伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

「三千世界の烏を殺し」

2022年06月29日 | エッセー

  三千世界の烏を殺し主(ヌシ)と朝寝がしてみたい

 「三千世界」とくれば、これ以上のスケールはない。「烏」も「朝寝」も分かる。朝寝は当然艶事だ。気になっていたのは、烏と朝寝の繋がりである。「烏が鳴くから帰ろ」ではないが、朝ではなく夕方のイメージが強い。騒々しい烏を皆殺しにしてゆっくり朝寝を、ではおかしい。これはどう捉えればいいのか。調べてみた。 ―― 神武天皇東征の折、熊野に現れ道案内をした神の使い、八咫烏(ヤタガラス)のことだ。故事に因み、熊野神社では烏の図柄を入れた誓紙を販売。「熊野誓紙」に違えると熊野で烏が死に、天罰が下るといわれた。
 合従連衡の取り決めなどに武将が利用した。商売でも常用された。さらに花魁もさかんにこれを使い、客を取り込んだ。熊野誓紙に契りを認め、祝言の真似事をしたわけだ。客はその気になっても、遊女の身の上、添い遂げられようはずはない。「誓紙書くたび 三羽づつ 熊野で烏が死んだげな」という小唄があったそうだ。互いが一通ずつ、もう一通を神社に奉納する。三通分の御破算が烏三羽という勘定になる。ただ遊郭の場合、罪科(ツミトガ)もない烏が破約の身代わりとなって、累はそこで停まった。……とされた。
 これで繋がった。歌意を察するに 花魁の逆手をとった相聞歌ではないか。「その手は食わない。身代わりは、はなから根絶やしにしておく。天罰は直に主(ヌシ)に下るぞ。覚悟はよいな」と、そんなところか。はたまた、今宵のことも戯れ事にちがいない。それは承知の上だ。だから浮世の烏はみな始末しておこう。神使がいなくなれば、神罰の沙汰はもう心配いらぬ。ままよ、心ゆくまで朝寝といくか、であろうか。何にせよ、「白髪三千丈」さえ及びもつかぬ超弩級の歌だ。李白も形無し。身の毛がよだつ恋の歌だ。自由で奔放な天稟が躍る。
  
 07年4月の拙稿「名言 ベスト1」を再録した。主を花魁とっての主、つまり「客」と捉える解釈もあるが、攻守ところを替えても烏の役所は同じだ。蓋し、高杉晋作の面目躍如だ。
 さて、吉田拓郎の新譜はこともあろうにラストである。以下、牽強付会。半世紀を越える贔屓筋の与太だ。赦されたい。
 三千世界の烏とは凡百(ボンピャク)の歌謡ではないか。殺すとは制覇、主と朝寝は音楽シーンの席巻である。隠された主語はフォーク・ロックの成り上がりたちだ。彼らはアングラから簇生した。同じ成り上がりでも、それを売りにして「年を取るってことは、魂が老けることじゃない。……よろしく」と陳腐な人生訓を語って悦に入っているすっかり爺さんになった歌唄いもいるが。
 肺癌から復活した歌手は世界的にも希だという。誘発したか、心の病との格闘もあった。当人も喉がいけなくなったと漏らす。続けてくれと言うのが土台無理だ。だから、凡百の柵(シガラミ)を潔く振り切るのもまた勲(イサオシ)ではあるまいか。
 かつてNHKのインタビューで今後を尋ねられた時、「ほっといてくれ」と返した。その真意を今、「ah-面白かった」と明かす。それが「ラスト」の謂だ。
  最終譜『ah-面白かった』は発売日にもうソルドアウトしたらしい。運よく入手し、昨日は聴き入った。

   〽……友だちは 去りました
       今日という 日のくることは
       さけられぬ ことだったのでしょう……

 『ともだち』が頻りに浮かんでは消えた。 

<跋>この稿を書いている最中、NHKは7時からのニュースで「拓郎引退」を報じた。意外なことに拓郎はNHKとは「ともだち」だ。復活の嬬恋中継をはじめ、視聴率に貢献している。NHKも存外義理堅い。 □


