伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

閏日

2016年02月28日 | エッセー

 この月末(ツキズエ)は「閏」に触れぬわけにはいかないだろう。なにせ四年に一度だ。もしも永らえたとしたら次は齢、途轍もない大台に達する。なにせ未経験、考えるだに空恐ろしい。
 解字すると、門構えの中に「王」とある。白川 静先生は「壬(ジン)」だとされたが、通説を採る。二通りに読める。門内に王が居ます。王は門内に籠もり静養し、門外の統治を一時的に放棄する。この間、門外は王の統治からはみ出した余り分となる。そのような古代の慣習を適用した、と読む。昨年七月朔日午前九時直前の閏秒に始まり閏日、閏月、閏年の「閏」は剰余、はみ出し部分の謂となる。これが一つ。
 もう一つは門内の王は幽閉されているとする見方だ。前漢の帝位を簒奪し奇矯な暴政をほしいままにした王莽を暗喩する。天命を受けない偽皇帝、転じて異端の謂だ。常軌にあらざる型破りな時間。それを「閏」と呼ぶ。閏年以外は平年という。平生の年とイレギュラーする年。これもまた味わい深い。
 どちらも王は門内に在(マシマ)す。自らなのか、強いられてか。事は一つながら、見方は割れる。閏日も余とみえるし、奇ともみえる。いずれにせよ、奇貨可居ではある。さて、どう過ごすか。
 閏に三水が付くと「潤」になるが、実は逆だった。暦法の閏が入ってきて、先にあった潤の読みを当てた。だから「うるふ」、「うるう」である。先述の余剰に似たニュアンスともいえる。「う(浮)(居)る」、つまり表面に水(三水)が浮いている様を潤といった。目が「うるうる」するはここから来たらしい。湿潤、豊潤、潤滑、利潤。さまざまに語彙を潤してきた。
 余談ながら、白川説の「壬」は腹部の膨らんだ物、真ん中が太い糸巻きを象形する。会意形声されて「妊」ともなった。十干では、壬は「水の兄(=みずのえ)」である。「兄(え)」は陰陽の陽、ちなみに陰は「弟(と)」である。陽の気だから水の活動、活性化をいうのであろうか。閏は腹部がふくらんだ形を表し、潤は水が染み込んで膨らむことをいう。壬と王は字源が重なるので、糸巻きだとしても「門内の王」に通底する。むしろこちらが原義だったのかもしれない。
 京都の壬生は「水」と「辺」の転訛だというし、開祖の姓だともいう。戯れに、沢山の古墳から壬と王の同根を連想できなくもない。「壬生浪(みぶろ)」は幕末、当地に本拠を据えた新撰組の蔑称である。永い歴史ゆえの皮肉であるかもしれない。
 考えてみれば一日多い三六六日、腹が膨れるほどではないかもしれぬ。だが、生涯では十数日分に達する。中太の壬であり、王のごとく貴くもある。さて、どう迎えるか。 □


文枝 騒動

2016年02月23日 | エッセー

 10年12月、市川海老蔵が飲酒トラブルで大怪我をし、無期限出演自粛を発表した騒動があった。受けて、拙稿でこう記した。

 会見の会場を埋めた報道陣は500人という。異様というほかない。国家の一大事と見紛うばかりだ。テレビのニュースやワイドショーでも連日大々的に報道される。異常というほかない。壮大なる井戸端会議であり、ある種の狂騒状態、お祭り騒ぎである。
 本ブログで再三再四書いてきたが、芸人やスポーツ選手へ過剰に倫理感を求めるべきではない。特に今回の場合、彼は明白に被害者である。「一声、二顔、三姿」のうち、大事な二つめを傷つけたことは役者の心得に悖るが、それは早い話、てめぇーの問題だ。世間が目くじら立てる筋合いではない。松竹の無期限出演自粛も、なんだか角を矯めて牛を殺すの愚策ではないか。むしろ、「改心させ、早く治させて、一日も早く皆様にお目にかけますから、しばしご猶予を」ぐらいのことは言ってほしい。どうも話の持って行きようが逆さまな気がしてならぬ。まったくもって、垢抜けない対応だ。(「成田屋っ!」から抄録)

 芸人に倫理感を過剰に期待すべきではない。その本来的トポスは、食い詰め者であり遊治郎(ユウヤロウ)に過ぎぬ。と、事あるごとに述べてきた。いつも引合いに出すのが吉本隆明の以下の一文である。
◇芸能者の発生した基盤は、わが国では、支配王権に征服され、妥協し、契約した異族の悲哀と、不安定な土着の遊行芸人のなかにあった。また、帰化人種の的な<芸>の奉仕者の悲哀に発していることもあった。しかし、いま、この連中には、じぶんが遊治郎にすぎぬという自覚も、あぶくのような河原乞食にすぎぬという自覚も、いつ主人から捨てられるかもしれぬという的な不安もみうけられないようにおもわれる。あるのは大衆に支持されている自己が、じつはテレビの<映像>や、舞台のうえの<虚像>の自己であるのに、<現実>の社会のなかで生活している実像の自己であると錯覚している姿だけである。◇(「情況」から)
 桂文枝の不倫騒動。今度も、同じくだ。「女遊びは芸の肥やし」と打棄っておけばいいではないか。なにを目くじら立てて、「狂騒状態、お祭り騒ぎ」に走るのだろうか。たかが芸人風情のすることだ(ひょっとしたら秘蔵っ子感覚だったのかも知れない)。まさか哲学の大先生でも国会議員でもあるまいに。
 確かに「遊治郎にすぎぬ」、「河原乞食にすぎぬという自覚」があったとはいい難いし、「的な不安もみうけられない」。Y興業という巨大なる勧進元の厚い庇護がある。キャリアもある。「<虚像>の自己」を「実像の自己であると錯覚」するのも無理からぬ。
 文枝も文枝だ。「脇が甘い」との連れ合いからの叱責までぶっちゃけて、下手に陳謝なぞせずともよい。薄ら惚けて『不倫さんいらっしゃい!』とかなんとかカマして、会見場の椅子からズッコケればよかったのに。でもそれをすると、まちがいなく総スカンを食う。問題はここだ。芸人に過剰な倫理感を当てにしているからだ。なぜ、そうなったか。
 桟敷が、「<虚像>の自己(=芸人)」を「実像の自己(=芸人)であると錯覚」しているからだ。隆明のだめ出しがオーディエンスにも及ぶ事況になっているからだ。何度もいってきたが、職業に貴賤はない。ただし、立ち位置に違いはある。誤解を怖れずにいうと、「発生した基盤」が最下位にある芸人(出自ではなく、ほとんどの場合自ら望んで)を上位者に祭り上げたための悲喜劇である。寄って集って裸の王様にしておいて、見えもしない衣裳を褒めそやすようなものだ。集団的無い物ねだりである。
 14年5月AKB48の握手会で、鋸を持った男による傷害事件があった。受けた拙稿で「握手」がいかに危うく、かつそれゆえに親愛の行為であるかを鷲田清一氏の達識を徴した後、こう記した。

