伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

ありがとう! 徳勝龍

2020年01月27日 | エッセー

 舞の海は奇跡を見たと言い、北の富士は白鵬がいないと誰が優勝してもおかしくなくなると言った。稿者はただひたすら泣けた。
 さまざまなスポーツの優勝インタビューを見てきたが、これほど琴線に触れたものはかつてない。特に白鵬の高慢な受け答えには嘔吐を催すほど嫌悪してきただけに、徳勝龍のそれは実に爽やかでもあった。スポーツの一番良質な部分を味わえた気がする。
 まずは四方へのお辞儀から始まった。
「自分なんかが優勝していいんでしょうか?」
 館内が大拍手で応える。優勝を意識していたかどうかの問いかけに、
「意識はしていませんでした……はウソで、バリバリ意識してました」
 さすがは関西、ノリツッコミが巧い。
 話が場所中に急逝した恩師である近大相撲部の伊藤勝人監督に及ぶと、涙が堰を切り嗚咽に代わった。
「監督は(貴景勝戦を)見ていてくれたのではなく、土俵で一緒に戦ってくれた。そんな気がします」
 恩師は「見ていてくれたのではなく、土俵で一緒に戦ってくれた」──ここが肝中の肝だ。貴景勝が土俵を割る最後の一押しはこうして生まれたという。彼は別に神憑った話をしたのではない。昨年11月の拙稿を引きたい。
 〈内田 樹氏は師匠とは「幻想」であるという。
《師というのは、弟子がその人の弟子になった瞬間に結像する「幻想」である。ラーメン道を進むことを止めた若者にとってサノはただの「底意地の悪い親父」にすぎない。師は弟子のポジションに身を置いたものだけがリアルに感知できるような種類の幻想である。その幻想に賭け金を置いた弟子にだけ、「底知れぬ叡智」を伝えるような種類の幻想である。》(「『おじさん』的思考」から)
 サノとは、「ラーメンの鬼」といわれた佐野実氏のことだ。20年くらい前のTV番組『ガチンコ!』の『ラーメン道シリーズ』に講師として登場した。やんちゃな連中から立ち直りを志し、「ラーメン道」に掛ける塾生が募集された。修業は苛酷を極めた。彼らはサノから事あるごとに烈しく罵倒され、「底意地」悪く冷水をかけられ、苦心してやっと作ったスープを「鬼」のように「マズイ!」と一喝され鍋ごと打ち捨てられる。大半が去っていくなか、何人かが最後までやり遂げ暖簾分けまで進む──。そういう実録であった。
 この場合、「幻想」とは空想でもなく、妄想でもない。そうではなく、「現実にないことをあるように感ずる想念」(広辞苑)の謂である。目には見えない師匠と弟子という関係性をありありと実感することだ。「師とは弟子のポジションに身を置いた者だけがリアルにつかめる『実感』」と置換できるだろう。しかも、時間、体力、知力、地位、財産など弟子自らが持つリソースをごっそり、つまりは「掛け金」をすべてその幻想に置く。そこに専一的に「底知れぬ叡智」がまっすぐ授受される。修業を貫いた塾生たちはサノ講師をラーメンの「師」と幻想し、自らを「弟子のポジションに身を置いた。そういう構造だ。淵源はハラリがいう『認知革命』に発したものにちがいない。サピエンス以外の動物に師弟関係は存在しないからだ。
 裏返せば、「弟子のポジションに身を置」かなかった者にとっては師匠は幻想ではなく虚像・偶像にしか見えない。また、虚像・偶像にバイアスのかかった情報を専一的、優先的に収集しようとする。したがって、当然「掛け金を置」くはずもないから「底知れぬ叡智」の授受は起こらない。そういう構図でもある。〉(「ナイツがナイス、ベリーナイス!」から)
 彼の師匠は監督である。部屋の親方はその名は使っても、良き指導者としかいえない。現に親方は3人代わっている。「掛け金を置」いたのは紛れもなく、監督だ。
「ずーと監督に良い報告ができなくてきましたが、今度は頑張りました」

