伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

「胸キュン! ジェネレーション天国」

2013年01月29日 | エッセー

 偶然、初回を見た。「胸キュン! ジェネレーション天国」──フジテレビで毎月曜日のプライムタイムに放送される。
 番組のHPによると、
〓〓食べ物・ファッション・乗り物・家電製品…どんなジャンルでも、世代ごとに胸キュンし、衝撃を受けたものは全く異なる。この番組は、今と昔を比べるのではなく、3つの代表的な世代を比べ合うという3世代バラエティ番組。
  司会は、今田耕司(46)そして山下智久(27)という今までに見たことのない最強タッグが実現した! そしてスタジオには、50~70年代に青春を過ごした『創成期バナナ世代(60代以上)』、80~90年代に青春を過ごした『絶頂期キウイ世代(40~50代)』、現代の若者『現代マンゴー世代(10代~20代)』のそれぞれの世代を代表するゲストが登場し、その世代だからこそ盛り上がるエピソードトークや、トークバトルを繰り広げる。〓〓
 とあり、
〓〓初回のゲストには、『創成期バナナ世代』から、安藤和津、小川知子、西郷輝彦、テリー伊藤、中尾彬。『絶頂期キウイ世代』から、川合俊一、熊谷真実、黒田知永子、国生さゆり、高嶋政宏、花田景子、マイケル富岡。そして『現代マンゴー世代』から、くみっきー、志村玲那、藤ヶ谷太輔(Kis-My-Ft2)、松井珠理奈(SKE48)、柳原可奈子、渡辺麻友(AKB48)らが登場。世代間のバトルトークや、世代を超えて共感する姿は興味深いところだ。
 今夜(1月28日)のテーマは、「ビックリした食べ物」と「女子高生ライフ」。テーマに基づく各世代を代表するアイテムに、スタジオは騒然!? 記念すべき初回放送をどうぞお見逃しなく!〓〓
 とアピールしている。
 全体の半分、中どころを見た。「ビックリした食べ物」では、『バナナ世代』がコーラ。「うがい薬かと思った」と小川知子が言ったのには、当時の“一般論”を準っているような気がした。先妣なぞは平気で飲んでいたし、その伜(内緒だが、『バナナ世代』である)も大好物だった。限りなく私服化してきた「女子高生ライフ」の<制服>変遷史はおもしろかった。もしも今のスタイルで50年近く前に街中を歩きでもしたら周囲10メートルに人は近付かなかったであろうし、まかり間違えば逮捕、それに及ばずともまちがいなく職質はされた。もちろん不審者扱いだ。
 バナナとキウイ、それにマンゴーで世代を表徴させるのは巧いといえる。安藤和津が「病気にならないと、バナナは食べられなかった」とコメントしたのには苦笑した。ネタが続くかどうか心配だが、悪い企画ではない。<制服>変化の背景をミニ現代史風に繙くとか、コーラとアメリカの世界戦略をダブらせてみるなどの深化もほしいところだ。乞う、御期待というところか。
 おそらく如上のコーラのように個別には違いがあるものを「世代」で括ることには違和感も抵抗もあるだろう。だが、世代論は有効だと説く識者がいる。内田 樹氏だ。(◇部分、引用)

◇「世代」というものはけっこう重要な概念だとぼくは思っています。世代論なんて何の意味もないよ、と言う人がいますが、それは短見というものです。確かに世代そのものにはたいした意味はありません。どんな世代にも優秀な人、愚劣な人、卓越した人、凡庸な人がいます。その比率はどの世代も変わりません。でも、自分がある世代に属しているという「幻想」を抱いたときから、「世代」はリアリティをもって同世代集団を縛り上げてゆきます。自分一人の経験の意味を、横並びの「同世代」的経験の中に位置づけて解釈するということが起こるからです。
 (ほとんどがポップスに興味がなかったのに・引用者註)それがどうでしょう。ロック・ミュージックが六〇年代の若者文化のランドマークに認定された「後になって」、同学年の諸君が次々と「私は中学生の頃ビートルズに夢中だった」というふうに回想し始めたのです。これは明らかに模造記憶です。でも、本人はそう信じているのです。これが「世代」というものの「怖さ」です。自分がリアルタイムでは経験しなかったことを、自分自身の固有の経験として「思い出してしまう」というのが世代の魔力です。ぼくが世代論の有効性を見るのはこのような「偽造された共同的記憶(コメモレーション)」という幻想の水準の話です。◇(「疲れすぎて眠れぬ夜のために」から)

 先述の小川知子のコメントなどは「模造記憶」の好例かもしれない。「自分がリアルタイムでは経験しなかったことを、自分自身の固有の経験として『思い出してしまう』というのが世代の魔力」であるとすれば、特に『バナナ世代』の発言は割り引く必要があるといえるし、その「魔力」こそが番組のキモであるともいえる。
 メイクを“盛り”、私服のような制服を身に纏うJK(女子高校生のこと……らしい)に、西郷輝彦が「そのアンバランスが気持ち悪いね」と言ったのには大笑いしてしまった。いかにも『バナナ世代』の所感であると同時に、彼も往時においては相当アンバランスだったからだ。古代壁画の「今の若者は……」ではないが、彼も見事なジジイにおなりになったようだ。
 片や、JKが提げる流行りのカバンに「かわいい!」を連発する柳原可奈子は、「ある世代に属しているという『幻想』を抱いたときから、『世代』はリアリティをもって同世代集団を縛り上げて」ゆく一例かもしれない。かつての十八番のギャグも近ごろではさすがに使っていない。それでも10歳も齢の離れたJKの感性に共感できる感性を見せる。未熟性を超えた「世代の縛り」という与圧があったと捉えるのは、穿ち過ぎであろうか。
 昨夜は全国で多くの視聴者が「偽造された共同的記憶」に共感の哄笑をあげ、涙し、苦笑し、または蔑視し、顰蹙し、理解の不能を嘆いたかもしれない。してみれば、あざとく小憎い番組ではある。
 「昭和のエートス」では、内田氏はこう述べる。(◇部分、引用)

