伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

アラカン

2009年05月29日 | エッセー
 「嵐勘」ではない。『アラウンド 還暦』である。「アラフォー」の伝だろう。だれだかしらないが、巧いネーミングだ。還暦前後ならば、団塊の世代に当たる。嵐勘十郎、分けても「鞍馬天狗のおじさん」を知る最後の世代でもあろう。だから、二重に巧い。
 一生の歩みは切りよい年齢で截然と分かたれるわけではないが、10年刻みで大枠を嵌めることはできよう。仕切りの暈(ボカ)しが「アラウンド」だ。となると、団塊とその前後数年の世代も入る。人口の1割は優に超える。山塊ともいえよう。アラカンは実に巨大だ。
 ここがどう動くか。まちがいなく一国と歴史を変える。「少子高齢化」論議の付帯条項としてしか扱われないが、『アラカン』論をもっと隆盛させるべきだ。それも急ぐ。あと20年しか余裕はないからだ。もちろん年金の問題ではない。そんなところに事を矮小化させてはなるまい。長寿のために、などという健康オタクの与太話でもない。
 かつて歴史に登場したことのないジェネレーションが出現したのだ。「温故」しようにも、日本史はその経験をもたない。「知新」は闇の中だ。かつ、後続は減少していく。歴史の流れに突起する現象である。アラカンをマスとしてどう位置付け、遇していくのか。しくじれば、歴史に禍根を残す。ロス・ジェネは若い世代にだけの失策ではない。だがこの難題は筆者の分を超え、能も凌ぐ。賢者に委ねるしかあるまい。

 角度を変えよう。自らの能に適った稿を綴る。
 「アラ〇〇」を人生のエポックメーキングとして捉え、ケース・スタディしてみたい。ケースは吉田拓郎である。彼は当然、アラカンだ。好適なケースではないか。

● アラ ハタ(20)
 66年(昭和41年)=20歳。
―― ソロで、フォーク活動を開始 ――
 各社のコンテストに挑戦。『和製ボブ・ディラン』と評され、プロデビューを狙って苦闘を続ける。難関は突破できないものの、広島では『有名人』となりブームを起こす。
 茂木健一郎氏は、全国的なブレークの前には必ず身近なところでブームが起こっいるものだ、と言っている。その通りの成り行きを辿る。

 作品としては、諸説あるだろうが『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』を挙げねばならぬだろう。70年、23歳(満)。アングラ版ではあるものの、レコードデビュー一作目となる。これが全共闘の資金づくりに協力した作品であった経緯は、懐かしさを覚える後景だ。だから、常識破りの長いタイトルは印象的でもある。後の『イメージの詩』にも、このフレーズは使われている。牢乎としたアンシャンレジームに鎧われた音楽シーンに斬り込んでいく猛々しさを彷彿させる。キャンパスをうねるヘルメットの波。連中の琴線にも触れたにちがいない。
 筆者としては『人間なんて』も挙げたいのだが、25歳の作。アラウンドから最も遠い。いかんともしがたい。事は、絵にかいたようにはいかないものだ。

● アラ サー(30)
  75年(昭和50年)=29歳。
―― 8月2日、3日、静岡県掛川市のつま恋多目的広場で「吉田拓郎・かぐや姫 コンサート インつま恋」を開催 ――
 多弁を要しない。つま恋が『伝説』となった日である。規模を超えるものはその後にあっても、初陣を切らねば『伝説』とはならない。
 さらにこの年、
―― フォーライフ・レコードを発足させる ――
 これは快挙であった。「生意気な奴ら」が、「生意気にも」自前のレコード会社を創った。『古い水夫』に『新しい水夫』が代わっただけではなく、『古い船』の群れに割り込んで『新しい船』を浮かべてしまった。一過性の社会現象で終わったヘルメットの連中に、鮮明な『回答』を見せつけた。
 この年、高額納税者番付に定番であった演歌の大御所にまじり、井上陽水とともにランク・イン。音楽シーンを塗り替えた、まさにエポックメーキングな年となる。
 作品では74年、28歳で発表した『人生を語らず』が筆頭であろう。04年の成人の日、東京新聞は次のような社説を掲げた。
〓〓成人の日 越えてゆけ、それを 
 二十歳という節目は、年々あいまいになっていくようだ。戸惑う気持ちはよく分かる。でも、だからこそ、今日を機に世代の壁を越えて行け。自ら大人になるために。
 “フォークの旗手”といわれた吉田拓郎は、今年五十八歳になる。
 肺がんを克服して臨んだ昨年暮れの全国ツアーのアンコールに、拓郎は「人生を語らず」という歌を選んだ。
 「越えて行け そこを/越えて行け それを」
 人生の困難を乗り越えた自分をいとおしむように、次の目標に向かって自らを奮 立たせるように、声を振り絞って繰り返した。
 拓郎は二十四歳のころ、こんな歌を作っている。
 「古い船をいま 動かせるのは古い水夫じゃないだろう/なぜなら古い船も 新しい船のように新しい海へ出る/古い水夫は知っているのサ/新しい海のこわさを」
 そして、昨年のツアーでもその「イメージの詩」を披露した。
 人は二十歳を期して“大人にしてもらう”わけではない。二十歳を目安に、誇りを持って自ら“大人になる”のである。〓〓(抜粋)
 素晴らしい社説ではないか。このような新聞社は称賛に値する。大いに。

 もう一曲、『ローリングサーティー』を挙げよう。78年、32歳の作品。

   〽ローリングサーティ
    動けない花になるな
    ローリングサーティ
    転がる石になれ〽

 いまの32歳に、おなじマインドをもつ者がはたしてどれだけいるだろう。老成した「動けない花」で溢れてはないか。「転がる石」はついぞ見ない。凄みは、それを同世代に突き付けていることだ。明らかに常人を超える。