 徳勝龍が語ったのは「弟子のポジションに身を置」き、「賭け金を置いた弟子にだけ」「伝え」られる「底知れぬ叡智」の具象だ。我が意を得たり。飛び上がらんばかりに驚き、琴線は切られんばかりに弾かれた。
 横審から張り手、搗ち上げの注意を受けても、「反則でも禁じ手でもないし」と聞き流すダーティー横綱白鵬に比して、なんと徳に勝れたドラゴンであることか。しかも、幕尻。だが、力士の格は完璧に逆転している。その意味で令和2年初場所は舞の海の言を借りれば「奇跡」であった。さらに北の富士の伝でいくなら、ダーティー一強がいなくなれば、大相撲は俄然面白くなる。
 徳勝龍に満腔の謝意を表したい。 □


頂けない女たち3人

2020年01月24日 | エッセー

 「頂けない」とは感心しないとの謂であり、頂く気なぞ端からありはしないし、こちらから願い下げでもある。
 1人目は新立文子被告。
 〈昨年、滋賀・大津市で園児16人が死傷(内2人が死亡)した事故で、過失運転致死傷罪などに問われている被告の女の保釈が取り消されたことがわかった。新立被告は、裁判で起訴内容を認めたものの、一部メディアの取材などで対向車の過失などを主張して、判決の言い渡しが延期される異例の事態になっている。〉(関西テレビネット版から要録)
 ひょっとしたら新立は過失割合と勘違いしているのかもしれないとも考えたが、まさかそれほどのバカではあるまい。民事の損害賠償に適用される過失割合は保険会社が過去の事例を参考に決めるもので、過失運転致死傷罪は刑法の裁きである。
 新立は「不運が不運を呼んで」「せめて(対向車の)減速、あるいはブレーキがあったら」などと発言している。直進した対向車の女性運転手が嫌疑不十分で不起訴処分になったことに不満を持っているらしい。だが地検は捜査した結果、直進車について「突然右折してきた車に衝突されて事故に至った」と判断した。女性は法定速度以下で走行し、前方不注視もなく、信号は青色だったことから「刑事責任を問える過失は認めがたい」とした。
 事件の残酷さを際立たせようという裁判所の判断が働いたといえなくもないが、それにしても新立の言い分はとんでもない責任転嫁、対向車に赦しがたい濡れ衣を着せるものだ。
 2人目は杉田水脈衆院議員。
22日の衆院代表質問で国民民主党の玉木雄一郎代表が選択的夫婦別姓に関する質問をした際、「それなら結婚しなくていい」という趣旨のヤジが飛んだとされる問題で、野党は23日の衆院議院運営委員会で自民党の杉田水脈衆院議員の発言ではないかとして自民に確認を求めた。〉(朝日新聞から要録)
 かつて「LGBTには生産性がない」と言い放った問題女議員である。いくつかの政党を渡り歩いた鵺のような女議員だが、一貫して戦前志向だけは持ちつづけている。日本会議議員懇の活発な一員であり、櫻井よしこの引きがあって自民に鞍替えし安倍首相の大のお気に入りだという。類は友を呼ぶというべきか、波長が合うのであろう。此度(コタビ)もすぐに政権中枢から箝口令が発せられたそうだ。前々稿でも引いた内田 樹氏の「自信のなさが反転した彼の攻撃性と異常な自己愛は『滅びかけている国』の国民たちの琴線に触れるのです」との首相支持の核心をこの女議員がそのまま準っているといえよう。第一、国会審議でヤジを飛ばす「みぞうゆう(未曽有)」の首相が親分だ。子分が真似ても咎め立てはできまい。
 3人目は河井案里参院議員。
 適応障害だったそうだ。議員への適応に障害があったというなら納得できる。ともあれ長い雲隠れの後やっと出てきた国会で「国会議員を続けるのはどういう思いからか?」と記者に問われ、「日本を変えたいからです」と応じた。その前にキミが変われよと言いたいところだ。 
 まだまだ連日のように疑惑が続出している。中身については「捜査中なのでなかなか申し上げることができない」。嗚呼。 □