 これほどに握手は重い。あの置屋先生は、事の軽重を甘く測った。だから、彼女たちは傷ついた。無防備というなら、警備ではなく、握手自体が無防備なのだ。
 スターは、天穹にしかいない。まったく作為なく、生得の輝きを放つ天上の星だ。それを『会いに行ける』地上の星に貶めたのは誰だ。鳥目と引き替えに逢い、掌を合わす。まるで花柳の流儀ではないか。アルファベットを並べ、数字を組み合わせ、地上の星を擬える。憧憬につけ込んだ、卑小で悲しいほど浅薄で、阿漕な為様(シザマ)といわねばならない。
 天上の星を地上に降ろした奴は誰だ。蒼穹にある幻像のスターは、地に降り立ってはならない。メディアがいかに煽ろうとも、天空の星々は大衆に塗れてはならない。
  天上の星を地上に降ろした奴は誰だ。世の風に乗って、彼女たちを見世物にしたのは誰だ。はっきりいおう。天上から降ろされた地上の星はスターではない。スターダストだ。(同年6月「地上のスターダスト」から)

 形を変えた現代の置屋。その女将ならぬ小太り旦那のA「置屋先生」を弾劾したつもりではある。つまらない詞を書き殴り、大先生よろしく振る舞ってはいるものの、「憧憬につけ込んだ、卑小で悲しいほど浅薄で、阿漕な為様」は今も変わりない。
 それはともかく、デフレは芸能界にもおよんでいる。安いのばっかし。供給過剰で、目先を変えても売れない。“値”は下がる一方だ。こちらもなかなか脱出困難と見える。で、ふと立ち止まって考えると、随分前から芸能界ではかの『アベノミクス』が先行している節がある。 
 ① 「大胆な金融政策」つまり人為的なインフレ誘導は、芸人の大量放出に該当する。② 「機動的な財政政策」大盤振る舞いの公共投資は、「的な」人的コストを土台にしたY興業“王国”のありように象徴的だ。③ 「民間投資を喚起する成長戦略」要するに儲けになる産業の育成は、民法は元よりなんとNHKやEテレにまで浸潤する、あらゆるジャンルでのお笑い芸人の跳梁跋扈に相当するのではないか。併せて、女性お笑い芸人の目を瞠る進出は「女性が輝く日本」の先取りでもある。
 しかし、である。それでもいっかな芸能界のデフレ、芸の下落は止まりそうもない。アベノミクスはここでも轟沈だ。 □


アンマリ君の美学

2016年02月19日 | エッセー

 TPPについて、古いところでは5、6年も前から浜 矩子先生が貿易ブロック化を忌避する立場から反対。保守の論客佐伯啓思氏も「無条件の自由貿易に突き進もうとしており、非常に危険」だと反対。『超整理法』の野口悠紀雄氏も関税同盟は自由貿易を阻害すると反対し、狙いは中国排除戦略だとした。13年には“異能の官僚”といわれた中野剛志氏が『TPP亡国論』を著し、「実質的に日米FTA」であり「TPPによって日本がアジア太平洋の成長を取り込むなどというのは悪い冗談」で「実態は、その反対に、アジア太平洋諸国の方が、日本の市場を取り込みたいという話」だと糾弾した。同年には白井 聡氏が好著『永続敗戦論』の中で、「TPPが標的とするのは、関税ではなく『非関税障壁』」に他ならず、「自らにとって最も有利な『ゲームのルール』を設定し、市場の独占を目指すことが、現代の『自由貿易』が意味する事柄にほかならない」と本質を突いた。内田 樹氏は一貫して、TPPは「空洞化したアメリカ産業の最後の抵抗」だとして反対の立場を採っている。
 そもそもが自民党は政権返り咲き前まではTPP反対であった。昨年7月テレ朝『報道ステーション』で、古館伊知郎が12年の総選挙で自民党が北海道を中心に掲げた選挙ポスターの「ウソつかない。TPP断固反対。ブレない。日本を耕す!」とのコピーを取り上げ、話題を呼んだ。ちょうど交渉の渦中でもあり、この辺りがアンカー交代の伏線かトリガーになったように邪推もしてしまう。ところが復帰後、掌を返した。なぜ豹変したのかは、自国の上位者が米国であることを熟知しているからに相違ない。反対は所詮、逐鹿の便法であったといって荒誕ではあるまい。
 つまり政論としても肯んじ得ない、政策としても騙し討ち擬きのお先棒を担いだのがアンマリ君ではなかったのか。アンバイ君もあんまりなら、アンマリ君もあんまりだ。だから、辞任会見でご大層に「志半ば」などと壮語するほどの代物ではない。
 穿てば、ケンスケ君はアンマリ君の引き立て役だったのかもしれない。マイナンバーカードのアピールで突如ゲス乙女の替え歌を唄ったりなんという軽さは妙に似ているが、上・下半身の違いを際立たせたことは事実だ。月と鼈の鼈、雲泥万里の泥。同じ丸でも大違い、天と地では離れすぎ。一身を鼈となし泥塗れとなっての退場は月と雲を一際高々と宣揚した、といえなくもない。
 それにしても、雲は雲でも「雲隠れ」はいただけない。報道によれば、先月の辞任以来、半月以上も国会にお出ましになっていないらしい。なにやら、「睡眠障害」のため1ヶ月間安静を要すとの診断書が自民党に提出されているそうだ。ストレスを避け自宅で療養中というが、自宅に人気(ヒトケ)はないともいう。“交渉”の録音が公開されたり、高級車のおねだりが発覚したりと口利きの疑惑は益々深まっている。雲隠れはひょっとしたら証人喚問回避の布石かとも勘ぐられているが、辞任会見の“美談”はどこへ飛んでいったのやら。アンマリ君のダンマリはあんまりではないか。TPP交渉を仕切ったタフネゴシエーターならば国会のストレスなぞ物の数ではないであろうに。このままでは“ケンスケ君効果”が日毎に減殺されてしまう。
 ところで
前々稿「副業っす!」で触れた国会議員の欠席の扱いに関して、アンマリ君はどうなっているのだろう。同稿では、「衆院規則第12章<請暇及び欠席>には、事故による場合のみ欠席を期限付で認めている。ただし請暇し、議長あるいは議院の許可を要する。欠席ですら、それほどキツい箍を嵌めている。ましてや『休業』などという発想はそもそもない」と述べた。
 確かに診断書は提出されているが、自民党に対してである。党がそれを添えて院に請暇したとは寡聞にして知らない。晩節の角さんを始め調べれば長期欠席、あるいは登院皆無の議員は少なくない。オオザワ君は年季の入った欠席常習者で有名だ。お咎めはないのか。実は、これが訝しい。元より、国会法には懲罰の規定がある。根拠法である憲法58条2項には「院内の秩序を乱した」とあり、懲罰委員会に諮り本会議の議を経て宣告されることになっている。その「院内の秩序を乱した」具体的行為を国会法は、以下のように定める。欠席に絞ると、
1. 議員が正当な理由がなくて召集日から7日以内に召集に応じない
2. 正当な理由がなくて会議又は委員会に欠席した
3. 請暇の期限を過ぎた
 場合とある。尤もな内容だ。問題は次だ。 
「以上の理由により議長が特に招状を発し、その招状を受け取った日から7日以内に、なお、故なく出席しない者」
 と、2段構えになっている。「議長が特に招状を発し」なければ、ずっと不問に付される。有り体にいえば、「キツい箍」どころかザル法なのだ。現に欠席を事由として懲罰を受けた議員は過去1人もいないという。アンマリ君はこのアマリにも手前勝手な規矩準縄に護られているといえそうだ。だから、乞食と国会議員は3日やったら辞められないと羨望されるのかしらん。
 彼は辞任に際し、こう述べた。
──たとえ私自身は全く関与していなかった、あるいは知らなかった、従って何ら国民に恥じることはしていなくても、私の監督下にある事務所が招いた国民の政治不信を、秘書のせいと責任転嫁するようなことはできません。それは私の政治家としての美学、生き様に反します。──
 美学ともてはやされるのは、この部分だろう。ならば、拙稿を引きたい。

