見取っていたのだ。
 さらに、作者の剛腕は袁世凱までもこの枠に押し込めようとする。


 今さら真実を選り出せぬくらい、西太后の人生は偉大だった。
 彼女はこの病み爛れた世界の、たったひとつの正義だった。そしてその宝石のような正義すらも、革命の祭壇のいけにえとして捧げてしまった。(中略)
 正義。何という残酷な言葉だろう。正義なき時代にそれを全うしようとすれば、人は悪女となり、落人となるほかはない。(「中原の虹」第四巻 第七章 八十一)

 すべてのしがらみから解き放たれて、陽光の降り注ぐ常夏の島で余生を過ごす。それもひとつの夢にはちがいないが、袁はもっと理想とする大きな夢があった。
 あの西太后が立派に演じた醜悪な王よりも、もっと悪辣な、もっと醜い、万民が不倶戴天の敵と信ずる皇帝を演じたかった。
 ただひとつの目的のために。龍玉を握る関外のつわものが、東北の大地に安住することを潔しとせず、ついに起義を誓って長城を越え、天命なき皇帝になりかわって中原の覇者となる日を、一日も早く招来せしめんがために。(「中原の虹」第四巻 第七章 百二)


 「関外のつわもの」とは張作霖を指す。この辺りの袁との絡み、展開は史実的論証に危うい。「嘘」のひとつかもしれない。張にしたところが、かなり捨象された部分がある。だが歴史の深い冒険譚であってみれば、踏破こそが至上命題だ。一気に飛び越えねばならぬクレバスもあろう。予期せぬブリザードに進路の変更を強いられもする。無事の帰還が最優先だ。でなければ、「話」が聞けぬではないか。
 「蒼穹の昴」以来あちこちに敷かれた伏線は、この巻でことごとく糾われる。終わりを急いだ気味はあるが、大団円は長途の羇旅にふさわしい見事な描写だ。作者畢生の傑作に間違いない。

 帯のコピーには、「そして王者は、長城を越える。」とある。いま、長城を越えた作者の征く手にも鮮やかな虹が掛かっていると信ずる。□


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ことしも干支、えーと??

2007年11月08日 | エッセー
 毎年この時季は頭が痛い。身体も重い。気も重い。といっても、風邪ではない。夏以外は断乎としてひかない。そのような『フールの大道』を歩み通してきた。有り体にいえば、バカの端くれである。いや、立派なバカである。そのバカがカバになるほど身悶えして、ない知恵を絞るのがこの時季なのだ。愚者も千慮に一得有り。とても千慮は叶わぬ。百慮で半得、それでいい。しかし、それも儘ならぬ。
 年賀状は干支に因んでつくる。因んだ人物か、誰かに干支を語らせるか。これが思案のしどころなのである。この約旬年、傍目にはバカバカしい呻吟を自らに課して、堂々、本年に至った。

 さて、「子年」である。十二支の初年でもある。まずは、ことわざだ。
「窮鼠猫を噛む」これは有名だ。しかし、年賀の挨拶としては穏当を欠くだろう。
「大山鳴動、ねずみ一匹」これもしかり。稔りの薄い一年を予感させて、使えない。
「鼠の尾まで錐(キリ)の鞘」相手をネズミの尾っぽにしては失礼だ。
「二鼠藤を噛む」真実ではあっても明るくない。
「鼠が塩をひく」「家に鼠、国に盗人」「鼠壁を忘る、壁鼠を忘れず」いずれも暗い。それこそ「袋の鼠」にでもなりそうだ。初春には向かない。
「時にあえば、ねずみも虎になる」これはいいかもしれない。新年に掛ける意気込みとして悪くない。しかし、相手をか弱いねずみに擬しているようで、礼を失する。
 ネズミさんには悪いが、ねずみに纏わることわざはどうにもうまくなさそうだ。

