伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

天動説の意外

2012年06月29日 | エッセー

 コペルニクスの地動説が発表された時、ルターやカルヴァンなどのプロテスタントは一笑に付した。片やローマカトリック教会は表向き否定はしたものの、裏では密かに研究し始める。教会の権威をかけた新暦(グレゴリオ暦)の計算に必要だったからだ。ケプラーの蔵書を、焚書しようとしたプロテスタントの手から守ったのもローマカトリック教会の人たちであった。実はコペルニクス、ガリレオ、ケプラーなど当時の知識人はローマ教会の関係者であり、その頃の大学はローマ教会が運営していた。また天動説も決して漠たる理論ではなく、3000年以上の観測実績から緻密に構築されていた。だから非常に高い精度で天体の動きを計算していた。と、意外な話を数学者の柳谷 晃氏が書いている(青春新書「一週間はなぜ7日になったのか」今月刊)。
 まずはプロテスタントの対応が意外だ。ルター、カルヴァンとくれば、宗教改革。彼らは革新的との固いイメージがある。だがよく考えると、聖典に依拠すればこそローマ教会にプロテストしたわけで、ファンダメンタリストであるのは当然といえる。神の教えにあらざる学説に一顧だにくれるはずはない。筆者の意外は、先入主によるピットフォールの一例といえる。
 さて地動説を消費税に、プロテスタントをO沢グループに、ローマ教会をM主党に、グレゴリオ暦を社会保障に準えると、永田町のドタバタとそっくりに見えてくる。穿ったところでは、ローマ教会をJ民党に見立てる手もある。その場合は、コペルニクスがM主党か。マニフェスト違反はまさにコペルニクス的転回だ。海千山千のJ民党がこの敵失を逃すはずはない。汚れ仕事はM主党にさせておいて、実だけは採る。さすが腹黒い。いや、玄人芸というべきか。
 筆者、根が世故いゆえついつい話が生臭くなる。
 閑話休題。
 天動説といえば幼稚な迷信ぐらいにしか捉えていなかったが、人類史のほとんどはこの説で賄ってきたともいえる。いまだに「日の出」なわけで、「地の出」とは言わない。生活実感には馴染みが深い。天動説にはざっと3000年の歴史がある。AD140年にプトレマイオスが「アルマゲスト」として集大成した後も、営々と改良が加えられてきた。比するに、コペルニクスからはたったの500年少々だ。健気にも古人は天動という不抜の前提の上に、この上なく精緻な計算を積み重ねてきた。天動説も豊富な測量データと複雑な計算で埋め尽くされ、磨き抜かれていた。これも意外だ。
 柳谷氏によれば、天動説であっても太陽の運動の記述は数学的には可能だという。地球から見てどうかが問題なのだから、むしろ便利だともいう。ところが火星や水星、ほかの星々になると事情がちがう。円軌道を辿らないのだ。神の造り給うたものに完全なる円運動以外の動きはありえない。プトレマイオスは複雑極まりない計算で、天動説に円軌道モデルを押し込んだ。しかし地動説で、かつ神学者であったコペルニクスはこれには相当悩んだらしい。地動説上で円運動をごり押ししたために、惑星の位置計算が不正確になった。はたして天動説の方が優等だった。柳谷氏は「精度の悪い真実」と、含蓄ある言い方をしている。科学史を塗り替えた『転回』も、鮮やかなデビューではなかったのだ。生前、彼は自説を直隠しに隠した。傷つき、蹌踉う新学説。なんともいい景色だ。後にケプラーの天才が楕円モデルでこれを解明するのだが、彼自身実は占星術師だったというからさらにおもしろい。

 「それでも地球は回っている」というガリレオの捨て台詞が余りに強烈だったために、天動説を古い上着のようにかなぐり捨ててはこなかったか。もう流行らないデザインであっても、存外仕立てはしっかりしているのが古着だ。あちこちの染みも、よく見れば味がある。頑固な皺にも着癖にも、埃っぽい懐かしい香りにも先人たちの歩みが凝っている。たまに取り出して、眺めてみるのも一興だ。 □                                                                                                                                                                    


ポピュリズム二景

2012年06月27日 | エッセー

 内田 樹氏が「街場の読書論」で、トクヴィルの高見を引用しつつ以下のように述べている。

◇アメリカの統治システムはうっかり間違った統治者が選出されても破局的な事態にならないように構造化されているのではないかと彼(トクヴィル)は考えた。アメリカの建国の父たちは表面的なポピュラリティに惑わされて適正を欠いた統治者を選んでしまうアメリカ国民の「愚かさ」を勘定に入れてその統治システムを制度設計していたのではないか。不適切な統治者のもたらす災厄を最小化するために、一つ効果的な方法が存在する。それがポピュリズムである。統治者の選択した政策が最適なものであるかどうかを判断することは困難である(少なくともその当否の検証にはかなりの時間がかかる)。けれども、それが「有権者の気に入る」政策であるかどうかはすぐに判断できる。それゆえ、アメリカでは、被統治者の多数が支持する政策が(政策そのものの本質的良否にかかわらず)採択されることが「政治的に正しい」とされることになったのである。統治者は選挙民と同程度の知性、同程度の徳性の持ち主で「なければならない」という縛りをかけている限り、その統治者がもたらす災厄は選挙民が「想定できる範囲」に収まるはずだからである。ポピュリズムは一つの政治的狡智である。知性、徳性において有権者と同程度の政治家は、まさにその人間的未成熟ゆえに「ある程度以上の災厄をもたらすことができない」ものとみなされる。統治者の才能や徳性は被統治者と同程度である方がデモクラシーはスムーズに機能する。なぜなら、徳や才があるけれど、大衆とは意見の合わない統治者をその権力の座から追い払うのは、そうでない場合よりはるかに困難だからである。◇