 昭和44年、司馬作品を基にした映画『人斬り』が話題になった。劇中、三島由紀夫扮する薩摩藩士・田中新兵衛が壮絶な切腹をして果てる。暗殺現場に残されていた刀が新兵衛の愛刀であったことから嫌疑が掛けられた。その吟味の最中(サナカ)、突きつけられた証拠の愛刀で突如無言のまま自刃に及ぶ。際立って鮮烈なシーンだった。三島自身の自決が翌年であったことからも、特に印象に残っている。
 武士の命を逸失し、それを事件の捏造証拠に使われた。真偽以前の武士の名折れであり、申し開きはできない。それが動機であったろう。(昨年7月「即刻、筆を折るべし」から)

 本邦において、美学とは常に己の全存在を負うてある。それほどに険しいものだ。高高「責任転嫁するようなことはできません」が美学であろうはずがない。そんなチープな美学はなにかの気迷いか、ひどい語彙不足にちがいない。それに、「何ら国民に恥じることはしていなくても」とは過言ではないか。言わずもがな、語るに落ちるだ。何の言い訳もせず、「突如無言のまま自刃に及ぶ」のが武士(モノノフ)の美学だ。美学を語るなら、そこまでの肚を決めておかねばならぬ。もちろん今時「自刃」とは議員辞職であり、「政治家としての美学」と揚言するなら、わが国において範は武士に求める以外にあるまい。
 さらに「政治家としての」と言挙げするなら、彼にとって「武士の命」とは「民信なくば立たず」ではないか。孔子は子貢に答えて、政(マツリゴト)は食兵民の三者のうち民の信こそ最重要だと諭した。だから「なくば立たず」だ。
 大時代な因縁を引合いに出すなら、
「虎泰は信玄を担ぎ上げ、国盗りの攻防戦に奮闘する。50歳、初めて武田が大敗を喫した信濃国上田原の戦いで信玄を護りつつ戦死する。
 話はそれまでで、なんら寓意染みたものはない。」
 を繰り返そう。拙稿「欠片の瓦版 16/01/29」の一部だ。虎泰はアンマリ君の遠祖である。寓意はないといったが、雲隠れがつづくようなら俄に取って付けねばなるまい。
 余談ながらカムアウトすると、稿者も睡眠障害で悩んでいる。同い年のアンマリ君に同情を禁じ得ないが、こちらはかれこれ1年も前から(決して急にではない)、それにどこにも欠席届を提出する義務はない。美学には無縁で過ごしている。遠祖にも美学に適う武士はいない、といっても4代以前は杳として知れぬが。 □


拓郎、登場

2016年02月14日 | エッセー

 久方ぶりに顔を見た。2月11日、テレ朝『報道ステーション』に登場。約20分、古館伊知郎のインタビューを受けた。以下、その略筆を記し勝手なコメントを打(ブ)っ込みたい。