● アラ フォー(40)
 論語は「四十にして惑わず」と訓(オシ)える。「三十にして立つ」を地で行ったのに比して、アラ フォーは大いに惑う。いくつかのビッグ・イベント(コンサート)の成功はあるものの、潮目に揺れた。
 そんな中、ギリギリのアラ フォー、90年(平成2年)、44歳でリリースした「男達の詩」が光る。デビュー20年の記念碑でもあった。

   〽うすむらさきの 煙が ゆれて
    ああ ああ 何て遠い昔なんだろう

    君は嵐を 乗り越えたか
    そして 心は 満たされたか

    生きる位は たやすいこと
    男達は 純情 燃やす

    今夜は ころがれ (狂うまで)
    今夜は うかれて (流れたい)
    都会の河で 友と一緒に
    花でもかざして 踊ろうじゃないか〽

 個人の好みでいえば、全作品の頂点に位置する。このごろからだ、「大人の男」が頻出するようになるのは。潮目はいい漁場(ギョバ)ともなる。人生の潮目で魚の群れと立ち向かうのは男の、しかも大人の仕事だ。

● アラ フィフ(50)
 96年(平成8年)、50歳。突如、テレビに登場する。
―― フジテレビ「LOVE LOVEあいしてる」にレギュラー出演 ――
 01年まで。テレビメディアを意図的に避けてきた彼が、である。なにかがふっ切れたにちがいない。あるいは、ふっ切るためだったか。KinKi Kidsとタッグを組んだ。親子の懸隔をもつ世代とである。媚びるでもなく睥睨するでもなく、自分を知らない世代と向き合った。つまり彼らには吉田拓郎はカリスマでもなければ、ヒーローでもない。音楽をやってきた(らしい)普通のおじさんでしかない。
 対峙は5年に及んだ。必死に自身をリセットしようとしたに相違ない。並なアーティストにできる芸当ではない。

   〽ひとりになるのは誰だって恐いから
    つまづいた夢に罰をあたえるけど
    間抜けなことも人生の一部だと
    今日のおろかさを笑い飛ばした
    
    全部だきしめて きみと歩いていこう
    きみが泣くのなら きみの涙まで
    全部だきしめて きみと歩いていこう
    きみが笑うなら きみの笑顔まで〽

 96年10月5日23時、この主題歌をはじめて聴いた時、背筋を電気が走った。忘れていた「結婚しようよ」の衝撃が刹那に戻った。
 50歳のたくろうは、新しいトポスにいた。

● アラカン
 03年(平成15年)、58歳、肺ガンに見舞われる。
 死魔との闘いを征して06年、60歳。
―― 31年ぶりにつま恋でかぐや姫とのコンサート<つま恋2006>を打つ ――
 凱歌は上げたものの、翌07年、再び体調を崩し療養。この辺りからは、あえて記すまでもなかろう。
 そして、今年、63歳。『ガンバラナイけどいいでしょう』へと至る。

   〽がんばらないけどいいでしょう
    私なりって事でいいでしょう
    がんばらなくてもいいでしょう
    私なりのペースでもいいでしょう

    心が歩くままでいいでしょう
    そうでない私でもいいでしょう
    がんばれないけどいいでしょう    
    私なりって事でいいでしょう〽

 孔子のいう耳順の匂いもするが、おそらくそんなことではあるまい。単にガンバリズムのアンチ・テーゼでもないだろう。彼はいつもプログレッシヴであった。だから、世代の先端で呼吸してきた。むしろ世代を、つまりは「アラカン」を奥深くシンボライズしていると観たい。証拠に、この曲で「安心」したという声が多い。

 「『アラ〇〇』を人生のエポックメーキングとして捉え、ケース・スタディしてみた」。世代と時代を共有できた僥倖を改めて感ずる。
 
 <つま恋2006>が終わった時、本ブログに次のように綴った。
〓〓一期一会、祭りは跳ねた。もう「つま恋」はない。永い「祭りのあと」が始まった。白虎となった彼は存分に白秋を味わうに違いない。〓〓(06年9月30日付「秋、祭りのあと」)
 ところが彼には、どうも白虎が不似合いらしい。白秋を味わう趣味もないらしい。「ガンバラナイけど」歩みを已めそうにない。天稟が蠢き、「心が歩くままで」倦むことをしらない。「アラカン」なぞ、彼にとっては一瞬の通過点でしかない。 □


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「エンザ」はどこに?

2009年05月23日 | エッセー
 ニュースの映像を見ながら、つい「オーッ!」と声を上げた。通勤風景、みんながマスクをしている。凝視して確かめたわけではないが、印象としては一人残らずだ。もしや、新手の新興宗教か。可笑しみとともに、怖さも覚えた。
 「だったら、オレ一人、マスクなしでいいわけだ」と荊妻に語りかけると、「売り切れだものね」とまったく筋違いな応えが返ってきた。言葉の通じない人はおいて行くしかない。
 つまり、わたしが感染していようがいまいが、だれにも移す心配も移される心配もないからだ。ただしほかに一人でもマスクなしがいれば通じないが。と、これは早とちりだった。そもそもマスクは効果が限定的なのだ。ばらまかない効果はあっても、吸い込まない効能はないらしい。種類にもよるが、感染者が装着して拡散防止にはなるが、非感染者の被感染防止には効果がないという。
 とすると、あの光景はなおさら仰々しくも奇異に見えてくる。海外のニュースを見ても、あれほど揃いも揃ってのマスク姿はない。日本人のもつなにものかを象徴している光景といえるのではないか。
 昨年7月号の「中央公論」におもしろい対談が載った。一部を紹介する。

