伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

青年

2020年11月28日 | エッセー

寅   「決まってるじゃないか、映画を見るんだよ。ただし洋画はダメだぞ」
良介 「なぜですか」
寅   「考えてみろ、お前、カッコのいい男がスーッとした脚して次から次へと出てくるんだよ、そうだろ。終って電気がパッとつく。しみじみお前の顔を見て、ハーッ、ひどい顔している
     なっていうことになっちゃうんだよ」

良介  「じゃ、日本の映画見ますよ」
寅   「それだからって何でもいいってわけじゃないそ。ヤクザもの、ギャング映画、これダメだ。見た後、心が寒々としてね、恋だの愛だのという雰囲気に   ならないんだよ。悲恋も
      の、これもダメだな。あれは悲しい気持ちになってね、もう早くうちに帰っちゃおうという気持ちになっちゃう」
良介 「じゃ、何見りゃいいんですか」
寅   「決まってるじゃないか、おかしい映画。二人でさ、腹抱えて転げ回って笑ってさ、『あー、おかしかった。あんまり笑ったんであたしお腹空いちゃったわ』『そう、じゃ何か食べに
      行
こうか』やっぱり食事はレストランがいいな。ケチケチしないでデザートもとってやれ。いまの若い娘は良く食うからねえ。あのガラスの容器に入った、ほら、あれ何て言うんだ。
     アイ
スクリームを、こうねじりうんこみたいに山盛りにしたやつ。あれなんか一口でペロッと食べちゃってさ。『あー、おいしかった、私お腹一杯食べちゃった』──それで二人は     
    人影の
少ない公園に行く。澄んだ秋空、さわやかな風。『あ、あんな所に花が』『え、どこに?』『ほら、ほら、そこに』──おい、こら、ここが大事なとこなんだよ。さし出したお前の
    手に娘
の頬がふれる。娘が振り返る。いいか、ここで目をそらしちゃいけないそ。じーっと娘の目を見る、お前が好きなんだよという思いをこめて娘の目を見る。そこでお前の気
    ちが通
じるんだ。そこだよ、そこで最後のセリフを言う。
     『アイ・ラブ・ユー』──出来るか、青年!」

 シリーズ第20作『男はつらいよ 寅次郎頑張れ!』の一場面である。とらやに下宿する良介という若者に、わが身を省みず恋の指南をする名台詞である。はじめて観た時、締めの「青年!」という呼びかけにずいぶん時代がかったクオリアを感じた。
 「若者」は鎌倉時代にはあった。「青年」は維新後明治になって本邦で創始された概念である。牧師であり日本基督教連盟会長などを歴任した小崎弘道“young men”をこう訳した。書生、学生を指す言葉だった。
 思想家・内田 樹氏は訳語を超え、さらにフォーカスしてこう語る。
 〈青年というのは歴史的な形成物なんです。明治40年頃に時代の要請に応えて人為的に創り出されたのです。世界の一等国でありたければ、「日本オリジナル」の制度文物を世界が模倣するということが必須になる。それだけは輸入品でまかなうことができない。その時代的要請に応えて「発明」されたのが「青年」という社会層なんです。近代と前近代、西欧と日本の「汽水域」みたいなところに棲息している人間、それが青年です。彼らなら「近代的であり、かつ日本的である」ものを創り出せるんじゃないか、そう考えたわけです。夏目漱石の『三四郎』と森鴎外の『青年』はほぼ同時期に書かれました。いずれも青年を文学的虚構を通じて造型してみせたのです。ですから、この時代から後、日本の文学や映画の主人公はほとんど青年たちによって占められていました。その「青年の時代」が終わるのが、1960年代です。東京オリンピックの頃です。当時の映画で石原裕次郎や加山雄三が演じた若者が「最後の青年」だったと思います。歴史的使命を終えて、青年がいなくなる。それは男性にとっての成熟のための自己造型のロールモデルがなくなったということを意味しています。〉(「コモンの再生」から抄録)
 「近代と前近代、西欧と日本の『汽水域』みたいなところに棲息している人間」こそが「青年」であった。時代と文化を架橋するのものだった。となると、寅さんが洋画はダメ、邦画でもヤクザもの、ギャング映画、悲恋ものもダメとダメ押しするのはなかなか含蓄のある言葉に聞こえてくる。映画の寅さんシリーズが始まったのが1969年。内田氏がいう「『青年の時代』が終わるのが、1960年代です。東京オリンピックの頃」にピタリと符合する。寅さんは「青年の時代」に別れを告げたといえなくもない。
 加えて後半の古典的恋の手ほどき。実は寅さん自身が時代と文化を架橋する「青年」に化身したのではなかったか。そんな気がしてならない。
 かといって、すっかり「成熟のための自己造型のロールモデル」が消えた今、男どもが挙って寅さんを準るわけにはいくまい。「青年」が空語となった時代は風通しがいい生きやすい時代とはいえるが、踵を接して世の衰微が臭わないわけではない。だからこそ、寅さんは「出来るか、青年!」と活を入れたのではあるまいか。 □


