伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

「第九」

2011年12月29日 | エッセー

 「第九」は、年末の風物詩である。そうなった理由については諸説あるが、それは措く。「友よ、この音ではない!」が象徴する拒絶から融和へ、懊悩から歓喜へのテーマを考えると、年始ではなく年末にこそ相応しい。まさに跨越(コエツ)だからだ。
 モーツァルトが宮廷にとどまったのに対し、ベートーベンは世界を手挟んだ。別けても「第九」が抱える普遍の命題は時代も超えた。今もって聴く者の魂を鷲掴みにする所以だ。
 EUが苦悶した今年、なおさら「第九」が愛おしい。「歓喜の歌」の主題がEUの歌だ。壮大なる人類の先駆けを見舞う混沌の嵐。そしてなお続く挑戦。まことにこの曲は相応しい。
 
 “Roll Over Beethove”
 突飛な展開だが、アーリー・ビートルズの代表曲でもある。元祖ロックンローラー、チャック・ベリーの曲をカバーした。元々はジョンの十八番だったらしいが、アルバムではジョージが歌っている。63年のリリースだから、そろそろ50年になる。
 
  〽Long as she's got a dime
   The music will never stop
   Roll over Beethoven
   Roll over Beethoven
   Roll over Beethoven
   Roll over Beethoven
   Roll over Beethoven
   And dig these rhythm and blues〽

 アメリカのgood old days が目に浮かぶような曲だ。黒の皮ジャンに皮パン、リーゼントで決めて、しかもかなりイカれている。女の子を追って夜ごと繰り出し、硬貨が尽きるまで jukeboxを鳴らし踊り続ける。そんな絵だ。だから、4人の中で一番控え目なジョージがボーカルであるのが驚きだった。そのジョージも、ジョンも、鬼籍に入って久しい。
 “Beethoven” を “Roll over” できたかどうかは判らぬが、“the jukebox's blowin' a fuse” だけは確かだ。さらには、世界のミュージックシーンを “Roll over” したことも。
 ともあれ権威を凌ごうとする若者の覇気だけは感じ取っていいのではないか。

  〽古い船には 新しい水夫が
   乗り込んで行くだろう
   古い船を 今 動かせるのは
   古い水夫じゃないだろう
   なぜなら 古い船も 新しい船のように
   新しい海へ出る
   古い水夫は知っているのさ 
   新しい海のこわさを〽
   (吉田拓郎「イメージの詩」)

 簡明すぎるほどの詞だが、不易の準縄にちがいない。歴史はいつもそうして動いてきたのだから。

 ベートーベンは音楽を哲学した。ジョン・レノンは音楽で哲学したといえなくもない。“Revolution 9” での “number nine” の連呼は充分に哲学的だ。単なる音楽的遊びが億万の人びとの耳朶に残るはずはない。 “number nine” は「第九」と翻字しておかしくはないだろう。あと1世紀も過ぎれば、双方ともにクラシック音楽に名を連ねていると信じて疑わない。

<追記>今回で495回。今年のオーラスである。年内での500回をめざしていたが、5回分残してしまった。手前勝手な目論見だから、義務でも責任でもない。来年早々には辿り着ける。
 それにしても本年も多くの方々にお読みいただき、衷心より御礼申し上げたい。また、暖かいコメントを寄せ続けてくださった方々に、満腔の謝意を表したい。
 存在証明のためにはじめた本ブログも、いつしか生存証明となってしまった。馬齢を重ねた報いであろうか。
 皆さま、よいお年を。そして来年もご愛顧を。 □


