伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

己を知る

2014年05月26日 | エッセー

 ここ二三日は投稿する予定ではなかったが、中国機のスクランブルに即応して当方も緊急発進する。
 以下 asahi.com から抄録(毎度ごめんなさい。正確を期すためです)。
〓自衛隊機に中国機が異常接近 防空識別圏重なる区域で
  防衛省は24日、同日昼ごろの2回、東シナ海の公海上空を飛行していた自衛隊機2機に対し、中国軍の戦闘機が数十メートルの距離まで接近したと発表した。同省によると現場は、日本の防空識別圏と昨年11月に中国側が設定した防空識別圏が重なるエリア。中国側が識別圏を設定して以降、このような接近事案は初めてという。領空侵犯はなかった。
 現場は、尖閣諸島から数百キロ程度北に離れていて、日中中間線付近で中国が開発を進めるガス田などに近いエリア。東シナ海では20日から、中国とロシアが合同軍事演習を行っているが、演習の海域の外だという。中国機が自衛隊機に対し、スクランブル(緊急発進)をした可能性がある。〓
 読み落としてならないのは、「中国とロシアが合同軍事演習を行っている」というフレーズだ。「防空識別圏が重なるエリア」というのは、国際法上日本に十全なアドバンテージがありジャスティスがある。問題はリーガルな次元ではない。タクティクスだ。その稚拙さだ。『孫子・謀攻』を引こう。
「彼を知り己を知れば百戦殆からず。彼を知らずして己を知れば、一勝一負す。彼を知らず己を知らざれば、戦う毎に必ず殆し」
 「彼を知り」とは、彼の身になるとの謂であろう。軍事演習中に招かれざる“他”国偵察機が“自国”の識別圏に入る。こんなリーズナブルな事由はない。当方は「知り」を文字通り探知の知と捉えた。悲しいかな、“知”的レベルが低い。だから寸止めとはいえ術中に嵌まった、といえなくもない。平和ぼけというなら、こういう事況をこそそう呼ぶべきだ。治安の悪い公道をうら若き娘が独り歩きする。臨戦の危機が望見されるなら、こんな児戯を演じるはずがない。個別にせよ集団にせよ、本邦のタクティクスがかなりの劣位にあることに落胆せざるを得ない。ともあれ本件を奇貨として、空幕のポテンシャルを再考すべきではないか。それが「己を知」る、である。
 あるいは、集団的自衛権へ誘(イザナ)うための本邦のマヌーヴァではないかと穿つこともできる。しかし小野寺五典防衛相の当惑しきった表情をはじめ、政府の反応にそれらしき気配は感じられない(後知恵で利用するかもしれないが)。幕僚監部はもとより刻下の政権は、このマヌーヴァにおける費用対効果をはじけないほどの愚人たちばかりではあるまい。第一、そんな芸達者は一人もいない。
 せめて「彼を知らずして己を知れば、一勝一負す」ではあってほしい。最低限。
 以上、メディアに欠落した視点を緊急に補足するため稿を起こした。ストラテジーについては割愛する。なにせ緊急ゆえ。 □


Aクンの勘違い

2014年05月23日 | エッセー

 とりあえず心身二元論に立つと、以下の内田 樹氏の論攷は大いに頷ける。
◇アメリカは身体加工への抵抗がきわめて希薄な国です。それは言い換えると、身体というものが一種のヴィークル(乗り物)のようなものとして観念されているということです。筋肉増強剤やステロイドを打ってまで、オリンピックに出てメダルを取ろうとしたり、試合に勝とうとする。それは、彼らにとっての自分の身体が、彼らの意思や野望を実現するための「道具」として扱われているからです。◇(『街場のアメリカ論』から)
 プチ整形がカジュアル化しつつある動向を捉えると、本邦も「親からもらった」という伝統的レギュレーションが弛んでアメリカナイズしてきたといえるかもしれない。
 昨年の『修業論』ではドライブが掛かる。
◇私たちが何かにアディクトするのは、自分が自分の身体の支配者であるという全能感をそれがもたらすからである。ダイエットでも、自傷行為でも、ギャンブル依存でもアルコール依存でもそれは変わらない。問題は「私は自分の身体を統御している」という全能感のもたらす愉悦なのである。一度全能感を経験した人間は、「もっと入力を」という要請以外のものを思いつかなくなる。これが、「強化型」の発想をするアスリートが陥りがちなピットフォールである。◇
 タイトルの展開がアスリートに及んだ部分である。アディクトの愉悦は身体統御の全能感にあり、ピットホールは経験者が更なる入力を要請するところにある。極めて明快な理路だ。ただ、「ギャンブル依存でもアルコール依存でも」には留意が必要だ。どちらも統御の対象は一見身体ではないからだ。だが正確にいえば、脳という『内部身体』(おかしな言い方だが、脳も身体の一臓器である)への統御である。ここを明らかにするため、先日も援用した才媛中野信子女史の著作を徴したい。
◇幸福感に包まれるとき、私たちの脳の中では、快楽をもたらす物質「ドーパミン」が大量に分泌されています。この物質は食事やセックス、そのほかの生物的な快楽を脳が感じるときに分泌されている物質と、ギャンブルやゲームに我を忘れているときに分泌されている物質とまったく同じなのです。これは一体どういうことなのでしょう。ヒトという種は、遠い将来のことを見据えて作物を育てたり、家を建てたり、さらには村や国を作り、ついには何の役に立つのかわからない、科学や芸術といったことに懸命に力を注ぐような生物です。そういった、一見役に立つかどうかわからなそうな物事に大脳新皮質を駆使することで結果的に自然の脅威を克服し、進化してきた動物がヒトであるともいえるでしょう。◇(幻冬舎新書「脳内麻薬」から)
 ヒトのサバイバルに資するための脳内物質ドーパミンがギャンブルやゲームへの忘我をも嚮導する。皮肉な宿痾だ。ギャンブルへのアディクトは脳内物質ドーパミンを賦活して「脳という『内部身体』」を統御するからである。続いて、刮目すべき達見に至る。
◇知能的行動は「目の前の餌を食べたい」という欲求と、時にはぶつかり合います。やるべきことは(引用者註・将来のために備蓄すること)わかっていても、生理的欲求には逆らいにくいものです。その葛藤を克服するために、ヒトの脳は快楽物質という「ご褒美」を用意し、遠い目標に向けて頑張っているときにそれが分泌されるしくみを築き上げたのではないでしょうか。快楽とは、ヒトが目的を達成するための妨げになるものではなく、給料や昇進という報酬がなかった原始時代から、ヒトの脳が用意した「頑張っている自分へのご褒美」なのです。このご褒美は時には生理的欲求を打ち負かすほどのものですから、非常に強力です。しかし一つ間違うと、頑張らずにご褒美だけ求めるようになります。これが依存症や薬物中毒です。◇
 これは唸る。快楽は先払いの報酬。それもドーパミンが担う。ひょっとすると脳内レバレッジといえなくもない。けれども「一つ間違うと、頑張らずにご褒美だけ求めるようになります」は、荷厄介だ。「一つ間違うと」は、どう間違うのか。肝心要は詳らかにされていない。同書の本旨ではないからか。ともあれ、次はアルコール依存である。大きく括れば、おクスリへの依存、進めば中毒だ。女史は次のように警告する。
◇中毒を起こすのは麻薬や覚醒剤だけではありません。アルコールやニコチンはもちろん、現在「合法」とされている薬品にも大麻より強い依存性が見られるものがあります。覚醒剤の働きはコカインと似ていますが、より強力です。コカインと同じくドーパミンの「掃除機」の働きを妨害するだけでなく、ドーパミンの放出そのものも増大させ、大量のドーパミンが脳に溢れた状態をもたらします。◇
 中毒とは、「頑張らずにご褒美だけ求める」最も厚顔無恥な不当請求である。前記した「脳という『内部身体』への統御」のウロボロス的最終形である。
 そこで冒頭に戻ろう。自らの身体が「意思や野望を実現するための『道具』として扱われているから」こそ「筋肉増強剤やステロイド」の使用に至ることと、「身体統御の全能感」というアディクトの愉悦も同根ではないか。後者も同じく「脳という『内部身体』」を「道具」として扱っているからだ。
 してみれば、話題のAクンは「とりあえずの心身二元論」に足許をすくわれたといえよう。「身体統御の全能感」を『精神』統御の全能感と取り違えてしまった。「頑張らずにご褒美だけ求める」ことが経済的原則に著しく背馳することを、厚かましくもスルーしたにちがいない。つまりは、精神にも“筋肉増強剤やステロイド”が効くと勘違いした。いわば精神のドーピングであり、プチ整形ともいえる。しかしAクンにはお気の毒だが、ドーピングや整形は心身の「身」だけを対象にして、「心」にはいっかな効かないものなのだよ。ADDICTのAクン、まことにとんだ勘違いだった。残念! 再起を祈る。 □