美しい国のみにくいアヒル

2020年11月25日 | エッセー

 アヒルの群れでいじめられたみにくいアヒルの子は脱出する。さまよったすえに白鳥が住む水辺に至り、実は自分が美しい白鳥だったと知る。暗から明へ、これなら物語になる。
 美しい国の美しい白鳥が具合が悪くなって群れから姿を消す。じーっと隠れているつもりがすぐに見つかり、実は自分がみにくいアヒルだったとバレてしまう。明から暗へ、こんな話はとてもじゃないが子どもに聞かせるわけにはいかない。
 〈安倍氏の説明矛盾あらわ 領収書捜査で「桜」問題再浮上
 前政権が厳しい追及を受けていた「桜を見る会」問題が改めて浮上した。東京地検特捜部が安倍晋三前首相の事務所関係者らを任意で事情聴取。前日に開かれた夕食会の費用を安倍氏側が一部負担していた疑いも出ており、当時の首相答弁との矛盾もあらわになっている。〉
 24日の朝日はこう伝えた。負担は900万円にもなるらしい。
  19世紀の終わり、イギリスの歴史・思想家ジョン・アクトンは
「権力は腐敗の傾向がある。絶対的権力は絶対的に腐敗する」
 と綴った。歴史に残る箴言である。「美しい国のみにくいアヒル」ではないか。
 忘れがちだが、アクトンはこう言葉を続けた。
  「偉人は殆ど常に悪人である」
 このアイロニーには冷笑がたっぷり練り込まれている。だから、「偉人」も同類だ。補うとすれば、「『世に言う』偉人は」となろうか。かといって「美しい国のみにくいアヒル」が偉人だと喧伝されたわけではない。偉人ぶった割にはなにひとつレジェンドを残せなかったし、反知性と反知性と向独裁の拭い難い汚泥を置いていっただけだ。それにしても、「常に悪人」であったことは充分に証を残した。それが今、白日の下に晒されようとしている。大番頭だった現首相も与同は免れまい。天網恢々疎にして漏らさず、だ。
 公の機関である衆院調査局の集計によると、安倍政権は森友問題に関して事実と異なる答弁を139回行ったという。八百には遠いが意味するところは同じだ。ウソ139、だ。これなら子どもに話せる。ウソを一度つくと何度も何度もウソを重ねるようになるぞ、悪いお手本があのアヒルさんだよ、と。
  「息を吐くようにウソをつく首相」と評されるそうだ。「息を吐くように」とは言い得て妙だが、なかなか凡人には叶わぬ。その意味では偉人かもしれない。いや、天賦の悪才か。
 嘘つきは泥棒の始まり。『あんな男』に一国を盗まれなくてよかった。
 贈ることば。
 みにくい白鳥さんはどこへ行っても、みにくいアヒルさんだよ。 □


