伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

実学は平時、乱世は人文学

2020年05月28日 | エッセー

 「人はパンのみにて生くるものに非ず」は聖書にあるイエスの言葉である。
 〈悪魔が言った、「もしあなたが神の子であるなら、この石に、パンになれと命じてごらんなさい」。イエスは答えられた、「人はパンのみにて生くるものに非ず」。〉(ルカによる福音書4章、口語訳)
 「悪魔の誘惑」と呼ばれる場面だ。キリスト教徒ならずとも知らない人はいないポピュラーな箴言であるが、意外に誤解されている。人は物質的満足だけを求めて生きているのではない、それ以上に精神的充足、文化芸術が重要である、と。実は違う。
 砂漠をさまよう民に食料がついに尽きた。イエスよ、奇跡を起こして石をパンに替えよ。そう迫られる。しかし神を信じるならば、パンではなくとも神はマナという名の別の食物を天から降らしてくださる。だから心配無用。そうイエスは応える。神ある限り飢えることはない。そういう素朴で現実的で即物的な意味である。だがもはや勘違いが主流となったものか、欧州では文化重視の分厚い価値観が形成されている。
 この際、世界的に超過剰反応であることを括弧に入れて愚案する。それにしても本邦との余りの落差に溜息が出る。以下、27日付の朝日から見出しとリードを引いてみる。──
▼欧州各国、広がる芸術支援 コロナ禍でも「社会・経済に不可欠」 仏で映画撮影再開
 新型コロナウイルスの影響で止まった芸術、文化活動への公的支援が欧州各国で広がっている。芸術が社会や経済に欠かせないとの判断からだ。行動規制の解除が進むなか、活動が再開し始めた。
▼芸術は「産業」、保護厚い欧州 仏…劇団員救済、来夏まで手当 独…中止公演、報酬一部支払い
 欧州各国で新型コロナウイルスの影響を受けた文化・芸術活動に対し、政府が手厚い支援をしている。観光客を呼び込み、雇用も支える一大産業を守らなければ、今後の経済に大きな打撃があることも背景にある。──
 すでに3月下旬、「誰も失望させない」とのかけ声のもと、イギリスが212億円、ドイツが最大6兆円の支援を発表している。比するに、
▼芸術関係者に最大150万円 政府支援策、計560億円
 政府は26日、新型コロナウイルスに対応する第2次補正予算案に、文化芸術・スポーツ関係者や団体に対して、総額で560億円規模の新たな支援策を盛り込む方針を固めた。個人に対しては、最大で150万円を支援する方針。(27日付朝日)
 2ヶ月のタイムラグと金額のしょぼさ。彼我の対応に「パンのみに非ず」がくっきりと浮き彫りにされているといえまいか。
 さて、先述した「文化重視の分厚い価値観」の中核にあるのが高等教育、中でも大学教育である。人口当たりの論文数を指標に採ると、日本は02年から下がり始め直近の調査によれば世界35位、OECDで最下位だ。韓国は日本の1.7倍、台湾は同1.9倍に達する。20世紀末に東アジアで最高レベルにあった国がわずか20年で先進国で最低レベルにまで落ち込んでいる。07年に大学全入時代を迎え学生の基礎学力低下が指摘されるようになったが、その成れの果てともいえる。大学を市場原理に(要するに金儲けに)任せた報いでもある。刻下少子化に伴い逆流が始まり、大学は淘汰の局面に入っている。
 さらに異常なのが大学改革である。これが今稿の中心的イシューである。16年6月、文科省は「新時代を見据えた国立大学改革」なる計画の策定を目指し「国立大学法人等の組織及び業務全般の見直しについて」と題する通知を発出した。なんのことはない、各大学に文科系学部の廃止を含めた見直しを要請したものだ。「文化系は要らないから切り捨てよ。それよりも手に職を付けさせよ、実学が大事だ。今後、実学重視でいく」 そう言ったのである。大学を職業訓練校にしてしまう魂胆だ。
 しつこいようだが繰り返すと、超過剰反応であることを括弧に入れてもこの路線は完全にアウトだった。新型コロナがそれを証明した。碩学の達識に耳を傾けよう。内田 樹氏はこういう。
 〈自分たちがいま生きている社会が金魚鉢のように閉ざされた狭い空間であることに気づいて、生き延びる道を見つけること、人文学を学ぶ意味は、そこにあります。文学はその人の心と身体を通じて世界を経験する。「いま、ここ、私」という基準では測り知れないことについて学び、理解するのが人文学です。世界はどこから来て、いまどんな状態にあって、これからどう変わっていこうとしているのか。これが人文学を学ぶということです。この混乱期を生き延びてゆくためには、視野を広くとって、長い歴史的展望の中でいまの世界の風景を俯瞰することが必要です。
 文系でも、政治学や経済学や法学などは「実学」と言われます。「実学」とは、その学問領域がどのような歴史的条件の下で生まれたのか、どのような社会的機能を果たしているのかを問わない学間領域である。自分たちが日常的に用いている用語や概念そのものを問うということをしない。
 実学というのは、既存のシステムが正常に機能している時代の、いわば「平時の学問」です。ある数値や理論を入力すれば、こんな出力があるという入力出力の相関が計算できる場合には、きわめて効率がよい。それに対して、人文学はいわば「乱世の学問」です。世界の仕組みが大きく変わり、日本社会の金魚鉢が割れる寸前まできているような「乱世」にこそ、ものごとの本質を根源的に考える知的態度が求められる。〉(「生きづらさについて考える」から抄録)
 実に含蓄のある言表である。乱世においての実学の無効と人文学の有効。通途にはこの逆で理解されているのだが、目から鱗、ストンと腑に落ちる。ノウハウが実学、そもそも論が人文学だ。戦闘機を作るのが実学、戦争を回避・終熄させるのが人文知だ。どんなに高度なノウハウもサプライチェーンが崩れれば役には立たない。医学はもちろん実学である。証拠に、「既存のシステムが正常に機能」しなくなった混乱期には無力である。だから、コロナショックで医療崩壊が起こる。システム・クライシスを予見し国民のポテンシャルを総動員して回避・終熄させるのが人文知である。
 今月5日の拙稿「『新しい生活様式』??」及び22日「解はスウェーデンにありか + 追記」の「追記」で論難した荒唐無稽な戯言は人文学の悲惨で致命的な欠落を天下に晒すものだ(例の“手形”教授は経済学者で増税派、政権の覚えめでたき人物と聞く)。日本の知性は目を覆うばかりに劣化したというべきか。コロナが炙り出した真相である。
 反知性主義を体現する某国首相は、支持率の急落に怯えて非常事態宣言を無理やり解除した。あの男にとっては支持率は株価と同等らしい。このまま追い詰められて求心力を失い、ついにまたしても政権を放り出しはしないか。心配が的中することを希う今日この頃である。 □


