伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

「いいひと。」

2009年04月29日 | エッセー
 世の大勢は極めて同情的だ。わたしも異存はない。たとえば、
〓〓橋下府知事は「かわいそう」
 大阪府の橋下徹知事は24日、アイドルグルーブSMAPメンバーの公然わいせつ事件について「ほめられた行為ではないが、僕なんか知事になる以前に山ほどやっている。CM会社や住民に謝れば問題ない。許された行為ではないが、かわいそうで仕方がない」と報道陣に語った。〓〓(朝日新聞)
などだ。この伝でいくと、タモリなぞは死刑を免れまい。
 おクスリを疑ったのかもしれないが、家宅捜査までする必要があるのか。さらにアルコール濃度が発表された。4時間後で酩酊状態、逮捕時には泥酔状態だったと喧しいが、まさか『飲酒歩行』が禁止されているわけではあるまい。ありがちなおクスリでも痴漢でもない。某作曲家お得意の詐欺でもないのに、草クン、袋だたきである。まことに同情を禁じ得ない。
 
 不可解なのは逮捕容疑である。「公然わいせつ」とは何か。刑法第174条には、 ―― 公然とわいせつな行為をした者は、6月以下の懲役若しくは30万円以下の罰金又は拘留若しくは科料に処する。 ―― とある。
 「わいせつ」は措くとして、問題は「公然」である。昭和32年5月22日の最高裁判例によれば、「公然とは不特定または多人数が認識しうる状態」をいう。報道を勘案すると、「認識しうる状態」だったのは警官だけではないか。この場合、「不特定または多人数」の構成要件を満たさないのではないか。適用するとすれば、軽犯罪法第1条第20号「公衆の目に触れるような場所で公衆にけん悪の情を催させるような仕方でしり、ももその他身体の一部をみだりに露出した者」ではないのか。これとて、「身体の一部」が引っ掛かる。草クンは「全部」であったのだから。加うるに公務執行妨害か。
 おそらく起訴猶予が落し所であろうが、検察の判断が見物だ。因みに、稲垣吾郎クンは起訴猶予で不起訴となった。

 論点を変える。浅田次郎氏が最新刊のエッセーで次のように綴っている。


 アメリカで尊敬されるのは金持ちである。日本で有難がられるのは芸能人である。だがフランスという国は学者や芸術家や、そのほか広義でいうところの文化人を、財力や知名度とはもっぱら関係なく大切に扱ってくれる。 (集英社「ま、いっか。」より)


 さて、草クンに寄せられるのは同情ばかりではない。たとえば鳩山総務相は「最低の人間としか思えない」とこき下ろした。「いまの政治の方が最低だ」とのクレームに後日、「地デジに影響があることを強く懸念してはらわたが煮えくりかえり、言ってはいけないことを言った」と撤回した。ただし、「草容疑者の降板はやむを得ない」と捨てぜりふは忘れなかった。
 大笑いである。「日本で有難がられる」芸能人を使ったのは誰であったか。「最低」というなら、かんぽの宿をたたき売りしようとしたJPは最低よりもましなのか。ところが、瓢箪から駒。この大臣の与太発言には期せずして重要な示唆が汲み取れる。
 かつて引いた吉本隆明氏の言を再び援用したい。


 芸能者の発生した基盤は、わが国では、支配王権に征服され、妥協し、契約した異族の悲哀と、不安定な土着の遊行芸人のなかにあった。また、帰化人種の的な<芸>の奉仕者の悲哀に発していることもあった。しかし、いま、この連中には、じぶんが遊治郎にすぎぬという自覚も、あぶくのような河原乞食にすぎぬという自覚も、いつ主人から捨てられるかもしれぬという的な不安もみうけられないようにおもわれる。あるのは大衆に支持されている自己が、じつはテレビの<映像>や、舞台のうえの<虚像>の自己であるのに、<現実>の社会のなかで生活している実像の自己であると錯覚している姿だけである。 (河出書房「情況」より)


 「援用する」といったのは、事情が逆転しているからだ。正確に述べると、「錯覚」が「芸能者」の側だけでなく、「大衆」の側にも起こっているのだ。何度か触れてきたテレビメディアの際限ない俗化が ―― 実はこれこそがこのメディアの本質でもあるのだが ―― 大衆に錯覚を起こさせている。尚悪いことに、大衆の錯覚が芸能者を逆規定する『悲喜劇』が生まれているのだ。
 かつて(97年)草クンは「いいひと。」に出演し、主人公「ゆーじ」をキャスティングされた。好演し、役者としての認知も得た。それで充分である。しかしその後も彼が「ゆーじ」を生きなければならないとしたら、間違いなくひとつの地獄を生きることになる。それを強いるのがテレビメディアの怪力、いな魔力なのだ。その尻馬に乗って、地デジ化強制策をゴリ押ししてきたのが総務省である。つまり、大衆の錯覚を利用したしたのだ。
 吉本氏のいう「じつはテレビの<映像>や、舞台のうえの<虚像>の自己であるのに、<現実>の社会のなかで生活している実像の自己であると錯覚している」 ―― このトポスが大衆にも共用されている。テレビメディアの秘儀である。
 かつて地域社会が堅固であったころ、子どもの世界にも、大人のそれにも長老や人格的権威がいた。実像のそれが失われた今、大衆は<映像>や<虚像>と知りつつ、芸能者にそれを仮託する。さらにいえば、過剰に倫理性を求める。だから、鳩山氏のように「はらわたが煮えくりかえ」るのだ。浅田氏がさりげなく指摘したわが国の文化的貧困の中で、「有難がられる」ものから最も遠い政治家が憤ってみせることで鬼の首を取ろうとしている。「有難がられる」ものに取って代わりたいのだ。
 ともあれ、 ―― 芸人に倫理観を無理強いしてはならない ――本ブログで何度も指摘したイシューだ。銀幕のように生きられるとしたら、それは妖怪である。
 この陥穽を周到に回避したのが渥美清であった。「寅さん」を生きようとした刹那から、おそらく彼は渥美清を直隠しに隠したはずだ。だから山田洋次監督にさえ自宅を教えなかった。タクシーの乗降は自家以外でなされ、つねに煙(ケム)に巻いた。もはや渥美清がペルソナとなっていたからだ。
 つづいて、鳩山氏の捨てぜりふがなんとも絶妙である。「草容疑者の降板はやむを得ない」とは、「いつ主人から捨てられるかもしれぬという的な不安」を彷彿させる。総務大臣という「主人」と、「的な」者との関係を鮮やかに言い得ている。目眩くほどに華やかな芸能界に、その照度のゆえに影に塗れていた原質を奇しくも浮き彫りにした。それは、芸能者が「遊治郎にすぎぬ」「あぶくのような河原乞食にすぎぬ」というプリミティヴな位相である。
 草クンはあの夜、演ずることなく遊治郎(ユウヤロウ)であった。本性や素顔ではなく、その「原質」が晒された時、生業を奪われあぶくのように屯する河原乞食に堕した。演ずることなく、芸能者の「原質」を見事に演じた。やはり彼は「いいひと。」であった。