 古館が「わたくし、よく怒られるんですが、しばし偏った放送を楽しんでいただきます。なぜなら、あまりにもファン心理が強いから」と司会交代への皮肉とも取れる前置きをし、拓郎を招き入れた。
「じっとしていたい心境があって、2年弱、家にいた。体調は普通。元気な方に入る。今年70で、どっか痛いし、痒いだろう。それはしょうがない。昔は食事が嫌いでただ呑みたかったが、最近は食事が好き。妻と食事をして幸せな時間を感じている」
──「テレビに出ない宣言」はどうして。
「初めての出会いが良くなかった。冷たくされた。『帰れ!』『バカヤロー!』と言われ、泣きたくなった。曲は『マークⅡ』だった」
──夜、呑みながら拓郎を聴く。それは多感な頃の「育て直し症候群」である。新しいメッセージの発見がある。学生運動が激しかった頃、別の生き方を示した拓郎が福音だった。
「メッセージがどう伝わるかはあまり考えていなかったが、『イメージの詩』や『今日までそして明日から』は誰でも書けた曲だ」
「『襟裳岬』のデモテープを渡した後、反ってきた曲の頭がトランペットだった。驚いて、倒れちゃった! でも演歌はこういうものなのかと1つ大きな納得があった。その後、森さんがテレビで歌うのを見てこれしかないと思い始めた」
「安井かずみさんや岡本おさみが亡くなったのは悲しいし、寂しい。安井さんはなぜかかわいがってくれた。でも、あんたたちが汚い格好してノートに書き付けた詩を歌ったり、芸能界をダメにした。沢田研二を見なさいよ。と、よく言われた。それ以来、沢田研二を妙に意識し始めた」
「ジュリーを筆頭にしたあっち側が居心地がよかった。ジュリー・サイドに生きたかった。今、本気でそう考えている」
「断言しておくと、僕はこっちにいるべきではなかった。タイガースに加わりたかった。だめならなんとかズをつくって」
「僕の曲はフォークではない。岡林さんまではフォークだったが、吉田拓郎からはもうフォークとはいえない」
──ショックだなー。金返せ状態ですよ。
「今だからいえることで、つま恋で言えなかったことだ。ナベプロに行きたかった」
「今年はコンサートをやる。アルバムも出す。ライブは一泊が限界だが、北は埼玉から南は横浜までの、やはり日帰りでやりたい。歳だから許してほしい」
──拓郎さんのコンサートに頻尿だから行けないと言った同輩がいた。
「頻尿の人は来ないでほしい。二十歳のころ、こんな自分になるとは思ってもみなかった。頻尿と紙おむつの人の前で歌う自分を想像してなかった。ジュリーになれっていわれてたんだから」
──吉田拓郎が世の中をかき乱した以上は最後はそこで皆さんに安らかになってほしいと、責任を取ってほしい。
「『祭りのあと』の『死んだ女にくれてやろう』なんて、解らずに歌っていたが怖い歌だ。今、言葉尻でじんとくる」
「フォークの連中は20代で老成していた。年コきすぎていた。二十歳の若い者が『祭りのあとの寂しさは』なんて歌うべきではなかった。ごめん!」


 「2年弱、家にいた。体調は普通。元気な方に入る。今年70で、どっか痛いし、痒いだろう」……体調普通で家にいる。07年以来の病なのか。一進一退か。ファンの末席を汚す一人として、変に暗示を嗅ぎ取ってしまう。しかし表情も受け答えもいつもと同じ。「痒い」には「ご同輩!」と、妙に納得した。
 「テレビに出ない宣言」は、夙に知られた話。さすがに布施明の名は出なかったものの、『帰れ!』『バカヤロー!』は初めて耳にした。
 古館のいう「育て直し症候群」とは生物学者・岩月謙司氏の提唱するあれか。不倫、援助交際などの性的逸脱行動の原因は幼児期の愛情不足にある。治療にはもう一度育て直す必要があるとして、大の大人にオムツを付け、哺乳瓶を咥えさせる、風呂にも入れてやり、添い寝してやるというものだ(余談だが、件のケンスケ君もこの施療をしてもらってればよかったのに)。
 拓郎の洗礼を受けたのは15・6のガキだったと、古館は言う。それで福音だったというのだから、ずいぶんませたガキだったはずだ。ならば「育て直し」は不要だし誤用のような気もするが、一種のタイムスリップ願望かもしれない。
 「『イメージの詩』や『今日までそして明日から』は誰でも書けた曲だ」とは拓郎一流の照れ隠しであろう。「誰でも書け」る時代の風を詩(ウタ)に紡ぐのは並みの才覚ではない。かつて小田和正は『今日までそして明日から』の
〽生きて“みま”した
 に痺れたと語ったことがある(「生きて“きま”した」ではなく)。当時25歳、後半に出てくる「老成」の一典型だ。
 『襟裳岬』のずっこけエピソードは要注意だ。ライブのMCで何度も語った話だが、意味が逆だ。MCではファンを相手だから揶揄(「そんな曲じゃない」と)、今回は本音。そうともいえようが、臨機応変、変幻自在、君子豹変は拓郎の真骨頂である。どちらも本当なのだ。なんせ、今まで何度休業宣言を繰り返したことか。「もうこれは歌わない」と言いつつ、何度リメイクしてきたことか。学者や政治家ではないのだから、発言に責任を持つ必要はひとっつもない。こちらが受け取りたいのは歌だけだ。
 拓郎が『フォークのプリンス』と呼ばれていたころ、確か月刊芸能誌でジュリーと対談したことがある。差しつ差されつ話は進み、そのうち何度もジュリーがトイレに立ち始めた。拓郎は平気なのに、ジュリーは吐きつつも対談を止めなかった。負けず嫌いなのか、ジュリーもさすがではある。
 「ショックだなー。金返せ状態ですよ」については、古い拙稿「赤いちゃんちゃんこ」(06年4月)をご参照願いたい。「たくろうの大いなる足跡 ―― それは、フォークに身を置きながら軽々とフォークを超えたことだ。一気に音楽シーンの垣根を取り払ったことだ」と記した。ちょうど10年前、拓郎が還暦を迎えた年だった。今年、古希だ。
 古館は真面目だから、拓郎の謙抑や諧謔、あるいは自虐が嚥下しかねるのかもしれない。あるいは往年のプロレス中継のノリか。
 頻尿噺は笑える。いな、身につまされる御仁も多かろう。だが、笑い過ごすわけにはいかない。09年63歳の『ガンバラないけどいいでしょう』、12年66歳の『僕の道』を忘れてはならないからだ。どちらも拓郎作詞作曲。前者は13年アサヒビール“アサヒふんわり”のCMソングに、後者は12年NHK『ラジオ深夜便』に使われた。双方、実に巧いフィーチャーだ。
 拓郎の言う「こっち」の連中で、これほど年相応、身の程弁えた曲を作れるミュージシャンを知らない。絶無にちがいない。たいがいが過去の遺産で食いつないでいるか、いまだに昔のままの一本調子か、多少のグレードアップか、耳を疑うほどのメタモルか、そのいずれかだろう。「年相応」は人一生における最難事ともいえる。衒いも欲も、見栄も外聞もかなぐり捨てて相応に年を取る。特に「こっち」側では荷厄介にちがいない。だから下手をすると、「シェケナベイビー」をネタにして強面キャラで明けて通してもらう他に生き延びる術のない奇っ怪なロッカーが出現したりする。だから、いかに拓郎がスマートか。別けてもこれら2曲は珠玉の名曲といっていい。ステロタイプを避け心情に真率であるべきフォークの原点であり、音楽史上の快挙ともいえる。紙おむつといえども、徒や疎かにしてはならない。
 オーラスの「ごめん!」。11年のNHKスタジオライブ中、インタビュアーの田家秀樹が最後に抱負をと向けると、「ほっといてくれ!」と返した。5年前と様変わりというべきか、相変わらずというべきか。猫被りか、本心か。本心であるはずがない。なんのことはない。天下御免の「ごめん」だ。 □


