伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

他山の石

2012年04月28日 | エッセー

 若い女性たちが韓国大統領の人形に向かって拳を突き上げ、「裂き殺せ! 裂き殺せ!」と罵声を延々と浴びせ続ける。よく見ると、人形の顔には切られた傷と血が描かれている。戦車が同じような人形を轢き潰す。人びとが寄り集まって人形を引きずり回し、燃やす。「ネズミ野郎」と罵詈雑言を浴びせる。「イ・ミョンバクのネズミ一味に報復の雷を落とそう。落とそう、落とそう、落とそう!」と、シュプレヒコールを繰り返す。
 女性アナウンサーがまくしたてる。「(李明博政権に対し)わが革命武力の特別行動がまもなく開始されることを知らせる」「逆賊一味の挑戦を壊滅させる」「特別行動が始まれば、3~4分またはそれよりも短い時間で、今までにない特別な手段と我々式の方法で、すべてのネズミ野郎と挑発の根源を焦土化してしまう」……調子は激越、言葉は苛烈を極める。悪態もここまでくれば、笑ってしまう。
 核実験のカードも見え隠れする。きな臭くもある。ニュースでは、「人工衛星」失敗の反動だ、国内引き締めのためのブラフだ、いつもの瀬戸際外交だ、いや本気だなどといくつも解説が並び、コメンテーターが眉を顰める。
 前時代性を揶揄したり非難したり、あるいは憐憫の情を寄せるのは簡単だ。しかし本邦でもつい60数年前までは、ほとんど同じ狂態であった史実を忘れてはなるまい。「ネズミ一味」を「鬼畜米英」に、「強盛国家」を「神国日本」に代置すれば、何も変わるところはない。それともいまや本邦にとって彼の国のありさまは、まったくの対岸の火事だとでもいうのであろうか。
 言わされているのは判る。言わなければ命がない。信じ込まされているのも判る。異は絶対の禁忌だ。集団的なパラノイアに囲繞されているのも判る。それも人の心理だ。とこうに理路は付けられる。しかし繰り返していおう。それと同じ狂態が、ついこないだまで「ここ」にもあったのだ。60年とは日本史において須臾の間でしかない。
 しかし今はちがう、と言うかもしれない。だが同じ事況に置かれて、何人が耐えられるだろう。少なくとも私には自信がない。人間はあまり強くはないと心得ておくに如くはない。だから肝心なのはそのような事況を招来しないことだ。芽のうちに摘む。それについて過敏であっても一向構わない。ナーヴァスに過ぎるぐらいで丁度いい。それが歴史の教訓だ。
 「他山の石以て玉を攻(オサ)むべし」と、詩経は訓える。他山の石を打っ遣るのは容易い。だが奇蹟的に当地に転がり込んだ玉も、攻まねば曇る。となれば、貴重な他山の石だ。 □ 


2つの記事から

2012年04月24日 | エッセー

 今月22日の朝日新聞に、興味ある記事が2本載っていた。1本目はオピニオン記事である「ザ・コラム」の、「都市国家の憂い『決定できる仕組み』は幸せか」だ。以下、摘記する。
〓〓シンガポールは1人当たりGDPで日本を抜き、アジア一の豊かな社会を築きつつある。リー・シェンロン首相はカジノの設置や消費税増税を即決し、この国を果敢にリードする。
◆リー首相を「理屈抜きのカリスマ」と評価するのが橋下徹大阪市長だ。「一番重要なのは、政治家が課題を設定し、みんなで乗り切っていくこと」と意気投合した。徹底した成績主義と英語重視の教育、効率的な行政。何より、橋下氏が求めてやまない「決定できる仕組み」がここにある。
◆ところが昨年の総選挙を境に、この盤石な「仕組み」に陰りがみえてきた。与党の得票は建国以来最低の60%と低迷。「歴史的分水嶺だ」と総括された。不信任票を投じた多くは、若者だった。ネット上に政権批判が登場、選挙後は主要メディアも政権に注文するようになった。
◆長期政権への飽き、競争社会がもたらす閉塞感、強権主義への嫌気が広がっている。「この社会に必要なのは、弱者にも目配りするバランス」だと強い野党の存在意義を説き、「成長だけを追うべきではない」と主張する識者もいる。
◆沈滞の日本では「決定できる仕組み」を掲げる橋下氏が若者から強く支持される。逆に成長著しいシンガポールではその仕組みに若者たちが違和感をもち始めている。〓〓
 本来、民主主義は手間暇のかかるものだ。だから、まどろっこしい。しかしその間怠さは、衆愚と独裁という最悪の敵を防ぐファイア・ウォールである。先達は手間暇と最強敵手とを秤にかけて、前者を採ったのだ。それを忘れてはならない。だから、「決定できる仕組み」と民主主義とは本来的にアンビバレンスである。シンガポールはその好個の例証ではないか。   
 蛇足ながら、10年前ブッシュ大統領が主導した彼の国の「落ちこぼれゼロ」法は『成果ゼロ』で、見直しの憂き目を見ている。教育はサービスだとして学校に競争と淘汰を導入した法律である。大阪市も前轍を踏まぬよう願いたい。
 かつて引用した佐伯啓思京大教授の言をまた引く。

