伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

圭くん・眞子さん かわいそう

2021年05月28日 | エッセー

 橋本 治氏は遺作「『原っぱ』という社会がほしい」で、天皇制とは「日本人の権力付与制度」であると喝破した。受けて、本年3月の拙稿「メーガンの不覚悟とトヨタの不覚」で次のように呵した。
〈「権力付与」をなす主体は「権威」であろう。それは「記紀神話」によってオーソライズされた。男神イザナギから末娘アマテラスへ。さらに孫のニニギ、その曾孫神武へという神の系譜である。御簾に遮られてあるのは神に素顔はないからだ。戦後皇室に係るマスコミとジャーナリズムが叢生したのは御簾を払った素顔が国民に理想的家族の典型として映じたからだ。といって天皇主義を語っているのではない。「権威」の淵源は天皇が神の系譜にあるという擬制に発するといっているだけだ。言い方を替えると、天皇に上位者はいないということだ。神に上位者がいないように。〉
 婚約内定から4年、三島文学の言葉を借りれば『永すぎた春』。小室圭氏と眞子内親王との婚約が相調わない。今や、芸人風情のコメンテーターなるものを寄せ集めたTVワイドショーの格好のネタに貶められている。「芸人風情」は蔑称のように受け取られるかもしれないが、専門知識も無い連中がいかにも庶民の代表でございという立ち位置で発言することに違和感を感じるからだ。誰も(少なくとも稿者は)君たちに代弁を頼んだ覚えはない。「お前だって門外漢のくせに知ったかぶりのコメントをしているじゃないか!」と叱責を浴びそうだが、こちとらはプライベートな発信。彼らは公共の電波に乗っている。雲泥の違いだ。
 職業選択の自由はもちろんある。ただ、その立ち位置は踏まえなければならぬ。お笑い芸人ならお笑いの道に励むべきだ。二兎を追う者は一兎をも得ずというではないか。放送局も市井の声を拾うなら2・3人の街頭インタビューで済ませるのではなく、広汎な世論調査やきめ細かな取材を展開すべきだ。TV離れで実入りが減り、お笑いをコンビニシステムにデフォルメしたY本興業に頼らざるを得ない実情があるのだろう。がそれにしても、こんなことを繰り返していてはTV離れは余計に加速するばかりだ。
 特にこの件については、ワイドショーは罪深い。皇室という「権威の淵源」を巷の憎愛劇に引きずり下ろしている。稿者は決してナショナリズムから発語しているのではない。日本文化のオリジナリティーに準拠して言い及んでいる。
 私見を述べるなら、婚約相調わない理由は内在的には宮内庁の怠慢、外在的にはアンバイ政権のアパシーだ。
 こんなことはいち早く宮内庁が動いていればとっくに片付いている。まず公になる前に情報を掴んでなければいけない。そうすれば、内々に処理できる案件だ。隠すのではない。次善の策であっても事を進めるための方便だ。大人の知恵だ。それを事もあろうに、先般の小室文書に眞子さんが関与していたと仄めかした宮内庁幹部がいた。もう何をか言わんやである。
 政権中枢も助力すべきだった。しかし、その形跡はない。なぜか。外在的にアンバイ君がアパシーを決め込んだからだ。皇位継承に無関係な婚約なぞ関心が無い。関心があるのは「21世紀の大日本帝国づくり」のみである。因みに、「21世紀版大日本帝国」は浜矩子先生の命名である。実に本質を穿ったネーミングだ。あるいは、「理想的家族の典型」に下手に容喙して保守層の反発を喰らうことを回避したのかも知れない。なにせ「あんな男」でも狡知は働く。天皇明仁の退位表明を2年余も店ざらしにした男である。それぐらいのことはやりかねない。核心的理由はここにある。スッカスカ君だって同じ。本年度予算には結婚一時金は計上されていない。アパシーを超えて早ネグレクションだ。
 ワイドショーはかまびすしく雑音を撒き散らすばかりでいっかな核心を衝かない。解ってそうなのか、解らずなのか。おそらく後者であろう。政権にとっては渡りに船。コロナ失策の目眩ましになる。コロナに倦んでいる時にワイドショーは視聴率を稼げる。浮き草同士のWin-Win関係。結構なことだが、圭くんも眞子さんもなんかかわいそー。大人がもっと何とかしてやれよ、だ。 □


