伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

慟哭、大兄に捧ぐ

2022年01月28日 | エッセー

 25日、胸騒ぎとともに目覚めた。本人にメールするも返信がない。夜まで待って奥さんに電話をする。病状は予断を許さないと言う。コロナで付き添うことも叶わず気が気ではないと……。
 27日朝、奥さんから訃報が入った。25日の電話の直後、様態が急変し遂に力尽きたと。
 言葉がない。駆けつけたいが、東京では無理だ。容赦なく慟哭が波状をなす。涙腺は堰を切ったままだ。走馬灯のように、来し方、数々の場面が巡る。堪えきれないおかしみは涙が受け止めるが、かなしみは昂じても嗤いに至るわけではない。かなしみの中に沈み込むほかにはない。
 “Take a sadsong and make it better”(HEY JUDE)
 いまにして骨身に滲みる。
 養老孟司氏はこう言う。
〈考えるべきは「一人称の死」ではなく「二人称の死」「三人称の死」です。自分の死ではなく、周囲の死をどう受け止めるか、ということのほうが考える意味があるはずです。〉(「死の壁」から)
 独特の語り口ゆえ戸惑うが、「考える」とは哲学のメインテーマを棚上げしているのではない。「一人称の死」は事後的には思慮が及ばないという常識を語っているだけだ。
 辛辣なのは「二人称の死」である。「三人称の死」は打っ遣っておけるが、二人称の途絶は否応なく直撃してくる。
 大手出版社勤務の経験を元に本ブログにもさまざまなサジェッションをいただいた。最大の理解者であった。言葉少なに、
「いいんじゃない」
「オレは分かるよ」
 とつぶやきを送ってくれた。
 哲学者 鷲尾清一氏は語る。
〈「つぶやき」とはいきなり議論を吹っかけるとか質問するとかではない。本来だれにも向けられていないことばで、ぼそっと、じぶんで漏らすのです。でも、そのことばにふれた人が、ぐっとにらみ返すとか、あるいはことばを返してくれる。とにかくさわってくれたときに、その「つぶやき」が次の「語らい」へと、もう一段ステージを上げていくきっかけになる。〉(「だんまり、つぶやき、語らい」から)
 二人称の極地はつぶやきでさわることだ。そう氏は訓える。まったくその通りの先輩であった。
 癌の発病以来、長い長い闘いだった。俳句にも長じていた大兄は病の床から一句を世に投じている。

   一病と闘う夏や五分刈りに
                                 阿井 結太

  それから幾つかの夏が過ぎ、冬を迎えて一病と永訣し、その刹那生者の列を静かに離れた。見事な闘いであった。不肖の後輩はただ慌てふためき、慟哭するばかりだ。またどこかで会いたい。いや、きっと会える。

