伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

「ホンマに親父かー?」

2021年06月30日 | エッセー

 YouTubeで出色のCMを発見した。登場するのは千鳥の大悟。

(スマホで)
「ああ、親父。元気、元気! 
 突然あれなんやけどやー、中国電力のグッドずっとクラブって知っとる?
 知っとる! 
 ホンマに親父かー?」

 わずか16秒の遣り取りである。通常のといっては変だが、「通常のオレオレ詐欺」の逆パターンである。それは解るが、なにやらヒネリがありそうだ。そこで、愚慮してみた。

1. 普通のオレオレ詐欺は子が親に窮状を訴え金を要求するのに、これは子が親に優良な情報を提供しベネフィットを供しようとしているいる。親に嫌なことをせがむのではなく、親に楽をさせようとしている。
2. 普通のオレオレ詐欺は親が同情するのに、「知っている」からと同調も同情もしない。これでは親心を擽(クスグ)るどころか、完璧にスルーされたことになる。
3. 田舎暮らしの頭の固い親父がこんな最新お得情報を知っているはずがない。なのに知ってるという。
4. だから普通のオレオレ詐欺は電話の相手が本物の子かどうか疑うべきなのに、子が相手が本物の親かどうか疑っている。

 と、以上4点を捻(ヒネ)り出した。それがどうしたと言われても困るのだが、この盆暗には頭の体操にはなった。加齢とともに身体は老醜を極めるものの、知は華麗の度を増す。そう心得でもしないと、やっていられない。
 「オートファジー(細胞の自食作用)」の解明で2016年、ノーベル生理学・医学賞を受賞した大隅良典先生はこう語る。
〈大きな問題として、「科学(サイエンス)」と「技術(テクノロジー)」が区別されず、「科学技術」という言葉で括られてしまっていることがあります。多くの人は、「科学」は「技術」の基礎なんだ、という理解をしてしまっています。これは非常に大きな問題だと思います。「科学」というものは、原理や普遍性や法則性を「発見」する過程です。一方の「技術」とは「発見」という言葉に代表されるものです。実はこの二つには大きな違いがあるんだと言うことを、もう少しわかっていただく必要があります。〉(柏書店「『役に立たない』研究の未来」から抄録)
 これを当てはめると、≪アインシュタインは発見者で科学者、エジソンは発明者で技術者≫となろうか。位階の上下ではなく、なにかエラく腑に落ちた。
 続けて先生は、
〈科学、つまり人間の知を拡げる活動というのは、「文化」として捉えたほうがいいんです。芸術とかスポーツですばらしいパフォーマンスを目にしたとき、われわれは感動しますよね。その感動というのは、決して「役に立った」という言葉で測られるものではないはずです。〉(同上)
 と述べる。中野信子先生によると、脳内ホルモン・ドーパミンは新しいものごとや未知の世界に触れたいという「新奇探索性」の源泉であるそうだ。大隅先生が言う「感動」の正体はこれにちがいない。面白いことに南米や南ヨーロッパの人びとにはこれがとりわけ多い。南米は地理的、南欧は種の煩雑さをディスタンスと捉えれば、出生地東アフリカから遠ざかるほどドーパミンを要したといえなくもない。日本人はというと、際立って少ないそうだ。
 併せて、ドーパミンはギャンブルという「新奇探索性」をも刺激する。してみると、万が一の成功に賭けて五輪に猪突するどこかの政権要路は日本人には珍しいサピエンスである──ということを
「突然あれなんやけどやー、親父、知っとる?」 □


不思議の30%

2021年06月28日 | エッセー

 今月25日TBS系『炎の体育会TV』に、現役通算打率.303だったマスクドスラッガーが登場した。取り立てて野球のファンではないが、打率3割には俄然興味をそそられた。芸能人との勝負はさすがにマスクマンの勝利となり、仮面を外すと元横浜ベイスターズ・鈴木 尚典(タカノリ)が顔を出した。
 どうも『.303』、3割3厘、30%が気に掛かる。調べてみると、3割打者は希少種であることが判った。2020年セ・パプロ野球平均打率が.250。長嶋さんが歴代4位で.305。イチローが日米通算.322。やはり3割打者はレアケースだ。
 想を飛ばして政界を見てみる。歴史社会学者 小熊英二氏は、「3割が与党の固定票、2割が野党の固定票、残り5割が棄権を含む無党派だ」という。ゲリマンダーにもよるが、「3割」で政権を担い、「5割」が微動すれば勢力図は大きく変化する。そういう構図だ。3割がカギで、かつ雌雄を決する。
 昨年3月国税庁が発表したところによると、全国の赤字法人は66.1%。逆にいうと、儲かっているのは3割台。なのに残り7割はなぜ倒れないのかは手厚い保護政策があるからだろうが、凡愚には雲を掴む話である。ともあれ、ここでも3割台にボーダーラインがあると見ていいい。
 哀しい3割がある。沖縄には日本全体にある米軍専用施設のうち70%がある。つまり、本土の負担は3割ということだ。日米共同利用を含めると沖縄単独では22.5%だが、それにしたって、決して低い値ではない。同じ日本でありながら、本土は3割しか背負っていない。言い訳が立つ数字ではなかろう。
 例示すればあと幾つもあるだろう。だが、牽強付会、当てはめのピットホール(仮説に反する事例はネグって適合するものだけを専一的にチョイスする)は避けたいし、なによりこのぼんくら頭にはこれぐらいしか浮かばない。
 TBSに提案したい。『炎の国会TV』はいかがであろう? 現職閣僚がマスクドポリティシャンとして登場し、市民代表の質問に応える。判定はオーディエンスの3割が納得するかどうか。達しなければマスクマンの負け。ペナルティーで顔を晒す。なぜ3割か? 先述の3:2:5の3、30%なら国民の太っ腹が飲み下してくれるだろうと期待するからだ。言っておく、それにしても相当キツい。『不思議の30%』は龍門の激流だ。 □


コンビーフの原料は?

