伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

御高説を傾聴すべし

2007年12月25日 | エッセー
 裁判員制度については何度か取り上げた。
 07年5月11日 「お言葉」を拝して ―― 欠片の主張 その5
 07年8月30日 奇想ではなく 「赤紙」!

 今月20日、朝日新聞に元最高裁判事の団藤 重光氏へのインタビュー記事が出た。死刑廃止が主題だが、返す刀で裁判員制度にも一太刀見舞っている。一部を引用する。少々長いが、まずはご一読願いたい。

    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇
<団藤 重光>
団藤氏は終戦後、刑事訴訟法全面改正に指導的役割を果たした。東大法学部長を経て、74年から83年まで最高裁判事。死刑廃止論に転じた決定的契機は、最高裁時代の、毒殺事件の法廷だった。被告は否認したが、高裁判決は死刑。「絶対に間違いないか」と悩んだが、重大な事実誤認があるといえなければ、最高裁は高裁判決を破棄できない。「何とも仕方なかった」。上告棄却を宣告した裁判長と、団藤氏が退廷しかけた時だ。「人殺しーっ」。傍聴席から鋭い声が響いた。「一抹の不安を持っていたから、こたえました」。死刑がそもそもいけないと確信を持つようになった。最近も、著書「反骨のコツ」(朝日新書)を出版し、死刑をめぐる法務省の勉強会にメッセージを寄せるなど、死刑廃止を求める発言を続けている。

■ 死刑廃止なくして裁判員制度なし   
―― 鳩山法相は「西欧文明はドライだが、日本には死をもって償うウエットな文化がある」と説明しています。
 日本では9世紀初めから「保元の乱」まで、実に300年以上、死刑は停止されていました。「死をもって償う」というのは自分から命を絶つのであって、刑罰として人の命を奪うことと混同するのは、少々教養がないね。日本の文化は「和をもって貴しとなす」。「和」と死刑は矛盾するんじゃないかしら。
―― 家族や親しい人を殺されたら、犯人を殺したいと思う感情を持つのは当然ではないですか。
 当たり前ですが、そうした「自然な感情」を持つのと、それを国が制度として、死刑という形で犯人の生命を奪うのとは、全く違うことです。戦争だって「人情から当然だ」といって是認するとしたら、とんでもない。
―― 世論調査では「死刑存置」が多数です。政治家は世論に従うべきだとは考えられませんか。
 政治ってのはそういうもんじゃない。民衆の考え方に従いながらも指導しないと。川の流れを流しっぱなしにするのでは、水害が起きる。かといって、流れを止めてもいけない。土手をつくり、水を正しい方向に導いていけばいいんです。
―― 死刑に代わる最も重い刑としては何が考えられますか。
 さしあたっては、仮釈放のない終身刑をつくるべきでしょう。恩赦の可能性は残した上で。そうしないと死刑より残酷になる。その先、将来的にどういう刑を考えていくかは、私にもわかりません。制度をだんだんと改善していくべきでしょう。
―― 日本では、09年5月までに裁判員制度が始まります。
 裁判員は民衆から起こってきた要求によるものではない。政府が考えた根無し草。もし裁判員制度が始まるのなら、どうしても同時に死刑を廃止しなければだめです。ヨーロッパの参審制の国では死刑が廃止されているから、国民が国民に死刑を言い渡すことはない。「死刑廃止なくして裁判員制度なし」です。
―― 誤判の可能性があることを、死刑廃止論の根拠として強調されてきましたが、市民が参加したら誤判の確率も高くなるとお考えですか。
 それはそうですよ。ジャーナリズムが「被害者は、こんなにも悔しい」とむき出しの感情を流していては、国民は法的な判断力を持てないままになる。そうした国民が出す判決は、それだけ間違う可能性も高まります。
―― 団藤最高裁判事は法廷で「人殺し!」と叫ばれました。裁判員制度が始まれば、死刑判決に関与した裁判員も「人殺し!」の声を受けることになるのでしょうか。
 なぜ「人殺し」かっていえば、そういうことをしているからね、人殺しだって叫ばれるわけですよ。そう言われた方がいいんですよ。 (12月20日付)
    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇

 朝日は裁判員制度については賛成の立ち場で論陣を張ってきた。だが、このような否定的見解も載せる。まことに大新聞は懐が深い。
 12月1日の同紙社説では、広島地裁で放火殺人事件の被告に対し無罪判決が出されたことに関し次のように述べている。
―― 放火殺人で死刑を求刑された被告に対し、広島地裁が「非常に疑わしい点があり、シロではなく灰色かもと思うが、クロと断言はできなかった」として、無罪を言い渡したのだ。
 なぜ、クロと断言できなかったのか。
 物証がないうえに、被告の捜査段階での自白が信用できなかったからだ。
 ここから浮かび上がるのは、裏付け捜査を十分にしないまま、自白だけに頼って有罪に持ち込もうとした捜査のもろさである。
 1年半後に始まる裁判員制度は、法廷でのやりとりを中心に短期間で審理をする。自白調書が被告から否定されれば、信用性を長々と吟味することはできず、証拠から外されることも考えられる。
 捜査当局が自白に頼る手法を改めない限り、裁判員制度で無罪が相次ぐことになりかねない。それは事件解決の機会を自らつぶしてしまうことでもある。
 そうした裁判員制度をにらめば、捜査当局が今回の判決からくみ取るべき教訓はたくさんあるはずだ。(抜粋) ――
 捜査当局の自白偏重に警鐘を鳴らすため裁判員制度を引き合いに出したのであれば、なんとも論旨がお粗末ではないか。捜査の公正、厳正は裁判制度のいかんとは本来無関係の筈だ。それに、千人の真犯人を逃すとも一人の冤罪者を生むなかれ、との大原則を知らないわけではなかろう。まるで裁判員制度では何百人もの真犯人が野に放たれるとでもいいたいのであろうか。
 詰まるところ裁判員制度そのものが、どだい天下の愚策なのだ。戦後築き上げてきた裁判制度への画蛇添足、希代の愚法なのだ。だから朝日にしたところで、この制度に軸足を置く限り論旨はふらついてしまう。痴人説夢の類いに堕ちる。
 さて、団藤氏のインタビューである。さすがに大御所の御高説はひと味もふた味も違う。そうなのだ。刑事裁判の究極の選択肢は死刑なのだ。
 「ヨーロッパの参審制の国では死刑が廃止されているから、国民が国民に死刑を言い渡すことはない。『死刑廃止なくして裁判員制度なし』です。」この主張は重い。鋭い。頂門の一針である。
 集団リンチの無法から決別して裁判制度は創られた。それが「市民化」の衣を纏い『先祖返り』してしまう。裁判員制度とはそれほどの危険性を内包する。今はない終身刑の創設と併せ、まずは死刑制度の存廃こそ俎上に載せるべきであろう。
 さらに、政治家の役割に言及する部分。ここも含蓄ある卓見である。ただ選良が選良たり得ない悲しさ。これについても07年7月14日、「祭だ、祭だー!」で取り上げた。

 あれもこれも未解決のまま今年も暮れる。『欠片の遠吠え』も、今年はこれで吠え納めとしたい。皆さま、よいお年を。□


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極月、「ヤケのヤンパチ」

2007年12月18日 | エッセー
 「ヤケのヤンパチ日焼けの茄子、色が黒くて食いつきたいが、あたしぁ入れ歯で歯が立たない、とくらぁー」お馴染み、寅さんの啖呵売である。今年の漢字は「偽」だそうで、そんな御時世を託ってみればやはり寅さんのことばが浮かんでくる。ところが、首相は「信」の一字を挙げた。ひどいブラックユーモアだ。「人」の「言葉」と書いて「信」。そのことばが今年、哀しいほどに軽かったのが誰あろう、永田町の赤絨毯を徘徊する面々だ。となれば、もうひとつ寅さん。「たいしたモンだよ、かえるのションベン。見上げたもんだよ、屋根屋のふんどし。けっこう毛だらけ猫灰だらけ。おめぇのケツは糞だらけ」とでもカマシたくなる。田圃にいたす蛙さんのお小水も、仰ぎ見る屋根屋さんの下帯も、永田町に住まう魑魅魍魎の所業に比べれば、まことに大したモンに見えてくるのはわたしだけではあるまい。

