伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

能力とは悩力なり

2008年06月27日 | エッセー
 ごく一部の偏屈者を除いて、団塊の世代は「サユリスト」である。銀幕のヒロイン、イコール小百合であった。青春の歌姫、イコール小百合であった。知性と美貌を兼備した沈魚落雁、真正のマダァンナ(注:発音に忠実に表記)、イコール小百合であった。かつ半世紀を超えてなお女優として微塵も揺るがぬステータスを堅持し続ける。口の悪い手合いは「ばけもの」などと『讃辞』を呈するが、老いてなお輝くというに停まらず老いてさらに輝いている。そのマダァンナが「生きること、悩むことの大切さが、静かに、力強く伝わって来ました」と推薦のコメントを寄せている。読まずにいられようはずがない! 
 姜 尚中著「悩む力」 集英社新書。著者、初めての「生き方本」との触れ込みで、先月下旬発刊。すでに10万部を超えたという。
 団塊の世代は昭和22~24年の生まれと定義される。姜氏は昭和25年の生まれだから、わずかに「団塊の世代」から外れる。しかしいまや、ひとつふたつの違いはネグってよかろう。事ここに至れば、大差はない。
 集英社の営業を邪魔しない範囲で、全10章のそれぞれをサワリだけ紹介する。


序章 「いまを生きる」悩み
 本書では、誰にでも具わっている「悩む力」にこそ、生きる意味への意志が宿っていることを、夏目漱石と社会学者・マックス・ウェーバーを手がかりに考えてみたいと思います。

  …… なぜ漱石なのか、ウェーバーなのか。しだいに明らかになる。ウェーバーは専門分野だが、漱石もこの人の著作にはよく出てくる。

第一章 「私」とは何者か
 他者と相互に承認しあわない一方的な自我はありえないというのが、私のいまの実感です。もっと言えば、他者を排除した自我というものもありえないのです。

  …… 一冊、いや一体系を費やしても語り尽くせないテーマである。『自己チュー』との対比から自我を位置づけ、漱石の「心」を軸に自らの体験を語っていく。目から鱗の鮮明さをもって難題にヒントを提示する。

第二章 世の中すべて「金」なのか
 十九世紀末から二十世紀のとば口にかけて資本主義は質的に変容し、日本だけでなく世界中で露骨に本性をあらわしつつありました。漱石はその様相に目を凝らしていたのです。同じころ、ドイツのウェーバーも資本主義の行方に熱い視線を注ぎ、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」をはじめとする著作をものしました。

  …… 漱石、ウェーバーから一世紀。「労働の報酬」から、自己目的化したカネ。いまグローバルマネーとして地球を席巻する。マネーゲームの現代をどう生きればいいのか?
 もう一点。創生の世代から、「末流意識」を抱く次の世代へ。歴史の大きなうねりの中で、世代間対立は繰り返す。団塊の世代が鬨の声をあげた70年代が重なる。

第三章 「知ってるつもり」じゃないか
 服のポケットにたくさんの紙片を詰めこんでいるような知性。これを、「知ってるつもり」なだけの知性と言ったら厳しすぎるでしょうか。
 高度に科学が進んだ医学についても、ウェーバーはこう言っています。医者は手段をつくして患者の病気を治し、生命を維持することのみに努力を傾ける。たとえその患者が苦痛からの解放を望んでいても、患者の家族もそれを望んでいても、患者が治療代を払えない貧しい人であっても関係ない。すなわち、科学はその行為の究極的、本来的な意味について何も答えない ―― と。

  …… 知性についての警句は、わたしにとっては頂門の一針である。所詮はディレッタントに過ぎぬことを自認しつつ、ペダンティックなトリビアリズムに堕さぬよう自戒していかねばならない。ネット社会は人をして、最高の知が「無知の知」であることを忘れさせる。人類の教師・ソクラテスが残したこの哲学は二千数百年を経ても、なお輝く。否、いまだからこそ光る。
 引用されたウェーバーの言はまさに慧眼である。07年11月26日付の本ブログ「そうは問屋が卸すまい」で隔靴掻痒、未消化に終わった論点を、すでに偉人が剔出してくれていたのだ。まことに真正の知は海のごとく深い。

第四章 「青春」は美しいか
 他人とは浅く無難につながり、できるだけリスクを抱えこまないようにする、世の中で起きていることにはあまりとらわれず、何事にもこだわりのないように行動する、そんな「要領のいい」若さは、情念のようなものがあらかじめ切り落とされた、あるいは最初から脱色されている青春ではないでしょうか。そして、脱色されているぶんだけ、その裏返しとして、ふいに妙に凶暴なものや醜いもの、過度にエロチックなものが逆噴射することになりかねません。最近頻繁に起こる深刻な事件や、ネット上の仮想空間を眺めながら、私はしきりにそう思うのです。