負けっぷりがいい

2014年05月20日 | エッセー

 こんな負けっぷりのいい相撲取りはいない。微かに柏戸が浮かぶくらいだ。とにかく外連味なく、鮮やかに負ける。気っ風のいい取り口は見ても、気っ風のいい負け方はついぞお目にかかれない。
 遠藤である。
 先場所、今場所と大関、横綱と当たるようになって、特にそうだ。イレギュラーに勝つことはごく稀で、至極順当に負ける。現在までの6敗のうち、4敗は大関と横綱が相手であった。見落としてならないのは、格上に歯が立たないことの当たり前さだ。力倆のみによって構築されたヒエラルヒーを上昇するのは力倆のみだ。上位に油断が生じる場合もあるが、鳴り物入りの駆け出しに隙を見せる上位者はいない。番狂わせは妙味ではあっても、ヒエラルヒーの上昇力とはなり得ない。下位に勝って、上位に負ける。当たり前だ。問題は当たり前さの加減、つまりは負けっぷりのよさだ。だから、遠藤である。
 回想が廻る。
 58年4月5日、鳴り物入りのルーキー長嶋が王者・金田とはじめて対決した。長嶋は3番、金田は先発。初回は空振り三振。第2打席も空振り三振。第3打席は三球三振。最後の第4打席も空振り三振。バットに当たったのは第2打席の3球目、ファールチップの1球のみ。プロ野球史上に高高と残る4打席連続三振だった。
 捕手の谷田は「あれだけ完璧に抑えられたのに、ベースに被さったり、近づいたりという小細工をしなかった。こんな打者は見たことがない。長嶋は怖い存在になる」と評し、当の金田は、「三振を恐れず、おもいっきり振りおった。あいつはすごい選手になるで」と語った。
 谷田も金田もさすがというべきであろう。彼らは長嶋の負けっぷりにただならぬものを直感した。それはまた、畏るべき後生に偶会した喜びでもあったろう。この回想が斯界でも再現することを切に願う。
 萌芽はとっくに兆しているといえる。なにせ横綱の取り組みに伍する懸賞の数。何年かぶりの、連日に亘る満員御礼。遠藤コール。響めき、悲鳴。大相撲復活も決して“エンドー”い(縁遠い・失礼!)話ではない。
 イントロダクションは焦(ジ)らすほど長いのに、プレー時間はおそらくあらゆる競技の中で最短であろう。推するに、それに相関して熟達の度合いも一場所ごとにこれほど明瞭な競技もない。柄はこの上なく大きいが、万般に限りなく細かい。小趾一本で勇み足となり、ビデオ判定でも決着がつかない同体もある。長大と短小のシンクロ。相撲の滋味である。
 柄でいえば、かつての外国人横綱はハワイ出身であった。圧倒的な体躯を誇った。今はモンゴルにシフトした。フィジカルには日本人と変わらない。売りは柄ではなく技だ。だから余計やきもきする。元祖に頭が上がらない歳月が続いた。そこに現れた彗星である。排外などでは毛頭ないが、一時も溜飲を下げてほしいと期待するのは稿者ばかりではあるまい。3年前にどん底を潜り、それでも再興の端緒をつけた放駒親方が先日急逝した。この彗星こそ親方への何よりの手向けとなろう。
 テレビの解説に登場した振分親方(元・高見盛)が「期待のプレッシャーに負けないでほしい」と語っていた。あの負けっぷりを観ていると、とてもプレッシャーに負けるような柔ではなさそうだ。なに、焦ることはない。若乃花の引退以来、14年も俟ってきた。まさか今年でジ・“エンドー”(またまた失礼!)なんてことは断じてない。あと1年2年、邦人横綱を俟てないはずはなかろう。大器晩成。晩成とは後年の謂だけではない。長期との語義がある。本物の大器が早成であるはずがない。じっくりと負けっぷりのいい相撲を重ねてほしい。今日もテレビ桟敷から精一杯の応援を送る。
 負けるな(アレ?)! 遠藤!! □ 


我が解を得たり!