2021年06月25日 | エッセー

 2、3日前のこと。TVのグルメ番組で極上コンビーフを紹介していた。
「ん、コンビーフの原料はなんだ?」
 荊妻に問うと、頭を傾げて思案顔。
 で、スマホでググって大笑い。corned(塩漬け) beef(牛肉)! ビーフなのだ。そういえばあの台形の缶には牛が描かれていた。
 いよいよボケが始まったか。夕飯に何を喰ったかは忘れてもいい。だが、喰ったか喰わなかったかは忘れちゃならない。その俚諺まで薄皮1枚だ。
 首相はバブル方式で安全安心は保てると言う。岩波国語辞典には、バブルとは「あぶくに似て実質の無い(過熱の)情況」とある。
  〽シャボン玉飛んだ
   屋根まで飛んだ
   屋根まで飛んで
   こわれて消えた
 言葉の原義に照らせば、バブル方式とは悪い冗談でしかない。あるいはパラノイアか、やはり呆けたか。
「万が一の成功は希(コイネガ)うが、十中八九の失敗は望まない」
 前稿の捨て台詞が蘇る。
 今日、報道各社は西村泰彦宮内庁長官による昨日の定例会見での発言を伝えた。
 今上天皇が五輪についてコロナ感染を心配し、
「開催が感染拡大につながらないか、ご懸念されていると拝察している」
 と。
 受けて、加藤官房長官は記者会見で
「宮内庁長官自身の考えを述べられたと承知している」
 と語った。
 菅首相はというと、
「(西村)長官ご本人の見解を述べたと理解している」
 とおうむ返し。この2人、ネグレクトを言い換えただけではないか。
 政治的発言の可否は措くとして、天皇はオリパラの名誉総裁である。名誉総裁という最上位階者の意向を聞き置き候でいいのか。政権こそ越権行為、もしくは越権的不行為である。都合によって上げたり下げたり。天皇の政治的利用そのものではあるまいか。
 シャボン玉がこわれて消える。パラノイア政権は飛ばないうちにこわれて消える。眼鏡を掛けたまま眼鏡を探す。政権規模のボケが始まったか。同じボケでも、コンビーフの原料を思案する方がまだ増しだ。 □


あんな男とくだらない奴

2021年06月23日 | エッセー

 気鋭の政治学者 白井 聡氏は本年3月の新刊『主権者のいない国』でこう安倍を断罪した。
〈安倍晋三こそ、政治の世界で「敗戦の否認」の情念を代表する人物にほかならない。ゆえに、この期間が日本史上の汚点と目すべき無惨な時代となったのは、あまりにも当然の事柄である。虚しい歴史意識は、社会を劣化させ、究極的にはその社会を殺し、場合によってはそこに生きる人間を物理的に殺す。〉
 稿者にいわせれば「汚点」ではなく、「汚物」である。「社会を劣化させ」た成れの果て、汚物そのものである。近畿財務局の赤木俊夫さんは「人間を物理的に殺す」一象徴となった。
 継承者 菅はどうか。本年当初の講演会で思想家 内田 樹氏はこう語った。
〈アメリカのデモクラシーはどんなに愚鈍で邪悪な人物が大統領になっても統治できるように権限を分散、リスクを分散している。性悪説に立った精密な制度である。明らかに適格性を欠く統治者が選ばれても対応できるようにした。菅みたいなくだらない奴が選ばれるのは民主主義の実現である。〉
 菅の件(クダリ)は皮肉ではない。裏返せば、適格性に欠ける人物は独裁制や君主制の元では統治者になれないという原理を述べている。独裁にはカリスマ性、君主には氏素性が必須だ。菅には双方とも欠落している。稚拙なコロナ対応と自称秋田の貧農出身がその証拠だ。しかし、選ばれた。これは民主主義の手柄ではないか、そう内田氏は言ったのだ。いや、待て。これには含意がある。「権限を分散」できる限りにおいては、という付帯条項があるのだ。ところが安倍はこれの開錠に手を染めた。その延長に菅はいる。
 19年2月28日、衆議院予算委員会での質疑応答。
〈長妻昭議員 「統計問題を甘くみない方がいい。扱いによっては国家の危機になりかねない、という認識はあるのか。」 
 安倍総理「いま、長妻委員は国家の危機かどうか聞いたが、私が国家です。」〉
 語るに落ちるとはこのことだ。ついうっかり漏らした失言に本音は宿る。内田氏が言う「あんな男」の本音には誇大妄想化した夜郎自大が盤踞している。後継した菅は疑いようもない「あんな男」の“濃厚接触者”である。菅の場合、感染は誇大妄想化した承認願望として発症している。病症は一つあげれば事足りる。五輪の強行開催だ。科学的エビデンスに背を向けたパラノイアだ。窮鼠が猫を噛む逆立はそのようにして起こっている。一種の錯乱状態ともいえる。菅は己の“緊急事態”を隠蔽するために「緊急事態宣言」を濫発している。稿者はそう見ている。
 昨年11月拙稿『狼爺さんのパラドクス』でも取り上げたが、「狼少年のパラドクス」というジレンマがある。不幸の予言が当たらないと次第に不幸の到来を願うようになるという倒錯だ。稿者、そんな浅ましいシャーデンフロイデは避けたい。万が一の成功は希うが、十中八九の失敗は望まない。ただし、秋の「リスクを分散」する好機には明確なオブジェクションを提示する。
 「いつまでもあると思うな親と金」改め、「いつまでもあると思うな票と金」。お粗末。 □


「我」とは誰だ?