 前稿に寄せられたfulltime氏のコメントを無断で一部引用する。
〓〓いやいや・・世知辛い世の中になったものだ。 たかが若い酒飲みが一人で裸で騒いでいたという顛末なのだが、小生は物好きなのできっとその場に行き、おじさんの習性を遺憾なく発揮して、こんこんと説諭しただろうなという自信は深いものがある。 なに、話を聞き、聞かなくても脅して服を着せ、家はどこだと問いただすだけのことだ。
 欠片庵主は意外に思われるだろうが、我が家周辺では似たようなことは茶飯なのだし物見高いおせっかいオヤジ。 そのくらいのことはする。 
 こういう「決して関わらず通報だけ」という大和民族同胞の態度にはいつもがっかりするのだ。 「安全マニュアル通り」なのだなあと、つくづく面白くない・・ こうして例えばマンションの親殺し・子殺し事件などが醸成されていく。 無辜のほっかむり住民のおかげさまである。。〓〓
 実に軽妙洒脱だ。かつ奥深い。
 今や、「おせっかいオヤジ」は妖怪以上に稀少となった。なぜか、「都市化」したからだ。現場は港区赤坂、その象徴的地域だった。
 「都市化するということは自然を排除するということです。脳で考えたものを具体的な形にしたのが都市です。自然はその反対に位置しています。」(「超バカの壁」)養老孟司氏の持説の通りだ。「たかが若い酒飲みが一人で裸で騒いでいたという顛末」は、彼自身が覚えていないと言うように「脳で考えたもの」、つまり意識のまったく介在しない「自然」である。だから有無を言わせず「排除」された。
 「安全マニュアル」とは、こうすればこうなる、ああすればああなる「脳化社会」の申し子である。だから、「安全マニュアル通り」の成り行きとなった。
 加えて、マニュアルにない自然物に属する「おせっかいオヤジ」もつとに「排除」されている。かくて、「世知辛い世の中になった」。面白いのは、100年も前に夏目漱石が「東京は日本で一番世地辛い所である」と書いていることだ(「野分」1908年)。事は筋金入りの世知辛い所で起こったのである。
 
 芸能者と都市化が生んだ『悲喜劇』とでも、木で鼻を括ろうか。「いいひと。」には、まことに味気ないが。 □


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あの人は今?