2014年05月16日 | エッセー

 鱓の歯軋りとは知りつつ、この四、五年凡愚の頭では解けない疑念がある。
 世界の工場は中国から東南アジアへ、さらにバングラデシュへ、ゆくゆくはアフリカに至るだろう。で、地球を一周したその先はどうなるのか。
 かつて本邦は「エコノミックアニマル」と揶揄されたが、そもそも欲念を駆動力とする資本主義は不健全なのではないか。
 「成長」は美徳ではあるが、経済システムにも至当な徳目といえるのであろうか。
 資本主義は原理的に“自転車操業”を免れないのではないのか。
 世界に先駆けて資本主義爛熟期から衰退に向かう日本のこれからの進路はどうあるべきか。
 “低成長”も成長路線の枠内での発想ではないか。「ロハス」も同類では。
 かといって牧歌的な農本主義が問題の解とは考えがたい。
 ましてや、歴史的検証を終えたコミュニズムに未来はない。
 ……おおよそそんな愚案の類いである。
 そんな矢先、図らずも偶会した達識があった。目から鱗どころか、目がそっくり落ちてしまいそうな知的衝撃であった。我が意を得たりであり、わが“解”を得たりである。「おぉー!」「おぉー!」と、何度雄叫びを放ったことか。アカデミック・ハイに、遂に笑いながら泣いてしまった。
 コピーにはこうある。
〓資本主義の最終局面にいち早く立つ日本。世界史上、極めて稀な長期にわたるゼロ金利が示すものは、資本を投資しても利潤の出ない資本主義の「死」だ。他の先進国でも日本化は進み、近代を支えてきた資本主義というシステムが音を立てて崩れようとしている。
 一六世紀以来、世界を規定してきた資本主義というシステムがついに終焉に向かい、混沌をきわめていく「歴史の危機」。世界経済だけでなく、国民国家をも解体させる大転換期に我々は立っている。五〇〇年ぶりのこの大転換期に日本がなすべきことは? 異常な利子率の低下という「負の条件」をプラスに転換し、新たなシステムを構築するための画期的な書!〓
 おまけに帯の推薦が
〓「資本主義の終わりをどうソフトランディングさせるかの大変クールな分析。グローバル資本主義と民主制の食い合わせが悪いという指摘にも深く納得」──内田 樹(神戸女学院大学名誉教授・思想家)〓
 ときては、読まないでは男が廃る。いや、女も言い訳が立たぬ。
   資本主義の終焉と歴史の危機」
  集英社新書、本年3月刊。著者は水野和夫氏。三菱UFJモルガン・スタンレー証券チーフエコノミストを経て、内閣府大臣官房審議官(経済財政分析担当)、内閣官房内閣審議官(国家戦略室)を歴任し、現在日大教授という切れ者だ。
 新書だからといって甘く見てはならない。「新書コーナーは『知性と現代が交錯するライブ空間』なのだ。その存在を知らなければ、知性的にもなれないし、現代も語れない」との齋藤 孝氏の訓を重く受け止めたい。(メディアファクトリー新書「10分あれば書店に行きなさい」から)
 72年、アウレリオ・ペッチェイ氏が会長であったローマクラブが発表した歴史的文書『成長の限界』──人口増加や環境汚染などの現在の傾向が続けば、100年以内に地球上の成長は限界に達すると警鐘を鳴らした──に勝るとも劣らない。
 帯の
──金利、ゼロ!! 利潤率ゼロ!! 資本主義の死。 
  それでも成長を追い求めれば、多大な損害が生じるだけ!──
 が、本書の肝である。ミニマムサイズのサマリーだ。前記の疑念にすべて明答を与えてくれる。先日も本ブログで「読んで損はない」と薦めた書籍があったが、こちらは「読まないと損」だ。前者は手にとって、その厚さに驚いた人が幾人かあったやに聞く。だが、そんなことは知ったことではない。推薦した者の責任ではなく、書いた側の責任である。文句はそちらへ。しかし、こちらは214頁。一気に読める。一気飲みはカラダによろしくないが、一気読みはアタマを元気にする。税抜き740円。とってもお手頃だ。集英社と親戚でも遠戚もないが、これは燕石では断じてない。 
 まずは利潤率の低下にフォーカスして、資本主義に死の兆候が顕現していることを解き明かす。併せて、資本主義の本質を「中心/周辺」構造と「蒐集」に求め、その末路を予言。「成長教」にしがみつき続けることが国家の基盤をも危うくすると警告を発する。
 次いで中世の大変革を「長い一六世紀」と捉え、現在のグローバリゼーションとのアナロジーを歴史的に考察。刻下のそれについては、本年3月の拙稿『四つのフロンティア』で四番目のフロンティアとして触れた。同様の着眼に胸をなで下ろす。加えてEUについてはかねてよりの稿者の主張と通底する論攷であり、意を強くした。
 新興国の近代化がもたらすパラドックス、グローバリゼーションが危機を加速する実態を克明に展開。資本主義の矛盾をもっとも体現する日本にこそアドバンテージがあるのに、政府はそれを無効にする愚策を打とうとしていると諫める。そして、ゼロ成長社会へのメルクマールである 「定常状態」を提唱して論を結んでいる。

 一読すればアベノミクス(“アベノミックス”も)がいかに経済的趨勢に、日本の世界史的使命に背を向けているかが腑に落ちる。いかに安直で思慮の足りない愚策であるかが腹に落ちる。稿者の愚蒙を啓いてくれるばかりではない。日本の未来を拓く不刊の書といって過言ではなかろう。安全保障の危機以前に、「歴史の危機」にこそ目を覚ますべきだ。 □


