伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

数え日 雑感

2015年12月29日 | エッセー

■ YUZU と MAO
 二人に共通するのは「必殺技」である。4回転ジャンプとトリプルアクセルの飛び技だ。かつて引用した文芸評論家の末國善己氏の達識を再度借りる。
◇日本人が好むのは「技」です。小説からマンガ、ゲームまで、日本のエンターテインメントには「必殺技」がよく出てくる。時代小説では、中里介山「大菩薩峠」の主人公・机竜之助の「音無しの構え」に始まり、柴田錬三郎の眠狂四郎の「円月殺法」、藤沢周平の主人公もさまざまな秘剣を使う。スポーツでも、王貞治さんの「一本足打法」、野茂英雄さんの「トルネード投法」など、技の名前をつける。◇
 体操もバレーボールも同様、古いところでは「ツカハラ跳び」然り、「回転レシーブ」然りだ。「日本人が好むの」にベストフィットしているにちがいない。
 戦績もよく似ている。MAOの方が20試合ほど多いが、ざっと計算すると主な大会での優勝はYUZUが46%、MAOが48%。2位以下がYUZU54%、MAO52%。2位は20%と21%。もちろん双方最高レベルで、かつほとんど同じだ。同等に笑い、泣き、惜敗に臍を噛んだ勘定になる。
 違いはどこか。益荒男振りと手弱女振り、といえばステロタイプに過ぎようか。YUZUの「絶対王者」とMAOのヒロイン性は、結句、本邦の古典的男女観に行き着くのではないか。その意味では等位ともいえるが。
 加うるに、刻下のMAOは悲劇性を纏う。敗北、挫折、懊悩、休養、復帰。後継の擡頭、加齢。ヒロイン性が高いだけに微少な陰りも際立つ。エピローグへの予感だ。
 07年5月、「カズかヒデか」と題する拙稿を呵した。三浦知良を挙げ、
「ピークを過ぎてもなお戦場を去らない武士(モノノフ)であり、アスリートたち。中山雅史はこの型だ。野茂英雄もそうだ。桑田真澄、有森裕子、高橋尚子も『カズ型』に入るだろう。おそらく日本人には多いタイプだ。そして日本人好みの類型だ。だから、灰も残らぬほど燃え尽きた『あしたのジョー』はあれほどの共感を勝ち得た。」
 と記した。比するに、中田英寿を挙げた。
「華麗なる転身。あっけないほど潔い引き際だった。新庄剛志もそうだ。荒川静香も入れよう。『ヒデ型』は意外と少ない。日本では希少な類型かもしれない。その絶頂でカットアウトする。音楽や映像では多用される手法だが、己の人生に援用するとは垂涎の生き様である。生中な才能ではなしえない。」
 MAOは休養を経て、『カズ型』を採った。その選択に他人が嘴を容れる筋合いはない。しかし遂にオリンピックチャンピオンは幻に終わり、『あしたのMAO』が予兆されてならぬのは稿者ばかりであろうか。よしんばそうなったとしても、「日本人が好むの」にベストマッチする。ただしずっとずっと先の話だが、YUZUには『ヒデ型』以外の選択はない。日銀の某総裁の十八番を“正しく”使えば、『異次元』の強さに至った「武士(モノノフ)」は「生中な才能ではなしえない」「潔い引き際」しかあり得ないからだ。
 よく似た二人だが、大団円は大いに違う。27日に閉幕したフィギュアスケート全日本選手権を観ての雑感である。

■ 残念な2作品
 亀山郁夫著『新カラマーゾフの兄弟』
 大変な重書である。なにせ重い。上巻664頁、700グラム。下巻769頁、780グラム。計1433頁にもなる長編を、なぜこんな分厚い2巻にするのか。普通ならせめて3巻、いや4分冊にすべきではないか。それでも1巻350数頁になる。目が悪いので机に置いては読みづらい。どうしても手に持つ。細腕には過重だ。悪戦5日間に及び、肩も凝った。この配慮のなさに先ず以て閉口した。
 報道によると、
──ロシア文学者の亀山郁夫さん(66)が、初の小説『新カラマーゾフの兄弟』(河出書房新社)を11月20日に出版する。19世紀のロシアで書かれたドストエフスキーの大長編の舞台を、戦後の曲がり角だった1995年の日本に置き換え、原作を踏まえて原稿用紙3300枚に及ぶ新たな「父殺し」の物語を生み出した。
 阪神大震災、地下鉄サリン事件…時代設定を1995年の日本へ。物語は、『カラマーゾフの兄弟』の設定を移し替えた、黒木家の父の死とその息子たちをめぐる物語と、著者に似た大学教師「K」の話が並行して進む。──
 と紹介されている。佐藤優氏をはじめ、評価は低くはない。しかし蜀犬日に吠ゆるならば、原作を「1995年の日本に置き換え」るためにわざわざ小説にする必要があったのかどうか。そこが鼻先思案には合点が行かない。偉そうなことをいえば、筆遣いはごく普通の出来だ。だからこそ忠実に原作を準ってしまう。読み手には終始ドストエフスキーの影がシンクロする。あの重厚な筆致と甚深なモチーフが明滅する。まるで比重が違うのだ。だから、小説の中で「並行」する「大学教師『K』の話」が浮いてしまう。解説を入れ込んだ小説なぞ艶消しであろう。
 「ネットの普及で世界の壁が取り払われた1995年以降、私たちは無限の視覚を手に入れた。遠い国のテロを目の前のことのように見て、かわいそうだと思いながらも見過ごしてしまう。他者の不幸に鈍感になる。『父殺し』が意味を失った時代に私たちが抱える悲劇の根本に、この小説でふれたかったのです」と、氏は語る。ならば評論の形式でよかったはずで、小説は鬼門だったのではないか。問いかけが深刻で真摯なだけに、借りた庇が立派すぎた。母屋どころか、玄関すら跨げなかったようだ。物理的には不必要に重かったが、中身は残念にも軽かったというべきか。