◇日本人は、民意がストレートに政治に反映すればするほどいい民主主義だと思ってきた。その理解そのものが間違っていたんじゃないか。古代ギリシャの時代から、民主主義は放っておけば衆愚政治に行き着く、その危険をいかに防ぐか、というのが政治の中心的なテーマでした。だから近代の民主政治は、民意を直接反映させない仕組みを組み込んできた。政党がさまざまな利害をすくい上げ、練り上げてから内閣に持っていくことで、民意は直接反映しないのです。二院制もそうで、下院は比較的民意を反映させるが、上院はそうではないことが多い。実際の行政を、選挙で選ばれるのではない官僚が中心になって行うのも、その時の民意に左右されず、行政の継続性、一貫性を担保するためです。そういう非民主的な仕組みを入れ込むことによって、実は民主政治は成り立っていました。その仕組みが働かなくなってきたのも事実ですが、日本では公務員バッシングといった薄っぺらいかたちで官僚システムを攻撃してきた。政治が民意に極端に左右されないようにする仕組みが失われ、平板な民主主義ができあがってしまった。◇(昨年12月1日付朝日新聞「民主主義と独裁」と題するインタビューから)

 掬う傍らで民意を捨てる仕組みがビルト・インされている。これが近代の民主主義である。この理解がまず先だ。そこが薄いと袋小路に入る。その例は次の記事だ。<民主主義を問い返す>「カオスの深淵」シリーズの一つ、「つぶやき選挙 政党恐々」と題する特集記事である。以下、摘記してみる。
〓〓昨年のソウル市長選で、SNSを駆使した野党が首都決戦を制した。今年から総選挙でも解禁になる。
◆今月投開票された韓国総選挙で、与党がすがったのは、「つぶやき」だった。
◆だが、うつろいやすいSNSの矛先が野党側に向かわないとは限らない。与野党とも恐々だ。
◆政治が片言隻句に血まなこになる。それは正しい姿なのか?  リーダーは言う。「それは政治家が考えること。SNSの核心は市民の側から自発的な意思が流れていく点にある。政治家がたえまなく苦しみ、たえまなく市民のご機嫌をうかがう。そういう道具なんだ」
◆SNSで飛び交う発言には、中傷や真偽が不確かな情報も少なくない。はたして、それは政党が吸収するに足る民意の集合体になりうるのだろうか。
◆政治がネットに翻弄されず、民意を吸収するにはどうすればいいのか。韓国のある大学教授はこう答えた。「インターネットは政党政治を無視する流れを加速させた。かつては政党が集団的な要求を吸収して政府に伝えていたが、いまは政党を通さずに直接伝える時代だ。個人主義化して要求も多様化し、迅速な対応が求められるが、それに対応できる組織の形はまだ世の中に存在していない」
◆日本でのインターネット選挙は公職選挙法の規定により、規制されたままだ。政治家のツイッターはあまり話題にならないが、70万人のフォロワーを持つ橋下徹大阪市長は別格だ。
◆ある識者は語る。「政治ニュースがエンタメ(娯楽)性をもてば関心が高まる。橋下氏はツイッター上でケンカを見せ、政治的文脈にエンタメ的、ドラマ的要素を加えるのにたけているようにみえる。有権者を直接説得することに成功するかもしれない」〓〓
 実は筆者もネット民主主義に揺れたことがある。もちろん初歩的段階であることは差し引いても、隣国の先駆的挑戦にまた揺れざるを得ない。
 ネットが政党を無視し、個人が政府と直結する。その多様な要求に迅速に対応するシステムはいまだ存在しない、との述懐は先述の佐伯氏の指摘を裏書きするようだ。併せて、政治へのエンタメ性の浸潤。なんとも気鬱なことである。
 上記シリーズで報じられていたハンガリーの選挙権問題も興味を引く。将来世代のために、妊娠している母親には2票を持たせるという提案だ。喧喧諤諤の末、結局断念された。だが、隣国のオーストリアでは16歳にまで選挙権を引き下げている。それにしても相当若い。高齢化で(つまりは高齢者が増えて)相対的に少数の将来世代が割りを食うというのが発端だった。今度は逆に、高齢者にも相応の発言権は必要だとのオブジェクションも上がる。ともあれ、「選び」はむつかしい。
 韓国も、「選び」のためのツール自体の目新しさがネット選挙をドライブさせているような気がしないでもない。やがてそれが常態になった時、「選び」はどうなるのか。その前に、潰えるのか。難題を超えて、新しい地平を拓くのか。
 2つの記事が伝える「決定」と「選び」のアポリア。「ゴルディオスの結び目」を両断するアレキサンダーの剣は、今のところない。これからも、たぶんない。 □