2009年04月22日 | エッセー
 長くて恐縮だが、10年前(99年10月)、あるミニコミに寄せた拙稿をそのまま引く。

〓〓 今すでに畏るべし
 「後生畏るべし」という。だが、この場合「今すでに畏るべし」である。三歳にして世界中の国旗が識別できるなどというのは単なる芸の内でしかないだろうが、中三にしてこれだけのものが書けるのは天稟以外のなにものでもない。
 今回は書評としたい。書評と言うより、感動の一書を紹介したい。
 題名は「四人はなぜ死んだのか」。文芸春秋より今年七月に発刊された。著者は三好万季。都内の中学に通う愛くるしい女の子である。(今は都立高校一年生)原作は中三の夏休みに理科の宿題として書いたレポートだったというから、もはや脱帽。第六〇回文芸春秋読者賞を受賞した。(以下、『』部分は原文の引用)
 『犯人は他にもいる』と昨年和歌山で起きた「毒入りカレー事件」を追う。一つ違いの女生徒の死に衝撃を受けたのが動機だった。
 『カレーで食中毒?』……この素朴な疑問からインターネットを駆使した追求が始まる。彼女にとってインターネットはごく普通の日用品だ。事典や参考書を開きペンを握るのと同じレベルで、何のてらいも構えもなく使われている。「21世紀人」の姿がここにある。
 食中毒の起こりやすいインドや東南アジアで生まれたカレーは食生活の知恵であり、殺菌、滅菌、防腐作用をもつスパイスが多く含まれている。『保健所が、毒物ではないかと疑う空気をあえて無視し、「食中毒」と断定したのは、決定的な過失である』と断罪する。これが、そもそもの「ボタンの掛け違い」だ、と言う。
 現に、病院では毒物中毒への処置ではなく、食中毒の対処に追われた。『気休めにすぎない点滴や抗生物質が処方され、催吐や下痢ではなく、逆に鎮吐剤などが処方された。これは、医療による「さらなる加害」と言えないだろうか』。病状への対処がまったく逆さまだったのだ。
 二つ目の「掛け違い」は捜査当局によってなされる。『捜査本部は、患者たちの症状に、青酸中毒に典型的な呼吸機能への打撃が見られず、青酸中毒では考えられない激しい下痢などの症状が共通に見られていたにもかかわらず、軽率にも谷中さん(自治会長、筆者注)の死因を「青酸中毒」と断定』した。この誤認が、砒素に対しては致命的な逆効果の処方へと医療機関を奔らせる。
 『断定の根拠は、青酸予備反応検査で胃中の未消化物が陽性を示したことによるらしい。(中略)信頼性が薄いとされる便宜的方法で出た結果を、死因の断定の根拠にしたとするなら、明らかに本末転倒であろう』と切り込んでいく。
 青酸を疑うなら、現場に残っていたカレーを十円玉にのせて試してみれば、たちまちに光沢が出る筈。『理科の時間に習った』レベルではないか、と手厳しい。『八日目の砒素の検出は、全くの偶然からである。毒物中毒の場合、何はさておき、青酸、砒素、黄燐の三点セットを最初に疑い、分析するのは定石であるという。青酸が出た(と思われた)ことでよしとし、砒素、黄燐等の分析を考えもしなかった』、と糾弾する。
 さらに、『「食中毒」や「青酸中毒」を鵜呑みにしてしまった』医療機関の愚昧。『仮に毒物の知識や情報を欠いていたとしても、文献を調べたり、インターネットにアクセスしたり、JPIC(日本の中毒情報機関、筆者注)と密に情報交換をしていれば、少なくとも砒素中毒の可能性に到達するのは、十分に可能であった』にもかかわらず、「文献がない」と言い繕った医師の怠慢。渦中でねぶた見物をした和歌山市議会の脳天気な大失態。『サリン事件の教訓にもかかわらず、解毒剤の配備や緊急輸送など、救急救命体制はまるで整備されていない』行政の『戦慄すべき危機管理体制の実態』へと、批判の矢は向かう。
 加えて、『社会の木鐸としての責任を果たしていない』マスコミを弾劾。『新聞社には科学部があり、理系卒のスタッフも多数いるはず』なのに、保健所や捜査当局のミスリードを指摘できなかった無能。『保険金詐欺の追求や、容疑者宅の包囲網に精力を傾けるうちに、事件の本質をえぐり、人々に真実を提供するという大切な報道姿勢が忘れ去られて』いた報道機関の有り様を指弾する。
 最後に、『犯人の犯罪意図もさることながら、社会的医療体制の種々の不備や欠陥の中で、人の命に関わる各分野の専門家たちの複合過失によって拡大された社会的医療事故、すなわち「業務上過失致死傷」ではないかとの疑問』を呈して終わる。
 以上が大づかみな内容である。インターネットを中心に収集された豊富な文献、知識、情報によって、隙間のない論理構成となっている。いわゆる大人社会の「権威」が中三にメッタ切りにされているのだ。その小気味のよさ。痛快さ。「今すでに畏るべし」である。
 実はまだある。『大人たちの過ちをあげつらい、批判しているだけではないかという、内心忸怩たるものがなかったと言えば嘘になる。もっと建設的なこと、つまり直接に被害者たちの役に立つことをしたいという思い』を抱き続ける中、ある医療専門書から飛躍的な着想を得る。中国野菜の香菜(シャンツアイ)が砒素の排出に有効では、とのアイデアだ。さっそく関係筋に手を打ち、六十三名の中毒患者への義捐提供にこぎつける。効果はてきめん。なんと、六十名の体内砒素濃度が発ガンの危険が限りなく少ない正常値に戻ったのだ。
 もうここまでくれば、半端ではない。畏れ入るばかりだ。ただただ平身低頭するしか術を知らない。 
 この「怪物君」。どんな育てられ方をしたのか。大いに興味あるところだが、答えは原作に譲るとしよう。
 中三といえば21世紀の主役。「怪物」たちの時代が、もうそこまで来ている。〓〓

 当時、「天才少女論客」の名を取った。その後、とんと消息を知らずに来た。医者志望だった彼女、いまごろは研修も終え第一線に立っているのかと、期待しつつ調べてみた。ところが時の人となった翌年、高校を辞めていた。理由は定かではないが、ブラックジャーナリズムの好餌にされた痕跡が窺える。
 99年12月発行の雑誌「噂の眞相」に「『天才少女論客』三好万季の親父は詐欺師だった!」が載った。なにかと物議を醸し訴訟沙汰を繰り返した、あの曰く付きの雑誌である。04年に休刊となったが、実態は廃刊であろう。良書は悪書を駆逐する好例としたい。ショーぺンハウアーは「悪書は単に無益であるのみでなく、断然有害である」と警告した。実存主義の嚆矢となった彼の哲学者は言論の暴力と常に対峙した。売文の欺瞞と暴力性を断じて見過ごさなかった。
 しかし、名うての売文屋にとって年端の行かない少女の出鼻を挫くことぐらい赤子の手をひねるに等しい。「噂の――」と父君の間で何度か攻防がなされたようだが、『書き逃げ』『書き得』そして『書かれ損』に終わったらしい。詳しい経緯は与り知らぬが、ショーぺンハウアーが弾劾した「断然有害」の暴力性、その毒牙にかかった可能性が高い。
 なんとも口惜しい限りだ。事の「真相」は措いてでも、『怪物』をおもしろがり育てようなどという優しさや度量は、この社会から消えてなくなったのだろうか。「出る杭は打つ」どころか、「出る」前に打ち込んでしまおうというまことに貧しい国に成り下がってしまったのか。三文雑誌が『五人目』のスケープゴートを生んだことだけは確かだ。
 あの人は今? ―― 砂を噛むがごとき不興を託つとともに、『怪物君』にエールを送りたい。一敗地に塗れようとも、断じて再起せよ! 応援は惜しまぬ! と。