急伸する画素数

2020年11月18日 | エッセー

 写メの画素数が驚異的に上がっているという。アップルの最新機種は1200万画素のカメラを3台備える。中国は桁違いで、1億800万画素のカメラを5つ搭載した最新機種があると聞く。国土の圧倒的広大さを突き付けられているようで、「お好きにどうぞ」とでもいいたくなる。
 「最新のスマホは、むしろ実際に人間の目に見えている世界よりも美しく、もはや現実を写していないような機能も出てきつつある」と語る識者もいる。
 CDは人間の耳に聞き取れない高低音域を切り捨てて、文字通りコンパクトに録音した媒体である。写メの画素数を上げて「人間の目に見えている世界よりも美しく」現実を写す方向とは逆である。いや、あった。後細やかだがアナログへの回帰があって、今や音源はハイレゾにシフトしつつある。CDとは逆で、情報量を極限まで増やし音の生々しさや艶、臨場感や空気感まで再生させる。媒体も変わりネット経由が主だ。
 ということは、視聴覚テクノロジーは目へも耳へも情報量をとことん増加する趨勢にある。そこで興味深いのは聴覚への情報量の増加が原音をより忠実に伝えるのに対し、視覚のそれは現実の被写体から乖離していくことだ。「もはや現実を写していない」とはそのことだ。VR(仮想現実)やAR(拡張現実)はこれを逆手に取っているといえよう。
 なぜか。この愚昧なアタマで似ぬ京物語をすると、視覚は元々ヴァーチャルと親和性が高いから、がその理由だ。驚くべきことに、視覚の立体感は隻眼でも生み出されると語るのは脳研究者池谷裕二氏である。両眼視は7割、残り3割は片目だけで立体を認識しているそうだ。続けて、池谷氏が語る視覚の不思議を追ってみる。
 〈なんで錯覚が生まれてしまうのか。これはしかたがない。一種の宿命なんだ。なぜかというと、世の中は三次元なのに、網膜は二次元だからだ。目の前にある<もの>が三次元の光情報として目に入ってきても、目のレンズを通して網膜というスクリーンに映されると、二次元に次元が減ってしまう。結局、脳が感知できるのは写真と同じ薄っぺらい写像でしかない。それをなんとか脳ががんばって三次元に解釈し戻さなくてはならない。そのためにいろいろと不都合なことが起こってくるということなんだ。〉(「進化しすぎた脳──中高生と語る『大脳生理学』の最前線」から)
 三次元の情報を二次元で受け、それを脳で三次元に戻す。その戻す際に錯覚は生じる。なんとも複雑だが、目の構造上そうするしか仕方がない。網膜から脳へ情報を送る視神経は片方で100万本、両方で200万本。眼耳鼻舌身の五感の中で神経本数が最多である。それほど視覚が最重要である証だ。太古フィジカルにはひ弱なヒトが生き残るため、敵をいち早く発見して身を隠すためであったろう。それでもデジカメよりは少ない。
 〈でも、少なくとも画素が粗くてザラつくことなく、なめらかには見えている。そういうふうに見えるということは、欠けた情報を補うような機能が脳に備わっているはずだ。〉(同上)
 実は前言「親和性が高い」というより、ヒトの視覚は元来脳が生み出したヴァーチャルなのだ。しかし写メはそれをも超え、「もはや現実を写していない」域に達した。屋上屋ならぬ、ヴァーチャル上のヴァーチャル。一見際限がないようだが、早晩追いかけっこは終わるだろう。なぜなら、いい加減なところで脳がチキンレースから降りるからだ。脳のキャパシティーは無限とはいっても、いつまでもヴァーチャルにリソースを割くほど脳は暇ではない。他にすることがいっぱいある。だから身体性がリミッターを掛けてくる。きっとそうなる。身動きができないほどアクセサリーをぶら下げては命を落としかねない。
 当今、インスタ映え全盛。三島由紀夫のことばが浮かぶ。
 〈「私がカメラを持たないのは、職業上の必要からである。カメラを持って歩くと、自分の目をなくしてしまう。自分の目をどこかへ落っことしてしまうのである。つまり自分の肉眼の使い道を忘れてしまう。カメラには、ある事実を記録してあとに残すという機能があるが、次第に本末顚倒して、あとに残すために、現在の瞬間を犠牲にしてしまうのである。」(昭和55年「婦人倶楽部」から)
 作家として肉眼で捉えて心象に結像させることを最優先したのであろう。三島にしてはじめて口の端に掛け得る言葉である。それにしても、「現在の瞬間を犠牲にしてしまう」危険は凡愚にもある。〉
 17年4月の拙稿「目玉がいっぱい」を再録した。特に今年の紅葉狩りは「人間の目に見えている世界よりも美しく」デフォルメされた紅葉を写メして「現在の瞬間」を置き去りにして帰る人が続出するだろう。名所は落っことした目ん玉で溢れかえるだろう。カメラは文化の市民化に大きく貢献したが、もうそろそろ風光明媚はプロに任せて「現在の瞬間」を獲り逃がさぬよう刮目して錦秋に向き合いたい。 □