  …… 自身の青春を綴りながら漱石を援用し、いまの「青春」を斬る。死語か、ギャグでしかなくなったこのことばに、再生の息吹を送り込もうとする。

第五章 「信じる者」は救われるか
 ウェーバーや漱石のころにあらわになった「個人」の問題は、その後ますます大きくなって、いま、そろそろ究極の状態に達しつつあるような気がします。ばらばらに切り離された個人個人が、情報の洪水と巨大化したメディアにさらされ、何を信じたらいいのかわからない、何も信じるものがない、と無機的な気分になっているのではないでしょうか。だからこそ、その虚無感を無意識のうちにも満たすものとして、擬似宗教であるスピリチュアルが魅力的に映っているのだろうと思います。知的情報も現実的なノウハウもうんざり、知らないことはもうない、という気持ちがあるから、それとはまったく異質の「謎」の世界に逃げ出したくなっているのでしょう。

  …… この章はとびきりおもしろい。「宗教」と「個人」とのアンビヴァレンツな関係を語るくだりはとりわけ示唆に富む。

第六章 何のために「働く」のか
 私は「人はなぜ働かなければならないのか」という問いの答えは、「他者からのアテンション(ねぎらいのまなざしを向けること)」そして「他者へのアテンション」だと言いたいと思います。その仕事が彼にとってやり甲斐のあるものなのかとか、彼の夢を実現するものなのかといったことは次の段階の話です。そして、もう一つ言えば、このアテンションという「承認のまなざし」は、家族ではなく、社会的な他者から与えられる必要があるのだろうと思います。

  …… 章後半で第三次産業を「コミュニケーション・ワークス」として捉える視点は、著者の面目躍如の感がある。

第七章 「変わらぬ愛」はあるか
 相手に対して熱烈な愛情を持ちつづけるのは不可能に近いことで、その温度が下がったとき、多くの人が寂しさを感じるでしょう。しかし、それは愛のありようが変わっただけであり、愛がなくなったわけではないのです。「恋愛と結婚は別だ」というのは、信じられないのです。その意味で、何か異次元のような場所にことさらに愛の聖地を作って、そこにしか本物の愛はないと考えることにはあまり賛成できませんし、ましてや、絶頂のところで愛を終わらせてしまおうという考えにはなおさら賛成できません。

  …… リーズナブルな論旨である。刺激的な論考を期待する向きには拍子が抜けるかもしれない。しかしこういう現実感覚が姜氏の持ち味であろう。

第八章 なぜ死んではいけないか
 精神医学者で思想家のV・E・フランクルは、人は相当の苦悩にも耐える力を持っているが、意味の喪失には耐えられないといった趣旨のことを述べています。人は自分の人生に起こる出来事の意味を理解することによって生きています。だから、意味を確信できないと、人は絶望的になります。
  生きることの意味を確信しているかどうかで、人の生命力は絶対的に変わってくるのです。

  …… 10年連続で自殺者が年間3万人を超えた。年間死亡者数ざっと100万の内の3%だ。ダイオキシンで死ぬ人間は一人もいないのに、である。これは喫緊の、重く深い問題ではないか。行政の対応など高が知れている。そんなもので刈り採れるほど根は浅くない。この「内なる環境『大』問題」に大きなサジェッションとなる一章だ。

終章 老いて「最強」たれ
 かつては「老人」の持っている力は社会の暴走の歯止めになる、つまり「安全弁」になると考えられたものでした。しかし、いまのわれわれの世代がもう少し年を取ったとしても、社会の安全弁などには、おそらくならないでしょう。「老人は権威によりかかる」とか、「老人は保守的である」とか言われてきましたが、今後はそれもあてはまらなくなる可能性が高いのです。ゆえに、これからの「老人力」とは何かと問われたら、「撹乱する力」である、と私は答えたいと思います。
 老人の「撹乱する力」は、生産や効率性、若さや有用性を中心とするこれまでの社会を、変えていくパワーになると思うからです。

  …… 「老人力」とは『撹乱力』である。これは、世の白虎世代(「白虎」とは60歳以上、06年9月30日付本ブログ「秋、祭りのあと」冒頭部を参照されたい)への最大のエールだ。団塊の諸兄姉よ、ぜひお読みいただきたい。我が意を得たりと膝を叩くこと、請け合いだ。


 この本のキャッチコピーは「悩まず読んで、とことん悩め!」である。流石だ、巧い! 「悩む力」「悩むことのできる力」こそ、自らを押し上げる力だ。 □


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「エコ贔屓」はいけない

2008年06月20日 | エッセー
 ふたたび「環境問題」を取り上げる。7月号の中央公論に ―― 「幻想の環境問題」が文化を壊している ―― との小論が載った。論者は、中部大学教授・武田邦彦氏。詳しくは本文に当たっていただくとして、以下要点を挙げてみる。

