伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

待合室にて

2012年08月31日 | エッセー


「あれ、△△さん! おはようございます」
 ふいに声をかけられて隣を見ると、わが『病友』の〇〇さんだ。並んで採血しているのに気がつかなかった。先日の病院での偶会。定期検診でのことだ。
 病友──学友などとは違い、命を預けた者同士のつながりだ。だから、戦友と同じトーンで造語してみた。
 4年前、病室を共にした。彼は腸の手術を終えて療養中。私は心臓の手術を控えて待機中。歳はこちらが上だが、病院では彼が先輩。院内の構造や慣習、医師、看護師の性格に至るまで、微に入り細を穿つ熱心なレクチャーを受けた。
 退院後も交流をつづけ、何度か一盞を傾けた。昨年両親の介護のため、彼は会社を辞した。一人っ子の独り者ゆえ、さまざまに悩んだ末の決断だったのだろう。その父母が今年早々、相次いで亡くなった。まことに先々は見えにくい。
 待合室での四方山話となった。またも腸にポリープができて、来月には内視鏡手術だと、彼はぼやく。再度のシューカツもしばらくは沙汰止みとなる。踏んだり蹴ったりだと言うわりには、明るい。飲まば朝酒、死なば卒中を信条とする彼が酒を断って4カ月だという。でもこないだは、新盆だからとちびちびやったそうだ。それでは止めてはないだろうと、出かかったつっこみを喉元でくい止めた。
 彼には同級生のホームドクターがいる。両親も世話になった。まずは掛かり付けの町医者で診てもらう。なお必要であれば総合病院へ。医療の棲み分け、患者の集中から分散を促す国の施策だ。彼の場合、その通りの流れだ。今回もそのドクターにさんざん叱られて、紹介状を携えての受診らしい。わが市で唯一の総合病院、近郷近在から数多の患者が集まる。予約時間は無きに等しい。急患が入った時など、夜道に日は暮れぬ覚悟を迫られる。おまけに、ホームドクターのアットホームに比してビジネスライクな診察。薬石の言など望むべくもない。脳外科、産婦人科の偏在に象徴される医療体制の綻び。犬の遠吠えとは知りつつ、二人して大いに憤る。
 わたしにも同級生のドクターがいる。が、歯医者だ。それもやたら抜きたがる。ことばも粗いが、治療も荒い。文句を言おうにも、開いたままの口ではオノマトペにしかならぬ。下手な抵抗はできない。薮だけに、棒が飛び出すかもしれぬ。亭主の顔を立ててそこに通うわが荊妻もかわいそうだ。ただ歯科医院には上級医療機関がない。医者を変えるのも手だが、同級の誼みで盆暮れの休みでも治療してくれる利便には替え難い。人間、がまんだ。
 自身の病気は別にして、定年前に退職して老いた親の面倒をみる。介護の社会化もすすんではいるが、最近よく仄聞するケースだ。中国でも同じような事情が今後出来(シュッタイ)するのではないか、それも桁違いの規模で。なにせ親子の絆は、本邦に比べ格段に強い。介護システムは未整備だ。加えて、一人っ子政策で一気に生産年齢人口が減少する。他人事(ヒトゴト)ながら、これは大変だ。などと話が弾むなか名前を呼ばれ、彼は飄として診察室に消えた。 □


秋、恋し

2012年08月28日 | エッセー

 まったく個人的な感懐だが、概して秋の唄はなぜこうも物悲しいのか。
 ポピュラーソングでは「秋桜」(山口百恵)はさだの曲だからやむを得ないが、「ちいさい秋みつけた」や「誰もいない海」の陰々滅々たる調子はどうしたことか。聞くたびに、息苦しささえ覚える。情緒を解さない無粋だと斬って捨てられそうだが、琴線にはそっと触れるものだ。センチメンタリズムが効き過ぎると、返って断琴してしまう。
 子規の「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」のようなおよそ哀愁とは対極の描写にこそ、情感を鷲掴みにして一気に秋景色の但中へ引き込んでしまう力が宿るのではないか。秋は稔りの季節だ。本来、哀感とは遠いはずだ。浅見には、苛烈な夏との大きな落差に情念が引き寄せられて低きへ沈み込む、そんな次第にも映る。

 金秋とも、錦秋ともいう。四囲は豊饒に沸く。人生もかくありたい。
 臆面もなく、駄文を引いてみる。
◇意外にも、四季は春からではなく冬から始まる。東洋の古(イニシエ)の智慧は人生に準(ナゾラ)え、そう教える。――少年時代が冬。芽吹きの前、亀の如く地を這い力を蓄える時、玄冬だ。20歳から40歳までが春。青龍が雲を得て天翔(アマガケ)る、青春である。続く60歳までは夏。朱雀が群れ躍動する朱夏、盛りの時だ。そして、秋。一季の稔りを悠然と楽しむ白虎、白秋を迎える。◇(06年9月本ブログ「秋、祭りのあと」より)
 馬齢、白秋に達したものの、錦秋、いまだ遥か。白虎、いまだ遠し。わが身を省みて忸怩たる感慨を抱く。しかし、忘れられないことばがある。

「誰だって、今が一番若い!」

 夜間中学に生涯を注いだ教育者・見城慶和氏が、かつてラジオで語った一言だ。氏は平成11年、吉川英治文化賞を受けている。
 けだし、言い得て妙。名言ではないか。若かったのは過去であるし、未来は今より若くはない。「若い」と現在形で語れるのは、今を措いてはあるまい。幸い、唯一白秋に区切りはない。ならば錦秋も白虎も、ずぅーと先でいい。秋に哀切の調べは無用だ。

 季節に先走った感懐だが、残暑の余りの烈しさに秋が恋しくなった。(残暑見舞いに替えて) □


3つの想像

2012年08月24日 | エッセー

 ベーシックな要因は現政権の脆弱性にあるが、トリガーは間違いなく政治音痴のI知事が引いた。二人の隣国大統領による“国境の島”への上陸も連鎖の線上にあるとみてよい。一国のトップが替わる時に、領土問題を持ち出せばどうなるか。哀しいほどに政治的想像力が貧困、もしくは枯渇しているといわざるをえない。マスコミは触れないが、I知事の軽挙はもっと糾弾されていい。
 米中国交はリチャード・ニクソンという堅牢な保守政党の政治家が決断した。INF条約をはじめソ連と手を組んだのは、それまで彼の国を「悪の帝国」と呼ばわってきたロナルド・レーガンであった。歴史の歯車は時として守旧派によって大きく廻される。その辺りの経緯については語るに力及ばないが、人間界の妙味でもあろう。問われるのが政治的プレゼンスの軽重であるのは確かだ。
 日中においても如上である。国交回復に当たって、日本への賠償を放棄したのは周恩来であったし、尖閣を棚上げにしたのは小平であった。双方とも絶大な権力を握っていた。力がなければ国内への抑えが効かないのは当然だ。比較の対象にもならぬが、“どぜう”首相にせよ“チャラ男”外相にせよ、中国の両巨頭とは月とスッポンほどちがう。いや、もっとか。期待するのがどだい無理だ。その点でも、I知事は見るべきものを見ていないといえる。あるいはそこを突いて政争にしようとしたか。ならば、なんと志の低い御仁であることか。

