伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

翁 再訪

2020年03月31日 | エッセー

 

 還暦の春、山懐を縫って媼を訪った。

 〈彼女は天空に向かって羽撃くように、いやたった今天宮から舞い降りたかのように四囲を掩う万朶を薄紅(ウスクレナイ)に染めていた。
 陋屋から車を駆って二時間。名にし負う齢六百六十余年を刻むおうなである。一歳(トセ)のうち束の間身繕い、仮粧(ケソウ)する。長遠を遡り、天がけ天くだった天女に戻るのは、その刹那だ。春の光と風に使嗾された化身だ。と、瞬く間に吹き返した風が衣裳を攫い、移り気な光が翳って紅白粉を台無しにする。〉(15年4月拙稿『媼と翁』から)

 媼は次に見(マミ)えた翁との対比であった。還暦の春から古稀の春へ。こちらは人の世の大きな節を二つ跨いだというのに、六百六十余年の齢はたった五年なぞ歯牙にもかけない。媼はなにひとつ変わらず失せず、天空に向かって羽撃くように、いや今舞い降りたかのように薄紅(ウスクレナイ)の衣を纏った万朶を恣(ホシイママ)に押し広げていた。
 驚いたことに、花見の人びとが蝟集している。お上の威光はこの地にまでは及ばぬのか。それとも、西行の「願はくは花の下にて春死なむ」との願いは深層を伏流する感性の系譜なのか。
 ところが昨年は花が無慚にも足蹴にされた。まつりごとの道具に供され、暗い野望の書割に貶められてしまった。感性の系譜は拭いがたい泥を塗られた。罪作りなものだ。だから今年は人を遠ざけ、久方ぶりの自儘を愉しんでいるのかもしれない。
 病み上がりゆえ翁まで出張るのは諦めた。

 〈喘ぎつつ急峻な山道を這うように登る。何度目かの角を曲がった時、彼は忽然と威容を現した。
 彼は山を鷲掴みにしていた。太く逞しい幾本もの腕(カイナ)を荒々しく大地にめり込ませ、あらん限りの力を振り絞っていた。下枝(シズエ)ばかりを紅に充血させながら。
 剥き出しの太古ともいえる。来る年も来る年も一度だけ、春に目覚めた彼はガイアの豊満な肉体を力任せに弄(ナブ)るにちがいない。血が充ちて鎧袖を染めるのはそのせいだ。だが春は移り気、快楽は須臾にして過ぎる。老翁はふたたび眠りに戻る。〉(同上)
 