ほんにお前は屁のような

2021年05月26日 | エッセー

 ド素人のくせに、経済とは何かと本を漁ったことがある。まず竹中平蔵が喉に支え、高橋洋一でなんとか嚥下し、胃もたれがする中、浜 矩子先生でストンと腑に落ちた。
 浜先生は近著「“スカノミクス”に蝕まれる日本経済」で次のように語る。
〈善き政策責任者が保有すべき目は、どんな目か。それは、涙する目だ。善き政策責任者の涙する目がたたえているのは、共痛のもらい泣きの涙だ。自分たちが救済すべき弱者たちは、どんな痛みを抱えているのか。どんな苦しみを苦しんでいるのか。どんな不均衡の是正を欲しているのか。そのことに思いを馳せて、共痛のもらい泣きの涙を流す。それができる目をもつ人でなければ、清く正しい経済政策の善き担い手にはなれない。〉
 実に明解だ。さらに、経済活動とは「人間による人間のための人間だけの営み」とし、以下のように続ける。
〈経済活動は人間を幸せにできなければならないということだ。人間が人間のために行う営みが人間を不幸にするというのは、まったく理屈に合わない。経済活動は常に人間に幸福をもたらさなければいけない。これが大鉄則だ。
 実は経済活動ではない営みが、経済活動の振りをしてまかり通っている。偽の経済活動は、確かに、人間を不幸にする。
 経済合理性に適うための最も本源的な要件は、基本的人権を侵害しないこと、基本的人権の守護神であり得ることだ。なぜなら、経済活動は人間を不幸せにしてはならないからである。そして、基本的人権を侵害されることほど、人間にとって不幸なことはない。だから、経済的観点からみて合理的であるためには、基本的人権を脅かす側面が微塵もあってはならないのである。〉
 したがって、
〈原発には、この人権の基盤部分を突き崩す危険性が内在している。そのようなものに経済合理性はない。「ブラック企業」を企業扱いしてはならない。ブラック組織もまた、人の生存権を脅かす。単に“ブラック”だ。〉
 と、畳み掛ける。
 もう、『惚れてまうやろ!』ではないか。
 「声はすれども姿は見えず、ほんにお前は屁のような」という落語のストックフレーズがある。存在感の希薄を揶揄している。江戸の名歌「声はすれども姿は見えぬ 君は深山(みやま)のきりぎりす」の本歌取りだそうだ。きりぎりすはコオロギの古称、よく鳴く虫の筆頭格だ。草叢で忙しなくすだきはしても一向に存在感がない。官邸の深山に生息する“うっせー”虫によく似てはいまいか。ただこのコオロギ、目眩を催す強烈な悪臭の放屁をする。さざ波どころか大波の襲来。体ごと汚泥の海に呑み込まれてしまう。
 辞任を受けてスッカスカ君は記者にこうコメントした。
「本人から大変申し訳ない、訂正したいとお詫びしている。その中で、これ以上迷惑をかけることはできないということで辞任をされた。大変反省をしておられた。自ら辞職したいということだった。不適切な発言ということをご本人が取り消し、謝罪した中で、責任を感じたということだった」
 これでは事の経緯を述べただけ。まるで他人事。こちらも臭せーっ“スカ”しっペだ。おすがりしたのは君だろうに。
 今更ながら、ほんにお前は屁のような。嗚呼。 □


あんちゃん、言ってやったぜ!