 昨日シネコンまで伸(ノ)して、話題作『母と暮せば』を観た。
 監督は山田洋次。『84歳の挑戦』だそうだ。広報は以下の通り。
──小説家・劇作家の井上ひさしが、広島を舞台にした自身の戯曲「父と暮せば」と対になる作品として実現を願いながらもかなわなかった物語を、日本映画界を代表する名匠・山田洋次監督が映画化。主人公の福原伸子役を「おとうと」「母べえ」でも山田監督とタッグを組んだ吉永小百合が演じ、その息子・浩二役で二宮和也が山田組に初参加。「小さいおうち」でベルリン国際映画祭銀獅子賞(女優賞)を受賞した黒木華が、浩二の恋人・町子に扮する。1945年8月9日、長崎で助産婦をして暮らす伸子の前に、3年前に原爆で死んだはずの息子・浩二が現れる。2人は浩二の恋人・町子の幸せを気にかけながら、たくさんの話をする。その幸せな時間は永遠に続くと思われたが……。
福原伸子 - 吉永小百合
福原浩二 - 二宮和也
佐多町子 - 黒木華──
 戦後70年の節目を刻する作品だ。それはよくよく解るが、半分ぐらいのところで「これは題名が違う。『息子と暮らせば』じゃないか」と独り言ちてしまった。井上ひさしの戯曲を意識してのタイトルであろうが、それにしても看板が違う。
 稿者は人後に落ちぬサユリストであるが、カムアウトすると青春もの以降主演作は1、2作しか観たことがない。「世代的記憶」としてサユリストを広言してきたのであり、大根役者であることは百も承知だ。後続したあらゆる美人女優を相対化するため、「世代的記憶」の表徴を基軸にした。事情は以下に引くの内田 樹氏の達識に近い。
◇一九六〇年代のはじめにリアルタイムでビートルズを聴いていた中学生なんかほとんどいなかった。にもかかわらず、ぼくたちの世代は「世代的記憶」として「ラジオから流れるビートルズのヒット曲に心ときめかせた日々」を共有しています。これはある種の「模造記憶」ですね。でも、ぼくはそういう「模造記憶」を懐かしむ同世代の人たちに向かって「嘘つけ、お前が聴いてたのは橋幸夫や三田明じゃないか」なんて、言うつもりはないんです。記憶というのは事後的に選択されるものであり、そこで選択される記憶の中には「私自身は実際には経験していないけれど、同時代の一部の人々が経験していたこと」も含まれると思うのです。含まれていいと思うのです。「潮来笠」と「抱きしめたい」では、後者の与えた世代的感動の総量が大であったために、結果的にぼくたちの世代全体の「感動」はそこに固着した、ということで「いい」のではないかと思うのです。自分が身を以て経験していないことであっても、同世代に強い感動を残した経験であれば、それをあたかも自分の記憶のように回想することができる。その「共同記憶」の能力が人間の「共同主観的存立構造」を支えているのではないかと思うのです。◇(「東京ファイティングキッズ・リターン」から抄録)
 褒め殺しのようだが、サユリさんは見事にあの頃のままだ。まるで化け物のように老けない。声も若い。どういう訳だか、見事に「世代的記憶」のままなのだ。だから“母”親役なぞできるはずはない。「共同主観的存立構造」がある限り、“大根”は構造的に“抜き”難い。別けてもニノがとりわけ天才的に巧いだけに余計大根が際立つ。かてて加えて黒木 華の名演。数々の受賞に輝くだけのことはある。さらに本田望結も小憎らしいほどの演技を見せた。つまり、回りが上手すぎる。サユリさんはこのような作品に出てはいけないのである。残念なミスキャストであった。
 本もよくはない。比較するのは憚られるが、同じ長崎とテーマでも黒澤の『八月の狂詩曲』に遠く及ばない。映像的な凄味は特にそうだ。『八月の狂詩曲』、ラストシーンで豪雨の中、気が触れた鉦ばあさんの持つ傘が風に煽られて丸ごと裏返る。子供たちが後を追い、「野バラ」が流れる。目と耳に焼き付いて離れない名場面だ。
 渥美 清が寅さんに憑依されたまま逃れられなかったように、山田監督もまた寅さんに緊縛されたままでいるのだろうか。言いたくはないが、寅さんを超える作品には出会えていない。これも残念なことである。口惜しくはあるが、後(ノチ)の楽しみと料簡したい。

 本年の締め括りに歳末の事どもを記した。皆さま、よいお年を。 □


それ見たことか!

2015年12月22日 | エッセー

 本年1月13日、「オジさんは信じる。いつの日か、リターンマッチに颯爽とあなたが登場することを。」と、拙稿『三たび 小保方、ガンバレ!』を結んだ。
 初回は14年4月であった。新しい芽を摘むな、もっと面白がろうと訴えた。
〓『おもしろがる』には人類の進化が懸かっている。
 鬼の首を取ったように繰り返されるエビデンスと科学者倫理。
 これは完全に後世の偽作らしいが「それでも地球は動く」を借りて、「それでもスタップ細胞はできる」はどうだろう。捨て台詞には持って来いだ。〓
 2回目は1週間後、記者会見を受けての『再度 小保方、ガンバレ!』であった。事の成り行きを説明するための会見なのに、科学的証明を求めるテレビコメンテーターの学者先生に
〓学者同士の、学問上の質疑応答ではない。件の先生は一見正論に聞こえて、実は会見の意味を『分けて考え』られない無思慮を晒している。木に縁りて魚を求む。駄々っ子にちかい。この程度の知的レベルが世をミスリードする。やはり、テレビは怖い。〓
 と、報道に名を借りたイジメだと咆えた。
 3回目は本年1月、ES細胞の混入だったという幕引きを受けて、「かわゆい妙齢の才媛はウソを吐かないというオジさんの人生経験によって頑強に裏付けられた不抜の信念」(同稿より)により三たび目のエールを送った。
 特に、顕学武田邦彦先生の近著『NHKが日本をダメにした』を援用した。
◇人間の着想の素晴らしさというものは、詳細がキチンと書かれていることではない。書かれている内容が間違いを含んでいるということでもない。そこに示された考えが「これまで人類がほとんど考えたことではない」というのを少しの事実から導き出すことである。それは不確かであり、危ういものではあるが、その後、多くの人が関心を持ち、だんだん膨らみ、やがて巨大な発見や人類の福利に役立つものである。「こうしたらできる」とか、「他人が追試してできるような記述」とか、まして「80枚のうちに2枚ほど図を間違って貼った」などということは問題にはならない。◇(同著より)
 我が意を得たりであった。
「私は、海辺で遊んでいる少年のようである。ときおり、普通のものよりもなめらかな小石やかわいい貝殻を見つけて夢中になっている。真理の大海は、すべてが未発見のまま、目の前に広がっているというのに。」
 アイザック・ニュートンの格言は万古不易だ。彼は少年の稚拙と無力を糺しているのではない。「大海」への謙虚と、「未発見」への少年の「夢中」を訓えているのだ。生命は地上の宇宙である。「すべてが未発見のまま」ともいえる。発見できたのは僅かばかりの「小石」や「貝殻」に過ぎない。だからこそ、発見を駆動するのは少年の「夢中」ではないか。