副業っす!

2016年02月12日 | エッセー

 同じケンスケでも、北斗に尽くすケンスケ君とは大違いだ。今日大層な記者会見を開いて、辞任を発表した。連続する大臣の失言、妄言、失態やアンマリ大臣の辞任。不祥事や失言が相次ぎ閣僚が4人も辞任した第1次政権崩壊と同じ推移に、アンバイ君はちゃっかりと先手を打ったのかもしれない。
 余談ながら、会見で「お会いしたのは3回だと記憶しております。京都でお会いしたのが最後です」と述べた。この「お会いした」の使い方が実にいい。というか、まことに正統である。訳は昨年11月の拙稿「身も蓋も無いから面白い」を参照願いたい。
 さて、
先日の『ひるおび』で、室井佑月が「私、清原の話題よりむかつく。税金で給与もらってる。私の財布からお金取っていってるのに不倫している。税金で身分も生活も保証しているんだから」とぶち込んでいた。なかなか鋭い。公人の不義理を突いている。
 ただ比較の対象にならないとはいえ、政界には角さんを筆頭にそんな話は山ほどある。秘話ではあっても醜聞にならないのは、玉の違い(人物のという意味で他意はない。念のため)と仕事のスケールだ。こんな小鼠を飼ってきた頭目の器量も推して知るべしであろう。
 仄聞したところ、嫁さんは「恥を掻いていらっしゃい」と記者会見に送り出したそうだ。モニカ・ルインスキー事件の際、ビル・クリントンを徹して庇ったヒラリーとはえらい様変わりだ。かの事件はホワイトハウスを舞台にした、ケンスケ君の場合なぞとはレベルもラベルも遙かに異なる。ましてや公人には極めて倫理感に厳格なお国柄である。時代は変わったというべきか、所が入れ替わったというべきか。姉さん女房ゆえというべきか。あながち“過失相殺”100:0ではないような気もするのだが……。
 実は、稿者のイシューはそこにはない。『育休』だ。年明け早々、ケンスケ君は「自民党 男性の育児参加を支援する若手議員の会」を立ち上げた。衆院規則を改めて国会議員に育児休業制度を作り男性国会議員が率先して育児休業を取得すれば、一般男性の育児休業の取得率が高まるという。具体的には、衆院規則第185条第2項に「育児」の文言を新たに加えることを狙う。
 しかし、これはおかしい。どれだけの期間休むのかは知らぬが、その間の『代表権』はどうなるのか。京都3区で彼に投票した59437人、あるいは全有権者223208人(昨年12月2日現在)の民意はどうするのか。これも一時休止か。さらに全国民を代表するという原則に立てば、1億2千万人の民意にポーズが掛かり欠損が生じることになる。
 日本国憲法前文には「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し……ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」とある。小さく絞っても、京都3区に属する「日本国民は」「主権が国民に存する」状況を逸するのではないか。だって、「代表者」が不在なのだから。国会議員の育休を女性の活躍だの、男女共同参画だのという文脈で語ることははたして理に適うのか。大いに疑問だ。
 憲法第43条1項には「両議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する。」とある。先述の通り、選挙区選出であろうと「全国民を代表する」。これが代議制民主主義の基本の「き」だ。それほど議員の存在は重い。だから衆院規則第12章<請暇及び欠席>には、事故による場合のみ欠席を期限付で認めている。ただし請暇し、議長あるいは議院の許可を要する。欠席ですら、それほどキツい箍を嵌めている。ましてや『休業』などという発想はそもそもない。そこで繰り返しになるが、第2項だ。事故以外に、
 「議員が出産のため議院に出席できないときは、日数を定めて、あらかじめ議長に欠席届を提出することができる」
 とある。この「出産」の後に「及び育児」との文言を差し込もうという魂胆だ。
 翻って、国会議員の特権を徴したい。憲法によって認められた不逮捕特権(会期中逮捕されず、会期前に逮捕された議員はその議院の要求があれば会期中これを釈放)、免責特権(国会で行った演説、討論または表決について、院外で責任を問われることはない)、歳費特権(国会議員は任期中、国から給与を受ける権利がある)の3つである。いずれも「全国民を代表する」ための身分保障である。これも繰り返しになるが、「それほど議員の存在は重い」ゆえだ。
 憲法第41条には「国会は、国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である。」と定められている。「最高機関」にして「唯一の立法機関」との際立って重い規矩に鑑みるなら、議員の育休取得は憲法違反の疑いなしとしない。少なくとも、当該期間の民意をほっぽらかすことだけは確かだ。これは、議員一人ぐらい、で打棄られる次元の話ではない。くどいが、問題は「全国民を代表する」トポロジーにある。「小さく絞っても、京都3区」の民意は停止する。最高法規たる憲法は衆院規則の遙か高みにあるはずだ。こんな下克上に等しい改定は認めがたい。
 テレビメディアを散見する限り、如上の主張は寡聞にして知らない。いや、一人だけいた。直接聞いたのではないが、TBSの『ビビット』に出ているコメンテーター水谷 修氏が同趣旨のコメントをしていたそうだ。
 いずれにせよ、違憲紛いの取って付けた政策を後生大事に振り回すチャラ男議員はこれで本性を晒したことになる。どこまで議員たる自覚があったのか。最後に、決め台詞を一発。
 auのCM「三太郎」シリーズ最新版『雷さま』篇から。ド派手に大太鼓を叩くこれもまたチャラ男の鬼ちゃんが、訝る三人の太郎に向かって
「副業っす!」 □