数え日に

2011年12月26日 | エッセー

 恒例の「今年の10大ニュース」、数え日には大掃除と同じく大事な区切りだ。朝日新聞がウェブサイトでのアンケートをもとに25日、早々と載せていた。引用してみる。
〓〓「2011年の重大ニュース」
第1位 東日本大地震発生
 3月11日、三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の巨大地震が発生。大津波も起き、死者・行方不明者が約2万人に 
第2位 福島原発事故
 被災した福島第一原発で爆発が起き、高濃度放射能が検出された。炉心溶融も確認され、深刻な事故とされるレベル7に
第3位 なでしこジャパンが世界一
 7月17日、サッカーの女子ワールドカップドイツ大会決勝で、日本代表が世界ランク1位の米国をPK戦で破り、初優勝した
第4位 ビンラディン容疑者を殺害
 5月1日、オバマ米大統領は、国際テロ組織アルカイダの指導者オサマ・ビンラディン容疑者を米軍が殺害したと発表した
第5位 タイ、洪水で甚大な被害
 10月から大雨による洪水被害が拡大した。交通や流通に深刻な影響が出て、日系企業の工場も相次いで操業停止に陥った
第6位 カダフィ大佐が死亡
 10月20日、リビアの反カダフィ派国民評議会のゴガ副議長が、カダフィ大佐(69)の死亡を発表
第7位 地デジ移行
 7月24日、岩手、宮城、福島を除く44都道府県でアナログ放送が終了、地上波デジタル放送に移行した
第8位 大坂ダブル選挙、維新圧勝
 府知事選と大阪市長選が11月27日に投開票され、新市長には、橋下徹・前知事が当選した
第9位 スティーブ・ジョブズさん死去
 10月5日、米アップル社の共同創業者、スティーブ・ジョブズさんが56歳で死亡。伝記がベストセラーに
第10位 タイガーマスクのプレゼント
 プロレス漫画「タイガーマスク」の主人公・伊達直人を名乗る人物からのプレゼントが各地で見つかる〓〓
 今月17日の金正日総書記死去以前の調査だろう。以後であれば、3位ぐらいに入ってくるであろうから、4位以下は繰り下がり、タイガーマスクは外れただろう。
 第1、2位の大震災、原発事故については、本ブログで幾度となく触れた。3位の「なでしこ」は、2度語った。5位の洪水も、9位のアップルも取り上げた。7位の地デジには、無駄な抵抗と節操のない屈服を一昨年の1月と11月に記した。4・6位のビンラディンとカダフィの死亡、第10位のプレゼントには、触れていない。片や極悪、片や善意、それで片付けるのはステレオタイプに過ぎないか。8位の大阪についてはペンディングである。ただ一点だけいえば、橋下氏の掲げる「教育改革」には嫌悪感を覚える。こういう形で『維新』政治の「見栄え」を狙うなら、とんだ大間違いだ。
 筆者が番外で挙げたいのが、8月末の前首相退陣だ。もちろん吉報である。昨年11月、本ブログで「疫病神」と題して次のように綴った。
〓〓この男がアタマをとって以来、碌なことがない。
 まずは口蹄疫が襲い、参院選で大敗し(他人事ながら)、円高で苦しみ、尖閣で揉め、北方で揺れる。特にあとの二つはワン・ツー、ダブルパンチだ。そのほか巨細漏らさねば、紙幅が追いつかない。
 もうそろそろ気づいてもおかしくはない。つまるところ、この男は疫病神にちがいないのだ。人気ほしさのパフォーマンスとはいえ、四国お遍路が一の得意。憑いた疫病神を落とそうとでもいうのだろうか。それにしてもしょぼい。可哀想なくらいしょぼい。
 もし国会で「君は疫病神か?」と糺せば、「論理的な、まともな質問をしてください。聞くに耐えない!」と抗うだろう。
 昨今の窮まった荊蕀(ケイキョク)は、論理の及ばないところに投げ込むしかないのだ。この状況、推移を括ろうとすれば、「疫病神」を持ち出すのが最も相応しい。逆に、なぜこうも災厄が続くのか、論理的な説明ができるものならしてほしい。
 比較するのもおこがましいが、秀吉の天下統一と時を同じくして日本中の山野から湧くように金銀が出た。これは吉事だが、論理的に説明がつくか。所詮は、人物の徳(その時期に巡り合わせた幸運も含めて)に帰するしかあるまい。
 疫病神が死神にランクアップするまでに、なんとかせねばならない。エクソシストにお出まし願おうにも、宗旨がちがうと効き目はなかろう。さて、いかに。〓〓
 「疫病神が死神にランクアップ」は、あろうことか4ケ月後に的中した。報道によると、みんなの党の渡辺喜美代表が「事故の調査は国会の事故調査委員会で徹底して原因究明、責任追及をやるべきだ。菅直人元首相も含めて(証人喚問し、偽証するなど)場合によっては牢屋に入ってもらうところまでやるべきだ」と述べたそうだ。先日触れた国会の「事故調」である。間接的にではあるが、国勢調査権を行使できる。委員にはノーベル化学賞の山田耕一さんもいる。容赦ない解析、分析をお願いしたい。
 当時の経産副大臣が手記の中で、「視察(引用者註:事故直後の)を終わって、総理がこの時期に現地視察をしたことと、現地での総理の態度、振る舞いについて、指導者の資質を考えざるを得なかった」と語っている。側近がそこまで断じる人物である。「国会事故調」の審議を通じて、宰相としての資質と言動について厳格な鉄槌を下すべきであろう。二度と同じ選択の失敗を繰り返さないために。

 さて、次なる年だ。「2012年問題」といわれる。これは恒例の「地球滅亡説」の類いではない。その手のものにはとっくに食傷している。第一滅亡したら、次の滅亡が唱えられなくなる。
 12年には主要な国々で指導者の交替(もしくは再任)がある。それが「2012年問題」だ。
  1月 台湾総統選挙
   3月 ロシア大統領選挙
   5月 フランス大統領選挙
 10月 中国共産党総書記交代
 11月 アメリカ大統領選挙
 12月 韓国大統領選挙 
 これに実態的にノースコリアが加わるであろう。まさに目白押しである。トップの移行期間は、とかく政治空白と停滞を招きやすい。これが、「問題」たる由縁の一つだ。さらにこれほど大掛かりであると、相互の関係も複雑で展望が読みにくい。これが二つ目の「問題」だ。明か暗か、明であることを、ひたすら祈りたい。
 前述の一覧に筆者がぜひとも追記したいのが、日本である。衆院の任期はあと2年あるとはいえ、もう待てまい。衆院選挙は十分条件ではないにせよ、日本の未来にとって必要条件であるのは確かだ。今度こそは選ぶ側が賢明であらねばならない。変な『政権互助会』に肩入れすると酷いしっぺ返しを喰うと、肝に銘ずべきだ。
 昨年末からの「ジャスミン革命」でチュニジア、エジプト、リビアで圧政が覆された。ヘッドシップは軒並み追放された。ヨーロッパではEU危機でギリシャ、イタリアでトップの更迭があった。リーダーシップが厳しく問われる趨勢である。民間でさえ社長が替われば、会社は変わる。一国ならなおさらだ。さらに大国なら、それも重なれば、変わらないはずはあるまい。「問題」が問題にならず、好転の大きな節を刻むことを願うばかりである。

 地球の公転を1年とする以上、年の区切りが人為であろうはずはあるまい。かといって天為に一任したのでは、人間の意志は失せてしまう。ならば数え日に後ろをきっちりと振り返り、前をしかと見据えて新年を迎えるのは、大事な区切りとなるのではないか。 □


言葉遊び

2011年12月21日 | エッセー

 この時季になると、いろんなクリスマス・ソングが巷に溢れる。山下達郎の「クリスマス・イブ」もそうだ。
 
   ・・・・・・・
   〽雨は 夜更け過ぎに 雪へと変わるだろ
 
 これだ! このフレーズを聞くと、かつてのフジTV「ボキャブラ天国」最優秀作品(もちろん筆者独自のチョイスだが)が蘇ってくる。なんど聞いても、たんびに笑う。これが笑わずにいられよか。
 「雨」を「あ『に』」と一文字、たった一文字変える。すると、こうなる! 