 「ヤケのヤンパチ」、浮かぬ浮世に腹いせ紛れではあるまいが、近年滅法増えたのが夜毎の電飾である。せめてもの景気づけか。クリスマスツリーでは物足りぬか。夜陰に浮かぶ光の渦。わが陋屋は片田舎の住宅街にあるが、近頃はこの辺りにも進出著しい。飲食店が俄に林立したかと見紛うばかりだ。勿論、都会地ではそこいら中をイルミネーションが覆っている。建物のエントランス、ポーチ、ビルの壁面、並木などなど。はては一般家屋の生け垣、屋根、しまいには家一軒を丸ごと包み込むものまである。さらに色数も増し、点滅の変化も多彩になった。
 かつて流行ったトラック野郎の電飾のように、やがて廃れるのであろうか。それとも息の長いものか。ともあれ新手の年末風物詩になりつつある。早いところでは11月の中旬から始まり年を越すものもあるが、さすがにクリスマスを区切りに大半が姿を消す。元の木阿弥ならぬ、元の宵闇に戻る。
 ただ、昼間がいけない。書割の裏側を晒したような態(ナリ)で、なんとも無粋だ。まるで年増芸者のささくれ立った寝起きの顔だ。昼行灯ならば行灯に変わりはないが、昼電飾はそうはいかぬ。剥き出しの配線でしかない。楽屋裏は見せないように、昼間の工夫がほしいところだ。

 「ヤケのヤンパチ」、明治4年の鹿児島で椿事が起こった。名君といわれた島津斉彬の後継として幕末の薩摩に君臨した島津久光。生麦事件でつとに有名である。頑迷、因循、専制、まさに旧制の権化である。ところが、臣下である西郷・大久保がこともあろうに廃藩置県を主導する。もちろん大反対だ。しかし雄藩・薩摩の権力者といえども、天下の趨勢には抗しがたい。首謀者は配下である。腸が煮えくり返る。太政官布告を受けるや、日がな一日鹿児島の空に花火を打ち上げ続けた。それで鎮まったかどうかはしらぬが、薩摩勇人ともなれば鬱憤晴らしもスケールが違う。

 ともかくも、今年は暮れる。暮れるついでに、花火のひとつも挙げたいところだが、生憎夏の名残の、湿気った線香花火しかない。これでは火もつかぬ。かといって、電飾では昼夜の落差が甚だしい。夜は誤魔化せても、昼が惨めだ。笑い話にもならぬ。
 今宵も、拙宅は玄関にしょぼい外灯が一つ。薄暗闇の中で在処(アリカ)をためらいがちに示しているばかりだ。□


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「訴えてやる!」

2007年12月13日 | エッセー
 「何だか水晶の珠を香水で暖(アッ)ためて、掌(テノヒラ)へ握ってみた様な心持ちがした」と、坊ちゃんは形容する。赤シャツが、うらなりから掠め取ったマドンナだ。
 水晶とは無色透明の石英で、六方柱状結晶である。水精とも書く。すなわち水の精のごとくに透き通った宝玉である。それを香水で暖めるというのだから、もう鼻うそやぎ、目は眩む。さらに掌中(タナウチ)に包むとは、さぞや愛くるしいにちがいない。今様にはコケティッシュとでもいおうか。あるいは小悪魔的か。沈魚落雁、一顧傾城にして衆目羨望の美女には相違ない。マドンナとはつまり、そのようなものである。
 