 「鼠算」はどうだろう。ただ「鼠算式に」などとは使うものの、鼠算そのものを忘れてしまった。幾何級数的な増殖を譬える。縁起はよさそうだが、その「幾何級数」にしたところが、「等比数列の各項をプラス記号で結んだもの」との説明を読んでもまったく料簡がいかない。第一、「等比数列」とは何だ。ああ、『カバ』になりそうだ。といって、数学が苦手なわけではない。体質に合わないだけである。したがって、できない。それに「ネズミ講」を連想させて、これも具合が悪い。

 字源はいかがであろう。いろいろ調べてはみたものの、「子」とねずみが結び付かない。どなたか、お教えいただければありがたい。
 かつて友達の家を訪ねた折、表札の「一子」を母上と取り違えて失笑を買ったことがある。それは父上の名であった。「かずね」と読む。つまり、子年の「子」である。元は男子の敬称として使われたらしい。「孔子」はその一例だ。
 夜行性ゆえに、人間が寝ている間(マ)に食い物を盗む。「寝盗(ねす)み」もしくは「盗(ぬす)み」の転で「ねずみ」になったというのは面白い。しかしこれも賀状には不向きだ。
 ネズミの集団自殺は有名だが、まさか年賀状に取り上げるわけにはいくまい。第一、それには異説や疑問符が付く。学説としては不確定だ。
 
 やはり、ねずみとくれば「鼠小僧次郎吉」。これしかあるまい。
 江戸の後期、化政時代。幕末まで約半世紀前後だ。実在の盗賊である。大名屋敷を専門に狙い、上がりを貧しき民草に分け与えた。「義賊」である。38歳の時、ついに捕縛され晒し首に処せられるが、「お仕事」の総数は100箇所近くで、120件を超える。半端ではない。
 だが、「義賊」は伝説に類(タグイ)するらしい。お上の必死の捜索にもかかわらず、盗まれた金銭が出てこない。次郎吉の暮らし向きは質素。では、金はどこに。と、この辺りが伝説の出所となった。本当のところはノむ、ウつ、カうであったそうだ。
 しかし、伝説といえども忽然(コツネン)と天下るものではあるまい。それなりの訳がある。まず、大名屋敷という権力の象徴に単騎で挑んだこと。反権力のヒーローは民草の望むところだ。町家に金はなく、商家は大枚を抱え込むだけに用心に怠りはない。疲弊して警備が薄く、それでも小金は持っていた大名屋敷こそ狙い目だったというのが実情のようだ。さらに体面上、「盗まれました」とは言いづらい。
 時代は文化・文政。「寛政の改革」が頓挫し、締め付けが緩む。化政文化、町人文化の興隆期だ。派手な錦絵が好まれ、滑稽な読み物が重用され、庶民は川柳で権威を洒落のめした。元禄文化とはちがい、舞台は江戸に移っている。次郎吉が獄門となった天保3年(1832)に「天保の大飢饉」、続く同8年「大塩平八郎の乱」、そして幕末の動乱へと時代は動き始める。牢乎たる支配の構図に翳りが見え始め、底辺に風が吹き込み始めた。そのような世を背に負うて「義賊・鼠小僧」は誕生した。
 「義賊」とは、富貴から金品を掠め貧民に施す盗賊、義侠の賊をいう。モーリス・ルブランの小説に登場する「アルセーヌ・ルパン」もその一人だ。また、後代の脚色が義賊に格上げしたようだが、石川五右衛門も忘れてはいけない。「怪盗」という場合、神出鬼没にして正体不明の盗賊を指す。義侠の介在はない。その分、『格』が落ちる。
 それにしても、「義賊」とは奇妙な言葉だ。正義と不正、善と悪、表と裏、徳行と背徳、矛盾の結合である。アンビバレンスの渦だ。義が賊に堕ちるのでも、賊が義を装うわけでもない。弁証法的概念ではない。春秋の筆法で今風に置き換えると、『原理主義的・自爆的』格差解消法、またはセーフティーネットの『英雄主義的・確信犯的』妄動とでも呼ぼうか。あるいは、無償の「必殺シリーズ ― 必殺仕事人」か。だが、中村主水は義賊とはいえない。有償では「義」に悖るからだ。
 余談だが、久々にパチンコのCMに登場した仕事人・主水。キャッチコピーは「仕事が終わったら、仕事だぜ」 これは、うまい! ワーカーホリックの日本にぴったりだ。

