25日、胸騒ぎとともに目覚めた。本人にメールするも返信がない。夜まで待って奥さんに電話をする。病状は予断を許さないと言う。コロナで付き添うことも叶わず気が気ではないと……。
27日朝、奥さんから訃報が入った。25日の電話の直後、様態が急変し遂に力尽きたと。
言葉がない。駆けつけたいが、東京では無理だ。容赦なく慟哭が波状をなす。涙腺は堰を切ったままだ。走馬灯のように、来し方、数々の場面が巡る。堪えきれないおかしみは涙が受け止めるが、かなしみは昂じても嗤いに至るわけではない。かなしみの中に沈み込むほかにはない。
“Take a sadsong and make it better”(HEY JUDE)
いまにして骨身に滲みる。
養老孟司氏はこう言う。
〈考えるべきは「一人称の死」ではなく「二人称の死」「三人称の死」です。自分の死ではなく、周囲の死をどう受け止めるか、ということのほうが考える意味があるはずです。〉(「死の壁」から)
独特の語り口ゆえ戸惑うが、「考える」とは哲学のメインテーマを棚上げしているのではない。「一人称の死」は事後的には思慮が及ばないという常識を語っているだけだ。
辛辣なのは「二人称の死」である。「三人称の死」は打っ遣っておけるが、二人称の途絶は否応なく直撃してくる。
大手出版社勤務の経験を元に本ブログにもさまざまなサジェッションをいただいた。最大の理解者であった。言葉少なに、
「いいんじゃない」
「オレは分かるよ」
とつぶやきを送ってくれた。
哲学者 鷲尾清一氏は語る。
〈「つぶやき」とはいきなり議論を吹っかけるとか質問するとかではない。本来だれにも向けられていないことばで、ぼそっと、じぶんで漏らすのです。でも、そのことばにふれた人が、ぐっとにらみ返すとか、あるいはことばを返してくれる。とにかくさわってくれたときに、その「つぶやき」が次の「語らい」へと、もう一段ステージを上げていくきっかけになる。〉(「だんまり、つぶやき、語らい」から)
二人称の極地はつぶやきでさわることだ。そう氏は訓える。まったくその通りの先輩であった。
癌の発病以来、長い長い闘いだった。俳句にも長じていた大兄は病の床から一句を世に投じている。
一病と闘う夏や五分刈りに
阿井 結太
それから幾つかの夏が過ぎ、冬を迎えて一病と永訣し、その刹那生者の列を静かに離れた。見事な闘いであった。不肖の後輩はただ慌てふためき、慟哭するばかりだ。またどこかで会いたい。いや、きっと会える。
合掌