 来年か、否、再来年か。翁への再訪は遠のくばかりだ。帰りの車中長い溜息を吐(ツ)くと、手招きをしている翁の苦笑が浮かんだ。 □


夫唱婦随極まれり

2020年03月27日 | エッセー

 こういうトピックにはもう指が勝手に動いてしまう。以下、朝日新聞デジタルから要約。
 〈昭恵氏が花見?「公園ではなく…」 野党追及に首相反論 
 安倍晋三首相の妻・昭恵氏が桜の木の下にいる集合写真がニュースサイトで報じられたことをめぐり、27日の参院予算委員会で立憲の杉尾秀哉氏が追及した。杉尾氏は森友学園問題と絡め、「(首相の)奥様の奔放な行動が森友問題のきっかけになったのではないか」と改めて指摘。首相はこれに対し、「それは違うと思う」と真っ向から否定した。
 杉尾氏は続けて「奥様はこうしたセレブな花見宴会ができる。だけど、大多数の国民はできない。しかも、東京はオーバーシュート(感染爆発)、首都封鎖(ロックダウン)のギリギリのところにある」と批判した。
 首相は「自粛が要請されていた公園での花見ではなく、レストランの敷地内の桜で写真を撮影した」と答弁。杉尾氏は「レストランなら問題ないのか。宴会の自粛要請が出ている中での行動として適切か」と追及すると、首相は「レストランに行ってはいけないのか。(写真撮影の)その時点では、そういうことではない。自粛の中で何が求められていたのか。正確に発言をしてほしい」と色をなして反論した。〉(本日午前)
 「レストランに行ってはいけないのか」には噴きだしてしまう。子どもの言い訳である。期せずして、この人物の高が知れた場面だった。あーそうそう、カトウ君の「朝、パンなら食べたがごはんは食べてない」とそっくりだ。類は友を呼ぶ、か。隗より始めよなのだが、その前になんとかに付ける薬、それも特別よく効くヤツを探さねばなるまい。
 「その時点では、そういうことではない」は、都知事による自粛要請の前だったと言いたいのだろう。これではソフィストにも及ばない幼稚な応答だ。コロナショックは先月から世を揺るがしている大問題だ。要請のあるなしなどどうでもいい。大地震にだって日ごろの備えが問われる。今揺れてる最中に優雅にお食事なんて能天気がいるか。繰り返そう。隗より始めよなのだが、その前になんとかに付ける薬、それも特別よく効くヤツを探さねばなるまい。
 で、この花見はダンナのそれによく似てないか。いや、焼き直しそのものだ。
 後援会を超豪華ホテルで「桜を見る会」前夜祭として開き、翌日本番。お気に入りのセレブとお食事会を開き、ついで庭に出て桜の下でパチリと写真。
 いやはや、これを割鍋に綴じ蓋と言わずしてなんとしよう。夫唱婦随、ここに極まれりだ。
 かつての英雄の一族であれば皆が支持し開けて通す。これをナポレオンに因んで、「ボナパルティズム」という。刻下本邦の政権はボナパルティズム全盛といえる。アッソー君など、失言でとっくに首が飛んでいる。それも何度も。しかし要路にあれば、意味不明の言い訳を安倍一強のボナパルティズムが開けて通す。挙句はなかったことに。ましてやトップレディーである。鼻が低かろうが大口のぶっちゃいくであろうが世間知らずであろうが(こういう場合はテメーんとこは棚上げにします、はい)、トップレデイーである。強力なボナパルティズムが働かないわけがない。
 以下、閑話として。
 感染爆発を「オーバーシュート」という。「通常の範囲を飛び出る」との謂だ。まあ、これはいい。いけないのが「ロックダウン」だ。諸外国の受け売りだろうが、首都封鎖を意味する。暴動が起こった後、刑務所で安全のため囚人を閉じ込めることに由来する。事件があった時子どもたちを帰宅させず教室内に避難させること、ほかレスリングの固め技にも使う。意地悪く言えば都民は囚人扱いかよ、となる。これは日本語のまま、「都市封鎖」でよかろう。
 でもなんとか夫人の場合、オーバーシュートもロックダウンもそのまま通じてしまうから怖い。 □


ジャメヴュ

2020年03月25日 | エッセー

 