 あり得ない想像をしてみる。期せずして炙り出される事況があるからだ。
 竹島を巡って日韓に軍事衝突が起こったらどうなるか。四捨五入していうと、日本には日米安保条約があり、韓国には米韓相互防衛条約がある。米国は股裂き状態に陥る。割って入るにちがいない。韓国は相互防衛条約を破り捨てても戦火を交えるだろうか。日本は安保条約を破棄しても自衛隊を投入するだろうか。米国はどちらか一方を反故にしてどちらかに加担するだろうか。
 ──あり得ない。米国は総力を挙げて沈静化を図るにちがいない。理路が矛盾する事態であっても、プロクルステスのように足を斬るわけにはいかない。かといって寝台を引き延ばせない以上、旅人を追い払うほか手はない。米国にとって有事という旅人がこの島に立ち寄ることはあってはならない。どちらかの(あるいは双方の)条約を空文化することは極東でのプレゼンスを失うことになる。米国にとって悪夢だ。事は日韓2国間ではなく、米国という巨躯を誇るステイクホルダーを巻き込む。だからこのあり得ない想像は、あり得ない破局としてうっちゃって措いていい。後は、大人の対応が要るだけだ。親書がネグられたとお怒りのようだが、“どぜう”さんのお手紙ではそんなものかも。また書けばいいではないか。白やぎさんだってなんども書いたのだから……(まど・みちお「やぎさんゆうびん」)。

 問題は、尖閣である。こちらはあり得る。理屈の上では……。
 尖閣は日米安保条約の適用範囲であると、米国は表明している。尖閣を巡って軍事衝突があれば、米軍は出動せねばならない。理路はリニアだ。竹島のように股裂きはない。日米安保条約第5条が締結以来はじめて発動される?……はずだ。疑問符が付くのは、「事は日“米”2国間ではなく、中国という巨躯を誇るステイクホルダーを巻き込む」からだ。
 中国にとってもロシア国境とも(軍事的衝突を繰り返した後、決着したが)、南シナ海領海ともまったく次元のちがう国境紛争となる。アメリカが『法的』に対戦相手となるからだ。広大な中国が遥かな東シナ海の孤島に国運を懸けるだろうか。新疆ウイグル自治区やチベット自治区が分離・独立するのとはまるっきり意味が違う。国本体の瓦解と島の領有と、どちらに国の命運が懸かるか。子どもでも解る。
 アメリカとて、今や死活的となったステイクホルダーを敵に回すだろうか。しかし動かなければ、日米安保は空文化する。機能不全の安保体制は米軍駐留の根拠を台なしにし、日米関係の崩壊に繋がる。取り返しのつかない損失をアメリカは受ける。だからこのケースでも、実質的にはまたしても股裂きに追いやられる。アメリカとて悪夢だ。こちらのあり得る想像も、「あり得ない破局としてうっちゃって措いていい」。もしもI知事がそこまでの遠謀を織り込んでトリガーを引いたとしたら見上げたものだが、忖度するに単なるスタンドプレーに過ぎまい。

 振り返ると、将来世代の知恵に預けた小平の知恵は単なる棚上げではない。国境が無効化するほどの人類の『進歩』に賭けたのではないか。大きな知恵が紡いだ大きなソリューションだ。少なくともわたしは、そう信じたい。
 “Imagine”でジョン・レノンが
   〽Imagine there's no countries
 と呼びかけた『想像』を現実の国際政治に載せたのが、小平の大いなる知恵ではなかったのか。などといえば、
   〽You may say I'm a dreamer
 と嘲られるにちがいない。だがしかし、
   〽But I'm not the only one
     I hope someday you'll join us
     And the world will be as one
 と応じるほかあるまい。
 19世紀初葉クラウゼヴィッツは「戦争論」で、「戦争とは他の手段をもってする政治の継続である」と説いた。この洞見は今も正しい。哀しいぐらい正しい。しかし、人類が錯誤を繰り返しつつ進歩を続けていることも確かだ。さまざまな人間的権利の確立、国際組織の誕生、市民の連帯などなど、クラウゼヴィッツの時代には『想像』も及ばないものだったにちがいない。拱手傍観を振り捨てた先達たちの辛苦が開いた地平だ。『想像』はあり得るのだ。
 それにこれだけは確言できる。──21世紀の今、軍事的ソリューションは無効であるという現実だ。真正の現実主義は、ここを起点として発想する以外あり得ない。これは、本当にあり得ない。 □


名著に触れる

2012年08月21日 | エッセー

 炎暑の屋外で知人と偶会した。こちらは小ぶりの日傘を持っている。相手にはない。立ち話となったが、さてあなたならどうする。
 日傘を、
 ①たたむ。
  ②相手にだけ差しかけるか、相手に渡す。
  ③自分だけ差す。
 ④交互に差す。
 「わが国の礼の規範」では①だと、新渡戸稲造博士は「武士道」で語る。勿論、四つの選択肢を並べてはいない。ごく日常的振る舞いとして①のみを挙げている。

◇(在日二十年の宣教師夫人には)「おそろしくおかしい」行動である。しかし、彼の動機は、次の事にあるのだ。──「あなたは炎天下にいます。私はあなたに同情します。もし私の日傘が十分に大きければ、あるいは私たちが親密な知り合いならば、私は喜んであなたを私の日傘の下に入れてあげたい。しかし、私はあなたを陰に入れることができないから、せめてあなたの苦痛を分かち合いたいと思います。」こうした行為は、他人の快不快に向けられた思いやり深い感情の表現なのである。◇(ちくま新書 山本博文=訳 現代語訳「武士道」から)

 それは解る。③は論外として、ではなぜ②ではいけないのか。結果的には、「あなたの苦痛を分かち合いたい」と同等であろう。わたしなら、②である。多くの現代人は、おそらく同様であろう。なぜ、①なのか。
 愚慮を巡らすに、傍目の問題ではないか。
 傘を差しかけられていようと、自ら差していようと一方は日照りに晒される。日傘のある方は配慮のない、非礼な人物に見られよう。相応な位階差があるのなら、対等に立ち話はしないはずだ。④も、往来での他人の瞥見では如上である。博士は語っていないが、世間の目にも無礼に映ることを避けたのではなかろうか。
 第六章に至ってふと沸いた疑念にかかずらってみた。「世間」ついでに、養老孟司氏の言を引く。
 氏は「無思想の発見」(ちくま新書)で、世間と思想は補完関係にあるとして次のように述べる。
「異なる社会では、世間と思想の役割の大きさもそれぞれ異なる。世間が大きく、思想が小さいのが日本である。逆に偉大な思想が生まれる社会は、日本に比べて、よくいえば『世間の役割が小さい』、悪くいえば『世間の出来が悪い』のである。『自由、平等、博愛』などと大声でいわなければならないのは、そういうものが『その世間の日常になかった』からに決まっているではないか。」
 破竹のように明快な言説だ。『養老節』炸裂である。いいも悪いもない。「世間が大きく、思想が小さいのが日本である」という認識は本邦理解の前提ではないか。