解はスウェーデンにあり + 追記

2020年05月22日 | エッセー

 スウェーデンといえば、温暖化に立ち向かうグレタ・トゥーンベリの名がすぐ浮かぶ。国連で“How dare you”(よくもそんなことができるものだ!)と啖呵を切ったあの16歳(昨年)だ。
 刻下スウェーデンといえば、コロナ対策でアンダース・テグネルの名が高い。スウェーデン公衆衛生局の疫学者で、新型コロナ対策の責任者でもある。15年前のエボラウイルス対策ではザイールに派遣されて功績を挙げた。11年前の豚インフルの際はスウェーデン人に集団ワクチンの接種を行い難を切り抜けた。だから国民の信頼は厚い。
 今回テグネルが主導した対策は「集団免疫」作戦である。「スウェーデン方式」と呼ばれる。感染の拡大は自然に任せて、肉を切らせて骨を断つ。その攻防の最中にこっちはマスで免疫をつくるという逆手を取る戦略である。なんとも勇ましくはあるが、現実には対応は緩い。移動規制ナシ、外出制限ナシ。高校・大学はオンライン授業だが、小中学校は閉鎖ナシ。営業自粛もナシだからストックホルムのカフェは今まで通りの賑わい。レストランやバー、ナイトクラブも開いているし、着席スタイルのサービスもOKだ。もちろん買い物も普通にできる。50人以上の集会禁止や店内のソーシャル・ディスタンシングを求められる場合もあるが、全体的にはゆるゆるである。
 同国はスカンディナヴィア半島東部にあり、南北に長い。面積は日本全土に北海道を足したぐらい、人口は1千万ちょっとで日本の12分の1。人口密度は日本の19分の1、名立たる低密度国である。毎年12月が近づくとノーベル賞で世界の耳目を集める。
 なんせ肇国はヴァイキングによって成された。その猛々しい進取の精神こそ、この小国がヨーロッパの永い流転定まらぬ興亡を生き抜いた秘密にちがいない。さらに近代に至り、武装中立を国是に措き世界に冠たる福祉国家を築き上げる膂力となった。「集団免疫」作戦の独立不羈もその延長にある。そう見たい。つまりは、ヴァイキング精神である。
 狙い通りというべきか、案の定というべきか、感染は拡大の一途。その数、近隣諸国の2~4倍、2万1千人を超える。死亡者は2500人。比率で5%台後半にある米中の2倍以上に達した。さすがに国内からも「人体実験だ」などと、非難の声が上がり始めている。“How dare you”である。しかしテグネルは動じない。4月下旬BBCラジオで、「死者のうち少なくとも半数は高齢者施設で集団感染した人々だ。封鎖をすれば感染拡大を阻止できる、という考え方は理解しがたい。スウェーデン方式はある意味で功を奏している。私たちの医療システムが崩壊に追い込まれていないことがその証拠だ」と胸を張った。無論、前述した国民の信頼が土台になっている。信頼感ゼロの某国首相とは雲泥の差であり、わけの分からない中途半端な対応策もあの程度の男なら宜なる哉だ。
 武田邦彦氏が直近の自身のブログで注目すべき発言をしている。曰く、「感染者数」という言葉に強い疑義がある。実は「発症者数」さえも判らない。体力・免疫力があったり、抗体があって軽微で済んでしまう人もいる。そういう人は病院には行かないし、当然検査も受けていない。感染にも発症にもカウントされない。感染し、発症し、検査があり、病気の診断があって患者となる。「患者数」なら判るが、「感染者数」にどういう意味があるのか。実態は、専門家が言うように発表の10倍、20倍であろう。PCRにしても精度はよくて70%程度。1億2千万の内、一体何人が受けられるのか。よしんば受けたとしても検査終了時には状況はすでに変わっている。感染者数とは本来掴みようのない数字なのだ。仮に掴んだとして無発症や発症にも軽重の差がある。どう対処するというのか。今までこんな言葉は聞いたことがないとも言う。知り得ないと知っていながら、この「感染者数」というもっともらしい言葉を振り回して国民の不安を煽りべらぼうな損害を与えたのだから、首相以下、政府や地方自治体、専門家、メディアは詐欺を働いたも同然だ。そう一刀の下に断罪した。腑に落ちるし、爽快でもある。
 今月11日の拙稿「病気は実在しない!」で紹介した岩田健太郎氏もこう言う。
 〈検査のありようはとても複雑です。見逃したり、病気と勘違いしたりすることがあります。どうも日本では医療者も患者さんも「とりあえず検査」と検査を軽く見る風潮があるようです。このような態度には要注意です。
 検査とは、みなさんが信じているほどリジッドに強固に確実な存在ではないのです。
 「こと」から「もの」が規定され、「こと」が再定義されるという展開は医学の歴史をひもとくと、多くの病気、特に感染症に当てはまる典型的なストーリーです。〉(「病気は実在しない」から)
 感染という「こと」を「もの」化したところからボタンの掛け違いは始まったようだ。小国ゆえに「スウェーデン方式」は可能だとの見方もあろうが、大いなるヴァイキング精神ゆえにひとりまったく逆の向き合い方を採り得たというべきではないか。次なる波、2次・3次感染でその真価は問われる。
 疫病という挑戦にどう応戦するか。解は「スウェーデン方式」にあると期待したい。