「保守」を問う

2014年05月13日 | エッセー

 痒いところに手が届くとでもいおうか。実にタイムリーな企画だ。
 『文藝春秋』六月号 超大型企画──安倍総理の「保守」を問う──
 冒頭にはこうある。
〓日本の進路はどこに向いているのか。われらの漠たる不安に百人の叡智が答える
三年間、迷走を重ねた民主党政権。安倍内閣は久々の本格的保守政権として発足した。特定秘密保護法制定、集団的自衛権の行使などを手がけ、「戦後レジームからの脱却」を掲げる安倍政権に対し、国内外から「右傾化」との非難もあがっている。日本はどこに向かうのか。「保守政治の本質」とはなにか。小誌は下記のいずれかにお答えいただきたいと各界の識者に意見を募った。① 日本は右傾化しているのか。 ② 本来の「保守」とはいかなるものか。 ③ 安倍政権の「戦後レジームからの脱却」をどう考えるか。憲法改正、対米・対中外交、歴史認識、靖国参拝から新自由主義政策の是非、ヘイトスピーチに至るまで──百名の論者が多角的な視点から論じ尽くす〓
 全80頁、圧巻である。全員というわけにはいかない。百人のうち、馴染みのある幾人かを紹介したい。関心を引けば、ぜひ当誌に当たっていただきたい。
※肩書きは原文のまま。──部分までは原文から。◇部分はサマリー。◇以降に愚考を少々。

【藤原正彦】数学者、作家
──変な保守が多すぎる
◇戦後レジームを墨守しようとするのは脳天気で、および戦後レジームに異を唱えながら、経済のためなら何でもする守銭奴保守、アメリカ追随だけを信ずる親米ポチ保守、ヘイトスピーチなど過激言動に走るヒステリー保守、といった人々ばかりだ。◇
 まあ、いつもの通りだ。稿者であれば、まっさきにこの御仁を「変な保守」に挙げる。
【磯田道史】静岡文化芸術大学教授
──敵をも愛する豊かな心
◇保守とは何か。一視同仁の心で、この環境風土を愛し守る。この一事に、つきる。日本人の心性は、恐ろしいまでに先進的なものであったと未来人に評価される日が必ず来る。歴史家の私にはそれが見える。この日本人の心性だけは何があっても保守してまいりたい。◇
 さすがに歴史家の眼は永く、深い。
【山折哲雄】宗教学者
──憲法九条にガンディーの精神を
◇われわれの九条を真に保守するためには、この非暴力の魂を吹きこむことが何よりも大切ではないかと、今あらためて思う。◇
 9・11以降の趨勢に「無防備のままの九条保持は絵に描いた餅になりかねない」とし、若者に命賭けの非暴力による政治運動を要求したガンディーに学ぼうとする。
【曾野綾子】作家
──日本が嫌いなら外国にどうぞ
 「言うよね~」だ。ちょっと古いか。でも、この婆さんは苔生すほどに古い。
【伊東四朗】喜劇役者
──戦後民主主義教育の害
【内田裕也】ロックンローラー
──ロックンローラーだって国のことを考えいる! 
 池上某が選ばれなかったのは文藝春秋社の良識であろうが、この二人が登場したのには首を傾げざるを得ない。彼らは果たして「叡智」といえるのか。芸人や“ロッケンローラー”は「智」を押し隠すところにこそ生業の成立要件があるはずだ。たまさか持ち合わせているにせよ、舞台に載せたのでは悪い冗談にもならない。
【香山リカ】精神科医、立教大学教授
──売れ筋は嫌韓嫌中と日本礼賛
◇不安を払拭し現実に適応するために、前向きな物語が必要だ。「東京オリンピック」という物語だけでは弱い、と選ばれようとしているのが「悪いのは中国、韓国、でも世界は日本が大好き」という“大いなる物語”なのではないか。残念なことに、この物語は事実から乖離した錯覚や幻想だ。◇
 鋭い。続けて「このまま”大いなる物語”とともに大海に沈むタイタニック号となるか、それとも現実の難局にしっかり向き合い、再び国際協調への道に歩み出せるか。」と、警鐘を鳴らす。精神科医による日本診断だ。
【中野剛志】評論家
──戦後レジームはいつか終わる
◇肝心の米国が、覇権国家として、世界秩序を維持する力も意欲も失いつつある。米国覇権が終わるなら「戦後レジーム」も終わる。我々は、戦後レジームからの脱却を目指さなくても、強いられるのだ。◇
 持論である「米国派遣」からの論究である。以前触れた『TPP亡国論』と同じコンテクストだ。傾聴に値する。
【齊藤 孝】明治大学教寿
──吉田松陰は保守か、革新か
◇吉田松陰は、保守か革新か。「保守=右翼、革新=左翼」という図式は万能ではなく、時代状況による。「健全な、機能する保守」は「中庸」である。反対に、現実の変化に鈍感で旧態依然として適応を怠る場合は、「不健全な、機能しない保守」といえる。◇
 朝のワイドショーでアンカーをするようになると、お答えまで「中庸」となるか。先生、もっと言ってほしいな。
【柳田邦男】ノンフィクション作家
──重要なのは品格
◇戦後六十九年、この国が築いてきた世界に類例のない平和主義と生命尊重を国是とする国のかたちと精神文化を破壊しかねない政治状況に、人々が慣れ不感症になるのは怖いことだ。◇
 原発避難者の声を受け止めると言いつつ、原発セールスに精を出す。そんな政政治リーダーに品格がないと弾劾する。洞観に敬服する。
【養老孟司】解剖学者
──ホンネとタテマエ
◇いまの日本は右傾化しているか。私がそうだと答えても、さして意味があるとは思えない。理由は以下の通り。◇
 として、「日本の主婦の五割は、言っていることとやっていることが百八十度違う」というインタビュー調査を政治的意見に応用する。
◇本音の結果はつねに五対五。日本人の半分が嘘つきだと、岐路の選択に関する未来の行動予測はつねに五分五分。自分でも信じられない結論だけどね。◇
 齊藤氏の「中庸」も真っ青。木で鼻を括る。まさに養老節、炸裂だ。
【姜 尚中】聖学院大学学長
──アメリカ印の象徴天皇制
◇象徴天皇を第一条に掲げる日本国憲法とそのレジームは、保守の知恵の成果である。逆に天皇主権のもとに戦後レジームからの脱却を唱えることは、本来の保守とは正反対の革新主義であり、かつての官僚や軍部の革新主義が、新たな装いのもとに蘇ろうとしている.◇
 これこそ「叡智」であろう。鋭い知の刃が核心を剔抉する。
【孫崎 享】元外務相国際情報局長
──安倍政権が選んだ米国従属
 靖国参拝に絡み、結局は「米国従属」を選択した安倍政権の本質を突く。
【橋本 治】作家
──今のトップはああいう人
◇「日本を取り戻す」、とか「戦後レジームからの脱却」というのは、空想的なレトロフューチャーだと思う。あまり現実味のないことを、今の日本のトップは「~しようじゃありませんか!」と、一人称複数の命令形を疑問形で呼び掛けて巻き込もうとしているのだが、それに対して熱狂的な歓呼の声が湧き上がっているわけでもないでしょう。現状肯定ばかりでチェック機能が退化していることが日本の問題かと思います。◇
 まことにこの人らしい。茫洋としているようで、肺腑を抉る。「~しようじゃありませんか!」には、膝を痛いほど打った。
【浜 矩子】同志社大学教授
──良きものを断固守り抜く
 昨今の「新保守主義」にオブジェクションを呈する。怖い顔が浮かぶ。
【手嶋龍一】ジャーナリスト
──レーガン大統領なら何を語るか
 原体験をもとに、冷戦を終わらせた大統領に真の保守を見いだす。
【東 浩紀】思想家
──日本の強さがわかっていない
◇排外主義者は中韓の侵入が日本の伝統を壊すと主張する。それに対しては、そんなことで伝統が壊れると思っているおまえたちこそなにも日本の強さがわかっていないのだ、と答えよう。◇
 あるべき保守主義のかたちを説き、「おまえたち」に啖呵を切る。論客だ。