◇世代論的断定に「弱い」のが団塊の世代の特徴である。そして、「……するのが団塊の世代の特徴である」という言い方に全く抵抗できないことこそが団塊の世代のきわだった特徴なのである。というのは、私たち団塊の世代は、「あの頃はこうだった」という回想に簡単に同調してみせた世代であった以上に、「世の中はこれからこうなる」という遂行的予言にも、おもしろいようにあっさり屈服する世代だったからである。◇

 「遂行的予言」が印象的だ。団塊の世代の青年期は、右肩上がりに押されて「遂行的予言」が横溢した時代だった。戦後の高度成長期に『バナナ世代』が受けたカルチャーショックは、かつての「文明開化」に比定し得るかもしれない。外の2世代は原型からの応用、発展、進化といえなくもない。トポスが違う。時代の若さと世代の若さがシンクロナイズしたレア・ケースだった。だから、遂行的予言に「おもしろいようにあっさり屈服」したのであろうか。後の2世代には、「遂行的予言」とはおよそ無縁の時代が続いている。
 ともあれ「胸キュン!」は何時も、幾つでもあると心得たい。まさに胸先三寸ではないか。そう、いくつになっても、である。 □


退いて後を

2013年01月25日 | エッセー


 団塊の世代がどんどんリタイアしていく。しかし、人生はなおつづく。アフター・リタイアメントが始まる。さて、どうする? 同世代にとって切実、喫緊のイシューである。
 作家の童門冬二氏が近著「退(ヒ)いて後(ノチ)の見事な人生」(祥伝社新書、昨年11月刊)で、示唆に富む8人のロールモデルを挙げている。要約してみよう。

1.【現役時代の検証】 新井白石
 辣腕家が失脚し、礼遇の中で自叙伝『折りたく柴の記』を綴る。全身全霊で駆けた現役時代を冷静に検証するためであり、歴史への刻印でもあった。
2.【ただ二代目のために】 黒田如水
 戦国一の知将が隠居した後、それでも寄せられる信望を後継者に向けさせるため敢えて悪者になる。お家存続こそが至上命題であった。
3.【「隠居連合」で奔走】 徳川斉昭
 尊王攘夷の家元大名が、同じく国防を憂うリタイア大名を糾合して「隠居力・発想の相乗効果」を発揮。老いてなお国事に奔走した。
4.【師の仇討ち】 古田織部
 秀吉が死んだ直後に隠居。憚ることなく師匠・千利休の志を継ぎ、その恨みを晴らすために後半生を捧げた。仇討ちのアフター・リタイアメントだ。
5.【後継者を裏で支える】 松平宗衍
 跡取りが藩の文化向上に全魂を傾けるため、藩政の改革と修正を続行。舞台裏の苦労を一身に担った。
6.【生涯現役】 松居遊見
 行商で培った近江商人の伝統を受け継ぎ後世へ伝える。現役、隠居に拘わらずその精神と底力を発揮し続けた。
7.【ここから本番】 伊能忠敬
 やりたいことに専念するため、現役時代を精一杯生ききる。引退後が本番。地球一周分を踏破して偉業を残した。
8.【不遇の半生を総仕上げ】 鴨長明
 ツイてなかった前半生。隠居後、その恨みつらみを大きく昇華して随想『方丈記』を書き上げる。ルサンチマンが文学的結晶を生んだ。

 括ってみよう。
 前半生を総括──1.新井白石と8.鴨長明は同型といえる。
 後継の捨て石──2.黒田如水と5.松平宗衍は同類だろう。
 老いて盛ん──3.徳川斉昭と6.松居遊見は同種とみていい。
 いよいよ本番──4.古田織部と7.伊能忠敬は同系ではないか。
 
 どれもしたたかに滾る生命力を感じる。すべてが、「退いて後の見事な人生」だ。それにしてもやはり、4番目は異色だ。伊能は「異能」に通じるか。常人に成せる業ではない。周到な用意と飽くなき情熱、掲げ続ける大志。余生の手習いなぞとはまったく似ても似つかぬ。
 童門氏は、
──毎日、後悔と自己嫌悪と反省の連続だ。ということは、私自身が明らかに、「(引用者註・起承転結の)結ではなく、転の次元で生きている」ということだ。そしてそのことは逆に、私に勇気と励ましを与える。いってみれば、「まだまだ未熟のまま現役で生きているのだ。可能性がある。探求心を失ってはならない」という、前へ前へと歩き続ける気力が湧いてくる。現代の“隠居力”とは、こういうパワーをいうのではなかろうか。起承転結ではなく起承転々の生き方を続ける、そしてその転の中に全生命を燃焼させる、といった気概だ。──と述べる。因みに、氏は今年86歳である。
 さて御同輩。8人のロールモデルのどれでもいい、万分の一でも真似がしたくはないか。だって、人生のリタイアメントはないのだから。 □


「志」高い系(笑)