<追記>
 今月20日に開かれた衆議院予算委員会で、コロナ対策に関して専門家が参考人として意見を述べた。その中で慶応義塾大学経済学部竹森俊平教授が「国内パスポート」案を提示した。感染していない人にのみ交付して都道府県境を越える移動を許可する。感染を防ぎつつ国内経済を回復するためだという。もう開いた口がふさがらない。こういうのを専門バカという。いや、専門どあほだ。君こそ、明日からちょんまげを結って紋付き袴で町を歩いたらどうだ。ただし手形を忘れるな。草葉の陰で、『学問のすゝめ』なぞ書かなければよかったと、福沢翁は嘆いているにちがいない。もっとも、こういう専門どあほの世迷い言をありがたく拝聴する某国首相こそ超うすのろではあるのだが。
 憲法第22条には、
「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。」
 と、居住移転の自由、職業選択の自由が謳われている。「公共の福祉に反しない限り」とは、国民同士の良識に任せて、という意味だ。決してお上の差配を許しているのではない。こんなのはいろはのいの字だ。そんなことも知らずにどこが教授だ。
 加えて、上記したように「感染」自体が鵺に等しい。てめーの無知に胡座をかいて余計なことに口を出す。こういう輩こそパスポートで外出を厳しく規制すべきだ。
 もしもの話──。武田教授はコロナウイルスではなく、『メディアウイルス』によってパンデミックは引き起こされたというのが真相だと糾弾する。ならば「今年のインフルエンザはかなりキツそうです。高齢者や持病のある方は十分注意してください」程度の触れ方、つまり例年のインフルエンザと同様に事改めて報じられなかったとしたらこんな『騒ぎ』にはならなかったといえる。それは要するに「スウェーデン方式」ではないか。インフルエンザの患者は国内で年1000万人、死亡者は3千数百人。新型コロナは今約1万人、死者800人。前後者の比率は子どもだって計算できる。件の大バカ教授には無理かもしれないが。
 やはり解はスウェーデンにあり、だ。
 □


ダイヤモンド・プリンセス号

2020年05月19日 | エッセー

 横浜港に足止めを食らった大型クルーズ船ダイヤモンド・プリンセス号とガラガラの四谷スクランブル交差点。この2つは一連のコロナ騒動を象徴する場面となった。
 DP号はそうではないが、クルーズ船といえば「ゼロドルツアー」に想が跳ぶ。去年の1月にはマレーシアがついに音を上げ、「ゼロドルツアーの中国人観光客は来ないで!」と当地のメディアが叫んだ。
 「ゼロドルツアー」とは、ゼロドルつまり「ろは」で行く観光地巡りのことだ。ほとんどでクルーズ船が使われる。実は、ゼロドルには2つの意味がある。
 1つは、『ただ乗り』。中国の業者が中国人をただ、もしくはただ同然で船に乗せ観光地に送り込む。クルーズとは漫遊の謂だ。マレーシアなどの風光明媚な別天地が選ばれ、旅費ゼロに誘われた中国人が大挙して押し寄せる。その「ただ乗り」の「ゼロドル」である。
 2つ目には、『当地ただ』。行き先の観光地には金が落ちない。その「ただ」である。落ちるのはゴミだけ。寝泊まりは船だが、宿泊しても中国資本のホテル。なぜかガイドも中国人。バスも中国系業者。なにより爆買いさせる宝石店などの商店は中国人の経営。しかも支払いは中国の電子マネー。これでは現地に金の落ちようがない。
 この2つの「ただ」がゼロドルツアーの中身である。と、ここまでくれば想がもう一つ撥ねる。
 経済成長の終焉に伴うパラダイムシフトの緊要性に無自覚なまま日銀に国債の引き受けをさせ続けてきたアベノミクスの構造は、まさに『ただ乗り』ではないか。経済成長はもう終わった。今後は成熟経済をめざすべきだ。少子高齢化に応ずる道はそこにしかない。それを昔のアタマのままでいつまでも経済成長を夢見る。今は『ただ』で手に入る国債で経済を悪『乗り』させようとする。それがアベノミクスだ。まさに国債への『ただ乗り』ではないか。その額、1千兆円を優に超える。コロナ対策でさらに膨らむ。待っているのは将来世代を縛り上げる借金の山とハイパーインフレの危機だ。いやむしろハイパーインフレで借金の目減り、棒引きを狙っているのではないかと憶測する専門家もいる。
 本稿で散々論じてきたことだが、現政権で際立つ内外政にわたる属国政治。2基6千億円を超えるイージスアショアなぞはその典型、『当地ただ』を地で行くものだ。ミサイル防衛とは御為倒し。実用性には大きな疑問符がつき、電波障害というゴミが撒き散らされ、万が一の危機には最初にNKミサイルの標的にされる。『当地ただ』どころか、大損だ。広く捉えれば、日米安保、日米地位協定を軸にした米軍の駐留は『当地ただ』そのものである。否、普天間問題や首都上空を自由に飛べない実態はすでに『ただ』を超えている。それでもアンバイ君はトランプのポチでいつづけようとする。対米追随が自己目的化している。病膏肓だ。
 こうやって奇想天外より来たるままに書き連ねてみると、日本全体がゼロドルツアーの大型クルーズ船に見えてくる。健気にも最後まで船内に留まったDP号の船長と比べ、こちらの船長は実に心許ない、頼りない。早いとこ交代させないと、とんでもない座礁と沈没が待つだけだ。 □


一葉の写真

2020年05月15日 | エッセー

  一葉の写真が国境を超え人びとの琴線を掻きむしる。
  平和のために、君はなにをする?