   〽兄は 夜更け過ぎに 雪江と変わるだろ

 なんだかそそくさと夜の御出勤をなさる妖艶な偉丈夫の姿がくっきりと瞼に浮かび、吐き気と爆笑が同時に襲ってこないであろうか。これが地口、今様にいえば「ボキャ天」の凄み、妙味である。この投稿者は絶賛に値する。勲章ものだ。作者は違うが、次の作品も歴史に残る傑作だった。
 「弘法も筆の誤り」をボキャぶって、『コウモンも筆はあんまり』
 数カ月、魘(ウナ)されるほどに笑った。今でも時々思い起こしては笑う。周りは白い目で見るが。

 言葉遊びは世界のどこにでもあるが、古の物名(モノノナ)、折句、洒落、語呂合わせ、地口、ダ洒落、はてはおやじギャグに至るまで、日本は特に盛んだ。そのわけは日本語の音節が百ちょいと少なく、ために同音異義語が量産されたからだ。近頃聞かなくなったが、「脳トレ」にはもってこいだ。ただ、「おやじギャグ」という呼称はいただけない。筆者なぞはこれで随分へこんできた。おやじがぶっ放すからおやじギャグなのか。それなら、不承不承ではあるが納得する。しかしこの言い方には汚らしいものに顔を顰めるような距離感がある。愛情のない等閑視だ。だからナイーブなおじさんはへこむ。でも、負けない。命ある限り、放ちつづける。世界の夜明けの、その日まで……。

 言葉遊びはいいが、『言葉弄び』はいけない。先日、これがあった。
 「原発事故収束宣言」だ。
 開いた口が塞がらない。どころか、呆れた拍子に頤が外れそうになった。海外を意識したにせよ、冗談にもほどがある。生命維持装置をつけてICUにいる患者を「油断は決してできませんが危機は脱しました」と言うならまだしも、「もうすっかり回復しました」と医者が告げるようなものだ。苔むしたギャグだが、冗談は顔だけにしてほしい。さらに後刻、野田総理は「発電所の事故そのものの収束を言っており、原発事故との戦いが終わるわけではないと言っている」として、「収束」という表現を見直す必要はないと述べた。気は確かなのであろうか。
 むこうがその気なら、こちらも黙ってはいられない。おやじギャグを見舞ってくれよう。

◇やはり腰抜け、抜け出せるか?『野壷』総理。出てきたところで、鼻つまみなノダが。
◇見通しが利かない『レンコン』なんとか担当相。鶏ガラスープで煮ても喰えない。
◇A級戦犯なのにまだいる『枝葉』経産大臣。タッパも舌も、おまけに節度も足りない。
◇頭を振り振り『ゴミ山』厚労大臣。引っ込めはしたが、窓口百円負担は生徒会レベルだ。
◇エーカッコしーの『現場』知らず外務大臣。出目金のくせに、視野が狭い。
◇『イッセン』を越えても居直る、ど素人防衛大臣。おっさん、たいがいにせい!
◇マルチーズが大好きな『ジャマ岡』国家公安委員長。草葉の陰で、荘八さんが泣いてるぞ。
◇存在感がまるでない『あーすみ』ません財務大臣。官僚の手玉だ。
◇いいかげんなデタラメばかり『放送の』原発事故担当相。キバってる割りには事は少しも進んでいない。
 
 以上、お粗末。 □


「勝手居士」

2011年12月19日 | エッセー

 今年も多くの高名な人たちが生者の列を離れた。それぞれ名残惜しいが、別けても立川談志師匠ではないか。
 ともかく落語は巧かった。絶対、当代随一だった。落語はさほど聴くほうではなかったが、談志師匠であれば逃さなかった。トーク番組で撒き散らす毒気も、傾ける蘊蓄も、捻りの入った小咄も大好きだった。

「お前、いま何やってんの?」
「俺? いま胎教やってんだよ」
「胎教って、女房に?」
「そうそうそう。女房のお腹に、いい音聞かせたり、いい曲を聴かせたりすると、やがて生まれてくる子供が、すばらしい音楽家になったりミュージシャンになったりする、その可能性を楽しみにね」
「そうかなあ、俺は胎教、信用しねえなぁ。……うちのお袋はいつも、俺をおぶりながら、擦り切れた、古くせえレコードをかけてたけど、だからといって別に俺はね、だからといって別に俺はね、だからといって別に俺はね、だからといって別に俺はね、だからといって別に俺はね……」

 なんていうのは、オリジナルかどうかは知らぬが出色であった。これがあの語り口で捲られると、なんとも軽妙な味を醸した。
 毒気といえば、次のような語りもあった。

──若者に未来はありますか? 
 無い。時間があるだけ。
 ハンバーガーみてぇな文明的な残飯喰ってて、長生きするはずがない。
 それが証拠に、若い奴で長生きしている奴ぁ一人もいないだろ。