 氏は、アメリカでは「ポピュリズムは一つの政治的狡智である」と洞察する。「不適切な統治者のもたらす災厄」が最大化されたものが独裁であり、国家の破局である。その対極を担保するのがポピュリズムだ。政治上のフェイル・セーフともいえる。「不適切な統治者」が打ち出す政策であっても、「有権者の気に入る」政策ならば『よし』とする。もし不適でも災厄は想定内であり致命傷にはならない。なぜなら統治者は選挙民と同レベルで「『なければならない』という縛り」(そもそも選出の仕組みがそうだ)がある以上、禍福ともに選挙民のレベルを超えるはずはないからだ。選挙民の「愚かさ」に阿る以上、その「愚かさ」を超えはしない。そこまで怜悧な人間観に裏打ちされているということだ。
 さらに、行政と立法は別ルートで選出され完全に分立、対峙している。どちらかの暴走は牽制されるシステムだ。議院内閣制の場合は、本来的な意味では行政権は独立しているとはいいがたい。立法権に包摂されている。宰相に返す刀はあるにせよ、原理的には対立構造にはない。厳密には、司法と立法の二権分立でしかない。
 アメリカの統治システムについて、トクヴィルは第7代大統領アンドリュー・ジャクソンを例に挙げた。素描すると、
──戦争犯罪に近い軍功が脚光を浴び、大統領へとのし上がった
  貴族出身でない最初の大統領で、庶民の味方を売りにした
  一方、ネイティヴや黒人への頑迷な人種差別主義者であった
  独立13州以外から選出された最初の大統領であった
  連邦に対して州の権利を重要視する「州権主義者」だった
    汚職防止のため、大統領の交替に伴って官吏も入れ替える慣例をつくった
  未遂に終わったが、米大統領史上初の暗殺の標的になった
  強権的で、史上ただ一人議会から不信任決議を受けた大統領であった──
というところか。なんだか、どこかのだれかと重なってくるようでもある。
 さて上掲書で、内田氏は続ける。

◇けれども、そのような「リアリスティックなポピュリズム」が私たちの国の政治風土をゆっくり、しかし確実に腐らせてきた。彼我の違いを形成するのは、アメリカのポピュリズムは「建国の父」たちのスーパークールな人間理解に基づく制度設計の産物なのだが、日本のポピュリズムは法律や政治システムという実定的なかたちをとることなく、「空気」の中で醸成された。日本の政治家たちが急速に幼児化し、知的に劣化しているのは、すべての生物の場合と同じく、その方がシステムの管理運営上有利だと政治家自身も有権者も判断しているからなのである。チープでシンプルな政治的信条を、怒声をはりあげて言い募るものが高いポピュラリティを獲得する。私たちの政治環境は現にそのようなものになりつつある。このポピュリズム化趨勢はおそらくこのあともとどまることなく進行するだろう。そのあとに現出する風景がどのようなものになるか、私にはまだ巧く想像することができない。◇
 
 これは昨年、6月に書かれた論稿だ。同じポピュリズムでも制度設計にヘッジされない「空気」では危ない。非消費増税のポピュリズムが破綻すると、中学校の生徒会長のような首相が出てきて、「このままではこの国はもたない」と「チープでシンプルな政治的信条を、怒声をはりあげて言い募る」。これは一回捻りのポピュリズムではないのか。学級崩壊の中で孤軍奮闘する生徒会長。日本人の好きな図だ。中身の詮議は棚に上げて、「心から、心から、心から」わが中学の団結を哀訴する。んー、泣かせる。
 片や、生き残りのために捻りなしのポピュリズムに有り金を賭けるポピュリストたちもいる。「正義は我にあり」と「チープでシンプルな政治的信条を、怒声をはりあげて言い募る」。どちらにせよ、「日本の政治家たちが急速に幼児化し、知的に劣化している」なによりの証なのだろうか。 □


清流

2012年06月22日 | エッセー

 彼は母ではなく、父しか詠ったことがない。
 小学3年生の「夏休み」に、父をひとり置いて家族は鹿児島から広島へと移った。
 「姉さん先生」とは、それきりになった。記憶に残ったのは、男尊女卑の風土に仁王立ちする厳つい父の面影だった。
 「いつか故郷(フルサト)を拓け」と託した名乗りに父を抱きつつ、長じた。
 長い星霜が過ぎ、安曇野に旅した時だ。一筋の清流に巡り会った。「名前のない川」だ。名づける父はいなかったのか。
 清清たる流れに足を浸し、川上へ向かう。なぜだろう。源は父に通じているような気配を感じたからだ。

 彼は、いま、静かに語る。

 居を共にしない父への反発。人はないものに憧れるが、憧憬は時として無闇な「無礼」に転ずる。幾たびとなく浴びせてきた悪態の数々。「その人」と齢を伍する今となって、「愚かな自分」に恥じ入る。できることなら、詫びたい。「その人」の正面に跪いて……。
 振り返ると、実は彼自身も父たり得なかった。応報する因果に慄然とし、「無念の涙」が留処ない。
 
 「力」は父性の象徴である。自らの力で拓いた田が、「男」だ。ミュージックシーンの激流に飛び込み、抜手を切って泳いできた。その名の通り、斯界を拓き流れを創った半生だったといえる。
 しかし、力はいつか衰える。今、知名に至った。向こう見ずではない力。フェーズに応じた力があるにちがいない。彼はそれを目指していると信じたい。……「僕の道」だ。

 古い言葉に光を当てて、人びとは歩み始めている。
 絆
 それは糸を分かつのではなく、断ちがたいと訓む。その最初の結び目は家族だ。「あなたの家族」だ。断ちがたいその一員であったことを、彼はただ誇りたい。
 80年のことだ。“My family my family!”と聴衆に向かい、彼は憑かれたように叫んだ。別ち難き糸。それこそ、「あなた」だ。父という名のあなただ。

   清流は浅い。だが、しきりに囂しい音を爆ぜながら奔る。彼はその只中を危ない足取りで遡上しつつ、静かに問う。
 
 僕は何処から来たのか。そして、何処へ行けばいいのか──。
 ルーツはそのままメルクマールを指すにちがいない。歴程を知らねば、未来は霞む。ザインを探らねば、ゾルレンの領解(リョウゲ)は叶うまい。その問いの解は、父に訊く以外にはないだろう。父こそ源の具象だからだ。
 そう。だからこそ、ひたすらにあなたに逢いたい。あなたの声が聴きたい。そこで、僕は「僕」に邂逅できる……。

