伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

あれはデモだ

2021年07月08日 | エッセー

  隣国コーサラ国から王妃相応の女性を嫁がせるよう要求された釈迦国は、上から目線の要求に気分を害する。そこで低い身分の者を高位と偽って嫁がせた。ところがバレる。怒ったコーサラ国は釈迦国撲滅のため出兵。そこに釈迦国の王子釈尊が登場。進軍中に僧侶に出会ったら撤退すべしとの古諺に拠って兵を引き上げた。それでも憤怒(フンヌ)遣(ヤ)る方なく、また出兵。同じことが繰り返された。これで2度。さらに1回。これで3度。遂に4度目に至り、先非は我にありと認めた釈尊は今度は出向かず、そのまま隣国軍は侵入し釈迦国は滅んだ。──「仏の顔も三度」の来由である。留意すべきは都合出兵は4度に及んだことだ。4回目で滅んだ。

 上記は旧稿『仏の顔も4度』から再録した。緊急事態宣言はこれで4回目となる。都議選の敗北を前兆として菅政権は確実に滅ぶ。内田 樹氏が「狂気の沙汰」と断じた五輪はコロナで逝った人びとへのみすぼらしく無惨な供花(クゲ)となるだろう。
 5月の拙稿『幻想の緊急事態宣言』では、その虚構性を糾弾した。「コロナ禍は実在するが、宣言は幻想なのだ。かつ繰り返されるたびに幻想の度は深まっていく」と。
 物流の捩(モジ)りか、人をモノ扱いするようで「人流」は嫌な言葉だとかつて書いた。意味もおかしい。流れず街に屯(タムロ)するのが問題なら「人出」で充分だ。ともあれ、その人出がいっかな減らない。当たり前だろう。あれはデモだからだ。政府の、あるいは都の失策、失政に対する抗議のデモだ。デモなら問題が解決しない限り膨れるのは道理だ。極めて簡明なロジックだ。なぜ、それが解らないのだろう。反知性主義の成れの果てか。または権力亡者の失政隠しか。日本史の汚物・安倍政治の『正統な』継承であるゆえか。
 若者に政権のメッセージが届かないから人出が減らないのではない。体力に自信があるから宣言に耳を貸さないのでもない。60年安保も、70年安保も知らない彼らは新しい形の抗議デモを展開している。そうであるに違いない。党派性はないが政治性の非常に高いデモだ。しかもそうとは見えない意表を突くスタイルで街中を練り歩く。といって、個々人が勝手に歩いているに過ぎないのだが。
 ひとつ提案。飲食業を槍玉に挙げるのなら、飲食業(夜の街の接客業関係者を含め)を職域集団接種の枠組みに優先的に組み込むべきだ(一部の地域では取り組まれているらしいが)。客にばかり目を向けず、受け入れ側に目を転じよ。感染リスクは客に劣らず、いやそれ以上に店側にある。要所におけるリスクの低減は確実な感染防止策となる。ワクチンが決め手というなら、ワクチン以上に頭を回し、ワクチンを回せ。河野さん家(チ)の太郎坊ちゃんにはちと荷が重いか。
 おたおたしてると、歌舞伎町のカマさんたちが徒党を組んで街中を練り歩く旧式のデモに打って出るかも知れない。そうなると東京はもう阿鼻叫喚の巷と化す。 □