 国内に場面を限る。
 シミュレーションとはどうも違う。デジャヴュの逆、ジャメヴュが最もふさわしいのではないか。
 コロナショックのことである。
 新聞の経済面は連日、減少、減産、低迷、低下、中止、停止、廃止などなどペシミスティックな言葉が並ぶ。
 雇用は情け容赦なく生け贄にされる。解雇、雇い止め、内定取り消し、募集止めなど。
 今稿のためにエビデンスを拾おうとしても一斉に下方指向する数字の渦に呑み込まれてしまう。お手上げだ。だから、「経済のシュリンク」と括るしかない。
 街中はどうだろう。中心街を筆頭に疎ら、もしくは人影が退いた寒々しい様相が続く。商店街には活計(タヅキ)の息遣いが消えた店舗が居並ぶばかりだ。田舎芝居の書割のようでもある。
 もちろん学校は静まりかえり、快活な声は絶えて久しい。
 年寄りは施設やわが家に籠もり、息を潜め、姿を見せない。
 観光地はインバウンドも邦人客も激減し潮干のようだ。
 オリンピックを始めとするスポーツやイベントの延期、中止……。
 初見の現実をすでに体験したかの如く感じるデジャヴュ(既視感)。10年ぶりにバス停で旧友に邂逅した。あれ、いつかもこんなことがあったなと記憶が顔を出す。それがデジャヴュだ。
 その逆。既知の経験を未だ体験したことがないかの如く感じるジャメヴュ(未視感)。いつもバス停で一緒になるご近所なのに、滅多にこんなことはないと記憶が顔を隠す驚き。
 ややこしい話だが、記憶喪失や精神疾患に類する病症ではない。深層の心理に属する現象である。
 と、ここまで書けばお判りいただけるであろう。コロナショックのジャメヴュ、その核心である人口減少社会である。すでに現実であり、既知『であるべき』人口減少社会を未体験の現象として受け取る。如上の場面の一々はすべて人口減少の鰾膠も無い現実である。もうすでに現実なのだ。例えば“アベノミクス”、例えば“一億総活躍社会”、例えば“決められる政治”という名のポピュリズムがフェイクを駆使して国民の目から逸らし続けてきた現実である。その化けの皮をコロナショックが剥がして見せた。
 人口減社会を生き延びるためのパラダイムシフトに注入すべき知的リソースを持ち合わせない反知性主義者がうわごとのように言い募る「経済成長」「市場主義」。そんな与太が通じるほど現実は甘くない。人口という分母がシュリンクする社会で分子だけが拡張するなどという夢は妄想でしかない。国債という名の後継世代からの借財で現実を糊塗しても、そんな理不尽はいつかきっとしっぺ返しを喰らう。必ず。
 経済の退潮は無残にも街中から活気を奪い、少子化は廃校の連鎖を生んでいる。高齢化は8050問題を突き付け、介護現場には人材が枯渇している。起死回生を狙う観光はグローバリズムのリスクを常に背負う(今回のように)。スポーツやイベントはさすがに素早く応変しているが、これとてパイが小さくなっては手も足も出ない。
 さらになにより恐るべきは、このショックに付け込んだ強権的で独裁的な政治手法が露わになったことだ。トップの号令一下集団的統治が行き渡る。そんな非民主化を夢想する政治勢力が僅かばかり抱いていた慎みをかなぐり捨てて大手を振る。なにをしても許される彼らにとって垂涎の事況が眼前にある。いや、あり続けてきた。
 すべて既知の現実なのだ。だからシミュレーションとは違うといった。正常性バイアス──認知バイアスの一種。社会心理学、災害心理学などで使用されている心理学用語で、自分にとって都合の悪い情報を無視したり、過小評価したりしてしまう人の特性のこと。(ウィキペディア)──といえなくもないが、「未視感」の方が視覚を肝にするだけインパクトが生々しい。
 河合雅司氏による「未来の年表」シリーズは、本稿で何度も紹介した。河合氏は少子高齢化や人口減少を「静かなる有事」と呼んだ。すでにクライシスの渦中にあってなおサイレントであるゆえ意識に上らない。その有事が刻下の日本を音もなく覆う。ジャメヴュはそれを訓えている。 □                                              


