世の大勢は極めて同情的だ。わたしも異存はない。たとえば、
〓〓橋下府知事は「かわいそう」
大阪府の橋下徹知事は24日、アイドルグルーブSMAPメンバーの公然わいせつ事件について「ほめられた行為ではないが、僕なんか知事になる以前に山ほどやっている。CM会社や住民に謝れば問題ない。許された行為ではないが、かわいそうで仕方がない」と報道陣に語った。〓〓(朝日新聞)
などだ。この伝でいくと、タモリなぞは死刑を免れまい。
おクスリを疑ったのかもしれないが、家宅捜査までする必要があるのか。さらにアルコール濃度が発表された。4時間後で酩酊状態、逮捕時には泥酔状態だったと喧しいが、まさか『飲酒歩行』が禁止されているわけではあるまい。ありがちなおクスリでも痴漢でもない。某作曲家お得意の詐欺でもないのに、草クン、袋だたきである。まことに同情を禁じ得ない。
不可解なのは逮捕容疑である。「公然わいせつ」とは何か。刑法第174条には、 ―― 公然とわいせつな行為をした者は、6月以下の懲役若しくは30万円以下の罰金又は拘留若しくは科料に処する。 ―― とある。
「わいせつ」は措くとして、問題は「公然」である。昭和32年5月22日の最高裁判例によれば、「公然とは不特定または多人数が認識しうる状態」をいう。報道を勘案すると、「認識しうる状態」だったのは警官だけではないか。この場合、「不特定または多人数」の構成要件を満たさないのではないか。適用するとすれば、軽犯罪法第1条第20号「公衆の目に触れるような場所で公衆にけん悪の情を催させるような仕方でしり、ももその他身体の一部をみだりに露出した者」ではないのか。これとて、「身体の一部」が引っ掛かる。草クンは「全部」であったのだから。加うるに公務執行妨害か。
おそらく起訴猶予が落し所であろうが、検察の判断が見物だ。因みに、稲垣吾郎クンは起訴猶予で不起訴となった。
論点を変える。浅田次郎氏が最新刊のエッセーで次のように綴っている。
アメリカで尊敬されるのは金持ちである。日本で有難がられるのは芸能人である。だがフランスという国は学者や芸術家や、そのほか広義でいうところの文化人を、財力や知名度とはもっぱら関係なく大切に扱ってくれる。 (集英社「ま、いっか。」より)
さて、草クンに寄せられるのは同情ばかりではない。たとえば鳩山総務相は「最低の人間としか思えない」とこき下ろした。「いまの政治の方が最低だ」とのクレームに後日、「地デジに影響があることを強く懸念してはらわたが煮えくりかえり、言ってはいけないことを言った」と撤回した。ただし、「草容疑者の降板はやむを得ない」と捨てぜりふは忘れなかった。
大笑いである。「日本で有難がられる」芸能人を使ったのは誰であったか。「最低」というなら、かんぽの宿をたたき売りしようとしたJPは最低よりもましなのか。ところが、瓢箪から駒。この大臣の与太発言には期せずして重要な示唆が汲み取れる。
かつて引いた吉本隆明氏の言を再び援用したい。
芸能者の発生した基盤は、わが国では、支配王権に征服され、妥協し、契約した異族の悲哀と、不安定な土着の遊行芸人のなかにあった。また、帰化人種の的な<芸>の奉仕者の悲哀に発していることもあった。しかし、いま、この連中には、じぶんが遊治郎にすぎぬという自覚も、あぶくのような河原乞食にすぎぬという自覚も、いつ主人から捨てられるかもしれぬという的な不安もみうけられないようにおもわれる。あるのは大衆に支持されている自己が、じつはテレビの<映像>や、舞台のうえの<虚像>の自己であるのに、<現実>の社会のなかで生活している実像の自己であると錯覚している姿だけである。 (河出書房「情況」より)
「援用する」といったのは、事情が逆転しているからだ。正確に述べると、「錯覚」が「芸能者」の側だけでなく、「大衆」の側にも起こっているのだ。何度か触れてきたテレビメディアの際限ない俗化が ―― 実はこれこそがこのメディアの本質でもあるのだが ―― 大衆に錯覚を起こさせている。尚悪いことに、大衆の錯覚が芸能者を逆規定する『悲喜劇』が生まれているのだ。
かつて(97年)草クンは「いいひと。」に出演し、主人公「ゆーじ」をキャスティングされた。好演し、役者としての認知も得た。それで充分である。しかしその後も彼が「ゆーじ」を生きなければならないとしたら、間違いなくひとつの地獄を生きることになる。それを強いるのがテレビメディアの怪力、いな魔力なのだ。その尻馬に乗って、地デジ化強制策をゴリ押ししてきたのが総務省である。つまり、大衆の錯覚を利用したしたのだ。