     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇
 環境問題がいかに誤った情報に基づいて展開されてきたか。人間社会はある強い欲望や恐怖にとらわれると「事実」を直視できなくなるという特徴をもつ。
◆人工物へのいわれなき恐怖がもたらしたのがダイオキシン問題。
 太古の昔から縦穴住宅の中心には常に火がたかれていたし、日本でも囲炉裏のそばで一日を過ごすことは多かった。大規模な山火事、口元のたき火とも言えるタバコなども自然の活動、人間の文化として普通に見られた。
◆恐怖と欲望が生んだ「循環型社会」
 「ゴミが際限なく増える」という恐怖心と、「一度、使った物をもう一度、使いたい」という欲望がリサイクル幻想を生んだ。
 永久機関は、現在では学問的には否定されているのに、そのような明々白々なことが日本社会全体で行われている。
◆現在の地球の気温はきわめて妥当
 国連に作られた気候変動に関する政府間パネル(IPCC)は絶え間ない強力な政治的圧力のもとで行われている。
 1万年単位の長期的な傾向として地球は寒冷化しているが、まだ本格的な氷期の到来までは少なくとも1000年はあるだろう。
 最近の400年は太陽活動の周期で温暖化中にある。だから、毎年、気温は高くなっていく。
 地球の歴史から見ると、現在の気温は決して「異常」なものではなく、わずか3000年という短い期間を考えても妥当な範囲に入っていると言える。
 温暖になることによって作物の収穫量は増える。漁業においても豊漁をもたらすだろう。
 生活面では、雪下ろし、除雪などの負担が大幅に減少することが期待される。血管系疾病など多くの病気は減少する。温暖化は日本に良いことばかりをもたらすことは明らかだ。
◆長い人類の歴史を見ても、「節約」のような後ろ向きの行為が次の時代を切り拓くことはない。世界は常に状況が変化し、どんなことも有限である。逆説的になるが「資源をできるだけ多く使って次世代の富の源泉を作る」ことに注力しなければならない。
 最大の節約は社会のシステム改革、技術革新である。
 技術革新は「犠牲を強いることなく同じ富の状態を保つ」ことができる。
 日本の政治の貧困によって日本の技術開発努力がまったく報われない形になっている。
 日本には科学的な意味での環境問題は存在せず、いずれも利権がらみで創造されたものである。複雑な日本の社会と物質供給能力が十分になった後に起こった「欲望と恐怖」が仮想的に生み出したものである。
     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇

 「人間社会はある強い欲望や恐怖にとらわれると『事実』を直視できなくなる」との指摘は宜なる哉である。世論誘導されて先入主が刷り込まれると危ない。色メガネに慣れると、掛けていることさえ忘れる。特に日本ではそうだ。
 筆者も十年近く前、庭でゴミを焼いていると、近所のおばさんに凄い形相で睨まれ噛みつかれたことがある。「ダメですよ! 知らないんですか。毒が出るんですよ、ダイオードっていう猛毒が!」勢いに気圧されて、間違いを正す機を失った。2002年末のダイオキシン規制法施行以前だった。たしかこの一、二年前に青色ダイオードの開発が話題になったことがあった。ノーベル賞ものの業績が会社に横取りされたとかなんとか。してみるとあのおばさん、物知りではある。
 ともかくも生活用品から家電、はてはECO検定にいたるまで、世の中エコだらけ。フグタくん肝入りの七月サミット、然り。エコの出ない新聞・テレビは一日としてない。エコにあらざるモノ、喰うべからず。浮世の沙汰もエコ次第。「雀の子 そこのけそこのけ おエコが通る」の観を呈している。オブジェクションが入る隙間も、アンチテーゼを立てる余地もない。頑強なハンドウェーヴィングのありさまにはある種の宗教的情熱か、集団的パラノイアさえ感じる。振り替えるに、件のおばさんは『エコ教』の嚆矢だったのかもしれない。日本人を無宗教の代表格のようにいう向きがあるが、意外にもこの国民は宗教的可燃性を濃密にもつ。3月24日付本ブログ「ダマされる前に、ぜひお読みください」で引用した早稲田大学教授・池田清彦氏の発言をふたたび引こう。

  「欲しがりません、勝つまでは」などと言って釜とか寺の鐘とかを溶かして鉄に戻していたのとよく似ている。国民精神総動員運動の再来だ。いま、地球温暖化問題に関しては、マスコミも一緒になってキャンペーンをするものだから、多くの人が完全に洗脳されている。CO2削減に協力しない奴は非国民だってわけね。(「ほんとうの環境問題」から)

 国民性なるものがあるとして、それが根の張ったものだとすれば、「国民精神総動員運動の再来」もあながちブラックユーモアではない。最近、コンビニの深夜・早朝の営業を規制する動きが出はじめた。コンビニは雇用の大きな受け皿であり、夜間の防犯機能も担う街角の灯台でもある。そのCO2排出量は全国で僅か0.2%。全国のコンビニ従業員が腰だめで80万人。3分の1が深夜・早朝勤務とすると、0.2%のカーボンと引き換えに約27万人の失業者を生み出そうというのであろうか。角を矯めて牛を殺す。贔屓の引き倒しどころか、滑稽でさえある。事情は京都議定書に固執する日本のスタンスと同じだ。議定書を守ったところで減らせるCO2は世界の2%でしかない。それでも焼け石に水を注ぐのは、少なくとも科学的思考ではない。ファナティックな精神論でしかない。
 環境問題が孕む重要な懸念は、科学が極めて恣意的に利用されていることである。恣意的の意味は、政治的ということだ。政治的意図がまずあって、「科学」でオーソライズされる。その逆ではない。ここが『ほんとうの問題』ではないか。
 「エコ贔屓」はいけない。「ほんとう」が隠れてしまう。世の価値観が雪崩を打って一方に傾(カシ)ぐ時、警鐘を鳴らすのはマスメディアの役割だ。お先棒を担いでばかりいては御用機関に成り下がってしまう。それになによりも、われわれ一人ひとりが世論誘導への警戒を怠らないことだ。マスコミにも、ましてやお上にも白紙委任などしてはならない。それは身を滅ぼす。 □