「息子」もすごい

2020年03月18日 | エッセー

 刻下、ヨーロッパで新型コロナウイルスが猖獗を極めている。ほとんど報じられていないが、それに合わせて「黄禍論」が鎌首をもたげつつあるという。
 黄禍論とは黄色人種への差別的警戒論である。以下、ブリタニカ国際大百科事典を引く。
 〈日清戦争末期の1895年春頃からヨーロッパで唱えられた黄色人種警戒論。19世紀末にドイツの地理学者 F.リヒトホーフェンは、アジア民族の移住と労働力の脅威にふれ、黄色人種の人口が圧倒的に多いことが将来の脅威となるであろうと指摘した。日清戦争における日本の勝利は、ヨーロッパの白人の間に黄色人種に対する恐怖と警戒の念を強めた。
 ドイツ皇帝ウィルヘルム2世は、かつてのオスマン帝国やモンゴルのヨーロッパ遠征にみられるように、黄色人種の興隆はキリスト教文明ないしヨーロッパ文明の運命にかかわる大問題であるから、この「黄禍」に対して、ヨーロッパ列強は一致して対抗すべきであると主張した。この主張の背後には、ロシアを極東進出政策に向けることによって、ヨーロッパ、近東におけるロシアからの脅威を減殺してドイツのオスマン帝国進出政策を容易にしようとする政治的意図が存在した。この構想の最初の具体的表現が、三国干渉の対日行動であった。
 その後も、第1次世界大戦中の1914年に日本がドイツの膠州湾租借地を占領した際にも黄禍論が唱えられ、また日露戦争後から 1920年代にかけてのアメリカの排日運動の際にも、黄禍論的な議論がしばしば行われた。〉(一部省略)
 英語では yellow peril(危険) と表記する。直截さが鰾膠も無い蔑視を突き付ける。1世紀余を経て蘇ったゾンビのようだ。yellow の中心には中国がいる。
 今年1月の拙稿「多様性はめんどくさい<承前>」でブレイディみかこ女史を紹介した。母親も凄いが、(息子」もすごい。子母沢寛の「親子鷹」は勝海舟の父小吉もすごかったという物語だが、その母子版になるか。この母にしてこの子あり。親子共にそんじょそこらの並みではない。
 愚稿はこう締め括った。
 〈エンパシーとは? と問われて「自分で誰かの靴を履いてみること」と英語の定型句を返した「息子」。稿者を含め日本の大人たち、とりわけ要路にある面々は彼の爪の垢でも煎じて飲むといい。〉 
 その中学生の「息子」についてである。ついこないだ3月12日、朝日の「欧州季評」にみかこ女史が寄せたエピソードにも登場した。
 独仏英の大手メディアやSNSで黄禍論が流れ、子どもたちにも及んでいる。中身を拾ってみる。
 〈「教室を移動していたら、階段ですれ違いざまに同級生の男子から『学校にコロナを広めるな』って言われた」
「あまりにひどいから、絶句してしばらくその場に立っていた。なんだか、もはやアジア人そのものがコロナウイルスになったみたいだね」
  その後、件の少年は息子に謝りに来たそうだ。階段で起きたことを見ていた誰かが彼に注意したそうで、「さっきはひどいことを言ってごめん」と申し訳なさそうに謝ったというのだ。〉
 と、ここまではありがちな話である。ところが、次の展開に唸ってしまった。
〈「僕は黙って立っていただけだったけど、誰かが彼にきちんと話をしてくれたから、彼は自分が言ったことのひどさがわかったんだよね。謝られた時、あの場で何も言わなかった僕にも偏見があったと気づいた」
「偏見?」
「その子、自閉症なんだ。だから、彼に話してもわかってもらえないだろうと心のどこかで決め付けて、僕は黙っていたんじゃないかと思う」〉
 日本の学校教育でこんな「息子」は育つだろうか。「彼にきちんと話を」した「誰か」ならいるだろう。しかし、自らの優しさに潜む偏見をも同等に見抜く中学生は発見しがたいにちがいない。母子版親子鷹は希少種、いや絶滅種といえなくもない。
 昨年9月に愚案した「グレタの新しさ」ではこう書いた。
 〈悪友に嗾されてグレたのではない。環境問題でグレた(失礼!)。断言するが、日本にそんなグレ方をして学校に行かない16歳はいない。あり得ない。原因は地球規模、ふけた先も大西洋の向こう側(NYでの国連)。なんともすごい。〉  
 「息子」も同い年か。羨ましくもあり、わが身が恥ずかしくもある。 □