合掌


<承前>8000キロの彼方から

2022年01月23日 | エッセー

 以下、昨日付朝日新聞から抄録。
〈灰色の町、トンガの強さ すぐ避難、互いに支え合い 噴火1週間
 南太平洋のトンガ諸島で海底火山が噴火してから22日で1週間がたつ。途絶えていた通信が少しずつ復旧し、噴火直後の様子や被害の広がりが明らかになってきた。がれきの撤去や飲料水の不足など課題は多いが、現地の人たちは「試練に立ち向かおう」と支え合う。国際支援も始まっている。
 20日には、トンガ国王のツポウ6世が国民向けにラジオ声明を出し、「災害は避けて通れない道で、全国民が悲しみを分かち合っている。一番大切なのは私たちが協力し合うこと。試練に立ち向かいましょう」と呼びかけたという。
 「トンガの人々はポジティブに物事を考えることができる。現地で確認された死者は21日昼時点で3人だ。オーストラリアの在トンガ高等弁務官は豪メディアに「壊滅的な被害なのに(死者は)驚くほど少ない。人々は(津波に備えて)何をすべきか分かっていた」と語った。〉
 トンガは170を超える島嶼を統べるポリネシアの王国である。ほとんどの島がホワイトビーチと珊瑚礁に囲まれ、陸には熱帯雨林が広がる。人口10万余(20年)。GDP630億円、181カ国中176位(13年)。国家予算が195億円(17年)。決して豊かな国ではない。むしろ貧国にカテゴライズされる。なのに奪い合うのではなく支え合い、協力し合っている。同国で災害関連の犯罪が起こったとは寡聞にして知らない。きっと一件もないはずだ。
 なぜ奪い合いがないのか。理由は簡単。お互い、顔見知りばかりだからだ。それにほぼ全てがポリネシア系で、篤いプロテスタントである。175年前、島々を統一したトゥポウⅠ世がそうであった由縁か。
 ポジティブなのは南方の空とプロテスタントとのシナジーか。蒼穹を見上げホワイトビーチと珊瑚礁を書割にして人がペシミスティックになるわけがない。5人に4人が肥満体なのは民族的DNAに因るものであろうが、堂々たる体躯に陰陰たる心性はもっとも遠い。
 失礼を承知でいうと、みんなが頃合いに貧しく塩梅よく仲がいいのだ。肝心なのは「みんなが」である。みんながそうなら、レベルは低くても余計なフリクションは惹起しない。大袈裟にいえば、資本主義・格差社会の向こうに目指すべきコモン社会の先駆的一例証といえなくもない。
 本物の金持ちは他人(ヒト)を見下さない。本物の貧乏人は他人を羨まない。双方の間(アワイ)にいる中途半端な貧乏人と成り上がりが金持ちを嫉み貧乏人を蔑む。この場合、本物とは精神的出自をいう。喰えない武士が咥えた高楊枝である。ならば、中途半端な貧乏人と成り上がりが席巻する本邦はトンガを大いに範とすべきではないだろうか。
 「国力とは、よけいな装飾をすべて削り落として言えば、復元力のことです」とは内田 樹氏の箴言である。8000キロの彼方から復興への勇壮なシピタウが聞こえる。 □


津波!?

2022年01月17日 | エッセー

 目覚めてメールを開いて驚いた。市の防災メールが十数本、津浪速報を配信していた。
 8000キロ離れたトンガ諸島の海底火山で起こった大噴火によるものという。大地が動いたのではなく、大空の急激な気圧上昇が原因らしい。真空パックが一気に破れたようなものか。地震は下からだけではなく、上からも襲ってくる。火星探査はできても、足元はわづか12キロの掘削が最深である(ロシアの地殻調査ボーリング)。万物の霊長とふんぞり返っていても、所詮下も上も盲漠たる住処(スミカ)に居するか弱き生き物であると自覚すべきであろう。
 気象庁は「津波かどうか分からない」と発表した。広辞苑第七版には、「地震による海底陥没や隆起、海中への土砂くずれ、海底火山の噴火などが原因で生ずる水面の波動。海岸付近で海面が高くなり、湾内などで大きな災害をひき起こす。」とある。「海底火山の噴火」とはあるが、空気振動とまでは読みづらい。定義にないものは気象庁も困るだろう。ブラジルでの蝶の羽ばたきがテキサスでトルネードを引き起こすというバタフライ効果を持ち出すにしても、事があまりに大きすぎる。
 それはさておき、「tsunami」だ。「syoyu」「tatami」のように日本語から他言語に取り入れられた言葉を「外行語」「外往語」と呼ぶ。外来語の逆だ。醤油や畳は日本独自だから頷けるが、「seismic sea wave」と言わず、「tsunami」になったのは東北大震災での生々しい津波映像のインパクトか、言葉の短縮化であろうか。
 ともあれ、ユーラシア大陸の辺境に位置する日本は飢えるがごとく中央の文化を渇してきた。漢文訓読はその典型である。漢文をネイティブに発語せず意味が同じ日本語で読んで中身を把握する世界史的偉業である。

 オー  イエス    メー     ゼーン    ガウ    ツウー
 O   yes. May Jane  go, too? 
 一    二        四       一         三      二
 ヲー   然リ      得ルカ   ゼーンガ   行キ    亦