2021年06月19日 | エッセー

 身の程知らず。哲学者にでもなった気分で与太を飛ばす。お笑い召され。
 Cogito,erugo sum
 このラテン語のフレーズはデカルト自身が口にしたものではないとの説もあるが、寅さんといえば「それを言っちゃ おしめえよ」が別ち難くあるように『方法序説』の、いや哲学の代名詞として屹立している(譬えが卑近か)。
 で、『sum』とは何か? 「我思う故に我あり」の「我」である。
  ルネ・デカルト、知らない人はいない「近代哲学の父」である。注視すべきは「近代」だ。意味は近代哲学を拓いたということで、デカルト自身は中世の人である。同時代人には100年前にニコラウス・コペルニクスがいる。『天球の回転について』はコペルニクス的転回を世界史に刻んだ。一方、ガリレオ・ガリレイはデカルトと同世代だ。「天文学の父」、「近代科学の父」と讃えられる。コペルニクスとガリレオが表徴するように、中世暗黒時代の軛を断ってバチカンの教えに背馳する学識が世に放たれ出した。芸術はもとより、宗教界ではプロテスタンティズムの勃興、宗教改革へ。学問界も教会の僕(シモベ)から自立を始め、科学革命へ。「それでも地球は回っている」はバチカンに叩き付けた三行半だ。つまり、湧き起こるルネサンスの歴史的昂揚の中で胎動した神からの乳離れだった。
 ガリレオはそれまで神の範疇にあった自然現象に数学的手法や思考実験を駆使して迫った。神によるオーソライズの代替を科学に求めたといえる。時代を共にするデカルトもまた神にあらざる何ものかに公認の本源的根拠を求めた。もはや仮説の真偽を神には訊けない。赤ちゃん返りは沽券にかかわる。ならば、何処の誰が? そうデカルトは問うた。深く長い呻吟の末、遂に口をついて出た言の葉が「Cogito,erugo sum」だった。身も蓋もない言い方をするなら、神に取って代わったのは科学の目だった、とでもなろうか。「我」は無知の目ではない。科学の目を具備した人間自身である。そうデカルトは宣ったのだ。75年前どこかの国で発せられた「人間宣言」に似てなくもない。
 問題は、すべてを疑えという方法的懐疑が向けられた先、換言すればデカルトは何を疑ったのか? だ。
 「すべてを疑う」といっても決して「すべて」ではない。それは人知を超える神のみぞ為せる技だ。デカルトはそんなトートロジーで人びとを煙に巻こうとしたのではない。
 社会学者の大澤真幸氏は近著『新世紀のコミュニズム』で次のように述べる。
〈デカルトは、科学革命の同時代人で、彼自身、この革命の担い手の一人だが、経験を異様なまでに疑っている。近代科学が依拠したのは、経験のすべてではなく、独特のやり方で改造され、編成された経験である。つまり「実験」や「観察」となった経験だ。実験・観察は、経験らしさが抜き取られた経験である。経験の特徴は、人によってさまざまだということ、個人ごとに多様だということにある。それに対して、実験・観察は、経験の構成要素をできるだけ道具や数値に置き換えることで、「誰が実施しても同じ」「誰が観測しても同じ」という状況を確立しようとする。〉
 デカルトが「異様なまでに」疑ったのは「経験」だった。経験は巨細を問わず汚れている。真の意味で2度と同じ経験はないし、他者が同じ経験をすることはあり得ない。個別の偶然性や作為性を免れない経験を実験や観察の対象とすることはできない。コロナウイルスの動きを他のウイルスが混在するシャーレの中で特定はできない。見分けも付けがたく、また相互に影響し合うからだ。しかし、自然はそのようにしてある。経験は自然と同義だ。だからこそ、「経験」から「経験らしさ」を「抜き取ら」ねばならない。汚れを完璧に落とさねばならない。純粋培養された「経験」である。それは自然から離隔された実験室やギリギリにイシューを絞り込んだ観察でしか敵わない。デカルトが「すべて」を疑ったとは、そういうことだ。そこに忽然と励起したのが「我」だった。
 では、「我」はデカルトの何処にあったのか? 頭の中だ。超高度な思考実験は頭の総力を挙げて展開される。別けても意識だ。無意識ではない。無意識が科学の俎上に上がるのはそれから3世紀を経たジークムント・フロイトによってであった。であるなら、「我」とは「意識」であった、がラストアンサーだ。
 とはいえ、神から決別した人類の宿願を背負って神ならぬ神を人間の裡に発見した壮大な旅。常人の成し得ることではない。パリの「人類史博物館」にはデカルトの頭蓋骨が展示されているそうだ。人類史に高々とした稜線を刻んだ頭脳とはどのようなものだったのだろう。俄然興をそそられる。 □