 こんな変化球を投げられた日には、こちとら空振りは確実。球筋が読めたころには、とっくに三振している。
 「落語とは人間の業の肯定だ」が持論であった。著書でこう語る。

 “人間を常識から解放させる”存在が落語家。その役割をやりたいと思ったやつが落語家になった。人間、生きていく為に“常識”というのを覚える。面白くねえが死なねえ為に、他の奴と連携して社会の中にいる為にだ。それを演(ヤ)るより仕方ない。一人ぢゃ生きられないしな。だから根本的にゃ、“常識”ってなア、不快なのだ。けど仕方がない。だからな、それで“常識”に対して“非常識”というのが発生する。しかし“非常識”を認める訳にゃいかない。でも、これをどこかに入れないと人間、参っちまう。八っつあんも熊五郎も与太郎も、金玉医者も、非常識な振る舞いをする人間が、落語には登場する。そして落語と称(イ)う”非常識”なモノを、社会のアウトローである落語家が、「寄席」という空間で喋ったんだ。寄席とは、本来そういう場所だったんだ。それはスポーツでも、芝居でも、書物でも、彫刻でも、歌劇でもみな同じ。それが現代では「藝能」なんて嘘をついて社会の中で地位を与えられている。(「世間はやかん」より)

 ここでいう“非常識”が人間の欲や愚かさ、本能、つまりは「業」であろう。エキセントリックに聞こえるが、突き詰めれば“常識”的論旨だ。斜に構えた人間讃歌といえなくもない。「『藝能』なんて嘘をついて」とは、まことに痛快だ。浅田次郎氏の「小説家は唯一ウソをつくことを許された職業」との言と大いに響き合う。
 謹んで弔意を表したい。……と、これで終わっては能がない。想を飛ばそう。

 浅田次郎著「椿山課長の七日間」。訃報の折、たまたま読んでいた。これはおもしろい。〇二年に朝日新聞に連載された作品である。西田敏行主演で映画化もされた。
 過労で突然死したサラリーマン、椿山課長。人違いで射殺されたやくざの親分。交通事故で夭折した里子の少年。三人は来世の入り口にある中陰で極楽行きを拒み、初七日までの期限付で現世に『逆送』される。それぞれにやり残したことと、やらねばならぬ後始末があるからだ。生前とは似ても似つかない身体を借りて舞い戻った三人。とんでもない意外な『過去』が明らかになるなかで、親と子の絆、愛のかたち、欲得の愚かさ、人を結ぶ縁(エニシ)の妙が縦横に綴られていく。氏の得意技、笑いながら泣かせる作品だ。
 『逆送』の条件は、「復讐の禁止」「正体の秘匿」「制限時間の厳守」の三つ。一つでも破れば、地獄行きとなる。この軛が物語に絶妙な展開を呼ぶ。さらに、この作品で洒脱な小道具になっているのが戒名である。中陰では戒名で呼ばれ、『逆送』中は戒名のもじり。しかし『逆送』の目的には、実名でなければ叶わぬものがある。明かせば「正体の秘匿」を破る。地獄は必定。……どうする。どうなる……。

 さて、談志師匠の戒名。生前、自分で決めていたそうだ。「立川雲黒斎家元勝手居士」(たてかわうんこくさいいえもとかってこじ)である。なんだか臭ってきそうな戒名だ。師匠の代名詞である毒気を三文字に託したのか。「勝手」は、遂に貫き通したあの生きざまそのものだ。
 中陰で、大師匠はどうしたのだろう。だだをこねて極楽行きは蹴ったはずだ。「そんなの、おめー、沽券にかかわる」と。ならば、『逆送』か。「勝手居士」にはそれもない。きっと「えーい、面倒くせーや。いまさら浮世に未練はねえよ。とっとと、地獄へでもなんでも送ってくれ!」とかなんとか毒突いただろう。だが、中陰だって相当困る。この「勝手居士」さん、嘘はついても同じほどの真実を噺にしてきたのだから、送るに送れない。それに、獄卒だって師匠の毒気に面食らうに決まってる。あーあ、あちらでも「勝手居士」か。□


NHKよ、お前もか!