2021年05月23日 | エッセー

 歯牙にも掛けずだったらしいのだが、今日、朝日は社会面で次のようにさりげなく報じた。
〈防衛省の抗議に新聞労連が声明 「公権力監視を威圧」
 日本新聞労働組合連合は21日、新型コロナウイルスワクチンの大規模接種の予約システムの不備を指摘した朝日新聞出版と毎日新聞社に防衛省が抗議したことについて声明を出した。声明では、メディアが重大な不正行為が行われる可能性や重大な欠陥を見つけた時に、独自に事実を確認し報道するのは、ジャーナリズムの倫理に基づいた行動だと指摘。行政機関が取材手法を一方的に非難することは「自由な言論活動や公権力に対する監視を威圧し、否定することにつながりかねない」と批判した。〉(5月23日付)
 事のいきさつはこうである。
 東京と大阪に国が設置し自衛隊が運営する大規模接種センターはウェブ予約のみである。そこで、朝日、毎日の記者が架空の接種権番号でも予約できるかどうかチェックしてみた。これができた! 明らかにシステムのバグである。もちろん記者たちはチェック後、すぐに予約を取り消している。その報道に改修を表明したものの、あろうことか岸信夫防衛相が逆恨み、八つ当たりに出た。
〈自衛隊大規模接種センター予約の報道について。
今回、朝日新聞出版AERAドット及び毎日新聞の記者が不正な手段により予約を実施した行為は、本来のワクチン接種を希望する65歳以上の方の接種機会を奪い、貴重なワクチンそのものが無駄になりかねない極めて悪質な行為です。〉
 と、今月18日ツイートしたのだ。苔生した例だが、サルだって反省する。ところが、反省の「は」の字もない。まるでチンピラのいちゃもんだ。弱者目線で行政の振る舞いをチェックするのはジャーナリズムの基本中の「き」である。それも知らずに「選良」なぞとよく言えたものだ(今では誰も言わないけど)。メディアのスタンスについて、思想家内田 樹氏は医療事故の報道に準えてこう語る。
〈メディアは患者サイドからの「告発」を選択的に報道し、病院側の「言い訳」についてはあらわに不信を示すというのが報道の「定型」になっている。この偏った報道姿勢には、実は理があるのです。「とりあえず『弱者』の味方」をする、というのはメディアの態度としては正しいからです。けれども、それは結論ではなくて、一時的な「方便」にすぎないということを忘れてはいけない。〉(「街場のメディア論」から)
 前記の記者たちはこれに照らして至極真っ当な振る舞いであったといえる。
 さて、岸の愚昧に輪を掛けたのが実兄アンバイ君だ。同日、
〈朝日、毎日は極めて悪質な妨害愉快犯と言える。防衛省の抗議に両社がどう答えるか注目。〉
 と、ツイート。まるで鬼の首でも取ったようだ。

「あんちゃん、おいら、言ってやったぜ!」
「おう、さすがおいらの弟、よくやった!」

 と高笑い。なんか、マンガのような一コマが浮かんでくる。弟が「悪質な行為」といい、あんちゃんが事例も示さず「悪質な妨害愉快犯」と受ける。裏にはかつての朝日、毎日による偽造報道への揶揄があるとみていい。加えて、「権力の私物化」と散々批判に晒されているてめーの鬱憤晴らしも。
 勘違いしてはいけない。朝日も毎日もキッチリと検証し公表し責任を取り、具体的な対処策を講じている。モリカケのような隠蔽はしていない。資料となる文書が突然雲隠れしたりはしない。
 この一件、最も意を注がねばならないことはゾンビの再来(再々来?)である。病気でリタイアしたはずが、1年も経たずに“お”元気な様子。ますます仮病説が疑われると同時に、再来の悪夢がよぎる。「あんちゃん、言ってやったぜ!」は存外国難級の危機への予兆かもしれない。 □