<承前>「地下二階」

2021年06月18日 | エッセー

 メンターとはありがたいものだ。内田 樹氏の著作をパラパラと捲っていたら、<地下室の下にある地下室>というタイトルが目に飛び込んできた。おぉ、これだ。独り言ち、膝を叩いた。
 前稿ではこう述べた。
〈だがもう一回、お立ち会い。意識の基底にある無意識、潜在意識はどうなる? ホモ属として分岐してから250万年、サピエンスとして歩み出して以来20万年もの間に蓄積された類的データはどうなる? 加えてデータにならなかったデータは? 断言しよう。量子コンピュータであってもギブアップ、お手上げだ。〉(「AIの大穴」から)
 「蓄積された類的データ」、ここである。村上春樹の文章に触れる中で、内田氏はこう語る。
〈文章を書くというのは、自分の内側に潜ってゆくことだと村上春樹さんは書いています。どこまでもどこまでも、ずっと入り込んでいく。すると、自分の個別性や個性というものの限界を越えて、その先まで突き抜けてしまう。「鉱脈」という言い方をしたこともあるし、「暗闇」と言うこともある。「井戸」とか「地下室」という比喩を使うこともある。〉(『街場の文体論』から)
 「鉱脈」、「暗闇」、「井戸」、「地下室」、さらに「地下室の下にある地下室」、「地下二階」こそが「蓄積された類的データ」ではないか。逆にいえば、地上階の下にB1があり、さらにその下にB2がある。地上階が意識、B1が無意識・潜在意識、B2が「鉱脈・暗闇」だ。上掲書から村上のパッセージを孫引きする。
〈暗闇の中をめぐって、普通の家の中では見られないものを人は体験するんです。それは自分の過去と結びついていたりする、それは自分の魂の中に入っていくことですから。でも、そこからまた帰ってくるわけですね。あっちに行っちゃたままだと現実に復帰できないです。〉『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』
〈鑿を手にこつこつと岩盤を割り、穴を深くうがっていかないと、創作の水源にたどり着くことができない。小説を書くためには、体力を酷使し、時間と手間をかけなくてはならない。作品を書こうとするたびに、いちいち新たに深い穴をあけていかなくてはならない。〉『走ることについて語るときに僕の語ること』
  内田氏は「鑿」を「文体」に、「創作の水源」を「自分の魂の中」に準える。そうなると、特に後者は「自分の過去と結びついていたりする」とカムアウトする件(クダリ)に視線が釘付けになる。「過去」は潜在意識を超えるからだ。「自分の過去」はドメスティックな遺伝的形質を意味しているのではない。中野信子女史によれば、人間は5世代までは赤の他人だが、30世代まで遡ればどこかで血の繋がりがあるそうだ。1世代30年として900年、平安末期には“人類みな家族”だったことになる(『メタル脳』から)。ましてやサピエンスの全史20万年を遡及するなら、それはそのまま「類的データ」と呼んで差し支えあるまい。
 AIの大穴を覗き込めば「地下二階」の底知れぬ「暗闇」が広がっている。「量子コンピュータであってもギブアップ、お手上げだ」。 □


AIの大穴

2021年06月16日 | エッセー

 人工知能については右顧左眄しつつ何度も触れてきた。「スイッチを切っちまえば終わり」と養老孟司先生のように超大胆にはいかずとも、ふとヤツの大穴がこの出来の悪い頭に浮かんだ。浮かんだから書き留める。とんでもない誤解であったとしても、ド素人の浅慮であったとしても、庭の踏み石の一つぐらいにはなるかも知れないから。
 AIとは、「コンピュータを使って、学習・推論・判断など人間の知能の働きを人工的に実現したもの」とされる(岩波国語辞典)。切り詰めて言えば、人間の頭の機械化だ。パワーショベルが腕を機械化し人力を遙かに超えるパワーを生み出したように、頭の働きを代替し極大化しようというわけだ。この夢の機械がいよいよ実現するシンギュラリティーが2045年前後だという。
 AIの肝はディープラーニングである。対象を巨細なく関連付けてより深くさらに深く学習していく。深層学習という。これをヤツは自分でやる。だからスゴいのだ。こんな手間仕事は人間には手に負えない。しかし只でできるわけはない。元手がいる。それがデータ、それも飛切りのビッグデータだ。
 さて、お立ち会い。この元手に問題がある。といって、玉石混淆だからといっているのではない。そんなものはヤツは簡単に選別してしまう。ベルトコンベアを高速で流れる食品がAIによってあれよという間に不良品が弾かれるように。でも、AIはそんなことには無頓着である。むしろ玉石併せネタにしてしまう。清濁併せ呑み込んでエントロピーの材料にしてしまう。ヤツは貪欲だ。ビッグデータを漁りまくる。
 繰り返すが、このビッグデータに問題がある。
 ディープランニングの元手であるデータは時空において地球規模であろうとも、すべて過去に起こったデータである。将来量子コンピュータが本格稼働しビッグデータの質と量に革命的進歩があったとしても変わることはない。人類誕生、あるいは地球誕生以来のあらゆるデータを収集して学習・推論・判断することも理論的には可能である。だがしかし、ビッグデータは過去・現在のデータである。そこに限界があることはつとに指摘されてきた(他に身体性を持たない思考への懐疑もあるが、それは措く)。それはその通りだが、このぼんくら頭に浮かんだ大穴はそれではない。
 過去に起こってもよかったこと、起こり得たこと、何かの弾みで消えたこと、思念には浮かんだが実行されなかったこと、意図的作為的にもみ消されたこと、忖度されたこと、改竄されたこと、または改竄される前のこと、つまりデータにならなかったデータは“掬い”ようがないのである。これはまことに“救い”難い本質的欠陥、構造的欠損、大穴ではないか。
 何時どこで誰が何を買ったかは判っても、買うかどうか迷った品物や事情は判らない。買った物は掴めても買い控えた物は把持できない。
 一人の人格に準えてみよう。出生からの行動暦から視・聴・嗅・味・触の五感はデータ化できるだろう(量子コンピュータでも使えば)。さらにその先に行って意識をも学習・推論・判断できるかもしれない。
 だがもう一回、お立ち会い。意識の基底にある無意識、潜在意識はどうなる? ホモ属として分岐してから250万年、サピエンスとして歩み出して以来20万年もの間に蓄積された類的データはどうなる? 加えてデータにならなかったデータは? 断言しよう。量子コンピュータであってもギブアップ、お手上げだ。
 シャーロック・ホームズは、「起きたこと」ではなく「起きなかったこと」を糸口にして推理していく。「起きてもいいことが、なぜ起きなかったのか?」と。この骨法は天下無双である。けれどもAIにはできない相談、無い袖は振れない。
 言っておく。AIよ、出過ぎたまねをするとスイッチを切っちまうぞ!  □