 これは一体何か!? 漢文訓読に倣った「欧文訓読」である(幻冬舎新書「日本語の大疑問」から引用)。返り読みをするように英文が「ゼーンガ亦行き得ルカ」と読み下される。漢数字はレ点替わりだ。上記は明治期のものだが、江戸時代すでに蘭学習得に伴うオランダ語文献の解読から始まっていた。単に訳文が目的ではない。原文を崩さずにその構造を把持する狙いがあった。欧文訓読は江戸の先達たちが渇して水を求めた輝ける向学の結晶であった。
 開国から150四年を経て、外来語はカタカナ表記でそのまま日本語の中に溶け込んでいる。「グローバリゼーション」「ロックダウン」、「ブースター接種」然りだ。英語教育が定着して、訳語を跨いでリープフロッグしたに相違ない。
 津波からリープフロッグへ。話柄は飛んだが、『トンガtsunami』は太平洋を軽く一跨ぎ。1000年に一度の大噴火は津波の謎を残したままだ。 □


正月諸相

2022年01月12日 | エッセー

 年賀状にその年の干支をフィーチャーするようになって数十年になる。ここ3回の寅年には寅さんにご登場願った。没後2年目の1998年には、寅さんのイラストに「レントゲンだってね、ニッコリ笑って映した方がいいの。だってその方が明るく撮れるもの」と言う吹き出しを付けた。2010年には吉永小百合とのツーショット ポスターを借用した。わがふる里が舞台となった作品である。そして本年2020年は「アメリカから来たTORAさん」と題して同い年でもあるリチャード・ギアを配した。吹き出しは初回の名言を英訳で記し、グローバル次代を気取ってみた。ギアはサントリーのCMに外国人版寅さんで起用されたことがある。
 4回目はおそらくあるまい。寅さんネタはもう尽きたし、こちらの歳がとても追いつきそうにない。
 尾身さんが時の人となったコロナの最新変異株が「オミクロン」。尾身とオミ、冗談かと耳を疑った。アルファ、デルタと来て、イプシロン、イオタ、ラムダなどギリシャ文字のアルファベットを使ってきたが、WHOは次のニュー、クサイを飛ばしてオミクロンと命名した。
 朝日新聞は「ニュー nu」は英単語の「new」と混同されやすく、「クサイ xi」は習近平の「習」の字も英語で「xi」と記されるから避けたと、WHOの気遣いを報じている(11月26日付)。そのWHOも尾身さんまでには配慮が至らなかったらしい。
 初売りで冷蔵庫を買い替えた。懐はいつも充分冷え切っているのだが、老朽化に加え冷凍室が手狭になったため骨折覚悟で清水の舞台から飛び降りた。コロナの煽りを食って去年から冷凍食品が急増した。最近の冷食は品揃えも豊富、クオリティも格段に上がっている。町内にある中華料理屋さんのチャーハンよりは数段旨く、数段安い。喰わない手はない。結果これもあれも、いろんな冷食が増えた。わが家においてコロナは遂に冷蔵庫にメタモルフォーゼしたといえる。
 お年玉と称して、毎年元旦早々この年金生活者から大枚を巻き上げていく不届きな輩がいる。松葉杖をついた荊妻への見舞いも持たずにやって来て、用が済むとさっさと引き上げる。知ってか知らずか、連れ合いからは礼のひと言もない。内田 樹氏がいう「反対給付義務を感じないものは人類学上人間とは呼べない」の典型であろう。年明け一番、噛んで含めて説教ともいかず、仕方なくわが臍を噛んでいる。近ごろはこの種の自己チューで視野狭窄の手合いが増えているようで、なんとも悲しい。
 愚妻が治療中であり、今年のおせちはスーパーの出来合いにした。新聞の折り込み広告を見て予約したのだが、現物は予想外に小さい。看板に偽りありかと中身を検めると、これが意外にも看板に偽りなし。小振りではあるものの品数豊富、一品一品が丁寧に作り込まれている。満足のいく味。こちらは裏切られずに済んだというか、お釣りまでもらった気持ちになれた。スーパーといえども徒や疎かにはできない。先入観を捨てよ、レディーメイド、畏るべしだ。
 年が明けて最初に読んだ本は養老孟司先生の『ヒトの壁』(新潮新書)だった。印象に残ったのは次の一節。
〈郡司ペギオ幸夫の『天然知能』には、人は育つ過程で「おのずから」から「みずから」に変化するとある。この変化を一・五人称だと規定する。三人称、一人称。どちらともとれる、あるいはどちらでもないから、一・五人称。
 戦後になれば、あんな戦争は負けるに決まっていただろ。それが理屈であるはずなのだが、実際にはその理屈が通らなかった。「洵(まこと)二已ムヲ得サルモノアリ」という客観性が理屈を打ち負かしてしまった。〉(抄録)
 「おのずから」は天然に属すこと、「みずから」は意志に属すこと。両者が未分離の曖昧な状態を一・五人称と呼ぶ。当然、責任の所在は不明確になる。狡いと言えばそうだが、それが育つということらしい。
 月や曜日は人為的な区切りだが、年と日は天然自然のそれである。今日は睦月12日。まだ353日も残っているとするか、たった12日しか経っていないとするか。一・五人称を斥けていささか格好よく大見得を切れば、後者でありたい。 □