【佐伯啓思】京都大学教授
──世界中で保守が消えた
◇一方では、中国との敵対を想定した上で日米同盟を重要視している。しかし他方では、靖国参拝を行うことこそがいわば保守の証明だとされる。しかし、安倍首相の靖国参拝をアメリカは決して快くは思わないし、中国との対立をアメリカは回避しようとしている。◇
 この人の話はいつもドラスティックだ。
【内田 樹】思想家
──共生より競争が選ばれた
◇人類史的スケールをとると、「変化すること」よりも「存続すること」の方が集団の課題として緊急だった。経済成長や人口増をめざさず、根幹的制度について急激な変化を厭う人々を「保守」と呼ぶのが筋目だろうと思う。その意味では自民党はもはや保守政党ではない。問題は階層下位の人々である。彼らは「社会制度の劇的変化で起死回生をはかる」か「相互扶助的な仕組みを工夫して、貧しさに甘んじる」かの二者択一を迫られている。階層下位の右傾化は、この二者択一では「起死回生」を選ぶ他ないと信じた人たちの結論である。競争に勝つことの重要性については教わったが、共生の作法については何も教えられてこなかった人たちの選んだ結論である。◇
 百人の叡智、最上位にまちがいない。かつて小林秀雄は「人生の教師」と呼ばれた。一時代前までは大学入試の現代文でもっともよく出題された。それを今や、内田氏が襲っている(直近では鷲田清一氏と二分)。やがて、「人生の教師」と冠される日も来るのではないか。
 ともあれ前稿とも通底するのだが、「共生」にこそ人類史的課題は懸かっている。
【寺島実郎】日本総合研究所理事長
──日本人が保つべき正気
◇米国の東アジア戦略の基本は「日中双方に配慮したアジアでの米国の影響力の最大化」である。日本が示す表層の「親米」は「反米」に帰結する虚構であるとの疑念を醸成する。日本人が保つべき正気は、戦後民主主義の価値を主体的に位置づけ直し、一次元高い「浩然の気」を持ってアジアに心を開き向き合うことである。◇
 浩然の“戦略眼”にのみよく写しうる達識である。
【佐藤 優】作家
──ネット右翼のナルシシズム
◇排外的なヘイトスピーチを叫びながらデモをする人々がいるが、この人たちが日本国家を守るために予備自衛官を志願するとか、あるいは右翼思想の研究を行うというような行動をとるわけではない。自分の心情をどう満足させるかだけで、政治的責任感は皆無だ。右傾化と呼ぶに値しない自己陶酔に過ぎない。◇
 氏もまた慧眼の士だ。病症に潜む病根を見逃さない。
【與那覇 潤】愛知県立大学准教授
──戦中派の退場
◇右傾化の最大の背景は「戦中派の退場」だ。戦前すなわち「祖父」の名誉にこだわる人々が、なぜ戦後という「父」の達成は唾棄して省みないのか。父親の不在が過剰なマッチョイズムを生むという逆説が、日本の保守の最大の矛盾だ。◇
 戦争を失敗と捉えた「戦中派」。兵役体験を持たず、戦後の対米従属に割り切れなさを感じる「戦後派」の存在。いつもながらの歴史的分析は異彩を放つ。今回百人のうち、このような俯瞰を提示したのは與那覇氏ただ一人だ。
 この達見は内田氏の以下の洞見を蘇らせる。以前にも援用したが、重複を恐れず再度引く。
◇「戦後民主主義」はある意味では、そういう「戦後民主主義的なもの」の対極にあるようなリアルな経験をした人たち(引用者註・戦前、戦中を生きた人々)が、その悪夢を振り払うために紡ぎ出したもう一つの「夢」なのだと思います。「夢」というと、なんだか何の現実的根拠もない妄想のように思われるかも知れませんが、「戦後民主主義」はそういうものではないと思います。それは、さまざまな政治的幻想の脆さと陰惨さを経験した人たちが、その「トラウマ」から癒えようとして必死に作り出したものです。だから、そこには現実的な経験の裏打ちがあります。貧困や、苦痛や、人間の尊厳の崩壊や、生き死にの極限を生き抜き、さまざまな価値観や体制の崩壊という経験をしてきた人たちですから、人間について基本的なことがおそらく、私たちよりはずっとよく分かっているのです。人間がどれくらいプレッシャーに弱いか、どれくらい付和雷同するか、どれくらい思考停止するか、どれくらい未来予測を誤るか、そういうことを経験的に熟知しているのです。戦後日本の基本のルールを制定したのは、その世代の人たちです。明治二十年代から大正にかけて生まれたその世代、端的に言って、リアリストの世代が社会の第一線からほぼ消えたのが七〇年代です。「戦後」世代の支配が始まるのは、ほんとうはその後なんです。◇(「疲れすぎて眠れぬ夜のために」から) 
 