プーチンの一人勝ち

2022年06月25日 | エッセー

 半導体が産業の米なら、石油は社会の血液である。ロシアへの経済制裁は石油・ガスの高騰により世界が死活的な深傷を負っている。返す刀がてめーの足を斬ったようなものだ。アメリカのシェールオイルだけでは焼け石に“油”だ。
 IMFは今年4月、「ロシアのウクライナ侵攻は、一次産品市場へ長期的な影響を及ぼす。今年は特に石油とガス価格が上がり、食品価格は来年も高止まりする」と予測した。 インフレ総攻撃だ。では日本はというと、超低金利政策から抜け出せない『黒田土壺』に嵌まって円安が泥棒に追銭を演じつづけている。アベノミクスと銘打ち資金需要もないのにカネを垂れ流して変なバブルが蠢き始めている。それではと金利を上げれば国債償還が一気に膨れる。日銀は政府の子会社だと、MMT同然のトンデモ理屈を得意げに嘯くアベノミクスのアホな「あんな男」もいる。どうにも身動きが取れない、這い上がれない。まさに『土壺』。グローバル企業という名の税金泥棒に追銭を打って余計太らせる。「そんなバカな!」が日本のフツーらしい。嗚呼ー。
 マックは逃げてもフェイクでしのぎ、小麦・海産物は元々主要な輸出国である。困るどころか、締め付けられているのは経済制裁を加えている側だ。完全に藪蛇である。潜在的要因はあったにしても、世界の物価高、インフレーションの引き金を引いたのはプーチンだ。
 こう観てくると、やはりプーチンの一人勝ちではないのか。国際的信用を落としたとの批判はあるが、端っからそんなものはプーチンにはない。
 なにより最大の手柄は世界に核戦争の危機を実感させたことだ(皮肉ではなく)。別けても抑止論の無効を世に曝し出した点だ。核のボタンを押すかも知れない! まさかと高を括っていた核保有国と核の傘に入っているとされる国々に緊張が走った。つまり、核保有は抑止になっていない。ただの幻想に過ぎなかったのだ。使える小型核であれば、なおさらボタンは押しやすかろう。だが報復を呼び、死の灰が降ることに違いはない。ケネディーが譬えた「ダモクレスの剣」が故事から現実に蘇ったともいえる。
 あるいは、核武装の呼び水になったとの見方もある。本邦ではあの尻軽アンバイ一派が悪乗り、尻馬に乗った。何事も副作用は必然。「あんな男」には付ける薬がない。付和雷同を誡めるほかあるまい。
 プーチンの教訓(皮肉ではなく)。「国のために人間がいる」から「人間のために国がある」へは未だ遙かな、否、絶望的な懸隔がある──それを訓(オシ)えてくれたことだ。
 「人のための国家」、理想論と嗤う勿れ。思想家 内田 樹氏はこう語る。
〈理想的な社会をめざす政治思想や政治実践というのは、「たとえ無理と知りつつも」という痩せ我慢がどこかになければいけないと僕は思うんです。とりあえずの自分の手持ちの資源や能力をフル動員すれば、与えられた条件下で「何とか実現できそうなもの」は、僕たちが生きてゆく上でつよい指南力を発揮することができない。そんなものは目標にはならない。必死にがんばったけれど、振り返ってみたら「ああ、この程度だったか」というのは仕方がありません。でも、はじめから「まあ、この程度?」というようなものを目標に掲げてはいけない。日本のこれからについて語るときには、「たとえ無理と知りつつも」、諸国の範となるような理想的な国家形成をめざすという意地が必要だと僕は思っています。〉(「若者よ、マルクスを読もうⅡ」)
 頂門の一針を指してくれたのは他の誰でもないプーチン一人だった(皮肉ではなく)。「一人勝ち」というに相応しくはないか。 □