2013年01月22日 | エッセー

① やたらと学生団体を立ち上げようとする
② やたらとプロフィールを「盛る」
③ すべては自己アピール 質問が長い! 
④ ソーシャルメディアで意識の高い発言を連発
⑤ 人脈をやたらと自慢、そして利用する
⑥ やたらと前のめりの学生生活を送る
⑦ 人を見下す
 以上が「意識の高い学生(笑)」に特徴的な言動だという。人材コンサルタントで大学講師の常見陽平氏の言だ。

   「意識高い系」という病~ソーシャル時代にはびこるバカヤロー

 ベスト新書、昨年12月刊である。同書の袖には ──「意識高い系」と呼ばれる人々の存在をご存じだろうか? 数年前からネットスラングにもなった、この「意識高い系」という言葉は、セルフブランディング、人脈自慢、ソー活、自己啓発など、自分磨きに精を出し、やたらと前のめりに人生を送っている若者たちのことを指す。
 なぜ彼らは、「なりたい自分」を演出し、リアルな場やネット上で意識の高い言動を繰り返すのだろうか? 本書は、相互監視社会やコミュニケーション圧力、ソー畜といった現代における諸問題から、「意識高い系」が生み出された原因を追及し、「なりたい自分」難民の若者たちに警鐘を鳴らす。──とある。だから、学生のあとに“(笑)”が付く。もちろん目的は“(笑)”が除かれた、真に「意識の高い学生」だ。書店でふいに見かけ、「意識高い系」に目が行き、“(笑)”に釣られて手にした。鋭い若者論であると同時に、外の世代も大いに啓発される内容である。
 読み終えて、大阪の体罰問題が浮かんだ。
 なぜああまで、市長はオーバーリアクションを起こすのか? 入力と出力とに途方もないタイムラグがある教育問題に、なぜああまで前のめりになるのか? その一つではあるが、確実な回答が如上の見解にあるような気がした。
 準えてみると、①は「〇〇の会」であろう。②は「盛」り過ぎの“タレント”時代に比定し得るし、それなしには今は確実に招来されていない。③ ④はつとに周知だ。⑤は元都知事を挙げれば足りる。⑥は学生を政治家に置き換えればそのままだ。⑦も常態である。
 だから市長は、「意識の高い学生(笑)」ならぬ「意識の高い政治家(笑)」ということになる。「意識」を「志」とすれば、政治家には似合いか。ならば、──「『志』高い系」という病~ポピュリズム時代にはびこるバカヤロー──とでもオバーライトできるか。

 22日TBSの「ひるおび」で、評論家の大谷昭宏氏が「市長は首長であると同時に特定政党の代表でもある。今回は体罰問題だが、教育に政治が関わってくる先例をつくると、他の面でもその政党の価値観を強要することになるのではないか」と憂いていた。同席した尾木ママの要領を得ぬコメントに比して、鮮やかに騒動の根を捉えていた。
 「前のめり」のために、常に「自己アピール」するイシューがないと転倒してしまう。政治的自転車操業ともいえる。さぞ、お疲れであろう。同情を禁じ得ない。
 それにしても、市長のリアクションは体罰以上に暴力的ではないか。アルジェリアの性急で強硬な対応を非難ばかりはしていられない。 □


「何様」言葉

2013年01月19日 | エッセー

 今月の新刊から。
 「ナニ様?」な日本語 (樋口裕一、青春新書)
 著者は多摩大学教授で、250万部のベストセラー「頭がいい人、悪い人の話し方」で知られる文章指導のエキスパートである。
  「ナニ様?」な日本語、つまり「何様言葉」、上から目線の物言いだ。まずはいくつかを、同書からピックアップしてみよう。(解りずらいものは、……以下で同書の解説を付けた)


<同僚に>
「使えない」「終わっている」……相手を単なる機能や物としか見ていないことを意味する。
「手伝ってあげる」
「お手並み拝見」
「この分野にはちょっとうるさい」……自分から何も言わなくても、特定の領域に力のある人は自然に発見され、認められる。
「こんなこと言えるのは俺ぐらいだ」

<取引先に>
「ついでに寄らせていただきます」
「何度も申し上げましたが」
「誠意が感じられません」
「おじいちゃん、大丈夫ですか?」……赤ちゃんをあやすかのように言うと、知的に劣る人扱いしているようなものだ。

<上司に>
「腕を上げましたね」
「期待しています」
「ふつうできません」……社会では普通でないことは多々ある。それを無視してこう言うと、部下の方が上司よりも社会を知っていると豪語したも同然だ。
「教えてもらってないので、わかりません」
「私の仕事ではありません」

<部下に>
「とりあえずやっといて」……完璧なものを期待していないという響きがある。
「だから、ダメなんだ」
「子供の使いじゃないんだから」
「努力が足りないんじゃない?」
「べつにいいんじゃない?」……そんなおざなりな対応ではやる気をなくてしまう。

<その他>
「結論は?」
「何が言いたいの?」
「そんなこと言ったら、人に笑われるよ」
「顰蹙ものです」
「敵に回しますよ」
「私、それダメ」……周囲には興味あることばかり話すように強制し、自分に興味のないことは話題にするなと命じているようなものだ。
「常識でしょ」
「残念な店」……よくは思わないという主観を言うのに、客観性を持たせてしまうということは、自分の主観をさも皆の意見のように言っていることだ。