 団塊の世代も、先頭集団がことしから還暦を迎えた。まことにめでたいというか、口惜しいというべきか。天然自然(ジネン)の理(コトワリ)であってみれば、人みな等し並にくぐらねばならぬ関門であろう。中国流にいえば白虎となり、畢生の錦秋が到来するのである。と同時にどういうわけか、過ぎ去った幼小、玄冬を懐かしむ心持ちも涌き出ずるものらしい。一戦(ヒトイクサ)も二戦(フタイクサ)も終えて、ふと旧懐の情にかられるのか。先祖返りの一種か。それとも退嬰を始めたのであろうか。近年、団塊の世代の同期会、同窓会が盛んと聞く。それも小学校時代の、である。
 わたしにも、そのような話が舞い込んできた。明年、夏らしい。実現すれば、なんと四十数年振りの再会となる。そこで、資料を持ち寄り下話となった。
 個人情報にやかましい御時世ゆえ、名前しか学校は教えてくれない。それに「卒業写真」を照らし合わせて、ひとりずつ記憶をたどり近況を探る。
 行方知らずもいる。すでに生者の列を離れた者もいる。住まいも郷里、遠方、隣町、さまざまだ。病床にある者、障害をかかえ長らく施設に住まうともがらもいる。型破りなシングリストもいれば、孫の世話に追われる祖父、祖母もいる。当たり前だが、人数分の人生がある。成功者もいれば、市井の一隅にひそやかに咲く華もある。軌跡はひとつとして重なりはしない。それぞれに、それぞれの足跡を残してきた。半世紀を超えた生きざまは、そう生半ではない。

 問題は、その卒業写真だ。わたしは逸失した。だから今回、長年月を経て再び目にすることになった。なにが問題か、それを述べる。大問題なのだ。

 人間は片時として同じではいない。常にうつろう。変化の連続だ。しかし、情報は絶対に変わらない。つくられた瞬間からカチンカチンに固まっている。「情報は変わりません。でも私という実体は、歳とともにひたすら変わってしまいます。変わるのが人間なのです」養老 猛司氏の卓論である。
 まさに写真がそうだ。情報の最たるものである。合成などの細工を施したとしても、それは別の情報になっただけで、廃棄されない限り元の情報に変わりはしない。
 写真は空間だけではなく、時間をも切り取る。シャッターを押したその刹那に、時の流れを断ち切り閉じ込めてしまう。なんと非情な …… 。「ハゲ・デブ・メガネ」の三重苦に哭くおじさんも、紅顔の美少年のままなのだ。これは由々しき問題ではないか。紳士然としたロマンスグレーが、洟垂れ小僧である場合にはなんの問題も生じないというのに …… 。四十数星霜とは、それほどに重い。悲しいほどに重い。だから写真は精神的ダメージにおいて犯罪的でさえある。
 
 さて、件のマドンナである。わたしの同窓にもいたのだ。スポーツ万能の才媛にして明眸皓歯のそれが。銀幕のスカウトも訪った正銘のマドンナである。そのマドンナが卒業写真の一角に鎮座ましまし、写真を光輝あらしめていた。掃き溜めに鶴である。ぐるりのニワトリさんたちにはまことに失礼であるが、鶏群の一鶴である。それほどにマドンナ、なのである。同窓にうらなりがいたとは聞かない。赤シャツも知らぬ。ひたすらにマドンナ、であったのだ。
 中学までは一緒だった。高校一年の春、プラットホームで一瞥して以来、見(マミ)えたことの一度とてない。少年の掌中(タナウチ)に包まれた水晶は芳香を放ちつつやがて青年へ、さらにおじさんへと受け継がれ、こんにちに至った。男友達が集まれば、決まって彼女の話題が一座を盛り上げた。
 
  ―― 笑いが弾けた。話題がマドンナに及んだ時だ。冷笑でも、憫笑でもない。乾いた失笑であった。彼女の今を見知っている女性たちだ。話によると、すげぇー変わりようらしい。
 わたしは目眩を覚えた。危うく水晶が掌から滑り落ちそうになった。
 察しはつく。『三重苦』に限りなく近いモンスレスなメタモルフォーゼであろう。なんということか。たしかに女性一般には起こり得ることかもしれない。愚妻にもその変容はある。このまま進行すればモンスターそのものになる日は近い。ただ、出発が鶴ではなく鶏であったという決定的な違いはあるが。
 