日本属国論

2022年06月19日 | エッセー

〈まず、我々がしなければならないのは、病状をまっすぐ受け入れることだと思います。日本はアメリカの属国であり、安全保障に関してフリーハンドを持っていない、いわば半人前の国家であると認めること。世界的な経済大国の国としては、あまりに屈辱的なこの事実を認めるところから始めるしかない。今日本が直面しているほとんどすべての問題は、半主権国家でしかないのに、主権国家であるかのように振る舞う矛盾から発生しています。〉(12年5月「週刊現代」)
 と、内田 樹氏は語った。「属国」に強い違和感、嫌悪感、もしくは自虐感を抱く向きも多かろう。そこで、稿者なりに日本が“アメリカの”属国である根拠を示したい。辛い事実だが、「病状をまっすぐ受け入れる」病識がなければ、病膏肓に入るばかりだ。

 国家とは、一定の領土と国民と排他的な統治組織とを供えた政治共同体のことを指す。したがって、国家が成立するには、【 1.主権 Ⅱ.領域 Ⅲ.国民 】という3つの要素が必要である。
1.主権 【「主権」はアメリカに侵されている】
 主権とは、国家の構成要素のうち、最高・独立・絶対の権力、または近代的な領域国家における意思決定と秩序維持における最高で最終的な政治的権威を指す。
▼1960年の「日米地位協定」に基づき、米軍人が日本国内(どこでも)で公務中に犯罪を犯した場合、裁判権は日本にはなく米軍にある。
▼日本の電波法、航空法は米軍には適用されない。
▼属国の法律は宗主国の国民に適用されない。(あくまで、米軍と米軍人だけが対象で、優越的権利が与えられているわけではないが)
▼日米安保条約は1年前に予告することにより一方的に廃棄できると規定する自動延長方式で、破棄予告が出されない限り条約は存続する。当然、地位協定も同等だ。
▼日本は『米軍が支配する地球上で唯一の国家』米本国でも米軍の力はこれほど強力ではない。
▼ドイツ、イタリア、イギリス、ベルギーの4カ国は北大西洋条約機構(NATO)とNATO軍地位協定を締結。各国とも補足協定などで米軍に国内法を適用して活動をコントロールしており、米軍の運用に国内法が適用されない日本との差は歴然。
▼「在韓米軍地位協定」の不平等性は交渉し、改善されてきている。
▼〈「日米原子力協定」があって、これが日米地位協定とそっくりな法的構造をもっている。つまり「廃炉」とか「脱原発」とか「卒原発」とか、日本の政治家がいくら言い募っても米軍基地の問題と同じで、日本側だけではなにも決められないようになっている。条文をくわしく分析した専門家に言わせると、アメリカ側の了承なしに日本側だけで決めていいのは電気料金だけだそうだ。〉(矢部宏治「日本はなぜ、『基地』と『原発』を止められないのか」)
▼日米間では、昭和30年(1955)に、日本への研究炉および濃縮ウランの供与を目的として、「原子力の非軍事的利用に関する協力のための日本国政府とアメリカ合衆国政府との間の協定」(「日米原子力協定」の正式名称)が締結され、以後、改正が重ねられてきた。昭和63年発効の現行協定は、日本での使用済み燃料の再処理等について、米国が一括して事前に承認する「包括的事前同意」方式を採用。これにより、日本は非核保有国の中で唯一、核兵器に転用可能なプルトニウムの保有が認められている。親分に信頼さた子分がめでたく差配を任されたのか。
▼軍事面でいえば、日本はアメリカ軍が支配する地球上でただ一つの国家である。
▼核シェアリング……先般プーチンの核使用への言及に悪乗りした安倍晋三に対し、内田 樹氏は
〈日本が核武装するということは、端的に「アメリカの属国ではなくなる」ということです。そんなことを宗主国がさせるわけがない。自国の軍事的オプションについての決定権を持っていないということの無力感と苛立ちが、「核武装すべきだ」というような非現実的な空語を語らせているのです。自己決定できるような国である「ふりをしたい」。それだけのことです。核武装なんかアメリカが許すはずがないということがわかっていながら、まるでそれが自己決定できるイシューであるかのように語るというのは、一種の妄想です。〉
 と、一刀両断した。日本が究極の「軍事的オプション」である核武装をすれば日米安保(=米の核の傘)が意味を失い、米国の軍事的支配から外れてしまうからだ。極めて平易で真っ当な理屈だ。だから、「妄想」でしかない。 