 きのう信頼する後輩が、今月13日ウェブ上に載ったニュースを紹介してくれた。長い引用をする。
◇STAP細胞が証明された? 小保方氏の研究にもう一度目を向けるべき
──マウスの筋肉細胞が、様々な細胞に分化した──
 話題になっている論文は、英科学誌ネイチャー誌のオープン・アクセス・ジャーナルである「ネイチャー・サイエンティフック・リポーツ」に11月27日付で掲載されたもの。著者であるテキサス大学医学部ヒューストン校のキンガ・ヴォイニッツ氏らは、傷ついたマウスの筋肉細胞を取り出して培養したところ、その一部が血管やリンパ管を構成する内皮細胞になったことに着目した。通常、筋肉細胞が途中でそれ以外の種類の細胞に変わることはないからだ。
 キンガ氏らは、「筋肉細胞が、『傷』という刺激により、幹細胞の状態に戻ったのではないか」と仮説を立て、研究を行った。結果的に、iMuSCs細胞は部分的ではあるものの、確かに様々な細胞に分化することが確認できたという。
 論文の中では、「体細胞から多能性細胞ができることを証明しようとした先行研究」の例の一つとして、小保方晴子氏が博士課程に在籍していたころ、ティシュー・エンジニアリング誌に投稿した論文を紹介した。このことからも、今回の研究が、STAP細胞を念頭に置いて行われたものであることが伺える。
 「筋肉細胞が傷つくことで、幹細胞のように何にでも変化する細胞ができた」とする論文が発表されたことにより、ネット上で小保方晴子氏と「STAP細胞」が再び注目されている。
 今回論文の題材になったのは、傷がつくことによって幹細胞と似たような働きをするようになったマウスの筋肉細胞で、iMuSCs細胞と呼ばれている。STAP細胞も、マウスのリンパ細胞を弱酸性溶液に漬けたり、細いガラス管に通すなど「物理的な刺激」を与えることでできる細胞であるとされる。そもそも、「イモリの細胞が傷つくことで万能細胞化して再生する」ということが着想となっていた。両細胞が、「物理的な刺激」によってできる、という点で共通していることは確かだ。
──可能性を否定するのは科学なのか?──
 iMuSCs細胞とSTAP細胞は、元となる細胞も作成するプロセスも違う。そのため、今回の論文によってSTAP細胞が存在することが証明されたわけではない。ただ、「体細胞が刺激を受けると多能性を持つ」ことを盲目的に否定することが、科学的ではないとは言えるだろう。
 昨年12月、小保方氏がSTAP細胞の再現実験に成功しなかったために「STAP細胞はES細胞だった」と結論付けられてしまった。ただ、STAP細胞がES細胞と異なる性質を持っていたことは、亡くなった笹井芳樹氏など、幹細胞研究における一流の科学者も確認している。これについては、「見間違い」とされ、はっきりとした説明はされていない。
 今や日本の科学界では「STAP細胞」は「研究不正」とセットにされてしまい、タブー視されているが、海外でこの分野の研究は着々と進んでいる。未来の日本人研究者が、「STAP細胞を目の敵にしたことで、日本の幹細胞研究が大幅に遅れた」と悔しがる光景を目にしたくはない。
 小保方氏が発見したものは何だったのだろうか。やはりもう一度、白紙の目でもって、STAP細胞の可能性に目を向ける必要がありそうだ。◇
 今のところ新聞もTVも報じてはいない。この記事は極めて冷静な書きぶりだ。「元となる細胞も作成するプロセスも違う。そのため、今回の論文によってSTAP細胞が存在することが証明されたわけではない」と釘を刺している。ただし「両細胞が、『物理的な刺激』によってできる、という点で共通していることは確かだ」と、本質的部分へのフォーカスは忘れない。日本では「弱酸性溶液に漬けたり、細いガラス管に通す」という小保方方式に目を奪われて、そればかりの再現に拘泥してしまった。視野狭窄となって、「『物理的な刺激』によってできる」というコアを忘失したのではないか。「物理的刺激」であれば、別に細いガラス管や弱酸性溶液でなくていい。アメリカはさすがというべきか、核心を捉えた。こちらが拱手傍観していると鳶に油揚、切歯扼腕。「悔しがる光景」は必定(ヒツジョウ)だ。
 碩学の言を徴したい。本年6月発刊の対話集『文系の壁』(PHP新書)で、養老孟司氏は次のように語った。(9月の拙稿「今年ときめきの新書三作」で紹介した。)
◇(引用者註・STAP細胞が)なぜできたかがわからないから、なぜできないかもわからないんです。物理化学の実験と一番違うのはそこです。でも、それって当たり前なんですよ。細胞全部が同じだっていう保証がないんですから。
 僕が言っているのはそういうことで、生き物は複雑なんです。だから、生き物の実験がうまくいかないのは当然なんです。ドリーは、いろんなことを上手にすり抜けることができたレアケースなんですよ。
 ものを飼わせると、男はだめなんですよ。女性の方がやっぱり上手。(生殖補助医療での胚培養士も女性ばかりですね。)やっぱり得意分野があるんですよね。子どもを育てるのと通じるところがありますよ。男は理屈で「こうしなきゃいけない」ってやりたがるけど、原理主義で子どもを育ててもだめですよね。
 僕は前から言っているのですが、山中さんの仕事は、コシヒカリを作ったり、サラブレッドを作ったりするのと同じ「育種」なんですよ。生物の性質って、物理化学的な厳密性でわかっているわけじゃない。だから、ある程度しかわかっていない中で、掛け合わせをいろいろやってみて都合のいいものをつくるんです。それが育種です。山中さんはそれを細胞レベルでやってる。細胞レベルだと、科学的になったような気がするんだけど、実はそうじゃなくて、多少、複雑さが減ってくるだけなんですね。だから細胞そのものも、まだ人工的につくれてないんです。
 生物は複雑性を持っていますから、人間が考えていないような状況がいくらでもありうるんです。だから、今回の件では、STAP細胞自体も、小保方さんも、潰しすぎたんじゃないかと思います。本来は、これだけ注目されなければ、よくある話なんですよ。何人かが追試して、十年ぐらいたって「あれはやっぱりだめだった」となって終わる。今回はたまたま突出しちゃったから、大騒ぎになったけど、笹井さんが死ぬほどの問題じゃないと思いますね。◇(上掲書から抄録)
 いつもながらの炯眼には畏れ入るばかりだ。「生き物は複雑なんです。だから、生き物の実験がうまくいかないのは当然なんです。」十人十色、マウスだって十匹十色であろう。考えてみれば、「それって当たり前」なのだ。以下「ものを飼わせると、男はだめなんですよ。女性の方がやっぱり上手」とし、山中伸弥氏の仕事を細胞レベルの「育種」だと括る。つまりは最先端生物医学は職人芸の世界ということか。「STAP細胞自体も、小保方さんも、潰しすぎたんじゃないか」との指摘は重い。
 事の真偽は措こう。ともあれ、急いては事を仕損じる。マスコミをはじめ寄って集って彼女を潰した諸君にいいたい。
 「それ見たことか!」と。