破船

2020年11月14日 | エッセー

 漁撈でしか生きられない最果ての一寒村を訪った僥倖と、壊滅の危機をもたらした災厄の物語である。
 〈二冬続きの船の訪れに、村じゅうが沸いた。しかし、積荷はほとんどなく、中の者たちはすべて死に絶えていた。骸が着けていた赤い服を分配後まもなく、村を恐ろしい出来事が襲う……。嵐の夜、浜で火を焚き、近づく船を坐礁させ、その積荷を奪い取る――サバイバルのための異様な風習“お船様”が招いた、悪夢のような災厄を描く、異色の長編小説。〉(新潮社サイトから)
 吉村 昭著『破船』である。昭和五十七年、筑摩書房から発刊された。三十八年前になる。世界で読み継がれ、今また読まれているというので遅ればせながら手にしてみた。
 吉村 昭にしては珍しくフィクションである。 江戸時代であるのは確かであるし似たようなことは各地に散見されるが、特定の“事件”に材を取ったものではない。
 描かれる村は絶望的に貧しい。それでも存続のため否応ない同調圧が刷り込まれて村人は育つ。十数戸、数十人の村人にだれ一人抗う者はいない。成人男子でさえ口減らしのため年季奉公に駆り立てられる。「悪夢のような災厄」とは天然痘のことだ。古くは「もがさ」と呼ばれた。物語の終局、村の指南役が村おさの言葉を伝える。
「わしの言うことを、よくきけ。流行り病いのもがさには、山追いがつきものだ。もがさの毒に染まった者たちは、村にとどまってはならず、山中に入らねばならぬのだ。たとえ病いが癒えても、毒におかされた者が村にとどまれば、また、いつかはひそんだ毒が姿をあらわし、達者な者たちにとりつく」
 「山追い」とは樹林への集団追放、つまり集団遺棄である。近因は破船の掠奪であるが、遠因は絶望的な貧困にある。衣食の慢性的な欠乏にある。それが破船をお船様と誤認させた。果たしてそれを、今を生きる私たちは愚かしいことと嗤えるであろうか。
 作品では触れられていないが、ひとつは無知だ。天然痘は致死率五十%という脅威ではあるが二、三週間で生死が分かれ、痘痕は残るものの生者には治癒後は抗体ができるため二度と罹らない。夏目漱石も三歳の時罹患し生涯顔面にあばたを残したまま生きた。「病いが癒えても、毒におかされた者」まで山追いする必要はなかったのだ。過剰反応と集団心理が生む思考停止。まさかそっくりとは言わぬまでも、同類の事況はないか。マスク警察などは山追いと同一線上にあるといえよう。無菌志向に悪乗りした無知が瀰漫してはいないだろうか。当初主張された「賢く怖がる」が、「訳もなく怖がる」に“変異”したといっては過言か。
 二つ目は、集団圧力。「要請」は本邦では集団圧により「強制」と同等となる。何度か述べてきた通りである。
 三つ目は、元はといえばもがさの破船はどこかの地で罹患者をいわば「海追い」した船だった点だ。であれば、村にとってはエピデミックの転位だ。自然災害に限りなく近い。人災ならまだしも、天災を一寒村やその村民に防げるわけがない。
 翻って、わが国の新宰相は就任直後「自助、共助、公助」と打ち出した。明らかに、直面する災禍を念頭に置いた発言だ。まずは自助で、次に共助、最後に公助だという。自然災害である疫病の猖獗は社会総体で対応していくしかない緊急事態だ。平時に経営戦略を誤って会社が倒れる事態とはわけが違う。したがって、疫病にはまず公助である。次に共助、仕舞いが自助だ。宰相の言い分はまるで逆なのだ。実質的に共助エリアが消失してしまっている現実も失念している。共助を声高に唱えても、今やそんな親密圏はありはしない。弧族が密集しているにすぎない。彼は知らずに与太を飛ばしているのか、知って言質を取られまいとしているのか。彼の十八番を借りれば「いずれにしろ」、失策も不作為も一国を破船にするばかりだ。 □ 


