伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

1600回

2022年12月29日 | エッセー

 今年の初投稿は「危機回避」と題して、
〈「昨年の凶悪事件を振り返って、唯一の回避方法はその場に行かないことだ。デジタル社会の果てに、太古人類が生き延びてきた危機察知能力というアナログへ先祖返りするとは難儀な時代だ。〉
 と、愚案を綴った。これが本ブログ1511回目。2006年3月の開始以来16年目であった。それから今稿で1600回目に達した。まあ、勝手次第の与太話を書きも書いたりである。どんな岩を通したものか、虚仮の一念ではある。
 さて件(クダン)の「危機回避」であるが、遂にその規模が想定外に達した。パンデミックとウクライナ戦争である。
 コロナには9月不様に襲われ持病を併発して死線を彷徨った。赤っ恥もいいところ。みっともない限り。穴があったら隠れたいが、ないからぶっちゃける他はない。でも隔離病棟の暗闇に紛れ、肩で息つきながらブログだけは発信し続けた。まさに虚仮の一念。
 賢愚ともに想定を超えたのがウクライナ。犬の遠吠えであろうがなんでろうが、子どもを泣かす戦争を大の大人がしてはならないと、呼ばわり続けた。
 ともあれ「危機回避」は成らず、人類は一敗地に塗れる結果となった。
 さてそこで、突飛なようだがマイケル・サンデル教授の「トロッコ問題」だ。
── ブレーキの効かなくなった路面電車が工事をしている5人の所へ突進しようとしている。知らせる方法はまったくない。だが、手前に別の引き込み線がある。そこに入ることはできる。しかし、そこでも1人が工事をしている。君が運転手だとしたら、どちらにハンドルを切る? ──
 甲論乙駁に内田 樹氏はどう快刀乱麻を断ったか。
〈そんな問いをしている時点でもう手遅れなんです。「究極の選択」状況に立ち至った人は、そこにたどり着く前にさまざまな分岐点でことごとく間違った選択をし続けてきた人なんだから。それまで無数のシグナルが「こっちに行かないほうがいいよ」というメッセージを送っていたのに、それを全部読み落とした人だけが究極の選択にたどり着く。正しい決断を下さないとおしまい、というような状況に追い込まれた人間はすでにたっぷり負けが込んでいる。それは「問題」じゃなくて、「答え」。「いざ有事のときにあなたはどう適切にふるまいますか?」という問題と、「有事が起こらないようにするためにはどうしますか?」という問題は、次元の違う話なんです。〉(「評価と贈与の経済学」から) 
 「究極の選択」に至った人とは、「一敗地に塗れ」た人たちだ。その前に「さまざまな分岐点でことごとく間違った選択」をし続けてきた人たちである。しかし、諦めるわけにはいかない。僅かでも残されたレジリエンスの機会はあると見たい。要(カナメ)は敢えて複数形で記した「人たち」がどう集合知を結集できるか、に掛かっている。内田氏の洞見を徴しつつ複数形に展開したのは、そんな願いからだ。
 14世紀死者1億人を超え、世界人口19億人の3割の命を奪ったペストを人類は乗り越えてきた。それも何度も、だ。「想定外」とはいえ、天為であるパンデミックを超えた。ましてや戦争は紛れもない人為である。人間が始めたものを人間が熄(ヤ)められぬ訳がない。
 といって、国際賢人会議を指向してはいない。粗製濫造されるし、ポピュリズムの罠が待っているからだ。
──市井の民草こそ賢であり、その連帯こそ「要(カナメ) 」であると信じたい。──
 これが1600回目の括りである。
 皆さま、よいお年を。 □