一味郎党

2012年04月20日 | エッセー


 パーティーとは宴会の謂であり、仲間、政党も表す。宴会を布衍して俗な日本語にパラフレーズすると、一味郎党、一味徒党となろうか。一味はほかに味を加えないことであり、平等、仲間へと意味が膨らむ。同じ味、同じ鍋を喰らうゆえに一味郎党となったのだ。
 この政党には、なんといまだに綱領がない。端っから「一味」ではないのだ。だから、巷間評される「政権互助会」とは正鵠を射ている。
 田中防衛相問責に絞っていえば、任命責任という以前にこの「互助会」としての本来的性格が災いしたとしかいえない。普天間問題をはじめとして、防衛相が重要なポストだということは誰だって解っていたはずだ。なのに、なぜこんな稚拙な人事を無造作にしたのか、いや、できたのか。答えは明らかだ。派閥均衡を図ったからである。メリトクラシーが働かず、古典的人事手法を引きずってきたがゆえの不始末である。弊履を捨てられなかった報いである。「敵に似る」という定石通りの顛末といえる。
 さてその「敵」だが、小泉純一郎の先駆性については改めて刮目すべきではないか。
 彼は組閣に当たって、派閥の推薦を一切排した。党人事をも一手に握り、意のままに捌いた。派閥順送りを止め、一本釣りを敢行した。「一内閣一閣僚」を掲げて職務の継続性を重んじ、閣僚の留任を図った。
 このプログレッシヴな人事手法は、彼の抱える危機感が背を押したにちがいない。加えてパフォーマーとしての希有な資質や捨て身の覚悟が奏功して、このパーティーに予想外の『伸び代』があることを見せつけた。(継承されなかった無念はあるが)
 「政権互助会」という出自をもつ以上、権力志向から逃れることはできない。再編での勝ち目がない限り、小沢グループが袂を別つはずがない。樽床幹事長代行は「問責ごっこ」と揶揄したが、事は『政権ごっこ』の成れの果てだと気づいていない。救い難い蒙昧だ。「一味」ではなく、「二味」。『二味郎党』などあるわけはないのだ。
 それにしても、「もしもし」はよかった。絶妙の味だ。「仮定」に応じるに、「感動」をもってする(「もしもし」の品詞は感動詞)。「もしも」の難詰に対して、「申しましょう! 申しましょう!」とヴィヴィッドなレスポンスを返す。これこそ、無味な国会審議を賦活する「一味」ではないか。まことに惜しい。 □


タモリよ、どうした!? 

2012年04月17日 | エッセー

 中居なんという小僧はどうでもいいが、まさかタモリまでとは、あきれけーって二の句が継げない。
 フジテレビ「タモリ・中居のコンビニでイイのに…!?」──ドラマチック・アウトドア。4月9日(月)夜9時から11時18分まで放送された。以下、番組HPから。
〓〓タモリと中居正広が主催するお花見に春からスタートするドラマの出演者たち、月9から大野智、戸田恵梨香、佐藤浩市、火9から堺雅人 新垣結衣 小池栄子、火10から草なぎ剛、水川あさみ、ミムラ、木10から天海祐希、石田ゆり子、大島優子、土ドラ(土曜夜11時)から岡田将生、剛力彩芽、佐野史郎、日9のユースケ・サンタマリア、貫地谷しほり、トータス松本という顔ぶれが勢揃い。さらには「笑っていいとも!」を代表して指原莉乃、渡辺直美もタモリらのお手伝いに大活躍。
 こんな豪華で楽しそうなお花見見たことない!お客様たちが思い思いのおいしいおみやげを手にやってくる。皆で集まり、時には歌ったり、おいしい逸品を食べたり、トークの花が開く。ドラマ出演者たちの交友関係が明らかに!意外なところでつながっていたりいろいろな番組で共演していたりと、そこで初めて知る関係性もあったり…!
 大いにトークの花が開く!ドラマでの最新エピソードも満載にお送りする。〓〓
 筆者はスポンサーではないから文句を付ける筋合いはない。だが、6000万タックスペイヤーの1人として、電波という公共財の無駄遣いには異を唱えてもよかろう。
 だらだらと延々2時間余。とてもじゃないが、番組の名には値しない。2時間余とは、筆者がその長丁場見ていたわけではない。それならボケの始まりか終わりだ。番組表から知ったのであり、アタマだけを見てすぐにリモコンを床に叩きつけた。……といえばカッコいいが、その振りだけをしてそっと赤い電源ボタンを押した。
 番組の宣伝、美食、飽食、饒舌、およそ無意味な与太話、楽屋落ちのネタ、裏話、当たり障りのない相関図、生放送によるドタバタや失言、芸人たちの上下関係などが、軽い多幸症的雰囲気の中でズルズルと送り続けられる。与太番組の典型である。といって、番宣を軸に視聴率を稼げるアイテムをてんこ盛りにしたしたたかな計算も窺える。
 「コンビニでイイのに」とは、実に人を食ったタイトルだ。何がいいのかは定かでないが(手土産のことか?)、コンビニエンスの原義に照らせばこんな「簡便な」番組作りでイイと言っているようで、たいげーにしろ、だ。こんなモノを垂れ流すのなら、いっそテストパターンの方が値打ちがある。画面のチェックなりともできようというものだ。
 かつてタモリは「白面でテレビなんか見るな!」と名言をはいた。あの開き直りと挑発、本質の諧謔は、どこへいったのか。銘酒を遣りながらにせよ、こんなモノではほろ酔いどころか悪酔い、二日酔いは必定だ。『白面で見てはならないテレビ』の旗手だったタモリは、もはや消えたのであろうか。歳を食っただけ、好々爺に成り下がったのだろうか。
 穿っていえば、年老いてなお老練な『白面で見てはならないテレビ』を送っているのかもしれない。新手のそれだ。ならば納得だが、アバタもえくぼに過ぎるか。
 タモリがデビューしたてのころ、大橋巨泉は「あんな座敷芸がテレビで通用するわけがない!」とこき下ろした。巨泉はテレビがすでに「座敷」にあることに気づいていなかった。巨泉の不明であった。今や座敷どころか所構わず、である(ワンセグに至っては掌だ)。夕餉を覗きに、本当に座敷に上がり込んでくる野放図な落語家崩れまでいる。テレビのフレームワークそのものが座敷化しているのだ。だからこそ、『お』を付けて「お座敷」化しようとしているのではないか。きっとそうだ。付加価値を付けねば売れないからだ。となれば、お笑い芸人の跳梁、跋扈は得心がいく。だって、テレビは「お座敷」なのだから。ということは、お座敷に御酒は付き物である。白面でなんか見るのは野暮、下衆の極みになる。やっぱり「白面でテレビなんか見るな!」だ。蓋し名言は時代を超える。
 