「輝山」

2022年01月07日 | エッセー

〈かつて井戸平左衛門は、江戸表の指示を待たずに領内を巡り、人々の苦衷を救ったという。寺での薬湯配布となれば、仮に勘定所から見答められたとて、公の賑給ではなく仏前への寄進だったと言いわけが立つ。岩田はあくまで代官としての立場を忘れず、人々を救う策を勘案した。正式な返答が勘定所から寄せられ次第、大掛かりな賑恤に切り替える腹に違いない。〉(抜粋)
 岩田代官は素を韜晦する知恵者である。舞台はのち世界遺産となっった石見銀山。代官所中間である金吾の目を通して、銀鉱という異界を生きる人間群像が鮮やかに描き取られていく。
 井戸平左衛門は40余年前、杉本苑子によって「終焉」で描かれた。享保の大飢饉を年貢米の免除、減免、蔵米の放出、さらには幕府の禁制を破って薩摩芋を普及して済民した大森代官である。「いも代官」と賞揚され、薩摩芋の恩恵に与った中国4県に500基以上もの顕彰碑が建つ。「終焉」は史実に基づく史伝文学だが、こちらは創作性が強い時代小説、あるいは歴史小説といえよう。附会するなら、18世紀中葉各地の治水、復興事業で功績を挙げ、石見銀山代官と転じて父子2代に亘って銀山経営に大鉈を振るい「中興の祖」と崇められる川崎平右衛門がモデルといえなくもない。さらに我が田に水を引くならば、「終焉」との視線を変えたデュオロジーともいいたい。
 こちらとは。澤田瞳子 『輝山』である。昨年9月、徳間書店より発刊された。作者は母子2代に亘る作家。昨年、『星落ちて、なお』で直木賞を受けた。
 かつて博多の商人が沖合を航海中、石見山中に眩しく輝く山を発見し銀の鉱脈を得た。それが「輝山(きざん)」の由来だ。名は輝かしくとも、町は短命という抗い難い宿業に覆われている。気絶(けだえ)だ。坑道内のガスや湿気、油煙、粉塵による肺疾患である。40歳を越える掘子は皆無に近い。金吾行きつけの掘子相手の飯屋の喧噪は気絶の対極にある。だがそこは生と死がシンクロナイズする空間でもある。作者はこの飯屋を回り舞台の心棒のようにして物語を推していく。見事なドラマツルギーだ。
 物語の終盤、金吾と気丈な飯屋の仲居が語る。
〈金吾の目には、その腹中に無数の間歩を穿たれながらも、いまだ細々と銀を生み出す山嶺が不気味と映りこそすれ、光り輝いて見えたことなぞ一度とてない。だがこの地を離れられず、仙ノ山とともに生きねばならぬ掘子たちには、そんな御山がありがたい輝ける山と見えるとは。「あたしもあんたも、この町じゃあよそ者だ。だから掘子衆の心の隅々まで分かっているとは、あたしだって言いはしないよ。けどだからこそお互い、あいつらへの勝手な推量はかえって無礼ってものじゃないか」〉
 気絶という宿痾は否応なく老衰のはるか手前で掘子たちの生を奪う。判っていながら、彼らはなおも死と背中合わせの間歩(坑道)を掘り進む。まるで入れ子のようだ。血腥い政(マツリゴト)のルサンチマンが併走しても、読後胸を満たす清涼感は掘子たちの勲(イサオシ)にちがいない。だから「勝手な推量はかえって無礼」なのだ。
 物語はそのように結末し、時去った今、輝山はすっかり褪(ア)せた。金吾が奔走した町の賑わいも歴史の後景に退(シリゾ)いた。想像を掻き立てるには、最早このような秀作を便(ヨスガ)とする他はない。 □