狼爺さんのパラドクス

2020年11月09日 | エッセー

 羊飼いの少年はいつも独りぼっちで、寂しい。退屈紛れに大人を脅かしてやろうと企み、「狼が来たぞー!」と嘘を呼ばわった。すわ一大事と、村人は手に手に棍棒を持って大騒ぎ。が、どこにも狼はいない。やがて沙汰止みとなった。味を占めた少年は何度も嘘を繰り返したが、そのうち大人の信用は失墜。誰にも相手にされなくなった。そして運命の日、本当に狼が出現。呼べど叫べど誰一人助けに来ず、少年は食われてしまった。
 イソップ童話の「狼少年」である。通途の教訓はさておき、紙背に重い逆説があるとするのは思想家内田 樹氏だ。
 〈予言した人間は自分の予言が成就することで知的威信が高まる。その予言が「このままでは国が滅びる」といったタイプの予言の場合でも、そうします(無意識にですけど)。これを「狼少年のパラドクス」と呼びます。〉(「街場の戦争論」から)
 「そうします」とは、国が滅びることをも願うようになるとの謂だ。
 〈村人はみんな少年の警告にだんだん飽きてきて、警戒心を失い、ついに少年を「嘘つき」と罵るようになる。そうなったとき少年が「狼がほんとうに来て、村人を貪り食えばいいのに」と思うことは誰にも止められません。そのときこそ少年の危機意識の正しさは異論の余地なく証明されるわけですから。国防の備えの喫緊であることを説く人々はしだいに「狼少年」に似てきます。人間とはそういうことを無意識にやる生き物なのです。それを「止めろ」と言ってもしかたがない。でも、「自分はそういう生き物である」という「病識」は持っていたほうがいい。〉(同上)
 4年前的中し、今度もトランプだと予想した木村太郎。この爺さん、仕掛けが次第に効かなくなり遂に自滅した狼少年に似てないか。だんだん形勢不利になってくると、トランプ側が流すがせネタ、フェイクに易易として乗ってしまう。得意げに不正投票する動画があるとは言ったが、偽造されたものだと判明。トランプ票が大量に燃された動画を持ち出したものの、サンプル投票用紙だったことが暴露。と、この賞味期限切れの老いたコメンテーターは自らの知的威信を保つために必死にもがいた。その憐れな姿に「病識」をまざまざと診たのは私だけではあるまい。見たいものしか見ない性向を反知性主義とするなら、知的威信どころか紛れもない反知性主義者であると自らカムアウトしたに等しい。かてて加えて、トランプ再選という狼の出現を予言したためにひたすらその実現を希(コイネガ)う逆説に陥る。だから、『狼爺さんのパラドクス』という。
 よほど心酔しているのか、相性がいいのか、トランプ当人と同じ軌道だ。なんせ、トランプは平和主義者だと言挙げしたことがあった。トランプの不戦指向はディールとしてのそれだ。理念に基づく平和志向と似て非なるものだ。この老いさらばえた狼爺さんの知性はそんなことさえ判別できないほど劣化しているのか。