一寸の虫 番外編

2020年03月15日 | エッセー

 『浣腸爺さん』については「一寸の虫 5」で触れた。
 〈やたら浣腸をせがむ爺さん。TPOをまったく弁えず、傍らに人なし。喚いて息んで番度の大騒ぎ。どう生きてくればあのような傍若無人なる人格を獲得できるのか一興ではある。がしかし飯時にやられては、がっつくべき物相飯(これに比べれば、荊妻が作る料理は三ツ星レストラン級である)も喉を通らない。窮状を聞き取った看護師長の計らいで「そういう人たち」の専用室に遷座願った次第である。〉
 一難去ったあくる日の夕刻、急患が入ってきた。その慌ただしい夜が更けて、草木も眠る丑三つ時。にわかな話し声に眠りから引き戻される。夢ではない。現(ウツツ)の、しかも小さな病室である。耳を欹てなくとも小声とはいえない十分なボリュームで会話は室内を領している。
 二人いる。病人の父親とその悴。ん、娘らしき声も時々交じる。決して看護師のそれではない。きっかり二時半、まさに丑三つ時である。
 混濁気味の思考が彷徨う。急患の割にはしっかりした声で受け答えする親父。悴と娘はきょうの出来事をお話ししているらしい。え、面会時間の二十時はとっくに過ぎている。しかも病室。なおも四つに区切られたカーテンの中。虫の息で遺言を繰り出す親父。必死に繰り返しつつ一言一句を確かめる子どもたち。そんな一齣なら納得はいく。だがしかし、きょうの出来事ではなんとも了簡がいかぬ。余りの大胆不敵、傍若無人に呆気にとられて、お目々ぱっちり。もう押しても引いても、羊さんを五桁まで勘定してもお手上げ。布団を被って夜明けを待つしかなくなった。
 次の日、朝一番。悴と娘に代わって今度は連れ合いが乗り込んで来てピーチクパーチク。なんという家族だろう。どこのVIPなのか。今時嫌らしいほどの濃密な家族関係と尽きぬ日常的な話題の多さに、辟易を通り越して興味すら覚える。
 少し跳んでみる。
 思想家・内田 樹氏は越前裁きの一つ「三方一両損」こそが日本的な合意形成だという。「全員が同程度に不満」なところに落としどころを持っていく。「同程度に満足」ではないところが味噌だ。「中立的な第三者が出てきて、身銭を切って『不満の程度』を揃える」。これが難しい。かなり修羅場を潜ってこないとその発想が出ない。「誰かが身銭を切らないと、合意形成は成らない。合意形成は基本『ルーズ・ルーズ・ルーズ』の三項関係なんです」。そう語る。近ごろ注目の“えらいてんちょう”君との対談「しょぼい生活革命」(晶文社今年1月刊)から拾ってみた。
 稿者も日本人の端くれ、身銭を切って同程度の不満を受け容れることにやぶさかではない。しかし「一方三両得」は赦しがたい。
 大袈裟にいうと、トランプの『自分ファースト』が世界中に瀰漫し──新型コロナ以上にパンデミック状態であり、かつ日本の宰相は子分として親分を忠実に模倣している──汚濁は今やこんな片田舎にまで及んでいる。如上の一家はその表徴的一例ではないか。加うるに、マスク騒動の目を覆うばかりの醜態。日本から日本人が消えていく予兆……。
 中島みゆき作詞「永遠の嘘をついてくれ」のフレーズが浮かんできた。

   〽この国を見限ってやるのは俺のほうだと
      追われながらほざいた友からの手紙には
        上海の裏街で病んでいると
    見知らぬ誰かの下手な代筆文字

 「上海の裏街で病んでいる」が、痛い。 □


野党は攻めよ!

2020年03月10日 | エッセー

 今、物理的に7条解散も69条解散も封印されている。刻下、熊本県知事選が進行中だが全国規模ではどだい無理だ。つまり、伝家の宝刀とやらは実質的に抜くに抜けない縛りをかけられている。もちろん、新型コロナのためだ。こんな話は誰も言わないので拙稿が先走る。
 ということは野党にとっては今こそ攻め時である。アンバイ政権をどれだけ追い詰めても、逃げ場もなければ無理心中もできない。
 攻めどころは山ほどある。モリカケ蕎麦から桜餅。やってる感丸出しの汚染対策、専門家の意見も訊かない後手後手の対応策。検事長の無理筋定年延期。元法相夫婦の公選法違反。IR汚職容疑。ミゾウユーの首相席からの野次。国会軽視、独裁体勢。特に桜餅には宰相による公選法違反の毒が混じっているかもしれない。リーマンショックを超える危機的経済──。すぐ浮かぶだけでもメニューは満載だ。
 ところが、野党は不甲斐ない。攻め切れていない。辻元女史の健闘が目立つくらいだ。
 因みに、2回目の入院時に短文記事を【断簡】とのタイトルで書き留めた。その中で『憲法 あんちょこ』なる語呂合わせを愚案した(18年2月『憲法』)。
 〈7条  国事行為としての解散──ナ(7)にも言わせないでやる専権事項だそうだ
 69条 不信任・解散──ロク(69)でなし内閣は辞めさせろ〉
 この2箇条が目下空文化しているのだ。野党にとって怖れるものはなにもない。攻めよ! 攻めよ! 攻め立てよ! 妖怪が袋小路で断末魔にのた打つ。その千載一遇の好機を逃すな。
 何のためか? 
『またぞろむっく(69)り起き上がったロク(69)でもない憲法9条改悪を無(7)しにするためだ』
 狙いは、その一点に尽きる。□