 贈り物をする際、「つまらないものですが」という辞令を使う。西欧とは逆だ。よく耳にする話柄である。謙譲の美徳といわれる。ところが「武士道」では、トポスがずれる。

◇アメリカにおいては、贈り物をする時、贈る側は受け取る人にその品物を褒めそやす。しかし、日本ではこれを軽んじたり、悪く言ったりする。(略)
 日本人の気持ちは次のようなものである。
「あなたはいい人です。どんな品物もあなたに十分ふさわしくはありません。何をあなたの足下に置いても、あなたは私の好意のしるしとして以外には受け取ってもらえないでしょう。この品物を、物そのものの価値でなく、しるしとして受け取ってください。最高の贈り物であっても、それをあなたにふさわしいほどすばらしいと言うことは、あなたの価値に対しての侮辱になるでしょう。」
 この二つの考え方を並べてみれば、究極のところでまったく同じ考えであることがわかる。どちらも「おそろしくおかしい」ことではない。アメリカ人は贈り物の素材について言っており、日本人は贈り物をするに至った気持ちのことを言っているのである。◇(同上)

 この一節は、「つまらないものですが」の解説に多用されるらしい。しかし謙譲の話法に、主格の置き換えがなされていることに留意すべきであろう。「最高の贈り物」であっても、あなたの人品はそんな物とは比較を絶した高みにある。『あなたにとっては』つまらないものなのだ。わたしにとって、つまらない訳ではない。自らを貶めて相手を高からしめるのではく、相手を高みに置いて相対的に自らのトポスを下げるのだ。だから、博士の語るところは巷間の「謙譲」ではない。ひょっとしたら西欧人の理解に合わせて、「謙譲」を迂回したのかもしれない。
 第十六章で、博士は「武士道によって吹き込まれた種々の美徳を研究するにあたって、私たちはヨーロッパの典拠を引いて比較と例証を行ってきた。そして、その特性のどれ一つとして、武士道が専有する遺産ではないことを見てきた。」と述べている。特異な「専有する遺産」ではなく、武士道が普遍性をもった美徳であることの証明が本書著述の主眼であった。だからわたしの当て推量である「迂回」も、広く国際に打って出ようとする博士渾身の自彊だったといえなくはない。
 内田 樹氏は、「日本辺境論」(新潮新書)で以下のように言う。 
「吉本隆明でも江藤淳でも、彼らが考究したのは、つねに日本人のことです。その独特な国民性格を解明するためですし、つねに念頭を占めていたのは『私たちは前近代のエートス(端的には武士道)と欧米文明とをどう接合できるのか』という主題でした。たしかにこれは私たちにとっては死活的に重要な主題ですけれども、徹底的にドメスティックな主題です。よその国の人にとってはまるで『ひとごと』です。日本人は『日本文化論』が大好きだと前に書きました。……」
 日本人が「大好き」な『日本文化論』の嚆矢が「武士道」であった。「『私たちは前近代のエートス(端的には武士道)と欧米文明とをどう接合できるのか』という主題」にはじめての挑戦を敢行したのが本書であった。しかも欧米の言葉で……。
 その勇姿こそ武士道のこの上ない例証であり、一典型ではなかったか。田舎町の書肆で最新の現代語訳を見つけ、何十年振りかに名著に触れてみた。帯には──「武士道」は新渡戸が夢見た「理想的国民性格」である。「日本人かくあれかし」という新渡戸の願いはいまも私たちの共感を呼ぶ。──と、内田 樹氏のことばが認めてある。蓋し、古くて新しい「願い」だ。 □


倉敷にて

2012年08月18日 | エッセー


 倉敷へ行った。格式ある観光地である。格式は、おそらく天領であったことに来由するであろう。
 金銀が産出したわけではない。広大な美田も有してはいなかった。地形上の特異な軍事的拠点でもなかった。なのに、なぜここが天領であったのか。街を歩きつつ、疑問が涌いた。
 案内を読むと、海路の要衝であったためらしい。倉敷は、古来海運が盛んな瀬戸内で「水夫(カコ)の湊」と呼ばれる重要港湾であった。水夫、つまり船乗りが伝統的に豊富であり物資輸送の枢要な拠点であった。幕府はここを海路の宿駅として天領化し、ロジスティックスを押さえたわけだ。この一事でも、近世は決して農本主義一色ではなかったことが知れよう。併せてこの宇喜多水軍の根拠地を取り込むことで山陽、四国、九州の制海権をも握ることになる。倉敷の天領化には産軍両用の狙いがあったことになる。したたかな遠謀であった。
 いま遠謀は歴史の長きにわたる濾過を経て、高名な観光地に格式となって凝(コゴ)っている。その典型が「美観地区」であろう。
 名の通り、市の中心部に広がる町並保存地区である。倉敷川が流れ、両岸を枝垂れ柳が縁取る。石橋が架かり、旧家や米蔵、またはそれらを改造した各種の建物が並ぶ。中心には大原美術館が聳え、威容を誇る。煉瓦造りの外壁、川舟流し、民芸、郷土玩具、アート、宝石、小物、酒、食事処などなど、実に多彩だ。「美観」にふさわしく電線は地中化され、どこも小綺麗で隅々にまで工夫が行き届いている。などと書き連ねると観光パンフレットめくが、散策には違和感が付き纏った。
 要するに、美観に過ぎるのだ。建物は旧に復しているのだが、素材や上塗りが一様に新しく作り物めいてさえ見える。限られた町筋にあれもこれもと詰め込んだため、ごった煮のようにもなっている。美観を観光の網の目がすっぽりと覆っているかのようだ。
 かといって、旧態のままで果たして観光は成立するか。特に町並を丸ごと観光地化するとなると、現在の活計(タツキ)を抱えつづけねばならぬ。町並だけであれば太秦映画村か、あるいは撮影用のセットなら可能かも知れぬ。だが現に活きている町では、そうはいかない。
 ついには、「古色仕上げ」なる人為を加える場合もある。骨董によくある、わざと古めかしく見せる業だ。しかし気づいてみると、なんでもできたての頃はキンピカであったはずだ。「エイジング技法」は、先入主を突いたピットホールともいえる。さらに町並となると、一時(イットキ)に成ったはずはなかろう。新旧取り混ぜて推移してきたにちがいない。それがある時点で、等し並みに同質のトーンになる。そこに如上の違和感が発するのではないか。倉敷に限らず町並観光地のアポリアともいえるし、端(ハナ)っから人工的要素を割り引いて観るに及(シ)くはないともいえる。荷厄介だが、異郷では優しくありたい。
 遺跡ではないのだから、「昔」のままというわけにはいかない。その「昔」も、いつの頃だか(中世か、江戸の前・後期か、明治初期か)特定するわけにもいかぬ。歴史を担うとは存外に持ち重りのするものといえなくもない。その険しい道を倉敷は健気に歩んでいる。
 盛夏に瀬戸内の美味に舌鼓を打ちつつ、地ビールに微酔しながらまたもお節介なことを考えた。 □