厚底シューズ

2020年01月22日 | エッセー

 学生のころはよく下駄を履かせていただいて上げ底で窮地を凌いだものだ。厚底シューズなるものはまだ影も形もなかった時代。今なら下駄に代わって厚底シューズを履くとでもいうのだろうか。
 なんだかんだとこの五輪はマラソンにチャチが入る。札幌への変更はIOCで、今回はワールドアスレチックス(旧国際陸連)だ。厚底シューズを禁止するらしい。あと半年になってという決定の時期については措く。問題の核心的部分はそれではなく、カーボンファイバープレートの是非だ。
 「使用される靴は不公平な補助、アドバンテージをもたらすものであってはならず、誰にでも比較的入手可能なものでなければならない」がWAの規定である。「不公平な」が曖昧で、公平性があれば「補助、アドバンテージをもたらすもの」が許されるとも読める。赤信号みんなで渡れば恐くない、だ。だが、それも措く。「補助、アドバンテージ」のうち「補助」をアスリートの身体的プロテクションと広義に解釈すれば、核心は「アドバンテージ」だ。
 あらゆるスポーツはギア(道具)とともに進化してきたという。本当にそうか。愚考を引きたい。
 〈“sports”(スポーツ)とは、ラテン語の“deportate”(デポルターレ)を語源とする。“portate”は「荷を担う」の意で、“deportate”はその否定形。「荷を担わない」、つまり「働かない」ということだ。これが古代フランス語“desporter”に転じて、『仕事ではなく、気晴らしをする。楽しむ』となり、15世紀前半のイギリスで“sport”『貴族階級の遊び』へと繋がっていった。括れば、「遊び」だ。それが出自である。後、競争の要素が高まりルールが生まれて今日に至る。遊戯性と競技性、それがスポーツの属性である。身体性や精神性、教育的要素は後付けの理屈だ。
 その出自を忘失し、一方の属性(競技性)にのみ引き摺られ肥大化して、商業主義に塗れ勝利至上主義に呑まれ迷路にのたうつ「スポーツ」が見るに忍びない。今までにも『スポーツおバカ』と題して3回愚案を巡らしてきたのはそれゆえである。
 16年1月『スポーツおバカ』で、「健康のためスポーツのし過ぎに注意しましょう」とのタモリの名言を引き勝利至上主義がスポーツを蝕むと嘆いた。
 同年4月には『スポーツおバカ その2』と題し、スポーツは人格の陶冶にいささかも資するものではないと実例に則して述べ、「スポーツ万歳!」と能天気に礼賛するアナリストを糾弾した。
 18年1月には『スポーツおバカ その3』で、巧拙優劣を競うものである以上フィジカルに限らずメンタルにおいても能天気に「スポーツ万歳!」とはいかないと三度目(ミタビメ)の遠吠えを放った。
 競技者を“player”という。“play”の原義は「遊び」である。オランダの歴史家ヨハン・ホイジンガは人間の本質的機能を「ホモ・ルーデンス」と見定めた。「遊ぶ人」である。法律、経済、生活様式などの社会的システムの淵源は遊びにあるとした。“sports”と同根である。「競技性」は生存本能が馴致されたものであろうが、「遊戯性」は開放されることで人類を霊長に押し上げた。今、これが逆転している。たかが遊びが雲散し、優勝劣敗が跋扈している。〉(抄録)
 後ろから押し、前に跳ねる仕掛けであるカーボンファイバープレートは明らかに「競技性」を損なう。テクノロジーの進化という「遊戯性」に道は開いても、その道は「商業主義に塗れ勝利至上主義に呑まれ」た「迷路」にちがいなかろう。サイボーグのウェラブル化といえなくもない。「競技性」に拘るならば、「裸足のアベベ」かという向きもあろう。だが東京五輪で彼が靴を履いたのは、アシックスの創業者鬼塚喜八郎が日本の良いとはいえない道路事情を挙げて説得したからだ。WA規定の「補助」に該当する。
 「競う」ならば、“素”で臨むべきだ。これをあらゆるスポーツにおいて大原則とすべきである。安全性に配慮しつつ、ギアを最小化すべきだ。
 介護、運送などの分野で目覚ましい進化を見せているサポートウエア。まさかあれを着けて柔道の試合はないだろう。しかしテクノロジーへの素朴な信頼、派生するギアを無批判に受け容れ続ければ、あり得ない話ではなくなる。極論と嗤うなかれ。佐藤 優氏はこう語る。
 〈ラディカルは「急進的」とか「過激」という意味ですが、物事の根本を掴むために必要な姿勢なんです。いろんなものを削ぎ落として、極端な形態を考えることから、事柄の本質を掴むことができる。思考実験として過激に、急進的になる必要、ラディカルである必要はあるのです。〉(「ゼロからわかるキリスト教」から)
 付言すると、パラスポーツでは障碍とギアとには極めて微細な規定や判定基準が設けられている。「競技性」を担保するなら当然だ。
 厚底シューズは素の身体性に上げ底を供するものだ。禁止すべきである。下駄を履きまくった者としてはまことにいいにくいが、管見はここに至る。 □