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バカタレ

2008年06月15日 | エッセー
 上地雄輔、つるの剛士、野久保直樹、スザンヌ、黒田まい、木下優樹菜とくれば、今を時めく「おバカ」なタレントたちだ。三大キー局のクイズ番組で名を売った。図に乗ったのか、仕掛け人が巧いのか、ユニットを組んで歌まで出した。男どもは「羞恥心」の名で、デビュー曲も同名。悪達者な命名だ。さらに悪趣味で、自虐的でさえある。女の子たちは「Pabo」がユニット名。謂れを調べる気すらしない。
 以下、揣摩憶測、
 近ごろの呼び分け ―― 「芸能人」と「芸人」では前者が格上。伝統芸能の場合は、芸人とは呼ばない。主に大衆芸能をさして芸人と呼ぶ。映画や舞台の場合は「俳優」「役者」と称す。このあたりまでは浅深の差はあるものの修錬を要する。持って生まれた性格を「キャラ」と定義すると、キャラだけでは務まらない。つづいてテレビの場合は「タレント」。落語はまだしも、漫才、コントの類は「お笑い」と一括する。賞味期限は長くて1年。どんなことも厭わぬ、便利で格安な使い捨て芸人である。ジャンルの垣根は限りなく低くなっているが、バラエティーを主とする者が「バラタレ」。この連中に芸はない。キャラだけが売りだ。磨き上げた個性はない。『奇種』という言葉はないので、鬼手といっておこう。そうだ、「組合員」を忘れてはいけない。これについては、何度か触れた ―― 。
 バラタレの中でも、新手が「おバカ」が売りのタレント。筆者はこの手合いを『バカタレ』と呼び習わしている。この「バカタレ」がブレークしているのだ。なぜだろう。
 「ヘキサゴン」のディレクターはこう言う。「バカな答えそのものが楽しいんじゃなく、彼らが何かを必死に、元気に答えている姿が、視聴者の共感を呼んでいる」(朝日新聞6月14日付)物は言いようだが、女郎の誠と卵の四角。それはない。続いて同じ紙面で識者の言を紹介している。
 
 「羞恥心はどこへ消えた?」などの著書がある聖心女子大の菅原健介教授(社会心理学)は、現在の「おバカ」人気のポイントに、恥ずかしがらない彼らの姿勢を挙げる。「自分のイメージや属性にこだわる人ほど、間違いや失敗は恥ずかしいもの。だが、彼らにはそんなこだわりがない」視聴者は、バカといわれても明るく前向きな彼らを見て、知識レベルでは自分より下だと安心する一方で、それでも元気な彼らに励まされ、癒やされるのではと菅原教授は分析する。学校ではゆとり教育から学力重視へとかじを切り、会社では能力主義が広がる。「ワーキングプアやネットカフェ難民など、私たちの社会は足元に火がついている。おバカタレントは、そんな時代の閉塞感に対するアンチヒーローなのでは」

 こちらは洞察が深く正確かもしれない。だが、いまだ「時代の閉塞感」に直面していない世代、つまりは子供達にとっては「アンチヒーロー」ではなく、正銘のヒーローなのだ。論より証拠。保育所や幼稚園では「羞恥心」が一番の受け筋と聞く。少なくとも彼らは羞恥心の語義について誤った解釈のまま育つにちがいない。しかし、それは枝葉。怖いのは、不勉強がひとつの徳目として刷り込まれることだ。
 勉強しない子供に、母親が小言。子供は逆らう。
 「なんで勉強しなくちゃならないんだよ?」
 「だって、いい学校に入れないでしょ」
 「いい学校に入れたら、どうなるんだよ?」
 「そうしたら、いい会社に入れるでしょ」
 「いい会社に入ったら、どうなるんだよ?」
 「たくさんお金がもらえるでしょう」
 「たくさんお金がもらえたら、どうなるんだよ?」
 「寝て暮らせるわよ!」
 「だったら、今のぼくと同じだ。だから、勉強しなくていいんだ!」
 教育ママと拝金主義を嗤うジョークだ。だが不勉強で一旗揚げられるとなれば、このジョークは書き換えを迫られることになろう。子供曰く。「勉強したら、バカになれないよ!」と。
 