マスク 異説

2021年06月14日 | エッセー

 では、なぜ赤ん坊はマスクをして産まれてこないのか? 
 せっかく無菌状態でこの世に登場したのにもったいない。そう考えませんか? ぜひ“マスク警官”の方にはお答え願いたい。
 20万年前にホモ・サピエンスが誕生して以来、マスクが真に必要ならば鼻や口はマスクを代替する形に進化したはずだ。というか、そうでなければ250万年前にチンパンジーから分岐したホモ属はとっくに死滅していたことになる。頭部のインターフェイスは造りの大小を勘定に入れても、チンパンジーとさほど変わりはない。北島三郎氏においては、大きな鼻孔を精一杯押し出して存在感をアピールするその属性が如実に残存している(大御所に失礼)。
 冒頭に戻って、赤ん坊は逆だ。手に触れるものをなんでも口に持っていく。これは細菌やウイルスをアグレッシブに取り込んで免疫系を作ろうとしているのではないか。
 マスクは緊急避難的対処だ、とはその通りだろう。死因が確定してはいないが、大阪でマスクをしたまま持久走中に死亡した男子児童がいた。おバカな集団圧の人身御供だったとすれば、見殺しにはできない。
 集団的な被災は往々にして集団的な思考停止を誘発する。そこに知的負荷が最も掛からない陰謀説が発生する。それは凶悪な流言飛語に形を替えて弱者を血祭りに上げる。関東大震災時の朝鮮人虐殺ほか、例に事欠かない。今日、SNSによってガセの伝播力は想像を超える驚異的な広がりとスピードを備えている。いつか来た道、2度目ははるかに行きやすいと心得たい。
 以下、余談ながら。
 スッカスカ首相のストックフレーズは「安心安全の大会」である。過去何度か触れたように、これは矛盾している。形容矛盾である。「安心」はメンタル面の、「安全」はハード面の保障。極論すればよく解る。究極の安全はあり得ない。あらゆる事態を想定した安全策を講ずることは人間には絶対に不可能だ。神のみぞ知るである。絶対の安全がない以上、絶対の安心もあり得ない。究極の安全策は何もアクションを起こさないことだ。自動車が走らない限り、絶対に自動車事故は起こらない。はたしてそんな仮定はあり得るだろうか。究極の安心は不安の種をすべて払拭するまでは得られない。これはどうだ、あれはどうだ、こうなったら、ああなったらと切りがない。起こりうる可能性を一つ残らず検証しない限り安心には至らない。究極の心配性は心配の種をエンドレスに探し続ける。杞憂にさえ妥協しない。こんなこの世ならぬパラノイアを鎮めるのは神業である。
 だから総理大臣といえども神ならざる凡人が軽々に「安心安全」などと大見得を切るものではない。神への冒瀆になってしまう。じゃあ、どうするんだ? 折り合いを付けるほか手立てはない。この場合は、「安心安全を目指します。でも事あれば、責任はわたしが全部取ります」とでも公言するほかあるまい。
 次に、カラオケ禁止への対処は『カラオケ鼻歌(ハミング)』ではいかがか? これならマスクを外してできる。なんせ、飛沫が飛ぶ心配がない。でも鼻呼吸はどうなる? とツッコミを入れられそう。……お答えします。健康には鼻呼吸が一番なんです。人間は哺乳動物の中で鼻呼吸をする唯一の種です。本来鼻は呼吸をするため、口は飲み食いをするための器官でした。ところが、進化の中で言葉を使うために口で呼吸をするようになりました。発声には大量の空気が必要ですから。同時に病原体や口内の乾き、喉にキズを受けるなどの不利益が生じましたが、人類は断固として言葉を選択したのです。サバイバルの絶対の手段として。……てなことになる。
 とすると、冒頭の「鼻や口はマスクを代替する形に進化したはず」はどうなるんだ? と再度のツッコミを入れられそう。
 ところがお立ち会い、進化は進歩ではない。分子古生物学が専門の更科功氏の言説を引く。
〈「ある条件で優れている」ということは「別の条件では劣っている」ということだ。あらゆる条件で優れた生物というものは、理論的にありえない。生物は、そのときどきの環境に適応するようには進化するけれど、何らかの絶対的な高みに向かって進歩していくわけではない。進化は進歩ではないのだ。でも、進化を進歩と考えることがヒトは好きだ。ダーウィンが進化は進歩ではないとはっきり言ってから、もう160年以上が経っている。それなのに、「存在の偉大な連鎖」は、人々の心の中に未だに住み続けている。〉(「残酷な進化論」NHK出版新書から抄録)
 鼻は呼吸から臭覚へ、口は飲食から呼吸へとシフトした。どちらもマスクを外した、つまりは進化の過程でマスクを代替しなかったのだ。
 てなわけで、全国のカラオケ店が老若男女の壮大な鼻歌で満ち溢れる“希望”を抱きながら過ごす今日この頃、皆様ご機嫌いかがでしょうか。 □