〓〓養老 自然に対する人間の偏見を表しているのは、鳥インフルエンザですよ。(略)鳥インフルエンザとか、自然が引き起こすものを怖がる人が多いけど、僕はたいしたことはないと思っています。自動車も戦争並みに人を殺しているんですから。人間は自分たちが作ったもので人が死ぬことはあまり怖がらないけれど、自然によるものは怖がる。
中西 少し前までは自然のものはいいという感じだったのが、鳥インフルエンザの問題が出てきてから、何でもかんでも消毒するようになりましたね。無添加が一番いいといわれていたのに、いまでは地鶏なんかむしろ危ない、ブロイラーのほうが安全だとかいわれる。最近、野菜工場というのが流行っているんですよ。閉鎖された空間で野菜をつくれば、土壌に菌もいない、虫も鳥も来ないということで、歓迎されている。自然崇拝かと思っていたら、今度はいきなり自然はダメで、野菜工場のようなものがいいという流れになった。
養老 コンビニ弁当は一週間置いておいても腐らないという有名な話がありますね。食中毒を警戒するあまり、化学物質の問題がそこではなおざりにされている。〓〓 「 環境問題ブームに騙されるな」 養老猛司(解剖学者)/中西準子(産業技術研究所 安全科学研究部門長)

 キー・センテンスを拾うと ――
◆「人間は自分たちが作ったもので人が死ぬことはあまり怖がらないけれど、自然によるものは怖がる。」
◆「自然崇拝かと思っていたら、今度はいきなり自然はダメ、野菜工場のようなものがいいという流れになった。」
◆「食中毒を警戒するあまり、化学物質の問題がそこではなおざりにされている。」
―― といったところか。先日、取り上げた「思考停止」(本年5月4日付本ブログ「この印籠が目に入らぬか!)がどこかで起きている。もしくは、思考が安易に大きく振れるのだ。それがわが国では甚だしい。狭い国土で大人数がひしめきあっている。どうしても沸点が低くなる。マスコミの煽りで忽ち沸騰する。思考停止の次に来るのは付和雷同だ。それを怖れねばなるまい。

 「ゆとり教育」の見直しとて同類だ。暗記詰め込み学習からクリエーションを志向したはずだが、学力の国際比較が下がると途端に軌道修正である。30年と経っていないうちにだ。アンバイ君の置き土産だが、傍迷惑な話だ。
 少し考えれば解るだろう。OECDの調査でトップクラスにいる国がノーベル賞を量産しているわけではあるまい。世界の先導的地位にいるわけでもない。ノーベル賞最多の米国などは、どの調査でも中の下にランクしている。問題は分母であり、優秀な奴はほっといても優秀なのだ。問題があるのは「ゆとり教育」のファシリテイトであって、理念そのものではない。この際だ、いっそ『ゆとり世代』とそれ以外の世代との比較調査を将来してみてはどうか。20年後ぐらいに。もちろん調査委員長はアンバイ君を措いて他にない。

 話柄を戻そう。マスクだ。
 やはりというべきか、感染者の出た学校に「渡航先でマスク着用を徹底しなかったからだ」などと苦情が寄せられているらしい。前述したようにマスクでは被感染防止には無益だ。ガスマスクでも付けろということか。帰国した途端、何日間も『逮捕』同然の扱いを受けた苦衷に、なぜ同情を寄せられぬのであろうか。(『逮捕』については、08年2月10日付本ブログ「囚人の記 2」に詳しい)思考を停止した徒輩の跳梁跋扈を憂うばかりだ。
 そのような中で、橋本知事の言動には好感が持てた。迅速でもある。「大阪がマヒする。実態に合わせ、規制を緩めよ」極めて常識的ではないか。「4月の出来事から」で孫引きした寺田寅彦の言。「こわがらなさ過ぎたり、こわがり過ぎたりするのはやさしいが、正当にこわがることはなかなかむつかしい」蓋し、箴言である。
 新型インフル、水際での防止は無力に終わった。上手の手からも水は漏れる。もはや、「鎖国」はできないと知るべきだ。先ずなにより、付和雷同を呼ぶ島国根性の鎖こそ早く解きほどかねばなるまい。
 おっと、「インフル」と言ってしまった。いつとはなしに、どこからともなく「インフルエンザ」が見出しから消え、「インフル」になってしまった。「エンザ」はどこにいったのか。縮めるのは日本のお家芸だが、マスコミ各社、横並びで「エンザ」を略すようになっている。拙稿でも、つい。これも付和雷同の片割れか。 □


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まぼろしか。

2009年05月17日 | エッセー
 〽夕焼け、小焼の
  赤とんぼ
  負われて見たのは
  いつの日か。

  山の畑の
  桑の實を
  小籠に摘んだは
  まぼろしか。  
  
  十五で姐やは
  嫁に行き
  お里のたよりも
  絶えはてた。  

  夕焼け、小焼の
  赤とんぼ
  とまつてゐるよ
  竿の先。〽

 三木露風 作詞、山田耕筰 作曲の「赤蜻蛉」である。知らない人はいない、日本を代表する童謡である。大正10年露風32歳の作品に、昭和2年山田耕筰が曲をつけた。
 二十歳(ハタチ)を少し過ぎたころであったろうか、ふと疑念が湧いた。2節目の終わりに違和感を感じたのだ。
 「まぼろし」とは、童謡にしてはいかにも膚質のちがう言葉ではないか。字引には、 ―― 実在しないのにその姿が実在するように見えるもの。幻影。はかないもの、きわめて手に入れにくいものの譬え。 ―― とある。