嵌められた閣僚

2020年01月19日 | エッセー

 小泉環境大臣が育児休暇を取り始めたらしい。結局こんなことでしか「発信力」を見せられないのか。国連デビューではいつもの歯切れよい物言いは失せ、空振り。石炭火力が足枷となって気候行動サミットでは発言の機会さえなかった。ここで浮き彫りになってきたことは進次郎氏が安倍人事に嵌められたというありようである。過言だという向きもあろう。ならば半分は力試しといっておこう。いずれにせよ、大臣の本業としてはまことに精彩を欠いている。
 もう1人。河野防衛大臣だ。こちらは外務から防衛大臣へのスライドである。自衛隊の中東派遣でもし何かあった時、真っ先に火の粉を浴びるのは間違いなく彼だ。外相時に親父譲りのリベラル色はすでに褪せていたが、今度は派遣の指揮官として飛んだ火中の栗を拾ったものだ。フツウの保守政治家へのグレードダウン。こちらも安倍人事に嵌められたとしかいいようがない。
 権力志向は政治家の本性であろう。だが、売りを質草にしたのではなんとも情けない。それに韓信の股くぐりほどの高尚さは微塵もない。あるのは、狡猾な人事に骨抜きにされていく哀れな姿だけだ。
 これほどあざとい人事の裏には、この政権が持つ論功行賞への異様な偏執がある。モリカケがその典型だ。忖度しウソをつきまくって矢を受けた者は徹して護る。佐川宣寿理財局長は国税庁長官に栄転したし、昭恵夫人付きの職員だった谷査恵子は在イタリア日本大使館1等書記官として優雅な生活と聞く。逆に弓引いた者には仮借なき仕打ちが待っている。これは極めて例が少ない。加計学園問題で正直に答弁した前川喜平文部科学事務次官が退任したことぐらいか。霞ヶ関は国民ではなく安倍一強の僕(シモベ)に堕しているがゆえだ。
 ただしハズレもある。同じ無派閥の菅官房長官の引きで経済産業相に抜擢された菅原一秀。岸田派候補を破った河井克行の法相起用。身から出た錆、ひどいドジを踏んだものだ。
 再度の引用になるが、思想家・内田 樹氏の炯眼を徴しよう。
 〈未来の見えない日本の中の未来なき政治家の典型が安倍晋三です。安倍晋三のありようは今の日本人の絶望と同期しています。未来に希望があったら、一歩ずつでも煉瓦を積み上げるように国のかたちを整えてゆこうとします。そういう前向きの気分の国民があんな男を総理大臣に戴くはずがない。自信のなさが反転した彼の攻撃性と異常な自己愛は「滅びかけている国」の国民たちの琴線に触れるのです。彼をトップに押し上げているのは、日本の有権者の絶望だと思います。(「憲法が生きる市民社会へ」から)
 「攻撃性と異常な自己愛」こそ如上の狡猾な人事と論功行賞への異様な偏執を生んでいる元凶ではないか。永田町の面々は嵌められても、国民まで嵌められてはなるまい。 □