 先日リリースされたアルバム『午後の天気』の中に、97年に発表されたDVD『名前のない川』のテーマ曲がリメークされて収録されている。『父へ』という副題が添えられて。
 最新CDを紹介するつもりが、かのDVDに写し込まれた川を歩く彼の姿が蘇り、あらぬ想念を呼んだ。筆者も父を知らない。父性への乾きがにわかに起こったのかもしれない。


「清流(父へ)」 作詞・作曲 吉田拓郎  
  〽あなたが 元気でいるならば
   僕は正面にひざまづき
   多くの無礼を 心から 
   おわびしなければなりません
 
   この頃 やっと正直に
   愚かな自分を声にして
   時には 人目もはばからず
   無念の涙を流します
 
   力が 永遠のものならば
   僕は後悔をしないまま
   若くて 選んだ激流を
   今でも泳いでいるだろう

   あなたの 家族でいたことを
   誇りに思える時だから
   叶わぬ願いは 求めすぎず
   運命の川を流れよう

   今ここにいる僕は
   何処からやってきたのか
   これから何処へ行けばいい
   あなたに逢いたい 
   あなたの声が聴きたい □


離婚と通販

2012年06月19日 | エッセー

 テレビから流れる音を聞くとはなしに聞いていたら、急に気分が暗くなった。
 なにかの芸能ニュースで、松田聖子の再々婚を報じていた。世代も違うし、彼女自身に対しては何の感慨もない。芸能人のプライベートな出来事に特段の興味も湧かない。50を過ぎてのそれであろうとも、平均寿命の延伸を徴すればあながち年甲斐もなくともいえまい。
 気鬱になったのは「家族、そして娘、神田沙也加からもあたたかい祝福と応援の言葉をもらい、その言葉を胸に心を引き締め頑張ってまいりたいと思います」とのコメントに及んだ時だ。
 なんでもアリーノが芸能界だとしても、ここまで破鏡や再婚を能天気に語っていいものだろうか。他人の娘(戸籍上はそうだ)まで引っ張り出して、自らの失敗履歴に裏判を押させていいものだろうか。「あたたかい祝福と応援の言葉」は、過去2度にわたる破鏡への肯定的理解を前提に発語されなければ理路が通らない。しかも恐ろしくも哀れなことに、娘は実の父親を足蹴にするという捩れたトポスに追い遣られている。少なくともこういう場合、別れた娘を引き合いに出すべきではない。それは最低限の大人のマナーだ。
 続けて、「驚きの後、次第に祝福ムードが広がっている」とも伝えていた。和田アキ子はラジオ番組で「昔だったら『ババアがなにやってるんだ』という感じだけどね。違和感を感じないね」と述べ、タレント議員の三原じゅん子も「おめでたい話。生涯の伴侶と出会えたのですね。いいな。お幸せに」と祝福したそうだ。ますます気が滅入る。和田が違和感を感じないのは、テメーが『ババア』であることを単に忘れているからだ。三原クンには悪いが、「生涯の伴侶」に3人も出会うはずはない。両方ともメディアに載せるような御託ではない。
 内田 樹氏が「「街場の現代思想」(文春文庫)で洞見を披瀝している。

◇「離婚のカジュアル化」と『通販生活』に共通しているものとは何か? それは「リセット可能性」である。どれほど貴重なものについても、「使ってみて、ダメだったら、他のものと交換する」ことができる。それはある意味たいへんに「贅沢なこと」である。しかし、どんな便利なものにも必ず欠点はある。「リセットが利く」ということは「最終的な決断」が不要になるということである。「使ってみてから、それがほんとうに自分が欲していたものであったかどうかを知る」ことが許されるということは、「使ってみるまでは、それが自分にとってほんとうに必要なものであるかどうかを真剣に吟味しなくてよい」という怠惰が許されるということである。そして、怠惰であることが許されるとき、私たちは必ずや精神の集中を惜しむようになる。あまり知られていないことだが、「やり直しが利く」という条件の下では、私たちは、それと知らぬうちに、「訂正することを前提にした選択」、すなわち「誤った選択」をする傾向にある。◇

 この前後に結婚について胸のすく高見を開陳しているのだが、本稿では割愛する(よりよい人生のために、必読をお薦めしたい)。──離・再婚は「リセット可能性」の元に行われる。「『やり直しが利く』という条件の下で」、「『誤った選択』をする傾向」が亢進する。──実に鋭い。かつ深い。だから、次のような結びとなる。

◇あなたが「結婚してみて、ダメだったら離婚して、もう一度やり直せばいい」という前提で結婚に立ち向かう場合と、「一度結婚した以上、この人と生涯添い遂げるほかない」という不退転の決意をもって結婚に臨む場合とでは、日々の生活における配偶者に対するあなたの言動には間違いなく有意な差が出る。◇

 筆者の場合、どう精査しても「有意な差」は認め難い。だからこの論考は肺腑を抉り、冷汗三斗を禁じ得ない。

 6月15日、「笑っていいとも!」に神田沙也加が出てきた。バナナマンの設楽に「お母さんが結婚されて」と話を向けられて、「ありがとうございます」と小声で、恥じらいとともに応じた。娘の方がよっぽどしっかりしている。親はなくとも、いや、いても子は育つ、か。 □


『世代幻想論』

2012年06月15日 | エッセー

 内田 樹氏による以下の考究には案を叩いて得心する。

◇「世代」というものはけっこう重要な概念だとぼくは思っています。世代論なんて何の意味もないよ、と言う人がいますが、それは短見というものです。確かに世代そのものにはたいした意味はありません。どんな世代にも優秀な人、愚劣な人、卓越した人、凡庸な人がいます。その比率はどの世代も変わりません。でも、自分がある世代に属しているという「幻想」を抱いたときから、「世代」はリアリティをもって同世代集団を縛り上げてゆきます。自分一人の経験の意味を、横並びの「同世代」的経験の中に位置づけて解釈するということが起こるからです。◇(角川文庫「疲れすぎて眠れぬ夜のために」から)