 1節は、母に背負われて見た夕焼け空に群れ飛ぶ赤蜻蛉であろう。いつとは特定できぬまでも、むかし、幼少の「いつの日か。」であった。
 3節は、可愛がってくれた子守りの姐やが15で嫁ぎ、主家への音信も「絶えはてた。」杳としてその後は知れぬ、と振り返る。
 4節は、長じて今また夕間暮れ、竿の先に止まる赤蜻蛉をじっと見詰める。去来するは少年期の一齣、懐かしき情景 …… 。

 大掴みでは、そのような歌意であろう。 …… 「疑念」は2節だ。

 山裾に広がる桑畑で、小籠を提げて、母とともに桑の実を摘んだ。あれはまぼろしであったろうか。

 なぜ「まぼろし」なのか。1、3、4節の明晰性に比してなんとも心許ない。「幻想の中での出来事だったようにはっきりしない」と、通途に受け取っていたのでは脈絡が切れはしないか。なぜ母との思い出の情景だけが霞むのか。
 〽小籠に摘んだは〽 「秋の日か。」か、あるいは「母さんと。」とでも続けば、自然なものを …… 。

 詩は解析の外に屹立するものだ。私(ワタクシ)に講釈を差し挟むなどは作意を辱めることは承知の上だ。暴挙である。しかし若気の至り。昔年の愚挙の蹟を辿ってみる。

 まず、明言されてはいないが、母親がシルエットになっていることは事実にちがいない。「姐や」に負われ、「姐や」と実を摘んだと考えられなくもないが、それでは線が弱い。最初に原稿をみせられた友人の後日談からも露風自身の、幼年の日の実景であることは確かだ。後述するが、「姐や」は母の後にやって来た。
 さらに、これは童謡ではないのでは、との疑いも湧く。だが露風自身が編んだ童謡集『真珠島』に収められている以上、それはない。
 明澄な世界であるべき童謡には、「まぼろし」は似つかわしくない。童心には早すぎる言葉ではないか。露風はこの言葉になにを託したのであろうか。抒情に纏われた謎があるのか。「疑念」は膨らんだ。

 面映ゆいことに、「それ」を知ったのは「疑念」から数年を経てからだった。
  ―― 露風は5歳の時、母親と生き別れた。
 これは重要な発見だった。早熟の天才、ガラス細工のように鋭敏な少年の感性に、この出来事がなにものも残さないはずはない。焦がれるわが子に、父は近在から姐やを呼んだ。それが3節へとつながる。
 だから、「まぼろしか。」とは 「まぼろしのように儚い、定かならぬ記憶」と片付けて済む言葉ではない。わらべの唄に不似合いな言葉をあえて使うには、相応のわけがあったと考えるべきではないか。
 
 愚案を巡らしてみた。「まぼろしか。」 ……

 母との情景は遠い昔の記憶ではあるが、こころにくっきりと残像を宿してきた。しかしその後、母は去り、母との懐旧はあの一齣が最後となった。生別という人為の別離は、つねにあの情景をまぼろしとして追い遣るよう迫り続けた。でなければ、思慕が身を焼いてしまうからだ。

 あるいは、

 母は去った。いま蘇る母との幼年期の一齣は、そうあってほしかったという願望が紡ぐ情景であり幻影であるかもしれない。記憶の底に沈殿しているあの母の残像は、母への思慕がつくり出したまぼろしの似姿ではなかろうか。

  …… 想像が過ぎるであろうか。1節の「いつの日か。」の延長にあるトポスとはうけとりがたい。だから、奇想を天外より呼び寄せてみた。
 的を擦りもしない「まぼろし」の思念ではあろうが、ともかくもこれで澱のような「疑念」は晴れた。「いつの日か」の「愚挙の蹟」だ。

 この曲に写し取られた龍野(兵庫県)の風景は、今すっかり形を変えているだろう。赤蜻蛉さえ近ごろは姿を見せぬかもしれない。だが、母と子の別れ、人が人と交わす愛憎の原風景は人が住まうかぎりつづいている。 □
 

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愛犬の証

2009年05月13日 | エッセー
 わが家にやってきた94年ころ、Jリーグで中山雅史が活躍していた。だから、「ゴン」と名付けた。
 ヤツは一度も座敷に上がってきたことがない。座敷で飼うのは猫であり、なりが大きくとも主と居住空間を共にするのは犬のような猫でしかないとの抜き難い偏見をもって仕付けたからだ。抱えられて屋内に入るのはシャンプーの時だけだ。だから「おい、シャンプーだ」と言って抱えようとすると身をすくめ、体に触れるとクサリの半径内を逃げ回る。「シャンプー」はヤツにとって禁句にちがいない。類は友を呼んだか、主も風呂嫌いでは人後に落ちぬ。自慢にもならぬが。