 巷間、日本はアメリカの51番目の州だと自嘲される。となるとこのアメリカ最大の州には選挙人は約130人が割り当てられる勘定になる。GDP世界3位から上がる税収は魅力だが、選挙権を与えるのは困る。まかり間違えると主権が危機に晒されるからだ。それ故、属国のままにしておこう。これがアメリカの国家的戦略である。そういう俯瞰は狼爺さんには端っからないらしい。
 一面、狼爺さんの予想が外れた原因はアメリカ大統領選挙の怪奇ともいえるその複雑さにある。19世紀フランスの政治思想家トクヴィルは『アメリカのデモクラシー』の中で、時々有権者が統治者の選択を誤った場合、その不適格な人物がもたらす災厄を最小化できるように制度ができているとし、それがアメリカのデモクラシーの最優秀たる所以だと称賛している。特にトップリーダーを選出する大統領選に間接選挙システムを採用しているのは、一国が挙げてポピュリズムに押し流されようとするのを防ぐためだ。これが今回見事に奏効した。そう断じていいのではないか。狼爺さんにはそれくらいの知見は披瀝してほしかったのだが、無い物ねだりか。
 もう1点、内田 樹氏の炯眼を徴したい。
 〈アヴィシャイ・マルガリート(ヘブライ大学教授、哲学者・引用者註)は『品位ある社会へ』で、「正義にかなう社会」と「品位ある社会」の関係を「最終目的地」とそれに向かう途中で力尽きた場合の「次善の策」に比定している。ある制度が人にとって屈辱的であるかそうでないかを決定するのは「コンテンツ」ではなく、「マナー」だからだ。「品位」というのは「事物」でも「出来事」でもない。「屈辱を与えない」という「何かが起きない」事況のことである。品位は「この社会には品位がある」というかたちで実定的に実感されるものではなく、「この社会には品位がない」という欠性的な仕方で実感されるものである。(「サル化する世界」から抄録)
 どちらが正義か特定し難い場合は品位によってその判断が代用できる。この理説は人物にも適用可能だろう。バイデンは反対派も代表すると宣言した。「『屈辱を与えない』という『何かが起きない』事況」をつくろうとするものだ。一方、トランプは反対派を敵だと煽った。屈辱を与えようとしたのは、彼を「『品位がない』という『欠性的な仕方』で実感」させるに充分だった。どちらに品位があったかは自明である。狼爺さんにはこれほどの達識は無い物ねだりだったか。
 二匹目の泥鰌ならぬ2度目の狼は現れなかった。狼爺さん、信用失墜である。こうなったら、もうとっととすっ込んだ方がおよろしいのではと申し上げたくなるのだが……。 □