幻想の緊急事態宣言

2021年05月17日 | エッセー

 ロックダウンするわけではなし、警官が街に繰り出して人出を規制するわけでもなし、飲食店に24時間の閉店を強いるわけでもなし、通行証を発行するわけでもない。多少の不便はあっても諸外国に比して『緩い』レギュレーションが「緊急事態宣言」である。確かに標的にされた飲み屋さんがバタバタと倒れたり、ストレスによる自死や犯罪が増えたという実害は生まれた。しかしまん防を含めこの宣言にどれだけの実効性があったか、はなはだ疑わしい。何度繰り返しても、人出をはじめまるで効き目がないのが実情ではないか。『笛吹いて踊らず』を狙ったものの、これでは『笛吹けど踊らず』どころか『笛吹けど踊り止まず』である。
 大騒ぎして厳かに発出はするものの、実体はない。幽霊の正体見たり枯れ尾花である。なにせ宣言した当の本人が自宅で流行り歌を聴きながらペットを抱えてくつろぐ、あの貴族気取りのなんとも薄っぺらで漫画にもならない呆れるほどのチープな絵面(エズラ)がその象徴だ。メルケルをはじめ真っ当な指導者が涙ながらの訴えを繰り返している最中に、である。「私が国家」と言挙げしたこの夜郎自大男の振る舞いに緊急事態宣言の虚構性はすでに見破られていたのだ。大衆は愚にして賢。国民をバカにしてはいけない。
 岩波国語辞典には「幻想とは根拠のない空想。とりとめのない想像(をすること)。」とある。最初は専門家の知見も聴かず、のち聴いた振りをし、最後は追い込まれて押し切られる。まさに「根拠のない」そのままのありようだ。それ故、「幻想の緊急事態宣言」という。コロナ禍は実在するが、宣言は幻想なのだ。かつ繰り返されるたびに幻想の度は深まっていく。
 もう一つの幻想の中で、小賢しく泳ぐ雑魚がいる。丸川珠代五輪相だ。
 先月23日、TBSの金平茂紀キャスターが「五輪と感染対策のどちらが優先事項か」かと糺した。丸川は「感染対策の現場は東京都。五輪の主権者も東京都。都が一番ご存じ」と躱した。続いて、緊急事態宣言と五輪開催は無関係とのバッハ発言に対し同じ認識かと迫ると、「IOCと東京都が話をした上でそうを言ったかどうかは分からない」と回答を避けた。
 これを受けてTBSの「報道特集」でキャスターの膳場貴子が「えっ、本当に大臣ですか?」と呆れ、仰け反った。
 次に今月16日、記者会見での金平氏との遣り取り。
金平:オリンピックで絆を取り戻すと発言されたが、この情況の中で絆という言葉はふさわしいのか? 
丸川:その点については特別な考えはありません。
金平:ボランティアの辞退が増える中で有償のボランティアをオリンピックの名を伏せて募集している実態がある。これは絆という美しい言葉にふさわしいのか? 
丸川:有償、無償は責任によって異なります。ボランティアの方は選手と同じようにバブルの中で動いていただきますのだ安全は保たれます。先日、世界陸上を中継されていたのは確かTBS。そのことはお分かりになったのでは。
 さすがはアンバイ君のお気に入りだ。そらっとぼけて、チクリと刺して、窮すればそれがどうした。言葉は丁寧だが、チンピラの対応だ。出しゃばりオバハンが幻想の中で抜き手を切ろうとするからこうなる。
 「すがすがしい」の意味が変わり、本邦はアホノミクスからスカノミクスへ。アホから外れを意味する「スカ」へ。と、一刀両断するのは敬愛する浜矩子先生である。だが、「あの目は、まさしく誰も信用していない人の目だ」とマキャベリズム信奉者を公言する『奸佞首相』の本質を見事に剔抉している。最新著「“スカノミクス”に蝕まれる日本経済」(青春新書、本年4月刊)は期待通りの好著だ。特に目は、今月9日の拙稿で「怨念のこもった目、敵を狙う目」と記した認識と軌を一にする。
 括りにもう一度繰り返そう。コロナ禍は実在するが、緊急事態宣言は幻想である。 □


羮に懲りて膾を吹く

2021年05月11日 | エッセー

 似ぬ京物語、ド素人の揣摩憶測である。
 ここにきて、ワクチンに耳目が集中してきた。ところが、これがうまく行きそうにない。ネックは国内で賄えないからだ。経済・技術大国で医療先進国であるはずの日本で国産のコロナワクチンがないのは、薬害エイズ事件の影響ではないか。羮に懲りて膾を吹く、である。
 1970年代以降、天然痘ワクチンやジフテリア・百日咳・破傷風三種混合ワクチン接種後の重篤な副作用、さらに予防接種禍集団訴訟など薬害問題が相次いだ。その中で典型的な薬害訴訟事件が「薬害エイズ事件」であった。血友病患者に加熱処理しウイルスを不活性化しないままの血液凝固因子製剤を投与し、約2000人のHIV──免疫不全ウイルスで免疫機能を低下させ、最終的にはエイズ(後天性免疫不全症候群)へと至る──感染者(内、約400人が死亡)やエイズ患者を多数発生させた事件だ(エイズの患者、死亡者数はプライベートな事情もあるため正確には掴めない)。
 80年代後半に表面化し、民事、刑事裁判が続き、厚生省(当時)は責任を認め和解。00年に製薬会社の3人に実刑判決、帝京大学医学部附属病院第一内科の責任者だった安部英(あべたけし)は01年に一審無罪、その後認知症を患ううち控訴中の05年に死去した。
 膾を吹き、薬品メーカーも厚労省も腰が引け始めたのはこれからではないか。何度か挑戦はあったものの、メーカーは膨大な開発費とリスクを天秤に掛け、厚労省も予算を絞り始めた。それが今、通常のインフルエンザワクチンの接種率50%に帰結している。
 本来ワクチン開発や備蓄、供給体制は国家の安全保障に属する。18年度で37%の食料自給率を巡って「食料安全保障」が深刻に論じられることと同等である。未知のウイルスの襲来に備えるのは安全保障なのだ。それが刻下日本では単なる薬品行政にレベルダウンしている。ワクチン貧国はそこに強い誘引があったといって外れてはいまい。
 世界に目を転ずると、途上国支援のためアメリカはワクチンの特許を開放しようとし、EUは輸出拡大が大事だと反対している。EUの本音は開発のモチベーションが下がる懸念であろうし、米欧とも中国のワクチン外交への対抗もある。人命か経済か、生命か政治か。国家間の連帯が求められる中、国内での対立項がそのままグローバルに拡大しているように見える。そこに斬り込んでいるのが社会学者大澤真幸氏だ。
〈連帯の単位が国民国家にある限りは問題に対応できない、という構造は、新型コロナウイルスのパンデミックに限られたことではない。今後100年単位の人類の幸福や繁栄を左右するような重要な課題は、ことごとく国民国家のレベルでは解決できない。地球環境問題も、核問題も、経済的な不平等の問題も、あるいはインターネット上の知的所有権や個人情報の保護の問題も、さらにはヒトゲノムの管理などの生命倫理の問題もすべて、国民国家の力では解決できない。〉(「新世紀のコミュニズムへ」から抄録、NHK出版新書、先月刊)
 と述べ、ところがそれら問題群の解決にとって
〈国民国家こそが、最大の障害である。つまり「国民国家の内部には強い連帯があるが、国民国家の間には競争かあるいは暫定的な利害の一致しかないという状況のもとでは、国民国家の存在が問題を深刻にするばかりだ」ということには、強い論理的な必然性がある。〉(同上)〉
 とする。国家を超えねばならぬのに国家が超えられぬ壁となる。国家内の連帯と国家間の離間。このアポリアは国民国家である限りいつまでも行く手を塞ぐ。さて処方箋は? というのが本著のテーマであるが、中身は直に当たっていただきたい。
 羮に懲りて膾を吹くのは愚かだが、実は羹は今もなお熱い。これが悩ましい。 □