 あり得べからざることが起こったらしい。やはり女性にとっても、四十数星霜は重いというべきか。いや待て、そうではない。マドンナには、選ばれたる者の特権とともに義務もあるはずだ。権利と義務は表裏を分かつとも一体だ。すなわち、マドンナはマドンナ以外であってはならない。マドンナでありつづけねばならぬ。少年の憧憬を断じて裏切ってはならない。なぜなら、少年は少年のままに齢を重ねるからだ。
 繰り返すが、「当人」をこの目で見たわけではない。いまだ噂に過ぎぬ。しかし、聞けば聞き腹だ。いっそ、『秘密』を聞かねばよかったのだ。「知る権利」などとは、人倫を弁えぬ愚にもつかぬ世迷い言だ。世の中、全部知ったら確実に発狂する。
 恐いもの見たさがないわけではない。だが冒険心は時として仇になる。いまは封印しよう。いまさら秘蔵の水晶を毀(コボ)つわけにはいかぬ。来夏、彼女が来ないことをひたすら願おう。それともこちらが欠席するか。もし鉢合わせでもして、水晶が砕け散ったらどうしてくれる。もしそうなったら……「訴えてやる!」 でも、だれを? □


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「流行語大賞」に異議あり

2007年12月06日 | エッセー
  ことしの「新語・流行語大賞」が決まった。以下、新聞報道より。
   ~~ 今年の世相を映し、話題になった言葉を選ぶ「2007ユーキャン新語・流行語大賞」(「現代用語の基礎知識」選)が3日、発表された。大賞には、宮崎県の東国原英夫知事の「(宮崎を)どげんかせんといかん」と高校生ゴルファー石川遼さんの愛称「ハニカミ王子」の2語が選ばれた。
 東京都内で開かれた表彰式に出席した東国原知事は、「今の世相、日本社会の格差を如実に表している。方言が選ばれたことは地方からの魂の叫び、悲鳴の訴えになるのではないか」と語った。また、石川さんは「これまでゴルフに一生懸命取り組んできてよかった。それを世間の方々が認めてくださったのだとうれしく思います」と話した。
 また、大賞以外のトップテンには「大食い」「消えた年金」「食品偽装」「そんなの関係ねぇ!」「鈍感力」「どんだけぇ~」「ネットカフェ難民」「猛暑日」が選ばれた。~~(12月4日)

 この賞はその年の話題になり世相を反映した「ことば」を選び、関わりの人物や団体に贈られる。自由国民社の「現代用語の基礎知識」が読者から候補を募り、その中から藤本義一氏を長とする選考委員会が選定し、毎年12月1日に発表する。本年で24回目となる。現代社会の指標ともされる。
 まずはトップテンから。

◆「大食い」
 特異体質を逆手にとった大食いタレント・ギャル曽根の貢献が大きい。いまや「無芸大食」は死語となった。大食も立派な芸である。その意味で、希有なタレントといえよう。
 飽食を超え、美食を振り切り、一気に大食漢、いや大食娘が躍り出たのだ。世界で餓死者が毎年1500万人を超えるというのに、などと野暮なことはいうまい。大食いといえども、何百キロも喰うわけではない。景気回復がままならないとはいえ、日本はまだまだこんなに食える。そう体を張ってアピールしていると捉えれば、彼女は時代の寵児かもしれない。

◆「消えた年金」
 かならず突き止めると啖呵を切った最高責任者も、突如『消えた』! 時事ネタとしては最右翼であろう。本ブログでも触れたことがある。
 最近になって『消した』年金も明るみに出た。つまり未納率を抑えるため、社保庁自らが経営難の会社に「虚偽脱退」を促していたというのだ。もう何をか言わんやである。消えたり、消したり、結局はいっかな明るくなかった一年ということか。
 それにしても、舛添厚労大臣が授章式に参加していたのには驚いた。質(タチ)の悪いブラックユーモアでしかない。

◆「食品偽装」
 先月4日、本ブログ「2007年10月の出来事から」で取り上げた。「消えた年金」同様、使用頻度では群を抜く。これが大賞でもおかしくはない。

◆「そんなの関係ねぇ!」
 関係ないが売りのくせに、小島よしおは授章式に出てきた。いつもの態(ナリ)で、振りを付けてギャグを披露。クスッともしない会場で完全に浮き上がっていた。これこそ、KYだ。そういえば、「KY」がトップテンに入っていない。選考委員会こそKYだろう。