 代表例だが、これだけでも身に覚えがある。それどころか私なぞほとんどに該当し、かつ常套句でもある。いかに鼻つまみか。ただ幸い?なことに、体臭同様本人は気づかない。
 著者は本書の目的をこう述べる。
──「何様」発言が怖いのは、ついうっかり「何様」言葉を使っていると、行動までが「何様」化することだ。けっして当人の性格は傲慢なわけではないのに、見た目の「何様」度が上がってしまう。その結果、相手の反感を買いやすくなる。上司の理解や部下からの人望は得られにくいだろう。職場の仲間からは煙たがられるかもしれない。逆に言えば、「何様」言葉を意識的に使わない人は、そのような危険を逃れられる。「何様?」というフィルターで見られないから、正しく評価してもらいやすい。──
 単なる世渡りのハウツー本といえなくもないが、背景はそれほど単純ではあるまい。目線の『高度』が計れないから「何様言葉」が出現したといえるが、それ以前に上下意識が限りなく希薄化したことが根因ではないか。
 内田 樹氏が深甚な話をしている。(◇部分)

◇親の仕事とは、ひとことで言えば、「子どもを適切な仕方で社会化する」ということです。
 「とにかく、怒られるから、やめなさい」というのは、社会的規範の教え方としては経験的には有効なものです。社会的な規範というものは決して「諄々と理を説けば、子どもにでも分かる」ような成り立ち方では作られていません。
 「みつかったら怒られるぞ」というような言い方くらいしかとりあえず思いつきません。それは「悪いことしてっと、ナマハゲに食われっど」とか「はやく寝ないとトリゴラスがきちゃうよ」とか「言うこと聞かないと赤マントがさらいに来るよ」とかいうのと同型の恫喝であって、まったく論理的な説明になっていませんが、これは「しつけ」の本道ではないかと私は思います。
 どうしてかというと、このような「とにかく……」型の恫喝は、少なくとも一つのことだけは確かに子どもに伝えることができるからです。それは、「内輪のロジック」や、「親の力」の及ばないところに、「社会的規範」が存在する、ということです。
 「ナマハゲ」はそのような「社会的規範」の象徴です。「ナマハゲ」が強権を行使するときには、親がいくら泣いて懇願しても子どもは喰われてしまいます。親より上に、それよりはるかに強大な権威者があるということ、それがときには理不尽な暴力的制裁を子どもの上に行使する可能性があるということ、これを教えるのが「子どもの社会化」ということです。
 「家の外部」が存在し、そこでは「家の中」とは別のロジックが支配しており、「親」はそれに服属し、それを承認するほかないということ、子どもの社会化とは、要するに、そのような「位階差」「段差」があることを知らせるということです。「ナマハゲ」「トリゴラス」の類の説話群は子どもにそれを理解させるためのツールであると私は思います。◇(角川文庫─「おじさん」的思考─から)

 いやー、鋭い。痺れるほど鋭い。「とにかく……」型の恫喝は因習的で、「諄々と理を説けば」型こそ現代的だとする蒙を啓かれた。
 となると、「何様言葉」の出現は「子どもの社会化」が不首尾に終わったための一現象ともいえる。「位階差」「段差」への認識が欠落することは、“上下意識が限りなく希薄化”することといえよう。
 さらに深掘りすると、「下流志向」が見えてくる。つとに有名な内田氏の持説である。学びと労働からの逃避をドラステックに抉った卓説である。──子供たちが「消費主体」として社会に参画するため等価交換と自己決定の過大視が生まれ、“誇らかに”下流を目指す──。蓋し、洞見である。肥大化した「消費主体」、つまりは『王様』が上から目線になるのは当然であろう。「何様言葉」の根は深い。
 してみると、数年前IKKOが頻りに連発していた『どんだけぇ~』はかなりいいところを突いていたといえる。……などといえば、『どんだけぇ~』と返されそうだが。 □


落葉帰根

2013年01月17日 | エッセー

 ビートルズの“Get Back”から松村和子の「帰って来いよ」を連想するのは突飛すぎるであろうか(古いと言われれば、二の句が継げぬ)。訳せばそれに違いなかろうが、アリゾナのツーソンと津軽のお岩木山では相当違う。中身はというと、もっと違う。
 前者はポールとジョン(&ヨーコ)との確執を踏まえるとややこしいメタファーとかなりの皮肉が利いているのに対して、後者は直情の吐露といえよう。ただ前者が彼らの“アーリー”サウンドへの回帰であり、後者が古典的楽器をフィーチャーした点がこじつければ似てなくもない。
 もう一っ飛びすると、「落葉帰根」であろうか。朽葉が養分として根に帰る自然の循環をいい、転じて郷里への帰還をいう。
 『樹高千丈 落葉帰根』は望郷の念を幽妙に歌い上げる。01年、中島みゆきの作品だ。

  〽樹高は千丈 遠ざかることだけ憧れた
   落ち葉は遥か 人知れず消えてゆくかしら
   いいえ どこでもない 枝よりもっと遥かまで
   木の根はゆりかごを差し伸べて きっと抱きとめる〽

 材を漢籍に採ってはいるが、決して硬くはない。難物をも自らの掌中にした傑作だ。『樹高千丈』は「遠ざかることだけ憧れた」に、『落葉帰根』は「木の根はゆりかごを差し伸べて きっと抱きとめる」にメタモルフォーゼしている。見事というほかない。
 『樹高千丈』を上昇、成長志向、中心、集約志向と捉えるなら、『落葉帰根』はそれらの逆行ともいえる。団塊の世代がリタイアメントを迎えたことやロハス志向もあり、当今「憧れの『田舎暮らし』」が話題だ。トレンドは若い世代にも及んでいるらしいが、たつきを考えると難しい面がある(一部ではSOHOの活用もあるが)。「空き家問題」とも併せ、時代を読んで政治がどう手を打つか。期待したい。
 イシューは「憧れ」にある。筆者は一丈にも満たぬ『樹低』で落葉帰根となったが、千丈の樹高で帰根に身を焦がす友垣を散見するようになった。近年頓にだ。
 老親を介護する喫緊や如上の志向とは明らかにちがう。農耕民族のDNAといってしまえば身も蓋もないが、埋み火のような情念だ。生来的な希求だ。でなければ、“Take me home,country road”と唄うジョン・デンバーに琴線を掻き毟られはしない。