大声ドラマ

2021年06月12日 | エッセー

 荊妻がNHKの朝ドラが滅法好きで否応なく見る羽目になることがある。記憶にある浪花千栄子はもっと静かで落ち着いた口調の人だった。もちろん脚色はあるにせよ、やたら大声で叫び散らしているようなのだ。ここんとこ、毎回の朝ドラが騒々しい。そういえばこれはTVドラマ全体の趨勢のようだ。映画はほとんど観ないが、事情は同じだと類推される。ノイジーなTVドラマ……なぜなのだろう? 
 理由は3つ考えられる。
 1点目は、周辺がノイジーだからだ。TVワイドショーが表徴するように、あっちでもこっちでも寄って集(タカ)って大声で捲(マク)し立てる。そういうノイジーな番組に囲まれているTVドラマは負けじとヴォリュームを上げる。そういうことではないか。付言すれば、下手くそな役者が増えたことも一因だ。背中で演じる役者なぞ絶えて久しい。微妙な表情の陰りや台詞の刹那の間が万感を語るような演者は払底した。そうではなく、TVドラマにはこれ見よがしに大仰な表情と騒音のような科白回しが溢れ返っている。加えて近ごろは緊急事態宣言なるものが非緊急的に、つまりは日常的に発出されている。日々の暮らしも、TVメディアもサイバー空間も人びとを急き立てるようにこの上なく囂(カマビス)しい。
 昔、多湖輝さんの『頭の体操』に「電話の相手の声が小さくて聞き取れない場合どうする?」という問題があった。正解はこちらも声を小さくする、だった。これがノイジー対処の骨法である。今やこの骨法は雑音の中に埋没してしまったらしい。
 2点目は、脳内がノイジーだからか。「今でしょ!」が表徴するように市場原理はやたら即決、高速を求める。株式市場なぞは億分の1秒の世界だ。情報は際限なく肥大し、データ至上主義を引っ提げたAIが人類を超えようとしている。シンギュラリティーだ。そのような手も足も出ない事況が切迫する中、ヒトが無音の情報──データはそれ自体一言も発しはしない。音声データも0と1の羅列だ。──に唯一対抗できるのは高声(タカゴエ)でがなることだ。サピエンスが誕生した太古、その生息地はさまざまな動物の咆哮が行き交い、容赦ない風雨が草木を叩き震わせ、騒然たる環境にあったことは想像に難くない。その中で生き延びて行くため負けじと威嚇の咆哮を放ち、仲間とコミュニケートしたにちがいない。脳が持て余すデジタルなノイズに先祖返りのアナログでフィジカルな大音声で立ち向かう。そんな図だ。
 3番目は、耳が遠くなったから。稿者を含め高齢化によるものだけではない。自らの鼓膜にだけ空気振動を伝えるヘッドホンが聴覚の低下を招いたのではあるまいか。パーソライズがぎりぎり進み、身体の局所的インターフェイスにまで至った。身体に良いはずはなかろう。
 以下、ウェブ版日経新聞から。
〈世界保健機関(WHO)は、高齢者人口の増大などで世界的に聴覚障害に苦しむ人が増えており、2050年には現在の推計約4億7千万人から9億人に達する可能性があると発表した。日本でも08年の約500万人から現在は550万人に増加したと推定した。
 聴覚障害の原因としては加齢のほか、はしか、水ぼうそうなどの感染症や結核などの治療剤による副作用を挙げた。さらにスマートフォンなど携帯型のオーディオ機器で大音量の音楽を長時間聞くこともリスク要因だとした。〉
 以上3点を大括りすると、Adoの『うっせぇわ』に行き着く。なんともタイムリーな曲だ。 □