欠片流パラフレーズ

2016年02月10日 | エッセー

 広辞苑によると、「語句の意味を別の言葉でわかりやすく述べること」をパラフレーズという。以下、この伝を使ってみる。
■ アベノミクス ⇒ アホノミクス
 著名なエコノミストで同志社大学教授の浜 矩子氏が、自著『国民なき経済成長』(角川新書15年4月刊)のサブタイトルを「脱・アホノミクスのすすめ」とした。それが出処だ。
 『アホ』とは刻下の経済史的認識を誤り、当然ながら対応策も間違っていることを指す。譬えれば、藪医者だ。語源は種々ある中で、風が吹いただけで大いにざわつく竹“藪”説、いかがわしい呪術を繰り出す「野巫(やぶ)」説がある。どちらも頷ける。病因の把握と治療において阿房なのだ。加えて、先入主、固定観念に囚われ居着いて離れられなくなっている様をも阿房といえよう。駄洒落ではなく、含意は深い。
 以下、同著から抄録。
◇成長することが全ての問題の解決をもたらす。それが思い込みだ。経済が最も成長を必要とする場面が二つある。その一に、これから全てが始まる時。その二に、そこまでの全てを失った時。その一が若き発展途上経済、その二は焼け跡経済である。戦後の日本が、まさにこれだった。だが、今の日本経済は全てを手に入れた経済に限りなく近づいている。
◇今の日本の輸出企業は、価格勝負の量産品を中心に商売をしているわけではない。品質勝負の世界で生きている。円安になれば輸出単価を下げられて、それが輸出数量の増加につながるという関係は、かつてのようには作動しなくなっている。
◇そもそも日本企業は輸出から海外生産への切り替えをどんどん進めて来ている。その意味でも、いまや、「円安→輸出増」という力学におのずとスイッチが入る状況ではない。
◇トリクルダウン効果を強く主張したイギリスのサッチャー政権下においても、アメリカのレーガン政権下においても、経済格差は拡大した。
 ちなみに、14年の成長率ナンバー10は──1位 エチオピア/2位 トルクメニスタン/3位 コンゴ(旧ザイール)/4位 パプアニューギニア/5位 ミャンマー/6位 ウズベキスタン/7位 コートジボワール/8位 モンゴル/9位 ラオス/10位 スリランカ──であった。まさに「経済が最も成長を必要とする場面」である。世界3位の「全てを手に入れた経済」大国が、数周遅れのエチオピアと併走するつもりか。
 抜本塞源できぬアホノミクス。阿房は推して知るべしである。
      
■ 1億総活躍社会 ⇒ 1億総戦時社会
 戦時とはグローバル競争の謂だ。このままでは世界を舞台にした経済戦争に負けると危機感を盛んに呷る。一国の統治を会社経営と同一視した市場原理主義者がアホノミクスのどんずまりに繰り出した猫騙しだ。弥縫策ともいえるし、陽動作戦ともいえる。
 38年、戦争直前の第1次近衛内閣による「国家総動員法」を連想させる。まったく悪趣味、いやスカトロジーとさえいえるネーミングだ。敗戦直後の「1億総懺悔」、高度成長期の「1億総中流化」、「1億総白痴化」、“1億総”とついて碌なものはない。“総”に身の毛がよだつ。そんなものには入りたくない人もいれば、入りたくとも適わない人もいる。十把一絡げどころか、一億一絡げにしようというのか。なにより、“個”を軸にした戦後のあり方を卓袱台返しにするつもりなのか。そんな国民的合意が整ったなどとは聞いた試しはない。
 この大時代な看板にマスキュリンな臭いをかぎつける識者もいる。「女性の活躍」は家事労働、男女の分業へのネグレクトだという。家庭に生きることも女性にとっての大事な活躍だ、とは考えないらしい。だから平気で配偶者控除を廃止して働きに出るよう尻を叩く。労働人口が増えればどうなるか。アホノミクスの御大が言うように賃金総額は増える。アホノミクスの成果だそうだが、労働人口が増えれば賃金は上がらなくなるのはものの道理だ。
 「希望出生率1.8%」も『産めよ増やせよ』と大差はない。これは開戦の41年年初に閣議決定された「人口政策確立綱項」に基づくスローガンだった。そういえば、07年1月第1次安倍内閣の厚生労働大臣だった柳澤伯夫は「女性は子供を産む機械」と言い放った。これも大差はない。というより、「出生率1.8%」は戦前のスローガンや迷大臣による大放言のパラフレーズともいえる。
 中高の生徒会並みの八方美人然とした言葉には要注意だ。いな、21世紀にもなって国家的スローガンなぞ持ち出してくる事自体変だ。変だと感じない感覚こそ、変だ。気が付いたら、大“変”なことになっている。
 永田町の特筆大書は御免蒙りたい。

■ 集団的自衛権 ⇒ ウロボロス
 昨年4月の拙稿「ウロボロス撃退法」、9月の「やっぱり、ウロボロス」で愚案を呵した通りだ。
──限りなく「個別的自衛権」に近似してないか。いや、個別的自衛権そのものである。だって「明白な危険」は、「我が国の」といっている。属格は日本という“個別の”国である。つまり「集団的自衛権」という毒ヘビに「存立危機事態」というテメーの尾っぽを噛ませることだ。──(「やっぱり、ウロボロス」から)
 塩梅よく独走するアンバイ君を按排よく御する「自縄自縛の高等戦術」というほどの意味である。「藪蛇」でもいいが、カタカナで少し洒落てみた。柔能制剛は技の極みといえなくもない。