 望郷は歌になる。ジャンルを問わず、また都鄙の別なく。なぜなら、深く生き物のありように拘わるからだ。
 帰根を希う友よ、「木の根はゆりかごを差し伸べて きっと抱きとめる」と信じてくれ。“Get Back”! 君の“TUCSON,ARIZONA”へ。

 年明けに、リマスター盤“THE BEATLES 1”を聴いた。クリアな音にあらぬ想念が涌いた。 □


「日本語の宿命」

2013年01月15日 | エッセー

 宿命は人生にばかりではなく、言語にもあるらしい。日本は史上それに二度見舞われた。最初は古代、漢語によって。次は維新以後、欧米言語によって。どちらも異質の大きな文明や文化に直面し、それらを吸収することで大きな脱皮を成した。だが、そこには宿命的アポリアが付き纏う。別けても舶来の概念がそうだ。

  「日本語の宿命」
    ──なぜ日本人は社会科学を理解できないのか(光文社新書、昨年12月発刊)

 筆者は帝塚山学院大学教授・薬師院仁志氏。社会学が専攻の学者だ。冒頭、氏はこう述べる。(◇部分は同書より引用、以下同様)
◇ただし、単に外来語や翻訳語を採り入れることは、それらを正しく理解することと同じではない。われわれは、「民主主義」や「市民」の意味を正しく理解してきたのであろうか。「個人主義」や「共和国」といった事柄を、本当に知っているのであろうか。◇
 今や『日本語』と化した「社会」「個人」「権利」などなど、「意味を正しく理解して」いない言葉が取り上げられている。
◇ある単語が何を指し示すのかは相対的かつ恣意的なのであって、そこに絶対的な真理や普遍的な正当性があるわけではない。それでも、西洋語によって形成された知識を理解し、それを広い視野の下で把握するためには、翻訳語だけに頼るのではなく、どうしても原語の意味内容を知ることが不可欠になってしまう。◇
 として、原義からの解明を進めていく。さらに、「本当に知って」いないために惹起されたさまざまな問題が剔抉される。平易な語り口であるが、時宜を得た警世の一書といえよう。(朝日新聞の書籍欄でも今月13日に紹介されていた)
 
◇なぜ「キャピタル」が「首都」であると同時に「資本」なのか。◇
 かつて考えたことがある。結論が出ぬまま忘れていたが、膝を叩いて納得した。ラテン語の「頭」が字源であってみれば、そりゃそうだ。

◇進歩的な考え方だった「学歴主義」◇
 「法治主義」と「法の支配」の違いを講ずる場面で出てくる。勝てば官軍。明治期に跋扈した藩閥へのアンチテーゼであった。当時の負け組に想像力が及ばねば、今時の価値観が誤解を生む。
 「法治主義」と「法の支配」。どちらにせよ、なぜ「法」によるのか? 王権との角逐、英仏のありようの違い。なかなか興味深い。

 「社会」とは何か。本邦ではこの一言で括られるが、『本場』には二つの言葉がある。コミュニティーとソサエティ。加えてややこしいのが、「社会」が漢語であること。つまり「社会」が、
◇西洋語の翻訳であり、中国経由の漢語であり、かつ一般的な日常語であるという性格を、矛盾を抱えながら同居させてきた◇
 ために、あらぬ混乱が生じている。「大衆」「個人」も同類だ。衆を頼んでもファミレスは「大衆食堂」とは呼ばぬし、「大衆文芸」の場合はポピュラリティに因っている。
 「個人」も面倒だ。「インディビデュアル」が中国語経由で輸入されたからだ。さらに西欧史で登場する「パーソナリティ」との絡み。日本国憲法での「個人」。「個人」については二章にわたって論考されている。
 「市民」も劣らず難敵だ。「市民団体」と「市民社会」の間の不整合はどこから来たか? “NPO”と“NGO”はどうちがうのか? 圧巻は「民主主義と共和制」と題する章だ。
 氏は「民主主義は手続きに非ず」として、次のように述べる。
◇西洋の知識や文化を未消化のまま輸入することを余儀なくされた日本では、中身の理解を伴わず、具体的な“やり方”、すなわち形式や手続きだけが一人歩きするようになった。あげくの果てには、単なる多数決が民意と誤解されるような事態さえ生じてしまう。
 これは、悪い冗談ではない。現実に、次のような言辞が登場しているのである。
──民主主義は、市場競争原理を政治に応用しています。たとえば、選挙や多数決はマーケティングシェアをたくさんとった人が勝つ。市場競争原理そのものです。(上山信一『大阪維新』角川書店)──
 多数派が勝ちで少数派が負けというかたちの政治決定が、民主的な国家を実現するはずはない。民主主義の目的は、選挙や多数決を国民間の闘争と化し、同じ祖国を持つ人間を多数派と少数派、ひいては勝者と敗者に分断することではないのである。
 ヨーロッパ(スイスを除く)では、個別の政策決定に際して住民投票や国民投票に訴えることは、非民主的な行為だと見なされることが多い。そのような方式は、議論による合意形成を放棄した勝負でしかないと同時に、歴史的に見ても、独裁者──ナポレオン一世、ナポレオン三世、ヒトラーが多用した手法だったからである。◇
 市場原理と民主主義を同一視する『大阪維新』の主張は、極めて陳腐で噴飯ものだ。ただこれが「悪い冗談ではない」のは、大向こうを唸らせている事実だ。いかにも「民主主義」を鮮やかに揚言しているようで、似ても似つかぬ珍説で大向こうのフラストレーションを巧みに取り込もうとしている。そのあざとさが怖い。独裁者の手法に通底するあこぎな口車だ。「宿命的アポリア」に足を掬われてはなるまい。
 内田 樹氏は養老孟司氏との対談で、こう語っている。
「すべての言葉は一義的には定義できないですよね。辞書を引いたって語義が一つしかない語なんて存在しないじゃないですか。一義的に定義しない言葉は気持ちが悪くて使えないという人は、知性のあり方があまり人間的じゃないということじゃないかな。用例が一つ増えるごとに言葉の意味が変わるって当然なんです。定義に終わりがないから辞書が頻繁に改訂されるわけで、言葉の意味が一義的だったら、ぼくたちは今でも平安時代の辞書で不自由ないはずです。」(「逆立ち日本論」新潮選書)
 よく観察すると、『大阪維新』は「一義的定義」を多用する傾向がある。「知性のあり方があまり人間的じゃない」証左かも知れない。