吉本氏のいう「じつはテレビの<映像>や、舞台のうえの<虚像>の自己であるのに、<現実>の社会のなかで生活している実像の自己であると錯覚している」 ―― このトポスが大衆にも共用されている。テレビメディアの秘儀である。
かつて地域社会が堅固であったころ、子どもの世界にも、大人のそれにも長老や人格的権威がいた。実像のそれが失われた今、大衆は<映像>や<虚像>と知りつつ、芸能者にそれを仮託する。さらにいえば、過剰に倫理性を求める。だから、鳩山氏のように「はらわたが煮えくりかえ」るのだ。浅田氏がさりげなく指摘したわが国の文化的貧困の中で、「有難がられる」ものから最も遠い政治家が憤ってみせることで鬼の首を取ろうとしている。「有難がられる」ものに取って代わりたいのだ。
ともあれ、 ―― 芸人に倫理観を無理強いしてはならない ――本ブログで何度も指摘したイシューだ。銀幕のように生きられるとしたら、それは妖怪である。
この陥穽を周到に回避したのが渥美清であった。「寅さん」を生きようとした刹那から、おそらく彼は渥美清を直隠しに隠したはずだ。だから山田洋次監督にさえ自宅を教えなかった。タクシーの乗降は自家以外でなされ、つねに煙(ケム)に巻いた。もはや渥美清がペルソナとなっていたからだ。
つづいて、鳩山氏の捨てぜりふがなんとも絶妙である。「草容疑者の降板はやむを得ない」とは、「いつ主人から捨てられるかもしれぬという的な不安」を彷彿させる。総務大臣という「主人」と、「的な」者との関係を鮮やかに言い得ている。目眩くほどに華やかな芸能界に、その照度のゆえに影に塗れていた原質を奇しくも浮き彫りにした。それは、芸能者が「遊治郎にすぎぬ」「あぶくのような河原乞食にすぎぬ」というプリミティヴな位相である。
草クンはあの夜、演ずることなく遊治郎(ユウヤロウ)であった。本性や素顔ではなく、その「原質」が晒された時、生業を奪われあぶくのように屯する河原乞食に堕した。演ずることなく、芸能者の「原質」を見事に演じた。やはり彼は「いいひと。」であった。
前稿に寄せられたfulltime氏のコメントを無断で一部引用する。
〓〓いやいや・・世知辛い世の中になったものだ。 たかが若い酒飲みが一人で裸で騒いでいたという顛末なのだが、小生は物好きなのできっとその場に行き、おじさんの習性を遺憾なく発揮して、こんこんと説諭しただろうなという自信は深いものがある。 なに、話を聞き、聞かなくても脅して服を着せ、家はどこだと問いただすだけのことだ。
欠片庵主は意外に思われるだろうが、我が家周辺では似たようなことは茶飯なのだし物見高いおせっかいオヤジ。 そのくらいのことはする。
こういう「決して関わらず通報だけ」という大和民族同胞の態度にはいつもがっかりするのだ。 「安全マニュアル通り」なのだなあと、つくづく面白くない・・ こうして例えばマンションの親殺し・子殺し事件などが醸成されていく。 無辜のほっかむり住民のおかげさまである。。〓〓
実に軽妙洒脱だ。かつ奥深い。
今や、「おせっかいオヤジ」は妖怪以上に稀少となった。なぜか、「都市化」したからだ。現場は港区赤坂、その象徴的地域だった。
「都市化するということは自然を排除するということです。脳で考えたものを具体的な形にしたのが都市です。自然はその反対に位置しています。」(「超バカの壁」)養老孟司氏の持説の通りだ。「たかが若い酒飲みが一人で裸で騒いでいたという顛末」は、彼自身が覚えていないと言うように「脳で考えたもの」、つまり意識のまったく介在しない「自然」である。だから有無を言わせず「排除」された。
「安全マニュアル」とは、こうすればこうなる、ああすればああなる「脳化社会」の申し子である。だから、「安全マニュアル通り」の成り行きとなった。
加えて、マニュアルにない自然物に属する「おせっかいオヤジ」もつとに「排除」されている。かくて、「世知辛い世の中になった」。面白いのは、100年も前に夏目漱石が「東京は日本で一番世地辛い所である」と書いていることだ(「野分」1908年)。事は筋金入りの世知辛い所で起こったのである。
芸能者と都市化が生んだ『悲喜劇』とでも、木で鼻を括ろうか。「いいひと。」には、まことに味気ないが。 □
☆☆ 投票は<BOOK MARK>からお入りください ☆☆