◆「鈍感力」
 「〇〇力」のはしりはおそらく、平成10年の赤瀬川 原平氏の著書「老人力」であろう。それ以来、やたらとこの表現が目立つようになっている。悪くはないが、多用が過ぎると「鈍感」になる。いや、それが狙いか。

◆「どんだけぇ~」
 今年9月11日付本ブログで、一推しで挙げた。大賞の選に漏れたことがオブジェクションではない。それは後述する。ともあれ、労働組合への加入率が18%以下という過去最低を記録した本年、「組合員」だけは元気であった。不幸中の幸いというべきであろう。

◆「ネットカフェ難民」
 約5400人。ホームレス予備軍であろう。また、ファーストフード店で夜を過ごす若者たちを「マック難民」というそうだ。どちらもネーミングは小ぎれいだが、実態は深刻だ。政治難民は受け入れても、経済難民は受け入れないのが日本の方針。ならば、少なくとも国内でこの手の難民が生まれないようにしてほしいものだ。

◆「猛暑日」
 最高気温35℃以上を猛暑日という。この10年間で、東京、名古屋、大阪、福岡の主要4都市での猛暑日が合計335日。30年前の3倍近くになっているそうだ。温暖化の現象か。それとも地球規模での一過性のものか。是非とも後者であってほしい。

 そして、いよいよ大賞のふたつ。
■ 「ハニカミ王子」
 おそらく「ハンカチ王子」の転であろう。 …… 恥ずかしくて、これ以上はいえない。

■ 「どげんかせんといかん」
 問題はこれだ。この大賞発表の2日前、以下の記事が出た。
  ~~「徴兵制あってしかるべき」 東国原知事が持論展開
宮崎県の東国原英夫知事は28日、宮崎市の知事公舎であった若手建設業者らとの懇談会で「徴兵制があってしかるべきだ。若者は1年か2年くらい自衛隊などに入らなくてはいけないと思っている」と述べた。記者団に真意を問われた知事は発言を撤回せず、「若者が訓練や規則正しいルールにのっとった生活を送る時期があった方がいい」と持論を展開した。
 懇談会には県建設業協会青年部の地域代表ら12人が参加。若手の育成方法などが議論になり、知事が個人的意見として語ったという。
 懇談会の終了後、知事は「道徳や倫理観などの欠損が生じ、社会のモラルハザードなどにつながっている気がする」と言及。「軍隊とは言わないが、ある時期、規律を重んじる機関で教育することは重要だと思っている」と語った。~~(朝日新聞)
 衰えない県民の支持を背に、つい口が滑ったのであろうか。滑った先が「徴兵制」では情けない。いじめが横行した徴兵制の実態、まずなによりも日本国憲法をご存じなのであろうか。モラルハザードと徴兵制が短絡する程度の政治的見識しかなかったのかと、呆れてしまう。ひょっとして、正体見たり枯尾花か。
 86年12月、「フライデー襲撃事件」は知事29歳の時であった。あるいは、その痛烈な反省が下敷きになっているのであろうか。だとすれば、「たけし軍団」を否定することにはならないか。軍団は「規律を重んじる機関」に値しなかったことになる。
 事件は言論の暴力も浮き彫りにし、物議を醸した。さらに ―― その時、そのまんま東青年は事件の修羅場をそのまんまにして、現場の入り口でタバコを吹かしていた。このことが後、軍団に不信感を生み溝をつくった。暴走する「殿」を諌止したとも聞かない。「道徳や倫理観などの欠損」と軍団の同志的紐帯との迫間で悩み、身を裂かれたという形跡もない。「青春の蹉跌」と括るには、余りにも軽佻な振る舞いに虚しくなる。毛を吹いて疵を求めているのではない。上を学ぶ下というではないか。地位ある人には人気よりも識見が欠かせない。
 それになによりこの言葉、どれだけの知名度があるのか。他県には、年初の選挙戦報道で伝えられただけではないのか。極めてマニアックな選考に「どげんかせんといかん」と、こっちが言いたくなる。それとも、地域間格差のアピールを狙ったのか。他に意図があったのか。この大賞には、大オブジェクションありだ。