 ともあれ「宿命」は悲嘆に暮れるより、乗り越えれば予期せざるアドバンテージを掌中にできる。「外来語や翻訳語」に纏わり付く「宿命」も、原義に還りつつ多義性を丹念に繙くことで乗り越えられるのではないか。歴史の垢を削ぎ落とせば、珠のような言の葉に蘇生できる。それこそが明治の先達が流してくれた尊い汗に報いる道であろう。 □


年賀状を読む

2013年01月10日 | エッセー

 年初の最大の愉しみは年賀状を読むことだ。近頃は観る賀状も多いが、状である限りはやはり読むべきであろう。
 わたしもそうだがほとんどがワープロを使って賀詞やイラスト、写真を入れ、余白に短いコメントが書き込まれている。だからコメントを除けば、毎日のように顔を合わす人からの賀状にはこちら以外に見せる余所行きの顔を垣間見ることもある。意外にも他人行儀なコメントに微苦笑を誘われる場合もある。年賀状だけの繋がりであっても、ふっと懐旧が過りあらためて縁(エニシ)に気づく時もある。さすれば親疎に拘わりなく、貴重な一枚一枚ではある。
 ところが年に一度の便りさえ切れると、砂を噛むような寂寞の風を受ける。別けても、生者の列を離れたケースは一入だ。賀状の束に、去年まではどこかに挟まっていたそれがない。……まちがいなく来年も来ない。
 愚慮を巡らすと、かつて触れた「やぎさんゆうびん」に込められた“コミュニケートの意志”に行き着く。つまり、年賀状の行き来は虚礼ではない。たとえ流行りのメールだとしても、行き交うのは“コミュニケートの意志”だ。大袈裟にいえば、ヒトの属性に類する慣習ではないか。

 今年の年賀状に、忘れられない一葉があった。昨年師走の晦日に亡くなった人からのそれだ。近年疎遠であった。入退院を繰り返しているとは聞いていたが、ついつい見舞いにも行かず不義理をしてしまった。三箇日が明けての葬送に参じた。賀状に認められた署名がしきりに浮かび、往年の勇姿が抗し難くフラッシュバックした。
 一方、目を瞠った一枚もある。二つほど年上の先輩からの賀状だ。「健康長寿を祈ります」と添え書きがしてある。健康は判るが、「長寿」にはしばし考え込んでしまった。相手をお間違えか。あるいは先年の大病を気遣ってのことか。それとも、長寿が身に染みる病でも患いなすったか。確かに忙しない性格の方だが、それにしてもちょいと早すぎないか。

 悲喜交々年初の愉しみを捲りながら、しきりにリフレインする詩(ウタ)がある。

  〽君よ 永遠の嘘をついてくれ 
   いつまでもたねあかしをしないでくれ
   永遠の嘘をついてくれ 
   出会わなければよかった人などいないと笑ってくれ〽

 中島みゆき「永遠の嘘をついてくれ」だ。
 『嘘』を人が世に棲む仮相と大きく括れば、そう、「たねあかし」は艶消しになる。「おもしろき こともなき世を おもしろく」と名句は訓えるではないか。だから『嘘』をわが現世(ウツシヨ)の「おもしろき」劇と達観すれば、そう、「出会わなければよかった人などいない」。みんな、掛け替えのない配役ではないか。 □


ぶつからない車

2013年01月08日 | エッセー

 スバルの“アイサイト”が一頭地を抜いている。CCDカメラを2つ搭載し、人間の視覚のように立体的に環境を認識できるのが売りだ。蛇足ながら、筆者はスバルの回し者ではない(かつて水平対抗エンジンに嵌まり、2台を乗り潰したが)。以下、HPより。
〓〓4つの機能
『ぶつからない』技術……万一のとき、段階に分けて自動でブレーキをかけて危険回避をサポートします。
『ついていく』技術……渋滞で少し動くたびに、せわしなくアクセルやブレーキを操作するストレスも軽減されます。
『飛び出さない』技術……停止状態から前方の障害物を認識し、誤操作による急な発進を防ぎます。
『注意する』技術……ふらついた運転や、意図せぬ車線変更などを注意してくれる安全運転のパートナー。