カーンがゴーンに

2020年01月15日 | エッセー

 ゴーンについては逮捕直後、18年11月に『隗より始めず』と題して拙稿を呵した。上杉鷹山や徳川吉宗等を例に改革者自らが率先して清貧に甘んずるのが日本の伝統的教訓であると綴った。さらに反面教師として天保の改革の老中水野忠邦を引き合いに出して、こう語った。
 〈幕閣での昇進に多額の賄賂を使って猟官運動をしている。またさらなる出世のために国替え工作をすすめ、領地の一部を賄賂として差し出したのではないかとの疑いもある。他に、改革中の腹心による疑獄(収賄か)が後に発覚している。加えて失脚後転封が科された時、領民からの借金を踏み倒そうとして大規模な一揆を起こされてもいる。ともかく、カネ塗れなのだ。綱紀粛正、奢侈禁止を厳命しながら「隗より始め“ず”」なのだ。幕閣入りから改革中に至るまで、容赦ない部下の切り捨て、その意趣返し、叛逆にも遭っている。汚れたカネと非情な人使いと切り捨て。前2者とは月とすっぽん、雲泥の差がある。大きな釣り鐘、打てばゴーンと大音響かと期待が膨らんだ。だが、とどのつまりはカーンと缶蹴り擬きの音だった。嗚呼。〉
 九仞の功を一簣(キ)に虧(カ)き、囚人(メシウド)に身を堕とした顛末は水野に重なってくる。
 そこで、今度の騒動である。世は挙げてバッシングの嵐だ。それは違法な出国と、「人質司法」に問題ありとするなら法廷で堂々と主張を、との2点に集約される。さらにひと言に括るなら、「悪法もまた法なり」となるか。今は語れない“脱走”方法にばかり目を向けるのは問題の本質から外れてしまう。目眩ましの術中に嵌まってはならない。
 「人質士法」について象徴的なのは取り調べに弁護人の立ち会いを認めていないことだ。比するに、米、英、仏、独、伊、韓の各国は認めている。加えて、自白と供述調書への偏重。日本はかなりの後進国だ。いな、人権意識の高い国から見れば信じ難いほどのアナクロニズムと捉えられてしまう。先進国日本はこと司法に関しては不思議で奇怪な国だ。そうゴーンは煽る。彼の主張は後付けの言い訳かもしれぬが、日本に向けた大きなオブジェクションであるにはちがいない。本邦の国際的信頼の高まりに資するものでは決してない。その逆だ。
 「悪法も法なり」には解釈に誤解がある。ソクラテスは悪法であろうとも従えと教えているのではない。そうではなく、悪法も法だから始末が悪いと言っている。彼が毒を呷ったのは自らの哲学に殉じたためで、悪法に準じた訳ではない。西洋ではいかに法とはいえ悪法には従うべきではないと教えているそうだ。でなければ、モンテクリスト伯は成立し得ない。ガンジーの不服従運動は悪法には絶対に従わない運動であった。刻下の秩序に異議を申し立てないで成し得る変革などない。
 18年の愚稿から一転掌を返したようだが、バッシングの嵐で見落としがちなイシューを拾ってみた。
 もう一つ。前稿の伝でいくなら、法務省、法務大臣、検察庁、裁判所、司法、出入国管理は完璧に「ガキの使い」にされてしまった。ミッション・インポッシブルをまんまとポシブルにされてしまった。揃も揃って、赤っ恥もいいところ。彼らが「ガキの使い」であったことを曝かれてしまったといえる。国民の使いが大人ではなく、ガキだった。保釈後の管理が鬼ごっこレベル。なんという幼稚な国であることか。一民間人が国の中枢を手玉に取ってドヤ顔。口惜しくもあり、カタルシスをも感じてしまうのは稿者だけだろうか。
 此度(コタビ)の釣り鐘は缶蹴りの「カーン」ではなく、洋の東西に鳴り渡る大音響「ゴーン」だ。 □