 もう一人の「あの人」
〓〓林被告、死刑確定へ 最高裁が上告棄却 カレー事件
 和歌山市で98年7月、夏祭りのカレーに猛毒のヒ素が入れられ、4人が死亡して63人が急性ヒ素中毒になった事件などの上告審判決で、最高裁第三小法廷(那須弘平裁判長)は21日、殺人罪などに問われた林真須美被告(47)の上告を棄却した。林被告の死刑が確定する。
 カレー事件について林被告は一貫して無罪を主張。犯人の動機が未解明で、林被告と犯行を直接結びつける証拠もないなかでの判断が注目されていたが、判決は「林被告がカレー事件の犯人であることは合理的な疑いを差し挟む余地のない程度に証明されている」と結論づけた。弁護側は再審請求を申し立てる方針。
 第三小法廷は(1)カレーに混入されたものと同じ特徴のヒ素が林被告の自宅から発見された(2)林被告の頭髪からも高濃度のヒ素が検出され、取り扱っていたことが認められる(3)夏祭り当日、林被告だけにカレー鍋にヒ素を混入する機会があり、林被告が鍋のふたを開けるなど、不審な挙動が目撃されている――といった点を被告が犯人だと判断した理由として挙げた。
 弁護側が上告審で展開した「林被告は保険金詐欺は繰り返していたが、カレー事件のような無差別殺人を起こす動機がない」という主張については、「犯行動機が解明されていないことは林被告が犯人だという認定を左右しない」と退けた。〓〓 (asahi.com 09年4月22日)

 この判決には問題が多い。かつ、根が深い。
 自白がなく、直接証拠がなく、状況証拠だけであること。1700点とはいえ、状況証拠だけで立件が完結される不可解と危険性。
 遂に明らかにならなかった動機は有罪の認定に左右しないという拙速な判断。
 「被告が事件の犯人であることは合理的な疑いを差し挟む余地のない程度に証明されている」という木で鼻を括った結論。
  ―― ならば、「疑わしきは被告人の有利に」の原則はどうなったのか。「たとえ千人の真犯人を逃すとも、一人の冤罪者を生むなかれ」の鉄則はどこへいったのか。市(イチ)に虎あり。まさかこの事件、『法に名を借りた集団リンチ』にならぬことを希(コイネガ)うばかりだ。
 この上告審判決の1週前、同じ最高裁第三小法廷は痴漢事件で逆転無罪の判決を出した。初動捜査や証拠収集に疑問を投げかけ、検察の立証に合理的疑義がある場合は無罪に処すとの原則を適用した。わずか7日間でこうも違うものか。こうなると、何度も異を唱えてきた「裁判員制度」もますます心配になってきた。
 さらにカレー裁判と同じ日、次の報道が流れた。(asahi.com)
〓〓再鑑定「DNA型不一致」 足利女児殺害、再審の公算大 
 栃木県足利市で90年、当時4歳の女児が殺害された事件をめぐり、無期懲役判決が確定した菅家利和受刑者(62)の再審請求の即時抗告審で、東京高裁が依頼した鑑定の結果、女児の着衣に付いていた体液と、菅家受刑者から採取した血液などのDNA型が一致しない可能性が高いことが関係者の話でわかった。
 この事件では、犯罪捜査に活用されるようになって間もないDNA型鑑定が逮捕の決め手となり、一審・宇都宮地裁から最高裁まで、その鑑定の証拠能力が認められていた。「不一致」が正式な結論となれば、確定判決の有力な根拠を覆す形となり、再審開始の可能性が高まりそうだ。
 警察によるDNA型鑑定は警察庁科学警察研究所(科警研)が89年に始め、3年後に全国の警察で導入。当初は「16~94人に1人」を識別できる程度の精度しかなく、捜査でも補助的な役割だった。現在は「4兆7千億人に1人」の確率で識別できる。〓〓
 物証とて当てにならぬという一例だ。事々然様(サヨウ)に「藪の中」である。藪をつついて蛇を出す愚は避けねばならない。なにせ人生と人命が懸かっている。

 カレー裁判の再審はおそらく叶わぬであろう。「あの人」の「今」は、まもなく失せていくのか。 □


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「午前中に・・・」

2009年04月17日 | エッセー
 かれこれ十年ほど前、「年を取ると朝が早くなる。日の出とともに起きて陽水などに電話をし、それぞれに名前を付けた庭木に語りかけながら水を遣るんだ」と、コンサートのMCで語っていた。だから、することは午前中に終わってしまう、まさかそんな意味を込めたのではあるまい。このアルバムのタイトルは難解だ。「元気です」であったり、「MUCH BETTER」や「 detente」「感度良好 波高し」など、収録された曲名以外からタイトルを付けたものも多い。その時々の状況を勘案すればほぼ寓意は掴める。しかしこれは文字通り、難「題」だ。

 4月15日新譜が出た。オリジナル・アルバムとしては実に6年振り。全10曲、すべて拓郎の作詞作曲である。「午前中に・・・」がそのタイトル。今月の5日が誕生日だったから、満63歳直後のリリースである。

  
  〽波がぶつかって くだけていくように
   それは人生という名の 旅だから  

   歩けるかい 歩こうネ
   歩けるかい 歩こうネ


   君は立ちつくして とまどってはないか
   それは人生という名の 旅だから
  
   進めるかい 進もうネ
   進めるかい 進もうよ〽

   ( 「歩こうね」から抜粋 )


 アルバム2番目のこの曲を聴いた時、柄にもなく無性に込み上げてくるものがあった。
 いけない。拓郎の歌を聴いて涙するなんて、ファンにあるまじき所業だ。
 と、懸命に堪(コラエ)えた。

 わたしの中には勝手に決めた禁忌がある。 ―― 拓郎の歌を聴いて泣いてはいけない。ファンであるなら。 ―― という、極めて偏向した掟である。喜怒哀楽のうち、「哀」はない。哀音がないのである。勝手な解釈だが、吉田拓郎というミュージシャンの核心部分には乾いた南風が吹いている。けっして湿ってはいない。彼は鹿児島生まれだ。幼少年期は、厳格な薩摩隼人の古風を帯びた父親の元で送った。その古風が多分に南の風を呼び込んだのかもしれない。
 悲しい歌がないわけではない。しかし、哀しくはない。哀音に塗(マミ)れることはない。そのかわり、「喜」「怒」「楽」は溢れるほどある。それが拓郎の磁力だ、そう決め込んでいる。
 ある時、信頼する友人が「拓郎を聴くと元気が出る」と語った。わが意を得たり、である。一句満了である。鋭い感性に期せずして歓声を上げた。(失礼!) 言い古されたことだが、人は心に傷を負うと北へ向かう。演歌はほとんどが北を舞台にする。