  〽富士の高嶺に 降る雪も
   京都先斗町に 降る雪も
   雪に変わりは ないじゃなし
   とけて流れりゃ みな同じ〽

 松尾和子&和田弘とマヒナスターズが歌って一世を風靡した「お座敷小唄」である。昭和39年、東京オリンピック開催の年だ。キーボードが泪で濡れるほど懐かしい。「雪に変わりは ないじゃなし」はグラマー上おかしいのだが(否定の否定で、変わりがあることになる)、そんな猪口才な難癖は吹き飛ばして大ヒットした。
 そうだ、雪に変わりはないのだ。「とけて流れりゃ みな同じ」、垂れ流してしまえば、変わりはない。国会中継だって、お笑い与太番組だってお座敷の出し物に変わりはない。むしろ前者の方が出し物としての出来はいいといえなくもない。
 続く歌詞に、

  〽一目見てから 好きになり
   ほどの良いのに ほだされて
   よんでよばれて いるうちに
   忘れられない 人となり〽

 とある。無い物ねだりかもしれぬが、「タモリよ、もう一度!」と満胸の期待を記して筆を置く。(エヘン!) □


大山鳴動して

2012年04月13日 | エッセー

〓〓北朝鮮の駐英大使が「貧しく生活が苦しい国は、宇宙開発をしてはいけないのか!」となにかの会議で噛みついたそうだ。日本でいうなら、生活保護を受けている人がキャデラックを乗り回すようなものだ。周囲の顰蹙を買うどころか、たちまち保護は打ち切られてしまう。大使は物言いを誤った。正直にミサイル開発だと言えばよかった。それなら、いかに貧しくとも国防のためだから、とまだ理屈がつく。 軍隊とは国家の政治的目的を遂行するためのツールである。その核心は物理的破壊力である。つまり、兵器だ。だがツールにばかり目を奪われて、政治的目的を失念してはなるまい。それは宇宙開発などであろうはずはない。諸外国の援助とバーターすることもあるにはあるが、所詮はアメリカだ。アメリカによる『認知』である。それが狙いにちがいない。彼の国はそこから逆算した手練手管を繰り出してくるのだ。海千山千、したたかこの上もない。こちらもその政治的目的から逆算した対応をせねばならない。アメリカに頼らず自力で迎撃できる、と能天気に力んでいるのは的外れもいいところだ。
 報道によると迎撃の準備はできた。とはいっても、不測の事態に備えてだ。つまり、打ち上げに失敗して日本領土に堕ちてくる場合にである。トラブルへの対処である。難題、難儀、この上ない迷惑だ。金もかかる。PAC3とSM3による迎撃システムは2兆円もするそうだ。
 ではひるがえって、迎撃は可能か。撃ち墜とせる確率はイチローの打率にはるか及ぶまい。現に、去年11月のハワイでの実験では失敗している。イージス艦「ちょうかい」が模擬弾に向けてSM3を発射したが、追尾しきれず逃がしてしまった。一説には、ピストルの弾をピストルで撃ち墜とすに等しいという。よしんば、的中したとしても破片が落ちてくる。これはもう防ぎようがない。厄介なことだ。
 この際、ちゃんと飛んでもらわねば困るのである。なんとも皮肉な話だ。ひたすら「成功を祈る!」という珍妙なるパラドックスに嵌まってしまっている。〓〓
 上記の拙文は09年3月の本ブログ「成功を祈る!」の抄録である。コースが違うだけで、今日付でもそのまま通じる。違っているのは、騒ぎの大きさだ。
 自衛隊がPAC3を沖縄県と首都圏の計7カ所に配備。石垣島にはPAC3を警備するために実弾を装備した陸自の部隊が派遣された。イージス艦3隻も東シナ海と日本海に展開し、迎撃態勢に入っていた。那覇市など7市町村の役所には約20人の自衛隊員が連絡要員として常駐。沖縄県は危機管理対策本部会議を開いた。発射の情報が届いた場合に、那覇市内を走るモノレールを最寄り駅で一時待機させる対策を検討した。発射情報を即座に全国に伝える瞬時警報システム「Jアラート」を所轄する総務省消防庁は試験放送で不具合が相次ぎ、対応に四苦八苦した。より詳しい情報は緊急情報システム「エムネット」を通じて県や市町村にメールで配信する予定だった。海上保安庁も対策本部を設置し、周辺海域の巡視船には、海難救助専門の隊員も配置。警察庁も警備局長をトップとする対策本部を設置。沖縄県の石垣、宮古の両島に機動隊を応援派遣したほか、核・生物・化学テロに対応できる部隊も置き、ミサイル燃料に有毒物質が使われている可能性に備えていた。気象庁は、ミサイル発射台のある東倉里周辺の気象情報を官邸に伝えていた。
 12日早朝より、野田首相と関係閣僚は首相官邸や各省に待機。警戒監視態勢に入っていた。首相は記者団に「最後まで(北朝鮮に)自制を求めていきたいが、万が一にはしっかりした万全の態勢で備えたい」と語った。田中直紀防衛相も記者団に「緊張感を持って、万全を期していきたい」と述べた。政府は24時間態勢で情報収集していた……。 
 なんだか安っぽい怪獣映画でも観ているような気がした。テレビでは打ち上げ日の予想で持ち切り、13日だ、いや14だ、16だと甲論乙駁だった。そして13日朝ついに発射、わずか1分で失敗。
 まったく『恋の空騒ぎ』ならぬ、『北の空騒ぎ』ではないか。その背景には現政権が抱える3.11のトラウマがあるにちがいない。羹に懲りて膾を吹く典型である。すべてが空振りに終わった。瞬時警報はなんと1時間後に流れた。飛脚並だ。電報の方がまだ速い。間尺に合わないとはこのことだ。まあ、たとえ流れたしても何ほどのこともできなかっただろう。大枚をはたいて持ち込んだ装備もことごとく使わず仕舞い。ミサイルだけに『空騒ぎ』かと半畳を入れたいところだが、いや、待て。「大山鳴動して鼠一匹」とはいうが、それにしても「鼠一匹」の収穫はあったともいえる。今度の場合、それも相当デカい「鼠一匹」をゲットしたのではないか。
 パトリオットの命中精度は湾岸戦争でせいぜい9%でしかなかった。改良されてはいるだろうが、「ピストルの弾をピストルで撃ち墜とす」ほどに精度が上がったとは聞かない。ましてや本体ではなく破片にまで命中できるはずはなかろう。気休めにしては、金を使い過ぎだ。ところが報道で知る限り、費用対効果についての批判はほとんど聞かない。政府をはじめとする行政側の対応がオーバーリアクションだという批判もわずかだ。現地の沖縄でも自衛隊の配備に反対運動はほとんどなかったようだ。むしろ自衛隊は3.11で災害派遣で株を上げ、今度は本来的業務で大いに名を高からしめたのではないか。大山鳴動して『自衛隊一躍』だ。
 もしも破片が飛来して、“スペック通りに”迎撃できなかったとしたら面目は丸つぶれだっただろう。だから、願ったり叶ったりの展開だった。自衛隊の一人勝ちである。
 留意すべきは、迎撃能力の無能もしくは程度が詮議されず“絵に描いたような”臨戦態勢が敷かれたことだ。しかも、韓国でさえ鼻白むほどの過剰さで。ニュースに映る“鼠”色の艦船や装甲車、迎撃ミサイル、航空機、ヘルメットの群れに違和感を感じなくなっているとしたら、われわれの中で何かが確実に変質しつつあるのではないか。怖いのは、むしろこちらの方だ。鼠一匹に大山の鳴動を推測する感性を手放してはなるまい。北の失敗を嗤うのはよいが、本邦の先達に嗤われては取り返しがつかぬ。 □