『ガキ使』

2020年01月10日 | エッセー

 かつて憐れにも討死を繰り返していた『コント55号の紅白歌合戦をぶっ飛ばせ! なんてことするの!?』に比べ、同じ日テレの令和初『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!大晦日年越しスペシャル!』は大将首とはいかないまでも副将首ぐらいは上げたといえよう。見事な大健闘であった。午後6時半から延々深夜0時30分まで、15%強の視聴率を取った。紅白は40%弱をうろうろ、前年から3~4ポイントダウンでまたもや最低記録を更新した。
 ダウンタウン他3名が「青春ハイスクール」を舞台に、次から次へと笑いのトラップを仕掛けられる。だが「絶対に笑ってはいけない」。笑うとスポンジ系で重みのあるケツバットが容赦なく見舞われる。トラップによっては本物のキックボクサーが蹴りを。臀部とはいえ、これには床に倒れ込み悶え回る破目に。スタッフ総数約500人、カメラ総数210台を駆使して撮ったというから、執念だか怨念だか知らぬが鬼気迫るものを感じる。ゲストは豪華で多彩、テンポよし。稿者もついつい最後まで見入ってしまった。
 なんといっても、真骨頂は繰り出されるトラップの中身だ。本稿でも○○の羅列になって、さすがに言語化いたしかねるものばかりだ。だが好きか嫌いかと問われれば、もちろん大好きである。
 それにしてもよく考える。どうすればあのような発想が湧き出(イ)ずるのか。頭が下がって尻が上がる。今回は『行列のできる法律相談所』などの人気番組を手がけるプロデューサーに担当を替えたそうだが、狙いは当たったといえる。
 「ガキの使い」とは、用事を託した相手が「子どものお使い」のように頼りない場合をいう。番組内容とは直接結びつかないが、浜田雅功の口癖をタイトルにしたらしい。「あらへんで」だから、自らの冠番組を成功させようとの意気込みを込めたものか。曲折はあったものの、「大人の使い」を果たしたといってよい。
 ところが、いまだに「ガキの使い」を繰り返している御仁がいる。某国総理のアンバイ君だ。30回近い首脳会談を重ねても一向に埒の明かない北方領土。昨年6月にはイランとの橋渡し役を買って出て訪問した直後、本邦タンカーが爆撃されるという赤っ恥。近いうちにまたぞろ中東諸国を回るという。今度は傷口に塩を塗るつもりであろうか。韓国とは「ガキのいじめ」に終始して、「お使い」どころの騒ぎではない。中国ともギクシャク、春にやっと大親分をご招待とか。拉致問題はNKとの話の糸口さえ見えない。トランプには貿易交渉で丸め込まれ、高い武器をかわされる始末に。ポチだからしょうがないとはいえ、「Win、Win」だなどといってごまかす。「ガキの使い」、「ガキの強がり」そのものだ。
 早い話が、記録的長期にわたって記録的不作の外交、「ガキの使い」を繰り返していたことになる。ケツバットの5発や6発では済まない。キックでもまだ足りない。この際、桜を見るかい?なんて言わずにとっととどいていただいて大好きな外遊をなさっては。行き先? 絶対、ベイルートがお勧めです。 □