 あ、そうだ。一度だけ、さして広くもない家の中を縦横に走り回ったことがある。シャンプー中に風呂場の扉を少しだがうっかり開(ヒラ)いてしまい、その隙間から逃げ出した時だ。家中にシャンプーの泡を撒き散らし、家具を散乱させての大捕物となった。
 オスの柴犬。今年の7月26日で、満15歳を迎える。国産種である柴犬は日本の風土に合っているため、もともと長寿である。それでも12から13歳が平均寿命。それをはるかに越えた勘定になる。はるか、というのは、ドッグイヤーで計算するからだ。犬の1歳は人間の7歳に相当する。そうすると平均を20歳相当上回り、105歳となる。
 ドッグイヤーでは主人をはるかに凌駕している。また、あと2年経つと実年数で子どもたちよりも付き合いが長くなる。もちろん親子の縁を切ったわけではなく、親元から居を移したからだ。
 昔話題を呼んだ「ゾウの時間 ネズミの時間」(中公新書)によると、動物によって寿命はちがっても、一生の間に心臓の打つ総数は変わりがないらしい。ほ乳類は心拍数20億回で一生を終える。ゾウもネズミも心拍数は同じ、テンポが違うだけだ。つまり、動物個々の『体内』寿命は同じなのだ。とすると、主人の7倍速で生きているヤツも感じる一生の長さは同じだということか。意外な公平があるものだ。
 とはいえ、人間にしてみると茶寿に近いはずだが意外に元気である。持病もなく、半年ぐらい前から耳が遠くなったかなという程度。自転車で走らせるとさすがに、今までの半分ぐらいの距離で自転車が先を行くようになった。だが105歳、人間なら化け物だ。
 食欲は満腹中枢を母体に置き忘れてきたかのごとく、いまだに旺盛だ。そこは主に似てなくもないが、アルコールはからきし駄目だ。ビール缶を近づけると、実に苦しそうに顔を背ける。犬一般がそうかもしれぬが、ヤツにとっては左手で鑿を持つ主人なぞに関わりたくないのであろう。

 ヤツが若かりしころと違うのは、昼間だ。といって夜はどうだか、観察してきたわけではないので埒外だが。 …… つまり日中、『死んだ』ようにうずくまるか、寝そべっているのだ。番犬としての責務をすっかり忘れたかのごとく、無防備この上ない。ただ黄昏時になると、にわかに生気を取り戻す。散歩を待ってそわそわしはじめる。それがどうにも現金であり、愛くるしくもある。
 散歩は1年365日、変わらない日課である。週に一二度の荊妻とはコースがちがう。距離も倍だ。そこはヤツも心得ていて、出掛ける前の喜びようが格段にちがう。愛猫家には味わえない機微である。散歩の後のドッグフードがつい増えてしまう。
 以前、オスのダックスフンドを飼っていた友人がいた。ある時、近所の人が怒鳴り込んできた。わが家の自慢の愛犬が辱められたというのである。友人は『無実』を断乎として、根拠もなく主張した。やがて数カ月が経ち、長い胴をした子犬が産まれた。友人がどう『問題』を解決したのか、後日談を聞きそびれた。
 『問題』は困るが、羨ましい話である。ゴンは人為的に何度か試みたが、ついに子を成さなかった。地上に子孫を残さずにやがて消える。それがただひとつの悔いだ。
 生後3カ月でわが家に来た。半年を過ぎるまでは外に出さなかった。犬独自の接触感染を避けるためだ。やっと解禁になって、最初の散歩。近くの公園でリリースした時だ。はしゃぎ過ぎて坂で足を挫いてしまった。数日で回復したが、猿さえ木から落ち、犬さえ坂で転ぶことを知った。

 3年目の春だった。忽然と姿を消した。クサリが付いて首輪が残っていれば、逃走だと合点が行く。だが、クサリが残り、首輪がない。すわ闘犬いや、『盗犬』か。色めき立って捜索するも、まったく手掛かりなし。はたして警察は犬の捜索願いを受け付けてくれるだろうか。それとも一笑に付されるであろうか、などと気を揉みつつ三日が過ぎ、四日目の陽が傾きはじめたころである。窓の外を見やりながら心当たりに電話をしていた、まさにその時。なんとヤツが庭にいるではないか。目が合った。上擦る声で電話を切り、飛び出した。腹と足に少しドロが付いているものの外傷はない。事情を訊こうにも、犬語は解せぬ。よかった、よかったとしばしの抱擁を交わすしかない。かくて一件は落着した。
 たとえ逃走したにせよ、長くて2時間もすれば遊び飽きて帰ってくる。三日も「留守」にすることはそれ以前にも以後にも絶えてない。『盗犬』だとしたら、逃がす筈はなかろう。この失踪事件、いまだに謎である。

 3万年前、旧石器時代の中央アジアで始まって以来、犬は人類にとって最も付き合いの古い動物である。当家の主人にとってもヤツで5匹目、人間以外ではいちばん縁(エニシ)深き動物である。だが、ヤツで最後となるだろう。

 いかな長生きとはいえ、ヤツもやがては寿命が尽きる。ヤツは主の方が先だと言うかもしれぬが、生憎、「ワン」としか聞こえぬ。15年も一緒にいると、もはや『他人』では済まされない。「その時」が来てからでは遅いし、感情が縺(モツ)れてうまくは書けぬだろう。写真は余るほどあるが、文章にしたことはない。取り留めもない稿となったが、ヤツが生きた証を留めておくのは今しかないと拙文を綴った。 □


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乞う御意見

2009年05月08日 | エッセー
 浅田次郎御大の最新エッセー集「ま、いっか。」(集英社)の中に、<黄昏の恋>と題する章がある。これがすこぶるおもしろい。おそらく文句はおっしゃらないであろうとの勝手な確信のもとに、以下一部を引用する。


    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇
 仮称「人生三回結婚説」とする。略して「三婚説」とでもしておこう。
 まず、二十歳になったら全員が二十歳齢上の異性と結婚する。はたちの娘と四十のオヤジ、はたちの青年と四十のマダムの結婚である。
 そのまま二十年間、結婚生活を送り、四十歳と六十歳で離婚する。そして間髪を入れず、四十歳の男女は二十歳の男女とそれぞれ二度目の結婚をする。
 六十歳で二度目の離婚をしたあとは、同じ境遇の六十歳の異性と三回目の結婚をする。
 概要は以上である。細部については友人やパートナーと論議していただきたい。みんなで考えれば考えるほど、この説は興味深い。個人の恋愛観や人生観はそれぞれちがうから、意見百出すること疑いなしで、午後のティータイムや酒の肴にはもってこいである。ただし大前提として、これは仮説ではなく未来の法律によって強制された現実、として考えていただきたい。わがことと思えば、話は否応なく盛り上がる。
    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇


 「意見百出すること疑いなしで、午後のティータイムや酒の肴にはもってこいである。」 ―― ここだ! 「法律によって強制された現実、として考えていただきたい。」を踏まえて、上記「三婚説」、さてみなさまの御意見やいかに。侃侃諤諤たる「百出」を期待したい。
 なお本文では御大の含蓄に富んだ「私観」が続く。だが思考停止の『印籠』となってはいけないので、引かない。既にお読みになった方もあろうが、文中で御本人もお断りのように、いかな御高説といえどもあくまで参考でしかない。

 これは決して手抜きではない。前稿のコメントが久方ぶりに盛り上がった尻馬に乗ってみたまでである。さて、いかに。 □


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2009年4月の出来事から

2009年05月05日 | エッセー
<政 治>
●消費者庁設置法案が衆院通過
 政府案を軸に与野党が修正合意し、全会一致で(17日)
―― 新設の消費者庁と同格の「消費者委員会」なるものがよく解らなかった。二重行政か屋上屋ではないかと訝(イブカ)ったが、要するに『お目付役』らしい。10人以下の民間人有識者で構成され、関係省庁から情報を取ることができ、関係者に報告・回答を要求する権限、首相に対する是正勧告もできる。縦割りの省庁を跨ぎつつ動かねばならぬ性格上、将来省に格上げされるまでは必要かもしれない。ともかく名目上は12省庁の中で唯一働く者に軸足を置いていた厚労省に、もうひとつ国民目線が加わる。喜ばしいが、単なるコンシューマーのクレーム処理機関にならぬよう願いたい。

●民主・選挙区の世襲制限
 次の総選挙から同じ選挙区での親族の立候補禁止を決める(23日)
―― 自民党が4割だの、民主党が1割だの、首相が連続して2世、3世だのと喧(カマビス)しい。しかし考えてみれば、ひとつの国家、社会が60年間もシャッフルされずにくれば、こうなるのは至極当たり前の成り行きだろう。人物本位だとする見方もあるが、出自がアプリオリな格差となる社会は平等とはいえない。社会全体のパワーを削ぐ。ひとつの智慧として世襲で永らえてきた伝統文化の世界にも、最近は新しい風が吹き始めている。事は永田町に限らない。経済的格差が就学の機会を不平等にする現実もある。「機会の平等」をどう確保するか。戦争などというおぞましいシャッフルではなく、何か知恵を絞らねばなるまい。同じ穴の狢である永田町の面々には期待薄だが。

●ポスト京都、日本提案
 地球温暖化対策の国際枠組み作りで新議定書原案を国連に(24日)
―― エコは今や世界をひれ伏させる『印籠』となりつつある。(前稿を参照されたい)

<経 済>
●3月の日銀短観、大企業製造業の景況感が過去最悪
 74年の調査開始以来(1日)
―― 日立も「集中と選択」へ路線変更するそうだ。

●G20の金融サミットが首脳宣言を採択
 10年末までに世界の経済成長率を2%に(2日)
―― G7からG20の時代に。Gとは「グループ」の頭文字だが、数字が増えるほどGの意味が薄れる。喜ばしいことではあるが、舵取りは余計に難しくなる。

●10年ぶりに新規の高速道路建設を認める
 国交相の諮問機関、抑制から転換(27日)
―― 100年に一度の天佑によるものであろうが、元の木阿弥では困る。

●米ゼネラル・モーターズ(QM)が米政府に「国有化」を提案
 追加リストラ策も(27日)
―― クライスラー問題では、オバマ大統領の粘り強い水面下のネゴがあったらしい。なにせクルマは大国アメリカの基幹産業だ。どうソフトランディングさせるか、大きな難事である。

<国 際>
●北朝鮮ミサイル発射
 テポドン2改良型とみられる(5日)。国連安全保障理事会が非難の議長声明(13日)。 北朝鮮が6者協議離脱表明(14日)
―― 先月13日、本ブログ「成功は失敗の母」で取り上げた。議長声明は成果だが、NKの反発も想定の内であろう。当面はさや当てが続く。

●タイで東南アジア諸国連合(ASEAN)会議中止
 デモ隊乱入、政府が非常事態宣言(11日)
―― タイの国内事情については、本ブログ「2008年11月の出来事から」で触れたことがある。引用する。〓〓タイで空港占拠 反政府団体が首都近郊の2空港を占拠し、閉鎖に追い込む ―― 四捨五入していえば、この国の政争は都会と農村の争いである。タクシンの流れを汲む現政権が農村を、空港を占拠した反政府勢力が都会の利権を代表する。まさに国が二分される争いだ。
 振り返ってみれば、戦後日本も同じ轍を踏んでもおかしくはなかった。農村から人を都会に吸い込み、地方との格差が生まれた。ただ国を二分するまでには至らなかった。おもしろいというか、うまかったのは政治的発言力を地方に厚く配した点である。外にも要因はさまざまあるが、戦後日本の大いなる知恵であった。〓〓現政権のアピシット首相は「都会派」である。今度は攻守が逆転した。赤と黄色の根深い対立は続くが、前回も今回も流血の大惨事にまでは至らなかった。どこか抑制が利いているのは、優れた国民性と見たい。