『みたい語』再考

2012年04月12日 | エッセー

 何度か取り上げたが『みたい語』は氾濫の域を超えて、今や土着してしまったようだ。テレビのワイドショーなぞでお笑い芸人やタレントたちが連発するものだから、あたかも洒落た物言いのように受け取られて浸透していったのかもしれない(中年のご婦人方にまで瀰漫しつつあるのは特記すべき哀しき現象だ)。
 「一緒にやろうよ、みたいな話だった」「お前は帰れ、みたいな態度で」「ボクは知ってるんだ、みたい? に言うわけよ」(?のところは少し上げ気味に発音する)のように、先行するセンテンスを「みたいな」「みたい?」で受ける。名詞や活用語の終止形に付かない使い方だ。「~というような」「~といった」や「~とでもいうような」などの意味を託す。
 近ごろは新手が登場している。“的な”がそれだ。「ボク的には」など、以前からあった格助詞=「として」の“的”ではない。ほとんど“みたい”と同じように使う。「夜の公園、的な場所で」などと。
 “みたい”については、“イケてる・イケてない”という大阪弁が東京に進出し全国化した(ついに“イケメン”にまで変化を遂げた)のと同じ軌跡が考えられるのではないか。吉本を中心とするお笑い勢の東京席巻が背景となっているにちがいない。つまり、大阪弁の様子・様態を表す「みたい」である。「アホみたいや」など。
 ともあれ猖獗を極める『みたい語』は、少なくとも謙抑的表現ではない。よくいえば状況を粗々包(クル)んでいるのだろうし、あり体にいえば粗忽にぼかしている。前者は適当な距離感を保つためともいえるし、後者は明言する知性に欠けるからともいえよう。事ここに至って、いいの悪いのと論っても詮ない。問題はそのようなワーディングの向こうに何が見えるか、だ。以下、奇想、妄想の類いである。

 心象には、「絶望の国の幸福な若者たち」が結像される(26歳の社会学者・古市憲寿氏の著書名、講談社刊)。10年に行われた内閣府の「国民生活に関する世論調査」によれば、20代の70.5%が「現在の生活に満足している」そうだ。ここ40年間で一番高いという。調査に信憑を措けば、前代未聞、日本史上初といって大袈裟ではなかろう。65年間の平和が生んだブリリアントな遺産であろうか。一言でいえば、「金はなくても、身近で工夫すれば結構幸せ」なのだ。史上極まったかにみえる「絶望の国」──当今ほど、将来に展望を欠いた時代はなかったともいえる──に棲まえばこそ、少欲知足するのであろうか。きわどい言い方をすると、「絶望」にヘッジされた幸福である。絶望に相殺されない不幸はないからだ。軽い多幸症といえば、礼を失するであろうか。少なくともテレビメディアが垂れ流す能天気な番組の数々は、この言葉以外形容のしようがない。多幸である限り、人は現実を否定しない。○○○“みたい”と「状況を粗々包んで」しまう。細かいことはいい、ハッピーなんだから……。