Ⅱ.領域 【「領域」は日米地位協定によってアメリカに侵されている】
▼米軍は日本国内の好きな場所に基地を作ることができる。米軍基地は「租借地」で米国領土と同じ扱いを受ける。だから、米国は日本国内の“好きな場所を自国の領土”とすることができる。米軍「租借地」は日本の国土全体の0.3%を占め、沖縄では県全体の面積の17%%にも及ぶ。
※「租借地」とは、ある国が条約で一定期間、他国に貸し与えた土地のこと。 租借期間中は、貸した国には潜在的な主権が存在するが、実質的な統治権は借りた国が持つ。 立法・行政・司法権は借りた国に移る。
▼首都圏上空はほとんどが米軍横田空域に属し、民間機は1回ずつ米軍の許可を取らねばならない。そんな独立国があるか! そのため、横田空域を避け、羽田へは東京湾側から大きく迂回することを強いられている。占領体制がそのまま残っている。
▼逆に米軍にとってはフリーハンドだ。沖縄のコロナ拡散で一時話題となったが、検疫不要。現にバイデン大統領一行は横田基地から入国し、同基地から帰国した。コロナチェックを受けた、または陰性証明を提出したとの報道は寡聞にして知らない。
▼いっそ日本をアメリカ51番目の州にすればといいと嘯く人もいる。どっこい、そうはいかない。3.3億の人口に1.2億がプラスされる。米の3分の1が日本州民だということになると、日本州選出の上院議員は2名、下院議員は人口比だから435人中25となる。税収は増えるが少子高齢化の重篤な病人を受け入れ養うとなれば、アメリカはすぐに財政破綻する。属州よりも属国の方が圧倒的に旨味がある。

Ⅲ.国民 【「国民」はいるにはいるが、人口減へまっしぐら】
▼世界規模で少子高齢化が進み、人口減少が進んでいく。「世界」という器のサイズが縮む以上、移民などに頼る手法はどこかで限界が訪れる。
▼民度は低く──先月の本稿「無知な有権者は選挙に行くな」で政治学者 白井 聡氏による目から鱗の洞見を紹介した──投票率もみすぼらしいほど低い。「経済二流・政治三流」との世界的評価は定着して久しい。

 なお、属国の病識を明解に語る識者は多い。主な顔ぶれは、内田 樹・白井 聡・東浩紀・矢部宏治・池田清彦などの諸氏である。正視眼、誠実な人たちだ。度の合わないメガネでは世は霞んで見えるばかりだ。正視眼でありたい。なにより、この国に誠実でありたい。
〈世界中の国が日本はアメリカの属国だと思っていて、日本だけが自分は主権国家だと思っている。このような奇妙なことになったのは、すべて七〇年前の敗戦の総括ができていないことに起因するのだろうと僕は思います。〉(内田 樹×白井 聡「日本戦後史論」)
 愛する日本を属国のまま次世代に渡せるだろうか、そう自問したい。 □ 


古市くん ブラボー!

2022年06月13日 | エッセー

 Yahooニュースから
〈古市憲寿氏 市議と対立の安芸高田市長の「恥を知れ!」発言に私見「日本の縮図。地方が衰退していくだけ」
 社会学者の古市憲寿氏(37)が13日、フジテレビの情報番組「めざまし8」)に出演。広島県安芸高田市の石丸伸二市長が提出した議員定数を半減させる条例改正案が、市議の猛反発によって10日の市議会で賛成1、反対14で否決されたことについて語った。
 番組では市長と市議の対立に触れ、市長が本会議で市議を批判する場面を紹介。市長が「居眠りする。一般質問をしない。説明責任を果たさない。これこそ議会軽視の最たる例です。“恥を知れ、恥を!”という声が上がってもおかしくないと思います。どうか恥だと思ってください」と怒りを口にする映像が流された。
 この映像を受けて、古市氏は「日本の縮図だなと思って…」と第一声。「新しい人が改革したくて、でも、古くからいる人がそれに抵抗するっていう。日本の政治に限らず、いろんな所で起こっていると思うんですけど」と語る。
 さらに古市氏は70年に発売された吉田拓郎のデビューシングル「イメージの詩」の一節「古い船を今動かせるのは古い水夫じゃないだろう」を紹介。「昔の吉田拓郎さんの歌詞を思い出して。『古い船を誰が動かすのか』っていう。こういうことをしていても、どんどん地方が衰退していくだけだと思うんですけどね」と渋い表情で語った。〉(6月13日配信)
 捕捉すると、市長は“恥を知れ、恥を!”と吠えた後、数秒の間(マ)を置いて「という声が上がっても……」と続けた。表現の影響に頭を巡らし、調整を加えたに違いない。
 新聞休刊日ゆえ、得意のザッピング中に偶会した場面であった。
 ともあれ古市くんの博識に舌を巻いた。彼が生まれる遥か以前の曲である。原体験はないはずだ。拓郎マニアとは終ぞ聞いたことがない。でも、識っている。すげぇー奴だ。