 団塊の世代にとって「保守」とは日陰者に近かった。「革新」は日向で輝いていた。いま日陰が露わになっている。ネガフイルムのようだ。陽光に変化はないはずだから、何かが動いたとするほかあるまい。それはなにか。この企画はサジェッションに満ちている。 □


自然状態?

2014年05月10日 | エッセー

 高校でトマス・ホッブズを学んだ時、『自然状態』が新鮮だった。西欧流の思考にカルチャーショックを受けた。機械論的世界観の先駆者といってしまえば身も蓋もないが、「神」なしに人の世の掟を据えるのは彼(カ)の地では至難だったにちがいない。そこで、描いたフィクションが『自然状態』であった。原理的な始原を措定して、論攷を重ねる。そういう理路の持って行き方が、なんとも新鮮だったのだ(勿論、物知らずであったからだが)。
 ホッブズの自然状態は『リヴァイアサン』で語られる、言わずと知れた「万人の万人に対する闘争」である。これには、「自然状態の存在は実証されていない」という批判が付き纏ってきた。「原理的な始原を措定」したのだから的外れなオブジェクションなのだが、案外そればかりではない。「実証」に値する知見が次々に提示されつつあるからだ。それらを要領よくまとめた恰好の良著がある。

   「ヒューマン」──なぜヒトは人間になれたのか <NHKスペシャル取材班>

 角川から単行本は12年に、文庫は本年3月に出た。これが滅法おもしろい。如上のトピックだけではなく──私達は身体ではなく「心」を進化させてきたのだ。人類の起源を追い求め、約20万年のホモ・サピエンスの歴史を遡る。構想12年を経て映像化された壮大なドキュメンタリー番組が、待望の文庫化!──とコピーにあるように、実に斬新で雄渾な人類史である。構成は四つに分かれる。
 第1章 協力する人・アフリカからの旅立ち
 第2章 投げる人・グレートジャーニーの果てに
 第3章 耕す人・農耕革命
 第4章 交換する人・そしてお金が生まれた
 ぐいぐい引き込まれる。テレビ放映より数段深い。会長はボロでも、これは立派だ。近年ない興奮の連続であった。掛け値なし。読んで損はない。
 宣伝はそのくらいにして、閑話休題。
 第3章「耕す人・農耕革命」に、はたと膝を打つ興味深い話が出てくる。男性ホルモンの一つであるテストステロンだ。性ホルモンとしての機能のほか、闘争本能の中核を担う。攻撃的で暴力的なホルモンである。このテストステロンによる攻撃システムは進化の黎明期から備わっていたという。700万年前にチンパンジーとの共通祖先から別れ、猿人、原人、旧人のプロセスを生き抜く原動力になったであろう。だから20万年前にホモ・サピエンスが出現するまでの長遠な歴史を有する。つまり700万年前からの“ヒト”を“人”とすると、「万人の万人に対する闘争」は現実にあったといえる。ホッブズのいう通りだ。だが、お立ち会い。ここからがもっとおもしろい。オキシトシンの存在だ。このホルモンは逆の働きをする。「信頼のホルモン」と呼ばれ、愛情や信頼を喚起する。同書から引いてみよう。
◇このオキシトシンのシステムはなぜ、私たちに備わったのか。おそらく、非常に強力なテストステロンの拮抗勢力としてオキシトシンは発達したのだ。(引用者註・テストステロンははるかに長い歴史をもつが)ただ、ホモ・サピエンス20万年の歴史に限定すれば、このふたつのシステムは当初から共存していただろうとポール・ザック博士(米クレアモント大学教授)は考えている。「私たちには、対立する二つの分子があります。テストステロンとオキシトシンです。おそらく過去20万年のあいだ、この二つの分子は一緒に働いてきました。一緒に働き、私たちの体のなかで、道徳の陰と陽の両方を私たちに与えているのです」テストステロンに拮抗する勢力としてオキシトシンを私たちは発達させた。人間には否応なく闘争に駆り立てるテストステロンというホルモンもあれば、他人と信頼関係を構築していくためのオキシトシンもある。そのバランスのなかで、人類は歴史を積み重ねてきたと博士は指摘しているのだ。◇
 となれば、自然状態はホッブズを飛び越えてジャン=ジャック・ルソーのそれに近い。ところが、話はこれで終わらない。ヒトが「耕す人」となり、農耕革命がとんでもない事態を招く。縄張りの出現だ。加えて、それが今まで培ってきた利他性に逆作用を及ぼした。
◇定住して農業をはじめた事によって人類は、豊かになった。人口が増加するという成功も収めた。しかし、その定住がもたらしたのは、強い縄張り意識だったのだ。人類が厄介なのは、それまで数万年にわたって利他の心や集団の絆を大切にしてきた。それはひょっとすると、移動可能で、貯蓄のない狩猟採集を前提にしたものだったかもしれない。荒野をさまようような暮らしのなかで、身内だけを大切に思う心がなければ、生き延びることは難しかっただろう。しかし、移動をつづける暮らしでは、身内とそれ以外という区別を深刻に受け止める必要は少なかった。身内以外の人たちと遭遇する機会が限られていたのだ。ところが、定住し農業をはじめる生活に移行したとき、事情は一変する。身内を大切に思うその内向きの心は、不必要なほど、身内以外の存在に冷淡だったかもしれない。身内を大切にする心が非常に強く働き、暴走するようになったのかもしれない。身内とそれ以外、仲間と他人がつねにいることが明らかな環境になったとき、人類は身内に利他的な心に引きずられて、自ずと激しい闘争に導かれていったのだ。◇(上掲書より抄録、以下同様)
 これで、再びホッブズの自然状態に先祖返りしたといえなくもない。まことに「ヒューマン」の旅は険しい。
 利他性、「利他の心」は、なぜ生まれたのか。「進化の隣人」といわれ遺伝子はわずか1パーセントしか違わないチンパンジーに、なぜそれは備わらなかったのか。チンパンジーは助けても、助け“合わ”ない。母親が子供を助けても、その逆はない。
 700万年前森林のチンパンジーと別れ、人類は二足歩行とともに草原に歩み込んだ。ところが草原は圧倒的に天敵が多い、生きるに過酷な環境だった。大きくなった脳で知恵を使い、集団で助け合わねばサバイバルできない。さらに、もう一つ重要な視点が加わる。
◇助け合いは能力によって自発的に生まれるものではない。そこには、ある種の飛躍が必要なのだ。その飛躍を可能にするものは何なのか。助け合いはいわば長い射程でお互いに利することだ。自分が他人のために何かしても、ある時間が過ぎないと、その利益が戻ってこない。それをじっと耐えて待つというのは、未来を予知できない生物には非現実的だ。だから、その猶予期間を過ごすために、共感の能力が欠かせない。いまこの時点にだけ限ると、自分には得るものがないけれど、相手のために食べ物を渡すことによって、その人が食べ物を手に入れて幸せになる。その時点ではまだ私に幸せはないんだけど、共感する能力があれば、その時点での他者の気持ちが、自分の気持ちになる。他者の喜びを、我が喜びとできる。それが、共感するということである。共感があれば、共有できる相手の幸せを第一義の目的として、率先して親切にしてやろうという意志が生まれる。そうすると、めぐりめぐって、やがて自分にも利益が返ってくることに気づく。◇
 「飛躍」を可能にしたものは「共感の能力」であった。実に示唆に富む。同書で丹念に論じられるところだ。それは原本に当たっていただくとして、「先祖返りしたといえなくもない」自然状態は現今一層急迫の度を増していることだけは忘れてはならない。「実証に値する」どころか、直面する事実だ。そのような人類史的パースペクティブを供してくれる一書である。 □