  半世紀前の自問自答である。
 1972年6月8日、南ベトナム空軍が投下したナパーム弾に逃げ惑う9歳の少女を写した写真である。撮影したAP通信のベトナム人カメラマン フィン・コン・ウトは翌73年、ピューリッツァー賞 ニュース速報写真部門を獲得した。「ナパーム弾の少女」キム・フックは後カナダに亡命し、今国際的な反戦運動家として活躍している。
 ナパーム弾は粗製ガソリン ナフサに増粘剤 ナパーム剤を添加しゼリー状にした油脂焼夷弾である。超高温で燃焼し広範囲を焼尽する。開発したのはビタミンK発見でノーベル賞を受賞したアメリカの化学者ルイス・フィーザーである。塗装工場の爆発事故にヒントを得て、第二次世界大戦中、製造が簡便で破壊力抜群との米軍の要請に応えて考案した。大戦中や朝鮮戦争でも使われたが、悪名を馳せたのはなんといってもベトナム戦争10年間で投下された38万8千トンである。しかし、フィーザーは「ナパームの開発者として、責任を感じることはない」と語っている。マンハッタン計画の途中で離脱したただ1人の科学者でノーベル平和賞を受賞したジョセフ・ロートブラットとは鮮明な違いを見せる。科学者が人倫を等閑に付していい時代は疾うに過ぎている。
 現在は国連によって人口密集地への投下が禁じられているが、イラク戦争で米軍が類似の爆弾を使用したのではないかと疑念を持たれたことがあった。
 団塊の世代は太平洋戦争は知らずとも、ベトナム戦争はリアルタイムで識っている。


『アジアの片隅で』 作詞:岡本おさみ/作曲:吉田拓郎
 〽ひと晩たてば  
  国境を戦火が燃えつくし
  子供たちを餓えが襲うだろう
  むき出しのあばら骨は
  戦争を憎みつづけるだろう〽


 アジアの片隅で先陣を担った団塊の世代は、そう掻き毟られた琴線を露わにして見せた。はたして人生の第3コーナーを回った後陣はどう応えたのだろうか。青臭くて赤面の至りだが、忸怩たる自省を抱きつつ改めて自らに問う。
「平和のために、君はなにをする?」
 グローバリズムで一旦消えたかに見えた「国境」が今また蠢動を始めた。そんな折、ふと一葉の写真が夢見を破った。 □


コロナの大手柄

2020年05月12日 | エッセー

 先月25日の拙稿「コロナの大功名」で、コロナショックによって憲法改悪が潰えたと記した。フライングゲットを狙ったのだが、今度は後塵を拝することになった。
 キョンキョンの名前を目にした時には、なにか不思議な気さえした。朝日はこう伝える。
 〈「#検察庁法改正案に抗議します」。9~10日に広がった投稿は、11日午後8時過ぎで680万件を超えた。俳優の城田優さん、演出家の宮本亞門さん、俳優の小泉今日子さん、元格闘家の高田延彦さん、歌手のCharaさんらも自身や事務所のアカウントで投稿し、疑義を示した。〉(要約)
 はっきり言って、この改正案は玄人筋のイシューだ。これを民主主義、三権分立の危機として論じるのは政治家や評論家の生業だ。不遜を覚悟でいえば、有名人には畑違いである。背景になにかの変化があったのだろうか。もちろんあった。コロナである。“Stay Home”が一気に政治を引き寄せたのだ。今月8日夜、口火を切ったツイートを発信したのは35歳の東京都内の女性会社員だった。
 〈もともと政権に強い不満があったわけではないが、新型コロナウイルス騒ぎが見方を変えた。「みんなが困っているのに対応できていない。そういう政府の思うままになったら危ないと思った」
 街頭デモの強い口調には違和感があり、冷静に議論できるようにハッシュタグの言葉づかいを選んだという。「こんなに広がるとは思わなかった。政治家たちがこれでも無視して強行採決をしたら、本当に恐ろしい国になる」と話した。〉(10日付朝日から)
 「政権に強い不満があったわけではない」から「本当に恐ろしい国になる」に変じたのは、まちがいなく“Stay Home”の不如意だ。仕事と生活両面に亘るそれだ。今度ほど政治が身を縛ったことはあるまい。ふと立ち止まってよく見たら、畑は地続きであった。同じ土で同じ雨が降り、同じ風が吹く。隣の畑が枯れれば手前も危ない。そう了簡したということではないか。これで無党派層・無投票層がどう動くか。次の世論調査が注目される。
 内田 樹氏は独裁をこう論ずる。
 〈独裁というのは、「法の制定者と法の執行者が同一機関である」政体のことです。要するに行政府が立法府・司法府の首根っこを抑える仕組みができていれば、形式的には三権分立でも、事実上の独裁制が成立する。〉(「アジア辺境論」から)
  検察人事への介入は、検察が司法・行政に両属する特質を悪用した「司法府の首根っこを抑える仕組み」を狙った小賢しいマヌーバーである。「公務員のマンパワーの活用のために定年引き上げが必要」とアンバイ君は詭弁を弄するが、モリカケ・桜に河井疑惑を忘れるわけにはいかぬ。17年7月の愚稿「首相官邸に辞書はないのか?!」を引っ張りだそう。
 〈「李下に冠を正さず」という言葉がある。たとえ“正当な”行為であっても李下では避けよと訓える。だから、正当性を訴えることは、むしろ「冠を正す」ことになってしまう。厳密にいえば、李下に入った時点ですでにアウトなのだ。だから箴言は、李下に入ったらもう常識的で適法な言動をとるなといっている。それが最上の防衛策だと教示している。抗弁しないことが得策なのだ。薄ら惚けて、ずれた冠でもそのままにしておけ。それが君子の振る舞いだと箴言はいう。だって、すでにアウトなのだからそれ以上傷口を広げないようにするしか手はないのだ。〉
 だから言わないこっちゃない。変に「冠を正す」から気づかれてしまったではないか。アンバイ君の「小賢しいマヌーバー」を。
 しかしこれもコロナの手柄、大手柄である。百害あって大きな一利だ。肝煎りの布マスクもあの「大きな顔」には不釣り合いで、鼻の頭がつい出そうになる。これぞ“コロナにマスクを正さず”か。 □


病気は実在しない! 