<跋>
 今稿で“伽草子”は900回に達しました。やっとというべきか、ついにというべきか。お立ち寄りいただく皆さまに満腔の謝意を表します。次の峰は1000回。蹌踉いつつの挑戦を続けますので、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 □


訣辞に替えて

2015年12月19日 | エッセー

 青森県の中央部、十和田湖から八甲田山へ向け奥入瀬を抜けたところに、「千年の秘湯」を誇る『蔦温泉』がある。今年4月本館がリニューアルし、大正時代の豪壮な外観と風情が戻ったそうだ。さらに別館66号室の内装を本館66号室に移設し再現した。「『旅の宿』の部屋」、誕生である。岡本おさみ氏が夫婦で泊まり、詩想を練った部屋である。同氏と拓郎の関連資料やCDが置かれているという。だから、「浴衣の君」とは新妻を擬したのか(たぶん)。
 43年前の秋時分、同学の先輩が「これはいい。これはいいよ」と、熱っぽく語っていたことが鮮明に蘇る。後、ベストセラー週刊誌の編集長を務めた人である。世の動向と併せ音楽シーンの新しい波を敏感に捉えていたにちがいない。フォークが若者限定から裾野を広げグレードアップする表徴として『旅の宿』を聴いたのではないか。早くして故人となったが、予見は的中した。
 このブログを開始して早々06年4月、拓郎の還暦に「赤いちゃんちゃんこ」と題する拙稿を呵した。
〓37年前、背筋に悪寒のような電流が走った。『結婚しようよ』を聴いた時だ。この世のものではない、と感じた。以来、ずっと一ファンでありつづけている。
 ただ、この曲は大変なブーイングを浴びた。フォークにあるべきメッセージ性がない、と。当時の私はフォークを耳にすることはあっても、さしてこころの動くことはなかった。むしろ、あのメッセージ性なるものが厭味でもあった。
 たくろうの大いなる足跡 ―― それは、フォークに身を置きながら軽々とフォークを超えたことだ。一気に音楽シーンの垣根を取り払ったことだ。『襟裳岬』の授賞はその象徴である。政治的なメッセージはすぐに干からびる。『肩まで伸びた髪』は、大人社会に対する若者のアンチテーゼだ。若者と大人が共存するかぎり、このメッセージは万古不易だ。と、そんな小ジャレたことを、当時、考えていたわけではない。これは後付けの理屈だ。
 いまでいう『ハマった』のだ。爾来、『屈折、37年』。人生は屈折を繰り返しても、ファンであることの道は一直線で来た。振り返って一片の後顧もない。勝手ながら、『共に歩んだ』37星霜である。これは『糟糠の愚妻』でさえ断じて及ばぬ絆である。〓
 「軽々とフォークを超えた」その先鞭をつけたのが『旅の宿』であった。つまり、事は岡本おさみが詠う詩のインスパイアーがなければ成らなかった。また稿者にとってこの曲は、件の先輩と別ち難くありつづけている。聴くたび、容(カンバセ)が浮かんでならぬ。狂騒の青春に垣間見た灯火のように。
   〽僕は僕で あぐらをかいて
    君の頬と耳は真っ赤っか
     ああ風流だなんて
    一つ俳句でもひねって〽
 都会からやってきた若いふたり。差しつ差されつ、「あぐら」で古風を装い、ついでに「風流」ぶって一句ひねる。まるで青春のおままごとだ。
 作詞:岡本おさみ/作曲:吉田拓郎 『旅の宿』、名曲は今もって膝を打つほど新しい。
 はじめは『焚火』と名乗る詩であったそうだ。74年レコード大賞曲『襟裳岬』だ。これも岡本おさみ氏が旅で着想した。後、森進一に歌わせる曲として浮上した。拓郎と電話で遣り取りをしながら詞を完成させたそうだ。
 元の歌詞「君は二杯目“だね”」は、「君は二杯目“だよね”」と変わり、「角砂糖ひとつ」が「角砂糖ひとつ“だったね”」などに改められた。極めつけは、「襟裳の“秋”は なにもない秋です」が“春”に差し替えられたことだ。「北の街では もう」といい、「通りすぎた夏の匂い」という以上、コンテクストは“秋”が相応しい。諸説あるが、意味より音韻を優先させたというのが本当らしい。そういえば、「襟裳」と「秋」では母音が頭にきて強すぎる。「春」の方がうんといい。それに、芽吹きの時だからこそ寂寥が余計際立つ。
 加えて、題名だ。
2人の遣り取りの中で「焚火」では弱い、何かないかという詮議になって岡本氏に浮かんだのがかつて旅した襟裳岬だった。だから先述の「これも岡本おさみ氏が旅で着想した」は正確を欠く。確かにタイトルは旅からの着想だが、それは後付けだったのだ。詩想は襟裳岬そのものではない。
 原詩は以下のようだった。
◇こうして鈍行列車に揺られながら 
 したためた短い便りは 
 電話の鳴り続ける忙しいきみの机に 
 名も知らぬ配達夫が届けるだろう 
 都会のなすがままになっているきみは 
 素直さをすりへらし 
 わずかなやさしさを守るのに精一杯で 
 人に分け与える余裕がない
 襟裳の秋はなにもない秋です
 昆布を採る人の姿さえも
 そうしてほんのひととき 
 きみはわずらわしさを忘れ 
 襟裳の民宿で汚れたシャツを洗うぼくを想い浮かべ
 そのたどたどしい手つきに ふと 
 微笑むかもしれない◇
 旅先の襟裳岬から「都会のなすがままになっているきみ」への恋情を十全に含んだ労り、慰めが詩想である。「寒い友だち」への労り、慰めではない。辿ると、そうだった。
 それで合点がいった。永年の引っかかりが消えた。
   〽日々の暮しは いやでもやってくるけど
    静かに 笑ってしまおう
    いじけることだけが 生きることだと
    飼い馴らしすぎたので 身構えながら話すなんて
    ああ おくびょうなんだよね〽
 「いじけることだけが 生きることだと 飼い馴らしすぎた」 これが解らなかったのだ。ミーニングではない。それは判る。解らないのはコンテクストだ。どうにも繋がらないのだ。「日々の暮し」が「やってくる」のは旅を終える「寒い友だち」なのか、それとも「訪ねてきた」先の旅人を送った後のホストなのか。詩歌に半可通な解釈や下手な揣摩は無用かも知れぬ。それは百も承知だ。しかし腑に落ちなかった。
 元の詞の該当部分はこうだ。
   〽いつもテレビは、ね! 
    あまりにも他愛なくて 
    かえっておかしいね
    いじけることだけが 
    生きることだと 
    飼いならしすぎたので
    身構えなければ なにも
    できないなんて 
    臆病だね〽
 さらに原詩では、
◇素直さをすりへらし 
 わずかなやさしさを守るのに精一杯で 
 人に分け与える余裕がない◇
 ここが当たるのではないか。原詩の「都会のなすがままになっているきみ」のありさまを描いている部分だ。
 愚案はこうだ。
 原詩の「素直さをすりへらし わずかなやさしさを守るのに精一杯で 人に分け与える余裕がない」が「いじけることだけが 生きることだと 飼い馴らしすぎた」へと、自らを客体視するかのような変貌を遂げた。つまり、「日々の暮し」が「やってくる」のは旅人でもホストでもない。「きみ」なのだ。元の歌詞が拓郎との詩魂の打ち合いの中で、「いつもテレビは、ね!……かえっておかしいね」が「日々の暮しは……笑ってしまおう」に、「いじけることだけが……臆病だね」が「いじけることだけが……おくびょうなんだよね」にと推敲されていった。
 詩が詞に、恋慕から男唄にメタモルフォーゼする際の垢抜けた着こなしとでもいおうか。なんのことはない。腑に落ちなかったのは、無粋のために着こなしのセンスについていけなかっただけのことだ。
 如上の2作品以外、『落陽』『祭りのあと』をはじめとする名作が目白押しだ。ただ、拓郎全作に占める割合は3割ぐらいではないか。決して多くはない。しかしエポックメーキングで話題性の高い作品が並ぶ。

 11月30日、作詞家・岡本おさみ氏が生者の列を離れた。73歳。報道機関が伝えたのは今月17日だった。家族によって葬送は終わったと聞く。
 氏は常に拓郎と並んで称された。昭和というより戦後、戦後というより戦後のその後が音を立てて遠景に退(ヒ)いていく。残る世代として、せめて訣辞を捧げ冥福を祈りたい。 □


当世 “Bad Word” プラスワン

2015年12月14日 | エッセー

 下種の後知恵、忘れてならぬものを忘れていた。
 【一般人】
 である。
 芸能界にパラサイトする記者擬きが「結婚のお相手は、どうも一般人のようです」などと使い、あるいはたかがお笑い芸人風情が「一般人に聞いてみーな」などと使う、あれだ。実に不愉快千万、“悪語”の最たるものである。
 広辞苑によると、「特別の地位・身分を有しない人。また、ある事に特に関係のない人。普通人。」とある。ならば、対語は『特別人』か。
 日本国憲法第14条にはこうある。
──すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。──
 「法
の下の平等」、「平等則」である。ただ「平等」には無条件での「絶対的平等」と、同じ条件での均等な扱いを求める「相対的平等」がある。成人男女は等しく選挙権を持つ。これが前者だ。ところが、ほとんどのスポーツは男女を別つ。特性、能力が違うからだ。これが後者。この後者の謂で「一般人」を使うにしても、不適切この上ない。だったらお前は特別なのか、と突っ込みを入れたくなる。職業に貴賤はない。これは前者の立場だ。しかし、立ち位置は違う。それなりの弁えが必要となる。これが後者の立場だ。『神さま』である『お客様』に対して使っていい言葉ではない。裏に『特別人』意識が臭うからだ。「無関係者」ではおかしいし、「市民」では場違いだし、「民草」では時代がかるし、まあいいとこ「普通人」「普通の人」か。適切な対語がないところがもどかしいが、対語を持たない事況そのものがすでに不平等ではないか。不平等とは、すなわち上から目線である。つまり芸能人やそのパラサイト達が多用する「一般人」がちゃんちゃらおかしいのである。
 芸能人の本質は河原乞食である。何度か引いたが、もう一度吉本隆明の卓見を徴しよう。
◇芸能者の発生した基盤は、わが国では、支配王権に征服され、妥協し、契約した異族の悲哀と、不安定な土着の遊行芸人のなかにあった。また、帰化人種の的な<芸>の奉仕者の悲哀に発していることもあった。しかし、いま、この連中には、自分が遊治郎にすぎぬという自覚も、あぶくのような河原乞食にすぎぬという自覚も、いつ主人から捨てられるかもしれぬという的な不安もみうけられないようにおもわれる。あるのは大衆に支持されている自己が、じつはテレビの<映像>や、舞台のうえの<虚像>の自己であるのに、<現実>の社会のなかで生活している実像の自己であると錯覚している姿だけである。◇(昭和45年「情況」から)
 注目すべきは、昭和45年と「情況」はまったく変わっていないことだ。期待したピース又吉の『火花』には「的な<芸>の奉仕者の悲哀」が描かれていないし(タイトルは匂わせたのだが、中身は“ありがちな”ノンフィクションに終始した)、跋扈する芸人MCやコメンテーターは「<虚像>の自己であるのに、<現実>の社会のなかで生活している実像の自己であると錯覚している姿」そのものである。勝新太郎には「じぶんが遊治郎にすぎぬという自覚」が窺えたし、高倉健の生き様には「あぶくのような河原乞食にすぎぬという自覚」が裏打ちされていた。テレビに映るものはテレビ本体と同じように限りなく薄っぺらになりつつある。慰み事だからそれでいいともいえようが、視聴率は下がりテレビ離れも深刻になりつつある。早晩慰み事の首座はネットに完全に奪われるだろう。
 繰り返すが、職業に貴賤はない。ただし、立ち位置は違う。そのトポスを忘失した芸能人が哀れではある。ここはひとつ、「堅気」はいかがであろう。芸能者の対語には持って来いではないだろうか。「遊治郎」や「河原乞食」の反義語として最も相応しい。
 “Bad Word” プラスワンの”「一般人」、下からの言葉狩りに有無を言わさず槍玉に挙げたい。 □