 さらにひとつ。癒しだか肥やしだかしらぬが、この手の笑いは兎角に不健康である。自らバカで売るのはよしとしても、バカを嗤う心根は決して健康ではない。クイズ番組では、おバカと高学歴、中間層をそれぞれ等分に配置するそうだ。かつてはこうではなかった。おバカはせいぜい添え物、賑やかしの類でしかなかった。それが堂々主役の一角を占める。どころか、おバカなしには番組自体が成り立たない。この仕掛けの裏には、ここ数年の間に顕著になったクイズ番組の低迷がある。ネットの普及により情報やトリビアは一般化された。教養も蘊蓄もテレビから供される必要は低下してきた。クイズ番組へのモチベーションは下降線をたどる。しかし視聴率は稼がねばならない。そこで、「鬼手」として打たれたのがバカタレの抜擢である。クイズの中味ではなく、回答者に軸足を移したのである。前述したディレクター氏の発言は後付の理屈だ。「悪貨は良貨を駆逐する」グレシャムの法則はテレビ界にも当てはまる。

 野々村真あたりまでのおバカはもはや古典的だ。演じている部分をにおわせる。だが、バカタレくんたちは正真のそれだ。となると、テレビ界全体がおバカであることの一象徴と捉えれば凄味さえ感じる。とこうに思案して行き着くところは、以前に紹介したタモリの名言。「お前ら、白面でテレビなんか観るな!」である。 □


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2008年5月の出来事から

2008年06月09日 | エッセー
■ 日中首脳会談
 福田首相と胡錦濤国家主席が東京で会談し、10年ぶりとなる共同文書に署名。東シナ海のガス田開発も進展を確認(7日)

  ―― 首脳会談からすこし離れる。
 晩餐会は決して虚礼ではない。外向けにはもちろん、内側に向けてメッセージを発する場ともなる。以下、朝日新聞コラムニスト・若宮啓文氏の見解。

  宮中晩餐会……エールの交換読み解けば 
 サワリは、日中国交正常化20年を記念して92年に実現した天皇陛下ご夫妻の訪中を「歴史的に意義をもつ」とたたえた部分だった。「ご訪問は両国国民の美しい思い出になり、中日関係史の美談となって伝えられています」「衷心より感謝の意を表します」と、胡氏は手放しだった。なぜ、16年も前のことを、これほどに持ち上げたのだろう。
 天皇の外遊が決まるまでに、あんな重苦しい経緯をたどった例は他にあるまい。中国側の強い要請に応じた宮沢内閣の決断で実現したのだが、新聞に大きく「反対」の意見広告まで載せた右派グループへの対応に手間取り、決定までには長い曲折をたどった。
 天皇は、歓迎晩餐会で注目のお言葉に及ぶ。「我が国が中国国民に多大の苦難を与えた不幸な一時期がありました。これは私の深く悲しみとするところであります」として戦後の「反省」を強調したのだ。過去への区切りをつけ、友好のきずなを固める旅だった。
 訪中は成功のうちに終わった。ところが、である。それか6年たった98年に来日した江沢民国家主席は、宮中晩餐会で予期せぬあいさつをした。「日本軍国主義は対外侵略拡張の誤った道を歩み……」と中国人民やアジアの災難にふれて「歴史の教訓」を強調したのだ。日本で繰り返された政治家らの「妄言」に怒りをもっていたにせよ、訪中の成果を忘れ去ったかのように、天皇の前でなぜ……。
 追い打ちをかけるようなことが最近あった。「天皇訪中は、89年の天安門事件後にできた西側包囲網を突破するために、中国が計画したものだった」。当時の外相だった銭氏が回顧録の中でそんなことを書いたのだ。それみたことかとばかり「天皇は利用されただけ」「もう中国にだまされるな」と右派の声が勢いづいていた。
 だからこそに違いない、と中国政治に詳しい国分良成・慶大教授などは晩餐会の席でピンときた。胡氏の発言は、銭氏の言を国家主席がきっぱり否定したところに意味があるのだ、と。なるほど、それもあったのだろう。それやこれや、胡氏は天皇陛下への重なる非礼を挽回しておきたかったのに違いない。日中関係に寄せる固い思いのゆえだったのではないか。以心伝心というべきか。晩餐会では天皇がまず歓迎の「お言葉」で訪中の思い出を懐かしんだ。江氏の来日で溝ができ、小泉首相の靖国参拝でさらに冷え込んだ日中関係は、皇室外交の場でも時計が巻き戻された。(5月26日付、抄録)

 綸言、汗の如し。貴顕ともなると、一言が重い。一方、市井の言は気が楽でいい。重みがないだけ、宙を彷徨(サマヨ)うが …… 。

■ ミャンマーをサイクロン直撃
 死者・行方不明者は13万人以上。軍政は当初・国際社会の人的援助を拒否(2~3日)。新憲法案の国民投票を強行、成立させた(29日)

  ―― 5月27日(火)放送、NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀  人は強い、希望は消えない~UNHCRウガンダ・高嶋由美子」。これはよかった。司会の茂木健一郎氏が自らのHPに印象を綴っていた。

