三千世界の烏を殺し主(ヌシ)と朝寝がしてみたい
「三千世界」とくれば、これ以上のスケールはない。「烏」も「朝寝」も分かる。朝寝は当然艶事だ。気になっていたのは、烏と朝寝の繋がりである。「烏が鳴くから帰ろ」ではないが、朝ではなく夕方のイメージが強い。騒々しい烏を皆殺しにしてゆっくり朝寝を、ではおかしい。これはどう捉えればいいのか。調べてみた。 ―― 神武天皇東征の折、熊野に現れ道案内をした神の使い、八咫烏(ヤタガラス)のことだ。故事に因み、熊野神社では烏の図柄を入れた誓紙を販売。「熊野誓紙」に違えると熊野で烏が死に、天罰が下るといわれた。
合従連衡の取り決めなどに武将が利用した。商売でも常用された。さらに花魁もさかんにこれを使い、客を取り込んだ。熊野誓紙に契りを認め、祝言の真似事をしたわけだ。客はその気になっても、遊女の身の上、添い遂げられようはずはない。「誓紙書くたび 三羽づつ 熊野で烏が死んだげな」という小唄があったそうだ。互いが一通ずつ、もう一通を神社に奉納する。三通分の御破算が烏三羽という勘定になる。ただ遊郭の場合、罪科(ツミトガ)もない烏が破約の身代わりとなって、累はそこで停まった。……とされた。
これで繋がった。歌意を察するに 花魁の逆手をとった相聞歌ではないか。「その手は食わない。身代わりは、はなから根絶やしにしておく。天罰は直に主(ヌシ)に下るぞ。覚悟はよいな」と、そんなところか。はたまた、今宵のことも戯れ事にちがいない。それは承知の上だ。だから浮世の烏はみな始末しておこう。神使がいなくなれば、神罰の沙汰はもう心配いらぬ。ままよ、心ゆくまで朝寝といくか、であろうか。何にせよ、「白髪三千丈」さえ及びもつかぬ超弩級の歌だ。李白も形無し。身の毛がよだつ恋の歌だ。自由で奔放な天稟が躍る。
07年4月の拙稿「名言 ベスト1」を再録した。主を花魁とっての主、つまり「客」と捉える解釈もあるが、攻守ところを替えても烏の役所は同じだ。蓋し、高杉晋作の面目躍如だ。
さて、吉田拓郎の新譜はこともあろうにラストである。以下、牽強付会。半世紀を越える贔屓筋の与太だ。赦されたい。
三千世界の烏とは凡百(ボンピャク)の歌謡ではないか。殺すとは制覇、主と朝寝は音楽シーンの席巻である。隠された主語はフォーク・ロックの成り上がりたちだ。彼らはアングラから簇生した。同じ成り上がりでも、それを売りにして「年を取るってことは、魂が老けることじゃない。……よろしく」と陳腐な人生訓を語って悦に入っているすっかり爺さんになった歌唄いもいるが。
肺癌から復活した歌手は世界的にも希だという。誘発したか、心の病との格闘もあった。当人も喉がいけなくなったと漏らす。続けてくれと言うのが土台無理だ。だから、凡百の柵(シガラミ)を潔く振り切るのもまた勲(イサオシ)ではあるまいか。
かつてNHKのインタビューで今後を尋ねられた時、「ほっといてくれ」と返した。その真意を今、「ah-面白かった」と明かす。それが「ラスト」の謂だ。
最終譜『ah-面白かった』は発売日にもうソルドアウトしたらしい。運よく入手し、昨日は聴き入った。
〽……友だちは 去りました
今日という 日のくることは
さけられぬ ことだったのでしょう……
『ともだち』が頻りに浮かんでは消えた。
<跋>この稿を書いている最中、NHKは7時からのニュースで「拓郎引退」を報じた。意外なことに拓郎はNHKとは「ともだち」だ。復活の嬬恋中継をはじめ、視聴率に貢献している。NHKも存外義理堅い。 □