 高速道路を走行中、疲れや眠気で注意力が散漫に。そのため、クルマがふらついたり、車線からはみ出しそうになったり、気付いたら車線をまたいでずっと走っていたり…。そんな時、アイサイトは車両のふらつきや車線からの逸脱を検知するとそれをドライバーに知らせて回避操作を促します。
 また、信号待ちで先行車が発進しても、自車が発進しない場合も先行車の発進をお知らせします。
 他のことに気をとられて手元を確認せずにシフトレバーを操作したり、急いでいて慌ててペダルを踏んだり。「そんな間違いありえない!」と思っていても、意外と起きるのが発進時のシフトの入れ間違いやペダルの踏み間違いによって起こる事故。アイサイトには、AT誤発進抑制制御を織り込み、そのような事故の防止もしくは被害の軽減を図っています。
 長距離運転の疲れ、ノロノロ進む渋滞のイライラ。アイサイトの全車速追従機能付クルーズコントロールはそんな運転の疲れやストレスを和らげてくれます。高速道路や自動車専用道路において、時速0~100kmの幅広いスピードで先行車についていき、先行車が停まると、それに続いてブレーキ操作をしなくても停止します。
 発進もスイッチひとつでOK。ドライバーのペダル操作の負担を大きく減らします。前のクルマに接近しすぎたり、歩行者や自転車を見落として、あわや衝突事故! 危険を予測し、衝突を回避するプリクラッシュブレーキは、そんな「ヒヤリ!」の瞬間を「安心」に変えてくれます。ステレオカメラが常に前方を監視し、クルマへの追突や歩行者などに対して衝突の可能性が高いとシステムが判断すると、警報音と警告表示でドライバーに注意を喚起。さらに衝突回避のための操作がされなければ、自動ブレーキをかけて衝突を回避、もしくは被害の軽減を図ります。また衝突の可能性が高い時(警報ブレーキ作動時)にブレーキを踏むと、ブレーキアシストが作動し制動力を高めます。〓〓
 『交通戦争』を知る世代にとっては夢の車だ。他社も必死に追いかけている。今や「パッシブ・セーフティからアクティブ・セーフティへ」が、自動車業界の流れだ。その極め付き、“ぶつからない車”をめざしてのイノベーションである。特に、各メーカーが抱える「歩行者の死亡事故を一段と減らす」という至上命題への切り札でもある。さらに磨きがかかれば、再び世界の先端技術として日本の売りになる。
 しかし、冷ややかな目もある。「わき見運転を助長する」に始まって「完全はないのに誇大広告だ」に至るまでさまざまだが、新芽に冷や水を浴びせることはあるまい。夢を追いかけない限りエボリューションはないからだ。ただ“セーフティ”が見果てぬ夢であることに変わりはない。なぜ、見果てぬのか。高著に教えを請うてみたい。
 「事故がなくならない理由(ワケ)──安全対策の落とし穴」(PHP新書)
 著者は、交通心理学、人間工学を専門とする立教大教授の吉賀 繁氏。昨年10月の発刊である。(◇部分は同書からの引用)

 なぜ人はリスクを冒すのか。リスクには甘露があるからだ、しかも2度味わえると氏はいう。
◇リスクに直面すると覚醒水準が上がり、そのため脳内でカテコールアミン(アドレナリンの基になる物質)が分泌され、それが快感につながる。さらに、リスクを乗り切って覚醒が下がると、エンドルフィン(「脳内麻薬」とも呼ばれる物質)が放出されて、再び快感を感じるのだ。つまり、リスクは「一粒で二度美味しい」というわけなのだ。◇
 如上の脳科学的な観点に、遺伝からの興味深い論点が加わる。
◇(貨車の屋根に上ったり、橋から飛び込んだり、時として若年男子による『無謀』な行動、事故が報じられるように)若い男が危険な行動を好むのは、進化行動学によって説明できる。すなわち、リスクをおかして未知なる土地へ冒険の旅に出ることで、新しい肥沃な土地を手に入れたり、(女性を手に入れることで)新しい遺伝子を手に入れることができるからである。戦争でも多くの若者がそのために命を落としても、一人が英雄となって領土を獲得すれば、彼と彼の部族の子孫は繁栄するのだ。しかし、理性的に考えて自分の命を危険にさらすわけではない。冒険や戦いが好きなのである。そのような遺伝子、昔の英雄から受け継いだ遺伝子が確かに私たちの遺伝子プールに一定割合で存在するはずなのだ。◇
 さらに、畳み掛ける。
◇たかだか一〇〇年くらいの経験しか持っていない自動車のリスクを、生物としての人類はまだ知覚することができない。人間は全力で走っても時速三六キロ(一〇〇メートル一〇秒)が精一杯。時速一〇〇キロで走るときのリスクや、一トンもの鉄のかたまりが、すぐ横を走りすぎるリスクなどを、直感的、本能的には知覚できないのである。◇
 だから存外なことに、リスクは忌むべきものではなくヒトの属性ともいえる。そこに安全対策のアポリアがある。典型的なのが、「リスク・ホメオスタシス理論」である。「人はリスクが低下したことを認識する」と、「この認識が人の行動をリスキーな方向に変化させる」というまことに荷厄介な曲者だ。
 前述の「わき見運転を助長する」が格好の例だ。道幅を広げて事故が増えた事例もある。またノルウェー、フィンランドで「スキッド」訓練(凍結路でのコントロール)を義務化したところ、逆に事故が増加したといった実例もある。
◇「恒常性」と訳すこともある。恒温動物の体温調節機構が分かりやすい例で、外気温が低いと汗腺を閉じ、皮膚表面に近い血管を収縮させて放熱を抑えるとともに、体内で熱を発生させて体温を維持する。逆に、外が暑いときや、運動をして熱生産が増えたときは、発汗したり、血管を広げたりして熱を放出する。ホメオスタシスの基本的メカニズムは「負のフィードバック」機構である。体温にせよ、血圧にせよ、体液中の塩分、糖分、各種ミネラル成分の濃度にせよ、それぞれ体内にセンサーがあって、適正な値を外れると自動的に値を元に戻すための対応策が発動される。なぜ「負の」フィードバックというかというと、検出値が高過ぎればマイナスの方向に値を変化させるように働き、検出値が低過ぎれば(設定値との差がマイナスなら)プラスの方向に値を変えるように働くからである。◇
 「一〇〇年くらいの経験しか持っていない自動車のリスクを、生物としての人類はまだ知覚することができない」がゆえに、『体内センサー』が「適正な値」を掴み得ていないのだろう。いかにも悩ましい。
 