 あまり傾けるとひっくり返りそうなので、少しだけ含蓄を傾ける。
 一説によると、「悲」とは心に刺さったトゲを抜いて軽くしてやることという。悲しい歌にカタルシスがあるのはこの事情に因るかもしれない。一方、「哀」とはあわれみ、悼み、不憫を感じるだけでベクトルは内に向くばかりだ。喪中、忌中の意も含む。悲とは似て非なるものである。「悲」が叶えば、「喜」も「楽」もすでに掌中にある。
 さすれば、この曲は「悲」の歌か。寄り添いつつ歩む。傍らで軽く支えつつ、静かに進む。押しはしない。前に回って引きもしない。ただ寄り添うのだ。問いかけつつ …… 。
 
 込み上げてくるものを抑えながら、隣にいた荊妻に「これは『介護の歌』だ。老人ホームにもってこいだ」と茶化した。泪を引っ込めるには悪態を吐(ツ)くしかなかったのだ。
 第一、これほど見事な年相応の曲を知らない。あっぱれと言うほかない。たいがいの凡庸は年不相応を衒う。だから転ぶ。かつ死線を越えた大病の経験が裏打ちされている。泣くなというのが無理だ。ある種の禁じ手ともいえる。
「拓郎さん、それはないよ」
 手にしたジャケットに、そう呟いた。10曲いずれも逸品だが、点睛はこの曲だ。これに尽きる。

 齡63、まだ「午前中」だ。やることは山ほどある。 …… そう言いたいにちがいない。でもきっと、彼はこう返す。「ほっといてくれ」 □


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成功は失敗の母

2009年04月13日 | エッセー
 まずは、以下の報道を御一読あれ。重箱の隅をつついてみたい。
〓〓政府、「ミサイル」と表現 「ミサイル関連飛翔体」から
 河村官房長官は10日の記者会見で、北朝鮮が発射したミサイルについて、初めて「ミサイル」と表現した。当初は「飛翔体(ひしょうたい)」、6日からは「ミサイル関連飛翔体」と呼んでいた。
 河村長官は変更の理由として、(1)国会の北朝鮮への抗議決議で「ミサイル発射」と断定している(2)北朝鮮側の打ち上げ成功の発表にもかかわらず、電波を受信できないなど「人工衛星としての実態がない」――の2点を挙げた。〓〓(4月10日 asahi.com から)
 変更の理由はともかく、端っから気になっていたのは「飛翔体」という言葉である。
 今回の「破壊措置命令」の発令は自衛隊法82条2の第3項に基づくものだが、同条には「飛翔体」という文言はない。同条だけではなく、自衛隊法全体を見渡してもどこにもない。浜田靖一防衛相の独創であろうか。それとも河村官房長官か、内閣官房の官僚か。発信元はいずれにせよ、「人工衛星」とは認めたくない、さりとて「ミサイル」では言葉が尖る。中をとったにちがいない。
 それにしてもだ。筆者が引っ掛かったのは『翔』の字である。訓読みで「か-ける・と-ぶ・かけ-り」。マンガの主人公や芸能人にもこの文字を使った名前が多い。ここ3年の名付けトップは「大翔」(ひろと)だそうだ。「飛翔」とくれば、空中を飛び廻ることである。事々然様(サヨウ)に、「翔」は明るいのだ。希望でさえある。「飛翔」は輝かしいのである。およそ、彼の国のミサイルには似つかわしくない。完全なミスマッチである。
 官僚の性向であろうか、言葉に重みや箔をつけたがる。「飛行体」でいいではないか。「飛行」とは空中をとんでゆくこと、と字引にある。これで十分ではないか。俄に取って付けた「飛翔体」などという言葉は、「翔」や「飛翔」それに「大翔」クンに失礼だ。託してきたイメージを壊されてしまう。千歩か万歩譲れば ―― 「飛行」では、たとえば「飛行機」のように水平に飛ぶ印象があり衛星の打ち上げ軌道に似てくる。「翔」は空高く飛ぶことであるから、ミサイルのイメージにより近い。 ―― そう考えたのかもしれない。官僚諸兄の「異能」かもしれない。さらに穿ってみると、「飛行体」ではどうしても「未確認」が枕に来そうだ。この場合、未確認どころかしっかりと確認済みだ。UFOにしたのでは責任問題だ。だから避けた、と。
 終わった話と言うなかれ。重箱の隅には意外と大事なものが取り残こされている場合だってある。
 蛇足ながら、「誤探知」もおかしい。それを言うなら、「誤判断」ではないか。経緯は省くが、機械に責任を転嫁しようとする官僚の造語にちがいない。これも彼らの異能のひとつだ。