〓〓橋下府知事は「かわいそう」
大阪府の橋下徹知事は24日、アイドルグルーブSMAPメンバーの公然わいせつ事件について「ほめられた行為ではないが、僕なんか知事になる以前に山ほどやっている。CM会社や住民に謝れば問題ない。許された行為ではないが、かわいそうで仕方がない」と報道陣に語った。〓〓(朝日新聞)
などだ。この伝でいくと、タモリなぞは死刑を免れまい。
おクスリを疑ったのかもしれないが、家宅捜査までする必要があるのか。さらにアルコール濃度が発表された。4時間後で酩酊状態、逮捕時には泥酔状態だったと喧しいが、まさか『飲酒歩行』が禁止されているわけではあるまい。ありがちなおクスリでも痴漢でもない。某作曲家お得意の詐欺でもないのに、草クン、袋だたきである。まことに同情を禁じ得ない。
不可解なのは逮捕容疑である。「公然わいせつ」とは何か。刑法第174条には、 ―― 公然とわいせつな行為をした者は、6月以下の懲役若しくは30万円以下の罰金又は拘留若しくは科料に処する。 ―― とある。
「わいせつ」は措くとして、問題は「公然」である。昭和32年5月22日の最高裁判例によれば、「公然とは不特定または多人数が認識しうる状態」をいう。報道を勘案すると、「認識しうる状態」だったのは警官だけではないか。この場合、「不特定または多人数」の構成要件を満たさないのではないか。適用するとすれば、軽犯罪法第1条第20号「公衆の目に触れるような場所で公衆にけん悪の情を催させるような仕方でしり、ももその他身体の一部をみだりに露出した者」ではないのか。これとて、「身体の一部」が引っ掛かる。草クンは「全部」であったのだから。加うるに公務執行妨害か。
おそらく起訴猶予が落し所であろうが、検察の判断が見物だ。因みに、稲垣吾郎クンは起訴猶予で不起訴となった。
論点を変える。浅田次郎氏が最新刊のエッセーで次のように綴っている。
アメリカで尊敬されるのは金持ちである。日本で有難がられるのは芸能人である。だがフランスという国は学者や芸術家や、そのほか広義でいうところの文化人を、財力や知名度とはもっぱら関係なく大切に扱ってくれる。 (集英社「ま、いっか。」より)
さて、草クンに寄せられるのは同情ばかりではない。たとえば鳩山総務相は「最低の人間としか思えない」とこき下ろした。「いまの政治の方が最低だ」とのクレームに後日、「地デジに影響があることを強く懸念してはらわたが煮えくりかえり、言ってはいけないことを言った」と撤回した。ただし、「草容疑者の降板はやむを得ない」と捨てぜりふは忘れなかった。
大笑いである。「日本で有難がられる」芸能人を使ったのは誰であったか。「最低」というなら、かんぽの宿をたたき売りしようとしたJPは最低よりもましなのか。ところが、瓢箪から駒。この大臣の与太発言には期せずして重要な示唆が汲み取れる。
かつて引いた吉本隆明氏の言を再び援用したい。
芸能者の発生した基盤は、わが国では、支配王権に征服され、妥協し、契約した異族の悲哀と、不安定な土着の遊行芸人のなかにあった。また、帰化人種の的な<芸>の奉仕者の悲哀に発していることもあった。しかし、いま、この連中には、じぶんが遊治郎にすぎぬという自覚も、あぶくのような河原乞食にすぎぬという自覚も、いつ主人から捨てられるかもしれぬという的な不安もみうけられないようにおもわれる。あるのは大衆に支持されている自己が、じつはテレビの<映像>や、舞台のうえの<虚像>の自己であるのに、<現実>の社会のなかで生活している実像の自己であると錯覚している姿だけである。 (河出書房「情況」より)
「援用する」といったのは、事情が逆転しているからだ。正確に述べると、「錯覚」が「芸能者」の側だけでなく、「大衆」の側にも起こっているのだ。何度か触れてきたテレビメディアの際限ない俗化が ―― 実はこれこそがこのメディアの本質でもあるのだが ―― 大衆に錯覚を起こさせている。尚悪いことに、大衆の錯覚が芸能者を逆規定する『悲喜劇』が生まれているのだ。
かつて(97年)草クンは「いいひと。」に出演し、主人公「ゆーじ」をキャスティングされた。好演し、役者としての認知も得た。それで充分である。しかしその後も彼が「ゆーじ」を生きなければならないとしたら、間違いなくひとつの地獄を生きることになる。それを強いるのがテレビメディアの怪力、いな魔力なのだ。その尻馬に乗って、地デジ化強制策をゴリ押ししてきたのが総務省である。つまり、大衆の錯覚を利用したしたのだ。