アベノミックス?

2014年05月05日 | エッセー

 「アベノミクス」を「アベノ“ミックス”」と言い違える人が時々いる(テレビのコメンテーターにもいた)。しかし瓢箪から駒で、あながち間違いではなさそうだ。いや、むしろ本質を突いているかもしれない。
 近頃の発言から拾ってみよう。

2月の衆院予算委員会
「(憲法は)国家権力を縛るものだという考え方はある(としつつ、それは)かつて王権が絶対権力を持っていた時代の主流的な考え方であり、いま憲法というのは、日本という国の形、理想と未来を語るものではないかと思う」
「先程来、法制局長官の答弁を(質問者が)求めているが、最高の責任者は私だ。私は責任者であって、政府の答弁にも私が責任を持って、その上において、私たちは選挙で国民から審判を受けるんですよ。審判を受けるのは法制局長官ではない、私だ」
3月の参院予算委員会
「憲法自体が占領軍の手によって作られたことは明白な事実。私は戦後レジーム(体制)から脱却をして、今の世界の情勢に合わせて、新しいみずみずしい日本をつくっていきたい」
「国民の生命、財産と日本の誇りを守るため、今こそ憲法改正を含め、戦後体制の鎖を断ち切らなければならない」
 
 誰かの入れ知恵であろうが、「かつて王権が……」はあまりにも浅薄な知見ではないか。王権のアカウンタビリティを構築するためだったとはいえ、ホッブズなどが「自然状態」という概念から導出した本質的な権力観が憲法の基底にある。「自然権」との抜き差しならない代価だ。だから「王権」が失せた現代においても権力が存在する以上、権力への軛が不要となるはずはない。その憲法の使命は不変だ。かつての古い話ではなく、極めて今日的でオールウェイズに問われるべき課題だ。「王権」などではなく、「自然権」の問題である。なんだか、綯い交ぜにしてないか。
 内閣法制局について切った大見得は、悲しいかな空振りだ。第61代内閣法制局長官であった阪田雅裕氏の近著を徴してみたい。 「『法の番人』内閣法制局の矜恃」(大月書店、本年2月刊)で、氏はこう語る。<>部分は対談者の川口 創氏(弁護士、日弁連憲法委員会副委員長)。
◇憲法ができてから二十何年もたってから、ようやく違憲の判決(引用者註・尊属殺の違憲判決)が出た。そうやって慎重にならざるをえない司法の限界というのは当然あると思います。それだけにというか、法制局が立法段階で果たすべき役割は大きいし、責任が重いと考えています。
<最高裁が最終的に有権解釈権をもっているとしても、すべての事情について最高裁に意見を求めるわけにはいかないですし、裁判事例となるケースは稀です。しかも、政治的な問題になるようなケースでは往々にして統治行為論ということで最高裁が判断を避ける。そうであればこそ、日々の行政の執行が憲法の枠内で適切に行われているかどうかをチェックし担保する内閣法制局の役割が、立憲主義を機能させていくために必要だということですね。>
<憲法に反するというところまで行く場合には、最終的に裁判所が判断して無効にする。しかし行政府においては、まさにこれから法律を作って執行していくという段階で、入口での憲法適合性のチェック機関がどうしても必要になる。裁判所の役割と内閣法制局の役割は、両方あって初めて立憲主義が機能する、車の両輪なのかなと思います。>
 入口というか、立法段階で違憲の疑いのあるようなことは絶対に避けなければいけないという思いは強くありました。憲法とは何であり、法律とは何であるかということがわかっているか、リーガルマインドをもって思考できるかどうかというのが大きいと思います。
<法制局は明治憲法ができる前からあったわけですから、まさに法治国家の要として、歴史のなかで重要な役割を果たしてきたわけです。しかし、集団的自衛権にかかわる従来の憲法解釈を否定しようという今回の動きは、行政内部から立憲主義を支えるという内閣法制局の役割を否定するもので、単純に9条の問題にとどまらず、行政が憲法に従うという立憲主義の否定にもつながりかねない。ですからこれに反対しなくてはならないというのが私の立場です。>◇
 遙か旧憲法以前から存続し続けるこの官庁にどれほどの認識を持っているのか、まず疑わしい。内閣の一機関が裁判所のような権限を振るうのはおかしい、などという子供じみた批判が一部にある。なんと愚かな。立法段階での「入口」を軽んじて立憲主義が成り立つ道理はないではないか。小学生程度の知的レベルといわざるを得ない。
 長官経験者自身が綴る、時宜を得た実に好著である。御一読をお勧めしたいが、引用部分だけでも「空振り」は一目瞭然である。お得意のすり替えというか、憲法72条に抵触しかねない内容だ。「最高の責任者」であることと閣議決定の基での行政各部への指揮監督権とが、ここでもまたもやミックス状態だ。
 「戦後レジーム」「戦後体制の鎖」は、『アベノミックス』のキーワードである。先述の「『法の番人』内閣法制局の矜恃」から再び引きたい。