ワクチン拒否宣言

2021年06月10日 | エッセー

 第1に、スッカスカ君の世話にはなりたくないから。
  今接種されているのは米国ファイザー社の“コミナティ”がほとんどである。スッカスカ君がお決まりのアメリカ詣での際、同社のCEOと電話交渉して取り寄せたワクチンである。9700万人分を確保。次いで米国モデルナ社製「COVID─19ワクチンモデルナ筋注ワクチン」(長ったらしい。もっと気の利いたネーミングができないものか)。これは東京・大阪の大規模接種センターで使用されている。2500万人分確保。さらに英国アストラゼネカの製薬会社「バキスゼブリア筋注」。これは海外で接種後に血栓を発症したケースがあったことから今はウェイティングである。
 第2に、上記三種に共通するのは、いずれも遺伝子操作によるmRNAワクチンであることだ。mはメッセンジャーの頭文字、RNAはリボ核酸。DNAのメッセージをRNAがコピーして細胞質に運び抗原となるたんぱく質が合成される。つまり、
  DNA → mRNA → たんぱく質
という流れである。なんて偉そうなことをいっても、化学記号に生理的な拒絶反応を催す化学音痴の稿者がコロナ禍を機に必死で詰め込んだ俄知識である。話半分でお聞きいただけるとありがたい。
 遺伝子操作ワクチンは従来の自然由来の生ワクチンや不活化ワクチンとは違う人工物である。前者が開発に5年から10年掛けるのに対し、わずか1年足らずで実用化した代物だ。長期的な影響は未知数である。遺伝子組換え食品と同じだ。述べ2億近い人間が一斉に遺伝子組換え食品のみを喰う。そんな図を想像するとぞっとしないだろうか。因みに、ウイルスはラテン語の毒液に由来する。片や、ワクチンはラテン語で雄牛を指す。いかにも猛々しい命名だ。人工物のそれにはふさわしくない。
 「未知のワクチンを打つほどのウイルスなのか」と疑問を投げかけ、
「mRNAが、何らかのかたちで我々の遺伝子に取り込まれてもまったく不思議はありません。何年も後にがんを引き起こす可能性や、若い人に打つと生殖細胞に問題が起こって次世代に影響を与えるとか、いろんなことを考えなくてはいけません。」
 と語るのは小児科医の本間真二郎氏である(「コロナ自粛の大罪」から抄録)。
 海の物とも山の物ともつかぬ人工的ワクチンに国民の命を預けていいものか。はなはだ不安である。なにせ人類が地球上から撲滅できた唯一の感染症は天然痘のみである。「新型コロナ」の「新型」とは、8代目だから「新型」と呼ぶ。7代まで生き延びて、奴らは8度目のリターンマッチに挑んでいるのだ。徒者ではない。だが逆にいえば、人類は7回連続で乗り越えてきたことになる。
 第3に、薬効ありとして周りが打てば打つほど当方の感染確率は減少する。狡い、エゴイスティックと難ずる勿れ。一刻でも早く打ちたい希望者で各接種会場はごった返している。むしろわずか一人分であろうと、大きなお世話ではあっても小さな親切にはなる。
 そして第4に、捨て台詞。生きてるうちは死なない! 
 などと粋がっている今日この頃、皆様いかがお過ごしでしょうか。とほほ……。 □


東京五輪 永田町選手団決まる

2021年06月04日 | エッセー

 TOKYO2020がいよいよ迫り、永田町からも続々と参加選手が決まっています。そこで今日はいち早く、主だった代表選手を紹介いたします。

▼内閣総理大臣 菅 義偉選手 → マラソン
 ※沿道の声援によってペースを変えるクセがあり心配です。最近道路に立って応援する人がめっきり減って、今はもう一発逆転を狙ってワクチンを握りしめ、ゴールに突進中です。

▼前総理大臣 安倍晋三選手 → サッカー
 ※キャプテンを任されていた時、反則をやたら採られるものだからレフリーを取っ替えようとしました。邪道ですね。チームメートには無理やり自分にパスするように忖度させ、随分と顰蹙を買いました。でも、いまだにキングカズ気取りです。嫌ですねー。

▼財務大臣 麻生太郎選手 → レスリング
 ※この選手の得意技はマウンティングです。ボルサリーノを被って顔面を歪め、浪花節のような声で威嚇します。怖いけど滑稽な選手です。

▼法務大臣 上川陽子選手 → テニス
 ※女性議員なのに入管施設で亡くなったスリランカ女性を見殺しにしました。人権感覚が疑われます。チャンピオン大坂なおみに人権のいろはから教わってはどうでしょうか。

▼文部科学大臣 萩生田光一選手 → 柔道
 ※あの体では柔道が最適。なにより高校時代の朝鮮学校生徒との大乱闘が自慢話。寝技が得意で、強い相手には妙に絡みつく。安倍チルドレンのひとりです。

▼厚生労働大臣 田村憲久選手 → ボクシング
  ※見かけによらず意外にタフ。高速ジャブが得意技ですが、決め手のパンチを持たないのが心配されます。

▼環境大臣 小泉進次郎選手 → 体操
 ※父親譲りのセンスに期待が高い。ゆか、鉄棒、つり輪での高難度の捻り技は得意なのですが、着地は今一。あん馬では時々足が引っかかるのが課題です。

▼防衛大臣 岸 信夫選手 → 馬術
 ※今はあんちゃんの馬を借りて乗っていますが、時々振り落とされます。手綱さばきに難点があり、イージスを陸にしたり海にしたりしました。

▼内閣官房長官 加藤勝信選手 → ゴルフ
 ※パープレイに定評があるそうです。刻んでいくゴルフですね。さらに、さすが安倍チルドレンだけあって、“ご飯問答”が得意。朝飯をライスにするかパンにするか、クラブハウスを悩ませます。

▼行政改革担当 河野太郎選手 → 飛込
 ※踏切台からの演技はすばらしいのですが、入水が課題です。水しぶきがどうも雑に上がる。良きに計らえってワクチンを丸投げされて首を捻っている首(くび)長も多いとか。

▼経済再生担当 西村康稔選手 → バレーボール
 ※リベロです。ボールを打ってはいけません。ひたすらレシーブ。甲斐甲斐しい役割です。最近は大活躍。ってことは攻められっぱなしなのかな。

▼オリンピック担当大臣 丸川珠代選手 → 卓球
 ※元アナウンサーなのに当意『不』即妙な“返し”でよくスベります。得点ごとに奇声を上げて跳びはねるものだからレフリーから白い目で見られることもあります。目立ちたがり屋なところは安倍チルドレンゆえでしょう。
▼東京オリ・パラ大会組織委員会々長 橋本聖子 → 自転車
 ※何も付け加えることはありません。

▼立憲民主党副代表 辻元清美選手 → フェンシング
 ※人並み外れた敏捷さで相手を突きまくります。相手を挑発する技には定評があります。ただ敵を叩きのめすまでにはならず、応援席からは溜息が漏れます。

▼立憲民主党副代表 蓮舫選手 → トランポリン
 ※痩身を活かしての高いジャンプが見物です。ですが、時々2位になって開き直ります。上がりすぎてトランポリンを踏み外すこともあります。