吉本氏のいう「じつはテレビの<映像>や、舞台のうえの<虚像>の自己であるのに、<現実>の社会のなかで生活している実像の自己であると錯覚している」 ―― このトポスが大衆にも共用されている。テレビメディアの秘儀である。
かつて地域社会が堅固であったころ、子どもの世界にも、大人のそれにも長老や人格的権威がいた。実像のそれが失われた今、大衆は<映像>や<虚像>と知りつつ、芸能者にそれを仮託する。さらにいえば、過剰に倫理性を求める。だから、鳩山氏のように「はらわたが煮えくりかえ」るのだ。浅田氏がさりげなく指摘したわが国の文化的貧困の中で、「有難がられる」ものから最も遠い政治家が憤ってみせることで鬼の首を取ろうとしている。「有難がられる」ものに取って代わりたいのだ。
ともあれ、 ―― 芸人に倫理観を無理強いしてはならない ――本ブログで何度も指摘したイシューだ。銀幕のように生きられるとしたら、それは妖怪である。
この陥穽を周到に回避したのが渥美清であった。「寅さん」を生きようとした刹那から、おそらく彼は渥美清を直隠しに隠したはずだ。だから山田洋次監督にさえ自宅を教えなかった。タクシーの乗降は自家以外でなされ、つねに煙(ケム)に巻いた。もはや渥美清がペルソナとなっていたからだ。
つづいて、鳩山氏の捨てぜりふがなんとも絶妙である。「草容疑者の降板はやむを得ない」とは、「いつ主人から捨てられるかもしれぬという的な不安」を彷彿させる。総務大臣という「主人」と、「的な」者との関係を鮮やかに言い得ている。目眩くほどに華やかな芸能界に、その照度のゆえに影に塗れていた原質を奇しくも浮き彫りにした。それは、芸能者が「遊治郎にすぎぬ」「あぶくのような河原乞食にすぎぬ」というプリミティヴな位相である。
草クンはあの夜、演ずることなく遊治郎(ユウヤロウ)であった。本性や素顔ではなく、その「原質」が晒された時、生業を奪われあぶくのように屯する河原乞食に堕した。演ずることなく、芸能者の「原質」を見事に演じた。やはり彼は「いいひと。」であった。
前稿に寄せられたfulltime氏のコメントを無断で一部引用する。
〓〓いやいや・・世知辛い世の中になったものだ。 たかが若い酒飲みが一人で裸で騒いでいたという顛末なのだが、小生は物好きなのできっとその場に行き、おじさんの習性を遺憾なく発揮して、こんこんと説諭しただろうなという自信は深いものがある。 なに、話を聞き、聞かなくても脅して服を着せ、家はどこだと問いただすだけのことだ。
欠片庵主は意外に思われるだろうが、我が家周辺では似たようなことは茶飯なのだし物見高いおせっかいオヤジ。 そのくらいのことはする。
こういう「決して関わらず通報だけ」という大和民族同胞の態度にはいつもがっかりするのだ。 「安全マニュアル通り」なのだなあと、つくづく面白くない・・ こうして例えばマンションの親殺し・子殺し事件などが醸成されていく。 無辜のほっかむり住民のおかげさまである。。〓〓
実に軽妙洒脱だ。かつ奥深い。
今や、「おせっかいオヤジ」は妖怪以上に稀少となった。なぜか、「都市化」したからだ。現場は港区赤坂、その象徴的地域だった。
「都市化するということは自然を排除するということです。脳で考えたものを具体的な形にしたのが都市です。自然はその反対に位置しています。」(「超バカの壁」)養老孟司氏の持説の通りだ。「たかが若い酒飲みが一人で裸で騒いでいたという顛末」は、彼自身が覚えていないと言うように「脳で考えたもの」、つまり意識のまったく介在しない「自然」である。だから有無を言わせず「排除」された。
「安全マニュアル」とは、こうすればこうなる、ああすればああなる「脳化社会」の申し子である。だから、「安全マニュアル通り」の成り行きとなった。
加えて、マニュアルにない自然物に属する「おせっかいオヤジ」もつとに「排除」されている。かくて、「世知辛い世の中になった」。面白いのは、100年も前に夏目漱石が「東京は日本で一番世地辛い所である」と書いていることだ(「野分」1908年)。事は筋金入りの世知辛い所で起こったのである。
芸能者と都市化が生んだ『悲喜劇』とでも、木で鼻を括ろうか。「いいひと。」には、まことに味気ないが。 □
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