   〽古い船には新しい水夫が乗り込んで行くだろう
    古い船をいま 動かせるのは
    古い水夫じゃないだろう

 古い船をぶっ壊せとは言っていない。そこがこの曲の点睛だ。70年安保の最中であった背景を考えれば、スチューデントパワーへのアンチテーゼだったと読めなくはない。
 「古い船」を議会制度に「水夫」を議員に擬すれば、歌意は俄に様相を変える。
 市長の“間”も、議会制度そのものの否定だという誤解をどう迂回するかに費やした『長考』だったかも知れない。古市くんがそこまで繙いていたかどうかは措くとして、よくぞ拓郎を着想してくれた。礼を言いたい。古市くん ブラボー! である。 □


拓郎 最後のアルバム

2022年06月10日 | エッセー

 おもしろき こともなき世を おもしろく
〈……とまで書いたが、力が尽き、筆をおとしてしまった。晋作にすれば本来おもしろからぬ世の中をずいぶん面白くすごしてきた、もはやなんの悔いもない、というつもりであったろうが、望東尼は、晋作のこの尻きれとんぼの辞世に下の句をつけてやらねばならないとおもい、
「すみなすものは 心なりけり」
 と書き、晋作の頭の上にかざした。望東尼の下の句は変に道家めいていて晋作の好みらしくなかった。しかし晋作はいま一度目をひらいて、
「……面白いのう」
 と微笑し、ふたたび昏睡状態に入り、ほどなく脈が絶えた。〉(司馬遼太郎「世に棲む日日」から)
 以下、TOWER RECORDSのHPから。
〈吉田拓郎|最新にして最後のアルバム『ah-面白かった』6月29日発売|小田和正、堂本剛参加!アルバムタイトルの題字は堂本光一が執筆!
「色々あった・・でも・・いつも心に決めて来た事・・
一人になっても構わないから先に行く・・
それが僕の音楽人生!いよいよだな」 吉田拓郎
日本の音楽業界を牽引、様々な革新的なスタイルで時代のカリスマとなった吉田拓郎が1970年デビュー以来52年のアーティスト活動にピリオドをうつ、最新にして最後のアルバム『ah-面白かった』(全9曲収録) をリリース!
コロナの影響でラスト・ツアーを断念した76歳の今、吉田拓郎らしく最後を迎えるために、現在出来ることすべてに...ベストを尽くして制作されたラストメッセージ。
また今作は、5曲目"ひとりgo to"をKinKi Kids堂本剛が編曲とギター演奏にて参加。7曲目"雪さよなら"では小田和正がボーカル参加。アルバムタイトルの題字をKinKi Kids堂本光一が執筆している。7曲目"雪さよなら"は1970年に発売されたファーストアルバム『青春の詩』に収録された"雪"の完結編として新たに歌詞が加えられ、タイトルも"雪さよなら"として新録されたセルフカバー。〉
  『雪さよなら』は措くとして、アルバム全体が『今日までそして明日から』(1971年リリース)のアンサーではないか。「私は今日まで 生きてみました」の老成に小田和正が舌を巻いたというあの曲だ。だから、晋作辞世の句が連想された。
 いかにも出生の地を髣髴させる薩摩勇人振りではないか。竹を割ったように「辞める」。ぐずぐずしない。で、どうだったんだと問わず語りに口を衝いたのが「ah-面白かった」である。都のダンディズムと鄙のニヒリズムが良き塩梅で融通する。老醜を晒しつつしがみつくのは嫌だ。といって鄙への隠棲も似合わない。「おもしろき こともなき」と映ずる怖ろしいばかりのニヒリズムに、「おもしろく」抜き手を切ったダンディズム。高杉が奔った二十八の星霜は時代に鮮やかな軌跡と深い残像を刻した。ファンの末席を汚す者の一人として、「いよいよだな」の拓郎の呟きに微かなアナロジーを聴いても牽強付会とはいわれまい。
 「一人になっても構わないから先に行く」って、いや、置いてけぼりは喰わない。 □