2011年12月14日 | エッセー

 大晦日の「なんとか歌合戦」にも出るそうだ。労働基準法によれば児童の労働時間は午後8時までだから、当然、開演間もなくの出番であろう(開始時間を15分繰り上げ、前半の目玉にするらしい)。しかしそれにしても、NHKまでが世の尻馬に乗るとはなんとも情けない。カエサルめかして言えば、「NHKよ、お前もか!」である。
 芦田愛菜ちゃん、鈴木福くんのことだ。とりわけ愛菜ちゃんである。
 これは児童虐待ではないか。そう感じつつ、この子たちが出てくるとチャンネルを変えてしまう。はじめの頃こそカワユかったものの、ちかごろではむかっ腹が立つ。もちろん、彼らに対してではない。彼らを操っている大人たちに、である。その卑しい心根に、である。なにやら越後獅子を連想するが、これほどの酷使はなかったろう。獅子舞には哀愁はあったが、親方による抑制も節度もあった。世に捨てられた子らを抱えることもあり、救済にもなった。なによりコマーシャリズムに玩弄されることはなかった。
 よく動物と子どもは確実に視聴率が稼げるという。その安手の稼ぎ手に利用されているだけではないか。もしも彼らに癒しを求めているのなら、結局は動物と同列の扱いなのか。なんと淋しい大人たちであることか。あるいは、お笑い芸人に席巻されたテレビに辟易した反動であろうか。心底彼らの未来を考えるなら、もっと自制の利いた使い方があるのではないか。
 CM10数社、学校に行けるのは週1か2。「日本一忙しい小学生」といわれる愛菜ちゃん。テレビに映らない日はない。多忙のあまり、心身ともに参っているらしい。人気を博した子役で後々大成したためしがほとんどないことを考え併せると、どのみち使い捨てにされるのは目に見えている。
 13歳に満たない子役の就労は、労働基準法の例外的規定である。児童の健康及び福祉に有害でないこと、労働が軽易であること、所轄労働基準監督署長の許可を受けること、修学時間外に使用すること、が条件だ。1、2項目はすでに抵触している。修学については、学校側が相当に「配慮」しているらしい。それも問題だが、より厳格な運用とさらには法改正(より使用に制限を加える)が必要ではないか。「子ども手当」を公言する政府は、金銭ではなく子「役」への人間的「手当」を図るべきだ。文化への権力の介入というより、児童福祉の象徴的事例として捉えるべきだ。どうせ2匹目の泥鰌を狙う向きは急増するだろう(泥鰌を標榜する首相とは関係なく)。AKB48の後に数多の泥鰌が群れているように、過熱はまちがいない。かわいいからで済む話ではない。これでは、いたいけな子どもへの虐待を放置するに等しい。一時(イットキ)も早く『普通の子ども』に戻してやるべきだ。国際条約が結ばれ減少したとはいえ、「子ども兵士」にも通底する大人の事情があるといえば大袈裟であろうか。大人の事情が子どもの事情を踏み拉いているのはどちらも同じだ。子どものために大人がいるのであって、決してその逆ではない。その顛倒の極みに「子ども兵士」がいる。
 公共放送というなら、せめてNHKだけは出演させるべきではない。毅然として視聴率と手を切るべきだ。それが公共放送の矜持ではないか。
 愛菜ちゃん、福くんの出ない「なんとか歌合戦」なら、禁を犯して10分ぐらいは観てもいい(この番組が禁忌であることはかつて触れた)。なんなら、大負けに負けて30分でもいい。観るの観ないのと偏屈に聞こえるだろうが、それが大人の意地というものだ。子どもを下敷きにして大胡座をかくより、よっぽどまっとうな理屈だ。たとえ声なき声であろうとも、立派なごまめの歯ぎしりだ。□


忠臣蔵

2011年12月12日 | エッセー

 時は元禄十五年、師走半ばの十四日──日本史上、際立って高名な日付である。その日が今年も巡ってくるといえば歳時記めくが、「忠臣蔵」である。となると、わたしにはどうしても二人の名が浮かんでくる。一人は、小林秀雄氏。「考へるヒント」に収録された「忠臣蔵」だ。(◇部分、同書より引用)

◇通念の力は強いものだ。人間を、そのまとった歴史的衣装から、どうあっても説明しようとする考えが、私達は、日常、全く逆な知恵で生活している事を忘れさせる。
 過去をふり返れば、こちらを向いて歩いて来る過去の人々に出会うのが、歴史の真相である。後向きなどになってはいない。内匠頭は、刃傷しようと決心しているのだし、これから辞世を詠もうとしている。歴史家の客観主義は、歴史を振り向くとともに、歴史上の人々にも歴史を振向かす。◇
 もう40年も前のことだ。「歴史家の客観主義は、歴史を振り向くとともに、歴史上の人々にも歴史を振向かす」の一節に触れた時、痺れるような感動を覚えた。「歴史家の客観主義」の盲点を突いた一撃であった。そうなのだ。「内匠頭は、刃傷しようと決心しているのだし、これから辞世を詠もうとしている」。「後向きなどになってはいない」のだ。「歴史的衣装」を無理やり纏わせ、背中だけを見る。だから顔のない、生気が失せた年表の羅列になってしまう。先達たちの営みの、なにかとてつもなく大事なものが抜け落ちていく。
 司馬遼太郎氏の「歴史とは、人間がいっぱいつまっている倉庫だが、かびくさくはない。人間で、賑やかすぎるほどの世界である」(「歴史と小説」から)の一文に通底する眼であろう。
 次の有名な一段も、隼の滑空のような筆致とともに痛快この上もなかった。今もってそうだ。

◇今日では、法が復讐を否認しなければ、社会は保てぬという事になったが、どこの国の人々も、復讐の掟を認めなければ、社会は保てなかった長い歴史の重荷を負っている。
 私達が、めいめいの復讐心を、税金のように、政府に納入するのはいいが、そう取極めたからと言って、復讐の念を、たかが古ぼけた性悪な不安定な一感情と高をくくる理由は一つもないわけだ。キリストが、山上の垂訓で、「右の頬には、左の頬を」という飛んでもないパラドックスを断乎として主張したのは、「目には目を、歯には歯を」という人間的な余りに人間的な悲しい掟について考えあぐんだ上であった。◇
 そして括りへと続く。

◇徒党を組織し、血盟し、充分な地下運動を行い、実行の方法についても、実行後の進退についても、細目に至るまで計画し規定し、見事に成功したものである。感情の爆発というようなものでは決してなく、確信された一思想の実践であった。◇
 これはカルチャーショックであった。といって、暗くはない。「通念」が打ち砕かれる際(キワ)の爽快感だ。言われてみれば当たり前なのだが、激情に駆られただけであれほどの企みが成るわけはないのだ。
 さらに奥深い歴史観が語られる。