2020年05月11日 | エッセー

 コロナ騒動のはしり、2月19日に朝日は次のように報じた。
 〈新型肺炎、船内の対策を神戸大教授が批判「悲惨な状態」 
 「ものすごい悲惨な状態で、心の底からこわいと思った」「(船内は)カオス」――。感染症を専門とする岩田健太郎・神戸大教授が、大型クルーズ船のダイヤモンド・プリンセス号内の様子を語る動画が波紋を呼んでいる。新型コロナウイルスの感染対策が不十分だと指摘する内容で、再生回数は英語版と合わせ半日で50万回を超えた。乗客の下船直前に降ってわいた「告発」に、厚生労働省側から反論も出ている。
 船内では、18日までに542人の乗員乗客の感染が確認されている。感染者が増え続けたことに、海外からも対策の不備を指摘する声が上がっていた。〉(抄録)
 頼まれもしないのに火中に乗っ込んで栗どころか石礫を投げつけられた。49歳、若気の至りでも売名でもあるまい。専門家の感性が身悶えするほど疼いたゆえの義挙ではないか。
 岩田氏のプロフィールは以下の通り。
1971年 島根県松江市生まれ
1997年 松江南高校を経て島根医科大学(現:島根大学医学部)卒業、沖縄県立中部病院研修医
1998年  コロンビア大学セントルークス・ルーズベルト病院内科研修医
2001年 アメリカ内科専門医、ニューヨーク市ベス・イスラエル病院感染症フェロー
2004年 亀田総合病院で感染症内科部長、総合診療感染症科部長
2008年 神戸大学大学院医学研究科教授(微生物感染症学講座感染治療学分野)、同大学     医学部附属病院感染症内科診療科長
 極めて強い保守的風土の中から異種異風の人物が輩出されたことに一驚を喫する。その彼が「医療」をちゃぶ台返しにしてみせた。稿者の狭っ苦しいオツムの部屋はしっちゃかめっちゃかである。で、近著 「感染症は実在しない」(インターナショナル新書、4月刊)からイシューを絞って部屋の中を片づけることにした。
▼病気は実在しない!
〈病気は現象にすぎず実在しない。「もの」ではない。これは目的に照らし合わせて医療者が恣意的に規定した「こと」にすぎないと、私は考えています。〉(上掲書より抄録、以下同様)
 これが氏の論攷の骨格である。生物学者である池田清彦氏が提唱した「構造主義生物学」に依拠したという。
 字引には、「もの」は「具象性」を備えた対象を意味し、「こと」は行為や性質、状況、思考ないし意識の対象といった抽象的な対象を意味するとある。だが「もの」と対置した場合、「こと」とは「現象」と解した方が通りがいい。また、「恣意的に」とは「とりあえず・仮に」とでもパラフレーズすれば解りやすい。
 だから「病原菌の実在=病気の診断ではない」という。結核を例にとると、結核菌(=もの)の保菌者であっても発症(=現象)していないならば結核患者とは言えない──実はそれほど単純ではない。保菌だが発病していない「潜伏結核」は病気ではなく、発症している「活動性結核」は病気。どちらも医者の恣意的な認識によって決まる。「潜伏」といい「活動」といっても、レントゲンやCTで捕捉できないケースがあるからだ。さらにどちらを採るかで抗結核薬の服薬期間が変わってくる。病気は「こと」であるのに「もの」と捉える行き違いを示す好個の例である。メタボ基準も変わる。生活習慣病と名のつく病も国によって診断基準は違う。これらは、病症という「こと」を病因という「もの」に根拠づけようとする旧弊である。病名という「こと」をいただいて患者側も妙に納得してしまうから困りものだ。では、現に苦痛を感じ異変が生じるありさまはどう説明するのか。いや、そうではない。だからこそ、病症は「こと」(=現象)だと言っている。つまり括れば、
【病気は「もの」として実在するのではなく、「こと」として認識される現象である】
 となろうか。
「これは悲劇でしょうか。こっけいな喜劇でしょうか。あいまいで恣意的で根拠薄弱であるはずの病気の診断を強固で客観的で論理的なものであると思い込んでしまっていることがもたらす悲喜劇でしょうか」
 と、氏は心情を吐露する。
 「病気は実在しない!」と、岩田教授が激烈なコピーを使って言おうとしたのは何だったのか。内田 樹氏の伝でいくと、「それを言うことであなたは何を言いたいのか?」である。メタ・メッセージとは何かだ。医療、広くは医学にイノベーションを誘起しようとしたのではないか。ぶっちゃけて言えば、「このままでは行き詰まる。医者よ変われ!」と呼ばわったのだ。