◇<ニーズがあって初めて法的枠組みを検討するという立場であったということですが、今回の集団的自衛権の問題については、そうした政治的なニーズがほとんどないのではないかと思われます。にもかかわらず、こうも前のめりになっていること自体、いままでの政権の9条との向き合い方に比べても異常なように思えます。>
 それはやはり、ある種の国家観だと思いますね。古い言葉でいえば“列強に伍していく”ことができる国づくり、それを全体として目指す上で、9条の問題も避けて通れないということなのでしょう。◇
 “列強に伍していく”という「ある種の国家観」は、祖父岸信介の血統であろうか。彼は「日本民族の独立」を掲げ、自主憲法の制定を主張した。まことに生物的な臭いのするシンクロニシティーである。
 何度か触れた白井 聡氏の『永続敗戦論』を援用したい。
◇事あるごとに「戦後民主主義」に対する不平を言い立て戦前的価値観への共感を隠さない政治勢力が、「戦後を終わらせる」ことを実行しないという言行不一致を犯しながらも長きにわたり権力を独占することができたのは、このレジームが相当の安定性を築き上げることに成功したがゆえである。彼らの主観においては、大日本帝国は決して負けておらず(戦争は「終わった」のであって「負けた」のではない)、「神洲不敗」の神話は生きている。しかし、かかる「信念」は、究極的には、第二次大戦後の米国による対日処理の正当性と衝突せざるを得ない。それは、突き詰めれば、ポツダム宣言受諾を否定し、東京裁判を否定し、サンフランシスコ講和条約をも否定することとなる(もう一度対米開戦せねばならない)。言うまでもなく、彼らはそのような筋の通った「蛮勇」を持ち合わせていない。ゆえに彼らは、国内およびアジアに対しては敗戦を否認してみせることによって自らの「信念」を満足させながら、自分たちの勢力を容認し支えてくれる米国に対しては卑屈な臣従を続ける、といういじましいマスターベーターと堕し、かつそのような自らの姿に満足を覚えてきた。敗戦を否認するがゆえに敗北が無期限に続く。それが「永続敗戦」という概念が指し示す状況である。◇
 安倍首相の場合、用心深く読む必要がある。「国内およびアジアに対しては敗戦を否認してみせることによって自らの『信念』を満足させながら」は中韓との為にする有害な軋轢を見れば解るとして、「第二次大戦後の米国による対日処理の正当性と衝突せざるを得ない」場面が仄見えることだ。白井氏の言に反して、「筋の通った『蛮勇』を持ち合わせて」いるかもしれないと勘ぐれる言動があるからだ。冒頭に記した委員会答弁はまさにそれだ。悲願の靖国参拝への「失望」は、「卑屈な臣従を続け」ないというメッセージへのなによりの証明となった。
 ひょっとしたら集団的自衛権の提起も同類といえるかもしれない。「『法の番人』内閣法制局の矜恃」にこうある。
◇<アメリカ本土に明確に向かっている場合は、(引用者註・迎撃は)いまの憲法上はできない。>
 ええ、できないということです。ミサイルの場合は、技術的にも撃ち落とすのは不可能のようなので、あまり意味がないと思うのですが、どうしてもやる必要があるということなら、憲法を改正して対応するということではないでしょうか。
<もともと技術的にできないとも言われていますから、ためにする議論という気もしますが、アメリカ本土に向けられたものを撃ち落とすのは、集団的自衛権行使にあたってしまうということですね。>
 細かい類型を出してきているのは、集団的自衛権の行使という根拠でもないと説明できないし、こういうことをする必要があるから集団的自衛権を行使できるようにすべきだという主張のためですよね。でも、それならこんな仮想的な事例を出さなくても、外国での戦争ができないのを、外国での戦争ができるようにしたいと言えばいい。そう言わず、なぜこんな非現実的な類型をたくさん作るのか、よくわからないですね。◇
 ミサイルの迎撃が不可能に近いことは、どうやら衆目の一致するところらしいが、それはさておき「外国での戦争ができる」先には何があるか。中国の大国化を織り込んだアメリカのアジア戦略を見誤ってはなるまい。米ソの冷戦構造と同様に見ては、置いてけ堀を喰うは必定だ。集団的自衛権へのアメリカの好感を真に受けては怪我をする。大国のリップサービスは要注意だ。「外国での戦争ができる」日本は、確実にアメリカのプレゼンスを低下させる。果たしてそれはアメリカの国益に資するのか、どうか。アメリカ政府があまり安倍政権を好きではない素振りを見せるのは、「筋の通った『蛮勇』」を生理的に直感しているからといえなくもない。下手をすると、アメリカのアジア戦略を読み違える程度において鳩山内閣と同等に堕しかねない。鳩山の愚と大差はない。
 「戦前的価値観」を今日的状況にミックスすることこそ『アベノミックス』のコアだとすると、なんとも悍しい。「アベノミクス」がつっかえて『アベノミックス』。瓢箪から駒ならいいが、とんでもない怪獣が出て来そうだ。 □