一寸の虫 10

2020年03月06日 | エッセー

 ビーフカレー、トンカツ、寿司、餃子。そんな贅沢ではなく、パリパリの沢庵、白菜漬け、胡瓜の浅漬け、塩昆布、などなど次々に浮かんではドアタマの中を駆け巡る。放免の暁に真っ先に喰らいつきたい食物である。

 初犯仮釈の時は吉牛に直行した。物相飯は「不快の構造化」の決め手ではあるが、レジリエンスは異様な形で現出する。それが冒頭のメニューである。
 特に『一寸の虫 7』で触れたあの憎っくき魚。友人からの情報では、オーストラリア沖で穫れる「シルバー 」という名の魚らしい。最近、介護施設などで盛んに使われているという。当地では見向きもされない雑魚に、利にあざとい商社が目をつけたのだろう。ともあれ、ヤツとはキッパリ縁切りにしたい。
 少し話を跳ばす。
 衣食足りて礼節を知るというが、実は「住食」足りて最初に取り掛かるのは「学」だ。難民キャンプでも、「住食」に目処が付くと俄か教師のもとで青空教室が始まる。ファーストプライオリティは生き延びる知恵を伝えることだからだ。となると、アンバイ君の学校Keep Outはやはり順序がおかしくはないか。
 囚われの身となってはや1ヶ月。旧き良き友人は早く老名主になれと励まして(?)くれたが、もうとっくにそうなってしまった。ドクターはちょっと変調があるとすっ飛んで来るし、看護士長は顔色を窺い、ケアスタッフは腫れ物に触るよう。なんだか総出で厄介払いを図っているのか。食い物にされているのか。おそらく前者だろう。
 こんな片田舎の病院でも、昨日から新型コロナ対応のため家族との面会も禁止になった。稿者としてはストレス要因の急減に資するものだが、荷物の受け渡しもままならず苦情殺到と聞く。付和雷同は世の常だが、大きな思考停止の中で賢明な判断を貫く気骨のあるリーダーはいないものか。
 『囚人の記』から『断簡』、そして今『一寸の虫』。今朝の天声人語子がテレワークのため資料不足で書きづらいと綴っていた。こんな拙稿でも事情は同じだ、とほくそ笑んだ。どうしても単文、紋切り型、四捨五入になってしまう。
 これで10回。さあ、お立ち会い。あす放免のお達しが先ほどあった。切りよくこのシリーズ、今稿にて仕舞いにできる。まずはご報告まで。 □


一寸の虫 9

2020年03月04日 | エッセー

 

 規模の大小を問わず、国家権力を超える権力は国内には存在しない。超えるものは2つ。1つは他の、より強大な国家権力。もう1つは自然現象、天変地異である。
 ナチスは連合軍によって潰えたし、ポルトガルは大地震によって世界の覇者から引きずりおろされた。ペストによるパンデミックは洋の東西を越えて人類を何度も危機に陥れた。
 アンバイ君がどんなに一強を誇示し、独裁を欲しいままにしても道理は同じだ。新型コロナはさしずめ天変地異か。一強を超える自然の猛々しい力を見せつけている。前稿で触れた付け焼き刃の「やってる感」なぞで太刀打ちできる相手ではない。
 百歩も千歩も譲って、到底宰相の器ではない者の「開いた口へ牡丹餅」が転がり込んだとしても、取ってつけた箔はもはや毀たれ「弱り目に祟り目」の境遇にあると自覚することだ。
 いや失念。この御仁、牡丹餅より桜餅がお得意だった。 □