 『世代幻想論』とでも名付けるべきか。『世代幻想』によって成員がリアリスティックな縛りを受ける。たとえば、かつてほとんど「青春歌謡」にしか興味がなかったのに……

◇それがどうでしょう。ロック・ミュージックが六〇年代の若者文化のランドマークに認定された「後になって」、同学年の諸君が次々と「私は中学生の頃ビートルズに夢中だった」というふうに回想し始めたのです。これは明らかに模造記憶です。でも、本人はそう信じているのです。これが「世代」というものの「怖さ」です。自分がリアルタイムでは経験しなかったことを、自分自身の固有の経験として「思い出してしまう」というのが世代の魔力です。ぼくが世代論の有効性を見るのはこのような「偽造された共同的記憶(コメモレーション)」という幻想の水準の話です。◇(上掲書から)

 抜き書きだから否定的なニュアンスにとれるかもしれないが、決してそうではない。「幻想」には力がある。氏は『ためらいの倫理学』で「人間というのは、とても複雑で精妙で、主に幻想を主食とする生き物だ」とも述べている。
 かつて同窓会で中島みゆきの『時代』を、なんとしっかり演歌のこぶしを効かせて“歌い上げた”クラスメートがいた(女性である)。その時は吹き出してしまったのだが、よくよく考えると重層的で示唆に富む。同窓会の場でコメモレーションの縛りから、フォークをとなったにちがいない。しかし、「原体験」はない。「近回り」のところで、『時代』をチョイスしたか。だが、喉は「原体験」の演歌のままであった……と。(別に演歌が古臭いといっているのではない。誤解なく)
 内田氏の伝でいくと、「ロック・ミュージックが六〇年代の若者文化のランドマークに認定された」ように、「フォーク・ソングが七〇年代の若者文化のランドマークに認定された」といえなくもない。ただ注意を要するのは、ロックの主役たちは今はもういないが(主役たちはすべて海外だったし、本邦には紛い者しかいなかった)、フォークのメイン・メンバーは本邦で健在だということである。地続きの日本でともに同じ空気を吸い、齢を重ね、風雪を超え、かつ今もって黙ってはいないということだ。

   吉田拓郎 「午後の天気」

 3年振りのアルバムが、今月20日にリリースされる。インフォメーションによると、NHK時代劇「新選組血風録」の主題歌『慕情』、10~11年ニッポン放送「ショウアップナイター」のテーマソングだった『that's it やったね』、キンキキッズへの提供曲『危険な関係』など全10曲。通算33枚目のアルバムである。 06年「つま恋」が跳ねた時、あとは人生の錦秋を闊歩する白虎となって自適に、と本ブログに記した。しかしまだまだ白虎も自適も性に合わぬと見える。こちとらだって、それに越したことはない。なんとも楽しみな。
 前作が「午前中に・・・」だった。今度は「午後」である。次作は「夜」か。「午後」と「天気」、なんだかメタファーじみてくる。中身? 聴いてはないが、いいに決まってる。いいものしか世に出すはずはない。前作はアルバム・ヒットチャートで、60歳以上初のベスト10入りを果たした。さて、今度は。

 あと20年ぐらい経って、団塊の世代のランドマークはどのように認定されるだろう。まさか、AKB48ではあるまい。おぞましい予想だが、老人ホームの語らいに「私は還暦過ぎの頃拓郎に夢中だった」と回想する者はいるだろうか。呆けて連れ合いの名さえ忘れても、『世代幻想論』は有効で、コメモレーションは機能するだろうか。もしも筆者が棲息していたら……、絶対に言ってやる! 「今も夢中だ」と。 □


3つのトンチンカン

2012年06月14日 | エッセー

 O沢元代表は原発再稼働に反対だそうだ。と聞いて、事の意外さになんだか気持ちの悪い連想が浮かんだ。乙女が女に至る端境を前にして見せる含羞、いや年増が意外にもなにかの拍子に見せる乙女のような可憐……。
 そのどちらも、以下の記事で微塵に砕けた。
〓〓民主党内で消費増税をめぐる亀裂が深まるなか、再稼働の決断は首相をさらに追い詰める可能性がある。首相に再稼働の再考を求める署名に賛同した民主賞議員は、鳩山由紀夫元首相、小沢一郎元代表ら117人に上る。小沢グループの東祥三前内閣府副大臣は8日の街頭演説で、「問題が起きた時にどう対処するか想定しない限り再稼働は難しい」と訴えた。消費増税の反対派が、再稼働慎重に軸足を移す動きもある。〓〓(5月9日付朝日) 
 元はといえば、J民党時代から原発を推進してきた古株である。M主党代表の時に、党の路線を明確に原発推進へと転換した。そんな人物が簡単に『転向』するわけがない。筆者の連想がなんと他愛のない、幼稚な、能天気で、かつ乙女チックであったことか。赤面のいったりきたりだ。
 しかしそれにしても、見え透いたマキャベリズムではないか。いな、その名に値しないほどに低劣、稚拙な駆け引きではないか。まことに辻褄が合わない。これをトンチンカンと呼ばずしてなんとしよう。その尻馬に乗るH山元首相もいるが、こんなのは語るに足らない。