 「みたい(な)」は「見た様(な)」の転である。「様」とは比況、比喩である。実況、実物ではない。つまりは、情報を伝える際の物言いだ。とすると情報化社会であればこそ、“みたい”が相性のいいワーディングとして多用されるのではないか。しかし情報にモノ(コトも含め)以上の価値を措く社会であっても、なおモノを超えることはできない。
  「ITより おれは彼女に 会いてー(IT)よ」
 駄作ではあっても、このサラリーマン川柳は情報化社会の盲点を衝いている。スマホで愛のメッセージ(時には映像まで)は交換できても、逢瀬には適わない。会ってる“みたい”でしかないのだ。してみればケータイをはじめIT機器に囲まれたバーチャル空間は、“みたい”だらけ生活といえなくもない。

 『みたい語』とは明言できない物言いと捉えると、知力の衰退が透けて見えないだろうか。肯うにせよ否むにせよ、または留(トド)めるにせよ、くっきりと輪郭のあるワーディンングができないのはコミュニケーションにおけるある種の幼児語化ではないか。単語の単発、オノマトペ、反復語、破裂音の類いだ。そう言えば最近、採録不能な芸名やギャグ(小島よしおを遥かに超える)を売り物にするタレントが散見されるようになった。口惜しい限りだが、あまりに複雑?で例示できない。このような幼児語愛好家ともいえる手合いの跋扈は、知性の退嬰といってあながち外れてはいないだろう。または、そういうニーズに合わせたエンターテイメントか(それほど高尚には見えないが)。喚起されたにせよ、ウケているのは明らかに需要があるからだ。
 少し前までは、無知を売り物にする芸人、番組が隆盛だった(今でもそうかもしれない。かつて本ブログで触れた)。内田 樹氏が「下流志向」で指摘した無知な若者たちの簇生、さらには無学を誇り無知を自己表現する若者像が重なる。
 レンズが曇れば、見る物は暈ける。解像度が粗ければ、映る物は不鮮明になる。物の道理であろう。そのようにして生まれる言葉がクリアカットなはずはない。
 
 「歌は世につれ、世は歌につれ」を援用すれば、「言葉は世につれ、世は言葉につれ」となる。俗な慣用句ではあっても、深い箴言に匹敵するそれもある。またしても生煮えの奇想、妄想に終わってしまったが、社会時評みたいなブログを書くか、的なはじまりだったんだけどな……。 □


道を過つ話

2012年04月09日 | エッセー

 みんなの党代表渡辺喜美氏。かつて「たちあがれ日本」を『“たちがれ”日本』と皮肉り(「たちあがれ」から「あ」を抜くと「立ち枯れ」となる)、「民主党はタイタニック号、みんなの党は救命ボート」と揚言したりと、コピーライターとしての才には目を見張るものがある。2世議員などにならず、その道を行けばよかった。“道を過った”のではないか。
 その渡辺氏が今般、「民主党は第2自民党になった」と発言した。実に巧い。言い得て妙である。一言にして事の本質を射貫いている。例証は掃いて捨てるほどあるが、直近の事例を挙げよう。

〓〓高速道4車線化の再開発表 料金余剰金、建設に転用
 国土交通省は6日、凍結していた高速道路6区間の4車線化と新名神高速道路の2区間の着工を再開すると正式発表した。4車線化の建設費には、料金収入で余った約3500億円を回す。本来は借金返済や料金引き下げに使うべきなのに、大型の公共事業を復活させる目的に振り向ける。
 4車線化は、民主党政権が2009年の政権交代直後に「コンクリートから人へ」を掲げて凍結していた。10年に料金割引のお金で4車線化する法案を出したが、国会の混乱で審議されずに廃案になっていた。国交省は4車線化の再開について、東日本大震災を受け、「災害に備えた物流網整備が必要」と説明しているが、災害対策をたてに、大型の公共事業を復活させるねらいがある。〓〓(asahi.com 2012-04-07)

 「コンクリートから人へ」は、今や完全な死語だ。この理念そのものをコンクリート詰めにしたにちがいない。もはやブラックジョークですらない。総額1兆円超、消費増税の目くらましであろうか。ならば、国民もなめられたものだ。小泉政権の置き土産である道路公団民営化は霧散し、国交省の独壇場である。大型公共事業と官僚主導とくれば、かつての自民党のアヴァターそのものではないか。
 利益誘導による政権維持が自民党史を通底するフレームワークであった。それを大々的に賑々しく繰り広げたのが田中角栄であった。十把を一絡げして言えば、実利は自民党が握り夢は社会党が語る政治的枠組みが55年体制であった。自民党は常に過半数を占め政権を握り続ける。かといって3分の2を超えはしない。当然社会党は過半を超えることはないが、3分の1以下になることもない。したがって社会党の党是である護憲は維持できる。体面を保ちつつ夢を語るお気楽が保証されていたのだ。ところが、94年の自社さ政権で社会党の夢が潰えた。まことに逆説的だが、ついには社会党そのものが崩壊していく。ここで社会党は“道を過った”と言わざるを得ない。自民党の高等戦術にしてやられたといえなくもない。
 本格的な低成長時代に入り小泉純一郎氏が唱えた「構造改革」は、自民党の古典的な集票構造に激変を強いるものであった。だから「変人」と白眼視され、「独裁者」と嫌われたのだ。だが小泉氏の戦後政治史における特筆すべき事績は、この『集票の』構造改革に果敢に挑戦したことである。前人未踏といっても過言ではない。彼はそれを劇場化させた政治状況の中でトリッキーに成功させた。しかし継承者が“道を誤った”。小泉氏が後継に恵まれなかったのは不徳であり不運であり、かつ不憫でもある。
 となると、渡辺氏の言う『第2自民党』とは小泉政権以前の自民党を指すことになろう。前記報道が伝える道路政策は、古き好き時代の自民党の集票構造そのものではないか。だが振り返ってみれば、小沢氏が主導した農家への戸別所得補償も角栄直伝による自民党の古典的手法といえる。党勢の凋落を前に、異端視してきた勢力の猿まねに走るとは“道を過った”所業と言わざるを得ない。民主党はかつての古典的自民党に先祖返りしたとも、ミイラ取りがミイラになったともいえる。道を造ることでまたもや“道を誤った”、と断じざるを得ない。
 一つ気になるのは、冒頭に引用した「みんなの党は救命ボート」の部分だ。民主党の遭難者を救い上げるのはいいが、『第2民主党』になっては元も子もない。“道を誤った”といわれぬよう、くれぐれも御用心あれ。 □