ロンドン雑感<承前>

2012年08月15日 | エッセー

 澤 穂希の顔について考えている。
 33歳にしては老け顔である。かつ、33歳にしては当今の同年配女性にはない顔立ちである。ピッチではノーメークだから(おそらく)、素のままの顔である。地顔がコンテンポラリーではなく、ノスタルジックなのだ。
 昭和初期の女性の顔だ。美醜の問題ではない。団塊の世代に引き寄せていえば、「三丁目の夕日」の顔である。生きるために鎬を削っていた市井の女たち。低い位階に耐えつつ家を、社会を支え続けた母たち。拙文を引けば、「『坂の上の雲』をめざして登攀している時が、一番清々しいともいえる」(先月、本ブログ「スポーツ寸景」より)時代の一典型だ。それがハングリーでマイナーであった頃の女子サッカーの事況にオーバーラップする。
 邦人アスリートの中で際立つ澤の面貌に、団塊の世代は一種の郷愁を覚えるのではないか。“あの頃”街中を忙しなく行き交っていた、甲斐甲斐しく働くおばさんたちの顔だ。その一事をとっても、“希”なる人材といわねばなるまい。

 男子柔道の不振は一面、この競技が国際化したシニフィアンといえる。「ポイント柔道」が極まり、異種の競技“JUDO”に変質しつつあるのではないか。武道をスポーツ化することの避けがたいアポリアともいえる。ルールをドラスティックに変えるには、国際柔道連盟のヘゲモニーを奪わねばならぬ。そのような政略が果たして可能か。決して“道”は“柔”ではない。
 とりあえず目先を変えて、団体戦を導入してはいかがか。体操でさえあるのに、柔道にないのはどうも合点がいかぬ。
 ついでにもう一つ。駅伝をオリンピック種目に採用してほしい。“エキデン”は、すでに国際語になっているぐらいメジャーな競技だ。何度も言ってきたが、テニスは要らない。ウインブルドンなどの伝統的な権威ある国際試合をもつスポーツは、テニスに限らず外すべきだ。男子サッカーのU23も再考を要する。

 ウサイン・ボルトは競技前、“Be legend”と繰り返した。その通りの結果となったが、“legend”は結果にではなく、そこへ至るプロセスにあったと視たい。結果はやがて書き換えられるが、過程は容易に模倣できない。
 意外だが、彼は背骨に脊柱側湾症という障害を持っている(NHKは先日、特集を組んでいた)。発見は北京オリンピックの後だった。背骨がS字状に曲がっているため膝や腰を痛める。以下、産経新聞(8月7日)の記事を引く。
〓〓肩を交互に大きく上下させて進む規格外のフォームは、右側の骨盤と肩が下がっている体の“骨格”に起因する可能性が高い。背骨を補正する努力も重ねており、片側のシューズにクッションを入れているのも左右差の矯正が狙いだ。
 ただ、障害が圧倒的なスピードの源になっている可能性もある。100メートルのタイムは、歩幅の長さを表す「ストライド」と、1秒間に何歩進むかを表す「ピッチ」に大きく左右される。早大スポーツ科学学術院の川上泰雄教授によると、身長196センチのボルトが最高速度になったときのストライドは身長の約1.4倍。日本人のトップ選手が1.2倍程度というだけにその差は圧倒的だ。こうしたストライドを生む背景について国立スポーツ科学センターの松尾彰文・副主任研究員は「ボルトは接地の瞬間にタイミングよく肩を下ろすことで、地面からの反発をよりもらえている」と分析する。〓〓
 これこそ、「禍を転じて福と為す」ではないか。史上初の2連覇へ至る苦汁の日々、肉体改造、1年前の世界陸上での失格、肉薄する後進。「戦国策」には「聖人の事を制するや、禍を転じて福と為し、敗に因りて功を為す」と説く。障害を捻伏せ制覇したこの4年間は、「戦国策」通りの軌跡であった。これが“legend”ではないか。レコードは刻んでも、伝説を残すアスリートは希だ。しかもコンマ以下2桁の世界で致命傷を転じたのだ。“legend”の在処(アリカ)はここだ。かつアスリートに限らず百般の凡庸な人生にあっても、須用の啓発ではあるまいか。 □


ロンドン雑感

2012年08月12日 | エッセー

 女子サッカー決勝戦での惜敗。いつもの奇想がポーツマス会議の日本全権・小村寿太郎に跳んだ。佐々木則夫監督からの、まことに他愛のない連想だ。
 セオドア・ルーズベルトの力を借りて、鼻の差勝利の戦勢でなんとか幕を引いたのが日露講和条約だった。賠償金を外してまでも、勝った形を付けたものだった。そのため、大勝気分に沸く国民から小村は大変なブーイングを受ける。ついには日比谷焼打事件へとエスカレートし、大きな騒擾となった。
 ワールドカップでの薄氷を踏む勝利。たった1年で、過剰な期待に応じなければならない。同姓ゆえに巌流島の向こうを張ったか。「引き分け指示」は決戦へ向けたストラテジーの一環だ。武蔵の伝だ。どこかのバドミントン・チームがサボタージュしたのとは訳が違う、芸が違う。
 巷のファンには舞は見えても、氷がいかに薄いかは見えない。ついつい辛勝(あるいは、奇蹟)と実力を根拠なく同一視してしまう。佐々木監督の苦衷は小村のそれに類するのではなかったか。そんな幻視だ。惜敗は大勝でもありうる。
 さすがに、ブーイングも焼打もない。先日(2日付「日の丸の按配」)も触れたように、日本の応援は温かい。それどころか、表彰式ではトレインにVサインではしゃいでみせてくれた。法外なファン・サービスではないか。彼女たちは応援してくれた人たちを、逆に気遣ったのだ。筆者、頭が下がった。
 内田 樹氏が、近著「昭和のエートス」(文春文庫)で胸のすく言説を展開している。