  すべてを失ってなお輝く生命力
  ~ ~国連難民高等弁務官事務所 ウガンダ・リラ事務所長・高嶋由美子 ~
 今回お話を伺った高嶋由美子さんは、国連難民高等弁務官事務所の現地事務所長としてウガンダ共和国で、難民の支援をしていらっしゃる。高嶋さんのお仕事は、医師などとは違ったかたちで、人の命を左右してしまう。ミャンマーで、「国へ帰ったら殺される」と訴えかけられた時に、それをどうすることもできなくて、無力感を感じたという話があった。命のぎりぎりの現場で働いていらっしゃる方だと感じた。
 高嶋さんは、難民の人は強いと言う。今まであったものが何も無くなったとしても、いかに良く生きるかを考える、落ちないと見えない生命の真実があるとおっしゃっていた。このすべてを失ってこその生命力には、さまざまな複合的な意味がある。
 一つには、男性の方が弱いとおっしゃっていたこと。逆に言えば、生命力を奪っているものは何かと考えると、それは社会の中での地位であり、組織であり、関係性だ。これは両義的で、そういったものが無いと仕事ができない。しかし、時としてそれを取り払って考えないと、人間が持っている生命力というのは出てこない。
 よく「裸一貫になって何かをした経験のある人は強い」と言われるが、そういう根源的な時に出てくる生命力は、難民のキャンプの中で出ているものと同じだと思った。
 また、キャンプの中では家族のつながりのような「人と人との絆」が幸せの方程式になるということも言われていた。これもやはり両義的だと思う。社会の中でいろいろな立場で仕事をしていると、仕事が忙しくて家族と十分に向き合うことができない人も多い。
 それに対して、難民キャンプというのは、失業状態だし住む場所もしっかりしていないし、社会的な立場というのは一切無いという状況だ。そこで、むしろ家族の絆が再確認されて、幸せの条件になるというのは非常に興味深い。
 こうした状況に対する、子供の適応力というのもすごい。高嶋さんは、子供たちは最初ピクニックに来たような気持ちでいる、とおっしゃっていた。
 そもそも人間の持っている可能性の振れ幅みたいなものは、自分が思っているよりももっと大きいのだと教えてくれている気がした。(抄録)

 この女性、実にパワフルだ。小太り?な体躯がキャンプを跳ね回る姿は小気味いい。「難民の救援」から受けるイメージとはかなりちがう。第一線のホンモノは、世間の抱く先入主を時として覆すものだ。高嶋女史の観察眼は鋭い。さらに茂木氏の分析もさすがである。この女性の奮闘を観て、日本人も捨てたものではないと、意を強くした。

■ 中国・四川省で大地震
 マグニチュード8の本震で学校など多くの建物が倒壊。死者・行方不明者は8万人を超え、山崩れが川をせき止めた土砂ダムも多数出現した(12日)

  ―― 「山崩れが川をせき止め」てできた「せき止め湖」がいま喫緊の難題である。しかし、堰き止めたのは川だけではない。チベット問題にも堰をしたようだ。逆に、学校などの公共建築物が脆弱であることを露呈した。住民が責任追及の声を上げ始めている。一時代前には夢想だにできないことだ。図体が大きいだけ時間はかかるが、確実にこの国の人びとは変わりつつある。
 四千年の歴史の厚みに鎧われた国だ。マンパワーは溢れるほどにある。8月の「北京」にむけ、天災を天佑にするにちがいない。

■ 宇宙基本法が成立
 宇宙開発の「非軍事」原則を転換し、防衛利用を解禁、高度なミサイル監視衛星も可能に(21日)

  ―― 要点は、
a.宇宙開発は国際条約や日本国憲法の平和主義の理念にのっとる
b.宇宙開発は国民生活の向上、国際社会の平和、安全、我が国の安全保障に資するよう進める
c.宇宙開発戦略本部の新設で政策を総合的・計画的に進める
d.宇宙産業などの技術力や国際競争力を強化する
 の4点だ。それぞれに問題点を孕む。最も危ないのはb.だ。
 69年の国会決議で、宇宙開発は平和目的に限られた。侵略性のない防衛目的よりもさらに踏み込んで、軍事的利用をすべて排除する非軍事の軛(クビキ)を嵌めたのだ。ところが今回、「我が国の安全保障に資するよう進める」と定めた。つまりは、「非軍事」から「非侵略」に舵を切ったのである。a.はお飾り。偵察、監視、誘導などの軍事的利用は非侵略とされるのは、いまや世界の常識である。さらに有り体にいえば、ノースコリアへのMD(ミサイル防衛)のためだ。アメリカに頼らず自前の盾を持ちたい。その欲求自体が、すでにして「軍の論理」に侵食されている兆候だ。日米同盟といっても、爆撃機ひとつでさえ仕様の壁がある。ましてやハイテクの固まりだ。新たな摩擦を呼ばないとは限らない。たしかにノースコリアのミサイルと核はファーストプライオリティーではある。しかしアプローチは非軍事であるべきだ。
 「軍の論理」については本ブログで何度も触れた。最大の懸念は、これほどの大転換が唯々としてなされたことだ。しかも民主党まで賛成して。まさか腸捻転国会のフンづまり解消のために、下剤として使ったのではあるまいな。そんな下剤なら断じて嚥んではならぬ。一生、便秘のままでいい。