マキタスポーツは売れ筋

2012年04月05日 | エッセー

 マキタスポーツはいいとこを突いている。といって、運動用具の話ではない。マキタスポーツとは芸名であり、突いているのはネタの中身だ。
 大ヒット中の「十年目のプロポーズ」が好個の作品だ。歌詞の一部を引く。

  〽行ってきます おかえりなさい
   くりかえす毎日 退屈な日々
   訪れた危機 漏れた溜息
   ループする四季 でも君はキセキ

   愛してるの言葉さえ言えず 桜舞い散るこの季節になり
   永久に誓う言葉もなし 中途半端な僕は形無し

   強がりや 弱虫も 僕が全部 受け止めるから
   大丈夫だから さあ 翼広げよう〽

 作詞、作曲は彼の手になる。最初に耳にした時、「よこはま・たそがれ」がにわかに蘇ってきた。40余年も前の唄である。いつもの奇想天外かと躊躇したが、これが結構理路の通った着想なのだ。山口洋子作詞、平尾昌晃作曲。一部を引く。

  〽よこはま たそがれ ホテルの小部屋
   くちづけ 残り香 煙草のけむり
   ブルース 口笛 女の涙

   裏町 スナック 酔えないお酒
   ゆきずり 嘘つき 気まぐれ男
   あてない 恋唄 流しのギター

   木枯し 想い出 グレーのコート
   あきらめ 水色 つめたい夜明け
   海鳴り 灯台 一羽のかもめ
   あの人は 行って行ってしまった
   あの人は 行って行ってしまった
   もうおしまいね〽

 つとに知られたことだが、演歌の定番フレーズがこれでもかこれでもかと置かれている。コンテクストらしきものは語られず、「あの人は 行って行ってしまった」に収斂していく。手抜きなのか、恐るべき計算尽くなのか。まちがいなく後者である。ステレオタイプを逆手に取った見事な返し技だ。歌謡史に燦たるモニュメンタルな逸品だ。肝は定番フレーズである。実は、「十年目のプロポーズ」も同類なのだ。「キセキ」「桜舞い散る」「翼広げよう」を筆頭に、Jポップの定番フレーズが羅列する。なぜか? そのように作られているからだ。
 マキタスポーツ君は過去30年のJポップヒット曲から作詞・作曲技法を微細に分析し、「ヒット曲の法則」を導出した。「十年目のプロポーズ」はその法則に準拠して創られている。筆者はからきし不案内だが、作曲にもヒットする法則性があるそうだ。彼はそれをネタに芸人として活動をつづけてきた。「作詞作曲ものまね」と自称する。作詞作曲の方法を真似る。声帯、形態模写ではなく、アーティストの思想、作風の「文体」を模写する芸だという。かつてタモリが得意としていた寺山修司のものまねがそれに当たろう。声音(コワネ)が瓜二つというわけではないが、いかにも寺山が言いそうなことを澱みなく繰り出す体(テイ)の芸だ。高田文夫、草野仁、佐野元春らが、そのクオリティーやパロディー性の高さを大きく評価している。
 ちなみにレパートリーは矢沢永吉、長渕剛、佐野元春、奥田民生、浜田省吾、谷村新司、内田裕也、尾崎豊、森山直太朗、加山雄三など、まことに済々たるものだ。
 さて、Jポップの定番フレーズ10傑を挙げると──「好き」「信じて」「愛して」「抱きしめて」「忘れない」「一緒に」「奇跡」「扉」「大丈夫」「目を閉じ」──だそうだ。たしかに嫌というほど、これらのフレーズが目につく。目につくとは、テレビをはじめ歌詞をテロップで流す形式が近ごろ急増しているためだ。だから「翼広げ過ぎ」「瞼閉じ過ぎ」だと、ステレオタイプ批判が囂しい。作詞力が衰退し、「ギャル演歌」になったとの酷評もある。となれば、「十年目のプロポーズ」はJポップ版「よこはま・たそがれ」といえるのではないか。お見事! 返し技、一本! である。
 あるいはITによるメディアの多様化に対応するため多品種少量生産を狙ったものの、創作キャパが追っつかずに同類種大量生産に歪んでしまったのであろうか。ただ、Jポップを担う世代のことば事情が変容しつつあることに異を立てる余地はない。変容とは決して潤沢に、ではない。
 一方拮抗するように、最近は歌詞への関心が高くなっている。歌詞の全文を載せるサイトにアクセスが急伸しているそうだ。カラオケ練習のためや、ライトな小説感覚で読む若者もいるらしい。変容は確かだが、欲求が餓(カツ)えの発露であってみれば好意に捉えることもできよう。