 ともあれ、美味も喉三寸。 …… ことしも暮れる。□


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2007年11月の出来事から

2007年12月03日 | エッセー
■ 値上げラッシュ
 ガソリン・灯油をはじめティッシュペーパーなども。来年以降の値上げ発表も相次ぐ。(1日)
  ―― 74年(昭和49年)、第一次オイルショックが日本列島を襲った。第4次中東戦争に対して湾岸産油国が石油戦略に出たのだ。つまり資源ナショナリズムを背景に、史上初めて石油そのものが戦略として使われた。日本では「狂乱物価」が発生。列島改造ブームによる地価急騰に追い打ちがかかる。インフレが加速し金融が引き締められ、ついに成長率はマイナスを記録。高度経済成長に終止符が打たれ、戦後経済のターニングポイントとなった。
 「風が吹けば桶屋が儲かる」の逆パターンで、デパートのエスカレーターは止まり、洗剤やトイレットペーパーが買い占められた。「トイレットペーパー騒動」である。
 今回の石油高騰は事情が違う。中国・インドというかつてはなかったとびきり大きなニーズが生まれ、需給がタイトになっていること。石油メーカーの新たな設備投資や思惑。産油国から海外へ向かい始めたオイルマネーの流れ。投機筋の動き。などが主な要因である。
 いまのところ風評被害はない。ティッシュペーパーの買い占め騒ぎも聞かない。それだけ消費者が賢くなっているのであろう。次は政府の出番だ。早く手を打たねば経済が失速する。その前に、マイカーがガス欠になってしまう。インド洋上の無料スタンドはしばし店仕舞をした。今度は陸上のスタンドに手当を、と永田町に檄を飛ばしたいところだ。

■ 補給支援法案が衆院通過
 自公など3分の2を超す賛成。民主は反対。(13日)
  ―― この論議、ひとつ希薄な点がある。「軍の論理」だ。以下、姜 尚中氏の指摘は鋭く、重い。今年1月の発言である。
  ~~このまま進めば、私は将来、東京でテロが起きることも覚悟しなければならないことになるのではないか、と危惧しています。少なくともマドリードかロンドンに近い状態で起きる可能性があるかもしれません。「地上戦には入らない」と言っているわけですけれど、集団的自衛権の解禁と共に、私は地上戦に入ることすらあり得ると思います。なぜならば、非戦闘地域へという形で自衛隊を送ったからです。昔は、輜重兵という、兵糧や弾薬をつなぐ人々が一番死んでいますよね。実は前線の人よりも、輜重兵のほうがはるかに死者の率は高いわけです。後方支援というと何か平和的なことをやっているようですけれども、戦争が起きれば一番ダメージを受けるのは後方支援なんです。~~(「戦後日本は戦争をしてきた」角川oneテーマ21 から抜粋)
 「非戦闘地域」という小泉氏の十八番は堅白同異なのだ。だからこそ危ない。どのような理論操作をしようとも、「軍の論理」の輪の中に足を踏み入れるのである。たとえ「戦闘のない地域」と言い募ろうとも。

■ 南北朝鮮首相会談、15年ぶり開催
 「経済協力」を中心にソウルで。(14~16日)
  ―― 姜 尚中氏には教えられることが多い。再び、前掲書から引用する。
  ~~六者協議(アメリカ、北朝鮮、中国、日本、韓国、ロシア)の根幹は三者協議ですよ。アメリカと北朝鮮と中国。なぜならこの三者は朝鮮戦争を戦った当事者だからです。米中の間には国交正常化があります。しかし米朝の間にはない。これが終わったとき初めて拉致問題の解決が見えてくるんです。この扉を開かない限り、私は問題解決はできないと思います。「北朝鮮というレジームは崩壊する」と、九四年から十二年間にわたって有象無象のジャーナリストや学者が予言してきました。崩壊したでしょうか。崩壊しません。あの国はそう簡単には崩壊しない。あってほしくない体制だけれども、崩壊しない。存続するとしたらどうしたらいいか。交渉するしかないんですよ。~~
 そう容易くレジーム・チェンジは起こらない。急いては事をし損じる。かつては韓国もいずれ劣らぬ独裁国家だった。それでも変わる。「太陽政策」の継続と前進に期待したい。