          ◇          ◇          ◇
 私たちが勝負事に熱中するのは、勝つためではない。「適切な負け方」「意義のある敗北」を習得するためである。私はそう考えている。
 夏の甲子園高校野球には四〇〇〇校以上の高校が参加するが、勝利するのは一校だけで、残りはすべて敗者である。このイベントに何らかの教育効果があるとすれば、それは間違いなく「どうやって勝つか」を会得することではない。その教訓を生かせるのは毎年全国で一校しか存在しないからである。あれだけの時間とエネルギーを投じながら、それだけの人々に教訓を授けるだけのことしかできないのだとすれば、これほど費用対効果の悪い教育事業はない。
 しかし、現実には、高校野球が有効な教育事業であるということについては社会的合意が成立している。参加者のほとんど全員が敗者であるイベントが教育的でありうるとしたら、それは「適切に負ける」仕方を学ぶことが人間にとって死活的に重要だということを私たちが知っているからである。
 「適切な負け方」の第一は、「敗因はすべて自分自身にある」というきっぱりとした自省である。負けたのはチームメートのエラーのせいだとか監督の采配が悪かったからだとか言い逃れをする高校球児は誰からのリスペクトも得ることができないだろう。
 第二は、「この敗北は多くの改善点を教えてくれた」と総括することである。負けた後に「私たちとしてはベストを尽くしたので、もうこれ以上改善努力の余地はない」と言う人間は敗北から何も学んでいないことになる。
 第三は「負けたけれど、とても楽しい時間が過ごせたから」という愉快な気分で敗北を記憶することである。
          ◇          ◇          ◇

 ゴールド・メダリスト以外の、すべてのアスリートに捧げたいことばである。

 松本 薫、24歳。彼女はAKB48の対極にいる。大島優子とは1歳違いだ。可愛さと人気を求める世界。面相ではなく実力で決まる世界。数で押しまくる集団と孤立無援の勝負。日本の「女子」もついにここまで分極化した。感慨無量であるとともに、実におもしろいではないか。手弱女ぶりのまったく逆が世界を制した。“なでしこ”どころの騒ぎではない。立派な世界標準、日本文化史上の壮挙だ。
 マスコミに願いたいのは、決して彼女の素顔を追わないでほしいということ。「実は、こんな乙女チックなところも……」などとは、絶対に報じないでもらいたい。あのまま、そのまま、そっとしておいてほしい。逆も真なり。大島とて鬼の形相になることも、底意地の悪いダークサイトもあるはずだ。だが芸人は舞台がすべて、アスリートは競技場がすべてだ。マスコミよ、おじさんの「夢」を壊さないでくれたまえ。

 おバカなアナウンサーが、「ライバル同士なのに、とてもいいチームワークができたんですねー」とマイクを向けていた。そうではない。ライバル同士だからこそ、絶妙のチームワーキングが可能となるのだ。
 お互いを知り尽くしていること。それぞれの長短が十全に活かせること。絶対に自分の失敗で敗因をつくりたくないこと。頼ってももたれ合わない関係であること。この3人は、すべての条件を満たしていた。
 それにしても、愛ちゃんとメダルは遠かった。「天才少女」だけが一人歩きし、なかなか追いつけなかった。もう一人の「天才少女」が現れて、今回やっとキャッチアップできた。 なんだか、こちらの方が肩の荷を下ろした気がする。

 「浩介さんを手ぶらで帰せない」には参った。想像だにしないひと言だった。意表を突かれ、こちらが言葉を失った。とんねるずの「男気じゃんけん」はカリカチュアライズされているし金持ちのお遊びだが、こちらは正真正銘、勝負の世界だ。金で片の付く問題ではない。
 この世代にこういうメンタリティーがあるとは一大発見であった。夏のロンドンに吹いた一陣の涼風であった。名言家・北島の継承も確実になされている。

 江戸の仇を長崎で討つに倣えば、竹島の仇を倫敦で討つか。女子バレー28年ぶりのメダルを朝日は1面トップで、弾ける笑顔が並んだ写真と共に報じていた(他紙は知らない)。女子バレー大ファンのおじさんは、今キーボードに滴る感涙をものともせず本稿を綴っている。快挙である。壮挙であり、偉業であり、かつ排球の佳人による美挙である。
 銅であろうが、銀であろうが、はたまた金であろうが、もうそんなものはドウでもいい。夜店のメダルでないなら、色はドウだっていい。本邦女子バレーが苦節、屈折28年を越えて再び世界の舞台に戻ったのだ。これを寿がずして、いかにしよう。ために、おじさんは昨夜痛飲してしまった。今朝は実に気分“不”爽快で、“通院”すんでの所だった。しかしできうれば、4年後も祝杯を上げたい。今度は痛飲どころか、牛飲、鯨飲だ。
 真鍋ジャパン、万歳! 排球の佳人、万歳!□