 上掲書のイシューはさらに続く。
▼〈検査とは、みなさんが信じているほどリジッドに強固に確実な存在ではない。〉
▼〈日本の医者はこの検査陽性=薬の処方という誤謬に陥りやすい性格を持つ傾向にある。〉
▼〈診断と同様に、治療についても「効いた」「効かない」と二者対立的に考えると失敗します。大切なのは、「どのくらい」効くかです。〉
 検査自体が抱える不完全さを突き、薬の短絡的処方を糾弾する。新型コロナで検査の切り札とされるPCR検査にしても、日本疫学会のHPには「検体採取の部位やタイミング、量によって早い段階では、60~70%くらいしかPCR検査が陽性にでない可能性が報告されています」と記載されている。実際、陰性から陽性になったり、またその逆が起こったとの報道をよく聞く。特効薬として期待されるレムデシビルやアビガンにしても、効く・効かないの硬直的な二択で取り上げられている。だから、
「インフルエンザなんて実在しないんだ、恣意的に現象を切り出すだけなんだ、それで現場は特に困らない、と悟れば、患者さんも私たちももっともっと気持ちが楽になれると思います」
 と語る。国立がん研究センターによると、死因第一のがん罹患数の2019年予測は約101万7千例、同死亡数予測は約38万3百件。新形コロナは昨日現在、感染者累計約Ⅰ万6千人、死者約600人。前後者ともがんの1.8%である。武田邦彦氏流に言えば、コロナウイルスは問題ではなくマスコミウイルスこそ「騒ぎ」の正体か。
▼〈EBM(実証的根拠に基づいた医療)がもたらすインパクトは一般の人たちが信じるほど高くはありません。〉
 「明白に効果のあるもの、明白に有害なものを除くと、ほとんどの医療行為はグレーゾーン」であるとの前提に立つと、そう言わざるを得ないのだ。
▼〈がんになる最大の危険因子はタバコでも発がん物質でもなく、加齢。〉
 腑に落ちる指摘だ。
▼〈医者ができることは正当性の主張ではなく、せいぜいデータの開示と自らの恣意性の表明です。そのような誠実さの表明こそが脆弱な現代医療でできる最良の態度なのだと私は思います。〉
 内田 樹氏の卓説を借りるなら、「とほほ感覚」である。
 〈「善を為す」ことよりも、「悪いことをこれ以上しない」ことを優先的な課題として自己省察する倫理的態度のことである。〉(「ためらいの倫理学」から)
 対極にあるのは「自己免責」だ。つまりは、責任逃れである。
 そして、論攷は核心的問いかけへと至る。
▼〈「実在しない」「恣意的に決められた」という考えだけを推し進めていくと、その先にあるものは、虚しいニヒリズム、虚無感ではないでしょうか。〉
 それを避ける方策は医療の意味を組み直すことだと提案する。
「医療とはある人の生き方の規定、目的に照らし合わせ、それに不都合がある場合に提供される支援のあり方である」
 何のために生きるのか──そのためにこそ医療は提供されるべきだ。医のパラダイムシフトである。
「そこに検査があるから検査をする、そこに薬があるから薬を与える、そこにがんがあるから切る、心臓が止まったから心臓マッサージをする……こうしたオートマティズムがもたらす不毛な感覚から脱却するためには、自らの生きるあり方を探していくことしかないように思います」
 確かに、マニュアルに依存したオートマティックな医療だけでは「不毛」だ。治った、治らないの二項対立は病気が「もの」ではないという事実を忘れている。実在するのは病気という「こと」だ。「こと」である以上何のために治したいのか、それを問えという。医療は生きるという「こと」に応じてなされるべきだ。そう斬り込んでくる。しかし死亡率100%の人間にそれを迫れば、所詮死は免れぬという「虚無感」が、底知れぬピットホールが待ち受ける。最難関のアンヴィバレンツだ。
 方丈記は冒頭、こう詠う。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」 
 鴨長明は「川のながれ」(=「こと」)に無常観を仮託した。その「こと」の極みにある諦観を超えるのはより大きな「こと」である。「もの」ではない。「もの」は無常そのものだからだ。病気という「こと」を、人生という最大の「こと」にどうマッピングするか。荒削りながら、提言はそう締め括られる。
 蓋し、謹聴に値する達見であり、刮目に値する人材といえよう。 □