▼自民党幹事長 二階俊博選手 → 選手団長
 ※菅原一秀選手がドーピングで退場。それに関し、政治とカネが「随分きれいになっている」と訳の分からないことを言い放ちました。「他山の石」発言といい、これくらい鉄面皮でないと永田町選手団は束ねられません。はい。

▼前経済産業大臣 菅原一秀選手 → オリンピック担当大臣
 ※お辞めになっているので番外編です。丸川大臣よりもこの方が絶対ふさわしい! 知る人ぞ知る大の“お祭り男”です。この人が神輿をかつげば、オリンピック祭りは数倍盛り上がったでしょうに。惜しいことをしました。

▼東京都知事 小池百合子選手 → ボルダリング
 ※壁をよじ登る競技です。わずかな突起をつかみ、足場にしててっぺんを目指す。もうこの選手以外適任者はいません。右に行ったり左に戻ったり、なかなか大変です。命綱はどうやら『一階の上』(つまり、二階)さんが握っているとかいないとか。この選手も番外編です。

 以上が予選を勝ち進み、出場が決定した選手たちです。晴れの舞台での大活躍が期待されます。ですがもし観客が入ったとしても、きっと歓声なしの沈黙の会場となるでしょう。それどころか代表選手のくせに日ごろ運動もしない選手たちに動悸、息切れ、体調不良、心臓発作とアクシデントが相次ぎ、救急車で搬送しようにも病院はコロナで医療崩壊。何時間も東京中をさまようことになるでしょう。会場上空にはしらけ鳥が群れをなして飛び、バブル方式も泡のように消えるでしょう。お茶の間ではTV中継などには目もくれず、いつものお笑い芸人の与太話に大笑い。家族の『絆』を確かめ、明日への希望を紡ぐことでしょう。おお、永田町選手団に栄光あれ。 □


『金閣を焼かなければならぬ』

2021年06月01日 | エッセー

 何だか間延びしたタイトルだな、それが初見の印象だった。しかしそれは浅慮だった。精神科医である著者の職業的恭謙がタイトルを文学作品から間遠な散文的なものにしたのであろうし、「焼く」が能動態を採り「ねばらなぬ」という定言命法を纏わせたところに著者の深い専門性を窺い得る。この著作の核心は既にタイトルが先取りしているのである。
  第47回 大佛次郎賞 内海 健『金閣を焼かなければならぬ
                 ──林養賢と三島由紀夫』
 金閣寺放火事件から70年後の昨年、河出書房から発刊された。著者の内海 健(ウツミ タケシ)氏は医学博士で精神科医。66歳。精神病理学、病跡学が専門。現在、東京芸術大学教授である。
 第1章の章題は「動機はあとから造られる」である。「人はつねに動機を求める」。大きな出来事ではなおさらだ。それらしい原因を見つけて人心地つきたいのだ。しかし内海氏は、
〈養賢はなぜ金閣を焼いたのだろうか。動機をめぐる問いは執拗に立ち上がる。だが、だがそれを一度棚上げにしてみよう。いくら探したところで、金閣の放火に動機などないのだ。〉
 と、鰾膠も無い。放火は狂人の振る舞いではなかった。「動機」に因ってではなく、内在的自発性の励起に因って起こった。その内的世界を精神科医の甚深な学識と智見、さらに文学的素養を駆使して追う。それが本書だ。
 副題が示すとおり、金閣放火事件は犯人林養賢と作家三島由紀夫の内的世界がパラレルに描き出されていく。流れは巧みだ。キーワードは「離隔」。現実と認識との間(アワイ)を穿つ底知れぬクレバスだ。巷間この事件を語る時、お定まりのように引き合いに出される分裂病が林にも三島にも吻合しないという病理的解析がなされていく。少々しつこくはあるが職業柄か。論は意識の決定的遅れ、ナルシシズム、ニヒリズム、自由とは、と拡がり、パスカル、カント、デカルト、サルトルが援用さていく。さながら西欧哲学の簡にして要を得た概説を聞くようだ。
 中国古代の伝説的名医扁鵲(ヘンジャク)もかくあらん。内海氏は養賢と三島の内的世界を鮮やかに診(ミ)定めていく。その道行きが奇しくも一つの文学を成している。世界でも夙に高名で三島文学の最高峰とも目される『金閣寺』を通して三島文学が、そして三島本人が論じられる。ここには著者のただならぬ文学的素養が垣間見られもする。
 「離隔」をいかに解消するか。養賢は金閣放火によって、三島は割腹自決によってそれを実現した。
〈養賢が兇行のあと、うわごとのようにその行為を名指した「美への嫉妬」、三島はこの事後の表象から入り、兇行の真理に裏側から到達した。ここにおいて、三島の美は養賢の倫理と邂逅したのである。〉(上掲書から) 
 「美への嫉妬」とは養賢がかりそめに吐いた放火の動機である。これを「事後の表象」として自家薬籠中の物としたのが三島の天才である。つまりわが作品に換骨奪胎しわが美意識の裡に回収し、兇行への世のさんざめきの裏を掻いて「真理に裏側から到達した」。「養賢の倫理」とは、永遠の美のために美は滅びねばならぬという倫理観だ。放火と割腹はここにおいて倫理と美が千載一遇の「邂逅」を果たす。
 常人はこれを倒錯という。だが、宇宙に時空の歪みを予言したのはアインシュタインの天才であった。宇宙は整然たるコスモスではなかったのだ。内なる宇宙の闇と頭上の宇宙の闇。どこかでシンクロしているにちがいない。 □