『脱』靴掻痒

2012年08月09日 | エッセー

 少し古いが、今年1月に出た佐伯啓思著「反・幸福論」(新潮新書)から抄録する。

         ◇         ◇         ◇         
① 民主党の基本的な存在意義は、「自民と官僚から権力を奪取する」という一点にあった。そしてそれ以上に特に政治的理念や政治的使命感はなかった。もしやりたいことがあれば、政権奪取後にこれほど迷走することはなかったはずです。
② 民主党は「国民の意思」を政治に反映させる、といった。とすると「国民の意思」とは、「支配権力」への否定的で破壊的な意志だということになる。民主党をうごかしたものは、この大きなしかし漠然とした「否」だったといってよいでしょう。
 だがそうだとするとこれは深刻な問題です。われわれの政治の質が、根本的なところで「支配権力」を否定するという欲望によってしか動かない、ということだからです。
 しかしただの「否」からは何も生まれてきません。それは「支配権力」や「既得権益」や「守旧勢力」を批判はするでしょう。しかしその先に何も生み出しません。ここにあるのは、現状に対する漠然たる不満や不安で、この不満の矛先が「支配権力」や「既得権益」や「守旧勢力」へと向けられてしまうのです。民主党は、この漠然たる不満が生み出した「否定的な意思」を養分として今のところのあだ花を咲かせてしまっている、ということになる。
 これは決して健全なことではない。どうしてかというと、「支配権力」という「特権」に対する「否」は、実は、「権力を批判することによって自らが権力をもつ」といういかにも屈折した権力欲を隠し持っているからです。
 「ひねくれた権力欲」といってもよいし、あるいは「逆立ちした権力欲」といってもかまいません。だから、ひとたびこのひねくれた権力欲が権力を手にすると、権力を維持することそのものが自己目的化してしまいます。
 菅さんが戦後左翼の市民運動家あがりだというのは象徴的なことです。左翼主義こそ「支配権力」を否定する権力欲そのものだったからです。
③ 特に政治的世界とのつながりをもたないエリートたちが、自民党と官僚という既存のシステムを「支配体制」として批判するのも当然でしょう。彼らは、知的にすぐれた自分たちが活躍できないのは、愚鈍な連中が既得権益を独占しているからだ、と考える。本当は自分たちこそが政治を動かすべきだという不満を抱いている。
 この民主党エリート型の権力欲は、あくまで、裏返されたものですから、自らは決して権力を保持しているとは言わない。自らが権力者であることを否定する。
 そこででてくるのが、ことさら自分たちを「国民に対する奉仕者」と言い募るという、これまた奇妙に裏返された意識で、ここに見られるのは謙虚さを装った傲慢でしょう。謙虚の方は「国民への奉仕」に示され、傲慢の方は「政治主導の発揮」にそれこそしっかりと発揮されている。これこそまさに、権力を否定したそぶりを見せる権力というべきものです。
④ 国民のなかに渦巻いているものが、権力とつながってうまくやっている者への漠然としたうっそうたる不満であり、自らがうまく処遇されていないという不満であるとすれば、今日の政治を動かしているものは、この「否定的な意思」という「ひねくれた権力欲」だということになってしまうのです。
 ひねくれて、裏返されて、捻じ曲げられたささやかな権力欲が集まって「世論」なるものを作り、その「否定的な意思」が政治を動かしているということになるのです。
 とすれば、これはもはや民主党の問題にはとどまりません。自民党も同じことです。いや、今日の日本の民主政治そのものが落ち込んだ陥穽といわねばなりません。
⑤ このような「否定の政治」を続けてゆくと、そのうち、自民であれ民主であれ、既存政党そのものが攻撃され、次々と繰り出される「否」は、既存政党とは異なった、もっと攻撃的で破壊的なイメージをもった新党やカリスマ的な人物の登場を待望することになるでしょう。小泉さんよりもっと強力なデマゴーグがでてくる。恐るべき歯切れのよさ、論点の単純化、敵対者への攻撃、こうしたパフォーマンスに大衆は喝采をおくるでしょう。
⑥ 私には、今という時代は、あまりに「暗さ」や「哀しさ」を忘れた時代のように思われます。いや、忘れた、というよりも、「暗さ」や「哀しさ」をあたかも悪であるかのように無理に排除しようとしているように見えるのです。対照的に「明るさ」「元気さ」が過剰に求められているようにも見えるのです。「暗さ」や「哀しさ」は不幸そのものであり、不幸であることは悪いことだ、そして人は明るく元気でなければならない、とでもいうように。
         ◇         ◇         ◇         

 佐伯氏は49年生まれ、東大卒、現在京大大学院教授である。かつて本ブログで引用したことがある。同年であり、共振する部分が多い。上掲書もそうだ。肯んじられない半分を除けば、大いに同感する(当たり前か)。その中から、特に我が意を得た部分を挙げた。
 民主党の本質は政権互助会である、とつとに指摘されてきた。それが① である。「もしやりたいことがあれば、政権奪取後にこれほど迷走することはなかったはず」とは鋭い。偶発的に浮かんだ「やりたいこと」が、普天間移設と消費増税の二つだ。前者は宇宙人の世迷言として、後者は政治的パラノイアとして。どちらも、政権奪取が自己目的と化した成れの果てだ。本物の「やりたいこと」なら、堅牢な構図と緻密な戦略があるはずだ。
 新聞は政争だとこき下ろすが、首相が解散時期を明言しないのは、それが政権互助会の解散宣言を意味するからだ。自民党は実にうまいところを突いているともいえる。次の選挙で民主党が激減するかどうかという定量的なイシューではなく、同党の本質が無意味化するという定性的リスクだからだ。アイデンティティが霧散するのだ。唄を忘れたカナリアどころか、唄えなくなった刹那にカナリアがカナリアではなくなるからだ。
 首相の専権事項だから確言できないという。しかし「政治生命を懸ける」のなら、専権事項さえも捨てられるはずではないか。命を捨てる者が専権なぞ惜しむわけがない。命と専権を秤に掛ければ、どちらが沈むか。子どもにだって解る。首相の覚悟がいかに浮薄か。だみ声のカナリアなど、聞きたくもないが。
 そこへいくと、「自民党をぶっ潰す」と吼えた小泉元首相の大芝居。いまさらながら役者の違いを見せつけられる。はじめが愚か者で、次が偽者。3人目が小者では、「近いうちに」立ち行かなくなる。「近いうちに」……。
 民主党に顕著な権力志向、権力的言動。それが② の解析だ。「屈折した権力欲」「ひねくれた権力欲」「逆立ちした権力欲」とは実に明晰な剔抉ではないか。
 問題は「国民の意志」=「否」、「否定的な意思」である。かつて筆者が本ブログで述べた『皆の衆(シ)も悪い』の深層に潜む「深刻な問題」である。それを著者はニーチェの「ルサンチマン」を援用しつつ民主主義のアポリアだと説く。それは④ の「今日の日本の民主政治そのものが落ち込んだ陥穽」であり、裏返せば⑤ に繋がる。⑤ については、多言を要すまい。
 ③ に登場する「エリート」の典型がエダノであろう。本ブログでもたびたび触れてきたが、筆者がこの人物に感じる生理的嫌悪感の正体はこれだ。佐伯氏の卓見に低頭する。
 「謙虚さを装った傲慢」とは、そのものズバリだ。この党に際立った、取ってつけたようなばか丁寧な物言い(特にハトは)。元官房長官の国旗への深々とした一礼。今まで取り上げてきたさまざまな不快感、違和感は、「民主党エリート型の権力欲」が歪なかたちで滲み出たものだった。……そうか! そうだったのか。もう、痛みを忘れて何度も膝を打つ。
 さらに⑥ は、今年5月の本ブログ「『ガチョーン』恋しや」で言及した「疑似多幸症」の背景といえる。多幸の陰に多くの不幸が覆われている。能天気なTVメディアに惑わされてはなるまい。
 隔靴掻痒に非ずして、まことに『脱』靴掻痒。佐伯氏が靴を『脱』がしてくれて、存分に「掻痒」できた。学者はありがたい。 □