■ 前防衛次官を逮捕
 山田洋行の元専務から装備品購入での便宜供与を期待され、ゴルフ接待を受けたとして、東京地検特捜部が守屋武昌・前防衛事務次官と妻を収賄容疑で逮捕。元専務は贈賄容疑で再逮捕。(28日)
  ―― 少し違った文脈でこの件を考えてみたい。彼は防衛庁の「天皇」といわれ、「異端児だ」と嘯きながら剛腕をふるった官僚である。政界や官邸に人脈を広げ、その「政治力」を駆使して数々の『難題』を突破してきた。彼言うところの「存在する自衛隊」から「機能する自衛隊」への脱皮である。
 9.11を『追い風』にして、有事法制の整備、テロ特措法、イラク特措法、沖縄基地移転の日米合意、庁から省への昇格など、防衛政策に「革命的」変化を起こした人物と評される。
 「米ソ核戦争で、日本が戦場になったら終わり。抑止が大事なんだ。有事法制は研究だけして、金庫に入れておけばいい」というかつての防衛事務次官と衝突し、更迭されたこともあった。
 余談だが自衛隊法上、制服組のみならず文官である防衛官僚(=背広組)、事務次官までが自衛官である。「シビリアン・コントロール」という場合、彼はシビリアンではなくコントロールされる側に属する。問題はシビリアンの所在だ。
 さて戦前、「革新官僚」と称される官僚群がいた。戦時経済体制の実現を図り、国家総動員法の作成に当たった。関東軍と繋がり、満州の利権を擁護した。「革新」の名は、ソ連の計画経済的手法を援用したことに由来する。その中心にいたのが、後のA級戦犯・岸 信介である。
 なにも彼を岸とダブらせようというのではない。ただ二人の歴史的位相にただならぬアナロジーを感じるのだ。少なくとも岸はゴルフで躓くような柔ではない。堅い信念に裏打ちされていた。だからこそ、戦後小泉・安倍にまで至る保守の長遠な一大勢力の源流となった。安倍はまさに岸のDNAを体内に宿す。その安倍の退陣に踵を接して、彼も消えていった。
 先日、わたしは参院選を「天意」と括った。(8月11日付本ブログ「天意ということ」)これもまた、天意であるのか。単なる不祥事で括っては矮小化してしまう隠然たる伏流水があるのではないか。

<番外編>
■ ワールドカップ女子バレー、日本は7位に終わる
 通算成績が6勝5敗。91年大会に並ぶ史上最低の7位に終わる。北京オリンピックの出場権は、来年5月31日~6月8日に東京で開催される「世界最終予選兼アジア予選」に持ち越しとなった。
  ―― 高橋みゆきのコメント。「自分たちは強くなった。でも、世界はそれ以上に強くなった」うまい!と唸った。こう言えば、だれも傷つかない。まことに解語の花である。
 気にくわなかったのはフジテレビの『浪花節』だ。選手個々の紹介がお涙ちょうだいのドラマ仕立て。この大会で北京が決まる、という絶叫。そのくせ、来年のアジア予選についてはついに一言も触れなかった。中国を除いたアジア予選で勝つのは十中八九まちがいない。それを言うと、視聴率に響くのか。
 指摘していた新聞もあったが、ベンチワークの悪さが目立った。もっとデータバレーをしないと世界の壁は崩せない。それに、SHINのアタック外し。SHINが打つ間際、ブロックの手をすーっと引かれる。これではブロックアウトを狙う攻撃が空振りとなる。以前にも提案したが、『大リーグボール第2号』が待たれる。
 なによりも今大会は、『控えのカナ』が十分に堪能できた。その意味では至福の時となった。だが、来年はちがう。『コートのカナ』でなければ、勝利はない。□


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