 Kん前首相も原発再稼働に反対らしい。この御仁は事故対応を邪魔した張本人として、いま断罪されつつある。もう懲りましたとも言わず、国会事故調で「今回の事故を体験して最も安全な原発は、原発に依存しないこと。つまり脱原発の実現だと確信した。」などとおよそ日本語になっていない与太を飛ばした。「最も安全な原発」が「脱原発」なのでは、「脱原発」こそ「最も安全な原発」となる。『原発』は依然として残るではないか(それを言うなら、「最も安全な発電は」でしょうが)。洒落たレトリックのつもりだったろうが、飛んだ墓穴を掘っている。Kんクンはリテラシーからやり直すべきだと、筆者は「確信した」。
 加うるに、以下の報道だ。
〓〓「大飯再稼動待った!」国会議員119人署名に菅直人前首相の名前がない<しょせん、口先だけがまたも露呈>
 再稼働に反対し、民主党の国会議員119人(6月11日現在)が「慎重に判断すべし」と申し入れている。ところが、この署名に肝心の名前がなかった。脱原発にあれだけこだわった菅直人前首相だ……。
 「小沢グループと連動していると思われたくないんだろう」(菅周辺)なんて、言われている。〓〓(Gendai.Net 6-12)
 さらに、事故調での糾弾に言い訳を繰り返している。いやはや情けない(5月29日付本ブログ「月夜の蟹の泡」をリファレンスされたい)。憐れなことに、Kんクンは、テメーがすでにレイムダックであることに無自覚だ。病識のないクランケはとことん御しがたいというべきか。頓馬この上もない。これをトンチンカンと呼ばずしてなんとしよう。舞台を降りた者は慎まねばならぬ。この程度の者と比すべくもないのだが、徳川慶喜は大坂退却後ひたすら謹慎し、後にも維新の事どもについてついに語らず生涯を終える。慎むとは、すなわちこういうことだ。爪の垢の3番煎じくらいでも飲んではいかがか。

 もうひとつ。
〓〓尖閣諸島:領有明確化に国会動くべきだ…衆院委で石原知事
 衆院決算行政監視委員会は11日、東京都による尖閣諸島(沖縄県石垣市)の購入問題について集中審議し、石原慎太郎都知事らを参考人招致した。石原氏はこれまでの政府や国会、外務省の対応を厳しく批判し「都がやるのは筋違いだが、(国が動かないから)やらざるを得ない。国会も国政調査権を使って(国に議員の上陸を認めさせるなど)動くべきだ」と訴えた。
 石原氏は、中国側が尖閣諸島を「核心的利益」と位置付けて領有権を主張していることや、中国漁船衝突事件を引き合いに出し「『強盗に入るぞ』と言われて戸締まりしない国がどこにあるのか」と指摘。「こんなことになったのはあなた方の責任、政府や国会の責任だ」と怒りをあらわにし、領有権を明確にするための対応強化を国に求めた。〓〓(毎日新聞 6月11日)
 本人も「筋違い」だと言う。これをトンチンカンと呼ばずしてなんとしよう。40年前である。小平は、「釣魚島の領有問題は後世の知恵にゆだねて一時棚上げしよう」と提案した。棚上げというソリューションである。白黒に拘るコストと棚上げによるベネフィットを天秤に掛ければ、答えは明らかだ。大人の知恵である。それを今、なぜ「筋違い」にも蒸し返すのか。100年は優に跨いでしまうのが真正の政治的センスである。これでは政治音痴、政治神経失調ではないか。理由があるとすれば、臭い鯉の一跳ねを演じてみせたということか。
 かくなる上は、快刀乱麻を断つ筆鋒に捌いてもらうに若くはない。内田 樹氏だ。
◇対中国強硬論者というのがいますけれど、彼らに共通する特徴がわかりますか。全員「早口」ということなんです。石原慎太郎なんかその典型ですけれど、込み入った話というのを生理的に受け付けられない人たちが「日本人にとってベストなオプションはこれである。中国人はこれに同意しない。だから、中国人は間違っている」という信じられないほど非論理的な推論を平然と口にする。視聴者はそれを「へえ、そうなんだ」とぼんやり聴いている。◇(ミシマ社「街場の中国論」から

 宜なる哉。『強盗』と『戸締まり』は非常に分かりやすい。だが、ひとつだけ落としている。『だれの家か?』だ。そこで悶着しているのだ。それは「込み入った話」である。長遠な歴史に国家観や国境観が絡み合ったI原氏などが「生理的に受け付けられない」アポリアなのだ。だから、件のソリューションとなった。
 さらに、長い引用をする。

◇小沢一郎とか石原慎太郎とか「大言壮語」するタイプの政治家の経国済民の大演説だってぼくはずいぶん薄っぺらだと思います。彼らはことあるごとに「日本の国益」について語りますが、その日本の「国益」を論じるときに、あの方たちは、自分たちの意見に反対する人間を「日本人」にカウントしていないでしょう。自分に反対する人は簡単に「非国民」と切り捨ててしまう。あの方たちにとっては、「自分に賛成する人間」だけが「日本国民」で、彼らに反対する人間は日本人に含まれないんです。それなら確かに「国益」を守るのだって、たいして難しくはないでしょう。国益とか公益とかいうことを軽々と口にできないのは、自分に反対する人、敵対する人であっても、それが同一の集団のメンバーである限り、その人たちの利益も代表しなければならない、ということが「国益」や「公益」には含まれているからです。反対者や敵対者を含めて集団を代表するということ、それが「公人」の仕事であって、反対者や敵対者を切り捨てた「自分の支持者たちだけ」を代表する人間は「公人」ではなく、どれほど規模の大きな集団を率いていても「私人」です。自分に反対する人間、自分と政治的立場が違う人間であっても、それが「同じ日本人である限り」、その人は同胞であるから、その権利を守りその人の利害を代表する、と言い切れる人間だけが日本の「国益」の代表者であるとぼくは思います。自分の政治的見解に反対する人間の利益なんか、わしは知らん言うような狭量な人間に「国益」を語る資格はありません。オルテガ・イ・ガセーは「弱い敵とも共存できること」を「市民」の条件としていますが、これはとても大切なことばだと思います。「弱い敵」ですよ。「強い敵」とは誰だって、しかたなしに共存します。共存するしか打つ手がないんだから。でも「弱い敵」はその気になれば迫害することだって、排除することだって、絶滅させることだってできる。それをあえてしないで、共存し、その「弱い敵」の立場をも代表して、市民社会の利益について考えることのできる人間、それを「市民」と呼ぶ、とオルテガは言っているのです。これが「公」の概念ということの正しい意味だとぼくは思います。「公共の福利」とか「国益」という概念も、「人類益」というもっと大きなフレームワークから考えると所詮は「せこい」話なんです。「せこい」話なんだけれど、この程度の「せこい」利害でさえまともに代表できる人間がいない、それを代表することのほんとうの意義が分かっている人間がいない、というのが今の日本の政治の病根の深さを表していると思いますね。◇(角川文庫「疲れすぎて眠れぬ夜のために」から)