フルコトブミ

2012年08月07日 | エッセー

 最初にその名を聞いた時、「乞食」を連想した。物知らずの子どもゆえの笑い種(グサ)だが、当時はまだあちこちに乞食なる異形の人たちがいたのだから無理もなかろう。古(イニシエ)の本邦は貧困ゆえに物乞い、浮浪の類いに溢れていた。そんな想像だったか。
 今では「乞食」は理不尽な言葉狩りに遇って姿を消したが(ATOKはデフォルトでは持っていないので、筆者はユーザー辞書登録して使っている)、戦後の歴史教育では「古事記」の方も大いに疎んじられてきたにちがいない。日本史学の大御所・津田左右吉からして、荒唐無稽で信用し難いとこき下ろした。たしかに同じ史書でも、さらに800余年を遡る「史記」のリアリティに比べると架空に過ぎる。むしろ、さらに800年余を遡るギリシャ神話に近いのではないか。現に両者のアナロジーを指摘する説もあるほどだ。
 読んでみると、やたら長い名前に難渋する。はじめてドストエフスキー作品に対峙した時のようだ。それどころか、血、うんこ、エロ、騙し、残虐と、開放的といえば聞こえはいいがエログロ・ナンセンスのオンパレードと見紛うほどだ。あるいは全編、なにかのメタファーか。それとも、品はないが壮大なる古代ロマンか。食卓を飾ったであったろう古代マロンか(失礼)。ともあれその荒唐無稽がかずかずのエンターテイメント作品を生んだのも事実だ。筆者の記憶には、小学校4、5年生の時に観た東宝映画「日本誕生」がある(「古事記」そのものの映画化ではないが)。古い話だ。三船敏郎扮する日本武尊命が野火に向かって草薙剣を振るうシーンがおぼろげに蘇る。まんが、アニメ、ミュージカル、歌舞伎といまだに作られつづけている。やはり、ロマンというべきか。
 大歴史家の眼は広く、深い。司馬遼太郎は講演で次のように語っている。

          ◇          ◇          ◇
 日本文化が“猿真似”というのは、どうやらヨーロッパにおける抜きがたい伝説の一つであります。
 日本は、七世紀初頭、それまで分裂していた中国において唐王朝という巨大な統一帝国ができたために、びっくり仰天しました。防衛上、大いそぎで統一性の高い国家をつくらざるをえませんでした。それは、ちょうどそれより千数百年のちの十九世紀、英国やロシア、フランスなどの勢力が東アジアに伸びてきたとき、これらの勢力から自国を守るために植民地にされまいとしてつまり、これまた防衛上、大いそぎ普請でもって江戸時代とよばれる封建制をたたきこわし、中央集権国家という一見″西洋風″にみえる普請をつくったのとおなじでした。
 最初の普請である七世紀の場合をすこしのべます。十九世紀の場合と同様、手っとりばやく統一国家をつくるには、となりの唐の体制を真似るしかありませんでした。古代ヨーロッパに文明の光源がたった一つローマにしかなかったように、七世紀の東アジアでは、国家と文明のサンプルは中国しかなかったのです。
 庶民にとってよろこばしい時代ではなかったのです。たとえば唐には徴兵制がありました。ですから、日本でも防人とよばれる兵士の制度をつくりました。かれらは農村からひっぱり出されてゆきましたから、民にとっての悲しみでありました。しかし、よろこびがなかったわけではありません。中国経由でインド仏教がつたわってきて、物事を形而上的に考えるという思考上のよろこびをもちました。大変な刺激でした。また、唐文化がつたわったために、かえって自己の文化を考え直すという運動もおこりました。
 例をあげますと、中国の『詩経』というアンソロジーの存在に刺激されて、八世紀、国家の編纂でもって、日本語のみじかい名詩の編纂がおこなわれたのです。『万葉集』であります。『万葉集』はぜんぶで約四千五百首で、おかげで私どもは五、六世紀から八世紀までの日本語を知ることができます。
 もう一つ例をあげますと、中国では、王朝のしごととして史書を編纂するという文明の習慣がありましたが、日本ではこれに刺激されて、八世紀初頭、『古事記』と『日本書紀』が編まれました。とくに『古事記』は、八世紀の日本語で編まれました。古代日本語資料として『万葉集』とならんで重要なものです。それらは、十世紀以後、日本文学がつくられていくために敷かれた最初のレールであり、黄金の鋲が打たれたともいうべきものであります。
 七世紀、中国文明の刺激によってできあがった日本国家は、すぐ日本化しました。紫式部がまだ若かった十世紀においてはすっかり以前の実態をうしない、制度もなにもかも日本化しはててしまって、中国体制とは似ても似つかぬ国になっていました。以後、日本と中国とは、国家の制度も文化も、まったく違う国で、むろん、歴史の発展のしかたも、すべて違うのです。“猿真似”は、八世紀と九世紀ぐらいまでのもので、日本は日本文化そのものになっていたということです。
 へんな話ですが、その“猿真似”も、自費でやったということを申しておかねばなりません。もともと中国人にとっての日本は、視野のそとの島でありました。さらに言いますと、中国人によって植民地化されたことがありませんから、征服されることによって受容した文化ではありませんでした。日本のほうから″遣唐使″とよばれる使節団を派遣して、さまざまなものを受容したのです。遣唐使は、六三〇年から八九四年に廃止されるまで二百数十年、十数回にわたって派遣されました。人数は一回につき、百人から約五百人ほどでした。それぞれが砂金を持って、書物を買い、仏教経典を買いました。ただではなく、買ったものでした。また命がけでもありました。多くの人が、海難で死に、よほど幸運なひとびとだけが日本にもどって、中国の文化を移植したのです。買う、とか買わない、とかという商人めいたことを申してまことに恐縮ですが、そういう受容の仕方は世界史でもめずらしかったのではないかと思って、わざと不穏なことばをつかってみたのです。
 十九世紀、つまり一八六八年に成立する″明治維新″においても似たようなことでありました。高い“猿真似”代でした。それはそうと、英語では猿真似と、言わずに、オウム真似と言うそうですな。十九世紀の明治の場合、もし英国の植民地にでもなっていれば、新文明の受容がかんたんだったのですが、各分野法律から科学技術にいたるまで専門家をヨーロッパ各国から雇い、それらにとびきり高い給料をはらいました。御雇外国人は、各分野にわたって数年から二十数年、働きました。文明の移植者というべきひとびとでした。一方において、新政府は各分野にわたって、留学生を欧米に派遣しました。それらが帰ってきて、おいおい御雇外国人と交代して文明の移植につとめたのです。この間、日本経済はじつに苦しいものでした。
 ともかくも、十九世紀の日本は文明の大転換をやらざるをえませんでした。オウムになるために、こんなに物心ともに盛大な犠牲をはらった国は、すくなくとも十九世紀にはありませんでした。おそらくそういうことが“猿真似”伝説をつくりあげたのでしょう。十九世紀のオウムは悲痛でした。自国のアイデンティティを喪わないために、「和魂洋才」などということばをつくって、自戒しあいました。げんに明治時代、洋才をもった紳士ほど、真の憂国家が多かったようです。私は福沢諭吉や内村鑑三、新渡戸稲造などを思いだしています。(「司馬遼太郎 全講演」1964~1995年 朝日文庫より)
          ◇          ◇          ◇