「新しい生活様式」??

2020年05月05日 | エッセー

  見出しを見て、目を疑った。
 〈食事は横並び・毎朝体温測定 「新しい生活様式」提示〉 (5月5日付朝日)
 「提案」ではなく「提示」である。他社の報道も「提示」である。案を出す提案だって大きなお世話なのに、提示は「示す」だけあって具体的で窮屈だ。家の中にまで土足で踏み込まれるようで、はなはだ不愉快でもある。
 続けてこうある。(抄録)
 〈新型コロナウイルスの対策を検討する政府の専門家会議(座長=脇田隆字・国立感染症研究所長)は4日、感染の広がりを長期的に防ぐための「新しい生活様式」の具体例を示した。
 また、専門家会議は提言で、感染予防と経済活動の両立を図るために、業種ごとに感染拡大予防のガイドラインをつくり、実践することを求めた。〉
 「新しい」が気に掛かる。語感から察するに、コロナショックが終熄するまでとは読めない。「長期的に防ぐために」と言って、騒ぎが過ぎてもこれからはずっとこれでいこうとの含意がありそうだ。現に、「いつまで」にはひと言も言及していない。期限を切らないのは無期限ではないか。
 「様式」とは随分耳障りな言葉だ。生活に枠を嵌めるつもりか。それに、「感染予防と経済活動の両立を図るため」とはまるで脅し文句ではないか。商売がしたいのならこうしろ、ああしろと「実践することを求めた」とは片腹痛い。たかが医者風情に娑婆の真っただ中で命を賭してしのぎを削る商いのことが分かるのか。
 さてその中身だ。
【「新しい生活様式」の実践例】
▼感染防止の3つの基本
①身体的距離の確保
②マスクの着用
③手洗い 
•人との間隔はできるだけ2m(最低1m)空ける
•遊びに行くなら屋内より屋外を選ぶ
•会話をする際は可能な限り真正面を避ける
•外出時、屋内にいるときや会話をするときは症状がなくてもマスクを着用
•家に帰ったらまず手や顔を洗う できるだけすぐに着替える、シャワーを浴びる
•手洗いは30秒程度かけて水と石けんで丁寧に洗う(手指消毒薬の使用も可)
▼移動に関する感染対策
•感染が流行している地域からの移動、感染が流行している地域への移動は控える
•帰省や旅行はひかえめに 出張はやむを得ない場合に
•発症したときのため誰とどこで会ったかをメモにする
•地域の感染状況に注意する
▼日常生活
•まめに手洗い 手指消毒
•せきエチケットの徹底
•こまめに換気
•身体的距離の確保
•3密の回避(密集 密接 密閉)
•毎朝の体温測定 健康チェック 発熱またはかぜの症状がある場合は無理せず自宅で療養
▼生活場面ごとの例
<買い物>
•通販も利用
•1人または少人数ですいた時間に
•電子決済の利用
•計画を立てて素早く済ます
•サンプルなど展示品への接触は控えめに
•レジに並ぶときは前後にスペース
公共交通機関の利用•会話は控えめに
•混んでいる時間帯は避けて
•徒歩や自転車利用も併用する
<食事>
•持ち帰りや出前 デリバリーも
•屋外空間で気持ちよく
•大皿は避けて料理は個々に
•対面ではなく横並びで座ろう
•料理に集中 おしゃべりは控えめに
•お酌 グラスやお猪口の回し飲みは避けて
<娯楽 スポーツ等>
•公園はすいた時間や場所を選ぶ
•筋トレやヨガは自宅で動画を活用
•ジョギングは少人数で
•すれ違うときは距離をとるマナー
•予約制を利用してゆったりと
•狭い部屋での長居は無用
•歌や応援は十分な距離かオンライン
<冠婚葬祭などの親族行事>
•多人数での会食は避けて
•発熱やかぜの症状がある場合は参加しない
<働き方のスタイル>
•テレワークやローテーション勤務
•時差通勤でゆったりと
•オフィスは広々と
•会議はオンライン
•名刺交換はオンライン
•対面での打ち合わせは換気とマスク
<業種ごとの感染拡大予防>
 ゲップが出そうなので、転載はここまでとする。以下、20数項目細々とした例示が続く。なんとも極めつきの「小さな親切大きなお世話」である。
 特に、「会話をする際は可能な限り真正面を避ける」・「対面ではなく横並びで座ろう」とは何事か。先月末の拙稿「テレビ電話」で取り上げたゴリラの生態を想起願いたい。「『共鳴集団』は『顔を見つめ合い、しぐさや表情で互いに感情の動きや意図を的確に読む』ことで作られる」という20万年に及ぶサピエンスのコミュニケーション原理を否定する気か。無理に属性をいじると必ずどこかに歪みが出てくる。専門家会議というなら、社会学、心理学、人類学等の学識をも徴すべきではないか。アジアの片隅に住まうたかが医者風情が人類史に喧嘩を売る気か。大変な越権行為である。
 「発症したときのため誰とどこで会ったかをメモにする」とは外出抑制効果を狙ったのであろうか。それとも、袖振り合うも多生の縁だから皆さん名札を付けましょうとでも言うのか。もうここまでくると、ブラックジョークでしかない。典型的な机上論。恥ずかしげもなくこんなことが公言できるのは、普段患者の顔も見ずにディスプレイのデータばかり見ている藪医者の証拠だ。
 他はバカバカしいのでもう書かない。ともあれ本邦の医者風情は箸の上げ下ろしまで教えてくださる立派な御仁たちなのだろう。ありがたいことだ。
 それで、問題は医者風情の与太話ではない。専門家会議なるものを使って同調圧力を掛けようとする政権の意図こそ大問題なのだ。コロナ対策を金看板に掲げれば独裁的統治の亜流が試行できる。亜流はやがて水位を上げ本流と化する。戦前志向勢力にとっては垂涎の流れだ。そんな穢れた意図、もしくは無意識の意図に専門家会議は誰一人気づいてはいないだろう。だから医者風情と言い、専門バカと扱き下ろす。
 「新しい生活様式」は『古い生活様式』、つまりは戦前志向への地均しだ。
 「欲しがりません勝つまでは」「ぜいたくは敵だ!」「日本人ならぜいたくは出来ない筈だ!」「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」「聖戦だ 己れ殺して 国生かせ」「進め一億火の玉だ」「石油の一滴、血の一滴」「全てを戦争へ」などなど、戦時標語が羅列する「国民精神総動員運動」。「新しい生活様式」の中身、いやそれ以上に「精神総動員」の手法とのアナロジーに改めて驚かされる。近衛内閣が仕掛け、総員が奈落の底に突き落とされたのはわずか80年前だ。戦争とパンデミックでは話はまったく違うという反論もあろうが、ある構造が類似する社会の動きを誘起してきたのは歴史的事実である。だとすれば、この国は本当に成熟したのであろうかと自問したくなる。
 「こどもの日」に浮かんだ疑念と心配を記した。 □