 さて、今のところ人工衛星の確証はない。衛星から発信されているという電波は北朝鮮以外では、意外にも、どこもキャッチしていない。アメリカとカナダで作る「北アメリカ航空宇宙防衛司令部」NORAD。世界最高峰の技術で24時間、宇宙を監視している。そのNORADでもやはり発見されていない。それとも、衛星はステルスタイプのものなのか。北朝鮮の放送が流す、衛星から届くという勇壮な曲は、一体、何なのか。 …… まるでUFOだ。
 それにつけても、記憶の古層から「スプートニクス1号」が蘇ってくる。52年前の出来事だ。となると、彼の国で繰り広げられた大掛かりな茶番は悪い冗談か、壮大なるアナクロニズムか。重大発表にはいつも出てくる、国営放送のあの元気のいいおばさん。力めば力むほど、声は空しく上擦る。
 1段目は予告通りのエリアに落ちたが、2段目の落下は予告エリアの手前だった。推力不足か。3段目はどうなったのか。とんと音沙汰ない。だから、3段目が載せていた(とされる)衛星の行方はなお判らない。あるいは、3段式ではなかった可能性もある。観測データの解析が終わり結論が出るには2カ月はかかるそうだ。しかし「宇宙開発」の最大眼目である衛星が飛んでいないことは事実だろう。
 だから、3月31日付本ブログ「成功を祈る!」で願った『成功』は勝ち得たのだが、彼の国の『宇宙開発』は失敗だったといえる。わが国にとっては無事の成功であり、イランの向こうを張った彼の国にとっては不甲斐ない失敗だった。たが、飛距離は格段に延びた。98年のテポドン1号の約2倍、ICBMに手が届くところまできた。だから、あながち失敗ともいえない。イシューはここだ。
 「飛び道具」がミサイルの原義である。「飛ばす」のではない。「飛ぶ」のだ。だから、衛星なぞ「飛ばす」必要はない。自らが弾頭を抱えて飛べばいいのである。その意味からすると、狙いどおりの、ある意味では頃合いの『成功』だったのではないか。
 しかし、「成功は失敗の母」だ。アメリカは自らの国土が寸毫でも侵された時、過剰に反応する。それはこの国の本能に近い。パールハーバー然り、9.11また然りだ。幸運は、今、アメリカが自制的なオバマ政権であることだ。だが、本能に打ち勝つほどには自制心はなかろう。最悪のシナリオを描くとすれば、わが国は決して安泰ではいられない。日本全土を射程に入れた200発のノドンが火を吐く。久間元防衛相はMDで99%排除できる、心配は要らないと言うが、キミには言ってほしくない。一部ではまたぞろ核武装を吹聴しはじめた。ブラフにせよ、相手を利するだけだ。格好の言質を与えることになる。
 成功は失敗の母。この失敗はなによりも彼の国にとっての失敗であり、日本も当然、周辺国も、そしてアメリカにとっても失敗となる。「飛翔」どころか、起立も叶わなくなってしまう。この至極当たり前の理屈をどう合点させるか。道は茨だが、歩めるのはこの道しかない。 □


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桜、余談

2009年04月09日 | エッセー
 春は桜だ。
 全山を覆う桜がまばゆく輝き、地上の竜宮へと人を誘(イザナ)う。遠近(オチコチ)に滴り落ちた山桜の紅(ベニ)が艶(ツヤ)めき、匂い立つ。桜は春の似姿であろうか。

 桜は雄弁だ。
 三寒四温に揺らいで芽吹き、蕾み、咲きはじめ、咲き誇り、咲ききりつつ舞い散る。人は己の来し方、行く末をそれに重ねる。さらに、無骨な枝に艶(アデ)やかな花が咲き出(イヅ)る不釣り合いに人世のなにものかを仮託する。旬日にも満たない開花期の備えは遥か二百数十日を遡る。夏の真中だ。そして凍える冬をくぐらねば、時めく色香は約束されない。それもまた桜が訓える現人(ウツセミ)の処し方だ。そうして桜はいつもなにかを語る。

 能「當麻」を観た小林秀雄は綴った。


 美しい「花」がある。「花」の美しさといふ様なものはない。肉体の動きに則つて観念の動きを修正するがいい。前者の動きは後者の動きより遙かに微妙で深淵だから。(「無常といふこと」 當麻)


  ―― 肉体の動きという具体に即して美はある。美を抽象することは空に絵を描くに等しい、と氏は訓(オシエ)えてくれたのだ。点睛の一句である。 ―― と、かつてわたしは記した。(07年10月2日付本ブログ「控えのカナ」)
 抽象は人間の属性だが、墓穴ともなる。ひとつの概念で括って、世界を掴んだ気になる。十人は十色なのに、ひと色に染めなしてしまう。プロクルステスの寝台はいつも手招きをしている。「イデオロギー」というドグマの怖さだ。振り返れば、司馬遼太郎はかたくなにこれを拒んだ。 
 究極の悪しき抽象は、「敵」をつくることだ。戦の大義はすべての具体を捨象する。生身の人間では戦にならぬからだ。「殺人」との分水嶺はここにある。
 人は憎悪や欲得の果てに殺人を犯す。それは生身の、極めて具体に属する所業だ。しかし戦争の「敵」には具象は削ぎ落とされている。十人十色ではないのだ。男女の別さえもない。抽象された「敵」でしかない。人間からもっとも遠い存在である。否、人間であることを止めている。戦争の蛮行はここに起こる。
 だから、戦争を防ぐには生身の人間に還ることだ。十人十色の具象に戻ることだ。国同士よりも、人と人が膝突き合わすことだ。抽象の海の中で具体をつねに手挟んでいることだ。「花」の美しさに足を搦め捕られずに、美しい「花」に直に触れることだ。


 散り際をこれほど悪用された花はほかにない。風に誘(イザナ)われて一片(ヒトヒラ)、ひとひらが宙を舞う。絢爛であるがゆえに、なお過剰な意味を負わされてきた。

 松之大廊下で刃傷沙汰が起こったのは今の暦で春四月であった。即日、将軍綱吉が乗り出し喧嘩両成敗を無視して、浅野内匠頭に切腹の下知があった。桜花の候である。散る桜とともに内匠頭も、散った。急ぎ辞世を認めて。
 小林秀雄は綴った。
 

 彼は、たしかに或る異様な心理状態に在つたが、ただ在つたのではない。同時に、否でもこれを承知してゐた。
 彼は、彼なりに、その心事を処理した。歌人となつた彼は庭前の櫻を眺めたのかも知れぬ。だが、もう暇もなかつた ――
「風さそふ、花よりもなほ我はまた、春の名残を如何にとかせん」
「風さそふ」は常套語だが、「花よりもなほ我はまた」というやうな拙劣な言ひ廻しが、如何にもあはれである。さう誰もが感ずるこの「我」は、もはや、赤穂藩主でもなければ、その末路でもあるまい。ひたすら「春の名残」を思ふ一つの意識であらう。歴史から離脱して、「春の名残」と化さんと努めてゐる一つの命の姿であらう。(「考へるヒント」 忠臣蔵Ⅰ)