 鍛冶屋の相鎚は拍子をとって交互に打つ。リズムが合わないと、鎚音が乱れる。それがトンチンカンだ。合わせる気もない、手前勝手な夜郎自大のおはこだ。 □


インかアウトか

2012年06月11日 | エッセー


 別に野球でも、ゴルフのはなしでもない。シャツの裾出し、裾入れのことだ。団塊の世代は圧倒的にインだと“信じて”いたが、世の流れには抗されぬものか、おじさんもおばさんも最近ではほとんどがアウトだ。インは「電車男」以来、すっかりオタク・ファッションにカテゴライズされている。
 そもそもシャツというものは……などと御託を並べても、ネクタイの起源を語るトリビアルな知識の開陳と同じぐらい空しいだろう。スカートの丈が伸縮を繰り返すほどのファッション・トレンドでしかなかろう。ただ、短くなる背景を探る文化論的考究には大いに興味は涌くが。
 90年代中葉には、バブルの崩壊と揆を一にしてアウトが主流になったらしい。時代のどんな気分がトリガーになったのか。回顧してみるのも一興か。自棄(ヤケ)のやん八で、ただの紙屑になったゴルフ会員権をぶちまけたようにアウトにしたのか。インにする暇も惜しんでバブルの後片付けに狂奔したのか。茫然自失が世の表徴として形に残ったものか。いずれにせよ、20年の星霜を経る。
 筆者はかたくなにインである。アウトはだらしなくていけない(Tシャツは自宅ではアウト。肌着であるとの解釈に拠る。だが、外出はイン)。バブルに乗るほどの経済的余力を持ち合わせていなかったお陰で、自棄のやん八も、茫然自失することもなかった。時代のメイン・ストリームには、団塊の世代という巨万の“同志”がきっと一丸となって抗するものと“信じて”いた。しかしその信憑は脆くも崩れ去った。
 なんのことはない。メイン・ストリームのメインにはこの世代が盤踞していたのである。とすると、ひょっとして主犯格、いや共同正犯か。バブルを超えた時期に団塊ジュニアの、つまりはテメーたちの伜や娘の顰に倣ったのかもしれないのだ。となれば筆者は置き去りにされたのか、スポイルされたのか。いな、誘われたにしてもついてはいかなかったであろう。(えへん!)
 ところが、である。いつも見慣れているのだが、先日ふと拓郎のレコード・ジャケットに目が止まった。73年リリースの「伽草子」である(奇しくも)。チェックのシャツを着て、野に立つロングヘアーの拓郎が映っている。な、なんと、シャツがアウトなのだ! (意味は違うが)刮目して見るべし。当時の写真をチェックしてみると、あるわあるわ、アウト、アウトのオンパレードである。これはアウトだ(分かりにくい)。人後に落ちないファンとして、この動かぬ『史実』はどうしたものか。その前に、なぜ気づかなかったのか。ファンの名に値しない大失態ではないか。ああ、恥ずかしい。穴があったら入りたい。ないから、入らない。
 ネットを漁ってみると、次のような『証言』に出くわした。
──シャツの裾出しの問題ですが、少なくとも70年代半ばには若いもんの間ではお洒落の一環として行われていたと思います。ジャケット感覚でシャツをはおる、とかなんとか言って。当時、高校生だったのですがつきあっている女の子にそのようにしろと指導を受けました。──
 「70年代半ば」の「若いもん」のロールモデルは、断然フォークシンガーだった。別けても「フォークのプリンス」拓郎は最右翼であったろう。ならば、拓郎は時代を20年分超えて先駆けていたことになる。なんとプログレッシヴ! スタイリストめいた者はいたかもしれぬが、ロングヘアーと同じくプロテスト・スピリットが裾出しに繋がったに違いなかろう。
 まことに悩ましい。“to be in or not to be in that is the question”というほどに悩ましい。「なにを大仰な」とたしなめられそうだが、本当に困った。拓郎に倣うには遅きに失する。40年も前だ。かといって最近、インの孤立感、浮遊感もかなりストレスフルになってきた。ジュニアやジュニアズ・ジュニアに媚を売りたくない。媚という人情噺でしか言い訳ができないのではないが、そもそも論を持ち出したところで、おやじの与太話にされるのがオチだ。ならば、世代論に持ち込んだ方が納得がいく。しかし、世代の旗手はプログレッシヴにもアウトだった……。たかがファッション、ともいえないくらい瑣末な着こなしではないか。そんなに肩肘張るほどの問題でもなかろうと、悪魔の囁きも聞こえる。大物ならいざ知らず、小物から小さなこだわりを除いたら何が残るというのか。
 えぇーい。この際だ。半分アウトで、半分インではどうだ。前後半分にするか、左右半分にするか問題は残るが(しかも、相当面倒臭い)、見事な棚上げだ。棚上げも立派なソリューションだと、内田 樹先生もおっしゃっている。どっちつかずと嗤ってはいけない。どっち入れず、だ。 □


外れた似顔絵

2012年06月08日 | エッセー

 菊地直子の逮捕には驚いた。まずは、あまりの変わりようにびっくりした。ある意味、『落胆』もした。捜査員が「すれ違っても判らなかっただろう」というほどだ。おまけに現年齢に合わせて作られた手配の似顔絵は、惨めなほど似ていなかった。あれでは別人だ。担当者にはかわいそうだが、現実はそれほど『甘く』ないということだ。むしろ一番変わらないのは声ではないかと、こういうことのたびに考える。手配には面相だけでなく、声をフィーチャリングする工夫を望みたい。
 久方ぶりに、養老孟司氏の言が蘇る。