多様性はめんどくさい<承前>

2020年01月07日 | エッセー
 「原色のプリントのマキシ丈のワンピースを着て大ぶりのゴールドのネックレスを下げ、頭にオレンジ色のターバンを巻いた恰幅のよい黒人女性」。5人の子どもを連れている。1人は「息子」の同級生でこないだ転入してきたらしい。夏休みを前に社交辞令のつもりで「どこか休暇に出かけるんですか?」と声をかけた。と、突然刺すような目付きに変わり顔が強張って、
「アフリカには帰らないから、安心しな」
 そう吐き捨てるように言って足早に立ち去った。「息子」が通う「元底辺中学校」のレセプションでの一幕である。
 前稿で紹介したブレイディ女史が、多様性について「うんざりするほど大変だし、めんどくさい」と語った、その「めんどくさい」一例である。移民、貧困という背景に常に気を遣いながら話さないととんだ「地雷」を踏むことになる。ダイバシティだの多様性だのと簡単に口にするが、その坩堝のような“現場”はまことに「めんどくさい」のである。
 昨年第2回「ノンフィクション本大賞」に輝いた『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(新潮社)は語り口は軽妙だが、中身は重い。日本社会のさほど遠くない現実が先取りされているといえる。
 著者はブレイディみかこ女史。同書のプロフィールを引くと、
〈保育士・ライター・コラムニスト。1965年福岡市生まれ。県立修猷館高校卒。音楽好きが高じてアルバイトと渡英を繰り返し、1996年から英国ブライトン在住。ロンドンの日系企業で数年間勤務したのち英国で保育士資格を取得、「最底辺保育所」で働きながらライター活動を開始。2017年に新潮ドキュメント賞を受賞し、大宅壮一メモリアル日本ノンフィクション大賞候補となった「子どもたちの階級闘争──ブロークン・ブリテンの無料託児所から」(みすず書房)をはじめ、著書多数。〉
 というかなり型破りな人物である。「配偶者」はアイルランド人で、シティの元銀行マン。リストラされて、子どもの頃憧れだったトランプ運転手をしている。こちらもかなりな変化球だ。同書ではほとんど触れられていないが、「息子」は菊地凛子主演のイタリア映画『Last Summer』に息子役で出演し、一時話題を呼んだ。今、「父ちゃん」の反対を押し切って「元底辺中学校」に通う。その日常が描かれていく。
 「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー。」は、国語のノートの隅に青ペンで書かれた落書きだった。先週の授業で「ブルー」の意味を問われ、「怒り」と回答すると先生から赤ペンで添削が入った。英語しか話せない「息子」が悲しみや陰鬱を意味する「ブルー」の意味を取り違えていたのである。「息子」の部屋を片付けている時、「母ちゃん」が発見した。そんないきさつである。
 「ブルー」はやがて「グリーン」に変わる。「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとグリーン」に。この潮目に本作のモチーフが凝(コゴ)っている。
 ホワイトである「父ちゃん」は常に部外者だが、イエローの「母ちゃん」と「イエローでホワイト」な「息子」は煮え立った多様性の坩堝で「めんどくさい」緊張を常に強いられる。しかし「母ちゃん」はめげない。「うんざりするほど大変だし、めんどくさいけど、多様性は無知を減らす」とし、「真の多様性とは、違う者の共存を受け入れるという、言わば利他的な概念」だと語る。利他は飛躍ではなかろう。弱小なフィジカルしか持たないヒトが万物の霊長たりえたのは自利を超える利他を属性としたからだ。前稿を再録する。
〈国家は当然人為の産物であるが、人種も民族、種族も遺伝子の均質性から見れば空語に等しい。それは違いではなく適応の多様な形態に過ぎない。手垢の付いたフレーズだがやはり「人類は一つ」、いや「人類はただ一種類」なのだ。〉
 労働力不足を補うために外国人労働者を受け入れる、などというちんけな話ではない。日本人だけの婚姻であれば、西暦3300年には日本人は死に絶えるという。そこまでいかずとも、早晩多様性の海に漕ぎ出さねば本邦は立ち行かなくなる。壮大ではあっても喫緊のグランドデザインをどう描くか。憲法改正などという後ろを向いたちんけな話をしている暇はないはずだ。
 エンパシーとは? と問われて「自分で誰かの靴を履いてみること」と英語の定型句を返した「息子」。稿者を含め日本の大人たち、とりわけ要路にある面々は彼の爪の垢でも煎じて飲むといい。 □