●新型インフルエンザ拡大
 メキシコで感染が疑われる死者100人以上。世界保健機関(WHO)が警戒レベルをフェーズ5に(29日)
―― 5月2日付の「天声人語」を引く。
〓〓物理学者の寺田寅彦を思い出す。あるとき浅間山の噴火に遭遇した。人々の様子を見て、〈ものをこわがらな過ぎたり、こわがり過ぎたりするのはやさしいが、正当にこわがることはなかなかむつかしい〉と書き残している▼狭い国土である。通勤電車ならずとも、人は鼻突き合わせ、袖すり合わせて暮らしている。お互いのために高をくくらず、恐慌をきたさず、正しくこわがりたい。〓〓
 「正しくこわがりたい」が言い得て妙だ。

<社 会>
●週刊新潮・誤報認める
 朝日新聞襲撃事件の自称「実行犯」の手記めぐり謝罪(15日)
―― 続報がある。
〓〓新潮社は(5月)1日までに、朝日新聞阪神支局襲撃事件の実行犯を名乗る島村征憲氏の「告白手記」を掲載した週刊新潮の誤報問題に関して、佐藤隆信社長以下全役員の報酬を3カ月間減俸する処分を決めた。1日付で、佐藤社長と早川清・週刊新潮前編集長(取締役)は20%、ほかの取締役7人は10%の減俸。
 処分をするかどうかをめぐっては新潮社内でも意見が分かれていたが、誤報を4週にわたり掲載した出版社としての責任を経営陣がとることになった。
 週刊新潮は1月下旬から4回、島村氏の手記を載せた。だが4月16日発売の23日号で手記は誤報だったと認め、早川編集長(当時)名の「おわび」記事を掲載している。〓〓(5月1日 asahi.com)
 これはおかしい! 大いにおかしい! なぜなら、減俸分の金はどこへ行く? いずこへか寄付するという話はない。社内に留保されるとしたら、火事太りではないか。こちらにとっては、泥棒に追銭だ。

●大リーグ、マリナーズのイチロー新記録
 日米通算3086安打。日本プロ野球最多抜く(16日)
―― 抜いた張本への丁寧な挨拶が印象的だった。かつて野村監督は「50年に一人の選手だ」と絶賛した。もうすでに50年ははるかに越え、「世紀」を献辞する域に達した。韓国にとっては天敵であろうが。

●和歌山カレー事件、死刑確定へ
 最高裁が林真須美被告側の上告を棄却(21日)
―― 4月22日付本ブログ「あの人は今?」で触れた。

●SMAPの草剛さん、公然わいせつ容疑で逮捕
 酔って、公園で全裸に(23日)
―― 4月29日付本ブログ「いいひと。」に記した。

<哀 悼>
●上坂冬子さん(ノンフィクション作家で評論家)78歳。(14日)
―― ずいぶん右端の方に座ってらしたおばさんだった。それ以外に印象はない。

●大内力さん(日本の代表的なマルクス経済学者で東大名誉教授)90歳。(18日)
―― 「おおうち つとむ」氏である。「おおいし ちから」(大石主税)と誤読して赤っ恥をかいたことがある。マルクスを冠する学者が稀少になりつつある昨今、ひとつの象徴的訃報でもある。

(朝日新聞に掲載される「<先>月の出来事」のうち、いくつかを取り上げました。見出しとまとめはそのまま引用しました。 ―― 以下は欠片 筆)□


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この印籠が目に入らぬか! 

2009年05月04日 | エッセー
 TBSの「水戸黄門」、1000回を超えたのは6年前。今年が放送40周年、3月で第39部が終わり、今夏から第40部が始まるそうだ。『超』長寿番組である。同時に、『超』マンネリ番組でもある。長生きの秘訣は、ルーチンのごときプロットが観る人の安心を誘うからかもしれないし、型通りの勧善懲悪が毎度のカタルシスをもたらすからともいえる。
 ただ、定番のように出て来る悪代官は史実に反する。江戸時代に貪官汚吏は極めて稀だった。年貢を徴収し、土木工事を進め、農政や治安を担当する代官はエリート官僚であり、身持ちのいい優秀な人材が選ばれた。同様に黄門様の漫遊も創作である。
 ともあれ「ナショナル」が「パナソニック」に名を改めようとも、「黄門様」は不変である。不変といえば「印籠」も不変、お出ましになる時間も8時45分と決まっている(2、3分前後の差はあるが)。確かめたわけではないが、千数十回の放送で印籠の出なかったものは一度もないと断言できる。これが出ると、いかな殿様であろうともぐうの音も出ない。ちなみに「ぐう」とは、押さえ付けられて苦しい時に発する奇声のオノマトペアだそうだ。まさにのたうつ悲鳴も出ないほどの絶大な権威である。問答無用の断罪が行われ、「悪者たち」はひたすらに平身低頭して身を縮める。ここで事は一件落着する。そして、御一行の旅は続く …… 。
 忘れてならないのは、そこまでの45分間である。町の様子が描かれ、人物の設定がなされ、密かな悪だくみが練られ、実行されていく。利害が絡み、愛憎が乱れ、事件が起こる。真相の究明がすすみ、悪事が露見し、ついにクライマックスへ。と、これが45分間である。もしもこの45分間がなかったとしたら、つまり謀議の場面でいきなり御一行が乗り込み、印籠が出されたとしたらドラマの体(テイ)をなさない。遅くとも8時10分には物語は終わる。よく冗談めかして「最初から印籠を出せば、ごたごた面倒臭くなくていいのに」と言う向きがあるが、それでは「話にならない」のだ。
 実は、その「話にならない」ことが横行している。以下に紹介する書籍に詳しい。