◇武士道とは、武士が自らの思い出を賭した平和時の新しい発明品なのであって、戦国の遺物ではない。自己を遺物と観じて誰も生きられたわけがない。彼等は、実在の敵との戦いを止めて、自己との観念上の戦いを始めた。彼等はかつての自然児が知らなかった苦しみ、思想を経験してみるという不自然な苦しみを知ったのである。◇
 「平和時の新しい発明品」、「自己との観念上の戦い」、「不自然な苦しみ」。なんという言葉の舞であろう。能舞台で演じられるそれを観ているような、静謐で深遠な言霊の群れに酔ったものだ。

 もう一人は、丸谷才一氏だ。「忠臣蔵とは何か」。85年に野間文芸賞をとった作品である。討ち入りは仇討ちではなく、鎮魂の祭祀であったとする刮目すべき見解が語られた。これにも脳天を痛撃された。(◇部分、同書より引用)

◇日本人は古来、死者、殊に政治的敗者の霊にどういふ態度で臨んできたかといふ知識によつて補はなければならない。さういふ読み方で二つの文書、とりわけ『口上書』を読んだとき、浮びあがつて来るものは、呪術的=宗教的祭祀としての吉良邸討入りで、それ以外の何かではない。この御霊信仰こそは忠臣藏の本質であつた。◇
 梅原猛氏の「隠された十字架」や「水底の歌」を髣髴させる論考である。討ち入りは儒教的な美意識や武士道の発露ではなかった。浅野内匠頭の怨霊が祟ることを恐れ、その霊を鎮めるためだった。つまり御霊信仰、古代信仰の表出であった、というのだ。隙のない論旨の展開は圧巻だった。氏は今年、文化勲章を受賞した。

◇吉良へ賄賂を贈らなかつたので意地悪をされたため怒つたといふのは、合理主義的な浅い解釈にすぎない。江戸中期の人々の心は、古代的=呪術的な層の上を近代的=合理主義的な層が浅く覆つてゐて、その層では、こんなふうに善悪の次元へ話を持つてゆくことで何とか辻褄を合せたい、納得したいと努めてゐたわけである。そして彼らの合理主義のあとには現代人の合理主義があつて、塩田の技術のせいなどと推測するが、これも事件の核心をつく考へ方ではない。その点、小林秀雄が「人の心はわからぬもの」とつぶやくことで切り抜けようとしてゐるのは、解釈とは言ひがたいにしても、何かを予感してゐたのかもしれない。すなはち忠臣藏のいちばん大事なところには、ただ媚び仕へるしかない恐しいものがあつた。その呪術的=宗教的祭祀を、従来われわれは何となく倫理的行為としてあつかつてきた。讃美する側もさういふ論法で賞揚し、否定する側もその枠組のなかで非難してきた。しかしこれは、鯨を魚に入れるやうな、あるいは蝙蝠を鳥と見るやうな、誤りである。あれは道徳の問題ではなかつた。◇
 「鯨を魚に入れるやうな、あるいは蝙蝠を鳥と見るやうな、誤り」とは、言い得て妙である。小林氏のいう「通念」「歴史的衣装」だ。
 さらに、「塩田の技術のせいなどと推測する」考え。この類いには要注意だ。ニッチは所詮、ニッチでしかない。何々事件は何々人の謀略だ、などの陰謀史観の陥穽と踵を接するからだ。
 丸谷氏は畳み掛ける。

◇君主の敵を討つたから忠義であり、そして忠義は武士の徳目の最たるものだからあれは武士道といふわけらしい。だが、四十六人がどんなに忠節の士であつても、怨魂が猛威をふるふことをもし彼らが信じてゐなかつたならば、あの敵討は起り得なかつたらう。それゆゑ、武家の道徳をもつてこの事件をとらへようとするのは、現象の末にこだはつて本質を見のがす態度である。忠臣藏の核心のところにあるのは武士道ではなく、土俗信仰であつた。
 元禄の事件の真の原動力となつたものは、武士道でも朱子学でもなく、わが古代以来の信仰であつた。それは一方で赤穂の浪士の心にひそんでゐたし、他方、当時の日本人全体、殊に江戸の市民が奉じてゐるものだつた。◇
 この下りに至った時のカタルシスは、今も記憶に新しい。両手に抱えた本を高々と差し上げ、おおーっと雄叫びを挙げた。唸るぐらいでは料簡ならぬ。叫ばねば収まらぬ感銘もある。
 炯眼はさらに抉る。剔出したものは、「変革と解放」への焦がれであった。

◇反逆の幻想から世直しの期待に至るまでの多様な渇望は、おそらく当時の日本人全体に共通したものであつた。彼らはみな変革と解放にこがれてゐた。ただし意識の底の暗いところで。そしてこのやうな不逞きはまる危険な夢想のための装置としては、あの三百年間、『仮名手本忠臣藏』にまさるものはなかつたのである。◇
 「不逞きはまる危険な夢想のための装置」としての『仮名手本忠臣藏』。資料を駆使した鮮やかな究明だった。知に飢えた獣のように、なんども噛み拉いたことが懐かしい。加えて火事装束の解明にも興奮し、(反権力の気分からか)なぜか溜飲が下がった。