「先生」ってなーに?

2022年06月05日 | エッセー

 ド素人が知ったかぶりの奇想天外、破天荒な与太を飛ばす。
 『師弟関係と幼児教育についての私的考察』である。
 「師弟」関係は人類のみにある。さまざまな分野にそれはある。他の動物も親などから獲物の獲得や集団内の秩序を教える関係はあっても、それらは生存競争、「生きる」ためである。それ以外の目的を持った『教え・学ぶ』関係はない。したがって、師弟は人類学的にいうと人間の属性である。つまり、師弟関係を持たない人間は本質的にその属性を欠いているといえなくもない。
 幼児教育は一義的には保育のために行われる。しかし人間の属性である師弟関係から捉えると、保育と師弟の両義性を帯びてくる。
 幼児教育の場においては「先生」という保護者以外の呼び名をもった二人称が言わば唐突に出現する。「先生ってなんだ?」 覚めやらぬ意識の底で、そう訊いているにちがいない。
 師弟関係は幼児教育の場において、「先生」と呼称される保育士が登場することをもって始まる。年少・年長関係はあくまでも「シニア/ジュニア」関係に過ぎない。
 幼児にとって「先生」は生物的死活を握っているわけではない。保護者がいれば育つ。だが乳児から幼児への移行に伴い「先生」という二人称は親とは異なるにもかかわらず無条件にリスペクトすべき存在として、つまりは師匠として立ち現れる。
 よく考えると、実にミステリアスである。親子のオンリーワン関係から引き剥がされて、ワン オブ ゼムの世界へ放り込まれるのだ。だから恐怖が襲う。だから号泣する。案の定、わが孫娘も狂ったように泣き喚いた。その異界に生きる因(ヨスガ)として光来するのが「先生」と呼称される保育士である。因(ヨスガ)によってなにが引き起こされるのか? 
 コミュニケーションが明らかに変位する。自分にだけ向けられていた言葉の群が一気に他へも拡大する。同時に、それらは指示・受諾(あるいは拒否)という垂直関係に転位する。この垂直関係への転位こそ「学び」との原初的な出会いだ。師弟関係のプリミティブな形だ。その刹那、幼児はそれと気づかぬうちに「遊び」から「学び」へと跳躍する!

〈僕はよく学生に、「朝(アシタ)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」という言葉がわかるかと聞くんです。今の人は知るとか学ぶということを、自分が変わることだと夢にも思っていないんですよ。情報を処理することだと考えるわけです。〉
 養老孟司先生の言葉だ(「記憶がウソをつく」から)。深い。学びとは「自分が変わる」恐怖ないし歓喜を綯い交ぜにした跳躍である。そう碩学は訓(オシ)える。幼児とて恐いけど変わりたいのだ。だって「学び」の本質は「変わる」ことにあるのだから。
 幼子(オサナゴ)であろうともこの世に生を享けた以上、現状から一時も早く変わろうと希(コイネガ)っているに違いない。そんな健気な倫理的焦燥に身を焦がしているはずだ。なぜそれがいえるのか? 思想家 内田 樹氏はこう語る。
〈何かを贈与されたときに「返礼せねば」という反対給付義務を感じるもののことを「人間」と呼ぶわけです。贈与されても反対給付義務を感じない人は、人類学的な定義に従えば、「人間ではない」。〉(「困難な成熟」から)
 誕生は紛れもない贈与である。この最大の贈与に対する「反対給付義務」は変化の裡に履行される。