一寸の虫 8

2020年03月03日 | エッセー

 萩ウダウダ文科相も、加藤ごはん問答クンも、スッカ官房長官もすっ飛ばして2人だけで決めたらしい。2人とは、アンバイ君と今井尚哉(いまい たかや)内閣総理大臣秘書官兼補佐官。全国一律臨時休校要請である。大本営発令と見紛うばかり。なんとも大時代で、ドサ回りのクサい芝居でも見せられているようだ。なんのことはない。いつもの「やってる感」の演出である。
 以下、Wikipediaを参照しつつまとめる。
 今井尚哉 栃木生まれ、62歳。東大法学部卒、通商産業省入省。主として産業政策・エネルギーを所管。 日本機械輸出組合ブラッセル事務所所長、資源エネルギー庁資源、燃料部政策課課長、経済産業省大臣官房総務課課長、経済産業省貿易経済協力局審議官、資源エネルギー庁次長などを歴任した。
 上昇志向を絵に描いたような履歴といえよう。
 福島原子力発電所事故以後は、嘉田・橋下(当時)両知事を説得して関西電力大飯発電所再稼働に道筋をつけるなど、タフネゴシエーター振りを発揮、原発再稼働に尽力したことで知られる。第1次安倍内閣の下で内閣官房に出向し事務担当、第2次安倍内閣の発足とともに政務担当の総理大臣秘書官に就任。さらに政策企画の総括担当の総理大臣補佐官を兼務している。
 消費税増税の延期理由を国内にアピールするために提起された、「世界は今、リーマン・ショック級のリスクにさらされている」というペーパーを主導し作成した。「一億総活躍社会」とのスローガンを考案、アベノミクスの「新三本の矢」政策を取りまとめた。新三本の矢の狙いについて「今度のアベノミクスは、安保から国民の目をそらすことが大事」と説明しており「心地よく受け止められるより、悪い評判のほうが印象に残りやすいので、そのほうがいい」と語った。
 「やってる感」の演出者は彼だ。かつ、この上から目線は一体なんだろう。由らしむべし、知らしむべからずとでも心得ているのだろうか。ならばとんでもない不心得者である。こんな輩が時の政権中枢にパラサイトしている! 反吐を催す。
 叔父の今井善衛は、城山三郎著『官僚たちの夏』で主人公と対立する官僚「玉木」のモデルとして有名。商工官僚を経て通商産業省で事務次官を務めた。また、同じく叔父で公益財団法人日本国際フォーラム代表理事の今井敬は、新日本製鐵の社長を経て経済団体連合会の会長を務めた人物。現在はほかに一般社団法人日本原子力産業協会理事長の職に就いている。
 華麗なる一族だ。ゆえに尚哉は当初より永田町や霞が関でサラブレッド視されてきた。また今井善衛の妻は山崎種二の娘であり、昭恵夫人の叔母が山崎種二の三男(山崎誠三)に嫁いでいるため、今井家と安倍家は縁戚に当たる。もうここまでくるとやったんさい、だ。
 こんな男に庶民感覚などあろうはずはない。学校を閉めれば看護士が不足し病院は機能停止に陥るという至極真っ当な因果関係など解るはずはない。東大入試レベルの連立方程式は解けても。
 年齢を考えれば政党ヒエラルキーを登攀する選択肢、野心はすでに放棄したとみていい。政党政治家としては去勢者だ。それがある種の無辜感を誘発し、独裁者にパラサイトして権力を意のままに操る。まさに宦官政治ではないか。過言と言う勿れ。実態はそうだ。アンバイ君に寄り添う恰幅のよい存在感丸出しの中年男。どちらが宰相か、見分け難い。
 独裁は密室を好む。密室はやがて淘汰され、側近に最少化されていく。結末は歴史が訓える通りだ。そこを見落とせば、学校 KEEP OUT どころか国民 KEEP OUT の奈落が竢つのみだ。 □