大石内蔵助と植木等

2020年05月01日 | エッセー

 前々稿で朝日新聞編集委員高橋純子氏の言葉を引用した。その記事全体を抄録する。
 〈(多事奏論)首相の地金 「ある」と言えども取らぬ責任 
 星野さんに便乗して首相がSNSに投稿した、自宅でくつろぐ動画を初めて見た時私は笑った。理解不能なものに出あった時、恐れをふり払うために人は笑う。
 政治家にとってなによりの「武器」は言葉だ。特に現下は政治リーダーの言葉が人の生き死にを左右しかねない重大な局面なのに、本邦のリーダーが発信したるはまさかの「イメージビデオ」。ひとことも発せず、完全なる客体、見られるだけの存在に甘んじていて平気なのか。正気なのか。
 しっかりしてくれ。それが無理なら、しっかりしているふりでいいからしていてくれ——。
 そんなはかない願いすらかなえられないのは、首相に「自分が責任を取る」という覚悟の裏打ちがないからだろう。安倍話法の特徴は、責任が「ある」とは言っても「取る」とはめったに言わないこと。緊急事態宣言を出した7日の記者会見では「責任を取ればいいというものではない」。
 問 いまこの時この人で大丈夫か?
 答 でもこれが、主権者が7年余もこの政権を甘やかし育ててきた結果です。〉(4月22日付朝日新聞から)
 政治学者白井 聡氏はさらに激烈に糺す。
 〈連鎖倒産などで人々が首をくくるような悲劇が起きないようにするのが、経済対策の本質。国民は自業自得です。政権を支持してきた人たちや、無関心層は「自分たちがいったい何をやってしまったのか」を真剣に考える義務があります。「人殺し」になるのかもしれないのです。〉(AERA 今月号から抄録)
 「首をくくるような悲劇」を呼べば未必の故意による「人殺し」である。「それでもまだ腐った安倍政治を支持し続けるのか」と氏は斬り込む。
 返す言葉に窮しつつ、高橋氏に戻ろう。
 まず「イメージビデオ」である。
 「まるでルイ16世か」との批判が渦巻いた。フランス革命で愛犬と暮らしたヴェルサイユ宮殿を追われ、逃亡の末に天下のさげまんたる王妃マリー・アントワネットと共にギロチンの露と消えた、あのルイ16世である。なんだかそっくりのようでもあり、それほどのもんかともいいたくなるのだが、「理解不能なもの」ではある。しかし、糸口はある。「忠臣蔵」だ。
 歌舞伎や映画などさまざまなストーリーがあるなかで、すべてに必ず登場する場面がある。「松の廊下」や「赤穂城明け渡し」、「南部坂雪の別れ」、果ては「討ち入り」までをカットしている忠臣蔵があるなかで、だ。それは大石内蔵助が京都の茶屋で繰り広げる「遊興の場面」だ。意外にも、ここだけはすべての忠臣蔵に出てくる。このことに関し、内田 樹氏が洞察を加えている。
 〈(この遊興シーンには)あらゆる『忠臣蔵』ヴァリエーションを通じて、大石内蔵助を演じる役者には絶対に譲れない役作り条件が課されている。それは「何を考えているのか、わからない男」であることである。「全権を握っている人間が何を考えているのかわからない」とき日本人は終わりのない不安のうちにさまざまな解釈を試みる。そのときに、日本人の知性的・身体的なセンサーの感度は最大化し、想像力はその限界まで突き進む。中心が虚であるときにパフォーマンスが最大化するように日本人の集団が力動的に構成されている。〉(「街場の天皇論」から)
 12年12月の拙稿「内蔵助は二度腹を切った」で綴ったように討ち入り費用総額700両(約8400万円)、その内相当な金子が京の都で散財されたにちがいない。吉良家の油断を誘ったか、単なるストレス解消か。ともあれ、そこに「何を考えているのか、わからない男」が起ち上がった。
 まさか、アンバイ君が「日本人の知性的・身体的なセンサーの感度」を「最大化」させるために仕掛けた動画ではあるまい。アンバイ君の「知性的・身体的なセンサーの感度」を衡量すると、そんなことはあり得ない。そうではなくて、瓢箪から駒だったのかもしれない。しかし出てきた駒が散々叩かれたのは、「全権を握っている人間」に疑問符が付いている証左ではないか。あるいは「何を考えているのかわからない」、言い換えれば「何も考えられない」と感度が最大化した「センサー」が正確に捉えたか。後者に相違なかろう。
 次に「責任を」「取る」について。
 植木等演ずる『無責任男』シリーズが銀幕に登場したのは1962年(昭和37年)だった。高度経済成長へのアンチテーゼ、逆ロールモデルとして一世を風靡した。団塊の世代には懐かしい。競って映画館に押しかけたものだ。このシリーズは1970年まで続いた。つまり1964年の東京五輪を挟んだ時期である。こじつけと嗤うなかれ。今また東京オリンピックを期に蘇ったのである。昭和の『無責任男』から令和の『無責任男』へ。「フクシマはアンダーコントロール」と大嘘を吐いて招致し、アンバイ(按配)が悪くなるとそっぽを向く。緊急事態宣言の責任は地方へ丸投げ。「『ある』と言えども取らぬ責任」をどうしてくれるのか。
 内田 樹氏はどんなことでも責任は取れないと断ずる。損害を復元することは原理的に不可能だからだという。氏の炯眼を徴しよう。
 〈まことに逆説的なことですが、私たちが「責任」という言葉を口にするのは、「責任を取る」ことを求められるような事態に決して陥ってはならないという予防的な文脈においてだということです。それ以外に「責任」という言葉の生産的な使用法はありません。「責任を取れ」というセンテンスは、「なぜなら、おまえには責任を取ることができないからだ」という口にされないセンテンスを常に伴っているのです。ですから、「どうやって責任を取るのか」というのは問いのありようとして、すでに間違っているのです。責任は取れないんですから。誰にも。私たちが責任について思考できることは、ひとつだけです。どうすれば「責任を取る」ことを求められるような立場に立たないか、ということ、それだけです。
 「責任を取ることを人から求められないで済む」生き方をしようと思ったら、やることはひとつしかありません。それは「オレが責任を持つよ」という言葉を言うことです。まことに逆説的なことですが、「オレが責任を取るよ」という言葉を言う人間がひとり増えるごとに、その集団からは「誰かが責任を取らなければならないようなこと」が起きるリスクがひとつずつ減っていくのです。「責任を引き受けます」と宣言する人間が多ければ多いほど、「誰かが責任を引き受けなければならないようなこと」の出現確率は逓減してゆく。〉(「困難な成熟」から抄録)
 思想家が呈する論攷の深さに畏怖を覚える。例えば厚労相が「私が責任を取ります」と言い、経産相が「私が責任を取ります」と言う。財務相も続き、最後に出てきたアンバイ君が「いや、私が責任を取ります」と言う。軽重はあるものの各セクションで責任をシェアする。製造工場の生産工程を想起すればすぐ判る。それが「『誰かが責任を取らなければならないようなこと』が起きるリスクがひとつずつ減っていく」骨法である。ところが、永田町では無責任のシェアが行われている。まったく筋目が逆だ。植木等は『無責任男』という時代の逆ロールモデルに化身することで高度経済成長にアンチテーゼを突き付けたが、当今国の中枢が『無責任男』だらけになって植木の『無責任男』は出る幕がなくなった。
 たぶん高橋氏は如上の「逆説」を失念している。取れない責任を取れとは無い物ねだりである。「責任を取ればいいというものではない」と言うアンバイ君も、「予防的な文脈」でしか「『責任』」という言葉の生産的な使用法」はないという「逆説」を理解していない。
 大石内蔵助の器には遥かに及ばず、かといって植木等の反逆性もない。この国から宰相の人材は遂に払底したのであろうか。もう一度、言葉を借りよう。
「問 いまこの時この人で大丈夫か?」 □