やっぱりスッカスカ! されど スッカスカ!

2021年05月09日 | エッセー

≪(記者)
 東京新聞、中日新聞の清水です。
 今回の緊急事態宣言の延長に至ったことの総括と、宣言解除の基準について質問します。
 短期集中で人流抑制を目指した今回の緊急事態宣言は、当初から17日間は短過ぎるという専門家の指摘があり、実際、大型連休の人流抑制や自粛の効果を見極められないうちに延長という判断に至りました。期間や対策の内容は適切だったのか、そもそも短期集中という設定は正しかったのか、首相の見解を伺います。
 また、首相は、今回の宣言発令決定後の前回の記者会見で、解除基準について、そのときの状況を考え総合的に判断すると説明されましたが、国民に更なる自粛や事業の制約を求める以上、どうなったら解除に至るのか、具体的な基準を明示すべきではないでしょうか。考えを伺います。
 なお、この会見は1人1問が原則ですが、国民の疑問に答える有意義な質疑となるよう、各社の再質問があった場合、その再質問にも応じていただけるようお願い申し上げます。
(菅総理)
 まず、特に多くの人出が予想されるゴールデンウィークという特別の期間において、短期集中的な対策として、感染源の中心である飲食の対策に加えて、人流を抑える対策を採らせていただきました。この結果、対策を講じる前や前回の緊急事態宣言と比べても、人出が少なくなっており、人流の減少というその所期の目的は達成できたと考えます。
 しかし一方で、こうした対策は国民生活にも大きな制約を与えるものです。今回の延長に際しては、平常時の時期に合わせた高い効果の見込まれる措置を徹底することにより対策を講じていきたい、このように思います。≫
 正確を期すため、首相官邸HPからそのまま引用した。先日7日の首相記者会見での遣り取りである。
 核心部分は「短期集中という設定は正しかったのか」との質問に対し、「人流の減少というその所期の目的は達成できた」と応じた部分だ。テレビ報道で、感染症のオーソリティー松本 哲哉教授は「目的は感染拡大を防ぐこと、人出の抑制はその手段でしかない」と一刀両断にした。もっともだ。スッカスカ君の答弁は子どもの言い訳に等しい。いや、それ以下か。あるいは、こうも言える。
 昨年11月の拙稿「それがどうした?!」で取り上げたアンバイ内閣で多用された『ご飯問答』。「朝飯は食ったか?」「ご飯は食っていない。パンは食ったが」という飯を食う前に人を食ったはぐらかし答弁である。
 上掲稿にはこう呵した。
〈論理的不整合には無頓着だ。何度糺されても、同じ答弁を繰り返す。彼らに共通しているのは自らを相対化する謙虚さである。しかしそれは我執が邪魔をして前景化しない。だからこそ、孔子は「過ちを改めざるこれを過ちという」と訓(オシエ)たのではなかったか。〉(抄録)
 ご飯問答もスッカスカ君の域に達すると、反知性主義どころか非知性、無知性としか言い様がない。ただ前述の質問を受ける際、記者へ鋭い目線を送っていた映像は見逃すわけにはいかない。怨念のこもった目、敵を狙う目だった。少なくとも異論を受け入れる器に備わった目ではなかった。あの一瞬の映像はスッカスカの奥にある闇を過つことなく捕らえていた。目は口ほどに物を言う、である。
 訥弁はキャラになる。ボキャ貧も愛嬌だ。だが、アンバイ君のような独りよがりの非論理的な立て板に水は人を騙す。闇を隠した訥弁とボキャ貧は同等に人を欺く。やっぱりスッカスカ、されどスッカスカ。肌に粟を生じる記者会見ではあった。 □