当世 “Bad Word” トップ3

2015年12月13日 | エッセー

 下からの言葉狩りを試みたい。心象を映すものが言葉であるなら、言葉を刈り取れば心象が革まるかもしれぬ。そんな蟷螂の斧を振るってみる。

【アベノミクス】
 これがワーストワンだ。本年5月「ビンタ本」と題する拙稿で、赤坂真理氏の著作『愛と暴力の戦後とその後』を取り上げた。同著で氏はアベノミクスは作為的バブルだとし、「バブルがあれだけ悲惨なことになったのに同じ手を繰り返そうとするなど、歴史に学んでいるのだろうか」と嘆いた。同稿は「敬服する浜 矩子先生は、近著で『アホノミクス』と断じていらっしゃる。同趣旨だ。」と結んだ。継ぎはぎでメッキ仕立ての金看板が国民に目眩ましを喰らわせ、国を奈落に引きずり込む。「作為的バブル」の恐怖だ。

【トップセールス】
 字引に依れば、トップ‐セールスとは、「企業の社長自ら自社製品の特長や優秀性を宣伝し、積極的にセールスを行うこと。また、国の代表、地方自治体の代表などが、国や地方の産物・産業を、他の国や地方へ売り込むこと」とある。
 前者は当たり前、本稿が問題にするのは後者だ。今や世界的流行である。どこかの宰相も盛んに猿真似を繰り返す。事故の実態を未だ掴めず処理もできていない原発を抱えながら、事もあろうに海外に売り歩いている。なぜこんな破廉恥ができるのか。内田 樹氏の炯眼を徴したい。
◇おそらく政治を家業とする家の三代目に生まれなければ政治家にはなっていなかったであろう人物になぜ「ここまで」のことができたのか。「時流に乗じた」という以外にうまい説明を私は思いつかない。「経済のグローバル化」という趨勢が、彼のような政治家とその強権的国家像の実現を要請した。戦後70年間、彼が掲げるような国家ヴィジョンが大衆的支持を得たことはこれまではなかっただが、今は支持されている。それは人々が「国家」に求めているものが変わったからである。改めて言う。安倍晋三とその同盟者たちが追究しているのは(当人たちにそこまではっきりとした自覚はないと思うが)、「国民国家の株式会社化」である。国の存在理由を「経済成長」に一元化することである。◇(「街場の憂国会議」から)
 前項にも通ずる鋭く深い本質の剔抉である。「おそらく政治を家業とする家の三代目に生まれなければ政治家にはなっていなかったであろう人物」が核心であろう。85年後の後継世代は、今世紀史上『日本を悪くした政治家』の筆頭にこの人物を挙げるにちがいない。
 「国民国家の株式会社化」とは言い得て妙だ。グローバル企業のCEOよろしく、経済界の走狗となって行商に飛び廻る道理だ。かつて「国の存在理由」らしきものとして掲げた『美しい国 日本』は、つまり『株式会社 日本』と同義であるらしい。ならば株主総会が最重要行事となる。経営能力と権能が判じられる株主総会。それは「株式会社」の経営陣と化した政治家にとって「選挙」と等位だ。国民は「株主」に擬せられる。かてて加えてここが切所と、議題を細工してまでも「総会」の鼻面を取って引き回す。「株主」はまんまとしてやられる。阿漕なことだ。さらに、株式会社がもつ短期的成果を追うという体質的性向が「株式会社化」した国家の国民に浸潤していく。それが「株主総会」に反映される。そんな負のスパイラルが続いている。お先棒を担ぐのが「三代目」だ。

【してもらっていいですか?】
 13年7月、「赤信号、みんなで渡る?」と題して本稿で取り上げた。拙文を引用する。
〓「〇〇してもらっていいですか?」
 最近よく耳にする。Aさんに出勤を依頼する場面で、BさんがAさんに、
「今度の土曜日、出勤してもらっていいですか?」
 と訊く。Aさんに出勤してほしいのに、これでは出勤するのは架空の第三者Xさんになる。つまり本来出勤すべきBさんが、Xさんが出勤する許可をXさんに代わってAさんに求めている。
「今度の土曜日、<Xさんに>出勤してもらっていいですか?」
 と同意を求める。これなら問題はない。しかし、例文の意図はちがう。出勤するのはAさんである。Aさんに出勤を求めている。丁寧に言っているつもりだろうが、やはりおかしい。トポスがずれている、否、ずらしている。意地悪くいえば、自分が前面に出ないで第三者を楯に使う卑怯な物言いである。〓
 仮想の第三者を立てる卑怯な言い方だ。これが今、蔓延している。「上」の措辞を対象にした「下からの言葉狩り」には相応しくないかも知れぬが、「心象を映すものが言葉であるなら」その心象に問題があるといいたいのだ。この国は『してもらっていいですか?シンドローム』に罹患しているのではないか、という危惧である。
 この稿で引用した日本語・フランス語教師の野口恵子氏の指摘を再度引こう。
◇「~してもらってもいいですか」は、依頼の表現「~してください」の敬意の度合いが下がって、命令のようにも聞こえるということで、使いづらくなったためだろう。「~してください」に代わる言い方として、「~してもらえますか/いただけますか」「~してもらいたいのですが/いただきたいのですが」「~してくださいますか」その他いろいろある。それにもかかわらず、皆、申し合わせたかのように、「~してもらってもいいですか/いただいてもよろしいでしょうか」を使うようになった。不思議な現象だ。いや、不思議でも何でもないのかもしれない。言葉はうつるものだし、意識的にほかの人の言葉つかいを真似ることもあるからだ。◇(「失礼な敬語」から)
 「敬意の度合いが下がって」とは敬語表現の宿痾ともいえる。興味ある課題だが、それは措いておこう。この物言いには人間関係の間合いが空きすぎている事情があるのではないか。間合いを計りかねている、詰め切れない、踏み込めない。腰の引けた図が浮かぶ。『してもらっていいですか?シンドローム』の病因ではないか。
 内田氏がいう「時流に乗じた」その時流の本流こそ『してもらっていいですか?シンドローム』ではないのか。近年よく耳にする「お任せ民主主義」の病根でもある。【アベノミクス】も【トップセールス】も、その深刻な病態に見えてならない。「お任せ」は白紙委任に道を開く。まさか国民国家までが「シャンシャン総会」でいい筈はあるまい。「言葉を刈り取れば心象が革まるかもしれぬ」と一縷の望みを託して、敢えてトップ3に入れた。蟷螂の斧は自戒のためである。 □「