 話を戻そう。干支である。千慮は無理だが、どうやら半得は掴んだ。あと半分だ。まだ猶予はある。もう少しの思案だ。なににせよ、子年が来る。『義賊の年』である。
 「次郎きっつぁん。後生だ、おれんちにも金子(キンス)を投げ込んじゃーくれめーか」 □


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2007年10月の出来事から

2007年11月04日 | エッセー
■ 亀田大毅が反則
 WBCフライ級タイトルマッチで王者・内藤大助に判定負けして(11日)父の史郎トレーナーを無期限のセコンドライセンス停止、本人は1年間のボクサーライセンス停止(15日)
  ―― うなだれて、無言で会見に臨む大毅。ヒールになり切れなかった素の少年を見て、安堵した。
 一連の顛末を眺めると、「教育ママ」と二重写しになってくる。この場合、教育『パパ』と呼ぶべきか。「お受験」はさしずめ、格下との試合か。「モンスター・ピアレント」の顔もあった。ボクシングに事寄せた『現代教育事情』と捉えれば、一見の価値ありだ。
 背景には低迷するボクシング界と視聴率ほしさのテレビ局があった。「民放のNHK」といわれたTBSが、最近では売上増に血眼とか。彼らにとって、亀田家は格好の素材、渡りに船であった。ただ、座礁してしまったが。
 ともあれ、教育事情のことだ。「教育ママ」とは、つまり子供を使った自己顕示をいう。ママがパパであっても、時としてババであろうとも同じだ。付きっきりの猛勉強と猛練習、勉強浸けと練習浸け、何の変わりもない。受験のお供と試合のセコンド、これまた同じ。教師を巻き込んだ試験問題の漏洩と格下相手の試合は、どちらも偽装のグレードアップだ。ゴキブリだかなんだかしらないが、受売りのパフォーマンスはいかにも下卑だ。教室内のいじめに限りなく近い。「〇〇君は風邪でお休み」と言った教師に、「プライバシーの侵害だ!」と噛み付いたモンスター・ピアレントがいたそうだ。この伝でいくと、反則指示の『パパ』は『モンスター・セコンド』か。まことにお寒い限りだ。