危機回避

2022年01月02日 | エッセー

 昨年
▼ 8月 小田急線で乗客が男に刺される事件
▼10月 京王線で乗客が切りつけられる事件
▼11月 JR福島駅で女性が刃物で切りつけられる事件
▼12月 大阪でビル放火事件
 正月早々縁起でもない話だが、陰惨な事件は縁起でもなく起こる。
 マスコミは犠牲者や犯人については囂しく報じるが、難を逃れた人についてはほとんど伝えない。そのはずだ。ニュースソースがないからだ。募集する手もあるが、ある種の負い目からか応じる人はいないだろう。
 縁起でもない事件は起きないに越したことはないが、それでも起こる。ではどう対処するか? 凡愚の頭を絞ったところ、ひとつだけ答えが浮かんだ。
 凶悪な事件に巻き込まれない唯一の方法はその場にいないこと。これしかない。
 一笑に付されそうだが、他にあったらご教授願いたい。
 リスクは予知も回避も可能だが、デインジャーはそうはいかない。サッカーで残り1分で1点のビハインドはリスクだが、ゴジラに襲撃されて競技場が踏み潰されるというデインジャーには対処不能だ──そう譬えて語る思想家 内田 樹氏はこう続ける。
〈だが、そういう場合でも、四囲の状況を見回して「ここは危ない、あっちへ逃げた方が安全だ」というような判断ができる人間がいる。こういう人はパニックに陥って腰を抜かす人間よりは生き延びる確率が高い。
 でも、いちばん生き延びる確率が高いのは、「今日はなんだかスタジアムに行くと『厭なこと』が起こりそうな気がするから行かない」と言って、予定をキャンセルして、家でふとんをかぶっていた人間である。WTC(世界貿易センター)テロの日も、「なんだか『厭なこと』が起こりそうな気分がした」のでビルを離れた人が何人もいた。彼らがなぜ危機を回避できたのかをエビデンス・ベースで示すことは誰にもできない。〉(「呪いの時代」から抄録)
 前段は才能と訓練で身に付ける能力といえる。しかし、後段は太古ヒトにサバイバルを可能にさせた天賦の能力である。「エビデンス・ベースで示すことは誰にもできない」とはおそらくその謂であろう。フィジカルには極めて脆弱な生き物であるヒトが生き延びるためには危機回避は必須の能力であった。『ゴジラ』がいるところには絶対近づいてはならないのだ。これは獲得ではなく、生来優れて残っているか、賦活するかである。加えて、賦活には武道が最適と氏は訓える。
 第六感とも体感センサーともいえるが、デジタル社会の果てに開闢のポテンシャルが浮上するとは難儀な時代である。
 ともあれ、何も起こらなかった日常がどれほど幸せか。いささか故習染みた自戒で年明けの初稿を締め括りたい。 □