 310回目のその日に、若き日と壮んな日に受けた二つの知的衝撃について、遅ればせながら読書ノートのつもりで記した。□


島から始まった日

2011年12月08日 | エッセー

 「人生七十古来稀」 杜甫はそう詠んだ。それほどに70年は永い。だが今、年寿は優にそれを越えた。屈指の長寿国だ。一方、稀なる永い星霜を経ても越えられない壁がある。沖縄だ。鉄壁にも紛う金網の結界には異邦の兵(ツワモノ)たちが陣取り、結界外での悪行さえもわれらには裁けない。点のごとき寸土のウチナーに駐留の七割半を押し込めるヤマトゥ。70年前の愚挙がついにはこの異形(イギョウ)に凝(コゴ)り、ウチナーチュの慟哭は絶えることがない。加うるに、単なる人気取りの口実にこの島を弄ぶ政治屋がいる。同朋の苦衷に寄り添おうとしない心の凍えた汚吏がいる。二重の災厄に島は身悶える。

 他国に攻め入った戦(イクサ)は、主なもので六つある。
  白村江の戦い
  文禄・慶長の役
  日清戦争
  日露戦争
  日中戦争
  太平洋戦争
 白村江は義戦ともいえる。文禄・慶長は最も自滅的な老害か。日清・日露は防衛、次の二つは夜郎自大の極まりであろう。別けても太平洋戦争。きょうは、パールハーバーから七十年を迎える。「トラ・トラ・トラ」の打電は古(イニシエ)の武運に因むが、戦局はまったく逆に進む。3年8ケ月、狂乱の末、一国は焦土と化した。

 朝日は社説でこう語る。
〓〓歴史はたえず現在に照らして問い直される。ならば、欧州発の経済危機がとどまるところを知らず、民主主義の未来が危ぶまれつつある今日、真珠湾はどんな意味を持つのか。
 ひとつの視点として、開戦を日本政府の判断の過ちや、日米対立の産物ととらえるだけでなく、もう少し広く歴史を見渡して位置づけてみる。
 すると、真珠湾は1929年の大恐慌から混迷を深めた国際秩序が、アジア・太平洋地域でもついにこわれてしまった破断点だったといえるだろう。
 当時は、列強各国が権益を守るためにブロック経済に走り、戦争を招いたのだ。それに比べて、いまはG8、G20といった多様な国際連携の枠組みがある。多くの分野で政策協調の必要性も広く理解されている。
 だが一方では、世界貿易機関(WTO)が立ち往生し、へたをすると各国がブロック経済へと突き進む恐れもある。インターネットの時代、危機は瞬時に世界を駆けめぐり、破局から避難できる場所はどこにもない。
 歴史上、同じドラマが起こることはない。だが、歴史が似たような過ちを繰り返すのも事実だ。人間はしばしば、みずからの欲望や政治的なパワー、技術力を制御できなくなってしまうからだ。〓〓
 真珠湾という「破断点」に至る道程(ミチノリ)が「ブロック経済」であった。この指摘は重い。何度か引用した浜矩子教授の憂いに響き会う。こちらの経済的結界も、外界との軋轢を生まないはずはなかろう。歴史が単純に繰り返すことはない。歳月は常に変化を刻んでいるからだ。しかし人間にその歳月に見合う進歩があったかどうか、明答は困難だ。

 戦は島から始まり、島で終わった。始点の島はいま太平洋の楽園と呼ばれ、戦はすでに歴史となっている。だが終点の島は異形の定めを負い、古希ほどの年月を経てもなお戦が居座る。結界の壁が消え、美ら島が異形を脱するのはいつか。それはヤマトゥにしか成し得ないと、「島から始まった日」に胸に刻む。□


作品の宿運

2011年12月03日 | エッセー

 NHKテレビドラマ「坂の上の雲」が今月、完結する(らしい)。司馬遼太郎はこの作品を映像化しないよう、言い遺している。わたしは司馬文学ファンの端くれとして、氏の遺戒を守り一度も観ていない。おそらくこの壮大な史劇が単なる戦争物に貶められ(作りがリアルであれば真意が具象に隠れ、ラフであれば筋書きだけが浮き上がって)、賛否両翼からの好餌にされることを惧れたのだ。
 ともあれ小説が映像化されることは頻繁だが、その逆は稀である。つまり映画にするために小説を書くことはめったにない。氏もそうだった。唯一の例外が、
  「城をとる話」
である。映画化を前提にした作品であった。
 昭和40年、今から46年も前の作品である。石原裕次郎が自ら司馬家を訪(オトナ)い、懇願したそうだ。独立プロダクション「石原プロ」を立ち上げた直後だ。代表作「竜馬がゆく」が昭和37年。「竜馬を演(ヤ)ってもらうんなら、裕ちゃんしかおらんな」と言うほどの裕次郎ファンだったらしい。同年、映画も公開された。
 
  題名……「城取り」  
  製作……石原裕次郎
  監督……舛田利雄
  音楽……黛 敏郎
  出演……石原裕次郎・千秋実・近衛十四郎・中村玉緒
        松原智恵子・芦屋雁之助・石立鉄男・藤原鎌足・滝沢修
        ほか
  配給……日活  白黒 134分