別姓問題 愚案

2021年05月08日 | エッセー

 どうにも、あの“意識高い系”の臭いが嫌だ。夫婦別姓を言挙げする女性、あるいは男性に共通するスメルである。と、このような物言いはセクハラだと槍玉にあげられよう。串刺しは覚悟の前で、以下愚案を労したい。
 先ずは内田家の話から。
 意外にも、本木雅弘は内田家の婿養子である。
〈母が、あんな常識にとらわれない人なんだけれども実はものすごく古風な考え方をしていたから、自分が内田家に嫁いだ以上、内田姓を絶やすのは嫁として申し訳ないと考えていたの。父の姉妹はみんな嫁いじゃって、裕也しか内田を継いだ者が残ってなかったから、それでやたらと母が使命感を持ってしまったのね。母が本木にお願いしたんですよ。本木は三兄弟の真ん中で当時既に兄が本木姓を継いでいて、そんなに深く考えることもなく、「それが親の望みなんだったら、それでもいいんじゃない?」ぐらいな感覚で内田になってくれたんですよ。でも、実際は本木の両親がすごく悲しんだのね。私も本木もそれを知って初めて、姓というのはこんなに重いものなんだと気がついた。〉(文春新書「なんで家族を続けるの?」本年3月刊)
 母とはもちろん樹木希林、戸籍名・内田 啓子である。娘・内田也哉子と中野信子女史との対談集から抄録した。
 「本木の両親がすごく悲しんだ」を受けて、中野氏は姓への拘りは土地への切るに切れない深い愛着と関連すると語る。事実、本木家は埼玉県桶川市で15代続く農家である。
 ここで本邦における姓の歴史を大掴みに振り返ってみる。──
▼古代では「氏(うじ)」は血縁集団の呼び名であり、職掌を意味した。
     「姓(かばね)」は天皇が与えた身分を表した。
▼平安期に貴族の「氏」が増えすぎたため区別するため住所から「家名」が生まれた。
▼武士の世になり、自らの支配地を明確にするため「名字」を名乗るようになった。
▼やがて貴族の「家名」と武士の「名字」は「名字」に統合され、農民層にまで拡大した。
▼豊臣秀吉が兵農分離を進めたため農民層が名字を自粛するようになったが、庶民も私的には名字を持ち名乗っていた。
▼江戸時代、「名字帯刀」により武士と特権階級を除きご法度となったが、庶民でも非公式に苗字を持ち、私的に名乗っていた。
▼公的な戸籍に当たる宗門人別改帳には庶民の苗字は書かれなかったが私的な寺の過去帳や墓碑には庶民の苗字が記載されることもあった。
▼明治8年、「苗字必称義務令」により国民全員に名字が義務づけられた。※このころは夫婦別姓であった。
▼明治31年、明治民法により夫婦同氏の原則が定められた。──
 室町時代の一部を除き庶民には名字はなかった。とすれば、夫婦同姓もへったくれもあったもんじゃない。第一、女性に姓が公認されたのは明治以降である。
  清少納言は『清・少納言』である。宮中勤めの折に付けられた女房名(にょうぼうな)である。父か夫の官職名から作られた。彼女の場合、歌人であった父・清原元輔から「清」の一字を、「少納言」は父の官職名だとされるが該当せず異説がある。ともあれストレートに女性を表する呼び名はなかったのである。
 面白いのは、平安の御代では男女とも両親、配偶者以外に本名を名乗ることはなかったという。言霊信仰があり人格を操られたり、呪いを掛けられる恐れがあったからだ。言わばセンシティブ情報だったわけである。
 と、概観したところで別姓について無い頭を絞る。
 別姓云々は社会的利便性の問題ではなく、さらには人権マターでもないのではないか。冒頭に記した人たちは二言目には人権という。異論には人権感覚の欠如を突く。でもそうだろうか。姓に執した樹木希林には人権意識がなかったのだろうか。そうではなく、彼女には人権を超えた家族愛があったというべきであろう。家族の絆はヒトの属性である。となれば別姓問題は人権ではなく、「人間」マター、あるいは文化マターといって外れてはいまい。
 “意識高い系”の人たちの十八番である「人権」は思考停止を迫る錦の御旗になりかねない。勘違いされては困るが、決して「ニッポン万歳!」という能天気なナショナリズムから提起しているのではない。永くて深い文化的背景を捨象しては片手落ちではないかとの寸志からだ。
 紫式部が、清少納言が、和泉式部が女房名で通したからといって人権を貶められたとはいえまい。世界に冠たる女流文学は人権を超えたところに爛漫たる開花があった。同性と人権を直結するのはなんだかどこかで思考が端折られている気がしてならない。 □