「誰かの靴を履いてみる」

2020年01月02日 | エッセー
 「エンパシー(共感)とは何か?」との質問に、「自分で誰かの靴を履いてみること」と答えた中学生がいた。もちろん日本にはそんな中学生はいない。イギリスの話である。パンクロックに憧れて渡英し在住する保育士でライターのブレイディみかこ女史の子息である。「他人の靴」は「くさい靴」かも「ダサい靴」かもしれない。でもそれを履くことは「考えたくもない人の立場に立って発想してみる」人間の「本来的な」力ではないかと、女史は繙く。現代の孟母三遷か、滅法すごい親子だ。
 朝日の元旦号『(対談 多様性って何だ?)誰も否定されないこと 福岡伸一さん×ブレイディみかこさん』には目から鱗、何度も膝を叩き、ストンと腑に落ち、合点承知した。出色の対談である。
 とりわけ釘付けになったのは、福岡氏の次の洞見である。
 「人間は唯一、『産めよ増やせよ』という遺伝子のたくらみから脱出できた種」だとし、
〈ある種の昆虫は卵を約4千個産みます。大半は死んでも、1、2匹生き残って種をつなげばOK。つまり、生物において「個体」は「種」の保存に奉仕するための道具でしかない。それが「遺伝子のたくらみ」です。しかし人間だけは、「個体」に価値があると考えた方がより豊かな社会を構築できると気づき、それを人類共通の価値にしようと約束した。それが基本的人権の起源だと思うんです。〉
 と述べる。一方、こうも言う。
〈ライオンとか象といった数多くの「種」が存在していますが、実はひとつの種の中に多様性が存在することも、その種が生き延びるために不可欠なんです。いつ突然、環境が激変するかわからない。そのとき、ひ弱そうな個体のほうが生き延びるかもしれないんです。種が生き残るためには、個体のバリエーションが豊富なほうがいいという多様性ですね。〉
 大量に生産して歩留まりの悪さを凌ぐか、少量でもさまざまな特性を持たせるか。前者は莫大な犠牲を生み、後者はバリエーションが多様な危機を凌ぐ。とここまではいつもの話なのだが、肝は別にあった。
〈でも生物学的には、人間ほど多様性に乏しい生き物はいません。人間は他の動物と比べ、遺伝子レベルでは非常に均質性の高い種です。肌の色や習慣、宗教などほんの小さな差異が大きな違いに見えるのは、逆に均質すぎるからなのです。〉
 ここだ。国家は当然人為の産物であるが、人種も民族、種族も遺伝子の均質性から見れば空語に等しい。それは違いではなく適応の多様な形態に過ぎない。手垢の付いたフレーズだがやはり「人類は一つ」、いや「人類はただ一種類」なのだ。
 もう一点。上記の「基本的人権の起源」についてである。「遺伝子のたくらみ」に騙されないために、つまりは差別を許さないために「『個体』に価値があると考えた」。「それを人類共通の価値にしようと約束した」とは、人類の初期設定にしたということではないか。「バリエーションが多様な危機を凌ぐ」方途を捨ててまで、それをデフォルトにした。あらゆる差異の向こうにはまったく同じ人間がいる。これこそ生物学が捉えた「基本的人権の起源」である。実に鮮やかだ。
 ブレイディ女史は多様性について、「うんざりするほど大変だし、めんどくさいけど、多様性は無知を減らす」と語る。
 「真の多様性とは、違う者の共存を受け入れるという、言わば利他的な概念」だと応じた福岡氏は、
〈何も知らないままでは他者の立場を考えられない。偏見や強者の支配にとらわれてしまいます。学ぶのは「自由」になるため。そして「自由」になれば、人間は「他人の靴を履く」こともできる。山に登ると遠くまで見渡せるように、勉強すれば人の視界は広くなる。すると、お互いの自由も尊重し合う力を持てるようになります。〉
 と締め括った。
 ブレイディ女史の『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(新潮社)は、昨年ノンフィクション本大賞を受賞した。イギリスの南端ブライトンにある「元底辺中学校」で「差別や格差や複雑化した友人関係」に苦闘する「息子」を描いた作品である。タイトル自体が「偏見や強者の支配」からの「自由」の隠喩でもある。
 蓋し、新春にふさわしい対談であった。 □