それがどうした?!

2020年11月06日 | エッセー

 コロンボも古畑任三郎も相手はほとんどセレブで知能犯である。大団円で、滅法手強い星を理詰めで追い込んでいく。圧巻の攻防の末、星は遂に袋小路に至って理路が破綻する。と、頽れるように犯行を認め、事件は解決する。完全犯罪を狙う知能犯にとって、論理的整合性はまさに生命線である。ロジックに穴が空くことがあってはならない。初対面で犯人を直感した名探偵たちは、その穴を執拗に突いていく。結句図星を指されて開き直る知能犯はいない。いるはずがない。いない訳は、知能による犯罪は知能によってのみ成立しなければならないからだ。理路の破綻を認めない知能犯は自己撞着であり、ドラマツルギーを成さない。
 ところが、やくざ者は違う。ロジックの穴を突き付けられ、論理的破綻を曝かれても決して怯まない。「それがどうした?!」、そう言う。言うに決まっている。なぜか、彼らの犯罪は知能によって成り立っていないからだ。論理的破綻など痛くも痒くもない。そうなると後は人情デカの出番となる。もはや、コロンボも古畑任三郎も用はなくなる。
 先日のこと、暇つぶしに国会中継を見た。蓮舫議員の追及は歯切れよく鋭かった。やはり野党である方が光る。1番手の与党ではなく、2番手の野党が絶対似合っている。ご当人も言ったではないか、「2位じゃダメなんですか?」と。その通りだ。
 ガースー首相もご飯問答君(「朝飯は食ったか?」「ご飯は食っていない。パンは食ったが」とかつて答えた官房長官)も自らの答弁の論理的不整合には無頓着だ。何度糺されても、同じ答弁を繰り返す。思考はそこで停まっている。つまりは「それがどうした?!」ではないか。法制局長官やその部下たちも同じ穴の狢で、小賢しい理屈は振り回しても歴史や人間観に裏打ちされた深い見識はまるで窺えない。所詮は小吏か。早い話が「それがどうした?!」の尻拭い、その一類でしかない。学問の自由がなぜ最高法規である憲法によって保障されているのか。帝国憲法にはこの規定はなかった。それゆえ学問が国家に隷属し戦争遂行に加担し、負の遺産を生んだ。その深い歴史的反省の上に憲法23条はある(因みに英米仏にはこの規定は今もない)。この23条から日本学術会議法は演繹された。ところが、刻下の政官はそのような演繹的思考をしない。「そもそも論」が嫌いなのだ。すれば墓穴を掘る。そういう保身の嗅覚はある。政官の器の狭小化と知性の劣化の帰結であろう。
 彼らに共通しているのは「人間は間違える」という極めて平易な人間観である。自らを相対化する謙虚さといってもよい。しかしそれは我執が邪魔をして前景化しない。だからこそ、孔子は「過ちを改めざるこれを過ちという」と訓(オシエ)たのではなかったか。
 しかし自らを省みて、高望みは止めよう。内田 樹氏はいう。
 〈「公人」とは、私たちはそのそばに行って親しく知り合い、その見識、力量を「直接には」知ることができない人間のことである。私たちにできるのは遠くから彼らの人となりを「想定すること」だけである。「知性があると想定し」、「正しい決断を下す判断力があると想定し」、「高い倫理性を備えていると想定」した上で、私たちは彼らに権力と情報を集中させることに同意している。だから逆に言えば、政治家は実際に有能である必要も有徳である必要もない。「有能有徳であるように見えれば」それでOKなのである。官僚は清廉である必要も能吏である必要もない。「清廉にして怜悧であるように見えれば」それでOKなのである。民は「太っ腹」である。〉(「期間限定の思想」から)
 せっかくこちとらが「太っ腹」で構えているのに、公人たちを「知性があると想定し」、「正しい決断を下す判断力があると想定し」、「高い倫理性を備えていると想定」できないから困るのだ。だって、問い詰めた挙句がやくざ者よろしく「それがどうした?!」では二の句が継げない。もっとも、海の向こうの「それがどうした?!」に比べればまだ「太っ腹」でいられるが。なにせルールがおかしいって言い始めたらゲームは成り立たない。寅さんなら言うよ。「それを言っちゃぁ、おしめーよ」 □