因縁のアビガン

2021年05月06日 | エッセー

 「アビガン」(ファビピラビル)の名を聞いて1年が経つ。カムアウトすると、稿者はアビガンが錠剤、経口薬であることを知らなかった。飲み薬とはつゆ知らず、なんとも不明を恥じ入るばかりだ。国内産である。もしも新型コロナの抗インフルエンザ薬として実現していたら、ワクチン注射が不要になる。となれば、画期的な対策になったにちがいない。ところが、棚からぼた餅は落ちなかった。朝日は先日こう報じた。
〈コロナ薬にアビガン、実現は 安倍前首相「承認めざす」発言、1年
 新型コロナウイルス治療薬の候補として、注目を集めた「アビガン=ファビピラビル」について、安倍晋三・前首相が「今月中の承認をめざしたい」と異例の発言をして1年が経つ。
 アビガンは2014年、従来の薬が効かない新型インフルエンザ向けに承認された。細胞に入ったウイルスの増殖を抑える薬だ。製造元の富士フイルム富山化学が20年3月に新型コロナ向けの治験を始めた。
 有効性を示すデータがまだ出ていない昨年5月4日、安倍氏は会見で、「一般の企業治験とは違う形の承認の道もある」などと述べ、月内の承認をめざすとした。この直後に厚生労働省は、「治験データは後でも可」と早期承認が可能となる特例を設けた。だが患者が減り参加者が集まらず、治験と別の特定臨床研究では、統計的な有効性は示せなかった。
果の解析方法の不備も指摘され、承認は先送りとなった。
 アビガンは動物実験で胎児に奇形が出る恐れがわかり、副作用も懸念されている。承認前の薬だが、備蓄のための追加購入もあった。元々新型インフルのために約70万人分を備蓄していたが、厚労省は昨年度、新型コロナ治療のため、約134万人分を購入した。予算案では139億円を計上した。〉(5月5日付、抄録)
 ひょっとしたら、昨年4月の緊急事態宣言下で流行り歌を聴きながらペットとくつろぐあのインスタグラムはアビガンを当てにして高を括っていたのかしらん。
 振り返ると、昨年5月9日「東洋経済オンライン」が次のように報じていた。
〈安倍首相が推しまくるアビガン「不都合な真実」
 安倍氏はなぜここまで強くアビガンを推すのだろうか。その理由は定かではないが、日本の一部メディアは安倍氏と富士フイルムの古森重隆会長兼最高経営責任者(CEO)との親密な関係に触れている。首相の動静記録によると、2人は頻繁にゴルフや食事を共にしており、最後に会ったのは1月17日だった。〉
 となるとモリカケで追求されている只中で、モリカケとまったく同じ構図のネポティズム政治を繰り返していたことになる。報道の真偽は問う必要はない。何度も言及してきたが、官人は推定有罪である。李下にいただけで、瓜田に入っただけで負けなのだ。国民は「あんな男」になめられ切っていたわけだ。ああ、悔しい! 
 この話、つづきがある。日本経済新聞ウェブ版は、14年8月25日、以下のように報じていた。
〈エボラ未承認薬、官房長官「提供する用意」
 菅義偉官房長官は25日午前の記者会見で、エボラ出血熱の治療に効く可能性がある未承認薬について、世界保健機関(WHO)や医療従事者の要請があれば提供する用意があると表明した。菅氏は「日本企業に各国から照会がある。未承認薬でも緊急に求められれば一定の条件のもとで対応していきたい」と述べ、WHOや関係各国と調整に入る考えを示した。〉
 18年9月11日の厚労省HPによれば、「ファビピラビルが投与された報告」が記載されている。WHOがエボラの終息を宣言したのは昨年6月25日であった。アビガンの薬効あらたかであったかどうかは寡聞にして知らない。それにしても「未承認薬でも」「対応」とは「あんな男」と瓜二つだ。ルール無視の独裁的手法。親分と子分だからもっともではあるが、なにやら因縁めいたものも感じる。
 政争の具にされたアビガン。哀しい薬だ。 □