 中国文明の受容には国家の存亡が懸かっていた。それは命を賭しての自腹を切った国家的事業だった。巨大な文明の刺激を受けて、「万葉集」や「記紀」が生まれた。十九世紀の明治維新においても同じように、健気で「盛大な犠牲」が払われた。「そういう受容の仕方は世界史でもめずらしかったのではないか」と、つくづく感じ入る。
 「古事記」に連なって長い引用をした。何度触れても、碩学の洞察は壮大で、かつ温かい。
 閑話休題。
 梅原史観には、いつも度肝を抜かれる。『古事記』(学研M文庫)もそうだ。氏は、「古事記」にはゴーストライターがいたという。これほど浩瀚な史書が1年4カ月という極めて短期間に書き上げられるはずがない。天武朝に書かれた「原古事記」ともいうべき書物をベースにしたのではないか。そして「原古事記」執筆陣の中には、柿本人麿がいた……。梅原史観、躍如だ。
 「古事記」には、「防衛上、大いそぎで」(司馬遼太郎)つくらざるを得なかった「統一性の高い国家」(同前)である律令体制をオーソライズする狙いがあった。 梅原氏は上掲書(◇部分、以下同じ)に、
◇天照大御神を頂点とする律令体制に反逆する神は、須佐之男命のごとく、どんなに血統の尊い神であっても追放してしまえという考えなのである。この宗教観が禊ぎ、祓いの宗教として、七世紀の末から八世紀にかけてできたと思われる大祓いの祝詞によって明確に打ち出されるわけである。◇
と述べる。ひょっとしたら、スサノオは日本史上最初のEXCLEであろうか。
 騙し、詐略の頻出については、
◇マキャベリズム讃美といってよいような思想が現れている。戦いはいつでも計略によって決するのである。そこでは壮絶な戦いはあまり行われていないのである。約束をして、かってに約束を破り、敵の裏をかく。そこには正直が美であるという思想はない。勝利者は善で、どんなに敵を詐っても、あるいは詐れば詐るほどよいのである。『日本書紀』では、こういう考え方への反省が強く、物語は道徳化されるが、『古事記』には、露骨な力と政治的策謀への讃美の思想がある。◇
と記す。日本の、あるいは人間の原風景を覗き込むようなスリリングな洞見だ。
 国譲りに関しては、
◇天つ神が来たら、国つ神は大国主のように、潔く天つ神の子孫に国を譲らなくてはならない。これが日本の国家の政治のもっとも基本的な原則なのである。こういう支配の原則はいつ定められたのか。わたしは、もしも八世紀現在の日本の支配者が、この日本の国に古くからいた民族の子孫であったならば、こんな神話は伝えなかったと思う。これは、明らかに、外国から来て、日本の国に君臨した支配者が、その支配を合理化するために作った神話であろう。◇
と論じる。大胆な推考に胸が躍る。
 その外にも、梅原 猛著『古事記』には斬新で魅惑的な史観が縦横に展開されている。
 今年は「古事記編纂1300年」、イベントに沸く。「フルコトブミ」と訓(ヨ)み下されるわが国最古の史書である。つっかえつっかえでも、一読には値する。夢が「フルコト」に馳せるにちがいない。 □


日の丸の按配

2012年08月02日 | エッセー

 飄然たるこの人とは波長が合う。8月1日付朝日の「CM天気図」が、また出色であった。以下、抜き書きをしてみる。

◇開催国は自国の広告にオリンピックを積極的に利用してきたし、参加国もまた、メダルの数を一つでも多くとることが国力の広告になると考えてきたところがある。国家力を競い合うメダル競争の場になった。
 それが、この30年ほどの間にずいぶん変わった。一言で言えば、「国家間のメダル競争」から「地球村の大運動会」に変わった。
 これにはやはり、テレビの力が大きい。人気者の顔が、国家よりもオリンピックの主役になった。村の怪力さんや快足さんの技をみんなで楽しむ運動会になったのだと言っていい。
 こんな時代に経済大国とか軍事大国とか、古くさい大国志向にふりまわされているのは、本当にみっともない。◇
 
 天野祐吉氏は「地球村の大運動会」と呼ばわる。言い得て妙ではないか。国威発揚は苔むした。遺物のごとく、古い。といって、国の括りを外したらどうなるか。ウイニング・ランは国連旗でも持つか。国旗掲揚はどうする。入場行進はてんでに入るか。費用は。と、さまざまな難題が起こる。それ以前に、モチベーションは大丈夫であろうか。まさか、所属企業の栄誉のためにとは言えまい。出身地のなんとか県のなになに村の名に掛けてともいくまい。ただ私のために、家族のためにでは、とたんにみみっちくなる。
 『運動会』ならやはり基準はどうあれ、赤白青黄の組分けは要る。『地球村』とて同じではないか。だから今のところ、国別は頃合いであろう。
 どの種目にせよ、日本の応援はいい。なにより悲壮感がないのがいい。負けたら国辱だなどという発言も皆無だ。総じて温かい。選手たちが受けているプレッシャーも剥き出しの国家からのそれではない。オリンピックのようなグローバルなステージに乗せてみると、日の丸のはためき具合はいい按配ではないか。戦後70年も捨てたものではない。
 拙稿から引用する。
〓〓司馬遼太郎は言う。
◇国民国家というのは、国民一人ひとりが国家を代表していることを言います。家にいても外国に行っていても、自分が国家を代表していると思い込んでいる人々で構成されている国家を言うのです。◇(朝日文庫「司馬遼太郎 全講演」より)
 フランスは革命の後、傭兵制に代えて「国民軍」をつくることで国民国家への道を開いた。日本は維新後、徴兵制を敷き西南の役で官軍にこれを当てる。皆兵制が「国民」を産むことになる。事情は同じだ。よくも悪くも、人為の極みに「国民」は誕生した。次のフェーズにいけるのかどうか。〓〓(07年2月本ブログ「誰だ、それは?」から)
 今や、「家にいても外国に行っていても、自分が国家を代表していると思い込んでいる人々」が幾人いるだろう。本来そうあるべき永田町の面々はまるで当てにはならない。オリンピック・アスリートこそが例外的に該当するといえようか。しかも彼らの旗印は「古くさい大国志向」ではなく、「トビウオジャパン」であり「なでしこジャパン」「サムライブルー」「火の鳥NIPPON」だ。「ジャパン」にも「NIPPON」にも、「古くさい大国志向」は微醺すらない。いきなり「地球村の大運動会」とはいかぬまでも、「次のフェーズ」への萌芽といえなくもない。少なくともソフトパワーによるせめぎ合いは、軍事、経済に比して破壊的ではないからだ。

 あと10日、寝不足がつづく。でも4年に1度のお祭りだ。いや、大運動会だ。フレー、フレー、ニッポン! だ。
 そういえば最近、“フレー、フレー”をほとんど聞かない。みんな、“ガンバレ”だ。どうしたんだろう? また眠れなくなる。 □