■ 公務員改革が一転合意
 自民、公明、民主の3党は国家公務員制度改革基本法案の政府案を修正し、成立させることで基本合意した(27日)
  ―― 本年4月26日付本ブログ「『四権』?国家」で「官僚主権」を取り上げた。小刻みでも漸進が肝要。前項とは反対のことをいうようだが、これぞねじれ国会での「大人の対応」ではないか。与党にも民主党にも「改革を潰した」と非難されるのは避けたいという事情はあった。天下り規制や労働権で取引が図られた。法の内容はともかく、ギヴ アンド テイク。妥協の産物ではなく、妥協の妙味であろう。オール オア ナッシング。これでは毫釐(ゴウリ)の前進もないからだ。
(朝日新聞に掲載される「<先>月の出来事」のうち、いくつかを取り上げました。見出しとまとめはそのまま引用しました。 ―― 以下は欠片 筆)□


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一口では言えない

2008年06月04日 | エッセー
 日本人ならだれでも姓名を持つ。その姓(カバネ)である。なんと日本には苗字が30万姓ある。トップ3は、佐藤、鈴木、高橋。お隣の韓国では250姓。金、李、朴がトップ3。漢字の家元・中国でも3500。トップ3は李、王、張。30万はダントツである。ヨーロッパではすべて合わせても5万だから、まちがいなく日本は姓・世界最多の国である。
 この30万姓は、名字帯刀を許された維新後に大量発生したものではない。千数百年前から続く氏(ウジ)に来由する。
 名田(ミョウデン)を管理したのが名主。名田の地名を氏として名乗った。足利庄だから足利氏というように。その後、歴史の推移の中で始祖の土地から分散していく。したがって、氏は土地ではなく血筋の同一を表すようになる。血筋、すなわち苗(びょう)である。やがて転訛して苗字(ミョウジ)となる。名字ともいう。同義である。
 蛇足ながら、漢字の「姓」は「女が」「生む」と分解できる。母系文化や血統という生(ナマ)な印象が強い。片や、大和言葉の「氏」(うじ)には内部、内側の意がある。「うじ」が「うち」に転訛したかどうかは措くとして、生理的繋がりを超えた所有や所属の意識が濃厚だ。いまでは会社の同僚を「ウチの人」などという。さらに亭主を「ウチの人」という奥方は、姓と氏の違いを見事に踏まえているといえる。もとより夫婦に血の繋がりはない。山の神に『所有』される山人という哀れな関係があるだけだ。

 さて、お立ち会い。「一口」 ―― どう読むか? もちろんこの場合、「ひとくち」ではない。「いもあらい」と読む。これも、30万姓の歴(レッキ)とした一員だ。
 「平家物語」や「源平盛衰記」にこの姓を名乗る武将が登場する。だから、30万の内でも古株である。地名にもある。東京に3か所、京都 に1か所。現存する。東京は神田駿河台、港区六本木、そして千代田区九段北の三つ。いずれも「坂」が付く。ただ市ケ谷は「ひとくち」に呼び方を変えているそうだ。一方京都は、南部の久御山町にある地名である。例に漏れず、由来には諸説ある。一口(この場合、ひとくち)では語れない。
 一説を挙げると、「いも」とは疱瘡=いも・いぼのこと。「あらい」は「祓(ハラ)い」からきた。つまり疱瘡を伴う皮膚病、風土病を祓う社(ヤシロ)があったことが起こりらしい。なにかむず痒くなってくる来歴だ。

 さらに、お立ち会い。「いもあらい」とくれば、今や「芋洗」だ。「芋洗坂係長」である。昨年は本ブログで(07年5月28日付「なぜ、おもしろいんだ!?」)、ムーディ勝山を取り上げた。今年はこの係長である。お笑いには年にひとり、掘り出し物がある。「グー」のおばさんもいるが、なんといっても係長の方がタイムリーだ。指一本と身体全体のちがいもある。タイムリーとは、本年4月「メタボ健診」の開始に合わせたようなデビューであったからだ。
 5月12日、朝日は「太る自由だってあるのだ」と題する社説を掲げた。結びは ―― 生活改善や治療は本人の意思に任せるべき。「メタボ狩り」に精出す前に、霞が関のお役人にはみずからのお役所体質のメタボ改善を望みたいものである。 ―― とそつなくまとめていたが、多少八つ当たり気味。件の係長のように、身長167㎝、体重105㎏の紛うかたなきデブでも踊れるところを見せた方が抗議の意には適う。
 それもそのはず。係長、実は元ダンサーである。かつては中森明菜のバックダンサーでもあったというから、おどろきだ。もっともそのころは体重60㎏を切り、面相も含め態(ナリ)は全くの別人であったそうだ。その後、舞台を始めて太りだしたらしい。その因果関係は計りかねるが、メタボを逆手にとった「メタボ芸人」で売っている。
 41歳で係長とはなんとも遅咲き。ペーソスが漂う。それに「わたしの余興を観ていただきましょう」とのイントロは、いかにも控えめ。ネクタイも短め。上着のボタンができないほど突き出した大きな腹をものともせず、振りの激しいダンスを披露する。「 …… と、ここまではマスターしました!」で、いきなり終わる。息絶え絶えだ。あきらかに体力の限界を「演じて」いる。振り付け師でもある係長がすべてをマスターできないはずはない。このあたり、計算され尽くしている。近年絶えて久しい哀感を塗(マブ)したところが、このお笑いの一工夫かもしれない。
 ネタが少ないのが難点だが、少なくとも1年は生き延びてほしい。昇進は期待しない。係長のままでいい。それともうひとつ。係長の目が笑ってないのが気にかかる。メタボでもこれだけのことができると、命を懸けた芸のゆえかもしれないが …… 。