 小林は通念の呪縛を解こうとしている。つづけて、

 
 通念の力は強いものだ。人間を、そのまとつた歴史的衣裳から、どうあつても説明しようとする考へが、私達は、日常、全く逆な智慧で生活してゐる事を忘れさせる。(略)過去をふり返れば、こちらを向いて歩いて来る過去の人々に出会ふのが、歴史の真相である。後向きなどになつてはゐない。(略)歴史家の客観主義は、歴史を振り向くとともに、歴史上の人々にも歴史を振向かす。それは、歴史の到るところで、自分と同じやうに考へてゐる歴史家だけにめぐり会はうと計る事である。


 と語った。「歴史的衣裳」を脱ぎ捨てた慧眼は、―― 「春の名残」と化さんと努めてゐる一つの命の姿 ―― をしっかと見据えていた。

 わたしたちは落花にただ無念や愛惜、ある種の諦念や悲愴を観ているだけでいいのであろうか。通念が想像の翼を縛(イマシ)めてはないか。もっと高みへ、さらに彼方へ翔んでもいいのではないか。つまり、咲き終えた充足の舞、飛天へと化身する輪廻の歓び。咲いてるだけが花ではない。散りゆく花にも華がある。そう観て、なんの不都合があろう。こちらが、余程に明るい。

 そういえば、小林は無類の桜好きだったそうだ。この時季、花を求めて各地を巡った。寸毫も及ばぬまでも、ことしは散る桜をしかと見届けたい。 □



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2009年3月の出来事から

2009年04月05日 | エッセー
 今稿では2件、取り上げる。
【その壱】 小沢代表の公設秘書逮捕・起訴
 東京地検特捜部は09年3月3日、民主党の小沢一郎代表の政治資金管理団体「陸山会」が、西松建設OBが代表を務める政治団体「新政治問題研究会」「未来産業研究会」からうけた献金が「西松建設」からの企業献金だとして小沢代表の公設秘書で「陸山会」の会計責任者ら3人を政治資金規正法違反の疑いで逮捕した。
 準大手ゼネコン「西松建設」から民主党・小沢代表の資金管理団体「陸山会」への違法献金事件で、東京地検特捜部は、小沢代表の公設第1秘書と陸山会の会計責任者を兼ねる大久保隆規(たかのり)容疑者(47)について、勾留期限の24日に政治資金規正法違反(虚偽記載など)の罪で起訴した。
―― 鳩山由紀夫という人物、外連味のない人格は認めるが、覚悟が足りないのではないか。03年に小沢を招き入れ、いわゆる「現 民主党」が出発した。その時、政権奪取のために清濁、併せ呑んだはずだ。つまり自民党を倒すために、自民党のエキスを自らの党に注入した。小沢は自民党のDNAを最も濃厚に受け継ぐ人物である。それは知れきったことだ。後の展開は、庇を貸して母屋を取られる流れとなる。今や小沢グループは衆参で50人、菅・鳩山の各30人を抑え、党内最大の勢力となった。こうなるともはや、清濁の濁も種痘程度では収まらない。自己免疫と化しはじめたというのが実情ではないか。鳩山にきちんとした覚悟があれば、こうなる前に手を打てたはずだ。読みも覚悟も浅い。検察がどうのこうのという以前に、オーナー幹事長としての覚悟を問いたい。
 菅はもっとおかしい。いまさら、辞めろはないだろう。こちらは覚悟が浅いどころか、まるでない。まあ、このレベルの者に言っても詮無いことだが、人ひとりと手を組むことがどれほど重い選択か。無い物ねだりだが、信もなければ義もない。33年にも及ぶ政界歴で培ったものはマキャヴェリズムの『ようなもの』でしかないのか。結局は、目立ちたがり屋の太鼓持ちか。
 さらに、検察のことだ。
 宗像紀夫 元東京地検特捜部長は、先日の朝日新聞のインタビューで大要次のように語っていた。

① 検察の伝統的な考え方では、ある時期に着手することが政局や国民の投票動向に影響を及ぼす可能性がある場合は、できるだけそれを避けるという暗黙の了解がありました。『検察は政治を動かそうとしているのではないか』『政治的な意図を持って捜査しているのでは』などいうあらぬ疑いを国民にもたれないように、痛くもない腹をさぐられることがないように、着手時期は慎重に選んできました。
② 以前は十分に特捜事件の捜査経験を積んだ人が指導的立場に立っていました。時間をかけて、『友情ある説得』をしながら、真実を引き出す。しかし、最近のいくつかの事件捜査を見ると、『この事件はこういう筋なんだ』という結論が先にあって、それに向けて無理やり突き進むという感じがします。
③ 特捜部がエリートコース化している。もしも、いい事件をやって名前を上げようなんていう検事がいたら大変なことになります。また、特捜部がちやほやされすぎて、捜査経験があまりない人が箔をつけるために特捜部に来るような変な人事が行われたりしていないかも危惧します。
④ マスコミは検察と一体になってしまっていますね。弱者の目を持たなければならないのに、強者の目で事件を見ているように見える。
⑤ 検察はいつでもどんな事件でもやれるということになったら、『検察国家』になってしまいます。
   
 ② は検察における「2007年問題」であろうか。世代間の継承はいづこの分野、特に生身の人間を相手にする分野では大きな課題に違いない。
 ③ ⑤ については、「検察の劣化」として指摘する声が上がっている。
 ④ は揺るがせにできない問題である。本来、マスコミは権力へのチェック機能を果たさなければならない。権力のプロパガンダではないはずだ。
 ① について、今回検察は「異例の“解説”」を行った。