ジャンクワード大賞ベスト10

2015年12月11日 | エッセー

 このジャンクとはガラクタというほどの意味である。私家版『今年のジャンクワード大賞ベスト10』は以下の通り。
【あったかいんだから】
 厳つい容貌からとっても意外な言葉が優しいメロディーに乗って、しかも不釣り合いなかわいい仕草で繰り出される。その落差も好評を呼んだ。だが、なぜ流行った? 世の中冷たいからだ。こんな言葉は早くジャンクになればいいのに、と期待を込めて選んだ。
【アゴクイ】
 “壁ドン”の後継らしい。テレビドラマをほとんど見ないので、はじめはアントニオ猪木のキャッチフレーズかと取っていた。ところが違った。まあ、こんなのは今さら“用”のないことだ。あ、同輩で一人いた。歯医者の○○君は毎日これをいたしている。なんだ、年甲斐もなく。たまにはオレにもやらせろ。
【福山ロス】
 勘違いのおばさん達が相当数いたらしい。勘違いにも程がある。あんな優男のどこがいい。あんな屁みたいな歌のどこがいい。その意味でも勘違いしている。世に本物が絶えた証拠だ。……と、隣のおじさんが言っていた。
【ミニマリスト】
 これを東京で倅がやっている。まずは食器、料理器具を持たない。独り身、金がないのに加え、台所からゴミを出さないためだそうである。外食するか、もしくはそのまま喰えるもの、チンで済むもの以外持ち込まない。栄養を考えろと言うと、外食も最近はヘルシー指向だから心配無用と言う。確かにずぼらな性格には持って来いともいえるが、なんだかなぁ(阿藤 快の口癖だった。不祝儀も早すぎるのは、なんだかなぁ)

【上級国民】
 五輪委がエムブレム騒動の経緯を説明する中で「一般国民」「一般の国民の方々」を連発した。ならば「一般」ではない「上級」の国民がいるのかという反発から生まれたネットスラングである。ヘイトスピーチも絶えない中で、健全な反応といえなくもないが……。
【白紙撤回】
 ヤンキー宰相がいい格好を見せた。見え透いた六方を踏んだ台詞だった。小泉元首相が最近「安倍首相は強引」と批判したが、かつて野中広務に「独裁者」と非難された人の発言である。これは重い。百貨店と評された自民党が一品限定の専門店に衣替え。ABEにあらずんば自民党に非ず。一党独裁どころか、一人独裁だ。こんなのは転ぶ。奢る平家はなんとやらだ。
【粛々と】
 5月、「粛々」と題する拙稿で取り上げた。菅官房長官の「粛々と」発言に、「上から目線の『粛々』という言葉を使えば使うほど、県民の心は離れて、怒りは増幅していくのではないか」と翁長沖縄県知事が噛み付いた。 
 稿者は「知事の『粛々』攻撃は揚げ足取りと捉えては事の筋目を見損なう。『下からの』言葉狩りだ」とエールを送った。
【早く質問しろよ】
 ヤンキー宰相の真骨頂。丸出しの本質だ。7月、「『産経な意見』でいいのか?」で触れた。ヤンキーたる所以については飽きるほど述べてきた。くどいから止める。
【下流老人】
 本のタイトルから生まれた。嫌な言葉だ。「下流」も「老人」も当たっているから、なお嫌だ。上流にいる老人には無縁であろうが。
【オワハラ】
 就活の開始を8月にしてみたり、6月に戻してみたり。挙句、内定者を他社に採られまいと『就活“終われ“ハラ”スメント』である。企業は企業で、政府から「賃金を上げろ、設備投資を増やせ」と社会主義紛いのパワハラをうけている。今やこの国はハラスメントだらけだ。だから、「あったかいんだから」が受ける。

 以上、すべて今年の「新語・流行語大賞」候補にノミネートされ、ベスト10から外れたものから選んだ。「歌は世につれ世は歌につれ」の伝でいけば、「言葉は世につれ世は言葉につれ」であろうか。ならば、選に漏れやがてガラクタになる(全部そうともいえるが)ジャンクワードに案外「世につれ」た逸品があるかと愚案を労してみた。しかしやはり、「世はつれ」られてほしくないジャンクが大半だった。
※【大賞】は選んでおりません。どうぞご随意に。 □


流行語大賞ベスト10

2015年12月09日 | エッセー

 「誤解の幅」と「訂正への道」がコミュニケーションの推力であるとの内田 樹氏の達識を踏まえ、
〓「『理解し合いたいけれど、理解に達するのはできるだけ先延ばしにしたい』という矛盾した欲望」を極めて端的に表している発言といえよう。
 もう一つ。言葉の空洞化。情報量とは裏腹に言葉が痩せ衰えていく刻下の事況。“スタンプ”はその好例だ。「ラッスンゴレライ」は言語がスタンプ化する病徴であり、同時に病識でもあるのか。後者だとしたら、シニカルな警鐘といえなくもない。だから、なおのこと流行語大賞にふさわしい。〓
 と、本年4月「『ラッスンゴレライ』を流行語大賞に」と題する愚案を呈した。しかし期待は敢えなく裏切られ、掠りもしなかった。以下、今月1日発表になった『ユーキャン新語流行語大賞 ベスト10』を挙げ、腹いせ紛れの寸評を加えたい。
 大賞が2つ。毎年いうが、2つはよくない。大賞ならば、1つに絞らねば値打ちが下がる。
【爆買い】
 『料理の鉄人』(古い!)の主宰・鹿賀丈史の十八番を借りて、「私の記憶が確かならば、」盛んに登場し始めたのは9月以降である。選考時期に近いことや、金目のことゆえ余計印象が強いのかも知れぬ。まあ、よしとしよう。
【トリプルスリー】
 無関心、浅学、寡聞のトリプルスリーにして知らない。トランプのスリーカードではないらしい。「まさか」そうではあるまいが、いやひっくり返して「い“かさま”」ならあった。野球協約違反の野球賭博を巨人の選手がしていた(阪神もらしい)。NPBは3(スリー)人の「いかさま」選手を無期失格に処した。認知度が低いのに、なんだかよく分からない選考である。まあ、元旦といわず、大晦日にはみんなすっかり忘れていることだろう。
 以下、トップ10の残余。
【アベ政治を許さない】
 7月の拙文「暖簾分け」で取り上げた。アベ政治の『夢』、それは「暖簾分け」との内田 樹氏の卓説には目から鱗どころか、目そのものが落ちる。
【安心して下さい、穿いてますよ。】
  こういうのを厭がる向きもあるが(同様に歓迎する向きもある。稿者はもちろん後者だが)、昨今穿かない輩が増えている事情を勘案すると(もとより健康上の配慮から)本当に「安心」できる芸ではないか。いやむしろ、芸を超え社会への啓蒙ではないか。ただ「腹の出っ張りは知性の爛れ」をモットーとする稿者には、あの突き出た腹部がないと物理的に成り立たない芸は非常に「不安」にも感じられる。腹筋が割れたマッチョにはおそらくあの芸はできない。安村クンの努力と工夫は大いに多とするが、肥満と引き替えに成立する芸にはやはり「安心」できない。穿く、穿かないに関わらず。
【一億総活躍社会】
 強い拒絶反応を呼んでいる内容にはばかばかしいので立ち入らない。問題はこういう言葉づかいが平気でできる言語感覚のなさだ。言葉に対するセンシビリティの決定的欠如だ。ブレイン、取り巻きを含め、アンバイ君本人の致命的な欠陥の1つである。なにより「活躍」という言葉に失礼だ。そんな安っぽい言葉ではない。高貴を地に落とし、泥を塗るなといいたい。
【エンブレム】
 8月、「扇子がいい」と題して本ブログで触れた。「エンブレムぐらい勝手に作って勝手に使わせろ!」である。それに、夏には扇子がお似合いでもある。
【五郎丸(ポーズ)】
 なにより手印を結んだ時の陶然たる表情がいい。荒々しいスポーツに最も異質な場面だ。それがいい。40数年前後輩に同性がいたので、懐かしい名前だ。それも嬉しい。
 ラグビーについては、10月に愚稿「ラグビー異見」で触れた。
【SEALDs】
 70年代の学生運動とは隔世の感がある。確かに隔世はしているのだが。いつの時代でも、いずこの社会でも学生は魁であった。それは宿命的な使命でもある。“あの頃”、ノンポリであることは激しく排斥された。恥ずかしいことでもあった。今SEALDsはノンポリを、党派性を超える新たな位相で掴んだかに見える。それは確かな隔世の表徴ではないか。 
【ドローン】
 4月の拙稿「迷惑ドローン」で語った。稿者の少年時代の夢が挫かれたこと。また、首相官邸ドローン事件で、福井に住む40代の男が出頭して威力業務妨害の疑いで捕まったことも。ドロン(失礼!)できなかったらしい。
〓雄のミツバチをドローンという。アピールなのか何なのか、福井のミツバチ男はやはり甘かったというべきか。鳥瞰どころか、籠の鳥の憂き目に会う顚末となった。世を鳥瞰すべきかの住人は依然として視野狭窄だというのに。〓
 と稿を締めた。
【まいにち、修造!】
  これについては昨年の最終稿「“熱い言葉”にオブジェクション」で話題にした。12月30日であった。
 「『がんばる』とか『努力する』といったベクトルが強すぎるために現代人の心は多くの問題を抱えているのだから、生活にもっと引き算という発想を取り入れていくべきだと思う」という精神科医・香山リカ氏の言をアンチテーゼに挙げた。
 それはそうとして、確かに今年も「まいにち、修造」よろしくテレビで見ない日はなかった。洗剤だか、芳香剤のCMである。まさか“毎日香”ではあるまい。
 「今稿で本年締め括りといたします。皆さま、よいお年を!」と1年を結んだ。もうその時期が近づく。光陰矢のごとし。アホノミクスの3本の矢はとっくに失速して落っこちたというのに。 □