■ 「赤福」餅、消費期限偽る
 農林水産省が改善を指示(12日)
  ―― 今年は不二家に始まり、白い恋人、ミートホープ、赤福餅、比内地鶏、御福餅、船場吉兆、はてはミスタードーナツに至るまでさまざまな食品偽装が明るみに出た。
 だれも言わないから、『欠片』が言おう。 ―― これらはすべて内部告発で発覚した。消費者の『舌』が暴いたものは一つとしてない。つまりはその程度のことである。誤魔化すヤツも悪いが、誤魔化される者も間が抜けている。
 腹痛に見舞われた人が出たわけでもない。ましてや落命など一件もない。身体的実害もないのに連中はこぞって国賊なみに叩かれた。自分の『舌』は棚に上げて、非難の大合唱だ。考えてみれば、奇妙ではないか。「全然気がつきませんでした。私は味音痴だったんですね」などという声を聞いたことがない。消費者は王様というなら、「裸の王様」だ。ノせられた王様も相当な能天気である。
 不正競争防止法違反<虚偽表示>が、その罪科である。「表示」とは成分、もしくは製造年月日、さらに消費・賞味期限のことだ。
 分けても賞味期限。賞味期限切れで廃棄される食品は年間2千万トン以上に及ぶ。2001年に「食品リサイクル法」が施行されたが、賞味期限がある限り廃棄の現実に変わりはない。食糧自給率40パーセントの国が、この体たらく。ここにこそ目を向けるべきではないか。飽食ニッポンのマンガのような転倒の姿。食えるに任せて、ついにこの国には「味利き」がいなくなったのである。論より証拠、すべてはチクリから露見した。 
 鑑定家・中島誠之助氏は5メートルの距離があれば、本物かどうか判ると言う。虫メガネで覗き込むのはテレビの絵面用だそうだ。その秘密を自著で次のように綴っている。
 ~~親父も商人で、ましてや目利きだったから、かなり精巧なニセモノを扱っていたはずだ。私が覗き込もうとすると、すーっと何気なく隠したものがいくつかあった。今にして思うと、あれがニセモノだったに違いない。御陰で私は独立して骨董の商売をするまで、ホンモノだけを見て育った純粋培養だったから、逆にニセモノがわかるのだと思う。自分の基準線にないものが目の前にあらわれたときに、何かがおかしいというカンが働く。だから、自分にとっては立派な修業をさせてもらったと、今はありがたく思っている。(「ニセモノはなぜ、人を騙すのか?」角川oneテーマ21)~~
 食も同じではなかろうか。「能書き」ではなく、まずは己の『舌』だ。ホンモノを堪能して作り上げる「味利き」だ。などと嘯いてはみたものの、そのような能力にも環境にも恵まれなかった『欠片』としては、期限切れなど歯牙にもかけず、モドキ食品に舌鼓を打つ今日この頃である。

■ 守屋武昌前防衛事務次官を証人喚問
 衆院テロ対策特別委員会で。軍需専門商社「山田洋行」元専務からゴルフ接待を受けたことなどを認める(29日)
 ~~贈り物は、外交やインテリジェンスの世界では、それが友情の証として使われる。もちろん賄賂としても重要で、たとえば一万円札を「どうぞ」と渡しても受け取らない人がほとんどですが、「フランスに行ったら、あなたに似合いそうな物があったので」とエルメスのネクタイを渡すと、誰でも受け取ります。でもエルメスのネクタイって一本4万5000円するわけですよ。それを10本ぐらい受け取った頃に、相手はハッと気づくわけです。~~(幻冬舎新書「インテリジェンス ―― 武器なき戦争」から)
  ―― 『外務書のラスプーチン』こと佐藤 優氏の発言だけに凄味がある。10本どころか、200回以上。賄賂でないわけがない。『第二のロッキード』と囁かれる所以だ。ベクトルとしてはかなり近い。
 先月も官僚のモラルハザードには触れた。利権、特権と賂。古くて新しい問題だ。金銭欲と支配欲。人間の属性に関わるアポリアである。一筋縄ではいかない。次元を変えた取り組みが必要だ。小池女史ひとりが溜飲を下げて終わり、では済まされない。

■ 福田首相と民主党の小沢党首が初の党首会談
 呼びかけた福田首相が補給支援特措法案の成立に向けて協力を要請。まとまらず、再び会談をすることで一致(30日)
  ―― なにやら、策士策に溺れる展開を見せてきた。(11月4日時点)切所に至ると、オオサワくんには自民党時代のDNAが蠢き出すらしい。血は水よりも濃い、か。
 大括りにいうと、補給支援特措法案を挙げるには衆院での3分の2再可決しかない。問題は、この荒技を使える情況をどう煮詰めるかだ。連立構想がどちらの仕掛けであったかは別にして、この第1ラウンドはフグタくんの勝ちだ。
 漢の名将韓信は「背水の陣」を敷いて趙を破った。わざと自軍を川を背負う窮地に追い込み死力を振るわせたのだ。フグタくんの就任の弁、「背水の陣内閣」はそのような遠謀があったのか、なかったのか。術数の攻防が始まった。

(朝日新聞に掲載される「<先>月の出来事」のうち、いくつかを取り上げた。見出しとまとめはそのまま引用した。 ―― 以下は欠片 筆)□


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