■ 「国民を欺く行為」検察が悪質性を強調  
 小沢一郎民主党代表の資金管理団体「陸山会」の政治資金規正法違反事件で、陸山会の会計責任者で小沢氏の公設第1秘書、大久保隆規被告(47)らを起訴した東京地検の谷川恒太次席検事は24日夕、佐久間達哉特捜部長とそろって記者会見に臨み、事件の悪質性を「収支報告書の虚偽記載は、国民を欺き、政治的判断をゆがめるものにほかならない」と強調した。逮捕の時期などについて質問が集中し、会見は約1時間に及んだ。
 記者会見場となったのは、検察合同庁舎11階の会議室。谷川次席は冒頭、書面を読み上げる形で、政治資金規正法について「政治資金をめぐる癒着や腐敗の防止のため、政治団体の収支の公開を通じて、『政治とカネ』の問題を国民の不断の監視と批判のもとに置くことを目的とした、議会制民主主義の根幹をなすべき法律」と意義を述べ、異例の“解説”を行った。
 その後、佐久間部長が質問に応対し、この時期の着手に「重大性、悪質性を考えると、衆院選が秋までにあると考えても放置することはできないと判断した」と淡々とした表情で述べた。また、「われわれが政治的意図をもって捜査することはありえない」と断言。自民党議員らについては「捜査すべきものは捜査するとしか言えない」と述べるにとどめた。
 一方、起訴を受けて法務・検察の首脳らは「証拠に基づいて処理しただけだ」と一様に冷静な反応。民主党内からの捜査批判について、ある幹部は「小沢氏は(与野党の議員が起訴された)リクルート事件などをみてきて、与党であれ野党であれ、捜査対象になることはよく知っているはず」と疑問を呈していた。 (3月25日 産経新聞より)

 また、朝日新聞は
■ 「巧妙に隠された政官業の癒着関係を正すには、正統な表献金を装った犯罪を摘発することの優先順位が高い時代になったということだ」
との法務省幹部の総括を載せた。

 つまり、形式犯、微罪との批判に応えたものだ。検察の言う「重大性、悪質性」とはこのことを指しているのであろう。口利き、斡旋利得や収賄となると、旧来型政治の根幹部分だ。利権政治の患部そのものである。ここにメスを入れられるとすれば、賛同を惜しまない。だが今回の場合、報道を総合するとやや拙速の感が否めない。あるいは検察は隠し球を握っているのかもしれないが、これからが本番だ。『大山鳴動して、秘書一匹』では格好が付かない。
 毎度の映像だが、寒風の中をコートの裾を翻しながら捜索現場に乗り込んでいく特捜の一団。『ザ・ガードマン』か『太陽に吼えろ』と見紛うばかりだ。なにせ今どきの刑事物にはあんなシーンはない。ダサくて、クサいからだろう。だから、貴重な映像である。ならばこそ、『ねずみ一匹』では収まりがつかない。どうせなら大捕物を期待したい。
 所感をひとつ付け加えるとすれば、最大ではあっても野党党首の秘書、西松建設は準大手、想定される舞台は東北というところに一抹の悲哀を感ずる。アイテムがすべてトップではないのだ。誤解を恐れずに言えば、役者も舞台も小振りなのだ。『師匠』の「ロッキード」とは比ぶべくもない。青は藍より出でて藍より青し、はやはり難事か。


【その弐】 日本、WBC2連覇
―― 「ごちそうさまでした!」のイチローの一言に尽きる。
 準決勝を抜けた時、わたしは密かに優勝を確信していた。なぜなら、イチローが不振な分だけ日本に余力があると視たからだ。
 印象に残った名言を三つ。
◆岩村「イチローに一番おいしいところを持っていかれた」(試合直後だった。奇しくも、わたしがあのヒットを見て叫んだのと同じフレーズだった)
◆イチロー「個人的には最後まで足を引っ張り続けた。韓国のユニホームを着、キューバのユニホームも着たけど、最後にジャパンのユニホームを着ておいしいところだけ頂きました。本当にごちそうさまでした」
◆MVPの松坂「元気のない日本に、明るいニュースを送りたかった。それができて、うれしい」
 
 例によって例の如く、三流マスコミは不振のイチローを叩いた。しかし、結果は余りにも鮮やかな『おいしい』ところ取り。役者がちがう。こちらは押しも押されもせぬ千両役者だ。所詮、三流には一流は見えないということか。
 月を跨ぐが、4月4日のニュースには、「イチローが胃潰瘍で15日間の故障者リスト 開幕戦欠場」の記事が載った。
●少なくとも8試合は欠場することになった。イチローの故障者リスト入りは大リーグ9年目で初めて。
 球団によると、2日にアリゾナ州内の病院で検査した結果、潰瘍部分から出血が見られたという。現在、出血は止まっており、同選手は3日、キャンプ地のアリゾナ州ピオリアで軽く体を動かした。
 イチローは日本が2連覇を飾ったワールド・ベースボール・クラシック(WBC)終了後の3月26日にチームに合流。同30日のオープン戦で体調不調を訴えて途中交代し、その後は試合を欠場していた。
 イチローは、張本勲氏の持つ日本プロ野球最多安打記録の3085本まで、日米通算であと2本と迫っている。また、大リーグ新記録の「9年連続200安打」を目指している。 ―― WBCとの相関関係はあっても、因果関係はあるまい。だが、わが身を苛みつつ前進を止(ヤ)めない壮絶な男の闘いが偲ばれる。
 最後に一言。アテネでは「○○ジャパン」で敗れた。今回は「侍ジャパン」で勝った。アテネの敗戦を○○のせいだと、以前本ブログに書いた。
 「選手は無理でも、監督ならできそうだとみんな考える。だからファンの数だけ監督がいる」と、ある作家が語ったそうだ。イチローは無理でも、原の代わりならできるといったところか。ところがどっこい、そうは問屋が卸さない。それを証明したオリンピックとWBCでもあった。 □


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