初冬の桜

2015年12月06日 | エッセー

 陽はあるのに、重ね着を貫いて風が刺してくる。にわかにマスクが群生し、遠近(オチコチ)に表情を掻き消した仮面たちが歩き始めた。寒気の到来を予感したのか、空は時として愛想笑いのように青み、怯えている。頓馬な黄葉が置いてきぼりを食って、あれじゃお山にできた丘疹だろう。何台もの車が大時代な白煙を吐きながら、駐車場から出て行った。新聞配達のバイクにはハンドルに防寒カバーが巻かれ、フルフェイスのヘルメットと重装備の出立ちで仮面ライダーのなり損ないが縮こまりながら走り去った。見守られてるくせに、この時ばかりは見守り隊と名乗る爺さんたちが寒さに震えながら子供たちの列に付き従う。コンビニでは、なぜかそれだけ古色然としたおでん鍋の湯気が客を誘いはじめた。陋居にも我が物顔でストーブが陣取り、余計に狭くなった。気がつくと、寝具が枚数を増した。
 そのようにして、わが街にも無遠慮に冬が乗っ込んできた。
 誰も寄りつかない小さな公園に、不相応に大きな桜が無聊に佇んでいる。春の艶(アデ)やかさが嘘のように、みすぼらしい姿だ。痩せこけた枝、節榑立ってグロテスクな幹、ところどころ顕わな根っこ。楽屋に引っ込んで衣裳を着替え化粧を落とした踊り子だって、もうちょっとましじゃないか。これほど鮮やかに人を欺く花が他にあるだろうか。
 桜と心中を果たした西行。桜に恋をし、挙句菩提寺とは別に一人密かに桜木に寄り添う墓に葬れと遺言した本居宣長。また「しき嶋のやまとごゝろを人とはゞ朝日にゝほふ山ざくら花」と自画像に自賛し自己の中核を示して、命日には掲げよとも命じた。
 奈良から平安への移ろいとともに国の代表の座を梅から禅譲され、爾来、日本人の心象に深く息づいてきた。
 意外にもそれに抗った文人もいた。
「おそろしいほどの喪失感。……それが春であり、それが桜であり、それが日本の詩であるとすれば、私はおそろしい国に生れて来てしまったものだと思った。」
 誰あろう、三島由紀夫である。天才の感性は知る由もないが、目を焼く日盛りは盲目の宵を、天翔る歓喜は蟻地獄の懊悩を、神々しい輝きは下卑た暗闇を糾う悖理への悲痛な雄叫びだったのかもしれない。
 ところで今、桜はどうしているのだろう。
 案に相違して、「佇んでいる」わけではない。来春の開花へ、下拵えに忙しいのだ。八か月も前の夏の盛りから秋にかけて蕾を作る。一等生気に満ちている時に次世代へのつなぎを拵える。梅を始め春の花はたいがいそうだ。しかし、放っておけば秋に咲いてしまう。となると、種を作る時期が冬と重なり寒さでできない。子孫が残せなくなってしまうわけだ。
 まずは蕾の生長を止め、冬を越して春まで保(モ)たせねばならない。だから、秋に蕾をカプセルに閉じ込める。それが越冬芽だ。では、どうして冬の到来を秋に知るのか。葉が夜の長さを計っているという。秋の夜長を適確に掴んでいるのだ。秋の狂い咲きは、夏に大量発生した毛虫に葉が喰い盗られ「日照計」が壊れたためだ。
 越冬芽は別名「休眠芽」、春には目を覚まさねばならない。暖かくなると眠り薬の働きをしていた植物ホルモン・アブシシン酸が分解されて消え、同じ植物ホルモンのジベレリンが合成されて開花が促される。静かなる生物にもサバイバルへの巧みな意匠がある。
 慮外なことに、染井吉野が日本で最初に開花するのは東京だ。暖かい九州、四国に先んじる。なぜか。染井吉野が寒暖の差に敏感に反応するからだ。東京は他地に比してその差が著しい。「桜は冬の寒さが厳しくないほど、春の目覚めがよくない」といわれる所以だ。なんだか、メタファーのようでもある。
 身も蓋もないことだが、花粉の運び屋である虫や小鳥を誘い込むために花は派手に咲く。目立つためだ。別けても染井吉野の華やかな開花は、葉が出る前に千万の花が一斉に咲き出ずることで演出されているそうだ。一斉の訳は、すべての木がまったく同じ遺伝子で同じ性質であることによる。接ぎ木によって増殖し、まとまって植樹されるためでもある。それが一斉に一気に咲き誇り、散っていく煌めきや潔さ、または儚さの秘密でもある。(如上の開花に関する知見は田中 修著、中公新書『植物はすごい』に依った)
 無粋な楽屋落ちは止そう。まだ遙かに遠い出番に満を持している桜木を、寒波を衝いて訪(オトナ)うのも一興かもしれぬ。「フルフェイスのヘルメットと重装備の出立ちで仮面ライダーのなり損ないが縮こまりながら」てのも、粋なものだ。「楽屋」の「踊り子」の素っぴんも悪くはない。 □


