伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

『真夏の狂詩曲』

2021年07月27日 | エッセー

 

 今月26日、霊長類学のオーソリティで前京大総長の山極寿一氏が朝日新聞のオピニオンに「豊かな『遊び』、スポーツの起源に帰ろう」と題して寄稿した。要点は以下の通り。

▼スポーツの起源は遊びである。ゴリラもよく遊ぶ。身体を酷使する競技となったのは19世紀以降である。
▼相手に勝つことが目標ではなく、よりいっそう信頼できる仲間となること。
▼しかし、最近のオリンピックは商業主義が目立ち、大量の札束が飛び交う国家事業になった。
▼一番の問題は、オリンピックが国の威信をめぐる戦いの場と化していることだ。
▼4年ごとに開催国を変える方式も改めたほうがいい。多大な費用がかかり、大規模な開発が行われるからである。
▼いっそのこと、オリンピックの開催を発祥の地であるギリシャに固定したらどうだろう。そうすれば聖火リレーも必要ないし、競技場も繰り返し使える。
▼開発国家の夢を追い続けるかのような開催国のたらい回しは、低成長時代にふさわしいとは思えない。
▼新型コロナを体験した私たちは、スポーツの本来の意味に戻る必要がある。スポーツを経済的な目的を持たない、人間の福祉に貢献する遊びと考えれば、新しい世界が開けると思う。(寄稿)

 「遊び」を超えたスポーツの過剰性を五輪から取り除く──開催地のギリシャ固定はこのブログで何度か主張してきた。我が意を得たり、である。聖火リレーは元々後付けの振り付けである。プロ参加もIOCの商業主義による拡大策。メダルも近代オリンピックの産物。そういった余計な装飾物をかなぐり捨てて、遊びの原点に戻ってはどうか。だから、伝統ある世界大会を持つ競技は五輪から除外する。テニスはウインブルドン、サッカーはワールドカップ、ゴルフは4大メジャー大会などだ。スケボーなどの新しいスポーツは世界的規模になってから考えればいい。五輪に便乗してアピールするのもなんだかかー、である。「よく遊ぶ」ゴリラは集団の威信を賭けて「身体を酷使」したりはしない。ヒトは遊ぶゴリラを見て笑うけれど、ゴリラは勝負するヒトを見て眉をしかめているにちがいない。
 もう一つ取り除くべき過剰性がある。「経済的な目的を持たない、人間の福祉に貢献する遊び」のはずなのに、『物語』が過剰に多くはないか。勝ちにも負けにもやたら涙のドラマが饒舌に語られる。当今のワイドショーの影響だろうが、プライベートなことまで微に入り細を穿って物語に仕立て上げられる。張本人はTVを主軸とするマスコミだ。「がんばりました。勝ちました。おめでとう!」、「がんばったけど負けました。残念、お疲れ様」でいいではないか。奇蹟を生んだ裏話は当の本人が自叙伝でも書けばそれで充分だ。赤の他人のアナウンサー如きが涙ながらに語るのはおこがましい。感動の押し売り、いや、感動の叩き売りだ。「感動をもらいました」と、馬鹿の一つ覚えのように繰り返す。小さな親切大きなお世話である。感動とはそんなに薄っぺらなものだったのか。感動はあげたりもらったりするものではない。自らの胸中に抑え難く湧き出(イズ)るものだ。母語を満足に操れないアナウンサーが粗製濫造された結果であろう。観ているものが感動すれば、そこに加えることはなにもない。世の中、そんなに感動がないのか。市井に生きる民草は毎日が本物の『ドラマ』を紡いでいる。それこそ本物の『感動』である。
 不利な海外勢を相手にメダルラッシュで湧かせて支持率回復を狙う。「あんなくだらないヤツ」のマヌーヴァに騙されるわけにはいかない。8月には感染者数は5000人規模に達するだろうと予測されている。ワクチンなんて間に合うはずがない。
 「狂気の沙汰」(内田 樹氏)が繰り広げる『真夏の狂詩曲』。浮かぶのは黒澤映画『八月の狂詩曲』のラストシーンだ。突如原爆の恐怖が蘇った老婆が「ピカが来た」と叫んで、豪雨の中を強風に向かって突き進む。息子や孫たちが追いかける。手にした傘が煽られ壊れていく。“狂”ったのはどちらか。原作は1987年芥川賞を受賞した村田喜代子作『鍋の中』だ。一夏に起こった出来事の連なりが遂に戦争の不条理を告発する。まるでラプソディーのコーダのように。
 今、東京で奏せられている『真夏の狂詩曲』。はたして政権はコロナの狂風の向こうになにを幻視したのであろうか。突き進む先にはなにが俟っているのだろうか。“狂”ったのは誰だったのだろうか。天皇は「祝して」を明確に避け、「記念」すると宣した。天皇の宣言には高々と正気が宿る。せめて『八月の狂死曲』にだけは堕することなきよう、切に祈りたい。 □