◇個性とは、じつは身体そのものなんです。でもふつうは、個性とは心だと思ってるでしょう。話は逆じゃないんですか。心に個性があったらどうなるか、まじめに考えてみたことがありますか。心とはなにかといえば、共通性そのものです。なぜなら私とあなたで、日本語が共通しています。共通しているから、こうやって話して、あなたがそれを理解します。同じ日本語で話しても、それが理解できなかったら、どうなりますか。つまり通じないわけです。通じなかったら、話す意味がありません。通じるということは、考えが「共通する」ということでしょうが。◇(PHP新書「養老孟司の<逆さメガネ>」から)

 さすがに深い。菊地たちは「心に個性があった」。あり過ぎた。「心に個性があったらどうなるか」。「同じ日本語で話しても、それが理解できなかったら、どうなりますか。つまり通じないわけです。通じなかったら、話す意味がありません」。その「話す意味」を認めない狂気の「個性」が、あの酸鼻をきわめた地獄絵を招来したといえる。あらためて「まじめに考え」ねばならぬ。
 親子間の臓器移植でさえ儘ならぬほど身体は個性的だ。

◇個性は身体でしょ、身体は自然でしょ、都市社会は意識の社会で、そこには自然は「ない」でしょ。だから個性尊重という嘘をつく。というより、嘘にならざるを得ないんですよ。都市社会は意識の世界、「同じ、同じ」を繰り返す世界です。そこで「違う」個性が認められるはずがない。学校も社会のうちですから、もちろん社会の常識で動きます。その社会は都市社会、意識の世界です。そこではだから、身体という個性は、本当は評価されません。身体は自然ですから、むしろそんなものは「ないほうがいい」んです。だから運動会をすれば、全員が一等賞になる。◇(上掲書から)

 菊地たちの偏狭な世界では、「意識の社会」「意識の世界」が極限的に煮詰められた。「そこで『違う』個性が認められるはずがない」し、「身体という個性は、本当は評価されません。身体は自然ですから、むしろそんなものは『ないほうがいい』」とされる。『ないほうがいい』指向が外に向かえば「ポア」となり、内に向かえば「ヘッドギア」「体外離脱」「臨死体験」となる。いずれも「身体という個性」を強圧的に均し、身体という「自然」をネグレクトし、支配しようとする。養老説でいえば、身体と心の完全な倒錯である。だから社会との向き合い方も逆転した。いま麻原の目前にある鉄格子も、むしろ社会を隔離する鉄扉でしかなく、病的に個性と化した心には法廷の日本語は異星の音波でしかない。だから彼は語りようがないのだ。
 振り返れば、彼女はそれ以前も、そしてそれ以後の17年間も、ひたすら意図的に「『身体という個性』を強圧的に均し、身体という『自然』をネグレクトし、支配しよう」とし続けた歳月だったといえる。身体を「共通」化し、寸毫もその個性を際立たせてはならないシシュポスの如き苦役だ。逆位は、これで戻るだろう。外れた似顔絵は容易ならざる「身体という個性」との格闘の、刹那の「技あり」だったかもしれない。 □


B J

2012年06月05日 | エッセー

 首の皮一枚。女子バレーが世界最終予選で、やっとオリンピックの出場権を手にした。朝日新聞が次のような分析をしている。──戦前のデータで「各セットで21点を先に取れば、90%の確立で勝つ」と予測されていたが、その通りになった。先に21点を取られた状況からセットを奪ったのは、キューバ戦の1セットのみだった。「先行されると後手に回り、リズムがつかめない」と、各選手は口をそろえた。21点先行逃げ切りが日本の勝ちパターンだ。──競馬でいえば、逃げ馬か。
 ハナをきる馬は闘争心が強いか、気が弱いかのどちらかだという。前者は他の馬に追いつかれた途端に気が萎える。後者はペース配分が単調になり競り負ける。選手のコメントを聞くと、どうも後者に近い。
 印象に残ったのは韓国戦とタイ戦だ。前者は完敗、後者もスコアの割りには薄氷を踏む勝利だった。しかもタイがキューバに勝ったため、ポイントではタイと並んだ。敗れたものの、日本は最終セルビア戦で2セットをとりセット率・得点率でタイをわずかに上回った。文字通り、首の皮一枚の、出場切符一枚である。
 女子バレーのオリンピックデビューは金メダルだった。これほど輝かしい出発は御家芸の柔道ぐらいしかない。つまりは始めからキャッチアップされる対象として世界に乗り出したのだ。男子も追随し、回転レシーブやクイック、時間差など、さまざまなイノベーションが繰り出された。東京オリンピック以降、黄金時代が続いた。しかし、やがてキャッチアップされて低迷が始まる。歳月とともに、かつての栄光は今や失せた。……と振り返れば、日本経済の消長、わけてもトップ企業の盛衰と重なってくる。しかも1、2周早く、予見的でさえある。積み上げた技術が移り、コストで太刀打ちできなくなる。トップランナーが背負う宿命の軌跡といえなくもない。だから韓国とタイに蹂躙された今回の女子バレーがわが国の来し方を表徴しているようで、観戦のあとに微かな寂寥感を覚えた。
 学生のころ、明けても暮れてもトランプ・ゲームのブラックジャックに嵌まったことがある。「21」をめざしての攻防だ。実におもしろい。だが、バレーは21では勝てぬ。あと4ポイント必要だ。そこはもはや知恵の勝負であろう。世界を出し抜くイノベーションだ。トップランナーの復活には、原点に戻るほかはあるまい。
 単なる連想だが、手塚作品に「ブラックジャック」がある(トランプのBJとは無関係)。天才無免許医師のはなしだ。メスの凄腕はもとよりだが、無免許と法外な治療費という設定に曲がある。現代医療へのアンチテーゼであろうが、新しい地平は常識や良識、世の規矩準縄を超えたところに開ける、そうは読めないだろうか。「世界を出し抜くイノベーション」である。
 BJなら女子バレーを観て、なんと言うだろう。他愛もない妄想が走る。 □