ジーニアスではないだろう

2015年12月03日 | エッセー

 先週ふと日テレの『最強の頭脳 日本一決定戦!頭脳王』なる番組の後半を観た。まさか「最強の」とはいっても、頭突きの決定戦ではあるまい。番組のHPには、
──日本で最も頭がいいのは誰なのか? 日本最高頭脳を決める「知力の総合格闘技」、それが頭脳王。優勝賞金100万円をかけて壮絶なバトルが繰り広げられる!──
 とある。「知力に留まらず、計算力、発想力、推理力」を競うのだという。MCが福澤 朗で、ひな壇に久保純子、SHELLY、関根勤、ホラン千秋、宮本亜門、森公美子、吉村崇(平成ノブシコブシ)が並んでコメントを入れる。どう見ても宮本亜門以外、頭脳とは無縁の人物達だ。
 東大・医学部の№1VS京大・医学部の天才VS東大・工学部の首席VS京大・経済学の首席VS数学オリンピック金VS全国模試・総合1位VS慶応医学部の奇才……実に錚々たるメンバーだ。
 福澤 朗が「問題です!!」とエラく目力を入れたカメラ目線で、なんだか一国の未来が決せられる瞬間でもあるように大仰に宣して問題が提示される。時計が制限の時間を無機質に刻み、小気味よく解答が出される。スタジオでは「天才」という言葉が過剰なほど行き交う。天才の叩き売りのようだ。
 広辞苑によると、「天才」とは「天性の才能。生れつき備わったすぐれた才能。また、そういう才能をもっている人」とある。しかし、これでは不十分であろう。「秀才」が「すぐれた学才。また、その持ち主」と同辞典にあり、区別は程度の差ということになる。程度はどの程度なのか。曖昧模糊となる。大口を叩けば、線引きは事後的評価によるのではないか。創造的な業績を残したか否か。歴史的、社会的貢献をなし得たかどうか。言うならば、ノーベル賞クラスの業績を残し得た才能に対してのみ使用可能な言葉ではないだろうか。でなければ、ジーニアスはインフレを起こし手垢にまみれてしまう。オマージュはたちまち消える。
 『頭脳王』たちに期待するところ大なりとはいえ、天才と謳われた学生が後そのまま天才と評さた例は極めて稀ではないか。なにもやっかんでいうのではない。嫉んだところで、今さらどうにかなるものでもない。「十で神童、十五で才子、二十過ぎればただの人」といい、「神童も大人になればただの人」」ともいう。ではあるが、ひとつの危惧が拭えない。たかがTV番組とうっちゃっておけばいいのかも知れぬが、これほどあけすけな「天才」への礼賛は反知性主義の瀰漫の中で知性への瞠目、回帰だと喜んでいていいのか。事はむしろ、その逆ではないか。
 内田 樹氏はこう述べる。
◇反知性主義者たちはしばしば恐ろしいほどに物知りである。一つのトピックについて、手持ちの合切袋から、自説を基礎づけるデータやエビデンスや統計数値をいくらでも取り出すことができる。けれども、それをいくら聴かされても、私たちの気持ちはあまり晴れることがないし、解放感を覚えることもない。というのは、この人はあらゆることについて正解をすでに知っているからである。正解をすでに知っている以上、彼らはことの理非の判断を私に委ねる気がない。「あなたが同意しようとしまいと、私の語ることの真理性はいささかも揺るがない」というのが反知性主義者の基本的なマナーである。「あなたの同意が得られないようであれば、もう一度勉強して出直してきます」というようなことは残念ながら反知性主義者は決して言ってくれない。
 彼らは「理非の判断はすでに済んでいる。あなたに代わって私がもう判断を済ませた。だから、あなたが何を考えようと、それによって私の主張することの真理性には何の影響も及ぼさない」と私たちに告げる。そして、そのような言葉は確実に「呪い」として機能し始める。というのは、そういうことを耳元でうるさく言われているうちに、こちらの生きる力がしだいに衰弱してくるからである。「あなたが何を考えようと、何をどう判断しようと、それは理非の判定に関与しない」ということは、「あなたには生きている理由がない」と言われているに等しいからである。私は私をそのような気分にさせる人間のことを「反知性的」と見なすことにしている。
 知性というのは個人においてではなく、集団として発動するものだと私は思っている。知性は「集合的叡智」として働くのでなければ何の意味もない。単独で存立し得るようなものを私は知性と呼ばない。私は、知性というのは個人に属するものというより、集団的な現象だと考えている。人間は集団として情報を採り入れ、その重要度を衡量し、その意味するところについて仮説を立て、それにどう対処すべきかについての合意形成を行う。その力動的プロセス全体を活気づけ、駆動させる力の全体を「知性」と呼びたいと私は思うのである。◇(「日本の反知性主義」より抄録)
 約めると、前段は自己を相対化できない知性のピットホールを弾劾している。知性を鎧った頑迷固陋は癒やしがたく度し難い。それは私たちの知的パフォーマンスを減殺する「呪い」となると警告したのが中段だ。後段は知性の社会性、社会的貢献の有無を指摘している。炯眼に畏れ入る。
 特に留意すべきは中段である。つまりは、自分で考える力を奪うところに反知性主義の毒があるということだ。いまだ秀才でしかないものの「天才」への安手の持ち上げが自分のアタマを外し、「天才」に預けてしまう思考停止を呼び込むのではないか。『一億総バカ化』(09年1月の拙稿で触れた)の表徴的一現象といえなくもない。「事はむしろ、その逆」とは、このことだ。
 『頭脳王』に踵を接するのが、『林先生が驚く初耳学!』である。番組HPには──頭のいい人に知らなかったと言わせたい。そんなコンセプトから初耳学が誕生しました。どんなジャンルにも造詣が深い林修先生に、視聴者から募った初耳ネタをぶつけます。国民全員と林修の”知”のガチンコ対決。観るだけで新しい知識や教養が身につく知的バラエティ番組。ぜひご家族一緒にお楽しみください!──とある。
 手っ取り早くいえば、知識をネタにした御座敷芸、トリビアルな物知り居酒屋談義である。話を急ごう。内田 樹氏の卓見を紹介する。
◇自動車学校の教官というのがいますね。この人たちのことを教習所に通う生徒たちは「先生」と呼びますけれど、この人たちははたして「先生」でしょうか? たしかに、彼らは自動車運転技術というたいへん有用な技術を教えてくれます。でも、この教官たちに敬意を抱いたり、「恩師」と呼んだり、卒業後にクラス会を開いて昔話にふけった(「いやあ、キミはほんとにS字とクランクが下手だったね、わはは」)というような話は、あまり聞きませんね。卒業した瞬間に、みなさんは教官の名前も顔さえおそらく忘れてしまうのではないですか。自動車運転技術や交通法規はまちがいなく有用な知識や技術です。それを教授してもらったのに、どうしてみなさんはそれを与えてくれた人を尊敬することができないのでしょう? 同じ自動車運転技術でも、あなたが仮免を取ったあとに、鈴鹿でたまたまF-1のドライバーの教えを受ける機会があったとします。そのことをちょっと想像してみてください。それがたとえ半日だけの講習であっても、そのドライバーに対しては、その後すっかり名前を忘れてしまうというようなことはないと思います。むしろ機会があるごとに、その人への感謝を口にするんじゃないですか? 「ぼくはシューマッハにアクセルワークを教わったんだぜ」なんてね。この違いはどこから由来するのでしょう? この敬意の違いは、「学んだこと」の違いに由来しているんです。違うのは、一方からあなたは「定量的な技術」を学び、一方からは「技術は定量的なものではない」ということを学んだということです。教習所の先生は「君は他の人と同程度に達した」ということをもって評価します。プロのドライバーは「君は他の人とどう違うか」ということをもってしか評価しません。その評価を実施するために、一方の先生は「これでおしまい」という到達点を具体的に指示し、一方の先生は「おしまいということはない」として到達点を消去してみせます。ふたりの先生の違うところはここです。ここだけです。ほとんど同じ技術を教えていながら、「これができれば大丈夫」ということを教える先生と、「学ぶことに終わりはない」ということを教える先生の間には巨大な「クレヴァス」があります。「学ぶ」とはどういうことかを考えるときに、いちばん大切なのはこのことです。◇(「先生はえらい」から抄録)
 いかがであろう。自動車学校の先生と予備校の先生は同類とみて差し支えあるまい。「定量的な技術」は「定量的な知識」に、「技術は定量的なものではない」は「知性は定量的なものではない」に代置しうる。『今でしょ!』は、「定量的な知識」を定量的に溜め込む強迫観念しか生まない。「到達点を消去してみせ」られた時、本物の学びは起ち上がる。『初耳学!』の先生は、驚嘆は呼んでも学びを喚起はしない。だから、芸だ。知識を切り売りするTVパフォーマンスにすぎない。『一億総バカ化』の只中に咲いた徒花ともいえよう。
 ジーニアスもやたらいるわけはないし、「先生」にもいろいろある。そのことに気づくのは……『今でしょ!』 □