 最近の話題は、「自動運転自動車」である。「自動」が前後に2つある。後者は解る。牛や馬が引かないということだ。エンジンを搭載して自ら動く。軌道に依らず自由に動く。だから「自動車」だ。問題は前者。GPSを駆使したオートクルーズ機能で手ぶら運転を可能にする。だから「『手ぶら』運転自動車」である(康介さんには乗せられない!)。“アイサイト”どころではない。先行するのは、なんとグーグルだ。すでに48万キロにも及ぶ実験走行に成功し、5年以内の実用化をめざしているそうだ。グーグルマップにストリートビュー。よく考えると、いかにもグーグルらしい。いや、発想の跳躍力に心底唸る。日本ではトヨタが必死に後を追う。追いつければよいが……。
 「自動運転自動車」が実現のあかつき、ひょっとして『自』分で『動』かせないストレスに堪兼ねてすべての機能をオフにする不届き者が現れるかもしれない。でも、それさえも“アイサイト”が見逃さないか。となると、自動車は限りなく『他動車』に近くなる。さすれば、別次元での事故が危ぶまれるのではないか。オートメーションが人間を疎外したように……。   

 古い言葉だが、「用心」という。心をいかに用いるかだ。古賀氏の結論は冒頭に示される次の言葉である。
◇安全対策がどのような成果を上げるのか、あるいは上げないのかを決めるのは、その安全対策によって人間の行動がどのように変化するのかにかかっている。これは工学の問題ではなく心理学の問題なのである。人間の心理を考えない安全対策、安全施策では事故リスクを減らすことができない。◇
 絶対の安全運転は車を動かさないこと、完璧な安全作業は仕事をしないことだ。だが、それは形容矛盾であろう。「丸い三角」の類いだ。矛盾を避けるのは折り合いを付ける知恵だ。「丸っこい三角」や「三角に見えそうな丸」なら描ける。リスクは消せないものの、やり繰りしつつ受益はできる。火を使い始めて以来、人類が歩んで来た道ではないか。そしてこれからも、道はその1本きりだ。 □


年の初めに

2013年01月04日 | エッセー

 わたしはデスクトップには、一つもアイコンを置かない。「ごみ箱」もない。20数年間、そうしてきた。机の上にごみ箱は置かないだろうという牽強と、せっかくの壁紙をモザイクで形無しにしてはならないという附会からだ。整理整頓、机はいつもきれいに。きれいの極みがなにもないことではないか。でき得れば机さえないことが理想だが、それは『机上論』というものだ。ギリギリ譲って(だれに譲るのか?)、如上の仕様となった。
 ところが先日古い本をめくっていて、カウンターパンチを喰らってしまった。デスクトップは散乱させるべし、というのだ。論者は、内田 樹氏。

◇ぼくは「デスクトップに並べておく」という言い方をしてます。自分の意識の「デスクトップ」に開いたファイルをどれくらいたくさん載せられるか。どれだけデスクトップが散乱しているのに耐えられるか。この無秩序に対する耐性というのはけっこう大切じゃないかと思うのです。◇

 ものの譬えではある。しかし、志向する心根は同じだ。その心組みに痛打を受けた。実は、この言葉は養老孟司氏の次の発言に応じたものだ。

◇死ぬまでにはとても片付かない問題が多いですね。だけど、そういう死ぬ前に片付かない問題を抱えることが大切なのだと思いますよ。簡単には片付かないけど、とんでもない答えが突然に出てきたりすることもある。ものを考える、考えないというのは、そういうことをいくつ抱えているかじゃないでしょうか。そういうことをどこまで忘れないかにかかってくるともいえます。◇

 6年前の両巨頭による対談集「逆立ち日本論」(新潮選書)での遣り取りである。
 今年も「片付かない問題」を山ほど抱えて明けた。デスクトップは「開いたファイル」だらけだ。「無秩序に対する耐性」がさらに求められる幕開けでもある。
 さて、どうする……。

“巳”は、方角では南々東。 南々東にはなにがある? 首都・東京より南々東に進路を取ると、(ざっと)→小笠原諸島→硫黄島→マリアナ諸島→グアム島→カロリン諸島→ビスマーク諸島→ニューアイルランド島→ブリテン島→ニューカレドニア島→ロードハウ島→ニュージーランド(島)→南極(ここから反対側)→サウスシェトランド諸島→ブラジル(東端)→ベルデ岬諸島→アゾレス諸島→フェロー諸島→アイスランド(島)→スバールバル諸島→ロシア(北端)・・そして、日本列島・東京。 南々東には島、島、島! 海にとざされたとみれば、島国根性。四方に開かれ世界につながるととれば、気宇壮大。巳年はぜひ後者でありたいと願いつつ、歩みを始めます。

 と賀状に記した拙文を引き写して、本年の初稿としたい。 □