 通途には幼児教育は集団生活による社会性の獲得にあるとされるが、それならば他の動物にも祖型はある。それ故、本質的な的を射ているとは言い難い。そうではなく、「学び」にこそ本質はあると考えたい。
 結論は、保育園の「先生」って人類が最初に出会う「師匠」なんだってこと。  □


早送り

2022年06月02日 | エッセー

 ふと気がつくと、近年テレビ画面にやたらテロップが出る。報道番組、ドラマ、バラエティなど、ナレも会話も情景描写まで、洋画以上にほとんど字幕化されている。うんざりするほど説明過多だ。なぜだろう? 
 家の造りが変わった。それが誘因らしい。かつてはキッチンとダイニング、リビングが別々だった。1軒に1台、TVはリビングに坐(マシマ)した。今は違う。ダイニング・キッチンに一体化し、複数のTVが分散配置されている。とは言っても、キッチンにTVは置かない。第一煮炊きの音がうるさいし、料理しながらTVは観ない。でも、番組の進行は気に掛かる。そんな時、画面のチラ見で事の成り行きをキャッチする。そのためらしい。だから、あの情報過多にはTV業界の深謀遠慮が込められているのだ。
 視点をひっくり返して、オーディエンスからはどうだろう? 複数の番組を同時並行で観ることをザッピングというが、番組数の急増への対抗措置ともいえる。稿者はこれを回転式チャンネルの頃からやっていた。そのためチャンネルが抜けたことも何度かあった。デジタルリモコンでよりやり易くなり、それを含めると優に半世紀は越える。それの変化形であろうか? それとも進化形? 否、退嬰か。Z世代に映画を早送りで観る者が増えているという。Z世代とは1990年代中盤から2000年代終盤までに生まれた史上初のデジタル・ネイティブ世代である。
〈2時間の映画を1時間で観たい/つまらないと感じたら後はずっと1.5倍速/会話のないシーンは即飛ばす/観る前にネタバレサイトをチェックする……なんのために? それで作品を味わったといえるのか? 著者の大きな違和感と疑問から始まった取材は、やがてそうせざるを得ない切実さがこの社会を覆っているという事実に突き当たる。〉
 そう帯は呼びかける。ライター・コラムニスト・編集者である稲田豊史氏の近著「映画を早送りで観る人たち」(光文社新書 今年4月刊)である。「そうせざるを得ない切実」な事況がさまざまな切り口から繙かれていく。
 背景には何があるか。3点──作品が多すぎること/コスパ至上/映像ではなくセリフで完結させる作品の急伸──があるとする。なにより媒体が映画館からスマホに移ったことが決定的要因であろう。
 配信登録制のストリーミングサービスNetflixの20年度決算は、コロナの追い風もあり2.6兆円にも上った。因みに、年間映画興行収入の過去最高は2千億円であった。
 書中、次のようにまとめられている。実に解りやすい。
 芸術=鑑賞物──鑑賞モード:食事自体を楽しむ
 娯楽=消費物──情報収集モード:栄養摂取のために食事すること
 件(クダン)の「人たち」にとって、「無駄は、悪。コスパこそ、正義」なのだ。結論は次のように示される。
〈倍速視聴は、時代の必然とでも呼ぶべきものだった。技術進化が人々の生活様式を変化させる途上で生まれた倍速視聴・10秒飛ばしという習慣は、「なるべく少ない原資で利潤を最大化する」ことが推奨される資本主義経済下において、ほぼ絶対正義たりうる条件を満たしていたからだ。〉(抄録)
 大括りすると、複雑化を嫌悪し単純化・解りやすさを求める反知性主義と「他者視点の圧倒的な欠如。他者に対する想像力の喪失」(同著)である。気が塞ぐ結論ではあるが、明らかにアタマの中身が変化していることが窺える。

 ♪僕の人生は 早送りのビデオみたい
  次へ 次へと 急いで進むだけだった

 吉田拓郎、64歳の作品「早送りのビデオ」である。言葉は同じでも「早送り」のベクトルがまるで違う。実は、人生に「早送り」はない。その達観がこの曲を一気に高みへと押し上げた。 □