■ マイナス金利 ⇒ やらずぼったくり
 アンバイ君の黒衣役を以て自ら任ずるクロダ君が日銀内の反対を振り切って(政策委員会は5対4の票決だった)ゴリ押しした新手である。
 「物事を実行せずに、実行するための代金だけは徴収する」、「代金だけ取って商品を渡さない」ことが「やらずぼったくり」または「遣らずぶっ手繰り」である。
 利息を当てにしたのに、逆にさっ引かれる。預金を差し出したら減って戻ってくる。中央銀行との遣り取りだけではなく、市中でもそうなる。そんなバカな話があるのだ。とにかくなにがなんでも金を使えというのだ。戦時中の「欲しがりません勝つまでは」が「貯め込みません勝つまでは」になったのか。
 経済学は現実から遊離した抽象化による学問で、馬鹿げた失敗した学問だという篤学の士がいる。措定する経済的モデルは環境から切り離された個人である。先ずはそれがおかしい。個々人は常に利益を合理的に追求するとは限らない。現実の複雑性を余りにも容易に括りすぎる。
 先行するスイスでも副作用が強すぎて評判は芳しくない。本邦でも早速狙いが逸れつつある。その一つが円高。円安の目論見が外れ、円高になっている。稿者も不思議なので調べると、アメリカ経済の先行きに陰りが見えるため円が買われているそうだ。消去法が働いたと見える。
 ともあれキヨハラ君も真っ青、すげータイトロープなのだ。本邦経済の死灰復燃は見果てぬ夢だ。

■ 原発再稼働 ⇒ 神話再稼働
 もちろん「安全神話」の復活である。このたった5年で、エネルギー事情は様変わりした。原発の停止中に、まるで天佑のように石油が値下がりした。おまけにアメリカが40年振りに原油輸出国となった。火力発電のランニングコストは大きく改善される。事故以来、廃炉や放射性廃棄物の処理費用を勘案すると原発のコストは決して低くないことは周知の事実だ。「トイレなきマンション」とも扱き下ろされる。あのコイズミ君さえも脱原発は今だと公言して憚らない。なのに弟子筋のアンバイ君は憑かれたように再稼働にまっしぐらだ。そうだ、コイズミ君は憑きが落ちて、アンバイ君にはいまだに憑いたままなのだ。何が。安全神話が、だ。
 あれは現代の憑神にちがいない。要路にあって今のところ取り憑かれていないのは田中俊一氏(原子力規制委、委員長)のみか。ところが田中委員長も、川内原発の免震棟建設では九電に一杯食わされた。建てる約束で許可したのに、既存棟を補強して間に合わせるという。学究の人に政治の駆け引きは無理だ。ここは、外局とはいえ環境省の出番だろう。なのに、マルカワ君は素知らぬ顔だ。タマヨ君も取り憑かれた口か。ともあれ、九電による断章取義は許されない。

■ 安倍内閣 ⇒ ヤンキー内閣
 これについては飽きるほど書いてきた。類は友を呼ぶとみえて、最近はヤンキーが増殖中だ。「歯舞」が読めない北方担当大臣。反政府報道をしたら電波を止めると脅す総務大臣。大臣に登用されると途端に脱原発を封印した与タロウ大臣。お涙頂戴のアンマリ大臣。その陰で一息ついてるパンツ大臣。
 無知、無頼、無恥、チープな浪花節、恥知らず。ヤンキーの勢揃いだ。頭はその最たるもの。とてもじゃないが竹頭木屑できる器には見えぬ。だって、当人がそうなのだから。 □


Combat!

2016年02月06日 | エッセー

 画面にモザイク模様が幾つも現れ、テーマソングが流れて“Combat!……Starring Vic Morrow”とナレーションが被さってくる。
 ちょうど中学高校時代、62年からの5年間、水曜日の夜8時になると決まって1時間テレビに釘付けになった。
 ヴィック・モロー演ずるチップ・サンダース軍曹。短機関銃のトミーガンを構え、寡黙で傷だらけのタフガイだ。叩き上げの下士官。粗野ではあるが情味が深く、部下の死には自らを責める。ナチスとの攻防戦を描くが、戦争物ではない。戦場を舞台にしたヒューマンドラマであった。田中信夫の微かにくぐもった吹き替えの声とともに、モノクロームの映像がなんとも懐かしい。
 『コンバット』はバーニー・サンダースからの連想である。単なるラストネーム繋がりだが、こちらは軍曹どころか大統領候補だ。指名競争の皮切りとなる先日のアイオワ州党員集会では、クリントン支持49.9%/サンダース49.6%、0.3%の僅差となった。支持率による獲得代議員数は、23対21人。ほとんど引き分けに近い。同州では8年前、無敵といわれたクリントンが3位に沈み、オバマが急浮上した。彼女にとっては因縁のアイオワである。最終的な帰趨は分からないが、イシューはそれではない。“change”はオバマだったが、サンダースは“revolution”と呼ばわる。ここだ。下院では例があるものの、彼は米国史上初の社会主義上院議員である。上院への立候補では無所属で立候補し、のち民主党に入党している。
 ユダヤ系移民の子息で、シカゴ大学では政治学を専攻。卒業後イスラエルのキブツで暮らし、政治的見解を形成したといわれる。キブツならそうかもしれない。帰国後は作家から大工まで種々の職を経巡った苦労人である。このあたり、チップと似ていなくもない。
 演説のポイントは7つ。第1に選挙資金のクリーンさを強調し、個人献金に基づく選挙戦を展開していること。第2に反エスタブリッシュメント・反大企業を掲げる。第3に1%が富を独占する格差を批判し、最低賃金引き上げや女性の雇用環境改善などを訴える。第4に反自由貿易、反TPPを主張。第5に反化石燃料による環境政策の推進。第6にオバマ以上に寛容な移民制度改革。第7にイラク戦争での反対投票歴を力説。と、こんな具合だ。その他、政策にはワーカーズコープ(労働者共同体)設立/男女平等賃金/公立大無料化/ウォール街への挑戦/人権としての医療保険/真の税制改革などが並ぶ。共和党とは逆さま、どうみても民主党でも超リベラル、極左といえよう。
 さらにイシューがもう一つ。民主党員で30歳未満のなんと84%が74歳のサンダースを支持し、クリントン支持は14%。65歳以上では69%がクリントン(68歳)を支持し、サンダースが26%だったという結果だ。若者が年寄りを担ぎ、年寄りは年寄りを担いだ。後者は当たり前だが、前者は驚きだ。年代による分断が起きているとする論調もある。中核は「ミレニアル世代」と称される2000年以降に成人し、不況下で育った若者たちだ。親は四苦八苦しつつ働き、自分たちも多額の借金を抱えて大学に行く。その『99%』の鬱屈にサンダースは理想を掲げた。08年も若者たちがオバマを押し上げた。同じうねりを感じるという人もいる。
 確かに高齢ではあるが、同じラストネームのカーネル・サンダースがKFCを立ち上げたのは65歳。充分いける。
 2つのイシューが切り結ぶのは何か。それはパラダイムシフトの予兆ではないか。そんな気がしてならない。先月5日、内田 樹氏は朝日のインタビュー記事で「成長はもう望めない、公正な分配に焦点」を当てるべきだとし、次のように語った。
「成長がありえない経済史的段階において、まだ成長の幻想を見せようとしたら、国民資源を使い果たすしか手がない。今はいったんブレーキを踏むべきときです。成長なき世界でどうやって生き延びてゆくのか、人口が減り、超高齢化する日本にどういう国家戦略があり得るのか、それを衆知を集めて考えるべきときです。
 世界ではいま左翼のバックラッシュが起きています。米国大統領選で民主党の指名争いでは、社会主義者を名乗るバーニー・サンダースがヒラリー・クリントンを急追しています。カナダではリベラルのジャスティン・トルドーが成長よりも融和を重んじる国家ビジョンを提示しました。どうやって成長させるかより、限りある資源をどう国民に公正に分配していくかに社会的な関心が移りつつある」
 「左翼のバックラッシュ」とはさすがの炯眼だ。財政的手当をはじめ、政策の実現性には疑問が寄せられている。しかし、核心はそんなことではない。世界でパラダイムが軋んでいる。それこそがコアイシューなのだ。本来なら日本こそ先駆けねばならないのに、なんと右翼がバックラッシュを起こしている。これでは2周も3周も、また遅れてしまう。遅れるだけならまだしも、“クラッシュ”しかねない。
 共和党の異端児・トランプは不正があったとしてやり直しを求めている。片や、サンダースは即刻敗北を認め、再集計を求めないと決めた。潔い。すでに次の戦場へ向かっている。チップ・サンダースもかくあらん。ナレーションが聞こえる。
“Combat!……Starring Bernie Sanders” □