 「思考停止社会」 ―― 講談社新書、本年2月の発刊である。著者は、郷原 信郎(ゴウハラ ノブオ)氏、同書のプロフィールによると、
  ―― 一九五五年、島根県松江市生まれ。東京大学理学部卒。東京地検特捜部、長崎地検次席検事、法務省法務総合研究所総括研究官などを経て、二〇〇五年より桐蔭横浜大学法科大学院教授、〇六年弁護士登録。〇八年、郷原総合法律事務所開設。警察大学校専門講師、公正入札調査会議委員(国土交通省、防衛省)、標準報酬遡及訂正事案等に関する調査委員会委員(厚生労働省)なども務める。著書に『「法令遵守」が日本を滅ぼす』(新潮新書)、『入札関連犯罪の理論と実務~談合構造解消に向けての捜査のすべて~』(東京法令出版)、『独占禁止法の日本的構造~制裁・措置の座標軸的分析~』(清文社)などがある。 ―― とある。
 「はじめに」で、次のように述べる。(抄録)
〓〓このような「八時五分に印籠が登場するドラマ『水戸黄門』」と同じことが、今、日本の社会のあらゆる分野で起きています。何か問題が表面化すると、事実の中身やその背景や原因などより、法令に違反したかどうかが問題にされ、法令違反はいかなる理由があっても許されません。それと同様に、「偽装」「隠蔽」「改竄(改ざん)」「捏造」に当たる行為を行った者は一切弁解はできません。問答無用で厳しい批判、非難が浴びせられます。「法令遵守」は、水戸黄門の印籠と同じように絶対的な権威を持っています。この「印籠」が向けられると、それを行った者は、その場にひれ伏し、悔い改めるしかないのです。
 法令が印籠だとすると、本来、印籠を出す立場にあるのは、裁判所のはずなのですが、法令によって権限を与えられた行政庁が命令という「印籠」を出すことや、法令上は何の権限もないマスコミが、「印籠」を出すということも多くなっています。このようなにわか「助さん」[格さん」が出す印籠に対しても、人々は何も考えないで、ただただひれ伏して従うという態度をとり続けています。こうして日本人全体が陥っている思考停止が、今、日本の社会を大きく蝕んでいます。物事が単純化され、本質が見失われ、一面的な評価が行われることで、日本の社会に生じる.矛盾、弊害はどんどん大きくなり、国の、そして、社会全体のパワーが確実に低下しています。〓〓
 この問題提起に続いて、いくつかの事例をもとに考察が進められる。章を追うと ――
  ◆食の「偽装」「隠蔽」に見る思考停止
  ◆「強度偽装」「データ捏造」をめぐる思考停止(筆者注:耐震強度問題)
  ◆市場経済の混乱を招く経済司法の思考停止
  ◆司法への市民参加をめぐる思考停止(筆者注:裁判員制度)
  ◆厚生年金記録の「改ざん」問題をめぐる思考停止(筆者注:「消えた年金記録」とは別)
  ◆思考停止するマスメディア
  ◆「順守」はなぜ思考停止につながるのか―― とすすみ、
〓〓必要なのは、問題の背景になっている状況を正確に認識し、価値観を共有することです。食品をめぐる問題についても、建物や構造物の性能に関する問題、年金をめぐる問題についても、根本的には、それがどういう問題なのかが関係者や市民に理解されていないために誤解が生じ、それが不信の連鎖につながっているのです。〓〓
と問題を括り、「コンプライアンス」の真義を解明していく。実に冷静で明晰な内容である。別けても、本ブログで何度か取り上げた裁判員制度の問題やテレビメディアの独善についても綿密に分析がなされている。
 07年に不二家問題が起こる3ヶ月前、06年10月27日付本ブログ「お客様は神様です!」で、わたしは次のように記した。
〓〓国民の代表面(ヅラ)はいただけない。迷惑だ。はっきり言おう。河原乞食風情に代表、代弁を頼んだ覚えなぞない。大衆の代表を気取るなら、代議制のシステムに則り選挙に出たらどうだ。いまやマスコミは第四の権力となり、不可侵を嘯(ウソブ)く。容易に矢は届かない牙城だ。それをいいことに、盲滅法な腰だめは御免蒙る。
 時間的制約からの単純化、映像メディアであるための印象化、観られてなんぼであるゆえの視聴率ねらい ―― これらはテレビの抱える宿痾である。現代社会は未聞の複雑系だ。単純化は危険なのだ。簡単に四捨五入はできない。四捨が全体の死活を握る場合がある。イラク戦争を見れば分かる。善玉、悪玉の二元論は底知れぬ泥沼に足を取られる結果となった。体制の転覆が病巣の一刀両断にはならない。骨は折れても、複雑系では複眼思考こそが必須なのだ。単純化はポピュリズムの陥穽に直結する。いつぞやの宰相のように。〓〓
 本書にはTBSの「朝ズバッ」みのもんた暴言問題も克明に綴られている。本ブログでは07年6月9日付「今時、蓑は着ないでしょう」で糾弾した。だから一層、意を強くした。
 錦の御旗といってもいい。「権威」を振りかざして一切の弁明を奪い、沈黙を強いる。沈黙どころか、思考停止に陥らせる。現代日本の抱える深刻な病理だ。思考停止は理非曲直を明らかにすることなく、白紙委任することだ。その先には、集団心理に呪われた付和雷同の軽挙妄動が俟つだけだ。
 もう一度繰り返そう。「現代社会は未聞の複雑系だ。単純化は危険なのだ。」歯切れのよい一刀両断は、かえって危ない。「ズバッ」といかない世の中で「ズバッ」」なぞあり得ない。そういう手合いには端っから疑ってかかったほうが得策だ。「単純化はポピュリズムの陥穽に直結する」からだ。今を生きるわたし達は、印籠」自体を疑う慎重さが必要だ。思考停止は責任転嫁でもある。
 「話にならない」話を静かに解きほぐす「警世の書」として、ぜひ本書をお勧めしたい。 □


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