 ところで、「芋洗坂」の地名はかなりある。ほとんどが「一口(イモアライ)」からの変化だ。名字もないはずはないが、不精なことに調べていない。係長がなぜ芋洗坂を名乗ったか。思案中に、たまたま六本木界隈が浮かんだのか。体型とこの坂の名前がダブったのか。外連味たっぷりのネーミングには、一口(ヒトクチ)では言えない40年の人生の悲哀が詰まっているのだろう。 □


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憤慨に堪えない?

2008年06月02日 | エッセー
 星出彰彦氏が宇宙へ旅立った。日本時間6月1日午前6時2分、スペースシャトル・ディスカバリーが白煙の軌跡を曳いて大気圏外へ飛び出した。2週間の滞在予定だ。
 以下、新聞報道。

■ 大ピンチ 国際宇宙ステーションのトイレ故障  
 国際宇宙ステーション(ISS)のトイレが故障したと、複数の米主要メディアが伝えた。米航空宇宙局(NASA)は、31日に星出彰彦さん(39)らを乗せて飛び立つスペースシャトル・ディスカバリーで交換部品を運び、修理することを検討しているという。
 米ニューヨーク・タイムズ紙によると、問題のトイレはロシア製。無重力状態では排泄物が体から離れにくく、ファンの風で便器に吸い込む。このファンが故障した。
 「大用」は機能しているものの、「小用」が使えない状態。滞在中の米ロの飛行士3人は、緊急脱出用のソユーズ宇宙船にあるトイレを借用しているという。
 NASAは修理を検討する一方、故障した装置を通さずに直接便器に小便を送り込むことも考えている。トイレが復旧できない場合、ディスカバリーのトイレも使うことになるかもしれない。(朝日 5月28日)

 宇宙船の中では、大と小を別々の便器に吸引する。人体の物理的構造を考えれば、納得できるだろう。したがってこの場合、大は小を兼ねない。無重力状態で件(クダン)の大粒、小粒が浮遊するとなると、科学の最先端施設のフン(雰)囲気はぶち壊しとなる。それどころか、なにかの拍子に口から嚥み込むなどという事件すら起きかねない。かといって、いまさら製造元のロシアを責めても埒が明かない。宇宙がフン(紛)糾の場となっては元も子もない。さらに、新聞報道。

■ ディスカバリー打ち上げ成功
 星出さんは今回が初めての飛行。日本人のシャトル搭乗は、今年3月の土井隆雄さん(53)以来となる。
 ディスカバリーは国際宇宙ステーション(ISS)にドッキングし、星出さんらがロボットアームを操作して、日本の有人宇宙施設「きぼう」の中核である船内実験室を設置する予定だ。
 また、故障しているISSのトイレを交換部品で修理するほか、太陽を追尾できなくなった太陽電池パネルの修理の準備もする。
 順調ならば米東部時間14日昼前(日本時間15日未明)、ケネディ宇宙センターに帰還する。(朝日 6月1日)

 星出氏 ―― この宇宙飛行士以外を連想できない美名を持った男の初仕事は、トイレの修理だ。なんともフン(憤)慨に堪えないところであろうが、「出(イズ)る」を制することは諸事万般の基(モトイ)たることであるから、この際は氏に一層のフン(奮)起を期待したい。
 仄聞するところによると、「小」は宇宙空間に放出するそうだ。「大」はというと、容器にまとめて大気圏に突入させて焼却するのだという。ヤケクソである。しかも完全燃焼だ。まことにおおらかというか、問答無用の処置である。そこへいくと、このわれらが住まう宇宙船・地球号は、巧まずして完璧で絶妙なる循環系をなしている。ただひとつの例外を除いて。

 いうまでもない。例外とは、核という名の人工物である。つまりは創世では想定されていいなかった物質である。
 昨年2月28日付拙稿「奇想、天外へ!」で次のように主張した。
 「核廃棄物、もしくは廃棄核兵器をロケットに詰めて、宇宙の果てに飛ばしてはどうか。できれば、ブラックホールめがけて」と。
 原発は「トイレなきマンション」である。かつ、核物質の半減期は人類史とはまるで間尺が合わない。だから「天外へ!」と奇想を巡らしたのである。

 いまの技術レベルでは、ISS内で排泄物の循環的活用はできない。船外へ「もう一度」排出するしかない。ISSが極小の地球だとすると、なにやら「奇想、天外へ!」と事情が似てくる。排泄物と核廃棄物では文字通りウン(雲)泥万里であるが、遙か雲上の排泄物も地上の汚泥たる核廃棄物も御しかねる代物にはちがいない。難儀なことである。
 ……と、今回も愚にもつかない稿となった。儘よ、「ふん!」と一笑に付されるであろうことは覚悟の前だ。 □


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