 モノクロとはいかにもレトロ。クレジットタイトルには往年の錚々たるメンバーが名を連ねる。2時間を越える「娯楽大作」として世に出た。
 コピーは「娯楽」だが、原作は哲学である。
「戦国時代の日本人というものは、じつにおもしろい。秩序に束縛されず、束縛されているのは自分自身が考えた自分の美意識だけだからである。『男はこうありたい』と発想したその一種の詩想ともいうべきものに、自分の人生そのものをあてはめて、自分の人生そのものを一編数行の詩にしようとした男どもが多い。それを、この『城をとる話』では車藤左と赤座刑部(主人公と敵役・引用者註)に象徴してみたかった」
 と、筆者が語っている。しかし、小説の前半はいかにもジョン・マクレーンかランボーを連想する展開だ。当時の日本では裕次郎がその役柄だったのだろう。真価は後半に入り大団円にかけてだ。主人公はマクレーンでもランボーでもなくなる。「世に棲む日日」にも通底する『狂人』が描かれ、ハリウッド張りの凱旋もカタルシスもどこにもない。映画がどうかは詳らかでない。観る機会を逸した。だが、大枠は外れていないだろう。
 決して司馬文学を代表する大作とはいえぬが、特異な作品ではある。なにせ発刊以来復刻されず、「幻の名作」と噂された時期もあったらしい。やっと待望の文庫化が成ったのは実に37年後であった。映画のヒットに隠れて、作品自体が姿を晦ましたのか。謎めいているといえなくもない。
 
 片や映像化を禁じた小説、片や映像化のためのそれ。民放めかして最終回を告げるNHKの番宣に辟易しながら、著作権云々ではなく作者の元を旅立った作品にも宿運じみた軌跡があるのかとある種の感慨がわいた。□


誤解について

2011年12月02日 | エッセー

 ちょっと考えてみれば解ることなのに、先入主に押し込められて長いあいだ誤解を抱いている場合がある。

 日本の各地に大きな川が流れている。川幅の割に水が少ない下流がある。中州があって幾筋もの細流に分かたれている場合もある。むろん、上流にいくつかダムがある。──ダムができる前はもっと水嵩があっただろう。豪雨のときはダムの放流とともに水が一気に増えるが、ふだん少ないのはダムが堰き止めてちょっとずつ流すからだ。──これが誤解のひとつだ。(少なくとも、わたしの場合はそうだった)
 下流域の水量は、ダムのあるなしに関わらず変わりはないのだ。建設直後ダム湖が満水になるまでは下流の量は減るだろうが、その後は一緒だ。通常時の放流量は、ダムができる前の流水量と同じはずだ。
 だから安藤広重の「東海道五十三次」に登場する大井川と、東海道新幹線が横切る大井川と、水の嵩にさほどの違いはない(浮世絵と見比べるといい)。

 世の名刹もそうだ。古色蒼然が値打ちのように喧伝されるが、できたころは豪華絢爛であったに相違ない。この勘違いが工芸品をわざわざ古めかしく作る「古色仕上げ」なる異形(イギョウ)の技を生んだといえなくもない。なんでも古けりゃいいってもんじゃなかろう。女房と鍋釜は古いほどよいともいうが、臍の曲がった筆者には負け惜しみにしか聞こえぬ。
 
 「スマホ」もそうだ。「スマート」とはすらりとして様子がいいこと。それで、この名がついた。これも、一種の先入主だ。その昔、「イカす」と同様に使われた。今様には、「かわいい」か。だが、「スマート」には賢いという意味もある。多機能だから賢い、それでスマートフォンだ。これから注目されるであろう「スマート・グリッド」もこの謂だ。かつて「ケータイを持ったサル」という本が話題を呼んだ。いまや「スマホ」である。『スマホを持ったサル』とはスゲー皮肉ではないか。

 「少子高齢化」も御用心。少子化と高齢化に因果関係はない。同時に進む別々の現象だ。それを、子供が増えれば高齢化は防げるというのはまったくの誤解。少子化の原因は分母(シャレではなく、出産適齢期人口)が減ったこと。出生率が4にでもなれば別だが、今の倍になったところで止まりはしない。「子ども手当」など少子化対策にはなんの役にも立たない。法文には育児支援とあるが、少子化対策だと吹聴するのは『議員記章を持ったサル』の脳ミソだ。かつての迷言「女性は子供を産む機械」より、もっと質(タチ)が悪い。さらに自然の摂理、調整機能との見方もある。かのインドでも頭打ちの兆候があるそうだ。

 TPPは「第3の開国」だと嘯いた御仁がいた。「開国」が曲者だ。島国のトラウマか、本邦に住まう人びとはこの言葉に弱い。真意を歪める。浜 矩子先生のお説によればさにあらず、「第2の鎖国」となる。徳川以来の、それも集団的鎖国である。WTOに拠らぬ覇道である。王道に拠らぬ覇道は、やがて潰える。(先月の本ブログ「野太い声だ!」で触れた)

 今年の流行語大賞は「なでしこジャパン」に決まった。本ブログでも7月に取り上げた。
〓〓大和は日本の古称であるから、「なでしこジャパン」とは大和撫子の逆さ読み、和洋合体だ。かといって、「ピンクジャパン」ではまことによろしくない。「ジャパンなでしこ」では落ち着かない。やはりこれしかないか。明治期に、横文字に手古摺る様を皮肉った「ギョエテとは おれのことかと ゲーテ言い」という川柳がある。なんだか一脈通じる可笑し味がある。〓〓
 「ピンクジャパン」が、なぜよろしくないか。pink=ピンクとは、元来撫子の謂である。だから横文字(カタカナ)で統一するなら「ピンクジャパン」が筋目正しい。しかし、色事のピンクととる向きがある(ほとんどがそうかもしれない)。だから、「よろしくない」と書いた。 「ピンクとは 映画のことかと 君も言い」 拙稿を読んだ数人から同じ言葉が出た。やっぱり老婆心は無駄ではなかった。□