 内田 樹氏が小学5年の時、英語も解らないままエルヴィスを聴いて震えた体験を通し「音楽の命は音の物質性のうちに棲まっている。言葉も同じである。言葉の命は言葉の物質性のうちに棲まっている。」(「こんな日本でよかったね」文春文庫)と語っている。筆者もそうだった。エルヴィスも、ビートルズの時も英詩を理解して痺れたわけではない。かつて書いたように拓郎もそうだった。まずイカれたのはあのメロディーと声。つまりは音にだった。小林秀雄も三島由紀夫の時もそうだった。文意を十全に受け取った後に嵌まったわけではない。スピーカーが送ってくるカッコいい音の連打に、紙面に刻された美しい言葉の群に酔ったのだ。でなければ、意味も解らず『来た~!』はずはない。
 となると「文体」の模写を狙いとするマキタスポーツ君の芸とは、Jポップを「音の物質性」と「言葉の物質性」に還元し「ヒット曲の法則」として開示することではないか。これは凄い。「よこはま・たそがれ」の再来どころか、それを遥かに凌ぐ業績といえる。
 蓋し、「スポーツ」とはよく名付けたものだ(実家の商店名を使っている)。スポーツとは徹頭徹尾、物質性から成る。メンタルは必要条件ではあっても、メンタルを競うスポーツなどないからだ。俄然、目が離せなくなってきた。 □


沈黙を強いる想定

2012年04月03日 | エッセー

〓〓南海トラフ地震予測、10県で震度7 津波最大34m
 内閣府が設けた有識者の検討会が3月31日、南海トラフ沿いの巨大地震について新たな想定をまとめた。震度7になりうる地域は10県153市町村に及び、面積で従来想定の23倍に拡大した。最大で34.4メートルの津波が考えられ、従来の想定にはなかった20メートル以上の津波が来る可能性がある地点は6都県23市町村に広がった。中部電力浜岡原発(静岡県御前崎市)の立地地点では、建築中の防波壁の高さ18メートルを上回る想定だ。
 発表したのは「南海トラフの巨大地震モデル検討会」(座長・阿部勝征東大名誉教授)。地震の規模を示すマグニチュード(M)を最大で東日本大震災なみの9.1に設定。そのうえで、震度分布のモデルを検討した。強い揺れを起こす領域の仮定に応じて、震源からの距離で揺れが弱まることなども考慮に入れ、多くのパターンを試算した。
 すべてのパターンを通じた地点ごとの震度の最大値を組みあわせた震度分布では、震度6弱以上の恐れがある地域は24府県687市町村に及んだ。中央防災会議が2003年時点で出した想定(20府県350市町村)から、総面積は3.3倍に増加。震度6強以上になる地域も5.6倍に拡大した。〓〓(12-04-01 asahi.com)

 目を疑い、しばし混乱した。
 落ち着いて考えてみる。
 はたしてこれは想定といえるのか。面積も波高も、震度もまさに破天荒な数字が並ぶ。高知県高潮町での最大波高34.4メートルとは想像を絶する。反面、その40センチという刻みのなんと小さいことか。膝下ほどの尺さえ計算できる精度と、想定の幅の大まかさ。その茫漠たる懸隔。それにしても、目を疑うとてつもない数字の群だ。ひょっとしてこの一年繰り返された「想定外」の責め苦に懲りて、目一杯の鯖を読んだか。しかし事は数世紀を跨ぐ話ではない。この先数十年内の想定である。あるいは数日先か、きょうかも知れない。
 真っ正直に応ずるなら、太平洋岸に住まう人びとは日本海側に民族大移動をするほかあるまい。あるいは、20メートルを超える超弩級防波堤で太平洋岸をすっぽり囲い込んでしまうか。一体、何十年かかる。そもそも、できるのか。どちらにせよ奇想、天外より来るだ。とても間尺に合う対策ではない。
 対策不能な想定に意味はあるのか。役所のおはこである「100年に一度」式で想定の瀬踏み、間引きをするのだろうか。しかし国民的トラウマ状態の時に、そのような便法は通じないだろう。想定のマキシムを下回る堤防に到底賛意は得られまい。
 朝日は識者の声を紹介し、「過度に怯えず、意識を改める出発点に」しようと呼びかけた。「過度に怯えず」はいいとして、「意識を改める」とはどう改めるのだろう。いままでの想定は甘かったので今後はより厳しい想定で対処しましょう、なのか。程度問題に落とし込むなら、トートロジーでしかない。あるいは、意識を改めれば自然をコントロールできるとでもいうのだろうか。それほど能天気ではあるまい。だとすると善意に解釈すれば、言葉に窮しての社交辞令ではないのか。そうとしか言いようがなかったのだ。「ではお元気で」と大差はない。ほとんど何も語ってはいない。
 とはいえ杯中蛇影でないことは確かだ。言えるとすれば、意識を変えても変えられないものがあることを肝に銘じておくべきだろう、か。でもこれとて、さしたることは語っていない。なんとも歯痒い。

 もう一度、落ち着いて思念してみる。
 沈黙を強いるデータを前にして、われらが業の深さに、それでも抱える命の重さに、にもかかわらず生き続けようとする健気さに、黙(モダ)したままに凛然とする。 □