都構想潰えて

2020年11月03日 | エッセー

 〈この罪と悲しみの世界では、これまでに多くの政治体制が試みられてきたし、これからも試みられてゆくであろう。民主主義が完全で全能のものだという人はいない。事実、民主主義は最悪の統治制度だとこれまで言われてきた。これまで試みられてきたすべての統治制度を除けばだが。〉
 有名なウィンストン・チャーチルの言葉だ。内田 樹氏は近著『日本習合論』で、「手元には民主主義しかないので、いやいや民主主義をやっているが、それが理想的な制度だと主張する気はないし、他国に押し付ける気もない」と冷笑的に解釈している人が多いと指摘している。さらに、
 〈未来のある時点までは、民主主義は「他のすべての統治制度」同様に「最悪」のように見えるでしょう。でも、未来においては「最悪」の度合いにはっきりとした差がつく。事実チャーチルは、民主主義は「これまで試みられてきたすべての統治制度よりもまし」だときっぱりと断言しています。〉(上掲書より)
 と述べる。その断言の根拠はドイツに勝ったからであり、当事者意識を持つ市民が多かったからだとする。となると、チャーチルの言をシニシズムと捉えるのは誤解だ。
 2度目の大阪都構想否決について、橋下徹は次のように語ったと報じられた。
 〈否決となった主な要因として「変化に対する不安を解消できなったこと」を挙げ、「人間、現在の問題点にはけっこう寛容なんですよ。今の大阪府、大阪市もたくさん問題はあるけど、それよりも変化の不安の方が大きい。変化に対する不安を避けるために、現状の問題点は甘受してしまうというのは人間の本質のところなので、責めても仕方がない」〉
 「人間、現在の問題点にはけっこう寛容なんですよ」とは、朝四暮三、目先のことしか考えないのが人間の常。そう言いたいのだろう。ニヒリストを気取っているのだろうが、なんと浅はかな人間観であろうか。瞭らかにチャーチルの言に対すると同等の誤解が底流している。「未来においては『最悪』の度合いにはっきりとした差がつく」そのタイムスパンが肝心だ。前回からの5年間は充分に「未来」に至ったとみてよかろう。その間に「はっきりとした差」がつかなかったからこそ市民は賭けから降りた。市民の集合知を侮ってはいけない。
 敗因は構想を掲げ指摘したムダを少しずつ省いてきたためにデメリットが実感できなくなったからだと、橋本は言う。言い訳にもならないソフィスト紛いの詭弁だ。弁護士資格を持ったTV芸人の本性丸出しである。ならば、端っから都構想などと仰々しい看板を掲げる必要はなかったではないか。
 イギリスが対峙したナチスは12年で命脈が尽きた。都構想も12年で潰えた。不思議な一致である。なにせ「今の日本の政治に一番必要なものは独裁だ」と公言して憚らなかった御仁である。その異臭は抜き難く残存している。大阪人の鼻は胡散臭さを逃さなかったとみていい。橋下のテメー勝手なレジェンドづくりはこれで幕となる。
 レゾンデートルを失った維新の会が文字通り消滅するのか、あるいは改憲勢力として自民に吸収されるのか。残る懸念はその一点だ。
 以下、蛇足ながら。
 都構想なのに吹田市、池田市などの大阪市以外で住民投票がないのは変だ、という大阪人以外の人がいた。それは勘違い。大阪府を丸ごと都にしようというのではない。大阪市だけを都にして府と肩を並べようとする奇想ともいえる企みである。この誤解は部外者には当然といえる。だって、本来なら「大阪市都構想」と呼ぶべきだ。品のない目眩ましともいえるが、土地勘のない人が取り違えるのはやむを得まい。常識が理解の妨げになったというべきだろう。
 さらに蛇足を。
 〈旅先から柴又に戻り、さくら、博、竜造、つねを前に話している寅。
寅  「言ってみりゃ、リリーも俺と同じ旅人さ。見知らぬ土地を旅してる間にゃ、それは人には言えねえ苦労もあるよ……。例えば、夜汽車の中、少しばかりの客もみんな寝ち まっ
     
 て、なぜか俺一人だけいつまでたっても寝られねえ。真暗な窓ガラスにホッペタくっつけてじっと外を見ているとね、遠く灯りがポツンポツン……。ああ、あんな所にも人が暮ら
       しているか……。汽車の汽笛がボーッ、ピーッ。そんな時、そんな時よ、ただもう訳もなく悲しくなって、涙がポロポロポロポロこぼれてきやがるのよ。なあ、おいちゃんだってそ
       んなことってあるだろう」
竜造 「うん、煤がよく眼に飛びこんでくるからな。しかし近頃はたいがい電気機関車だろう?」
寅  「黙ってろよ、もう、おいちゃん。今はそんな程度の低い話をしてる時じやないだろう。ええ、おい、博」
博  「ええ、わかります。特に北海道で夜汽車なんかに乗ってると、そんな気持ちになりますね」      男はつらいよ寅次郎忘れな草〉
 小説家滝口悠生作「いま、幸せかい? 寅さんからの言葉」(文芸新書)から引いた。「ああ、あんな所にも人が暮らしているか……」。これが刺さった。魂が震えた。寓意は後回しだ。 □