転ばぬ先の知恵

2016年02月03日 | エッセー

──カネを渡した方が実利を語り、受け取った方は美学を説く。泥田の中の鶴のごとく。よごれ仕事は秘書に任せて。──(2月1日朝日新聞『素粒子』から)
 これは実に巧い。実利と美学の対比が利いている。声を詰まらせ涙ぐめば、利権の泥田でなお美しく立つ鶴にも見えよう。「秘書が、秘書が」は何度聞いたことか。斡旋利得罪という犯罪の陰は美学の後ろにすーっと身を退く。それにしても膝元の実利にさえ足を掬われる程度で一国の実利を果たして捌けるのか。わが家に骨肉の争いを抱えながら世界平和を高言する愚に等しくはないか。
 ところがどっこい、内閣支持率は上がった。この奇っ怪な現象はなにか。『素粒子』以上に演出は巧かったというべきか。またしてもやられたのか。
 脳科学の知見によれば、美醜と正邪の判断は脳内の同じ領域の反応に基づいているそうだ。きれいなら良いし、汚ければ悪いと応じる等式がビルトインされている。おそらく、その方が生存戦略上有利であったのだろう。美意識や正義観の生成や内実は措くとして、立派な振舞は美しいと誉められ、身勝手は醜いと叱られる。美醜と正邪は等位にある。巧妙な詐欺師はこれを使う。美形で美人で、いかにも善良を装う。擬態の才に秀でている。「実利」、いや甘利氏もそうだとはいわない。しかし、「この奇っ怪な現象」を解く有力なカギにはなりそうだ。如上の知見を弁えると、「其の手は桑名の焼蛤」と身構えて損はあるまい。
 知ってや知らずや、某首相の十八番「美しい日本」は憎いほどこの等式に適っている。言い方を替えるなら、美醜は正邪を迂回する。少なくともそのバイアスが掛かる。「アメリカの正義」の前に「正義の日本」は公言できない。ついこないだまで「正義の日本」ではなかったからだ。いや正義だったといいたいけれど、親方の正義とぶつかる。太古よりの「美しい日本」なら差し障りはなかろう。これなら正義を迂回できる。いな、正義感を駆動できる。なんだか怖ろしいほど脳科学の知見通りだ。『永遠の0』があざとく、阿漕なのはこの事情による。
 これが仲間内の手前勝手に終わっていればかわいいのだが、排他に転化するから質(タチ)が悪い。同じく美しいと感じないと、排斥する。同調圧力を強め、多様な価値観、ダイバーシティを認めない。なぜか。これも脳科学の知見を徴してみよう。
 日本人は世界で一番セロトニンを使いにくい脳をもった民族だという。興奮を誘うドーパミンとは逆に、セロトニンは安定をもたらす脳内物質だ。少ないと不安感情がたかまり新奇を厭う。保守性はこうして生まれる。多いのはアメリカ。なるほど、そうかもしれない。
 さらにもう一つ、オキシトシンだ。このホルモンは「幸せホルモン」とも呼ばれ、恐怖心を抑え幸福感をもたらす。それは人と人とを愛着させる。祭りの狂騒はこれだ。ところが、集団の密着力が差別や排他性を生む。オキシトシンによって集団の内向き指向が強化されるためだ。踵を接して、他集団への妬みが昂じ排他的傾向が強まる。「幸せホルモン」は集団化すると、嫉妬心とセットになる。攻撃の快感はここに潜む。ヘイトスピーチがそうだ。極まれば、戦争の快感に至る。
 脳科学で人間行動のすべてが解明できるとはいわない。発達途上の分野でもあるし、なにより脳は今なお最大の未知だ。だが、暗夜の一灯には充分になる。転ばぬ先の杖にはなる。いや、転ばぬ先の知恵か。 □