諦めもスポーツマンシップ

2021年05月03日 | エッセー

 こんな状況下で開催は無理だという判断こそ最も理があり、国民のコンセンサスもそこに収斂されてきた。
 4月中旬の時事通信の世論調査によれば、
〈「中止する」が39.7%で最も多く、「開催する」28.9%、「再延期する」25.7%と続いた。単純比較はできないが、過去の同種の設問で最多だった「再延期」と答えた割合を今回、「中止」が上回った。〉(4月16日 Web版)
 中止と延期を併せると65.4。最近の他社による調査だと中止・延期で7割という調査結果もある。
 4月中旬のバイデン大統領との首脳会談では、共同声明に「大統領は、今夏、安全・安心なオリンピック・パラリンピック競技大会を開催するための菅総理の努力を支持する」とは記されたものの、選手団の派遣など具体的な約束はなかった。
 できないと決めつけるのではなく、できる前提で議論すべきだという意見もある。一見正論ぶってはいるが、それは視野狭窄、正常性バイアスではなかろうか。前提そのものが揺らぎ、前提そのものを問う局面で「できる前提」を揚言するのはトートロジーでしかない。B案、C案を用意せずA案だけで強行突破するのは日本人の悪習であろう。一案だけで遮二無二押し切る。とどのつまりが精神論で玉砕。太平洋戦争の教訓をすっかり忘れたかのようだ。
 一方、Tokyo2020を目指してきた選手たちの血と涙の努力を無下にはしたくない、是非なんとか開催をとの声もある。悩ましいところだが、ここが考え物だ。
 スポーツマンシップという。字引には「スポーツの競技者などが備えるべきとされる道徳的規範や、その規範に準じる心構えなどの理念を指す語。スポーツマンシップの例としては、ルールを守ってフェアプレーに努める、競技相手や審判に敬意を払うといった理念を挙げることができる」とある。「備えるべき」「道徳的規範」「規範に準じる心構え」とは一義的にはスポーツを対象にしているが、それはあくまでも社会的規範を大前提にしている。スポーツの世界だけの話ではない。社会的に許容される「道徳的規範」を超えてはならないはずだ。プロレスでさえリング上で本物の凶器を使いはしない。たまに我を忘れたヒールが凶行に及ぶ場面があるが、所詮はショーである。
 してみるとアスリートファーストを公言するよりも、アスリートセカンド、あるいはアスリートサードに甘んじるのもスポーツマンシップではないか。つまりは、唇を噛んでじっと我慢する。潔く諦める。それもスポーツマンシップだ。TOKYOを逃したら選手生命を終えるアスリートもいるにちがいない。かわいそうだが、事に当たって甘受するという対応もスポーツマンシップと呼んで過言ではあるまい。
 オリンピック憲章・根本原則の2には、
〈オリンピズムは、肉体と意志と知性の資質を高揚させ、均衡のとれた全人のなかにこれを結合させることを目ざす人生哲学である。オリンピズムが求めるのは、文化や教育とスポーツを一体にし、努力のうちに見出されるよろこび、よい手本となる教育的価値、普遍的・基本的・倫理的諸原則の尊重などをもとにした生き方の創造である。〉
 と謳われる。「肉体と意志と知性の資質を高揚」、特に「意志と知性」は前述のスポーツマンシップの核心と同意である。「基本的・倫理的諸原則の尊重などをもとにした生き方の創造」にも通ずる。ぶっちゃけていえば、スポーツおばかをつくるためではない。立派な大人をつくろうということだ。勝利至上主義のなれの果ては、金メダル以外の選手は取り返しのつかないムダな人生を送ったと断じられてしまう。そんなバカなアベコベはない。
 最近になって、現実を冷静に見詰め開催に懐疑的な選手の声も上がり始めている。いい機会だ。もう一度深呼吸して、原点に立ち返りたい。
 かつて「幻の五輪」と言われた「東京オリンピック」計画があった。1940年(昭和15年)9月に開催が予定されていた。欧米以外、アジアでの初の五輪。紀元二千六百年記念行事でもあった。国威大いに発揚の五輪となるはずだったが、3年前からの日中戦争が響いて1938年(昭和13年)7月実施を返上した。国難による返上である。コロナ禍が国難というなら、先例である。元は安倍晋三が大嘘を吐いて自らのレジェンドづくりに誘致したものだ。国難ならば返上に躊躇は要るまい。 □