ファスト・総選挙

2012年06月01日 | エッセー

 世のトレンドは明らかに“ファスト”に向かっている。マック、ケンタのファスト・フードを筆頭に、ユニクロを旗頭とするファスト・ファッション、ニトロのファスト・ファーニチャー、ワタミとくれば居酒屋チェーン、それに回転寿司チェーン、空ではLCCと、引きも切らない。ファストビジネスがデフレの一大要因にはちがいなかろうが、「速く、安く」に「こだわり」や「クオリティ」を加えた商品が消費者を掴んだ。
 芸能界も劣らず、相当早くからファスト化してきた。お笑いもそうだし、おにゃん子はその代表だった。だが、なんといってもAKB48が極め付きだろう。その『総選挙』が近々あるらしい。今年1月朝日新聞がシリーズ「カオスの深淵」──「選ぶ」って何だろう──で、件の『総選挙』を取り上げた。
〓〓AKB48のファン投票による「総選挙」で昨年、1位に選ばれた前田敦子さんはこういう。「ファンに選んでもらって、ここにいていいんだ(中央で歌うことについて・引用者註)と思えました」。選挙だからこそ得られる正当性。「ファンが決めて何かを背負うのなら、それは素直にうれしい」「私を嫌っても、AKB48を嫌いにならないで」。総選挙のあと前田敦子さんは、ファンにそう訴えた。「ファンにはそれぞれ好きなメンバーがいる。私が1位なら、AKBなんてもういいよ、って思われたくなくて」多数決は、決を採るだけでは完結しない。負けた人たちも「私たちみんなで決めたことだから」と結果を受け入れなければ民主主義社会は動けない。ファンの間にも争う雰囲気はあった。「選ぶというのは残酷に見えるかもしれないけれど、人数の多い私たちには必要だと気づいた。ファンの参加が私たちをまとめてくれる」と考える。選挙がはらむ分裂の危機をくぐり抜けながら社会は結果をみんなで受け入れ、「私たち」という感覚を確認して前に進む。だが、多くの民主主義国では選挙がそんな機能を果たせなくなっている。
 AKBの「総選挙」は確かに民主主義をめぐる寓話やパロディーかもしれない。だが、本当の選挙が「99%」の声を政策に反映できないならば(1%の富裕層が決定権を握る寡頭制への流れが強まるならば・引用者註)、それもまた民主主義とは似て非なる戯画にすぎない。〓〓
 括りの部分に主眼はあるとしても、ずいぶん持ち上げたものだなと違和感を抱いた。社会契約論風にいえば、「本当の選挙」は私権の委託である。わが身を委ね、縛られることだ。権力の遣り取りだ。まるでトポスが違う。似て非なるものだ。朝日はよほどAKBが好きなのかもしれないが、年増の深情けか。どだい、比べようのないものだ。引き合いに出すのも憚られる代物ではないか。
 こんなあざとい仕掛けは高名なプロデューサーAによるものであろうが、付加価値の付け方が人を食っている。なんとも阿漕なファスト・エンターテインメントである。
 5月「週間現代」が「この国の未来 原発と橋下を語ろう」と題して、文芸評論家の加藤典洋氏と内田樹氏の対談を組んだ。そこでも件の『総選挙』が出てきた。
◇加藤 AKBの総選挙ではアイドルグループの人気投票なのに、まるで国民的イベントのようにファンが盛り上がる。橋下候補への投票行動も何か面白いことやってみようということで、あれはもはや政治行動というより、イベント参加なんですね。
内田 芸能人の人気投票を「総選挙」と名づけること自体が、ある種、選挙制度を侮っていると思いますね。国政選挙とは人気投票じゃありません。政治家としての見識であったり器量であったり、政策の適否を議論するわけであって。ポピュラリティと選良としての適性の間には相関はありません。◇
 我が意を得たりである。「ある種、選挙制度を侮っている」との内田氏の舌鋒はどうだろう。逞しい商魂にくるんだAの人品骨柄の軽さ薄さを見事に抉っている。
 ところが、捨てる神あれば拾う神ありか。批評家・濱野智史氏は「AKB的『劇場』を政治に」と題して、朝日に寄稿している(5月31日)。──民衆と政治家との信頼関係が崩れ政治へのシニシズムが蔓延する中、AKBの「総選挙」は低迷する社会を突破する重要なヒントを与えてくれる。AKB総選挙の熱狂には、AKBの徹底した現場主義がある。劇場での連日公演、握手会、ファンとの対話という現場での繋がり。小さいことからコツコツ積み上げる「スモールスタート」。地方を含め、小さい劇場での舞台と観客とのダイレクトな触れ合い。ファンとの繋がりの中で見守られ、成長していく。たかがアイドルのファン投票イベントと侮ってはいけない。AKB的スモールスタートの実践こそが、政治家と民衆の信頼関係を取り戻す。──大要、そう述べている。
 AKBを見倣ってどぶ板選挙をせよという戦術的訓戒なら、理路は整然としている。しかしイベント的熱狂と政治的熱狂を並置すると、理路は突如雑然とする。ナチズムのような熱狂よりも、シニシズムの方が百千万億倍尊い。Aの術中に嵌まった思考停止、ないしは混濁としかいえない。あるいは、とてつもない能天気か。
 低迷する社会の病根はもっと深い。選良と選挙民との関係に落とし込んで済む問題ではない。パイロットと乗客が和気藹藹であっても、機体に穴が空いていたのではフライトは危ないですよという話だ。

 突然だが、美空ひばりをこよなく愛した者のひとりとして歌ってほしくない曲が一つだけあった。「川の流れのように」だ。耳に触れるたびに、気が滅入る。使い古して擦り切れた定番のことばが、あざとく定型的に羅列されているだけだ。ひばりともあろう者が、なぜこんな薄っぺらな歌詞をチョイスしたのか。筆者にとっては大きなあやかしだ。Aの作詞である。作詞家として「大成」する嚆矢となった曲だ。例によって、“ファスト・ソング”の典型でもある。 □